2026年11月2日月曜日

朝日新聞のアマゾン水銀汚染報道に重大な欠落——独自調査で中国からの密輸経路を確認

まとめ

  • 朝日新聞のアマゾン水銀汚染報道に重大な欠落。 胎児への深刻な危険を伝えながら、違法金採掘を支える水銀の供給元には踏み込んでいない。
  • 独自調査で中国からの水銀密輸を確認。 ブラジル政府の一次資料を追跡し、中国の供給業者が関与した密輸と、パラ州にも及ぶ違法流通網を明らかにした。
  • 朝日新聞はなぜ中国に触れなかったのか。 汚染源の個別特定は未解明だが、公開済みの重要な事実を報じなかった理由と、報道機関の説明責任を問う。

2026年10月24日、朝日新聞with Planetは、ブラジルのアマゾンで深刻化する水銀汚染を報じた。11月1日には「水銀汚染で胎児にリスク『あなたが買う金が私たちを殺す』」という見出しでYahoo!ニュースにも転載された。違法な金採掘に使われる水銀が河川を汚染し、魚を食べる先住民の健康を脅かしているという内容である。

被害は深刻だ。妊婦の体内に蓄積した水銀は胎児の脳の発達に悪影響を及ぼす危険があり、幼い子どもにも運動機能や認知機能への影響が懸念されている。日本の水俣病を思い起こさせる事態であり、朝日新聞が現地を訪れ、被害者の声を伝えたことには意義がある。しかし、この記事には看過できない欠落がある。違法採掘に使われる水銀を誰が、どこから供給しているのかという問題に踏み込んでいないのだ。

実は、ブラジル政府は既に、中国の供給業者が関与した水銀密輸ネットワークを摘発している。中国由来とみられる水銀がアマゾンの違法採掘現場で確認されたことも、政府の公式報告書に記されている。これらは朝日新聞の記事が公開される以前から公表されていた事実である。それにもかかわらず、今回の記事には中国という国名が一度も登場しない。

なぜなのか。

朝日新聞は金を購入する消費者に責任を問いかけながら、違法採掘を支える水銀の供給網について説明していない。被害者の苦しみを伝えることは重要だ。しかし、汚染を生み出す経済構造や国際的な犯罪組織の活動を明らかにしなければ、被害を止めるために何が必要なのかも見えてこない。今回は、朝日新聞が伝えた被害の実態を確認したうえで、ブラジル政府の一次資料から中国の関与を検証し、報道機関が果たすべき役割を考える。

1️⃣アマゾンの水銀汚染は胎児にまで危険を及ぼしている

朝日新聞が取材したのは、ブラジル北部パラ州のタパジョス川流域にある先住民族ムンドゥルクの集落、サウレアボイである。この地域では金採掘に伴う水銀汚染が深刻化し、魚を主な食料とする住民の健康が脅かされている。

アマゾン地域の住民を対象とした毛髪水銀検査のイメージ AI生成画像
金の採掘では、砂や泥に含まれる微細な金を回収するため、水銀が使われることがある。水銀には金と結び付いて合金(アマルガム)を作る性質があり、これを利用して金を集める。その後、アマルガムを加熱して水銀を蒸発させ、金を取り出す。しかし、この過程で水銀蒸気が大気中に放出され、作業中に流出した水銀は河川や土壌を汚染する。環境中の水銀の一部は微生物の働きによって毒性の強いメチル水銀に変わり、魚に蓄積する。それを食べる住民の健康が脅かされるのである。

とりわけ危険なのが妊婦と胎児である。メチル水銀は胎盤を通過し、発達途中の胎児の神経系に影響することがある。母親に目立った症状がなくても、生まれてくる子どもの運動機能や認知機能の発達が損なわれる可能性がある。朝日新聞によると、ブラジルの研究機関オズワルド・クルス財団が2026年5月に発表した調査の速報値では、妊婦195人の毛髪水銀濃度は平均9.1ppm、最高39.9ppmに達した。財団が健康被害を避ける目安としている2ppmを大幅に上回る数値である。調査対象となった10集落のうち7集落では、財団が極めて高いリスクと判断する10ppm以上の値が確認された。

ただし、この数値だけで個々の胎児に障害が生じたと断定できるわけではない。朝日新聞の記事でも、医師たちは水銀曝露以外の要因にも注意を払いながら、妊婦と幼児の健康状態を追跡している。しかも、深刻な水銀汚染は最近になって判明したものではない。パウロ・バスタ医師らが2019年に実施したムンドゥルクの住民を対象とする研究では、サウレアボイ集落の調査対象者40人のうち87.5%で、毛髪水銀濃度が6ppm以上に達していた。この研究は2021年に公表されており、同集落で高濃度の水銀曝露が続いていることは以前から科学的に確認されていたのである。

朝日新聞の記事では、妊婦が肉食魚を避けようとする姿や、医師たちが住民に水銀の危険を教える取り組みが紹介されている。これらの努力は重要だ。しかし、住民が食生活を変えても、違法採掘が続けば汚染そのものは止まらない。しかも、金採掘による水銀汚染には、採掘業者が外部から持ち込む水銀だけでなく、森林伐採や掘削によって土壌中の水銀が河川に流出する経路もある。したがって、被害を防ぐには、水銀の違法流通を取り締まるとともに、汚染を引き起こす採掘活動そのものを抑えなければならない。

では、違法採掘に使われる水銀はどこから来るのか。その供給構造を調べると、中国の供給業者が関与する密輸ネットワークが浮かび上がってくる。

2️⃣ブラジル政府は中国からの水銀密輸を既に把握していた

2025年10月、ブラジル情報庁(ABIN)、環境省、ブラジル公共安全フォーラムは、『Mercúrio na Amazônia(アマゾンの水銀)』と題する合同報告書を公表した。この報告書の16ページには、重要な事実が記されている。中国は世界最大の水銀生産国であり、2018年から2024年までの公式輸出統計では、南米諸国に約41トンの水銀を輸出していた。さらに、ブラジルのアマゾンにある違法金採掘現場で、中国由来とみられる水銀が確認されたという。

報告書は、中国からブラジルへの正式な水銀輸入記録が存在しないことも指摘している。つまり、中国由来とみられる水銀が違法採掘現場で見つかっている一方、正規の輸入経路は確認できていないのである。ただし、約41トンという数字は中国から南米諸国全体への公式輸出量であり、ブラジルへの密輸量ではない。また、中国が世界の水銀輸出を独占しているわけでもない。ブラジル政府の報告書は、ボリビアやガイアナなどを経由する供給経路についても詳しく分析している。

それでも、中国の供給業者が違法流通に関与したことは、具体的な捜査によって裏付けられている。2026年8月14日、ブラジル連邦検察庁は大規模な水銀密輸事件について発表した。連邦検察庁によると、2019年から2022年にかけて、犯罪組織が約5.4トンの水銀を違法に売買していた。組織は中国とメキシコの供給業者から水銀を調達し、航空貨物でブラジルのヴィラコッポス空港へ送らせていた。ボリビアから陸路で持ち込む経路や、ブラジル国内の業者から調達する経路も使われていたという。

中国の供給業者が関与した水銀密輸ネットワークの概念図。ブラジル連邦検察庁の2026年8月14日の発表などを基に作成。中国由来の水銀がサウレアボイ集落に供給されたことは確認されていない。クリックす.s
拡大します。
組織は水銀を鉄製の球や廃材、機械部品などと偽って輸送し、架空会社や虚偽の書類を利用して流通させていた。筋力トレーニング用の重りやハンマーの内部に水銀を隠す手口も確認されている。こうして調達された水銀は、マットグロッソ州やパラ州の違法金採掘現場に販売されていた。パラ州は、朝日新聞が取材したサウレアボイ集落のある州である。

