まとめ
- 宮崎駿氏の政治的発言は戦後左翼的でありながら、ジブリ作品の奥底には、本人の思想を超えた日本の霊性がにじみ出ている。
- 世界がジブリに魅了されたのは、左翼思想やアイデンティティ政治ではなく、森、川、神々、異界に宿る「宗教を超えた日本的な霊性」を感じ取ったからである。
- ジブリ神話に酔うだけでは足りない。今こそ、その源流である古事記、日本書紀、八百万の神々、日本神話を取り戻すべきである。
宮崎駿氏は、辺野古新基地建設に反対する「辺野古基金」の共同代表として知られる人物である。スタジオジブリの小冊子『熱風』2013年7月号には「憲法を変えるなどもってのほか」と題する文章が掲載され、同誌2015年8月号には「私は辺野古基金の共同代表としてここに臨んでいます」と題する日本外国特派員協会での記者会見が収録されている。政治的発言だけを見れば、宮崎氏は反基地・護憲色の濃い、戦後左翼的な文脈に近い人物である。(ghibli.jp)
ところが、その宮崎氏が生み出したジブリ作品は、世界中の人々を魅了した。なぜか。左翼的なメッセージが受けたからではない。むしろ逆である。ジブリが世界で評価された本当の理由は、宮崎氏本人の政治思想ではなく、作品の奥底からあふれ出た日本の霊性にあったのではないか。
そして、ここにもう1つの問題がある。多くの人は、トトロの森、シシ神の森、湯屋に集まる神々には魅了される。しかし、その奥にある日本神話そのものには目を向けない。ジブリ神話には酔うのに、日本神話は遠ざける。ここに、戦後日本の文化的な空洞がある。
1️⃣宮崎駿の思想を超えてにじみ出た日本の古層
『となりのトトロ』の森、『もののけ姫』のシシ神の森、『千と千尋の神隠し』の神々の湯屋。これらは単なるファンタジーではない。そこには、日本人が長く抱いてきた自然観が流れている。
森は木材ではない。川は水路ではない。山は開発対象ではない。そこには命があり、記憶があり、目に見えない存在が宿っている。神社本庁も、神道の神々には海の神、山の神、風の神のような自然物や自然現象を司る神々があり、その数の多さから八百万の神々と呼ばれると説明している。(jinjahoncho.or.jp)
ここで言う日本の霊性とは、特定の宗教団体や教義のことではない。自然、祖先、土地、命、祈り、感謝を、生活の中で静かに敬う感覚のことである。神社への参拝、祭り、盆や正月の行事、墓参り、家族の供養、食事の前の「いただきます」、ものを粗末にしないというしつけ。そうした文化や儀礼、言葉の積み重ねによって、日本人の潜在意識には、目に見えないものへの敬意が深く刻まれてきた。
この感覚は、教義を声高に説くものではない。山や森を前にして畏れを抱く。古い木を切るときにためらう。神社の前で自然に頭を下げる。そこには、人間以外の命によって自分が生かされているという感覚がある。
ジブリ作品の強さは、この感覚を説明ではなく映像として見せたことにある。『となりのトトロ』の森は、人間の生活のすぐ隣に、見えない世界が息づいていることを示す。『もののけ姫』の森は、人間が一方的に支配できる空間ではない。そこには神があり、怒りがあり、死と再生がある。『千と千尋の神隠し』の湯屋もまた、現世と異界が完全には切り離されていない日本的世界を描いている。
重要なのは、宮崎氏がそれを保守思想として意識的に描いたわけではないという点である。本人の政治的発言には、保守の立場から違和感を覚える部分が少なくない。しかし、作品は作家の理屈だけで作られるものではない。風景、昔話、祭り、神社、森、川、祖先への感覚。そうしたものが、本人の意識を超えて画面に現れる。
人間は、自分が属する文明の深層から完全に自由ではいられない。どれほど近代的な政治思想を語っても、身体に染み込んだ風土、言葉、記憶、感性は消えない。宮崎氏の場合も同じである。政治的には戦後左翼的な言葉を語りながら、創作の深部では日本の古層を呼び出してしまう。ここにジブリ作品の逆説がある。
ジブリの自然描写は、単なる環境保護のメッセージではない。環境保護なら、自然を守るべき対象として語れば済む。だが、ジブリの森や川は、単なる保護対象ではない。人間が畏れ、関係を結び、時には拒まれ、時には赦される存在である。そこに、自然を資源として管理する近代的発想とは異なる、日本の霊性がある。
