2026年10月27日火曜日

中国の最新認知戦「米国不信」にやられるな――標的は「反中国」の保守である

まとめ
  • レアアースの威圧も外交圧力も裏目に出た中国は、見えにくい認知戦へ軸足を移している。習近平主席の「中米はともに日本と戦った」は、歴史のすり替えによる日米離反の物語づくりである
  • 台湾・国家安全局の報告は、pixivでの対日工作や異常アカウント4万5000超を指摘した。我が国はすでに認知戦の標的である
  • 認知戦は米国への不信を増幅する戦いだ。「反中国」の保守こそ、自分が広める物語が北京の狙いと重なっていないか点検すべきである

「私は中国の認知戦の標的となったのか」。ジャーナリストの古森義久氏が、そう題する報告を寄せた。ワシントンで米中首脳会談を取材した古森氏が、習近平国家主席の発言をXで速報したところ、予想もしなかった反応が返ってきたというのである。

認知戦とは、中国が「三戦」(世論戦・心理戦・法律戦)を総合した戦法であり、実際の戦争をせずに、相手の思考や判断そのものを操作して自国に有利にゆがめる戦いである。

古森氏の体験は一人の記者の話にとどまらない。我が国全体がすでに標的であり、その中には中国に最も警戒しているはずの保守派も含まれる。本稿はその構造を、公的な記録に即して検証する。

1️⃣習近平の歴史のすり替え

2026年9月24日夜、ホワイトハウス。トランプ大統領が習主席を迎えた公式晩餐会で、習主席は「日本」の国名を二度挙げた。時事通信によれば、習主席は「80年以上前、中米両国人民は協力して日本軍国主義の侵略者と戦った」と述べた。米中の友好を祝う席で、第三国である日本の名を「共通の敵」として挙げるのは異例である。

首脳外交の晩餐会(イメージ、AI生成画像)
第一に指摘すべきは、歴史のすり替えである。第2次世界大戦でアメリカと共に戦った中国側の政権は、蒋介石率いる中華民国である。中国共産党政権、つまり中華人民共和国が成立したのは終戦後の1949年だ。中国共産党軍も抗日戦に参加したこと自体は否定しない。しかし「中国とアメリカは同盟国として共に戦った」という物語を、現在の中華人民共和国の功績として語るのは歴史の横取りである。トランプ大統領自身も歓迎行事で米中が「同盟国」として戦ったと発言したが、この言い方に乗れば、中国の物語づくりに手を貸すことになる。

古森氏はこの発言をXでいち早く報じた。投稿は3日ほどで180万ビューに達したという。当初の反応は日本語の投稿が中心で、「当時戦ったのは中華民国だ」という批判が多かった。ところが、そこに中国語の投稿が短時間で急増した。古森氏によれば、全体の3分の1にあたる約60万ほどが中国語で、内容はどれも習主席の擁護と日本への攻撃だった。中国国内の一般国民はXへのアクセスを禁じられている。だとすれば、この波は誰が送り込んだのか。古森氏は、中国当局がからむ認知戦の標的になったと判断した。もっとも、数字も割合も古森氏本人の観察であり、当局の関与はその観察に基づく推論である。この点は割り引いて読む必要がある。

それでも意図は明らかだ。産経新聞の榊原智論説委員長は、この動きを「日米離間策」と呼んだ。「共通の敵と戦った同盟国」という物語は、日米同盟の正統性を歴史の次元で掘り崩す。習主席の狙いは外交儀礼ではなく、日本とアメリカの間に物語のくさびを打ち込むことだ。

この日米離反の試みは、今回が初めてではない。筆者は2026年5月、トランプ大統領の訪中による米中首脳会談を論じた際、中国が日本国内の対中融和派や経済界、一部世論を利用して日米の結束を緩めようとしたが、高市政権の登場によってその目論見は失敗したと書いた(「中国が日本を脅す時代は終わった」)。レアアースを武器にした威圧も、脱中国の供給網を加速させるだけに終わった。直接の脅しが効かなくなったのである。だが北京は日米離反を諦めたのではない。戦場を、歴史の物語とSNSの増幅という認知の領域へ移しただけだ。なぜ今、認知戦なのか。脅しが効かない時代になったからである。

2️⃣日本はすでに戦場である

古森氏の体験を「一人の記者への嫌がらせ」で済ませられない理由がある。台湾の情報機関が、対日工作を含む認知戦の実態を公的な報告書で明らかにしているからだ。

台湾・国家安全局は2026年1月、報告書「2025年中共対台認知戦操作手法分析」を公表した。土屋貴裕・京都外国語大学教授の解説によれば、中国は党・政・軍と民間の資源を総動員し、ビッグデータや生成AI、不正アカウントを使って台湾社会に浸透している。2025年に確認された行動異常アカウントは4万5000以上で、前年より1万7000以上増えた。収集された偽情報は231万件を超える。

注目すべきは、報告書が対日工作の具体例まで挙げていることだ。中国公安部系のアカウント集団が、イラスト投稿サイト「pixiv」に「高市早苗首相が台湾有事を扇動した」と揶揄する虚偽の情報を投稿し、それをさまざまなプラットフォームに拡散させたという。政治色の薄い趣味の場は「ネタ」として扱われ、反証が難しい。笑いの形を取った工作は、警戒されずに広がる。

対日工作の系譜はこれだけではない。2023年の処理水放出以降、我が国を標的にした偽情報が本格化し、2025年11月には高市首相の台湾有事をめぐる発言への「軍国主義の回帰」という攻撃に続いた。公安調査庁も「内外情勢の回顧と展望」で、中国の大学やシンクタンクが沖縄の独立を求める団体の関係者に接近し、分断を図る動きを継続的に記録している。台湾は認知戦の「試験場」であり、そこで試された手法は他の民主国家にも応用される。

我が国の備えは薄い。2022年の安保3文書には「認知領域への対処」が明記されたが、具体策は乏しいままである。年末の安保3文書改定で、認知領域を理念から実効ある対策に落とせるかが問われている。

3️⃣一番危ないのは「反中国」の側だ

認知戦とは、相手に中国の主張をそのまま唱えさせる戦いではない。相手の社会にもともとある不満や不信、不安を増幅し、分断を深めることで、その社会の判断を自国に有利な方向へゆがめていく戦いである。だから「自分は反中国だから関係ない」という油断が、一番危ない。

台湾・国家安全局の報告書は、中国が繰り返し拡散する物語として「米国懐疑論」と「軍事介入懐疑論」を挙げている。アメリカは当てにならない。アメリカは台湾も日本も守らない。台湾有事を煽る者は日本を戦争に巻き込む。こうした物語である。

振り返って、我が国の言論空間はどうか。保守と目される人の中にも、「アメリカは結局、日本を見捨てる」「台湾有事に日本を巻き込むな」「防衛費を増やしても無駄だ」と繰り返す人が増えたように見える。これらの言い方は、台湾の報告書が挙げる中国の物語と、型の上で重なっている。本人に中国の意図などなく、我が国を思っての発言かもしれない。しかし認知戦の成否は、本人の意図では決まらない。その言説が日米の亀裂を広げ、我が国の防衛意思を痩せさせる結果をもたらすかどうかで決まる。意図せず北京の狙いを手伝うことは、十分にあり得るのである。

ここでもう一つ、情報環境の歪みを挙げておく。台湾有事をめぐる恐怖の前提である。筆者は以前、本ブログで台湾侵攻の困難さを論じた。結論は「台湾侵攻は、一般に考えられているよりは、はるかに困難なのである」というものだった。急峻な山岳地形、複雑な河川網、地下軍事施設、住民の国防意識。武力侵攻の障壁は極めて高い。詳細はリンク先に譲る。

ところが、この種の軍事的事実は、我が国ではほとんど報じられない。侵攻が間近で、しかも容易いかのような前提に立てば、「巻き込まれるな」という声は強まり、抑止への支持は痩せる。恐怖が広がる方が、北京には都合がよいのだ。困難だという事実が報じられにくいこと自体、中国の認知戦が作り出した情報環境の歪みである可能性がある。

もっとも、ここには引くべき一線がある。アメリカへの疑問や台湾有事への懸念そのものは、正当な議論である。それらを根拠もなく「中国の認知戦だ」と決めつければ、対策自体が陰謀論になり、国内の分断はかえって深まる。それこそ工作の思うつぼだ。工作と呼べるのは、台湾・国家安全局や公安調査庁の記録のように、出所と手口に裏付けのあるものだけである。点検すべきは、主張の是非の前に、その情報の出所と増幅のされ方である。

結論

中国の認知戦は、もう対岸の出来事ではない。国家元首自らが歴史の物語を仕掛け、情報機関の報告書が対日工作を記録し、趣味のサイトにまで偽情報が入り込む時代である。

筆者は5月に「中国が日本を脅す時代は終わった」と書いた。その判断は今も変わらない。ただし、脅しが消えたのではない。姿を変えたのである。見える脅しに屈しなくなった我が国に対して、北京は見えない戦いを強めている。中国が強く出るほど日本の戦略価値が上がるという優位の構図は、認知の領域では自動的には働かない。不信と分断は、価値が上がる前に社会の足元を崩す。優位の時代にこそ、認知の防衛が要る。

備えは二層で考えるしかない。国家の層では、年末の安保3文書改定において認知領域への対処を理念で終わらせず、台湾など最前線の知見を共有する仕組みまで含めた具体策に落とすこと。個人の層では、出所を確かめ、一次資料に当たり、煽られるままに拡散しないことである。

そして最後に、保守への自戒を込めて書く。認知戦の標的は、親中の人だけではない。中国に最も警戒する人々の不信と不安こそ、増幅の材料として狙われている。戦わずして相手の判断をゆがめる戦いは、すでに始まっている。我が国を守るというなら、まず自分が拡散する物語が、誰の狙いと重なっているかを点検すべきである。

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2026年10月26日月曜日

GMOクラウドが破られ、FX口座が勝手に売買された――見舞金5000円で済ませるな。財産は「やられても止めない備え」で守れ


 まとめ

  • GMOのクラウドへの不正アクセスで、利用者のFX口座が勝手に取引された。盗まれたのは情報ではなく、口座を操作する鍵そのものである。壁は、すでに破られた。
  • 財産を守るのは、事後の金だけではない。見舞金5000円と損失の補償は別物であり、被害を小さくするのは、非常時にも業務を止めない代替の運用を事前に用意しておくことである。
  • 進行中の攻撃を止める国の力も動き始めた。だが無害化措置が使えるようになったのは10月1日、わずか3週間前であり、発動の有無は原則として公表されない。止める力には、検証の仕組みが要る。

