オウム真理教による目黒公証人役場事務長拉致監禁致死事件に関係していたとして、全国に特別手配されていた平田信容疑者が警視庁に出頭し、指紋チェックにて本人と確定された。2011年12月31日23時50分ごろに出頭し、その情報がテレビのニュース速報で流れるとインターネット上で大きな話題となった。
平田容疑者は実行犯グループのメンバーとして事件にかかわり、警察は十数年間ずっと平田容疑者を追い続けていた。どうして今になって出頭したのか不明だが、本人と断定された以上は警察が徹底した捜査を進めていくはずなので、まだ捕まっていないメンバーらの逮捕へと繋がる可能性もある。
とにかく、新年早々に報じられた衝撃的すぎるこのニュース。2012年1月のマスコミは、このニュースで持ちきりになりそうである。平田容疑者の出頭に対してインターネットユーザーらは、以下のような意見を寄せている。
・インターネットユーザーの声
「そもそも何年も何処に潜伏していたんだ?」
「こいつの裁判が終わるまで麻原の死刑は執行できなくなる」
「これで尊師の死刑延長決定か」
「平田の裁判終わったら次の奴が出頭か」
「麻原の寿命まで1人ずつ出てくるんだろうな。時効がなくなったことを利用されてる」
「オウムの特集やってくれねえかな。当時のことよく知らないし」
「このタイミング、北朝鮮の体制変更が影響してるとか考えちゃうよなー」
「主要な犯人の裁判が終わって麻原の死刑が執行されるのを妨害する為でしょ」
「とっくに国外逃亡したって言われてたけど結局国内にいたのか?」
「マハーポーシャのPCは激安だったんだろ」
「ピングドラムみて愛に目覚めたんだろう」
「シビれるだろう?」
ほかにもインターネットユーザーの声として、「なんかオウムってまだ終わってないような気がする。あれだけの事件引き起こした組織が終わるわけない。近いうちにオウムによる大きな犯罪が行われるような気がしてならん」という意見も出ている。
さらに、今回の出頭が麻原彰晃(本名・松本智津夫)の死刑執行を遅らせることになると考えている人もいて、「これで麻原の死刑執行が遅れますね。平田の刑確定まで……、そうですね逃走経緯も含めて最低でも5年はかかるでしょう。すなわち5年間は麻原の死刑はないです」という声も出ている。
また、地下鉄サリン事件をイメージさせるストーリー展開があるテレビアニメ『輪るピングドラム』に影響を受けて出頭したのではないかという声も多数出ているが、その当たりに関しては不明である。
参照元: オウム真理教関係特別手配被疑者
【私の論評】社会変革を実現するためには、 私達自身が、責任ある真の自由を希求し、それを定着し、さらに醸成していかなければならない!!
皆さん、明けましておめでとうございます。昨年中は大変お世話になりました。本年もよろしくお願いします。ということで、例年だと、この挨拶をしてから、というのが普通でしたが、今年は、年明け早々上記のようなビッグ・ニュースが流れてきました。
上記の出来事は、例年の年末年始に比較して、近年にはない出来事だと思います。年末年始ということもあり、ニュースを見る暇がなく、知らない人も多いのではないかと思います。さてこの出来事、皆さんは、どのようにお感じになられたことでしょう。私自身は、現代の世相を表象するような出来事に思えてなりません。昨日このニュースに接して、元旦のブログはこれにしようと決めました。
ただし、このブログでは、オウム真理教事件をさかのぼり詳細にわたって、その内容を論じるようなことはしません。また、平田容疑者が出頭してきたわけを詮索するようなこともしません。それは、他のサイトに譲りたいと思います。
それよりも、もっと根本的な、なせオウム真理教信者、特にいわゆるこのカルト宗教の幹部だった人たちが、いわゆる高学歴で世間一般的には、有名大学や大学院を卒業して、優秀だとされる人々であったにもかかわらず、あのような愚行をおかしてしまったかについて焦点を当てたいと思います。それから、以下の論考は、ドラッカー氏の影響をかなり受けたものになっています。ただし、このブログを書くにあたっては、ドラッカーの書籍から直接引用はしていません。今回は、読みやすくするため、従来のように、ドラッカーの考えたことと、私自身が考えたことを明確に区分することはしませんので、予めご承知おきください。