だからこそ、ジブリ作品は説教臭い政治映画にならなかった。作品の深部にあったのは、政治的主張より古く、深い日本の感覚である。森に神を見、川に命を見、異界を恐れながらも受け入れる感覚である。宮崎氏本人が何を語ろうとも、画面が立ち上がると、そこには八百万の神々の国が現れる。だからジブリは、日本人の心に届き、さらに世界の人々の心にも届いたのである。
2️⃣世界がジブリに見たものは「宗教を超えた日本の霊性」だった
『千と千尋の神隠し』は2003年の第75回アカデミー賞で長編アニメ映画賞を受賞し、『君たちはどう生きるか』も2024年の第96回アカデミー賞で同賞を受賞した。ジブリ作品、とりわけ宮崎作品は、日本国内の人気アニメという枠を超え、世界映画史の中に位置づけられている。(oscars.org)
では、世界はジブリの何に魅了されたのか。
それは、作画の美しさや物語の巧みさだけではない。人間だけが世界の主人ではないという感覚である。森にも川にも山にも、畏れるべきもの、敬うべきもの、触れてはならないものがある。人間は自然を支配する存在ではなく、その中に生かされている存在である。この感覚こそ、日本の霊性である。
しかも、これは宮崎氏だけに限られた話ではない。多くの日本人は、日本の霊性を顕在意識では意識していない。だが、祭り、年中行事、神社、墓参り、言葉、作法、家族の記憶を通じて、その感覚は潜在意識に刻まれている。あまりにも当たり前であるがゆえに、特別なものだとは思わないのである。
その当たり前の感覚が、組織化された制度宗教や近代合理主義の枠に慣れた世界の人々に触れたとき、強い魅力を放つ。日本の霊性は、宗教という看板を前面に出さない。特定の教義を押しつけない。改宗を迫らない。自然、生活、労働、祈り、感謝の中に静かに息づいている。
ジブリ作品が世界を魅了した理由も、そこにある。観客は、神道や日本神話の知識を持っていなくても、画面の中に流れる霊性を感じ取った。森に宿る気配、川に宿る記憶、異界と現世がつながる感覚、人間が自然の中で生かされているという感覚。そこには、宗教の枠を超えた霊性がある。
また、ジブリ作品は、現代の左派・リベラルが好むアイデンティティ政治とも一線を画していた。ここで問題にしているのは、LGBTを含む少数者そのものではない。人間を属性ごとに切り分け、その属性を政治的記号として前面に押し出し、物語を理念の宣伝に変えてしまう姿勢である。
ジブリには、強い女性も、弱い者も、異形の者も、共同体から外れた者も登場する。ナウシカ、サン、千尋、ソフィーはいずれも印象的な女性主人公である。しかし、彼女たちは政治スローガンのために配置された存在ではない。自然、労働、責任、犠牲、成長、祈りの中で生きる人物として描かれている。
ここが、近年の一部の左派・リベラル的創作との大きな違いである。物語より理念が前に出る。人物より属性が前に出る。魂の葛藤より政治的正しさが前に出る。すると観客は、物語に没入する前に、説教を聞かされているような感覚を持ってしまう。
しかし、ジブリは違った。宮崎氏自身の政治的発言には左翼的な色彩が濃いにもかかわらず、作品そのものは人間を「男か女か」「多数派か少数派か」「加害者か被害者か」という単純な枠に閉じ込めなかった。人物をラベルではなく、魂を持つ存在として描いたのである。
『もののけ姫』を見れば明らかである。人間は自然を破壊する。しかし、人間にも生きる理由がある。森は神聖である。しかし、森の側も単純な善ではない。そこに善悪二元論はない。属性によって正義を決めるのではなく、それぞれの存在が背負う業を描いている。
『千と千尋の神隠し』も同じである。千尋の物語は、現代的な自己主張の物語ではない。名前を奪われ、働き、恐れ、学び、他者を助け、自分を取り戻す物語である。そこにあるのは、権利の主張ではなく、労働と成長と記憶の回復である。
世界がジブリに見たものは、単なる日本趣味ではない。宗教を超えた霊性の世界である。日本人には当たり前すぎて見えにくいものが、外から見る人々には、新鮮で、深く、美しく映った。だからこそ、ジブリの世界的成功は、左翼思想の勝利ではない。日本の霊性の勝利なのである。
3️⃣ジブリ神話に酔う前に、日本神話を物語として取り戻せ