知らない間に、自分の口座で取引が行われていた。GMOインターネットが提供する「お名前.com デスクトップクラウド」への不正アクセスで、利用者の情報が外部に持ち出され、証券・FXの取引口座が不正に操作された。読売新聞によれば、大阪府の会社員女性は、約300万円あったFX口座の残高が一夜で約120万円に減っていた。身に覚えのない1回の取引で119万円の損失が出て、関連する決済を含めた損失は計178万円に上るという。埼玉県の会社員男性も約55万円を失った。

しかも事件は終わっていない。攻撃者はGMOに金銭を要求し、応じなければ不正操作を続けると予告している。本当の問いは、攻撃を防げるかどうかではない。サイバー攻撃は防ぎ切れない。突破された後に、不正を止め、業務を止めず、損失を償い、その判断を検証できるかどうかである。国民の財産は、誰が、どう守るのか。

1️⃣何が起きたのか――盗まれたのは情報ではなく、口座の鍵だった

経緯は短い。GMOは10月19日に利用者からの問い合わせで調査を始め、20日に不正なプログラムを確認して新規申込とコントロールパネルを止め、21日未明に全サーバーを順次停止、22日に警察へ相談した。発表は第5報まで重ねられている。第3報の「影響の可能性があるサーバー」2万6739件は、被害が確認された件数ではない。GMO自身がそう注記しており、数字の大きさで煽る報道は正確ではない。

侵入の仕組みと6日間の経緯(図解、AI生成画像)クリックすると拡大します
手口の本質は、情報の窃取にとどまらない点にある。サーバー内に保存されていた取引口座のログイン情報などが取得され、口座そのものが操作されたとみられる。自動売買を24時間動かすために利用者がクラウド上に置いた取引ツールごと破られれば、資産への鍵をまとめて渡したことになる。専門家からは、調査開始の5日以上前から侵入が続いていた可能性も指摘されている。壁は、気付かないうちに破られていた。

さらに異例なのは、攻撃者の振る舞いである。GMOの第4報によれば、攻撃者は金銭を要求し、応じなければ、70を超える証券会社・FX会社の口座への不正操作の継続、情報の公開とランサムウェア攻撃、システムや運用体制に関する情報の公開を行うと伝えてきた。専門家も「極めて異例」と指摘する手口である。GMOは要求に応じず、証拠を警察に提出した。応じても、盗まれた情報の削除も不正利用の防止も保証されないからだ。つまり本件は、一度破られて終わる事故ではない。問われるのは、破られた後である。

2️⃣償う仕組みと、止めない備え――企業の責任は事後と事前の両方にある

報道では「5000円」が一人歩きしている。だが、見舞金と補償は別物である。見舞金は、現在利用しているすべての人に被害の有無にかかわらず一律5000円を払う、不安と迷惑への見舞いであり、損失の補填ではない。連絡は10月30日までに登録メールアドレスへ送られる。

補償の対象は、GMOが本件に起因する不正取引と認めた取引の実現損失、すなわち差損と手数料に限られる。市場の変動による損失、得られたはずの利益、間接的な損害は含まれない。手続も、まず利用者が取引先に取消しや返金を相談し、残額をGMOが払う2段階であり、申請方法は11月6日までに案内される。

10月25日夜、GMOインターネットグループの熊谷正寿会長兼社長は自身のブログで謝罪し、社内技術者からセキュリティーの「改善すべき課題」を事前に指摘されていたことを明らかにした。優先順位を考慮して対応を進めた結果、「その間隙をつかれてしまった」という。見舞金は「初動の誠意の印」にすぎず、確認した対象損失は全額支払うと改めて表明した。

補償の方針を条件まで明示したこと、攻撃を受けた基盤は再開せず代替サービスへ移行させて6か月間無償にしたことは、評価できる。だが構造的な問題は残る。対象かどうかを認めるのはGMO自身の調査であり、被害者はその認定を待つしかない。読売の取材に応じた女性は、問い合わせへの返信がないことに不信感を募らせているという。課題の指摘が社内にあったとトップ自ら認めた以上、問われるのは金額ではなく、認定の基準と進み具合を被害者ごとに示し続けられるかである。

見舞金と補償、そして止めない備え(図解、AI生成画像)クリックすると拡大します
企業の責任は、事後の償いだけではない。被害を小さくする事前の備え、攻撃を受けても業務を止めない代替の運用こそが問われる。筆者は先の記事「相次ぐ個人情報流出――AI時代に日本のサイバー防衛は追いつけるか」で、こう書いた。「多少の不便や費用を受け入れてでも、非常時に機能する独立した手段を残す。これはデジタル化への逆行ではなく、デジタル社会を守るための備えである」。その「独立した手段」は観念ではなく、今まさに現場で使われている。

直近の実例が、同じ10月にある。むさし証券のネット取引「トレジャーネット」は10月16日、大規模なサイバー攻撃を受けて取引画面を閉鎖したが、同社は同日朝から、現物株式の売却と信用取引・先物オプションの返済注文を電話で受け付け、受付を売り・返済・訂正・取消に絞った。全機能の維持ではなく、利用者が損失を確定し身動きを取れる出口だけを残す。この割り切りが、代替手段の設計の要である。

「メールで取引を続ける」という話にも原型がある。2023年11月、中国工商銀行(ICBC)の米国部門がランサムウェア攻撃を受け米国債取引の決済が滞った際には、社内メールが使えなくなり、職員はGoogleのメールに切り替えたとロイターは伝えた。決済情報を収めたUSBメモリを担当者が取引先へ運ぶ形で取引もつないだ。ただしこれは整備された仕組みではなく、現場の即興である。即興でも市場は止まらなかったが、一般のメールでは本人確認も記録の保全も弱い。教訓は、代替の経路を認証と記録の手順まで含めて平時に決めておけということである。

守られるのは金融だけではない。アサヒグループは2025年9月の攻撃で受発注システムが止まった後、電話やFAX、表計算ソフトを用いた手作業で受注と出荷を約2か月続け、12月からシステム受注を順次再開した。効率は大きく落ちたが、供給は止めなかった。金融庁も「オペレーショナル・レジリエンス」として、攻撃時にも重要な業務を最低限維持し続ける能力を金融機関に求めている。代替運用は現場の工夫ではなく、求められる備えなのである。

具体策は三つある。第一に、金融機関は通常の画面を閉じても、返済・決済・出金など被害を止める手続だけは電話などで受け付けられる手順と本人確認の方法を、あらかじめ決めて公表しておくこと。第二に、代替の経路でも受付の記録と二重の確認を欠かさず、即興の私用メールに流れないこと。第三に、バックアップを本番から隔離し、復旧の訓練まで行うこと。バックアップがあることと、業務を再開できることは別である。

利用者自身の備えも欠かせない。第5報が示すとおり、パスワードはFX取引に使っていない端末から変更し、ログイン中の全セッションを切断すること。パスワードを変えても既存の接続が残り、第三者が取引を続けられる場合があるからである。取引履歴と残高の確認、二要素認証の設定も要る。クラウド上に金融の認証情報を置く人すべてへの警告である。

3️⃣止める力と、検証する仕組み――生まれたての制度の最初の実戦

企業の備えにも限界はある。攻撃の基盤は国境の向こうにあり、一企業には攻撃者の拠点を無力化する手は届かない。警察の捜査は起きた犯罪を裁くもので、進行中の被害を止める無害化とは役割が違う。進行中の攻撃を止める力は、国にしかない。GMOは本件を能動的サイバー防御の「発動第1号」事案と位置付け、国主導による攻撃基盤の追跡・遮断・無力化を求める緊急要請を行い、熊谷社長も改めてそれを求めた。

ここで、報道がほとんど伝えない時間軸を確認しなければならない。能動的サイバー防御の関連法が成立したのは2025年5月である。だが法律は段階施行であり、柱の一つである通信情報の監視・分析は今も施行されておらず、全面施行は2027年内の予定である。警察と防衛省・自衛隊が攻撃元のサーバーに侵入しプログラムの停止や削除を行う「無害化措置」が使えるようになったのは、今年10月1日。具申のわずか3週間前である。高市首相自身、施行前日の9月30日にSNSで、無害化措置によりサイバー攻撃に有効に対処できると発信していた。つまり本件は、生まれたばかりで一度も使われたことのない力の、最初の実戦である。

手続は重い。無害化措置は、政府が基幹インフラ事業者などからの報告を受けて必要性を検討し、場合によっては国家安全保障会議の審議を経て、独立した第三者機関であるサイバー通信情報監理委員会の承認を得て、初めて実施できる。他国のサーバーに侵入する力である以上、この慎重さは正統性を支える要だが、刻一刻と続く脅迫と不正操作の速度に間に合うのか。慎重さと速度の緊張は、この制度が最初から抱えた宿題である。適用の範囲にも曖昧さが残る。制度は基幹インフラへの重大な脅威を主な念頭に設計されており、民間のクラウドと個人投資家の資産が狙われた本件が、その想定のどこに位置付くのかは定かではない。

霞が関の官庁街(イメージ、AI生成画像)クリックすると拡大します
政府側の姿勢も報じられた。毎日新聞によれば、発動は政府が主体的に判断し、個別企業の要請で決めるものではない。産経新聞によれば、当面は被害企業への技術支援を中心とし、能動的サイバー防御の適用は慎重に判断するという。

そして、止める力には検証の仕組みが要る。読売新聞は、政府は「原則、実施したかどうかを事案ごとに公表しない方針だ」と報じた。毎日新聞も、政府高官が「手の内をさらすことにもつながりかねないので、(有無は)公表しない」と述べたと伝えている。10月23日の国会でも、政府側は、実施状況を明らかにすれば攻撃側に対抗措置を講じられ運用に支障を生じる恐れがあるとして、説明を差し控えると答弁していた。公表しないのは本件限りの沈黙ではなく運用上の原則であり、法律が公表を禁じているわけではない。作戦上の理由による運用である点は区別しておく必要がある。

だから国民が問うべきは「使ったか、使わないか」ではない。公表されない制度に、どのような事後の説明責任と検証の仕組みがあるのかである。監理委員会の承認や実施の記録が、事後に誰によって、どこまで検証されるのか。公表しない運用を採る以上、その代わりの検証の筋道を示さなければ、沈黙は制度への不信を育てるだけである。止める力が強いほど、検証は欠かせない。

結論

結論は単純である。サイバー攻撃は防ぎ切れない。だから財産を守るとは、壁を高くすることではない。突破されても、不正を止め、業務を続け、損失を償い、力の行使を検証できる仕組みを用意しておくことである。

国民の財産は、いまやサイバー空間の中に置かれている。預金も、証券も、FXの証拠金も、画面の向こう側にある。その空間で起きる犯罪に、従来の「企業のセキュリティ事故」という枠組みだけで対応する時代は終わった。