このニュースに接して、新年が明けて朝目覚めてから、このニュースに関するサイトでの反応などを閲覧したついでに、他のサイトも閲覧していたところ、このブログでもときおり掲載する、富裕層向けのサイトである、YUKASSE MEDIAの【今日の名言】というコラムを見ると以下のような内容が掲載されていました。
俳優 山本太郎 |
タイトル:【きょうの名言】社会を変えるには、まずは勉強しかない
俳優、山本太郎さんの突然の転身には、びっくりした人も多いことだろう。「収入は10分の1に減った」と本人は語っているのだが、それでも反原発を訴えていきたいという。有名人だからこそ、その活動の影響は大きく、功罪の両方がありそうだ。
@koichi1741さんがツイートする。
「もし中高生が、山本太郎や瓦礫受け入れ反対脅迫のようにとりあえずわーわー叫んでおけば社会を変えられる、と思うようになったら、こんなに社会的損失はない。社会を変えるには、まずは勉強しかない」
山本さんは「誰かが声をあげなければいけない」と語っている。もちろん、そうした活動をきっかけに何十年後かに、世の中が良くなっているかもしれない。
しかし、法律制度、慣例など様々な物を変えるのは、山本さんのような運動家ではない。それに携わる人々だ。
まずは、そうした中枢に入ることが大切。だからこそ、中高生が今できることは、勉強するしかないのである。私は、@koichi1741さんの言っていることは、良くわかりますし、そのとおりだと思います。そうして、平田信も山本太郎さんも、精神性においては、同一次元にあるのではないかと思います。ただし、上記の名言だけだと、誤解を招くことも考えられるので、以下に若干説明を加えます。
まずは、誤解をさけるために掲載しますが、無論山本太郎と、平田信の間には、一般市民と犯罪者という深い溝があることはいうまでもありません。山本さんは、確かに、風変わりな行動ではありますが、ぎりぎりで法律をおかすこともなく、一定のルールーの枠内での「わーわー叫んで」いるだけですが、、平田信は、犯罪者であり、「叫ぶ」どころか、それをはるかに逸脱して、人殺しまでやっています。これは、まずは、厳密に区別しなければならないでしょう。
しかし、共通点もあります。それは、社会を変えのは、上記のよう山本さんのような運動家でもないし、平田のようなカルト宗教信者でもないということです。それは、様々な分野に存在する実務家であるということです。
話は変わりますが、20世紀における、最悪の出来事は、全体主義の興隆と破綻でした。これによって、多くの国々におびただしい犠牲者がでました。
まさに声をあげて既存の社会を否定しているだけでは何にもならないのです。いや、それだけでは危険でもあるのです。そうして、私達は、その危険を過去に経験しています。それが全体主義です。
かつて、世界(1930年前後)は、経済的自由によって平等を実現できなかったために、ブルジョア資本主義はそのもたらした物質的恩恵にもかかわらず、プロレタリアだけでなく、経済的、社会的に大きな恩恵を受けた中流階級の間でさえ、社会制度としての信用を失いました。アメリカ発の金融恐慌は、それを決定づけました。
生産手段を人民のものにするというマルクス社会主義の処方もブルジョア資本主義と同様、約束した平等は実現できませんでした。しかも両者は、経済を中心に置く経済至上主義でしたた。
ヒトラー(右)とムッソリーニ(左) |
当時、経済至上主義たるブルジョア資本主義とマルクス社会主義に代わるものとしての脱経済至上主義は、ファシズム全体主義しかありませんでした。そうして、ドイツ、イタリアも、当時のソ連も、全体主義の道を歩みました。
スターリン |
一方、これは、当時の日本の状況にも驚くほど類似しています。たとえば、なぜ独伊か、というときに、全体主義国家では、民主主義を自ら勝ち取った経験がなく、むしろ国家統一に対する成功経験の方が記憶されていました。日本もまったく同様でした。
当時の日本には、全体主義には、戦争・恐慌という混乱に対して、安定と秩序を提供する、という意義があったと考えます。そうした、意義が無ければそのような体制は現出しなかったことでしょう。また、当時の日本には、日露戦争に勝利した経験がありましたし、この戦争の大儀名分である、列強からのアジアの開放というものもありました。それを実施するためには、当時の貧乏な日本では、全体主義的政策をとらざをえなかったというのも、事実です。