ただし、約5.4トンは中国産だけの数量ではなく、複数の調達元を含む組織全体の取扱量である。また、中国から送られた特定の水銀が、パラ州のどの鉱山へ届けられたかまで確認されたわけではない。公表された捜査結果をもって、サウレアボイ集落の汚染源を中国と断定することはできない。ここで区別すべきなのは、検察当局が捜査で把握した事実と、裁判で確定した事実である。連邦検察庁は事件の関係者を訴追し、連邦裁判所が刑事手続きを進めている。起訴されたこと自体が有罪確定を意味するわけではない。

しかし、中国の供給業者から水銀を調達し、ブラジルの違法採掘市場に流通させる密輸ネットワークが捜査対象となり、その具体的な仕組みが公表されていることは動かし難い事実である。

さらに2026年9月3日、ブラジル連邦検察庁はSNS上の違法な水銀販売広告についても発表した。検察庁はTikTok上で108件の関連投稿を確認し、その再生回数は合計580万回を超えていた。販売の連絡先には中国に関連付けられた電話番号も含まれていたという。実際の取引成立までは確認されていないが、違法な水銀販売がインターネットを通じても行われようとしている実態を示している。

こうした資料を総合すれば、中国からの水銀密輸を単なる憶測として扱うことはできない。もちろん、今回のサウレアボイ集落で使われた水銀の原産国まで中国と特定されたわけではない。しかし、それを理由に、ブラジル政府が確認している中国の供給業者との密輸取引まで無視してよいことにはならない。個別の集落における水銀の原産地が未解明であることと、中国の業者がアマゾン向けの水銀密輸に関与していたことは、明確に区別すべき問題なのである。

3️⃣朝日新聞はなぜ中国の水銀密輸を報じなかったのか

朝日新聞の原記事が公開されたのは2026年10月24日である。ブラジル政府の合同報告書が公表されたのは2025年10月、中国の供給業者が関与した水銀密輸事件の捜査結果が発表されたのは2026年8月14日である。つまり、朝日新聞が記事を公開した時点で、これらの資料は既に公表されていた。しかも、ブラジル政府の合同報告書は、朝日新聞が取材したムンドゥルクの居住地域における水銀汚染を論じる一方、中国由来とみられる水銀の存在や、中国の供給業者が関与した密輸事件にも言及している。政府の公開資料を調べれば、両方の情報に行き着くことができたのである。

それにもかかわらず、朝日新聞の記事には中国への言及が一切ない。なぜ、既に公表されていた重要な事実を読者に伝えなかったのか。

朝日新聞の報道とブラジル政府の公開資料を比較検証するイメージ。画像内の紙面・資料は実物ではない(AI生成画像)。
朝日新聞は記事の最後で、先住民族ムンドゥルクの女性リーダー、アレサンドラ・コラップさんによる金の購入者への告発を紹介している。消費者が金の由来に目を向けることは重要だ。しかし、違法採掘を支える水銀の供給者や、採掘された金を買い取る業者にも目を向けなければ、問題の全体像は見えてこない。実際、金の販売先についても具体的な捜査結果が存在する。

2025年5月27日、ブラジル連邦検察庁はパラ州での大規模な違法金輸出事件について発表した。この事件では、イタイトゥバ周辺などで違法に採掘された金について、虚偽の請求書を使って合法的な金であるかのように偽装し、海外へ輸出していた疑いで36人に対する刑事裁判が始まった。検察庁が挙げた輸出先には、アラブ首長国連邦、インド、香港、イタリア、スイスが含まれている。

香港への輸出が確認されたからといって、中国本土の企業が最終購入者だったと断定できるわけではない。また、水銀密輸事件と金輸出事件が同じ犯罪組織によるものだったと立証されたわけでもない。しかし、パラ州の違法金採掘を巡って、海外から水銀を調達する経路と、違法に採掘した金を海外へ流出させる経路が、それぞれ確認されていることは重要である。

違法金採掘は、山奥で金を掘る者だけの問題ではない。水銀の調達、採掘機械の投入、金の買い取り、原産地の偽装、海外への輸出という一連の取引によって支えられている。金の国際価格が上昇すれば、違法採掘の利益も増え、取り締まりを逃れて新たな採掘設備を投入する動機が生まれる。こうした構造を解明せず、消費者に金の購入を考え直すよう求めるだけでは、犯罪組織の活動を止める具体策は見えてこない。

朝日新聞の今回の記事が、妊婦や子どもの健康被害を中心とする現地ルポであることは理解できる。記事には取材目的があり、すべての問題を網羅することはできない。中国に言及しなかったという事実だけで、意図的に中国の関与を隠したと断定することも適切ではない。だが、意図的な隠蔽を証明できないことと、報道の不足を批判できないことは別である。

問題は、朝日新聞が中国をかばおうとしたかどうかという、証明されていない意図ではない。中国の供給業者が関与した密輸事件が公表されていたにもかかわらず、記事では水銀の国際的な供給構造を説明しなかったという、具体的な編集上の問題である。朝日新聞は水俣病の歴史を取り上げ、企業や行政の対応の遅れが被害を拡大させた教訓を紹介している。原因を知りながら必要な対策を講じなかったことが、いかに重大な結果を招くかを伝えたのである。その教訓を現在のアマゾンに当てはめるなら、汚染の被害だけでなく、汚染を生み出す経済活動と、それを支える国際的な供給網にも目を向ける必要があるはずだ。

ここで朝日新聞に問いたい。中国の供給業者が関与した水銀密輸事件を把握していたのか。把握していたなら、なぜ記事で取り上げなかったのか。把握していなかったなら、ブラジル政府の合同報告書や連邦検察庁の捜査結果について、追加の検証を行う考えはないのか。

朝日新聞がどの資料を調べ、どのような編集判断をしたのかは明らかになっていない。しかし、少なくとも公表済みの重要な情報が記事に反映されていないことは指摘できる。しかも、中国からの水銀密輸は今回の問題と無関係な周辺情報ではない。水銀を利用した違法採掘を止めるために、どのような取引を監視し、どのような犯罪組織を取り締まるべきかという問題に直結する。

朝日新聞は被害者の苦しみを伝えた。しかし、被害を生み出す仕組みの重要な部分を伝えなかった。この報道上の不足は、明確に指摘されるべきである。

報道機関は、被害者の声を届けるだけでなく、被害を生み出す原因と責任の所在を追及する役割も担う。特に、既に公表された政府資料に具体的な手掛かりがあるなら、それを調べ、読者に示すことには大きな意味がある。被害者の訴えを伝えるだけで終わるのか。それとも、被害を繰り返させないため、国境を越える犯罪構造まで追跡するのか。朝日新聞の今回の記事は、その違いを考えさせる報道でもある。

結語

1956年に公式確認された水俣病は、企業による汚染と行政の対応の遅れが、取り返しのつかない被害を生んだ事件である。胎児性水俣病の存在は、母親が摂取したメチル水銀によって、生まれる前の子どもまで被害を受けることを明らかにした。この歴史的な教訓を背景に、我が国が議長国を務めた2013年の外交会議で採択されたのが、「水銀に関する水俣条約」である。条約は2017年8月16日に発効した。

しかし、条約を締結するだけでは、水銀の密輸も違法金採掘も止まらない。水銀の国際取引を監視し、違法採掘の資金源を断ち、取り締まりを実行する国家の統治能力が求められる。ブラジルでは、連邦警察が犯罪を捜査し、連邦検察庁が刑事訴追を担い、裁判所が有罪・無罪を判断する。環境・再生可能天然資源院(IBAMA)は、水銀の流通管理や環境法令の執行に関わる。これらの機関が適切に連携し、違法採掘を取り締まらなければ、汚染を止めることはできない。