守りは三層でしか成り立たない。資産を預かる企業の備えと補償、そして攻撃を受けても業務を止めない代替の運用。進行中の攻撃を止める国の対処能力と、その行使を事後に検証する仕組み。そして利用者自身の自衛である。本件を一企業の不祥事として終わらせてはならない。止める力、止めない備え、償う仕組み、検証する仕組み。その四つがそろって初めて、国民の財産は守られる。

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2026年10月25日日曜日

『財源がない』では日本は守れない――年末の安保3文書改定、国債恐怖症と防衛増税を許すな

まとめ

  • 今回のポイントは、安保3文書改定を「財源論」で論じること自体が誤りだという点である。物差しは需給ギャップと高圧経済であり、防衛費は国内の供給力と継戦能力を育てる投資として評価すべきだ。
  • 日本にとっての利益は、「財源がない」を理由に防衛を先送りせず、高圧経済を維持することで賃上げと投資を定着させ、危機の際にも国を守れる実体的な国力を手にできることである。
  • 次に備えるべきは、越えてはならない一線を守る覚悟である。防衛費の穴埋めを名目とする増税や拙速な引き締めに流れ、国債恐怖症に屈して国家の生存戦略を止めるような判断を許してはならない。

10月24日、東京都内で開かれた「富士山会合」で、ランドー米国務副長官がビデオメッセージを寄せた。日本政府が年内に改定を目指す安全保障関連3文書について、米国の戦略と一致させる必要があるとし、日本の南西諸島から台湾、フィリピンを結ぶ「第1列島線」に沿って抑止力を強化する米側の取り組みに、歩調を合わせるよう求めたのである。ランドー氏は、中国の軍事活動の活発化を挙げ、中国が日本への強硬姿勢を強めていると指摘した。高市早苗首相も同じ会合にメッセージを寄せ、日米同盟の抑止力と対処力を一層強化し、同盟をさらなる高みへ引き上げると訴えた。

この発言を受けて、防衛費の議論は必ず「財源」に向かう。だが、確認しておかなければならない。「財源がない」は、国家の生存を先送りする言い訳にはならない。そして、防衛費の穴埋めを名目とする増税は、守るべき国力そのものを削ぐ。私は昨年末、補正予算をめぐる議論で、需給ギャップと高圧経済、そして国債恐怖症の誤りを書いた。あの物差しは、防衛費にこそ当てはめなければならない。

1️⃣第1列島線は地図の上の線ではない――南西諸島は日本の盾である

第1列島線とは、南西諸島から台湾、フィリピンへと連なる列島線を指す。中国の海軍や海警が太平洋へ進出しようとすれば、必ずこの列島線を越えなければならない。裏を返せば、この線が破られれば、台湾周辺や東シナ海の有事は、我が国の離島、領海、そして海上輸送路への圧力に直結する。日本最西端の与那国島から台湾までは、約110キロしか離れていない。台湾有事は、対岸の火事ではないのである。

南西諸島に展開する地対艦ミサイル部隊(イメージ、AI生成画像)
我が国は、エネルギーと食料の多くを海上輸送に依存する島国である。シーレーンが脅かされる事態は、軍人だけの問題ではない。燃料が届かなければ工場は止まり、食料が届かなければ国民生活そのものが立ち行かなくなる。南西諸島の防衛は、遠い島々の話ではなく、本土に暮らす国民の生活を守る最前線の話なのである。

まず、現在地を確認しておく。現行の3文書は2022年12月に決定され、2027年度において、防衛力の抜本的強化とそれを補完する取組を合わせて、2022年度のGDP比2%(11兆円程度)に達する予算水準を目標に掲げた。高市政権は、この水準を当初予算と補正予算を合わせて2025年度に前倒しで達成した。つまり年末の改定は、達成した2%の先をどこまで積み増すのかの議論である。現行の防衛力整備計画は2023年度から2027年度までの5年で43兆円程度を示し、2027年度から2031年度を対象とする次期計画では、無人機の大量調達や、長期戦に備えた弾薬、ミサイルの確保が柱となると報じられている。

米国の要求も、正面から受け止めておく必要がある。トランプ政権は同盟国に防衛費のGDP比3.5%を求め、日本に対しても「世界基準」だとして水面下で繰り返し求めてきたと報じられている。政府は、改定文書に3.5%の目標の明示を見送る方向で検討しているが、関連経費も含めた防衛費の大幅な増額には踏み出す方針だという。仮に3.5%となれば、防衛費は年20兆円を超える。ここで警戒すべきは、数字合わせのために安全保障関連経費の範囲を広げ、装備や人員という中核の予算を痩せさせる粉飾である。比率は結果であって、目的ではない。決めるべき順序は、守る正面と中身が先であり、比率は後からついてくる。

では、この線を守るとは、具体的にどういうことか。相手の射程の外から対処する長射程ミサイル、広い海域を見張り続ける無人機、そして有事が長引いても戦い続けられるだけの弾薬と燃料の備蓄が要る。装備を配備して終わりではない。装備品の部品を切らさず、壊れた艦艇や航空機を前線近くで修理し、補給を絶やさない基盤がなければ、備えは最初の局面で細っていく。問われているのは、まさにこの継戦能力である。

守る対象は、海域や線だけではない。南西諸島には人々の暮らしそのものがあり、有事の際に住民をどう避難させ、空港や港湾をどう使うかまで含めて、初めて「守る」という言葉に中身が入る。防衛力の整備は、国民生活の防衛なのである。

同盟は、米国が一方的に我が国を守る仕組みではない。我が国自身が担うべき正面を受け持ち、抑止の一翼を担わなければ、同盟の信頼そのものが揺らぐ。米国に名指しされるまでもなく、第1列島線を守るのは日本の仕事である。問題は、そのための支出を、我が国がどの物差しで判断するかだ。

2️⃣需給ギャップと高圧経済――防衛費は「負担」ではなく、供給力を作る投資だ

経済政策の議論は、決まって「国の借金が増える」「財源を示せ」という言葉で思考停止に陥る。だが、見るべきは空気ではない。需給ギャップであり、その先にある高圧経済である。

高圧経済とは何か。政策によって需要を強く保ち、労働市場を引き締めた状態をいう。人手が足りなければ、企業は賃金を上げ、省力化の投資をしなければ、人を確保できない。賃上げと投資が、経営者の善意ではなく経営の必然になる。デフレ脱却とは、この状態を定着させることであり、単に物価が上がることではない。

日銀の推計では、2026年4〜6月期の需給ギャップはプラス0.55%で、8四半期連続のプラスとなった。内閣府の推計でもプラス0.7%と、需要超過が続いている。この数字だけを見て「需要はもう十分だ、引き締めよ」と読むのは、昨年末に指摘した通りの誤りである。潜在GDPは推計であり、しかも長年のデフレで痩せた供給力を前提に推計される。景気が良くなるほど「埋まったように見える」のは、そのためだ。

需給ギャップはプラスでも、判断は結果で見る(図解、AI生成画像)※クリックすると拡大します

重要なのは結果である。賃金は持続的に上がっているか。投資は回っているか。中小企業まで賃上げが浸透しているか。政府自身、城内実経済財政担当相が10月23日の記者会見で、デフレ脱却宣言について「
慎重に判断する必要がある」と語った。デフレに後戻りしないという宣言の条件が整ったとは、政府自身がまだ言っていない。高圧経済は、まだ完成していないのである。

その局面での防衛費を、一般の支出と同じに論じてはならない。防衛費の中核は、国内産業への発注である。1️⃣で挙げた弾薬の生産ライン、装備品の部品、艦艇や航空機を維持・修理する基盤、燃料の備蓄、無人機やAIを支える半導体と人材は、需要を作ると同時に供給力を作る支出だ。有事に国を守る継戦能力であると同時に、平時の国内産業の厚みそのものである。

防衛産業の裾野は広い。素材、部品、造船、電子機器と、発注は中小企業を含む国内の取引網に広がっていく。高圧経済が中小企業まで浸透するかどうかが問われると書いたが、防衛発注はまさに、その浸透の経路になり得る。だから、防衛費の増額と高圧経済は矛盾しない。むしろ防衛費は、供給力再建の柱になり得る。

批判すべき無駄があるとすれば、それは金額の大きさではない。円安のなかで予算が輸入装備への支払いに消え、国内に生産基盤も技術も雇用も残らない使い方である。問うべきは「いくらか」より先に、「何に使い、国内に何が残るか」だ。

3️⃣国債恐怖症で国を失うな――歴史と、越えてはならない一線

「国債は将来世代へのツケだからやめろ」という言葉はの中身は空虚だ。国は家計ではない。国債は借り換えを前提とした金融の道具であり、実質的な負担は利払いと金利水準で決まる。我が国の日露戦争の戦費も公債で賄われた。もし当時、「国債はツケだ」という声が勝っていれば、日本は戦えなかった。戦えなければ負けていた。経済政策は、国の生存戦略である。

英国のコンソル(統合債)の内実を、具体的に見ておきたい。コンソルは1751年、英国政府が各種の公債を統合して生まれた、償還期限を定めない永久債である。利払いを続ける限り元本を返す必要はなく、償還は政府の任意だった。この仕組みで、英国はナポレオン戦争の天文学的戦費を賄い続けた。戦争が終わった後の1821年には、政府債務はGDPの260%に達していた。それでも英国は破綻しなかった。

額面を急いで消すのではなく、利払いを続け、産業革命による成長のなかで債務の相対的な重さを減らしていったのである。第1次世界大戦の債務を借り換えた3.5%の戦争債が償還されたのは2015年3月であり、期限のない国債の最後の残りがすべて償還されたのは2015年7月5日である。1751年から数えて264年後だ。国家の債務管理、特に国家の存亡の危機に関わる債務管理とは、この時間軸で考える仕事なのである。

日露戦争の数字を見れば、その意味はさらに明らかになる。直接戦費だけで17億円を超え、当時のGNPの22%、一般会計歳入の7倍弱に相当する規模だった。その戦費の8割を、内債と外債の発行で賄ったのである。そして外債は借換えを繰り返しながら返済が続き、借換え外債の最終償還を迎えたのは1970年度だった。戦争が終わってから65年後である。明治の戦争の借金を、高度成長期の日本が払い終えたことになる。なお、同じ出典によれば、日清戦争の借換え外債の最終償還は1985年度である。世間に流れる「日露戦争の借金は1986年に完済した」という話は、この日清戦争分との混同だろう。

国家は時間を味方にできる――戦争の借金が終わるまで(図解、AI生成画像)※クリックすると拡大します

なぜ、このような超長期の返済が可能なのか。そこには、個人と国家の決定的な違いがある。個人の信用は、その人が生きて働ける期間に縛られる。人はいずれ年を取り、死ぬ。だから個人への信用は、人生の長さを超えることができない。だが国家は違う。国家は世代を超えて存続し、課税権を持ち続ける。国家の消滅や革命による債務の否認といった余程の事態がない限り、国家の信用に「寿命」はない。