人間は、自由と安定を求めます。虚無的な人間は、いずれかの選択を迫られた場合、自由を捨てでも、安定を求めます。そうして、そのような人間は、既存の社会の否定をこわだかに叫ぶのみで、建設的なことはいわず、結局全体主義に呑み込まれてしまったのです。 大衆は、自由を失ってでも、社会全体をひとつの有機体と捕らえ安定と秩序を与える全体主義に走ったのです。
今日の私たちも実は、当時の人々と変わらず虚無的なのかもしれません。これには時代的背景もあるものと思います。それは、今日、私たちの個人的自由がかなり認められているので、自由の本来の意味を見失っており、本質的にはさらに、虚無的になっているかもしれません。
そもそも、本当の意味での自由とは本来楽しいものではありません。幸福、安心、平和、進歩のいずれでもありません。それは選択の責任です。とどのつまり楽しいどころか重荷なのです。それは、自らの行動と社会の行動にかかわる選択の責任なのです。こうした責任を放棄した多くの人々が、当時のドイツ、イタリア、ソビエトなどで、結局全体主義を招いてしまいました。 そしてこの全体主義の特徴として、軍需生産は、完全雇用を提供するための手段として膨張すること、それを正当化するために、戦争を至善のものとして位置づけること、これらの秩序に敵対する宗教やブルジョア、その象徴としてのユダヤはが迫害されることとなったのです。
しかし、現在のように、ファシズム全体主義という逃げ場さえ用意されていないとき、社会から疎外された者、無気力な者、虚無的な者はどこへ行くのでしょうか。そうして、かつて、行き過ぎを懸念されていた、日本の会社主義も消え去ったばかりの、1980年代の日本において、オウム真理教がひきおこしたあの一連の事件は、社会の病の劇症としてとらえるのが正しい見方であると思います。
当時の日本は、コミュニティーも影をひそめ、会社主義も消え去り、一人ひとりの人間は、その存在の意味を受け入れることも自らの存在に結びつけることもできない巨大な機構の中で孤立するようになったのです。社会は、共通の目的によって結びつけられたコミュニティーではなくなり、目的のない孤立した分子からなる混沌たる群集となったのです。だからこそ、オウム真理教は、信者にとっては、自由はないものの、安定を与える存在でもあったように見えたのです。だからこそ、あの事件が発生したのであり、ある意味必然であったのかもしれません。
しかし、私は、企業や、政府、その他あるゆる組織をして高度の成果をあげさせることが、自由と尊厳を守る唯一の方策であると思います。その組織に成果をあげさせるものがマネジメントであり、マネジャーの力です。成果をあげる責任あるマネジメントこそ全体主義に代わるものであり、われわれを全体主義から守る唯一の手立てなのです。
そもそも社会に存在する組織とは、社会に貢献しているがゆえに「社会に存在することを許されている」存在です。したがって組織の存在意義は社会への貢献です。ただし、それは企活動を通しての貢献です。民間非営利企業も、営利企業も、その使命をまっとうするために、存在しなければなりません。営利企業の利益は、そうした活動を行うための手段にすぎません。
そこで決定的に重要となるのが、マーケティングとイノベーションです。ただし、ここでいうマーケティングとは、単なる市場調査ではありません。それは、顧客を理解することであり、顧客を出発点とする思想です。したがって、マーケティングが重要となるのは企業だけではない。公的機関もNPOも、顧客(行政であれば「住民」)から出発するのが基本なのです。
一方のイノベーションも、未だ誤解の多い概念です。単なる発明や技術革新そのものが、イノベーションなのではありません。それは、経済や社会にもたらされる変化であり、新たな価値の創造です。そのためには、古いもの、陳腐化したものを計画的・体系的に捨て、変化を機会として捉えなければなりません。イノベーションにおいては「既存のものはすべて陳腐化する」という見方をしなければなりません。
そうして、今後、全体主義へ至る道を遮断し、第二、第三のオウム真理教のようなカルト集団が犯罪をひきおこすことを阻止するためにも、私たちの社会に多元的組織の存在を許し、ただし多元的でありながらも、大きな方向性としては、一つの社会として束ねていくシステムが必要であり、今後の私達の課題でもあるのです。