我が国も、水俣病を経験した国として、水銀の国際的な流通監視、違法採掘に由来する金の取引情報の透明化、関係国の捜査・環境監視能力の強化に協力すべきである。金を取り扱う企業についても、調達先の確認と取引記録の透明性を高めることが重要になる。中国の供給業者が関与した水銀密輸については、ブラジル当局が公表した具体的な事実に基づき、関係する事業者の責任を追及する必要がある。同時に、ボリビア、ガイアナ、メキシコなどを経由する供給網や、違法に採掘された金を買い取る国際市場についても監視を強めなければならない。

そして、朝日新聞にも改めて問いたい。ブラジル政府が中国からの水銀密輸を具体的に公表していたにもかかわらず、なぜ今回の記事にはその事実が登場しなかったのか。サウレアボイ集落の汚染源を中国と特定する証拠は、現時点では確認されていない。だからこそ、さらに取材を進め、水銀がどこから運ばれ、誰によって使用されたのかを突き止める必要がある。

朝日新聞が伝えた被害は深刻である。しかし、伝えなかった国際的な水銀供給構造もまた重要である。

水俣病の教訓とは、悲劇が起きてから被害者の苦しみを語ることだけではない。危険を生み出す仕組みを明らかにし、同じ被害を繰り返させないことである。中国の供給業者が関与した水銀密輸は、ブラジルの捜査当局によって既に公表されている。その事実を伝えず、違法採掘の背景にある供給構造を説明しなかった朝日新聞の報道には、明確な不足がある。

被害を伝えるだけでは、被害は止まらない。誰が水銀を供給し、誰が金を採掘し、誰が利益を得ているのか。そこまで追及してこそ、水俣病の教訓を生かした報道になるのである。

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2026年11月1日日曜日

米国の左傾化は日本の安全に直結する――米中間選挙まで2日、対岸の火事と思うな

まとめ

  • 1か月前、本稿は「下院は民主党有利、上院は接戦」と判断し、断定を避けた。情勢は民主党へ傾いたが、米メディアの反トランプという前提を差し引いて、読み直す必要がある。
  • 割り引いても残る材料はある。特別選挙の投票実績、共和党自身の防衛的な資金移動、そして選挙直前の区割り変更だ。下院の奪還は有力だが確実ではなく、上院は五分に近い
  • 選挙後に問われるのは、米国の左傾化が世界の秩序をどう変えるかである。抑止の空白は中国を利し、東シナ海と我が国の安全に直結する。我が国は米国の政変に左右されない国力を、自前で作れるか

11月3日の米国中間選挙まで2日となった。1か月前、本稿は「米国中間選挙まで1か月――選挙情勢とDSAの台頭を、日本の国益から考える」で情勢を分析し、下院は民主党有利を支持する材料がある一方、上院は接戦であり、両院を一括して民主党の勝利と予測する段階ではないと書いた。投票日を前に、その判断がどこまで持ちこたえ、どこが動いたのかを検証する。情勢解説の価値は、予想が当たったかどうかではなく、判断の材料と留保が正しかったかにあるからである。

検証には、もう一つ作業を加える。米国の主要メディアのトランプ嫌いは明らかであり、日本の報道はその翻訳に偏りがちだ。伝えられる「民主党優勢」を、そのまま受け取るわけにはいかない。割り引くべきものを割り引き、それでも残る材料だけで情勢を読み直す。

本稿の本筋は変わらない。問うべきはトランプ大統領の勝敗そのものではない。この変化が我が国の国益に何を意味するかである。

1️⃣情勢は動いた――上院まで民主党が視野に入れた

まず選挙区単位の評定である。クック・ポリティカル・リポートは10月23日、接戦としていた下院の6選挙区を民主党寄りに変更した。これで少なくとも民主党寄りとされる選挙区は220となり、過半数の218を接戦区の結果を待たずに上回った。共和党の優勢は198にとどまる。予測市場でも、民主党が下院の過半数を奪う確率は9割に達している。産経新聞の獲得予想でも、下院は民主党が227から237議席、共和党が198から208議席と開いている。日本国際問題研究所の分析も、専門機関の間で民主党が少なくとも下院を奪還するとの見方が強まっていると整理する。

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より大きく動いたのは上院である。1か月前、クックの下院担当分析者は、上院の支配権は互角の争いだと述べていた。今やリアル・クリア・ポリティクスの予測議席は民主党系52、共和党48となり、上院の奪還まで視野に入った。ただし、非改選を含めた勢力の色分けでは共和党46、民主党47と伯仲し、勝敗は接戦7州に委ねられている。「奪還が視野に入った」と「奪還が決まった」は違う。この区別は最後まで必要である。

政権側の数字も悪化した。トランプ大統領の支持率は調査平均で38%前後にあり、最も厳しいロイター通信の調査では、10月19日公表分で過去最低の31%まで落ち込んだ。背景として各社がそろって挙げるのは、対イラン軍事作戦に伴うエネルギー価格の高騰である。ガソリン価格の上昇が家計を直撃し、最大の争点である生活費への不満が、政権への逆風になった。共和党候補の中には、政権の関税政策を批判して大統領と距離を置く動きまで出ている。政策の失敗は価格に表れ、価格が選挙を決める。米国の有権者が突きつけているのは、イデオロギーへの審判である前に、生活への審判である。

ただし、この情勢図には大きな前提がある。今回の下院選は、選挙直前に選挙区の区割りそのものが書き換えられた、異例の選挙である。引き金を引いたのはトランプ大統領であり、通常は10年ごとの国勢調査を待つ区割り変更を、2025年に南部テキサス州へ求めた。共和党はフロリダ、テネシーなど計7州で変更を実現し、民主党の対抗はカリフォルニアとユタの2州にとどまった。今年4月、区割りに少数派への配慮を求める法律の適用を制限する最高裁判決が出たことも、共和党の動きを加速させた。差し引きでは共和党に5議席前後の上積みが見込まれるが、当初狙った15議席規模には届いていない。

しかも、その当て込みにも狂いが生じている。新たな区割りは、2024年の大統領選でトランプ氏がヒスパニック有権者から予想外の支持を集めた実績を前提に引かれた。ところが物価高と強硬な移民政策への反発でその支持は離れつつあり、テキサスでは再編した選挙区自体が接戦になっている。つまり、民主党が優勢とする220という数字は、共和党に有利な土俵の上での数字である。それでもなお政権党が劣勢だという事実は、逆風の強さを数字以上に物語る。逆に、共和党が下院を守る結果になれば、その勝因の一部は有権者の審判ではなく区割りに帰すべきものとなる。この前提を抜きに、勝敗の意味を語ることはできない。

2️⃣変わらなかったこと――接戦州の顔ぶれと、見るべきものの順序

一方で、変わっていないものもある。1か月前に本稿が個別調査の例として挙げた上院の接戦州、ミシガン、テキサス、カンザスは、今も接戦7州の中核であり、数ポイント差の争いが続いている。当時のエマーソン調査では、ミシガンで民主党候補が48%対46%、テキサスで47%対46%、カンザスで45%対43%と、いずれも誤差の範囲内だった。情勢の「傾き」は全国の空気の話であり、実際の勝敗は今も、これらの州の投票率と無党派層の動きで決まる。

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全国調査の読み方への留保も維持する。1か月前、全国の投票意向は調査によって民主党の優位が2ポイントから12ポイントまで開いていた。このばらつき自体が解消したわけではない。変わったのは、選挙区単位の評定と予測市場という別の種類の材料が、同じ方向を向き始めたことである。材料の種類がそろったときに初めて、情勢判断は前に進められる。

ここで、前文で述べた割り引きの作業を行う。まず、割り引くべき材料から挙げる。予測市場の「9割」は、実弾の金が入っているとはいえ、勢いに流されやすい。モデルによる予測機関の数字は8割程度にとどまっており、市場の方が強気に振れている。支持率31%も、最も厳しい調査の数字であり、平均は38%前後である。世論調査がトランプ氏への支持を拾い損ねる癖は、過去3回の選挙で繰り返し確認された。上院の州別調査は誤差がさらに大きく、「民主党52対共和党48」という試算も、接戦州の結果次第で容易に覆る。「青い波」という物語の増幅のされ方は、2022年に「赤い波」の物語が大きく外れたときと同型である。