貸し手が超長期の資金を託せるのは、この存続を前提にしているからだ。国家は時間を味方にできる。65年あれば経済は成長し、税収は増え、債務の相対的な重さは変わる。もちろん、この信用は国家の存続と経済の成長が前提だ。だからこそ防衛と成長は一体なのであり、守る力を削って帳尻を合わせる緊縮は、信用の土台そのものを掘り崩す。

現実の動きを見れば、国債恐怖症がすでに安全保障を歪め始めている。有識者会議は3文書を決める機関ではなく、判断材料となる報告書を首相に提出する機関である。その有識者会議が、報告書の取りまとめを当初の11月中から12月上旬へ先送りする方向となった。理由は、飲食料品の消費税減税法案の国会審議で財源を巡る与野党攻防が見込まれるため、その影響を考慮したというのである。財源を議論するはずの会議の結論が、財源論争を恐れて後ろへずれる。これが国債恐怖症の支配でなくて何なのか。

さらに、越えてはならない一線は増税である。新たな3文書に基づく防衛費は年10兆円超に膨らむ公算が大きいとして、その「安定財源」に法人税の追加増税案が政権内で浮上していると、共同通信が報じた。まだ決まった話ではないが、賃上げや国際競争力への影響を懸念する経済界の反発も予想されるという。賃上げと投資を担う企業に増税し、その企業が作るはずの装備と供給力を細らせて、何の防衛力強化なのか。

帳尻合わせのために国力を削ぐのは本末転倒であり、経済を冷やせば税収そのものが細って、防衛費を支える基盤が痩せる。拙速な引き締めは、財政でも金融でも同じ過ちだ。日銀が利上げを急ぎ、あるいはリークの形で市場に先行実装するようなことがあれば、高圧経済は完成する前に潰れる。その一線も、越えさせてはならない。国家の財政は動的に運営するものであって、「財源の札」が揃うまで防衛を止める仕組みではない。

結論

第1列島線を守り切れなければ、日本は守れない。そのための防衛費を、「財源がない」の一言で先送りする国に未来はない。年末の安保3文書改定に求められるのは、財源論の恐怖に屈しない覚悟であり、防衛費を国内の供給力と継戦能力に変える設計であり、そして増税と引き締めで高圧経済を壊さないという一線の堅持である。

将来世代に残すべきものは、緊縮の根拠なき説教ではない。

生き残る力を持った国である。

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2026年10月24日土曜日

在留外国人428万人時代に、外国人受け入れを既定路線にするな——年末の政府人口総合戦略の行方


まとめ
  • 2070年に8700万人という将来推計は、年16万4000人の外国人の入国超過を前提に描かれた姿である。その前提を、受け入れ拡大の根拠に使ってよいのか。
  • 在留外国人は428万1026人に達した。原則が示されない間に、現実と育成就労制度だけが先に進んでいる。
  • 先に立てるべきは外国人ではなく、賃金と投資とAIによる我が国の供給力である。年末の人口総合戦略は、その順序を示せるか。
高市早苗首相は10月5日の所信表明演説で、人口減少を「静かに進む国難」と位置付け、年末をめどに人口総合戦略を策定し、外国人の受け入れに関する基本的な在り方についても検討を進める考えを示した。

ここで制度上の前提を確認する。人口総合戦略は政府の政策文書であり、それだけで在留資格は生まれない。在留資格の創設や改廃は、国会が入管法などを改正して行う。個別の在留許可は、法律に基づく法務大臣の権限に属し、実務を出入国在留管理庁と地方出入国在留管理局が担う。政府の基本方針や分野別運用方針は、法律の枠の中で受け入れ分野や見込数に影響するが、法律そのものではない。戦略の文言が重いのは、後の立法、予算編成、政省令や告示の改正を方向付けるからである。影響する過程と、直接決定する権限を混同してはならない。

1️⃣推計は前提であり、国民への約束ではない

国立社会保障・人口問題研究所の将来推計人口(令和5年推計)によれば、出生中位・死亡中位の推計で、総人口は2020年の1億2615万人から2070年には8700万人へ減り、2020年時点の69.0%となる。65歳以上人口の割合は28.6%から38.7%へ上がり、総人口が1億人を下回る時期は2056年と見込まれる。数字の厳しさは否定できない。

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ただし、研究所自身が明記している点を見落としてはならない。前回推計と比べた減少速度の緩和は、出生率の改善によるものではない。合計特殊出生率の長期的な投影水準は前回の1.44から1.36へ下がり、他方で外国人の入国超過数は、長期的な投影水準が年約6万9000人から年約16万4000人へ引き上げられた。研究所も、減少速度が緩んだ理由として国際人口移動の影響が大きいと説明している。

つまり、8700万人という将来像は、年16万人規模の外国人の入国超過を前提に描かれた姿である。前提に置かれた規模を、受け入れ拡大の結論の根拠に使うことはできない。推計は検証の対象であり、政治の決定を免除する命令ではない。人口総合戦略が果たすべき役割は、前提を追認することではなく、前提そのものを国民の前に示し、どこまで受け入れ、どこからは国内の立て直しで応えるのかを決めることである。

2️⃣原則が示されない間に、現実と制度は進んだ

現実は年末の戦略を待っていない。出入国在留管理庁の在留外国人統計によれば、在留外国人は2021年末に276万635人、2024年末に376万8977人、2025年末には412万5395人となった。さらに、出入国在留管理庁が10月16日に発表した2026年6月末の在留外国人数は428万1026人であり、2025年末から半年で15万5631人、率にして3.8%増え、過去最多を更新した。2021年末からの増加は152万391人に達する。

内訳も重要である。同じ発表によれば、在留資格別では永住者が96万1342人と最も多く、技術・人文知識・国際業務が51万6184人で、前年末から8.5%増えた。短期の労働力として来て帰るという姿だけではない。定住と長期滞在へつながる層が、着実に厚くなっている。

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他方で、厳格化が進む部分もある。不法残留者は2026年7月1日時点で6万5229人となり、半年で4.8%減った。不法滞在への対処と、合法的な受け入れの拡大は、別の動きとして分けて見る必要がある。不法への厳格さを示すことと、合法の規模に原則を示すことは、どちらも欠かせない。

働く外国人も拡大が続く。厚生労働省の労働経済分析によれば、外国人労働者数は2024年10月末時点で約230万人となり、届出が義務化されて以降12年連続で過去最多を更新し、2014年との比較では2.9倍となった。人手不足への対応が、すでに外国人労働力への依存を深める形で進んでいることは、統計の上で明らかである。

制度の転換も決まっている。育成就労制度は、有識者会議や産業界の要望が直接つくる制度ではない。国会で成立した2024年の改正法に基づく制度であり、出入国在留管理庁の育成就労制度の概要が示すとおり、施行日は2027年4月1日である。技能実習の在留資格は廃止され、就労を通じた人材育成と人材確保を目的とする育成就労が創設される。育成就労計画の認定は外国人育成就労機構が行い、監理支援機関は主務省庁の許可を受ける。分野の設定や運用方針は、法律の枠の中で政府が定める。

制度が法律に基づいて前に進む以上、問いは「拡大するか否か」という抽象論では済まない。すでに進む拡大に対して、総量の考え方、分野ごとの必要性、自治体や国民生活への負担、検証と見直しの方法を、戦略がどこまで具体的に示せるかである。原則なき拡大を、後から言葉で整えるだけでは足りない。

3️⃣先に立てるべきは、外国人ではなく、我が国の供給力である

昨日当ブログに掲載した、ポーランドの教訓は短く言える。学ぶべきは壁の形ではなく、国境と受け入れの主導権を国家が握る姿勢である。ポーランド政府が公表したベラルーシ国境の障壁計画は、高さ5.5m、180kmを超える障壁と、電子的な国境管理を組み合わせる方針を示した。同国は不法越境を許さない姿勢を実力で示す他方、ウクライナ避難民には資格と期限を定めた一時保護で対応し、国境管理と人道保護を区別してきた。この区別の詳細は、前回のポーランド論考で述べたとおりである。

我が国は島国であり、陸続きの国境をそのまま模倣する必要はない。管理の中心は、空港と港湾における入国審査、在留管理、警察と自治体の連携に置かれる。地理の違いは、管理を緩めてよい理由にはならない。制度が曖昧で、資格外活動や不法残留への対処が遅れれば、島国であっても秩序は崩れる。

自動運転農機が働く北海道の農地 AI生成画像
国内で先に立てるべき柱は、賃金、技能訓練、設備投資、AIとロボットによる省力化である。これは労働者を機械に置き換える話ではない。担い手が減る中で、医療、介護、物流、建設、農業、地方交通を維持するための供給力再建であり、国民生活を支える国家資産形成である。賃金を上げ、働く人の技能を高め、必要な人数そのものを技術で減らす。その努力を分野ごとに数字で示し、それでも不足する部分がどこかを立証してからでなければ、受け入れの必要性は説明されたことにならない。「人手不足」という言葉で、介護も製造業も農業もまとめて扱う議論は粗すぎる。

その上で、戦略には少なくとも3点を書き込むべきである。1点目は、受け入れ分野ごとに必要性を立証する手続である。2点目は、住宅、教育、医療、言語支援、治安に関わる自治体負担の明示と、その財政措置である。財政措置は政府が予算案に計上し、国会の議決を経て初めて執行できるものであり、戦略の一文だけで負担が消えるわけではない。3点目は、効果と負担を定期的に検証し、想定を超えた場合に見直す仕組みである。広げる仕組みだけを持ち、戻す仕組みを持たない制度は、国家の統治とは言えない。

結論

人口総合戦略に最初に書くべきは、受け入れ人数ではない。我が国は誰を守るのか。人口減少に何で応えるのか。受け入れが必要だというなら、その必要性を誰が立証し、負担を誰が負い、結果に誰が責任を持つのかである。

年末の戦略がこの問いに、法律、予算、運用方針のどこで何を決めるのかまで含めて答えるなら、それは人口対策を超えて、国家の統治能力を示す文書になる。逆に、推計と人手不足を理由に拡大を追認するだけなら、賃金の低迷、投資不足、地域の負担は温存され、国民生活への影響だけが積み重なる。

必要のない移民受け入れを既定路線にしてはならない。国内の賃金、投資、教育、技術を立て直し、少子高齢化の下でも供給力を維持できる国をつくる。その順序を守ることが、国益を守ることであり、真に保護すべき人への支援を持続させる道でもある。