そうして、山本さんのように、ただ既存のシステムを否定するだけの人間は、社会を変える原動力とはなりえず、最悪の場合は全体主義を増長する役割しか果たしえないです。また、平田信のような人間は、既存のシステムを否定するだけではなく、既存のシステムの破壊、そのシステムを動かす人々の破壊、すなわち、殺人にまで手を染めたということです。そうして、オウム真理教むろんのこと、国家と比較すれば、小さな組織ではありますが、全体主義の推進機関だったのです。
既存のシステムを否定するだけ、あるいは、既存のシステムを壊すだけの人間は、社会変革の担い手にはなりえないことはおわかりになったと思います。その担い手になるのは、上でも述べたように、どの分野であれ、 成果をあげる責任あるマネジメントであり、真の意味のマーケティングと、イノベーションを実施するものです。これこそ全体主義に代わるものであり、われわれを全体主義から守る唯一の手立てなのです。
そうして、それぞれの分野でのマネジメントたるには、 @koichi1741さんがツイートしていたように、ワーワー叫ぶだけではなく、まずは、勉強をしなければならないのです。特に、中高生はそうです。ただし、勉強するとはいっても、個別具体的な細かな具体的な知識を詰め込むのではなく、上記のような背景を知った上で、大きな枠組みを知って、知っているだけではなく、それを改善・改革するために、アウトプットができる状態にならなればならないということです。
それに、 @koichi1741さん、は中枢に入らなければならないとしていますが、ここでは、中枢とはどういう意味なのかと考えると、何も、国の中枢とか、企業の中枢部に入ることだけではないと思います。国の中枢とか、企業の中枢ということであれば、そこに入れない大多数の人にとっては、社会変革など無縁のものということになります。しかし決してそのようなことはありません。具体的には、変革・改革の現場ということだと思います。それは、社会に存続を許されているあゆる大小の組織の中に無数に存在します。その組織では、マーケティングや、イノベーションの機会が無限に待ちうけているのです。だから、自分のできることで、他の人にはできなくて、自分がやれば、社会に貢献できる場があれば、それがべストの場であり、中枢だということです。
社会で存立を許されているその場で、できる限りのマーケティングと、イノベーションを実施することにより、私達は、全体主義におちいらず、上記の厳密な意味での自由でいられるのです。日々多くの人が、社会のために、現場で努力していることこそが、全体主義におちいることを防いでいるのだと思います。
そうして、こうした努力の延長線上に、先にいった、 多元的的組織の存在を許し、ただし多元的でありながらも、大きな方向性としては、一つの社会として束ねていくシステムの構築をめざさなければならないのです。そうして、そのシステムとしては、まだまだ、世界レベルなどという遠大なものではなく、まず最初は、職場から、地域のコミュニティーから、そうして、市町村の単位から、そうして、都道府県の単位、そうして、最大でもまずは、国家単位ということが重要になってくるでしょう。
世界単位のシステムは、残念ながら、まだまだ相当先の話になることでしょう。私達が生きている時代には、無理かもしれません。なぜなら、200年前にカントが国民国家の消滅を宣言し、20世紀に入ってからも、アメリカの知性がそれを予言したにもかかわらず、残念ながら今の世界の平和は、まだ、世界の強国のパワーオブバランスによって成り立っているという厳然たる事実があるからです。今の段階で、世界市民などということをのたまうような連中は、現実を理解できない単なる馬鹿者に過ぎません。まずは、もっ身近なところから、システムを構築していかなければなりません。
先にも述べた、声高に叫ぶという山本さんのような行為、どこかで見たと思いませんか?そうです。実は民主党もそうではあったではありませんか。結局声高に叫んで、政権の座について、何もできないでいるではありませんか。結局、民主党も社会変革のなり手にはなりえないです。彼らには、上で述べたような意味での本当の勉強がまだまだ足りないのです。
彼らが言う勉強とは、官僚が蓄えておくべき、細かな個別具体的な知識の集まりに過ぎず、本当の意味で、多元的な価値を一つにまとめるシステムである、国家を運営するには足りなすぎるのです。そうして、一歩間違えれば、全体主義の罠に陥るかもしれません。実際、彼らは、日本国解体法案など、それこそ、既存の社会を壊す法律を通そうとする一方、国民の意見を聴く、マーケティングも十分にはできておらず、イノベーションからはほど遠いではありまんせんか!!