ただし、ここで止まってはならない。ジブリを礼賛するだけでは、かえって本質を見失う。
現在の日本では、日本神話をモチーフにした作品が存在しないわけではない。ゲームでいえば『大神』は、神である主人公「アマテラス」が和で彩られた世界を旅する作品である。『スサノオ~日本神話RPG~』のように、古代日本を舞台に、スサノオ、クシナダ、高天原、芦原中津国などを題材にした作品もある。伝統芸能では、石見神楽の代表的演目「大蛇」が、須佐之男命の八岐大蛇退治を今に伝えている。(nintendo.com)
また、漫画やアニメやゲームには、天照、月読、須佐能乎、黄泉、八咫烏、勾玉、草薙剣、三種の神器、高天原、出雲、八岐大蛇といった言葉やモチーフがしばしば登場する。日本神話は完全に忘れ去られているわけではない。
しかし、多くの場合、日本神話は「名前」や「設定素材」として使われているにすぎない。バトル漫画の技名として天照や月読が出てきても、それは古事記や日本書紀の世界観そのものを描いているわけではない。神名は借りられる。神器は使われる。だが、日本神話の精神、体系、文明の根本まで描き切る作品は多くない。
我が国には、古事記、日本書紀、天照大御神、素戔嗚尊、大国主命、天孫降臨、神武東征という壮大な神話体系がある。それにもかかわらず、日本人自身がそれを現代の大きな物語として十分に活用できていない。ここに問題がある。
一方で、多くの人はジブリの世界には熱狂する。トトロの森、シシ神の森、湯屋に集まる神々には魅了される。だが、その奥にある日本神話そのものには、ほとんど目を向けない。これは奇妙なことである。
ジブリ神話には魅了されるのに、日本神話は古いもの、難しいもの、学校で習わないものとして遠ざけられる。ここに戦後日本の文化的な空洞がある。日本人は、ジブリを通じて日本の霊性に触れていながら、その源流である日本神話には十分に戻っていないのである。
もちろん、宮崎作品のすべてを無条件に礼賛する必要はない。国家観、安全保障観、歴史観において、保守の立場から違和感を覚える部分もある。しかし、それでもなお、ジブリ作品には否定しがたい美がある。その美の源泉は、戦後左翼思想でも、現代リベラルのアイデンティティ政治でもない。日本の風土に宿る霊性である。
だからこそ、我々はジブリを入口にして、さらに奥へ進むべきである。ジブリの森に感動するなら、日本神話の森へ戻るべきだ。シシ神に畏れを感じるなら、八百万の神々の世界を学ぶべきだ。千尋の異界に魅了されるなら、古事記や日本書紀が描いた神々の物語に目を向けるべきである。
ジブリ作品は、日本の霊性を世界に見せた。だが、それは源流ではない。源流は日本神話であり、神道的世界観であり、皇統を含む日本文明の深層にある。ジブリ神話に酔うだけで終わってはならない。ジブリを通じて見えた美しさを手がかりに、日本人自身が本来の神話を取り戻さなければならない。
結論
ジブリの世界的成功は、左翼思想の勝利ではない。現代リベラルのアイデンティティ政治の勝利でもない。日本の霊性の勝利である。
森に神を見、川に命を見、土地に記憶を見、祖先に祈る。この文化を、古い迷信として捨ててはならない。むしろ、世界がジブリを通じて驚嘆したものこそ、我々日本人が最も守るべき宝なのである。
しかもそれは、宮崎駿氏だけの特殊な才能に宿っていたものではない。多くの日本人の潜在意識に刻まれた、あまりにも当たり前の霊性である。日本人が特別視してこなかったその感覚が、宗教という枠を取り払った霊性の世界として、世界の人々を魅了したのである。
だが、そこで止まってはならない。ジブリに感動するなら、その奥にある日本神話へ戻るべきだ。トトロやシシ神に心を動かされるなら、天照大御神、素戔嗚尊、大国主命の物語にも向き合うべきである。
日本神話を素材として借りるだけでは足りない。技名や設定に使うだけでも足りない。古事記、日本書紀、高天原、出雲、天孫降臨、神武東征。そこに流れる日本文明の骨格そのものを、現代の物語として取り戻す必要がある。
宮崎駿氏は、政治的には戦後左翼の言葉を語ったかもしれない。だが、作品はそれを超えた。画面に現れたのは、日本の森であり、日本の神々であり、日本人の魂であった。
ジブリ神話に酔うだけでは足りない。今こそ、日本神話を取り戻すときである。