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欧州の移民政策が揺らぐ今、我が国はポーランドの自国第一主義から何を学ぶか 2026年10月23日
本稿の出発点となった論考である。国境管理と人道保護を区別し、受け入れの主導権を国家が握るポーランドの姿勢から、我が国が学ぶべきものを論じた。

パリとミラノで暴動——欧州の移民政策から日本は何を学ぶべきか 2026年10月20日
欧州の騒乱と社会統合の困難を検証し、移民を受け入れる前に、受け入れそのものの必要性を問うべきだと論じた。供給力再建を先に置く順序は、本稿にも通じる。

高市首相の十勝AI農業特区――北海道を強く豊かにし、何を未来へ残すのか 2026年10月11日
AIとロボットで生産性を高め、人口が減っても産業と暮らしを維持する道を示した記事である。人手不足への答えは、外国人を増やすことだけではない。

AIが現場に出る時代――日本を守るのは「安さ」ではなく責任と常若だ 2026年7月17日
AIが工場、農業、介護の現場へ出る時代に、安さではなく責任と技術で国を守る道を論じた。省力化による供給力再建の考え方の土台になる一篇である。

外国人412万人時代――日本は「移民国家ではない」という嘘をいつまで続けるのか 2026年4月25日
「移民政策は取っていない」と言いながら進んだ受け入れ拡大を、総量と入口管理の観点から問うた論考である。本稿は、その数字が428万人へ更新された現在地から書かれている。

2026年10月23日金曜日

欧州の移民政策が揺らぐ今、我が国はポーランドの自国第一主義から何を学ぶか

 

まとめ

  • ポーランドの公式人口は2025年末で約3733万人である。約110万6000人の外国人就労者と約93万9000人のウクライナ避難民の一時的保護は、同国にとって決して小さな規模ではない。
  • 新規の経済移住・長期在留の拡大は原則ではない。国益と社会の持続性に照らし、必要性を立証できる場合だけ例外的に認めるべきである。
  • 我が国は、安価な外国人労働力への依存を先行させず、賃金、技能、AI・ロボット、地域産業への投資で供給力を再建すべきである。

欧州の移民政策は、いま大きく揺れている。問われているのは、外国人を受け入れるか否かという感情論ではない。誰を、どの条件で、どの規模まで受け入れ、その結果として国民生活、治安、社会的信頼、国家の供給力を守れるのかという、国家運営の問題である。

この問いに、ポーランドは早くから独自の答えを示してきた。国境を守り、不法越境は許さず、受け入れの条件と規模は国家が決める。ただしポーランドを「外国人を一律に拒む国」と見るのも誤りである。必要な保護と不法越境への対処を、別の問題として扱っているからだ。

我が国が学ぶべきなのは、ポーランドの制度をそのまま輸入することではない。国境、在留制度、労働市場、住宅、教育、治安を、自国の責任で設計するという国家の姿勢である。

1️⃣壁は排外の象徴ではない――歴史がつくったポーランドの国境観

ポーランドを理解するには、歴史を避けて通れない。18世紀末には周辺列強による分割で国家そのものを失い、20世紀にはナチス・ドイツとソ連による侵攻、占領、支配を経験した。

ドイツ占領下では、単に領土が奪われただけではない。ポーランドの指導層、聖職者、教師、知識人が殺害・投獄され、住民は強制労働へ送られ、民族と文化の基盤そのものを壊す政策が進められた。米国ホロコースト記念博物館は、ドイツの占領政策がポーランド国家と文化の破壊を目指したことを記録している。ワルシャワ蜂起の鎮圧後、都市中心部が破壊された経験も、国家の存続を当然視しない国民意識につながっている。

戦禍からの復興と国家の記憶を表した、ポーランドの歴史的市街のAI生成イメージ
この歴史を知れば、ポーランドが国境を単なる通関地点とは見ない理由が分かる。国境は、国家の連続性、共同体の安全、次世代の生活を守る最後の線なのである。

その姿勢が最も明確に現れたのが、ベラルーシ国境である。ポーランド政府は、同国境の越境圧力を単なる移民問題ではなく、国家が関与した「移民の道具化」を含む安全保障問題と位置付けた。2022年に完成した物理的障壁は約186km、高さ5.5mであり、電子監視は206kmをカバーする。ポーランド内務行政省によれば、物理的障壁と監視システムは一体で運用されている。

2026年1月から5月に記録された不法越境の試みは215件で、前年同期の1万600件超から大幅に減ったと政府は公表している。同省発表は、壁、監視、緩衝地帯、警備態勢を組み合わせた効果を強調する。ここで重要なのは、壁そのものを万能視することではない。国家が「不法越境を既成事実にしない」という意志を示し、制度と実力を結び付けたことである。

2️⃣人口約3,735万人の中堅国が築いた国力――産業、教育、防衛

ポーランドは人口大国ではない。外務省の基礎データによれば、人口は約3,735万人である。外務省によれば、2025年11月時点でも人口減少と高齢化の圧力を受けている。少子高齢化は、ポーランドだけの問題ではない。

ポーランドの製造業、理工教育、防衛力を概念化したAI生成インフォグラフィック クリックすると拡大します

にもかかわらず、ポーランド経済は欧州で存在感を増してきた。欧州委員会は2025年の実質GDP成長率を3.6%と整理し、2026年も3.5%の成長を見込んでいる。欧州委員会の経済見通しである。成長の原因を移民の少なさだけに求めるのは乱暴だ。EU加盟後の投資、製造業の集積、インフラ整備、近隣市場との結び付き、教育水準の改善が重なった結果である。

製造業の雇用比率は2022~24年平均で19.1%と、EU平均の15.6%を上回る。欧州委員会の国別イノベーション指標は、ポーランド経済に産業的な厚みが残っていることを示す。加えて、25~34歳のうち修士相当以上の学位を持つ人の比率は31%で、OECD平均の16%を大きく上回る。OECDの数字である。

防衛も同じである。NATOの2025年推計では、ポーランドの防衛支出はGDP比4.48%であり、同盟国の中でも突出する水準にある。NATOが示すこの数字は、ポーランドが安全保障を抽象論ではなく、予算、装備、訓練、産業基盤の問題として扱っていることを物語る。

ここで見落としてはならない事実がある。ポーランドは「外国人を受け入れない国」ではない。2026年5月末、ウクライナから逃れた人々のうち、ポーランドで一時保護を受けていた人は約96万8,000人であった。Eurostatによれば、人口1000人当たりでは26.5人に達する。

つまりポーランドは、不法越境を許容しない一方、戦争から逃れる隣国民には、時限的な保護制度で対応してきた。これは矛盾ではない。国境管理と人道保護を、無制限の定住受け入れへ短絡させないということである。受け入れは国家の制度に基づくものであり、目的、期間、資格、負担の所在を明確にする必要がある。

我が国とポーランドの関係も深まっている。2026年には両国関係が包括的・戦略的パートナーシップへ格上げされ、経済安全保障、技術、欧州とインド太平洋の安全保障をめぐる連携が確認された。日・ポーランド首脳会談は、ポーランドを遠い欧州の一国として眺めるだけでは不十分であることを示している。

3️⃣ 我が国の選択――不必要な移民を既定路線にせず、供給力を再建する

我が国はポーランドとは異なる。ポーランドは陸続きの国境を持ち、侵略、占領、避難民、人口移動に何度も直面してきた。大規模な移住への対処が、良くも悪くも歴史の中で形成されてきた。

我が国は島国である。海と空港を通じた入国管理が中心であり、陸上国境の壁をそのまま模倣する必要はない。むしろ港湾、空港、在留管理、警察、自治体、教育、社会保障を連動させ、入国から在留、更新、退去までを一貫して管理する仕組みを磨くべきである。

海の国境管理を象徴する巡視船のAI生成イメージ
島国であることへの過信は禁物である。海があるから自動的に国境が守られるわけではない。制度が曖昧で、違法滞在や資格外活動を放置し、受け入れの規模を産業界の短期的要請だけで決めれば、島国であっても秩序は崩れる。

出発点は明確である。不必要な移民を、少子高齢化への安易な処方箋として受け入れないことだ。人手不足があれば、まず賃金、技能訓練、労働環境、設備投資、地方交通、住宅、子育て支援を見直すべきである。人が足りないから外国人を増やすという発想は、企業の投資不足と低賃金構造を温存しかねない。

AIとロボット化の役割も大きい。ただし、AIやロボットは少子高齢化そのものを消す魔法ではない。必要なのは、高齢化の下でも生産性と供給力を落とさない経済への転換である。工場、物流、農業、建設、医療事務、介護補助、行政手続に技術を実装し、人間は判断、責任、対人ケア、技能継承に集中する。これは人間を機械に置き換える政策ではない。国民生活を支える仕事を、少ない担い手でも維持できるようにする国家資産形成である。

在留資格についても、曖昧な「永住の既得権」意識を改める必要がある。在留は、受け入れ国の法令と国益判断に基づく地位であり、虚偽申請、重大な法令違反、許可条件の不履行には取消しや退去強制の制度が必要である。我が国の入管制度にも在留資格取消しの仕組みがあり、近年は永住者についても一定の義務違反や故意の公租公課不払いを取消事由に加える改正が行われた。出入国在留管理庁は、個別事情を踏まえて判断する方針を示している。

ただし、法治国家は、許可期間の途中で国家が恣意的に「今日から違法」と遡及指定することまで許すものではない。予見可能な条件を法律で示し、違反があれば手続を経て取消す。この厳格さこそが、国家の裁量を持続可能にする。難民条約のノン・ルフールマン原則も、迫害などの危険がある場所への送還を禁じている。UNHCRの原則を守りながら、入国・在留の条件を厳格に運用することは両立する。

EUの制度についても、事実を取り違えてはならない。2015年の再配置制度を決めたのは「欧州評議会」ではなく、EUの閣僚で構成される「欧州連合理事会」である。欧州評議会はEUの機関ではない。EU理事会の説明が明確に区別している。また、この再配置制度はスロバキアとハンガリーが争ったが、EU司法裁判所は2017年に取消訴訟を退けた。EU司法裁判所によれば、これを「国際法違反」と断定するのは正確ではない。

だからこそ批判の焦点も明確にすべきである。問題は、受け入れ数をめぐる政治判断、治安・統合・財政への影響、地方共同体の負担、そして国民の同意をどのように扱ったかである。制度の決定主体と責任の所在を曖昧にしたまま、「国際協調」の名で国民国家の統治能力を弱めてはならない。

結語

ポーランドの教訓は、壁を造れば全て解決するという話ではない。国家は誰を守るのか、国境を誰が管理するのか、人口減少を何で補うのかを、自国の歴史、地理、産業、国民生活に即して決めなければならない、という教訓である。