そうして、このような全体主義の罠におちいるのを防ぐのは全体主義とは対極にある、責任ある、真の自由を希求する私達であるということです。私達がそれをしなければ、社会に山本氏や、平田のような人間が増えて、いずれ罠にかかってしまうということになりかねません。そのようなことは、断じて避けなければなりません。
今の世界は、経済至上主義的な考え方で、金融危機ものりきり、あのリーマンショックものりきり、一見それが正しいかのように見えました。しかし、また、最近では、EUも、アメリカも、その他中国を含めた、世界同時不況に見舞われるような状況が進行しています。このような世の中は、1930年前後と似ています。それに、経済至上主義ということでは根本的に同じです。
リーマンショック後、これは、日本ではほとんど、報道されていませんが、アメリカでは株式を持つ個人が多く、日本は、それが少ないということから、アメリカの個人資産はかなり目減りして、日本は、多少目減りした程度で、アメリカと日本の個人金融資産の額が史上初めてほとんど横並びとなりました。下のグラフをみていただいても、おわかりになるように、2008年時点では、日本のほうが若干多いくらいでした。イギリスも、2007年までは、個人あたりの金融資産が、日本よりも大きかったものが、2008年には、日本の半分程度の水準まで落ち込んでいます。他の先進国や、新興国では、もともと、日本より少なかったものが、さらにかなり減っています。
これは、日本が世界の各国と比較して、経済至上主義的ではないことを示していると思います。今後、日本が経済至上主義から完璧に抜け出し、新たな社会を構築し、 多元的的組織の存在を許し、ただし多元的でありながらも、大きな方向性としては、一つの社会として束ねていける国家を建設できたとしたら、日本は、世界のトップランナーになれるかもしれません。 日本は、このように可能性に満ちた国なのです。
そうして、そのようなことを目指す政治集団が日本にできてほしいと思います。しかし、そのような政治集団が生まれるためには、ますば、 私達自身が、責任ある、真の自由を希求し、それを定着し、さらに醸成していく必要があります。そうして、昨年の震災は、非常に残念なことではありましたが、震災直後の人々の沈着冷静な態度、物資の配給のときなどにも隊列を崩さない忍耐強さ、さらに、昨年の漢字にもされた「絆」の強さを再認識させられました。これらが、世界の人々を驚嘆させました。これらからみて、私は、世界の中で日本が、最もトップランナーになれる可能性が高い国であることを確信していますし、それに向かって努力を続けていきたいです。
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そもそも、本当の意味での自由とは本来楽しいものではありません。幸福、安心、平和、進歩のいずれでもありません。それは選択の責任です。とどのつまり楽しいどころか重荷なのです。それは、自らの行動と社会の行動にかかわる選択の責任なのです。こうした責任を放棄した多くの人々が、当時のドイツ、イタリア、ソビエトなどで、結局全体主義を招いてしまいました。 そしてこの全体主義の特徴として、軍需生産は、完全雇用を提供するための手段として膨張すること、それを正当化するために、戦争を至善のものとして位置づけること、これらの秩序に敵対する宗教やブルジョア、その象徴としてのユダヤはが迫害されることとなったのです。
しかし、現在のように、ファシズム全体主義という逃げ場さえ用意されていないとき、社会から疎外された者、無気力な者、虚無的な者はどこへ行くのでしょうか。そうして、かつて、行き過ぎを懸念されていた、日本の会社主義も消え去ったばかりの、1980年代の日本において、オウム真理教がひきおこしたあの一連の事件は、社会の病の劇症としてとらえるのが正しい見方であると思います。
上九一色村サティアンに突入する機動隊員 |
しかし、私は、企業や、政府、その他あるゆる組織をして高度の成果をあげさせることが、自由と尊厳を守る唯一の方策であると思います。その組織に成果をあげさせるものがマネジメントであり、マネジャーの力です。成果をあげる責任あるマネジメントこそ全体主義に代わるものであり、われわれを全体主義から守る唯一の手立てなのです。