それでも、割り引いて残る材料がある。第一に、世論調査ではなく、実際に投じられた票である。2025年1月以降に行われた連邦・州の特別選挙107件を集計すると、民主党は2024年大統領選の同じ地区の得票差と比べて約13ポイント改善している。これは2026年6月時点の集計であり、連邦議会の選挙に限れば改善は約17ポイントに及ぶ。今年1月には、共和党の地盤であるテキサス州の州議会上院補欠選挙で、トランプ大統領が支持を呼びかけた共和党候補が、14ポイント以上の差で敗れた。もっとも、補欠選挙は関心の高い層の投票に偏るため、改善幅がそのまま本選挙に再現されるわけではない。この留保を付けたうえでも、票の実績は報道の空気とは別物である。

第二に、共和党自身の行動である。共和党系の資金団体は、見込みの薄れたノースカロライナ州の上院選から資金を引き揚げ、カンザス州の現職の防衛に回したと報じられている。公開調査とは別に私的な調査を持つ側の人間が、劣勢を前提に動いている。そして何より、政権の情勢判断に自信があるのなら、選挙直前に区割り変更を求める必要はなかったはずである。第三に、数字の出所である。全国の投票意向の平均で民主党が8.3ポイントリードするという数字は、保守派も引用するリアル・クリア・ポリティクスの集計であり、反トランプメディアだけの作文ではない。

割り引いたうえでの本稿の判断は、こうなる。下院の民主党奪還は有力だが、確実ではない。調査の外しと区割りの上積みが重なれば、共和党が下院を守る展開は十分にある。上院は、民主党がわずかに先行する程度であり、実質は五分に近い。1か月前の「上院は接戦」という留保は、弱めるべきものではなく、維持されるべきものだったことになる。

DSA(アメリカ民主社会主義者)への評価軸も変わらない。民主党が議席を増やすことと、DSAの政策が支持されることは同じではない。全国的な家賃規制、主要産業の公的所有、上院の廃止、海外米軍基地の閉鎖といった綱領の一部には、米国の経済と統治、そして我が国の安全保障に重大なリスクがある。この評価は、DSAが支持する候補の当選数ではなく、その政策が民主党の公約、国防予算、議会の採決にどこまで入るかで検証すべきものである。答えは11月3日に出始め、選挙後の議会運営で確定していく。

3️⃣我が国の国益から見れば、勝敗は条件の一つにすぎない

我が国にとっての問題は、民主党の勝利が「良い知らせ」かどうかではない。選挙後の姿は、すでにある程度具体的に見えている。ロイター通信は、民主党が下院の過半数を奪還すれば、政権を対象とした調査を本格化させ、ホワイトハウスに妥協を迫ることが可能になると報じている。民主党指導部はトランプ氏の行為を「腐敗」と位置づけ、調査に乗り出す意向を示している。弾劾については、調査で弾劾に値する証拠が見つかれば踏み切る可能性はあるものの、最初の行動とする考えはないというのが関係者の説明であり、党内急進派の圧力と指導部の慎重さがせめぎ合う。仮に下院で訴追が可決されても、罷免には上院の3分の2の賛成が要り、現実には届かない。残るのは、調査と大統領令が正面からぶつかる2年間である。

さらに、トランプ氏は10月27日、選挙が「公正」に行われれば結果を受け入れると述べた。敗れた側が結果を認めない可能性まで含めて、米国の統治の安定そのものが問われる選挙になった。下院を失った政権は残り2年の求心力を欠く。関税政策に議会の歯止めがかかる可能性が出る一方、共和党が議会を守れば、関税と防衛負担の圧力は今の形のまま強まる。結果がどちらでも、我が国が向き合うのは「米国の内政に左右される同盟」という構造そのものである。

そして、勝敗と同じだけ重要なのが、勝者の内訳である。民主党が議席を伸ばすとして、その党をどの勢力が引っ張るのか。物価対策を掲げる穏健派なのか、急進的な公約を掲げる左派なのかで、選挙後の米国の政策はまったく別のものになる。第2章で述べた通り、民主党の議席増とDSA的な政策の前進は同じではない。だが、急進派の圧力と指導部の慎重さのせめぎ合いは、調査と弾劾をめぐる攻防の中にすでに出ている。選挙の結果は、議席の数ではなく、この内訳で読まなければならない。

東シナ海を望む海岸と水平線上の艦艇 イメージ、AI生成画像
問題は議席の数だけではない。米国の内政でリベラル・左派の力が強まれば、その影響は国境を越える。海外基地の閉鎖や国防力の抑制が現実の政策に近づけば、東アジアの抑止に空白が生まれ、中国を利する。在日米軍は日米安全保障条約第6条に基づく同盟の基盤であり、その後退は東シナ海と台湾、そして我が国の安全に直接跳ね返る。移民に寛容な政策も、国際的な「規範」の顔をして、我が国の外国人政策への圧力となる。在留外国人428万人の時代に、受け入れを既定路線にするなと本稿が繰り返してきた問題と、ここでつながるのである。米国のメディアと教育機関で進んだ左傾化は、形を変えて我が国にも及んできた。米国の選挙は、我が国の行く末を先取りして見せる鏡でもある。読者の多くは、すでにそのことに気づいているはずである。

分断の深まりもまた、国境を越える。本稿は先日、中国の認知戦が「米国不信」を保守層に植え付ける段階に入ったと指摘した。選挙結果をめぐる対立や混乱の映像は、その工作にとって格好の材料である。左傾化による抑止の後退と、分断による同盟の動揺。中国から見れば、今回の選挙は、勝敗のどちらに転んでも利用できる材料を抱えている。

結局のところ、我が国の答えは選挙の外にある。米国の政変に左右されない国力、すなわち国内の供給力と継戦能力を自前で作れるかどうかである。年末の安保3文書改定が問うているのは、まさにこの点にほかならない。ワシントンの議会構成がどうなろうと、この課題の重さは変わらない。米国の鏡に映る姿を、我が国の明日への警告として受け取るべきである。

結論

11月3日に出るのは、米国の議会構成についての答えである。1か月前の本稿の判断は、上院を接戦として断定を避けた点で正しかった。下院についても方向の読みは誤っていなかったが、確度は割り引いて受け取るべきだった。情勢はそこからさらに民主党へ動いた一方で、区割りという土俵自体が直前に動かされた選挙でもある。材料を割り引き、留保を保ったまま判断を更新する。それが情勢を扱う者の責任である。

そのうえで、勝敗の先を読む姿勢は変えない。民主党の勝利は我が国への追い風ではなく、共和党の勝利は無条件の安心ではない。問うべきは勝敗ではなく、勝った側の中でどの勢力が伸びたのかであり、その政策が世界と我が国に何をもたらすのかである。米国の政策を、党派への好悪ではなく、具体的な政策と我が国への効果で測る。この基準を守り、選挙後には結果を同じ物差しで検証し直す。11月3日の答えは、終わりではなく、次の検証の始まりである。

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2026年10月31日土曜日

あなたのWi-Fiルーターは大丈夫か――米国の電子機器認証試験、82%が中国に集中の衝撃


まとめ

  • 米国の電子機器認証試験の約82%が中国に集中。 FCCが制度の見直しを決断した。試験結果の不正、技術情報の流出、中国依存の危険とは何か。
  • 中国製ルーターから出荷時のバックドアが発覚。 技適マークがあっても安全とは限らない。家庭の通信機器が知らないうちに遠隔操作される危険がある。
  • あなたのWi-Fiルーターは大丈夫か。 日本の認証制度の課題を検証し、更新・パスワード・危険な設定など、誰でも実行できる6つの対策を紹介する。

