9月3日、全47都道府県で令和8年度の地域別最低賃金改定額の答申が出そろった。厚生労働省の公表によれば、答申ベースの全国加重平均は1177円で、前年度から56円の引上げとなった。これは目安制度開始以来2番目の大幅引上げであり、10月1日から12月2日にかけて順次発効する予定である。
政府は2020年代に全国加重平均1500円という目標を掲げている。新しい資本主義の実行計画に明記された方針である。1177円から1500円までの差は323円に達する。仮に令和11年度までの3年間で到達するなら、年平均で約108円ずつ上げなければならない。今回の56円という大幅引上げをなお大きく上回る速度である。
最低賃金1500円という目標に異論はない。低賃金を固定したままでは、国民生活は豊かにならず、我が国の経済規模も大きくならないからである。問うべきは、どのような経済環境の下で1500円へ進むのかである。企業が人を必要とし、採用競争に勝つために賃金を上げざるを得ない状況を作らず、法定の下限だけを急速に引き上げれば、採用抑制や雇用減少を招く危険がある。
1️⃣人手不足は雇用を広げ、最後に賃金を押し上げる
まず確認すべきは、我が国の雇用情勢である。総務省統計局の労働力調査によれば、2026年7月の完全失業率は季節調整値で2.4%、完全失業者数は169万人である。これは深刻な不況下の失業率ではない。しかし、持続的な賃上げを実現するには、需要を冷やさず、雇用の逼迫をより広く、より確かなものにしなければならない。
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人手不足という言葉には、営業時間の短縮や事業者の負担といった暗い印象がつきまとう。だが、景気拡大の下で生じる人手不足は、国民経済にとって重要な働きを持つ。求人が増えれば、女性、高齢者、障害のある人、長く就職を諦めていた人にも仕事の機会が広がる。就業者が増え、働く意思と能力のある人が労働市場に戻る。ここが第1段階である。
それでも人手が足りなくなれば、企業は単に「人がいない」と嘆いてはいられない。省力化投資を行い、価格転嫁を進め、勤務時間や休暇、職場環境を改める。さらに人を採り、既に働く人を辞めさせず、競争相手に奪われないために賃金を上げる。賃上げは労使の善意から生まれるのではない。労働力を確保しなければ事業を続けられないという競争から生まれるのである。
ここで重要なのは、低賃金が決して望ましい状態ではないという点である。賃金はGDPそのものではない。しかし、賃金が長期に低迷すれば、家計の消費は伸びず、企業の売上も投資も広がらない。低賃金は、雇用者報酬と個人消費を通じて名目GDPの拡大を妨げる。国民生活を苦しくするだけでなく、需要、供給力、税基盤、国家資産形成を細らせる選択である。
目指すべきは、失業率を無理にゼロへ近づけることではない。政策目標としては、完全失業率を1.5~2.0%程度に保ち、少なくとも2%を下回る局面を持続させることが1つの目安となる。その際には、失業率だけでなく、正社員の有効求人倍率、実質賃金、設備投資、適正な価格転嫁も併せて見る必要がある。雇用の拡大、所得の増加、消費の拡大、売上と投資の増加という循環を作ることが本筋である。
2️⃣春闘は賃上げを確認する場であって、経済全体を動かすエンジンではない
今年の春闘では、厚生労働省の集計で大企業428社の平均賃上げ額は1万8167円、率にして5.18%となった。大企業の賃上げには意味がある。取引先や地域の労働市場に波及し、賃金上昇の空気を作るからである。
しかし、428社の交渉だけで我が国全体の賃金水準が決まるわけではない。中小企業庁の資料によれば、中小企業は336万社で全企業の99.7%を占め、従業者は約3300万人、全体の約7割に達する。大企業の春闘は、我が国の賃金を動かす決定的な装置ではない。少なくともマクロ経済においては、企業収益と人手不足によって可能になった賃上げを確認する年中行事、すなわち儀式に近い。
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法定最低賃金は春闘とは別物である。中央最低賃金審議会が厚生労働大臣への答申として目安を示し、地方最低賃金審議会が地域の事情を踏まえて答申する。その後、異議申出の手続を経て、都道府県労働局長が決定する。今回の答申の手続もこの制度に基づく。政府が1500円という政治目標を掲げても、首相や閣僚が地域別最低賃金を直接決める制度ではない。
それゆえ、労使交渉や最低賃金の審議だけに賃上げを委ねてはならない。需要を作り、企業収益と雇用を拡大させるマクロ経済政策が必要である。金融緩和、積極財政、減税、国内投資、価格転嫁の徹底を一体で進めるべきである。
中央銀行は賃金を直接決めない。しかし、金利と資金供給を通じて総需要、企業の投資、採用意欲、そして労働者の交渉力を左右する。米連邦準備制度は物価安定と最大雇用を金融政策の目標に掲げ、オーストラリア準備銀行も物価安定と完全雇用を重視する。
日本銀行法は、物価の安定を通じて国民経済の健全な発展に資することを目的とするが、最大雇用を独立した法定目標として掲げてはいない。日本銀行自身の説明を読めば、その違いは明らかである。この点で、日銀法は世界標準から見れば変な法律である。中央銀行の独立性とは、手段の独立であって、雇用と国民生活を無視してよいという免許ではない。物価すらろくに見ず、雇用を無視するような中央銀行では、国民経済は良くならない。
3️⃣韓国の教訓は「最低賃金を上げるな」ではない
文在寅政権下の韓国は、2018年に最低賃金を16.4%、2019年に10.9%引き上げた。韓国最低賃金委員会の資料が示す通り、2017年の6470ウォンから、2019年には8350ウォンへ上昇した。生活を支える賃金を上げようとした目的そのものを否定する必要はない。
だが、急激な引上げには雇用面の負担が伴った。韓国の企業データを用いたカンザスシティ連邦準備銀行の研究論文は、2018~19年の急速な最低賃金引上げが、製造業を中心に雇用へ負の影響を与えたと分析している。もちろん、当時の韓国経済には、産業構造の変化、人口動態、週52時間制など複数の要因があった。雇用悪化の全てを最低賃金だけで説明するのは誤りである。
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それでも教訓は明確である。小幅な引上げの経験を、そのまま大幅引上げへ当てはめてはならない。需要、投資、価格転嫁、人材確保の環境を十分に整えないまま、賃金の下限だけを急激に動かせば、最も弱い立場にある若者、女性、高齢者、未経験者の採用機会が失われかねない。
我が国が学ぶべきことは、最低賃金を上げるなという話ではない。最低賃金が上がっても雇用が失われない経済環境を、先に作り出せということである。日銀は需要を冷やす利上げを急ぐべきではない。政府は積極財政と減税、国内投資で需要と供給力を同時に強くしなければならない。企業が人を奪い合い、賃金を上げても人を守ろうとする経済を作る。それこそが、1500円を雇用破壊ではなく、国民生活の向上と国家経済の成長の成果として実現する道である。
結論
最低賃金1177円は、1500円への道の出発点にすぎない。だが、法定の数字だけを先に動かしても、持続的な賃上げは生まれない。雇用を増やし、労働市場を引き締め、所得、消費、売上、投資、供給力を拡大する高圧経済こそが必要である。
日銀は人手不足を恐れるな。雇用を最優先に見よ。企業が人を確保するために賃金を上げ、働く人が増え、我が国の名目GDPと国力が伸びる経済を作れ。最低賃金1500円は、その結果として実現すべきである。
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