そもそも社会に存在する組織とは、社会に貢献しているがゆえに「社会に存在することを許されている」存在です。したがって組織の存在意義は社会への貢献です。ただし、それは企活動を通しての貢献です。民間非営利企業も、営利企業も、その使命をまっとうするために、存在しなければなりません。営利企業の利益は、そうした活動を行うための手段にすぎません。
そこで決定的に重要となるのが、マーケティングとイノベーションです。ただし、ここでいうマーケティングとは、単なる市場調査ではありません。それは、顧客を理解することであり、顧客を出発点とする思想です。したがって、マーケティングが重要となるのは企業だけではない。公的機関もNPOも、顧客(行政であれば「住民」)から出発するのが基本なのです。
一方のイノベーションも、未だ誤解の多い概念です。単なる発明や技術革新そのものが、イノベーションなのではありません。それは、経済や社会にもたらされる変化であり、新たな価値の創造です。そのためには、古いもの、陳腐化したものを計画的・体系的に捨て、変化を機会として捉えなければなりません。イノベーションにおいては「既存のものはすべて陳腐化する」という見方をしなければなりません。
そうして、今後、全体主義へ至る道を遮断し、第二、第三のオウム真理教のようなカルト集団が犯罪をひきおこすことを阻止するためにも、私たちの社会に多元的組織の存在を許し、ただし多元的でありながらも、大きな方向性としては、一つの社会として束ねていくシステムが必要であり、今後の私達の課題でもあるのです。
そうして、山本さんのように、ただ既存のシステムを否定するだけの人間は、社会を変える原動力とはなりえず、最悪の場合は全体主義を増長する役割しか果たしえないです。また、平田信のような人間は、既存のシステムを否定するだけではなく、既存のシステムの破壊、そのシステムを動かす人々の破壊、すなわち、殺人にまで手を染めたということです。そうして、オウム真理教むろんのこと、国家と比較すれば、小さな組織ではありますが、全体主義の推進機関だったのです。
既存のシステムを否定するだけ、あるいは、既存のシステムを壊すだけの人間は、社会変革の担い手にはなりえないことはおわかりになったと思います。その担い手になるのは、上でも述べたように、どの分野であれ、 成果をあげる責任あるマネジメントであり、真の意味のマーケティングと、イノベーションを実施するものです。これこそ全体主義に代わるものであり、われわれを全体主義から守る唯一の手立てなのです。
そうして、それぞれの分野でのマネジメントたるには、 @koichi1741さんがツイートしていたように、ワーワー叫ぶだけではなく、まずは、勉強をしなければならないのです。特に、中高生はそうです。ただし、勉強するとはいっても、個別具体的な細かな具体的な知識を詰め込むのではなく、上記のような背景を知った上で、大きな枠組みを知って、知っているだけではなく、それを改善・改革するために、アウトプットができる状態にならなればならないということです。
それに、 @koichi1741さん、は中枢に入らなければならないとしていますが、ここでは、中枢とはどういう意味なのかと考えると、何も、国の中枢とか、企業の中枢部に入ることだけではないと思います。国の中枢とか、企業の中枢ということであれば、そこに入れない大多数の人にとっては、社会変革など無縁のものということになります。しかし決してそのようなことはありません。具体的には、変革・改革の現場ということだと思います。それは、社会に存続を許されているあゆる大小の組織の中に無数に存在します。その組織では、マーケティングや、イノベーションの機会が無限に待ちうけているのです。だから、自分のできることで、他の人にはできなくて、自分がやれば、社会に貢献できる場があれば、それがべストの場であり、中枢だということです。
社会で存立を許されているその場で、できる限りのマーケティングと、イノベーションを実施することにより、私達は、全体主義におちいらず、上記の厳密な意味での自由でいられるのです。日々多くの人が、社会のために、現場で努力していることこそが、全体主義におちいることを防いでいるのだと思います。
そうして、こうした努力の延長線上に、先にいった、 多元的的組織の存在を許し、ただし多元的でありながらも、大きな方向性としては、一つの社会として束ねていくシステムの構築をめざさなければならないのです。そうして、そのシステムとしては、まだまだ、世界レベルなどという遠大なものではなく、まず最初は、職場から、地域のコミュニティーから、そうして、市町村の単位から、そうして、都道府県の単位、そうして、最大でもまずは、国家単位ということが重要になってくるでしょう。