我が国は、必要のない移民受け入れを既定路線にしてはならない。国境と在留制度を厳格に管理し、真に保護すべき人には期間と条件を明確にした制度で対応する。その上で、賃金、投資、教育、AI、ロボット、エネルギー、地方交通を立て直し、少子高齢化の下でも供給力を維持できる国をつくる。

国境を守ることと、国際社会で責任を果たすことは対立しない。自国の秩序と国民生活を守る力を持つ国家だけが、必要な時に、必要な相手へ、持続可能な支援を行えるのである。

主要出典

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パリとミラノで暴動——欧州の移民政策から日本は何を学ぶべきか 2026年10月20日

欧州で顕在化した治安・統合の問題を踏まえ、我が国が安易な労働力輸入ではなく、国内の賃金・投資・自動化を優先すべき理由を考える。

人口減少の北海道を救うもの――上士幌が示すAI・エネルギー・神社という地方創生 2026年9月20日

人口減少への答えを、際限のない人口流入ではなく、AI、エネルギー、地域の仕事と共同体を再建する力に求める論考である。

AIが現場に出る時代――日本を守るのは「安さ」ではなく責任と常若だ 2026年7月17日

AIとロボットが工場、介護、医療、防衛の現場へ入る時代に、人間の責任と国民生活の基盤をどう守るかを論じる。

移民に揺らぐ欧州──「文明の厚みを失わぬ日本」こそ、これからの世界の潮流になる 2025年11月30日

治安、信頼、制度、文化という我が国の「文明ストック」を、目先の労働力不足を理由に損なってはならないという視点を示す。

ドイツ、移民政策厳格化の決議案可決 最大野党の方針転換が物議―〖私の論評〗2025年ドイツ政治の激変:AfD台頭と欧州保守主義の新潮流 2025年1月31日

ドイツ政治で移民政策の厳格化が主要争点となった背景を追い、欧州で進む保守政治の再編を読む。

2026年10月22日木曜日

ChatGPTが犯罪を発見、AIが重大な欠陥を暴く——私たちもAIで身を守れるか

 まとめ

  • ChatGPTが犯罪捜査を支援! 警視庁がAIで種苗法違反の疑いがある投稿を発見。犯罪捜査のあり方が変わり始めた。
  • AIが世界のネットを脅かす重大欠陥を発見! PHPの深刻な脆弱性をAIが発見。攻撃だけでなく、防御にもAIが威力を発揮する時代が到来した。
  • 犯罪者だけにAIを使わせてよいのか? 詐欺メール、偽サイト、不審な取引。一般国民もAIを使い、自分と家族を守る具体的な方法がある。

2026年10月21日、AIの可能性を示す2つのニュースが報じられた。警視庁がChatGPTを捜査に活用し、シャインマスカットなどの苗を無許可で出品・譲渡した疑いのある事件を発見したこと。そして、世界中のウェブサイトを支えるプログラミング言語「PHP」の重大な欠陥が、米OpenAIのAIなどを活用した研究によって発見されたことである。

前者は農業分野の知的財産を守る種苗法違反事件であり、後者は世界のインターネットに影響するサイバーセキュリティ問題である。一見無関係だが、両者には重要な共通点がある。人間が膨大な情報の中から見つけることが難しかった問題をAIが発見し、捜査や防御につなげたことである。

これまでAIについては、詐欺メールの作成、偽画像・偽音声の生成、サイバー攻撃への悪用など、その危険性が強調されてきた。もちろん警戒は必要だ。しかし、AIを犯罪者に有利な技術としてばかり捉えるのは一面的である。犯罪者がAIで攻撃能力を高めるのであれば、防御する側もAIを使いこなすべきではないか。

私は10月19日の記事「札幌市の情報公開条例が改正――住民は地方政治をどう監視すべきか」で、OSINT(公開情報の収集・分析)とAIを組み合わせれば、一般住民でも地方行政の実態を検証できることを論じた。今回の2つのニュースは、その考え方が犯罪の兆候の発見やサイバー犯罪の予防にも応用できることを示唆している。

AIは専門家だけの武器ではない。一般の国民も、自分と家族を守るために活用できる時代になりつつある。

1️⃣ChatGPTによる捜査とPHPの重大欠陥——AIは何を発見したのか

AIが犯罪の兆候や重大な欠陥を発見し、人間が検証・対応する仕組み(AI生成画像)クリックすると拡大します。

10月21日、警視庁久松署は、種苗法違反の疑いで男性2人を書類送検した。事件の発見に役立ったのが、ChatGPTを利用したサイバーパトロールである。

時事通信の10月21日付報道によれば、石川県能美市の自営業の男性(61歳)は2025年5月、インターネット掲示板にシャインマスカットの苗を1本1500円で譲渡すると投稿し、育成者権を侵害した疑いが持たれている。福島市の会社員の男性(45歳)は、イチゴの登録品種「桃薫(とうくん)」の苗を無許可で2人に計21株譲渡するなどした疑いがある。報道によれば、2人は容疑を認めている。

捜査員はChatGPTを使い、インターネット上の膨大な投稿から種苗法違反が疑われる情報を抽出していた。その過程で2人の投稿を発見したという。

農林水産省の説明によれば、育成者権が存続する登録品種を権利者の許諾なく増殖し、販売・譲渡する行為などは、原則として育成者権の侵害に当たる。優良品種は長年の研究と投資によって生まれる農業上の知的財産であり、その保護は我が国の農業技術と国際競争力を守ることにもつながる。

注目すべきなのは、AIが捜査官の調査能力を高めたことである。インターネット上の売買情報は膨大であり、人間だけですべてを調べることは容易ではない。AIが疑わしい投稿を抽出すれば、捜査員は確認すべき対象を絞り込める。

もちろん、AIが犯罪を認定したわけではない。投稿を発見した後、事実関係を調査し、証拠を確認して書類送検したのは警察である。AIの役割は、人間の判断を代替することではなく、その能力を拡張することにある。

もう1つのニュースも、同じ可能性を示した。

10月21日、PHPの開発チームは、重大な脆弱性2件を修正した更新版を公開した。PHPはWordPressなどにも利用されるプログラミング言語であり、企業のウェブサイトや通販サイトをはじめ、多数のオンラインサービスを支えている。

PHP公式の緊急発表によれば、今回の2件は深刻度を示すCVSSバージョン4.0で9.2と評価された。条件が整えば、攻撃者がログインせずにサーバー上で不正なプログラムを実行できる危険がある。欧州では政府機関のウェブサイトが予防的に停止されるなど、影響が広がった。ただし、予防的な停止は、実際に不正侵入や情報流出が発生したことを意味しない。

そして、この重大な欠陥の発見にもAIが関わっていた。

OpenAIが10月21日に公表した公式報告によれば、セキュリティ企業Califは、OpenAIのAIモデル「GPT-5.6 Sol」を利用して重大な欠陥を発見した。一方、Google傘下のセキュリティ企業Wizも独立した調査で2件の脆弱性を発見・報告していた。Wizの研究にもAIが活用されている。

今回の発見はOpenAIだけの成果ではない。複数の研究者とAIシステムが問題の解明に貢献し、PHP開発チームが修正作業と更新版の公開を主導したのである。10月21日には、PHP 8.5.12、8.4.27、8.3.36、8.2.35が公開された。

重要なのは、AIが問題を発見しても、それだけでは社会の安全性は向上しないという点である。脆弱性を検証し、修正し、実際のサーバーに更新を適用するまで、人間の組織が責任を持って行動しなければならない。

今回の2つの事件は、その対象も規模も異なる。しかし、AIが問題を見つけ、人間が検証し、権限と責任を持つ組織が対応するという構造は共通している。 ここに、犯罪の発見と予防にAIを活用する重要な可能性がある。

2️⃣AIとOSINTを組み合わせれば、一般国民の調査能力も変わる

AIによる調査は、警察やセキュリティ企業だけのものではない。一般の国民も、公開情報の収集と分析にAIを活用できる。

私は10月19日の記事で、OSINTを使った地方政治の監視について論じた。OSINTとは、公開された情報を収集・照合し、事実関係を明らかにする手法である。安全保障や情報機関の分野で広く知られているが、特別な調査権限を持たない住民にも利用できる。

例えば、自治体の議会会議録、予算書、決算書、契約結果などを比較すれば、政策決定の経緯や予算執行の実態を検証できる。AIを活用すれば、膨大な資料から必要な情報を抽出し、年度ごとの変化や説明の食い違いを調べる負担を軽減できる。

ただし、AIが疑問点を指摘したことと、不正が立証されたことは異なる。元の資料を確認し、誰が決定権限を持ち、どの手続きによって決定されたのかを明らかにしなければならない。国会議員が予算配分に影響を及ぼした可能性と、行政機関が正式に配分を決定した事実も区別する必要がある。

この原則は、今回の種苗法違反事件にも通じる。一般の利用者も、インターネット上で疑わしい取引を見つけた場合、AIで関連制度を調べ、行政機関の公表情報と照合できる。違法の疑いがあれば、根拠を整理して警察や権利者、販売サイトの運営者などに情報を提供することも可能である。

もっとも、一般の利用者に捜査権限が与えられるわけではない。AIの判断だけで相手を犯罪者と決めつけたり、個人情報を拡散したりしてはならない。AIは疑惑を広める道具ではなく、事実を確かめる道具として使うべきである。

そして、この考え方はサイバー犯罪の予防にも応用できる。

近年の詐欺メールや偽サイトは巧妙化している。生成AIを使えば自然な日本語の文章を容易に作れるため、文章が丁寧であることだけでは本物と判断できない。実在する企業や行政機関を装い、緊急の対応を迫る手口もある。

サイバー攻撃でも同様だ。今回のPHP問題が示したように、AIはソフトウェアの弱点を発見する能力を高めつつある。その能力が攻撃者にも利用されれば、防御側に残された対応時間はさらに短くなるおそれがある。

OpenAIも今回の公式報告で、AIによる脆弱性発見の能力が攻撃にも転用され得ることを指摘している。

ならば、防御する側がAIの利用をためらっていてよいはずがない。

警察は犯罪の兆候を探す。企業は自社システムの弱点を調べる。行政は大量の情報から異常を把握する。そして一般の国民は、不審な連絡や取引をAIで確認し、被害を避けるための判断材料を得る。

用途や権限は異なるが、AIによって情報分析能力を高めるという点では共通している。

犯罪者がAIを使う時代に、防御する側だけが従来の方法にとどまる必要はない。国家も企業も国民も、それぞれの立場でAIを防御に活用すべきである。

3️⃣一般の利用者は今日から何ができるのか——AIを日常の防御に使う

AIを犯罪予防に活用するために、高度なプログラミング技術を身につける必要はない。日常生活で不審な情報に接したとき、AIを確認の補助手段として使うことから始めればよい。