2025年、米国向け電子機器の認証に関わる試験の約82%が、中国の試験機関で行われていた。米国内で行われた割合は4%未満だった。これは米国市場に流通する電子機器の82%が中国製という意味ではない。米連邦通信委員会(FCC)のブレンダン・カー委員長が明らかにしたのは、米国で販売する電子機器の技術基準への適合を確認する試験が、中国に極端に集中していたという事実である。

10月29日、FCCはこの依存構造を改める新たな規則を採択した。中国など、米国との試験・認証に関する相互承認関係を持たない国の試験機関を、2028年12月1日以降、原則として米国の機器認証制度から排除する。米国は、電子機器の信頼性を確認する重要な工程まで中国に依存する現状を、安全保障上の問題として見直し始めたのである。

中国への依存が問題となるのには理由がある。中国を背景とするサイバー攻撃や技術情報の窃取は、既に各国の安全保障機関が警告する現実の脅威である。中国の試験機関による不正な報告書も発覚している。さらに2026年8月には、中国製ルーター20機種のファームウェアから、出荷時に組み込まれた危険な遠隔操作プログラムが発見された。

これらはそれぞれ別の事例であり、直接の因果関係が確認されているわけではない。しかし、電子機器の製造、試験、認証、使用後の管理まで、安全保障の視点から見直す必要性を示している。

そして、この問題は米国だけのものではない。我が国でも家庭のWi-Fiルーターを通じて金融取引や仕事の連絡が行われ、企業、医療機関、金融機関、行政機関も通信機器に依存している。では、日本で使用する機器の試験はどこで行われ、設計情報は誰の手に渡り、安全性はどこまで確認されているのか。

米国は82%という数字を明らかにして制度を改めた。我が国は中国への依存の実態を把握しているのか。 この問いこそ、今回の問題の核心である。

1️⃣米国の認証試験を中国が握っていた――技術情報まで渡る危険

電子機器を販売するには、国や地域が定めた技術基準を満たさなければならない。例えばWi-Fiルーターには、使用できる周波数や電波の出力について規制がある。基準を守らない機器が使われれば、ほかの通信に干渉するおそれがある。そのため、製品を市場に投入する前に必要な試験を行い、技術基準への適合を確認する制度が設けられている。

米国ではFCCが法令に基づいて技術基準と認証手続きを定める。しかし、FCCが個々の機器をすべて自ら試験するわけではない。メーカーはFCCが認めた試験機関に測定を依頼し、認証が必要な製品については、通信機器認証機関(TCB)が試験結果や技術資料を審査する。技術基準を決めるのは規制当局であり、試験や個別の認証業務は、認められた専門機関が担うのである。

ここで見落としてはならないのは、試験・認証は、企業などが料金を受け取って提供するビジネスだということである。政府が無料で検査する行政サービスではない。高価な測定設備と専門技術者を必要とし、新製品が発売されるたびに需要が生まれる。半導体や通信機器の開発を支える、重要な専門産業なのである。

中国に試験業務が集中した背景には、電子機器の製造拠点が中国に集まったことがある。工場の近くに試験施設があれば、製品の輸送、設計変更、再試験を効率的に進められる。企業が費用と時間を節約しようとした結果、製造だけでなく試験まで中国に集中した。しかし、企業にとって合理的な判断が、国家にとって安全とは限らない。

試験機関は、単に完成品の電波を測定するだけではない。試験内容によっては、通信方式、回路構成、アンテナの性能、動作条件などの情報が必要になる。認証の過程では、発売前の製品の設計資料や技術情報を外部の事業者に提供する場合もある。すべてが企業秘密というわけではないが、競争上重要な情報が含まれる可能性はある。

米国向け電子機器の試験・認証の流れ。FCCは制度を監督し、試験と個別認証は専門機関が担う。クリックすると拡大します
中国国内の試験機関にこうした情報を提供することには、特有の安全保障上の懸念がある。中国の国家情報法第7条は、組織と国民に対し、国家情報活動を法に従って支持、協力、支援する義務を定めている。第14条には、情報機関が必要な協力を求められる規定もある。これだけで中国の試験機関が企業秘密を不正に提供していると断定はできないが、技術情報の管理を考える際に無視できない制度上の危険である。

しかも、試験の信頼性そのものに関わる不正も発覚した。2026年6月9日、FCCの技術担当部局は、中国・東莞市にあるSLG-CPC試験所について、認定取り消しに向けた手続きを開始した。FCCの公式発表によれば、異なる製品の試験報告書に測定データが流用され、33件のFCC認証番号に関係する報告書が問題となった。試験所側も不適切なデータの再利用を認めたという。

これは単なる書類の不備ではない。試験結果が信用できなければ、基準を満たさない機器が市場に出る危険がある。さらに、特定の国に試験能力が集中していれば、国際関係の悪化などで試験業務が滞った際、新製品の発売にも影響が及びかねない。企業の費用が増加すれば、最終的に消費者の負担につながる可能性もある。

10月29日に採択されたFCCの新規則は、こうした問題を踏まえ、試験・認証機関の所在地と相互承認関係を重視する制度へ転換するものである。中国だけを名指しした禁止措置ではなく、米国との相互承認協定などを持たない国・地域を原則として対象とする。試験機関の認定を維持するには、2028年12月1日までの移行期間内に新しい要件への対応が必要となる。

米国が問題にしたのは、中国製品だけではない。自国市場に入る電子機器を試験し、技術情報に接する重要な工程まで、中国に極端に依存していたことである。 82%という数字は、その構造的な危険を明らかにしたのである。

2️⃣中国製ルーターからバックドア――家庭の通信機器が攻撃の入口になる

中国への通信技術の依存がなぜ危険視されるのか。それを理解するうえで注目すべきなのが、2026年8月に明らかになった中国製ルーターの問題である。

8月5日、米国のセキュリティ企業VulnCheckは、中国のZbtlink製ルーター20機種のファームウェアに、危険な遠隔操作プログラムが組み込まれていたと公表した。VulnCheckの技術調査によれば、「ENDLESSDOORS」と名付けられたプログラムは、ルーターの起動時から動作し、外部のサーバーへ接続して命令を受け取る仕組みだった。

重大なのは、その通信に十分な認証の仕組みがなかったことである。外部の指令を受け取ると、ルーター内部で管理者権限による命令を実行できた。研究者は実際に遠隔操作が可能であることを実証している。攻撃者が後から侵入して設置したものではなく、調査対象の製品には出荷時のファームウェアから組み込まれていた。

製造元は顧客サポート用の機能だったと説明している。中国政府による情報窃取を目的として設置されたと立証されているわけではなく、実際の悪用被害も確認されていない。しかし、利用者の知らないところで外部から管理者権限を取得できる構造が存在したことは重大である。保守を目的とした機能であっても、第三者に悪用されれば危険なバックドアとなる。

この問題は、私たちの家庭にも直結する。現在のWi-Fiルーターには、パソコンやスマートフォンだけでなく、テレビ、防犯カメラ、家電製品なども接続されている。ルーターが乗っ取られれば、通信の接続先を不正に変更されたり、家庭内のほかの機器への攻撃に利用されたりするおそれがある。通信が暗号化されていれば内容を直ちに読み取れるわけではないが、それでも危険は小さくない。

家庭のWi-Fiルーターが侵害された場合に起こり得る危険。外部からの遠隔操作や通信先の改ざん、サイバー攻撃の中継拠点化を示した概念図。クリックすると拡大します。
さらに、乗っ取られたルーターは、他者への攻撃の中継拠点にもなり得る。情報処理推進機構(IPA)が2025年10月31日に公表した注意喚起は、家庭用ルーターなどが乗っ取られ、「ORB」と呼ばれる攻撃の中継拠点として悪用される危険を指摘している。攻撃者は一般家庭の回線を経由することで、本来の攻撃元を隠せる。利用者自身が被害を受けるだけでなく、知らないうちに別の組織への攻撃に利用される可能性があるのだ。