世界単位のシステムは、残念ながら、まだまだ相当先の話になることでしょう。私達が生きている時代には、無理かもしれません。なぜなら、200年前にカントが国民国家の消滅を宣言し、20世紀に入ってからも、アメリカの知性がそれを予言したにもかかわらず、残念ながら今の世界の平和は、まだ、世界の強国のパワーオブバランスによって成り立っているという厳然たる事実があるからです。今の段階で、世界市民などということをのたまうような連中は、現実を理解できない単なる馬鹿者に過ぎません。まずは、もっ身近なところから、システムを構築していかなければなりません。
先にも述べた、声高に叫ぶという山本さんのような行為、どこかで見たと思いませんか?そうです。実は民主党もそうではあったではありませんか。結局声高に叫んで、政権の座について、何もできないでいるではありませんか。結局、民主党も社会変革のなり手にはなりえないです。彼らには、上で述べたような意味での本当の勉強がまだまだ足りないのです。
彼らが言う勉強とは、官僚が蓄えておくべき、細かな個別具体的な知識の集まりに過ぎず、本当の意味で、多元的な価値を一つにまとめるシステムである、国家を運営するには足りなすぎるのです。そうして、一歩間違えれば、全体主義の罠に陥るかもしれません。実際、彼らは、日本国解体法案など、それこそ、既存の社会を壊す法律を通そうとする一方、国民の意見を聴く、マーケティングも十分にはできておらず、イノベーションからはほど遠いではありまんせんか!!
政権交代を実現した、2009年の衆議院議員選挙の際の鳩山氏の選挙演説
そうして、このような全体主義の罠におちいるのを防ぐのは全体主義とは対極にある、責任ある、真の自由を希求する私達であるということです。私達がそれをしなければ、社会に山本氏や、平田のような人間が増えて、いずれ罠にかかってしまうということになりかねません。そのようなことは、断じて避けなければなりません。
今の世界は、経済至上主義的な考え方で、金融危機ものりきり、あのリーマンショックものりきり、一見それが正しいかのように見えました。しかし、また、最近では、EUも、アメリカも、その他中国を含めた、世界同時不況に見舞われるような状況が進行しています。このような世の中は、1930年前後と似ています。それに、経済至上主義ということでは根本的に同じです。
リーマンショック後、これは、日本ではほとんど、報道されていませんが、アメリカでは株式を持つ個人が多く、日本は、それが少ないということから、アメリカの個人資産はかなり目減りして、日本は、多少目減りした程度で、アメリカと日本の個人金融資産の額が史上初めてほとんど横並びとなりました。下のグラフをみていただいても、おわかりになるように、2008年時点では、日本のほうが若干多いくらいでした。イギリスも、2007年までは、個人あたりの金融資産が、日本よりも大きかったものが、2008年には、日本の半分程度の水準まで落ち込んでいます。他の先進国や、新興国では、もともと、日本より少なかったものが、さらにかなり減っています。
これは、日本が世界の各国と比較して、経済至上主義的ではないことを示していると思います。今後、日本が経済至上主義から完璧に抜け出し、新たな社会を構築し、 多元的的組織の存在を許し、ただし多元的でありながらも、大きな方向性としては、一つの社会として束ねていける国家を建設できたとしたら、日本は、世界のトップランナーになれるかもしれません。 日本は、このように可能性に満ちた国なのです。
そうして、そのようなことを目指す政治集団が日本にできてほしいと思います。しかし、そのような政治集団が生まれるためには、ますば、 私達自身が、責任ある、真の自由を希求し、それを定着し、さらに醸成していく必要があります。そうして、昨年の震災は、非常に残念なことではありましたが、震災直後の人々の沈着冷静な態度、物資の配給のときなどにも隊列を崩さない忍耐強さ、さらに、昨年の漢字にもされた「絆」の強さを再認識させられました。これらが、世界の人々を驚嘆させました。これらからみて、私は、世界の中で日本が、最もトップランナーになれる可能性が高い国であることを確信していますし、それに向かって努力を続けていきたいです。
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