詐欺メールや偽サイトなどから自分と家族を守る、AIを活用した5つの防御策(AI生成画像)。クリックすると拡大します。

第1に、不審なメールやSMSの分析である。

例えば、宅配業者を装った「荷物を配達できませんでした」というSMSや、金融機関を名乗る「口座が停止されます」というメールが届いたとする。そのままリンクを開くのではなく、個人情報や認証情報を削除した文面をChatGPTなどに提示し、詐欺の兆候がないか分析させるのである。

質問は簡単でよい。

「このメールに詐欺の兆候がないか分析してください。不審な点と、公式情報で確認すべき項目を教えてください。判断できない部分は断定しないでください。」

AIは、緊急性を強調する表現や不自然な要求など、見落としていた問題点を指摘する助けになる。ただし、AIが安全だと回答しても、それだけで信用してはならない。警察庁のフィッシング対策でも、メールやSMSのリンクを安易に開かず、公式サイトや公式アプリから確認するよう呼びかけている。

第2に、怪しい通販サイトや取引の確認である。

著しく安い商品、実在する企業を装った広告、販売者の実態が分からないサイトなどに遭遇した場合、AIを使って確認項目を整理できる。販売会社の所在地、連絡先、返品条件などを調べ、公式情報と照合するのである。

ただし、AIが販売者の信用を保証できるわけではない。検索結果には誤情報も含まれるため、複数の情報源を確かめ、疑わしい場合は取引を控えることが賢明である。

第3に、利用しているサービスの安全性の確認である。

今回のPHP問題は、その重要性を示している。個人や中小企業がウェブサイトを運営している場合、サーバー会社から届いたセキュリティ情報をAIに説明させ、必要な対応を整理できる。

例えば、「今回のPHPの脆弱性について、サイト運営者が確認すべき項目を分かりやすく説明してください」と質問すればよい。PHPのバージョン、更新の必要性、サーバー会社の対応状況などを理解する手掛かりになる。

ただし、AIに質問しただけで脆弱性が修正されるわけではない。実際の更新は、管理権限を持つ運営者やサーバー事業者が行う必要がある。

第4に、OSINTとAIを組み合わせた公開情報の検証である。

利用している金融機関のセキュリティ情報、自治体のシステム障害、企業の個人情報漏洩に関する発表などをAIで整理し、過去の説明と比較することができる。何が変わり、何が確認されていないのかを明らかにすれば、行政や企業に具体的な質問をすることも可能になる。

これは単なる犯罪予防にとどまらない。国民が行政や企業の説明を自ら検証し、説明責任を求める能力を高めることにもつながる。

もっとも、通常のAIとの会話が自動的な継続監視になるわけではない。定期的な確認には、利用するサービスの通知機能や定期実行機能などの設定が必要である。

第5に、基本的な安全対策を怠らないことである。

AIが優れていても、ソフトウェアの更新、パスワードの適切な管理、パスキーや多要素認証、重要データのバックアップに代わるものではない。こうした基本対策を確実に行ったうえで、AIによる情報分析を加えるべきである。

また、AIに相談する際には、パスワード、本人確認書類、秘密情報、他人の個人情報などを不用意に入力してはならない。安全確認のために新たな情報漏洩を招いては本末転倒である。

ここまでの対策は、特別な専門知識がなくても始められる。AIを万能視せず、その回答を公式情報と照合し、必要な行動につなげればよい。

政府や自治体も、こうしたAIの安全な利用方法を国民に周知し、相談・通報の仕組みを分かりやすく整えるべきである。企業には、自社のシステムを安全に維持し、重大な脆弱性が発見された場合には迅速に対応する責任がある。

国家、企業、国民がそれぞれの責任に応じてAIを防御に活用することが、我が国全体のサイバー安全保障を強化することにつながるのである。

結論——AIを犯罪者だけの武器にしてはならない

今回の2つのニュースは、AIが犯罪の発見と防御に役立つことを具体的に示した。

警視庁はChatGPTを使って種苗法違反が疑われる投稿を発見し、捜査を経て2人を書類送検した。PHPの問題では、AIを活用した研究によって重大な欠陥が明らかになり、開発チームによる修正につながった。

いずれも、AIが単独で問題を解決したわけではない。AIが発見を支援し、人間が検証し、権限と責任を持つ組織が対応したのである。

この仕組みは、専門家だけのものではない。一般の利用者も、AIによって不審なメールを分析し、疑わしい取引を調べ、利用しているサービスの安全情報を確認できる。OSINTと組み合わせれば、行政や企業の説明を自ら検証する能力も高められる。

もちろん、AIには誤りがあり、専門的な防御装置や警察の捜査を代替するものではない。しかし、完全ではないからといって利用しないのは合理的ではない。

サイバー攻撃が高度化し、犯罪者もAIを利用する時代である。防御する側だけが過去の方法にとどまれば、危険を発見する能力や対応速度に差が生じかねない。

これは個人の安全だけの問題でもない。農業の育成者権を守ることは、我が国の知的財産と将来の農業生産力を守ることにつながる。サイバー攻撃を防ぐことは、企業活動や行政サービスを維持し、国民生活と経済活動の基盤を守ることにつながる。国民自身が情報を検証する能力を高めることは、行政や企業の説明責任を支える力にもなる。

AIを犯罪者だけの武器にしてはならない。防御する側も、AIを積極的に使いこなすべきである。

警察は捜査に、企業は安全対策に、行政は国民生活を守るために、そして国民は自分と家族の安全を確保するためにAIを利用する。

AIに無条件で依存するのでも、恐れて遠ざけるのでもない。その能力と限界を理解し、事実を確かめ、具体的な防御行動につなげるのである。

犯罪への対処を専門家だけに委ねるのではなく、国民一人ひとりがAIを使って自らを守る。その力を社会全体の防御につなげることこそ、AI時代の安全保障に求められる発想である。

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2026年10月21日水曜日

高市政権発足1年——「バラマキ」批判と緊縮が見落としてきた日本経済の損失

まとめ

  • 「バラマキ」より深刻なのは、必要な支出をしないことで失われる富だ。 ケチャップを買うだけでも需要は生まれ得る。では、財政支出を抑えることで、我が国はどれほどの成長機会を失ってきたのか。
  • 消費税減税の意味は、家計支援だけではない。 消費税導入以来、税率引上げが続いてきた財政運営に「減税」という現実の選択肢を加えることだ。高市政権の成長投資と組み合わせれば、需要と供給力の双方を強化する政策となり得る。
  • なぜ必要な財政支出まで「バラマキ」と批判されるのか。 石破政権期からの財政転換を踏まえ、支出の負担だけでなく、支出しないことの損失を報道は十分に伝えてきたのか。その責任を問う。

極端な例を挙げよう。政府がトマトケチャップを大量に購入したとしても、それが追加需要となれば、生産や物流に仕事が生まれ、所得が増える可能性がある。一見無駄に見える支出でさえ、需要不足の経済では生産と雇用を支える効果を持ち得るのである。もちろん、ケチャップを買い込むより、港湾、電力設備、研究開発などに投資する方が、将来の供給力も高められる。重要なのは、支出額の大小だけで政策を判断せず、支出することの効果と、支出しないことの損失を比較することである。

高市政権が進める消費税減税と成長投資は、家計の購買力と国内の供給力の双方に働きかける政策である。しかし、高市政権はこれを白紙から実行できる状態で発足したわけではなかった。石破政権期に決定された財政方針と予算編成上の制約を引き継いでいたのである。この1年間で何が変わったのか。そして、その変化を報道機関は正確に伝えてきたのか。

2️⃣ケチャップでも需要は生まれる——政府支出の基本原則

かつて米国の経済学者ベン・バーナンキが、日本銀行に対し、金融緩和のためならトマトケチャップでも買えばよいと提案したという逸話が広まった。ただし、2013年の米紙ワシントン・ポストの検証では、実際には経済学者ジョン・テイラーが用いた比喩だった可能性が高いとされた。しかも、元の話は中央銀行による金融政策の説明であり、政府の財政支出とは区別する必要がある。

ワシントン・ポスト・ケチャップ発言の検証

ただし、政府が大量のトマトケチャップの購入によってでも需要は生み出せるというのは事実である。

政府支出が生み出す需要の連鎖。需要不足時には、支出を控えることも経済を停滞させる AI生成画像

政府支出による需要創出については、ケインズの説明が直接的である。ケインズは1936年の『雇用・利子および貨幣の一般理論』第10章で、瓶に紙幣を詰めて廃坑に埋め、民間企業に掘り出させるという極端な例を挙げた。失業が存在する状況では、一見無意味な仕事でも雇用と所得を生み得るという説明である。同時に、住宅建設など社会的に有益な事業の方が望ましいとも明記している。

ケインズ『雇用・利子および貨幣の一般理論』原文

ここに有効需要の重要な原則がある。経済は、生産能力が存在するだけで十分な生産が実現するわけではない。商品を買う人がいなければ、企業は生産を減らし、設備投資を控え、雇用も抑制する。所得が減れば消費も減り、需要不足がさらに深刻になる。

こうした状況で政府が追加支出を行えば、企業の売上げと雇用を支え、そこで生まれた所得が次の消費につながる。反対に政府まで支出を控えれば、働く意欲のある人や利用可能な生産設備を遊ばせたまま、経済の停滞を長引かせる恐れがある。需要が不足しているとき、支出しないことにも大きな損失がある。この機会費用を無視して、政府支出を一律に「バラマキ」と批判するのは、経済政策の評価として不十分である。

もちろん、どのような支出でも正当化されるわけではない。反社会的組織への利益供与や公共性を欠く事業は、取引が増えるからといってもいずれは社会を毀損することなるので認められない。また、労働力や原材料が不足している状況では、追加需要が生産増加より物価上昇につながる場合もある。必要なのは、経済の状態に応じた支出である。需要が不足していれば需要を補い、供給力が不足していれば生産能力を高める。両方の問題があれば、双方に働きかける政策を組み合わせるのである。

無駄な支出を避けることと、必要な支出を怠らないことは矛盾しない。それこそが財政政策に求められる判断である。

2️⃣石破政権の「負の遺産」から何を変えたのか——減税と成長投資への転換

2025年10月21日に高市政権が発足した時点で、政府の財政運営は石破政権期の骨太方針2025を基礎としていた。同方針は、2025年度から2026年度を通じて、可能な限り早期のプライマリーバランス(PB)黒字化を目指していた。

内閣府・骨太方針2025

PB(プライマリー・バランス:基礎的財政収支)とは、国債の元利払いを除いた政策的な支出を、税収などでどこまで賄えているかを示す指標である。財政管理には必要だが、PBの黒字化だけでは経済成長も国民生活の改善も保証されない。石破内閣は2025年8月8日、2026年度予算の概算要求基準を閣議了解し、9月には各省庁が予算要求を提出していた。高市政権は、前政権の方針に基づく予算編成がすでに進んだ段階で発足したのである。