中国を背景とする攻撃集団がルーターを悪用した事例もある。2023年9月、警察庁と内閣サイバーセキュリティセンター(NISC)、米国のNSA、FBI、CISAは、中国を背景とする攻撃集団「BlackTech」について共同で警告した。BlackTechはルーターのファームウェアを改変するなどして侵入経路を確保し、海外子会社のネットワークを足掛かりに、日本や米国の本社ネットワークを狙っていた。

BlackTechの事例は、攻撃者が機器を侵害してファームウェアを改変したものであり、Zbtlinkのように出荷時から遠隔操作機能が存在した事例とは異なる。また、中国の試験機関による報告書不正が、これらのバックドア問題を引き起こした証拠もない。しかし、製造時から危険な機能が存在する可能性と、使用開始後に外部から侵入される可能性の双方を考える必要がある。

ここで重要なのが、FCC認証や日本の技適マークの限界である。これらは主として電波の出力や周波数など、技術基準への適合を確認する制度であり、製品内部にバックドアが存在しないことまで保証するものではない。したがって、技適マークが付いているから安全だと考えるのは誤りである。通信機器の安全性を確保するには、ソフトウェアの検証と、販売後の継続的な更新も必要になる。

米国は既に、この問題に対して別の規制も進めている。2026年3月、ホワイトハウスが招集した省庁横断組織は、外国で製造された家庭用ルーターについて、安全保障上の重大な危険があると判断した。これを受け、FCCは3月23日、外国製家庭用ルーターを安全保障上の規制対象リストに追加した。一定の例外を除き、新しいモデルの認証を制限する措置であり、既に認証された製品の使用や販売を一律に禁止するものではない。

この措置と10月29日の試験機関規制は別の制度である。前者は製品と供給網の危険、後者は試験・認証体制の信頼性に着目している。米国は、製品そのものと、それを市場に送り出す仕組みの双方を見直しているのである。

危険の本質は、家庭や企業の通信の入口となる機器が、製造時からの問題や使用後の侵入によって外部から支配され、情報窃取やサイバー攻撃に利用され得ることにある。 中国を背景とする攻撃が現実に確認されている以上、我が国も通信機器の調達と安全性の検証を厳しく見直す必要がある。

3️⃣日本の技適は大丈夫なのか――家庭でできる6つの対策

米国が認証試験の中国依存を問題視した以上、我が国も自国の制度を確認しなければならない。

日本には、電波法に基づく技術基準適合証明や工事設計認証の制度がある。いわゆる「技適」であり、総務省が制度を所管し、登録証明機関などが技術基準への適合を確認する。電気通信事業法に基づく端末機器の認証制度もあり、それぞれ対象となる基準と手続きが定められている。

日本でも試験や認証は有料の専門サービスである。電気通信端末機器審査協会(JATE)の認証手続きを見ると、申請に際して機器の概要説明書、試験結果、外観図、接続系統図、ブロック図などが必要とされている。また、JATEの無線設備試験に関する案内からも、外部の試験施設を利用する場合があることが分かる。日本の認証制度でも、試験の実施場所と最終的な認証を行う機関は、必ずしも一致しない。

では、日本向け電子機器の何%が中国で試験されているのか。今回確認できた公開資料では、米国の82%と同じ基準で比較できる全国的な公的統計は見つからなかった。したがって、日本の中国依存が米国より高いとも低いとも断定できない。EUでもCEマーキングの制度があるが、欧州委員会の説明によれば、製品の適合性評価はメーカーが責任を負う仕組みであり、すべての製品についてEU域内の公的機関が直接試験するわけではない。EUについても、米国と直接比較できる中国への試験依存率は確認できなかった。

日本政府がまず行うべきなのは、重要な通信機器について、試験が実際にどの国で行われ、どのような技術情報が外部に渡っているのかを把握することである。特に電力、金融、医療、行政、防災などの重要な分野では、試験機関だけでなく、製造元、ファームウェアの開発元、販売後の更新体制まで確認する必要がある。

一方、私たち自身にもできることがある。家庭のルーターは、一度設定すると何年もそのまま使うことが多い。しかし、正常に通信できていることと、安全であることは別問題だ。次の6つは、一般の利用者も確認しておきたい対策である。

家庭のWi-Fiルーターを守る6つの確認事項。メーカー・型番、更新、パスワード、遠隔管理、不審な設定、サポート終了を点検しよう。クリックすれば拡大します
第1に、メーカー名と型番を確認する。 ルーター本体の底面や背面にあるラベル、説明書などで型番を調べ、メーカーの公式サイトでセキュリティー情報とサポート状況を確認する。Zbtlinkの事例では、別のブランド名で販売された製品にも同じ問題が存在した。ブランド名だけでなく、実際の型番を確認することが重要である。

第2に、ファームウェアを最新版に更新する。 ファームウェアはルーター内部で動く基本的なソフトウェアであり、脆弱性の修正にも更新が必要となる。管理画面で更新状況を確認し、自動更新機能があれば有効にする。更新ファイルはメーカーの公式サイトや正規の管理機能から入手し、出所不明のファイルは使用しない。

第3に、管理者パスワードとWi-Fiの接続パスワードを確認する。 管理者パスワードはルーターの設定を変更するためのもので、Wi-Fiの接続パスワードとは役割が異なる。機種共通の初期パスワードや推測しやすい文字列を使っている場合は変更する。無線通信の暗号化方式は、機器が対応していればWPA3、またはWPA2-AESを選ぶことが望ましい。

第4に、不要な遠隔操作機能を停止する。 管理画面から、インターネット側からの遠隔管理が有効になっていないか確認する。使っていないVPN、DDNS、ポート転送、UPnPなどの機能も見直したい。ただし、これらには正当な用途もあり、必要な機能まで無効にすると通信サービスに支障が出る場合がある。取扱説明書やメーカーの案内に従って判断することが重要だ。

第5に、見覚えのない設定変更がないか確認する。 警察庁が2023年3月28日に公表した注意喚起では、家庭用ルーターが外部から不正操作され、設定を変更されたため、従来の対策だけでは不正利用を解消できない事例が示されている。管理画面で、知らないVPNアカウントやDDNS設定、外部からの管理を許可する設定などがないか確認したい。不審な設定があれば、メーカーの案内に従って初期化や更新を行う必要がある。

第6に、サポートが終了したルーターの買い替えを検討する。 古い機器でも通信はできるが、メーカーのサポートが終了していれば、新たな脆弱性が発見されても修正されない可能性がある。IPAも、更新プログラムの適用とサポート終了製品の更新を勧めている。価格や通信速度だけでなく、メーカーが安全性の維持に責任を持ち続けているかを確認すべきである。

ただし、これらの対策だけですべての危険を防げるわけではない。Zbtlinkの事例のように、出荷時のファームウェア自体に危険な遠隔操作機能が組み込まれていた場合、パスワード変更や再起動、工場出荷状態への初期化では解決しない可能性がある。VulnCheckは調査時点で安全な修正版を確認できず、実際の通信に使用する対象機器について交換を推奨していた。

新しくルーターを購入する場合には、メーカーの更新実績やサポート期間も確認したい。我が国では、IoT製品のセキュリティー対策を評価する「JC-STAR」という制度も導入されている。IPAの公式説明によれば、★1と★2はメーカーなどの自己適合宣言、★3と★4は第三者評価機関による評価を基本とする。絶対的な安全を保証するものではないが、適合ラベル取得製品の一覧は購入時の判断材料となる。

そして、国家として取り組むべき課題もある。日本は米国と電気通信機器などの適合性評価に関する相互承認協定を結んでいる。米国国立標準技術研究所(NIST)の公式資料にも、その仕組みが明記されている。日本の適格な試験機関には、中国に集中していた米国向け試験需要の一部を引き受ける機会がある。

