まとめ
- 防衛費は突然増えたのではない。削り続けた末に、それでも壊れなかった“現実の防衛”が、ようやく数字として現れただけだ。我が国は万能を目指さず、持てないものを切り、守れるものに集中してきた。その結果として残ったのが、諦観に裏打ちされた持続可能な防衛である。
- ASW(対潜水艦戦)は、日本が選び取った最も合理的で、最も日本的な軍事能力である。派手さはないが、敵を通さない。戦わずして海を支配する。海に依存する我が国にとって、ASWは軍事技術ではなく、国家存立を支える基盤そのものだ。
- 我が国の防衛を支えてきたのは英雄ではない。善意と責任感で制度の隙間を埋めてきた名もなき人々である。官僚、自衛官、技術者、経営者の積み重ねが防衛を支えてきた。しかしこの仕組みは脆い。だから今、防衛を理念や精神論から切り離し、国家安全保障の中核として制度に固定する段階に入っている。
防衛費は突然増えたのではない。長年にわたり削られ続け、それでも壊れなかった防衛の現実が、限界点に達して表に出ただけだ。
過去20年、我が国の政治は決して安定していなかった。政権交代があり、短命内閣が続き、理念先行の議論が空転した時期もある。それでも、防衛が致命的に崩れた瞬間はなかった。装備は更新され、自衛隊の即応態勢は維持され、同盟も踏みとどまった。
理由は単純である。我が国は最初から、すべてを持つ国になろうとしなかった。空母国家を目指すことも、全方位で米国と同じ装備体系を整えることも、どこかで切り捨てた。持てないものは持てないと認め、その代わりに「この条件で、何なら守れるか」を徹底的に突き詰めた。
防衛の持続性を生んだのは、理想ではない。諦観の戦略である。
3️⃣なぜASWだったのか──現代海戦の切り札は海の下にある
| 離陸するP1哨戒機 |
ASWとは、対潜水艦戦のことだ。敵の潜水艦を探知し、追跡し、必要であれば無力化する一連の能力を指す。
現代の海戦において、最も厄介で、最も致命的な存在は潜水艦である。姿を見せずに接近し、一隻で艦隊の行動を縛り、通商路を断ち切る力を持つ。だからこそ、海戦の主役は撃ち合いではなく、入らせないことへと移った。
ASWの本質は、派手な戦果ではない。敵に「ここに入れば見つかる」「ここに来れば逃げられない」と思わせることだ。その心理的圧力こそが最大の抑止になる。ASWが機能している海域では、戦闘が起きなくても、すでに主導権は握られている。
これが、ASWが現代海戦の切り札である理由だ。
我が国のように、エネルギーと物資を海に依存する国にとって、潜水艦による通商破壊は国家の急所を突く。だからこそ、空よりも先に、海の下を押さえる必要がある。ASWは地味で、成果が見えにくい。だが、何も起きないこと自体が成果となる分野である。
ASWが「削れない能力」として残ったのは偶然ではない。制度に埋め込まれたからだ。その要となったのが、防衛事務次官というポストである。
防衛事務次官は、防衛政策、装備調達、予算編成、組織運営を束ね、「何を伸ばし、何を切るか」を現実の形にする文官トップである。ここで最初の線が引かれる。
守屋武昌が防衛事務次官を務めた時代、防衛装備は理念から地理と現実へと引き戻された。我が国は米国と同じことはできない。だからこそ、周辺海域を封じ、通さない能力に集中する。その帰結として、ASWは「得意分野」ではなく、やらなければならない中核能力として位置づけられた。
制度だけでは足りない。現場がそれを運用に落とし込む必要がある。自衛隊の実務者は、使えない装備、維持できない構想を退け、確実に動く能力を選び続けた。
さらに決定的だったのが、民間企業の経営判断である。防衛産業は市場が小さく、輸出制約があり、開発期間も長い。合理性だけを考えれば、撤退が正解だった企業は少なくない。それでも残った企業がある。経営が「切らなかった」から、技術者が残り、技能が残り、供給網が残った。
象徴的なのが、川崎重工業の橋本康彦社長である。防衛費増額を背景に、防衛事業の見通しが上振れする可能性に言及し、防衛を思想ではなく事業として引き受ける姿勢を示した。経営者が撤退しないと決めること自体が、防衛の一部なのである。
そして今、防衛産業への再参入が起きている。抑止が理念ではなく能力で測られる時代に戻ったからだ。ASWという選択が、ようやく世界の常識になった。
結語 防衛を、国家安全保障の中核に据え直せ
防衛もまた、理念や精神論の対象ではない。
国家安全保障の中核である。
ASWを、海軍の専門能力ではなく、
シーレーンと国家存立を支える基盤として再定義する。
装備、人材、訓練、産業基盤、調達と維持を、
善意や現場努力ではなく、国家の責務として明確に位置づける。
これまで我が国の防衛を支えてきたのは、
英雄でも、掛け声でもない。
最悪を想定し、それを静かな実務に落とし込んできた人々である。
その積み重ねを、精神論のまま次世代に委ねてはならない。
防衛もまた、制度として背負う段階に、我が国はすでに入っている。
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