本稿では、この財政政策上の制約を石破政権から引き継いだ「負の遺産」と位置付ける。ただし、PB黒字化目標自体は石破政権以前から続いており、石破政権も成長投資を否定していたわけではない。問題は、新政権が独自の財政運営へ転換するまで、従来の予算編成方針が残っていたことである。

 増税中心の財政運営から、減税も選択肢とする政策へ。需要と供給力の強化を目指す AI生成画像
本ブログは2026年1月20日、「高市解散は『政局』ではない──予算と政策、そして世界秩序の転換点を読み違えるな」で、解散総選挙の意味を、国家の予算と政策の方向を国民に問う問題として論じた。解散は財政方針を変更するための法律上の必要条件ではない。しかし、新しい政策への信任を求め、国会での議席基盤を確保する政治的な意味があった。2026年2月8日の総選挙で、自民党と日本維新の会は衆議院における議席基盤を大きく拡大した。

もっとも、2026年度当初予算は選挙後に全面的に編成し直されたわけではない。2025年12月26日に高市内閣が閣議決定した政府案が、2026年4月7日に成立した。石破政権期の予算要求を出発点としながら、高市政権自身の政策判断も反映した予算である。

首相官邸・2026年4月7日 2026年度予算成立についての会見

財政運営の基本方針が明確に転換したのは、その後である。2026年1月22日、高市首相は単年度PB黒字化目標の扱いを見直し、数年単位で確認する方向を示した。6月25日には、国・地方の総債務残高対GDP比を安定的に引き下げることを財政運営の中核目標とし、PBを複数年で改善・管理する方針を示した。そして7月21日、この考え方が「責任ある積極財政」を掲げる骨太方針2026として閣議決定された。

首相官邸・2026年6月25日 経済財政諮問会議

内閣府・骨太方針2026

これは財政規律を放棄したという意味ではない。単年度のPBだけでなく、経済成長と債務残高の関係、金利、利払い費などを総合的に確認する財政運営への転換である。さらに7月30日、内閣は2027年度予算の概算要求基準を閣議了解した。通常歳出とは別に「強く豊かな日本」投資枠を設け、危機管理投資や成長投資について一律の要求上限を設定せず、必要な額を要求できる仕組みとした。

財務省・2027年度概算要求と新たな投資枠

要求上限がないことは、支出が無条件に認められることを意味しない。各省庁の要求は政府内で査定・調整され、内閣が政府予算案を作成し、最終的に国会が議決する。この権限関係は従来と変わらない。ここで重要なのは、政府支出を単年度の費用としてだけでなく、将来の供給能力や国家資産の形成につなげるという考え方である。

半導体、AI、エネルギー、造船、食料、宇宙などの分野では、長期的な設備投資や技術開発が欠かせない。これらへの投資は、現在の需要と雇用を生むだけでなく、国内の生産能力を高め、経済安全保障の強化にもつながる可能性がある。ただし、政府支出のすべてが国家の保有資産になるわけではない。公共インフラ、民間設備、技術、人材など、実際に形成されるものを区別して成果を評価する必要がある。

ここに消費税減税と成長投資を組み合わせる意義がある。消費税減税は、価格への反映を通じて家計の購買力を支え、消費需要を下支えする。一方、成長投資は現在の仕事を生むと同時に、将来の供給能力を高める。両者は対立する政策ではなく、需要と供給の双方に働きかける政策である。

しかも、消費税減税には、需要喚起を超える重要な意味がある。1989年の消費税導入以来、我が国では税率の引上げが繰り返され、税率を引き下げるという選択肢は実現してこなかった。今回の減税法案は、その長年の流れを転換し、景気や国民生活の状況に応じて消費税を引き下げるという選択肢を、現実の政策として示したのである。財政政策とは、増税か歳出削減だけではない。必要に応じて減税し、需要を支え、経済成長を促すこともできる。この当たり前の選択肢を取り戻すことに、今回の減税構想の重要な意義がある。

高市政権はガソリン・軽油の暫定税率廃止を実施し、2026年10月9日には、飲食料品の消費税率を2027年4月から2年間、8%から1%へ引き下げる法案を閣議決定し、国会に提出した。後者は10月20日時点で成立しておらず、実施済みの減税とは区別しなければならない。また、減税によって生まれる家計の余裕が、すべて国内消費に回るわけではない。消費需要への効果は、価格への転嫁、貯蓄、輸入品への支出などによって異なる。財源や物価への影響も検証する必要がある。

それでも、家計の購買力を支え、国内投資を促し、将来の供給力を高めるという政策の組み合わせには、明確な経済的合理性がある。2027年度予算は、高市政権が自ら定めた財政方針に基づき、こうした政策を具体化する重要な機会となる。過去の制度による支出は残るものの、予算編成の基本方針は新政権自身のものに切り替わった。問われるのは、支出を増やしたという事実ではない。その支出が民間投資を引き出し、雇用と所得を増やし、我が国の供給力をどこまで強化できるかである。

3️⃣「バラマキ」批判は何を見落としてきたのか——倒閣を意識した報道とその責任

政府が支出を増やそうとすると、「バラマキ」「財政規律の喪失」という批判が現れる。しかし、支出の効果を検証せず、金額が増えたという理由だけで否定するのは、経済政策の評価として不十分である。

需要不足のときには、支出しないことによって失われる生産と雇用がある。必要なインフラ整備を先送りすれば、現在の仕事だけでなく、将来の物流効率や防災能力を高める機会も失われる。研究開発を削れば、技術と人材が育つ機会を逃す可能性がある。無駄な補助金や公共性の乏しい事業は見直すべきであるが、必要な支出まで一律に抑えることが健全な財政運営とは限らない。無駄な支出を避けることと、必要な支出を怠らないこと。その両立こそが財政政策の要諦である。

財政拡大に反対する論評も、当然認められる。ただし、需要創出や供給力への効果、支出しないことの損失を検証せず、否定的な言葉だけで政策を片付けるなら、読者に十分な判断材料を提供したことにはならない。

「バラマキ」批判の陰で見落とされてきた、支出しないことの損失と生産・雇用の現実 AI生成画像
高市政権をめぐっては、報道関係者の政治的意図が表れた事案もある。2025年10月7日、時事通信社の男性カメラマンが高市氏について「支持率下げてやる」「支持率が下がるような写真しか出さねえぞ」と発言した。同社は10月9日、発言の事実を認め、本人を厳重注意し、報道の中立性と公正性に疑念を抱かせたとして謝罪した。

時事通信社・2025年10月9日公式発表

これは支持率を下げようとする意思が、報道関係者の発言として確認された事案である。発言が実際の写真配信や編集判断に反映されたかどうかは別途検証が必要であり、この事実だけで組織的な倒閣活動が立証されたわけではない。しかし、特定の政治的結果を意識する言動が報道現場に存在したことは軽視できない。

さらに2026年10月15日、日本経済新聞はG20財務相・中央銀行総裁会議をめぐり、中国側が主要7カ国の金利上昇を批判し、日米欧が守勢に回ったとする記事を掲載した。これに対して片山さつき財務相は、事前協議は行われておらず、中国に批判された事実もないとして記事を否定し、記者に取材根拠を問いただした。一方、日経側は取材に基づく報道との立場を維持している。

日本経済新聞・2026年10月15日 G20報道

J-CASTニュース・2026年10月16日 片山財務相と日経の対立

記事の内容を当事者が明確に否定した以上、その根拠がどのような事実に基づいているのかは検証されるべきである。取材源の保護は重要だが、記事の正確性について説明する責任とは別の問題である。

なお、上二つは典型的な事例であり、このような事例はあまた存在する。

ここで問われるのは、特定の政権を批判する自由ではない。批判の根拠となる事実と因果関係を、読者に正確に示しているかという問題である。高市政権の財政政策を評価するなら、石破政権期から引き継いだ予算編成上の制約、PB目標の見直し、2027年度予算への転換という経緯を無視できない。財政規律への懸念を論じるなら、債務残高対GDP比、金利、利払い費、物価などの指標を検証すべきである。

反対に、積極財政の成果を主張する側も、実際の投資、雇用、実質所得の改善を示さなければならない。政治的な結論を先に定め、それに合わせて事実を選ぶのであれば、報道は国民の判断を支える役割を果たせない。

日本新聞協会の新聞倫理綱領も、正確で公正な記事と責任ある論評を重視している。政府を監視することは報道機関の重要な役割だが、その報道自体も正確性と公正性について検証を受ける必要がある。政権を監視する報道機関もまた、国民による検証の対象となるのである。

結論 支出しない損失を直視し、需要と供給力をともに育てる国へ

高市政権発足から1年。この政策転換の意味は、政府支出を増やすか減らすかという議論だけでは理解できない。需要が不足しているとき、政府には適切な支出によって生産と雇用を支える役割がある。また、将来の供給力を高める投資を怠れば、成長の機会を失い、国益を損なう可能性もある。

石破政権期の財政方針と予算編成上の制約を引き継いで発足した高市政権は、この1年間で財政運営の目標と予算編成方式を変更した。2027年度予算は、新たな方針が概算要求の段階から反映される予算となる。

消費税減税によって家計の購買力を支え、成長投資によって国内の供給力を高める。この組み合わせは、需要と供給の双方に働きかける政策であり、経済状況に応じて適切に実施することには合理性がある。当然、支出の規模や時期、投資対象は検証しなければならない。現在の我が国には物価上昇や人手不足などの供給制約があり、無条件の財政拡大が適切とは限らない。しかし、必要な支出まで「バラマキ」として退けることもまた、経済の実態に即した判断ではない。

ケインズが極端な例を通じて示したのは、需要が不足しているとき、支出には生産と雇用を生み出す力があるという原則だった。我が国が目指すべきなのは、支出を抑えること自体を目的とする国でも、効果を問わず支出を拡大する国でもない。必要なときに必要な支出を行い、それを雇用、所得、技術、産業基盤という確かな成果につなげる国である。

その際、目先の需要を生み出すだけでなく、将来の供給力を育てることが重要になる。投資によって国内の生産能力が高まれば、経済成長に加え、重要物資の安定供給や国家の安全保障にも寄与する。高市政権の次の1年に問われるのは、新しい財政運営がそうした成果を実際に生み出せるかどうかだ。

政府支出の額だけではなく、国民生活をどれだけ改善し、将来の国家資産と供給力をどこまで形成できるか。支出を減らしたことではなく、必要な支出によって何を生み出したか。そこに、これからの財政政策を評価する基準がある。

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