もっとも、仕事が自動的に日本へ移るわけではない。高度な試験設備、専門技術者、迅速な審査体制がなければ、需要を取り込むことはできない。政府と産業界は、この機会を国内の試験・認証能力の強化につなげるべきである。そうすれば技術情報の管理能力を高めるだけでなく、国内投資や専門人材の雇用を生み出し、我が国の産業基盤を厚くすることにもつながる。

国民は自分の通信機器を守り、企業は製品の設計から保守まで責任を持ち、政府は重要な技術と試験能力を守る。 この役割分担を確立することが、我が国の通信社会を強くするのである。

結語

米国向け電子機器の認証に関わる試験の約82%が中国で行われていたという事実は、製造だけでなく、製品の信頼性を確認する工程まで中国に大きく依存していたことを明らかにした。

しかも、中国を背景とするサイバー攻撃や技術情報の窃取は、既に各国の安全保障機関が具体的な事例を示して警告している。中国の試験機関による不正な報告書も発覚した。さらに、中国製ルーターから出荷時の危険な遠隔操作プログラムが発見された事例は、家庭や企業で使用する通信機器にも重大な危険が潜み得ることを示している。

これらを漠然とした不安として片付けてはならない。何が実際に起き、どこに危険が存在し、どのような制度で防ぐべきなのかを明確にする必要がある。中国に関する具体的な危険を認識しながら、経済的な効率だけを理由に重要な技術や試験業務を委ね続けることは、安全保障上の責任ある判断とは言えない。

米国は82%という依存構造を把握し、制度を改める決断をした。我が国はどうか。日本向け電子機器の試験がどこで行われ、重要な技術情報が誰の手に渡っているのか。その実態を明らかにすることが先決である。さらに、国内の試験・認証能力を強化し、技術者を育成することは、国民生活の安全と産業競争力の双方を高める。

もちろん、国家の制度だけですべてを守れるわけではない。私たちも家庭のルーターを確認し、更新を続け、不要な機能を停止し、サポートが終了した機器は買い替えを検討する必要がある。自宅の機器が乗っ取られれば、自分が被害者となるだけでなく、他者への攻撃に利用される可能性もある。通信機器の安全は、もはや専門家だけの問題ではない。

国家安全保障とは、国境や軍事施設を守ることだけではない。国民が毎日使う通信機器の信頼性を確保し、それを支える技術と産業を国内に維持することでもある。

米国が明らかにした82%という数字は、我が国への警告でもある。危険な依存を放置するのか。それとも実態を明らかにし、制度を改め、必要な技術と雇用を国内に築くのか。

我が国に求められるのは、危険を曖昧にすることではない。具体的な事実に基づいて判断し、必要な対策を実行する統治能力である。国民の暮らしを守り、国内の供給力を強化し、技術と人材を国家の資産として蓄積してこそ、我が国を強く豊かにすることができるのである。

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2026年10月30日金曜日

日米がミサイルの日本国内組立で合意、兵器を買うだけでは日本は守れない


まとめ
  • 日米がミサイルの日本国内組立で合意。 兵器を買うだけの防衛から、生産・補充できる防衛へ。我が国の安全保障は新たな段階に進むのか。
  • 核の傘だけで日本は守れるのか。 核ミサイルへの迎撃能力と通常戦力を維持する力が、日米の抑止態勢を支える。
  • F-15Jの改修、F-35Aの整備に日本の底力がある。 製造・修理・改修技術を国家資産として蓄積できるか。問われるのは国家の統治能力だ。

2026年10月28日、フィリピンで行われた日米防衛相会談で、我が国の安全保障にとって重要な合意が成立した。米国製の中距離空対空ミサイル「AMRAAM」の最終組立・検査施設を日本国内に設置し、弾道ミサイル迎撃用の「SM-3ブロックⅡA」についても、増産に必要な技術情報を共有するというものである。

一見すると、ミサイルの製造に関する技術的な合意にすぎない。しかし、その背後には我が国の防衛力が抱える根本的な問題がある。高性能な兵器を保有していても、必要な弾薬を補充できなければ防衛を続けることはできない。防衛力は兵器を買うだけでは維持できないのだ。

さらに、今回の合意は核抑止とも無関係ではない。日米防衛相は、我が国周辺で進む核・ミサイル戦力の増強についても協議した。核兵器による威嚇と通常戦力による攻撃が組み合わされる事態に対し、我が国はどこまで自国の防衛を継続できるのか。米国の核の傘は重要だが、それだけで通常戦力やミサイル防衛の不足を補えるわけではない。

今回の日米合意を手掛かりに、核の脅威への対処、兵器の生産・改修能力、そして国家の統治能力という3つの問題を考えてみたい。

1️⃣日米のミサイル国内組立合意は何を変えるのか

10月28日の防衛省「日米防衛相会談について」によると、小泉進次郎防衛相とピート・ヘグセス米戦争長官は、日米同盟の抑止力・対処力を強化するため、具体的な防衛装備・技術協力を進めることで一致した。その中心となるのが、AMRAAMの国内最終組立・検査施設の設置と、SM-3ブロックⅡAの増産に向けた技術情報の共有である。

日米が合意したAMRAAMの国内最終組立・検査施設と、SM-3ブロックⅡAの増産協力。画像はイメージであり、施設の完成や稼働を示すものではない。クリックすると大します。

AMRAAMは、F-35などの戦闘機が敵航空機を遠方から攻撃するための中距離空対空ミサイルである。現代の航空戦では、戦闘機の性能だけでなく、搭載するミサイルの性能と数量が戦闘能力を左右する。どれほど優れたF-35を保有していても、ミサイルの補充が止まれば、その能力を維持することはできない。

今回、日本国内に最終組立・検査施設を設置することで合意した意味は、ミサイルの供給を支える工程の一部を国内に確保することにある。ただし、最終組立ができることと、全ての部品を国産化できることは異なる。また、防衛相会談で合意したのは施設の設置方針であり、建設工事の発注、必要な予算措置、量産開始まで完了したわけではない。施設の所在地、稼働時期、生産能力も、今回の発表では明らかにされていない。

一方、SM-3ブロックⅡAは、日米が共同開発した弾道ミサイル迎撃用の兵器である。イージス艦から発射され、大気圏外を飛行する弾道ミサイルを迎撃する。今回の合意は、生産量の拡大に必要な技術情報の共有であり、具体的な増産数量や生産施設の新設を決定したものではない。

こうした協力は、突然始まったわけではない。2026年版防衛白書の「日米防衛産業協力・取得・維持整備定期協議」によれば、日米は2024年からミサイル共同生産、米軍装備の維持整備、供給網の強化について協議を重ねてきた。2026年4月には、協力が実行段階に移行していることを踏まえ、協議の枠組みを「DICAS 2.0」と呼ぶことで一致した。

つまり、今回の合意は単発の外交成果ではない。複数年にわたる防衛産業協力が、具体的な生産体制の整備へと進んだものである。我が国の防衛力を、装備の購入だけでなく、生産・補充・維持整備まで含めて強化する。その方向が明確になりつつあるのだ。

2️⃣ 核の脅威に対して、通常戦力とミサイル防衛は何ができるのか

今回の合意を考えるうえで見落としてはならないのが、核抑止との関係である。

核兵器への対処というと、核兵器には核兵器で対抗するしかないと考えがちである。しかし、実際の抑止態勢は核兵器だけで成り立っているわけではない。核攻撃に対する報復能力に加え、弾道ミサイルの迎撃能力、通常戦力による侵攻阻止能力、それらを支える日米共同の対処能力が重要になる。

特に注目すべきなのがSM-3ブロックⅡAである。2020年11月16日、米国は同ミサイルを使用し、大陸間弾道ミサイル(ICBM)を模した標的の迎撃試験に成功した。これは米国ミサイル防衛庁の公式発表で確認できる。核弾頭を搭載し得る長距離弾道ミサイルに対して、迎撃技術が一定の能力を示した事例である。

米国の核戦力、ミサイル防衛、通常戦力を組み合わせた日米の抑止態勢。迎撃経路や防御範囲は概念図であり、実際の作戦配置を示すものではない。クリックすると拡大します。
ただし、この試験結果を過大評価してはならない。米国政府監査院の2021年報告書は、この試験が実戦運用を検証するものではなく、有利な条件下で実施されたと指摘している。SM-3ブロックⅡAは、あらゆるICBMを確実に迎撃できる兵器ではない。それでも、弾道ミサイル防衛能力を高めることは、相手の攻撃を成功させにくくするという意味を持つ。

ここで重要になるのが「拒否による抑止」である。相手が攻撃しても目的を達成できないと判断すれば、攻撃を思いとどまる可能性が高まる。ミサイル防衛や通常戦力の強化は、この考え方を支える。核兵器による報復の可能性を示す抑止とは役割が異なるが、両者は補完し合う関係にある。

実際、2026年6月10日の日米拡大抑止協議の共同声明では、米国が核を含むあらゆる能力を用いて日本を防衛するとの約束を再確認した。同時に日米は、地域の核の脅威、米国の核戦力の近代化、日本の防衛能力について協議している。米国の核による拡大抑止と、我が国自身の防衛能力の強化は、切り離して考えるべきものではない。

もう1つ知っておくべき事実がある。米軍のF-35Aには、B61-12核爆弾を運用できる仕様が存在する。2026年版防衛白書の「米国の安全保障・国防政策」にも、米国がNATOの核任務を支援するため、核・非核両用機の役割をF-15EからF-35Aへ移行する計画が記されている。F-35Aは、通常兵器だけでなく核兵器も運用できる機種なのである。

ただし、これは航空自衛隊のF-35Aが核爆弾を搭載できるという意味ではない。2024年6月12日の衆議院外務委員会で、鬼木誠防衛副大臣は、航空自衛隊のF-35Aは核兵器を搭載する仕様にはなっていないと答弁している。今回のAMRAAM国内組立も、核兵器の国内生産やF-35Aへの核運用能力付与を意味しない。

NATOの核共有では、米国が核兵器の管理権限を保持しながら、一部の同盟国が核任務に対応する航空機や関連施設を提供している。しかし、我が国はこの仕組みを採用しておらず、政府は非核三原則を堅持する立場を示している。こうした制度の違いを無視して、今回の日米合意を核共有への移行と結びつけることはできない。

重要なのは、核兵器の保有や核共有の是非とは別に、我が国が通常戦力とミサイル防衛をどこまで強化できるかという問題である。核による威嚇を受けながら通常兵器による攻撃を仕掛けられた場合、我が国に十分な防御力と継続的な対処能力がなければ、相手の軍事的な圧力に対抗することは難しくなる。

核抑止を支えるのは核兵器だけではない。通常兵器による侵攻を阻止し、防衛を継続できる能力も、抑止態勢の重要な一部なのである。

3️⃣ 我が国は有事にも防衛を継続できるのか

では、我が国は必要な防衛装備を確保し続けられるのか。

2026年版防衛白書の「持続性・強靱性の強化」は、自衛隊の持続可能な対応能力が必ずしも十分ではないことを認めている。弾薬の価格上昇、製造企業の撤退、部品製造の長期化、火薬庫の不足などが課題として挙げられている。政府は2027年度までに弾薬の不足を解消する方針を掲げているが、達成には生産能力と保管施設の整備が欠かせない。

これは深刻な問題である。戦闘機や艦艇を大量に保有していても、搭載するミサイルが不足すれば戦力は低下する。装備が損傷しても修理部品を確保できなければ、戦場に復帰させることはできない。防衛力を評価する際には、保有数量だけでなく、必要な期間にわたって運用を維持できるかを問わなければならない。

今回のAMRAAM国内最終組立合意は、この問題への対応を進める一歩である。しかし、組立施設を設置するだけでは不十分だ。重要部品や原材料を海外に依存していれば、輸送経路の遮断や供給企業の生産停止によって、国内の組立工程まで止まる可能性がある。国内でどの部品を製造できるのか、代替調達先は存在するのか、必要な備蓄を確保しているのか。こうした供給網全体の検証が必要になる。

その意味で、今回の合意は国内産業政策とも直結している。防衛生産基盤強化法に関する防衛白書の説明によれば、政府は防衛装備の安定供給に向け、原材料の国産化・備蓄、製造工程の効率化、供給網の強化、人材育成などを進めている。防衛産業を支えるのは大手企業だけではない。高度な加工技術や特殊部品の製造を担う中小企業も、国家安全保障の重要な一部である。

実は我が国には、海外から導入した戦闘機を国内で生産し、改修を重ねてきた実績がある。その代表例がF-15Jである。F-15Jは国内でライセンス生産され、レーダーや電子機器の更新、国産ミサイルへの対応など、近代化改修が続けられてきた。防衛省の防衛力整備計画では、近代化改修を施したF-15について、電子戦能力の向上、長射程ミサイルの搭載、搭載ミサイル数の増加などが計画されている。既存の装備を改修し、性能を高めながら使い続けることも、防衛産業の重要な能力なのである。

F-15Jの整備・改修を支える国内技術力を表現したAI生成イメージ。実際の機体や整備現場を撮影したものではない。
F-35Aについても、国内企業は機体の最終組立・検査や部品製造に参画してきた。さらに、2026年版防衛白書の「F-35戦闘機生産への国内企業の製造参画や整備拠点の設置」によれば、三菱重工業の小牧南工場は2020年から機体整備拠点として、IHIの瑞穂工場は2023年からエンジン整備拠点として稼働している。こうした施設は、自衛隊の運用を支えるだけでなく、アジア太平洋地域におけるF-35の維持整備にも貢献する。

ただし、国内で組み立て、整備できることと、自由に改修できることは同じではない。 特にF-35は、ソフトウェアや電子機器、武装の統合が国際的な開発・改修体系の下で管理されている。米国政府監査院も、2026年のF-35維持整備に関する報告で、整備に必要な技術データへのアクセス不足が、米軍自身の修理能力を制約していると指摘している。国内整備拠点を持つ我が国にとっても、必要な技術情報や整備権限をどこまで確保できるかは重要な課題である。

この点は、現在進められている次期戦闘機の共同開発にも通じる。2026年版防衛白書の「次期戦闘機の共同開発」は、将来の脅威や技術の進歩に対応するため、「改修の自由」を確保する必要性を明記している。英国、イタリアと共同開発する次期戦闘機では、必要に応じて能力向上を進められる国内の防衛生産・技術基盤が重視されているのである。

この違いは大きい。兵器を購入できること、国内で組み立てられること、修理できること、そして必要に応じて改修できることは、それぞれ異なる能力である。我が国が目指すべきは、単なる国内組立の拡大ではない。技術を蓄積し、装備の能力を維持・向上させる力を国内に確保することである。今回のAMRAAM国内最終組立合意も、そうした能力の蓄積につながるかという観点から評価しなければならない。

重要なのは、国内生産を単なる費用として扱わないことだ。継続的な発注と適切な利益が確保されれば、企業は設備投資を進め、技術者を育成し、製造技術を国内に蓄積できる。そうして維持される設備、技能、人材、供給網は、長期にわたり我が国を支える国家の資産となる。国内雇用や関連産業への効果も期待できる。ただし、そうした効果は発注内容や国内企業の参画範囲によって変わるため、具体的な検証が必要である。

さらに、米国自身もミサイルの生産能力を必要としている。日米の共同生産には、両国の産業基盤を補完し、同盟全体としての供給能力を高める意味がある。我が国が一定の生産工程を担うことは、自衛隊だけでなく、周辺地域で活動する米軍の継続的な対処能力にも関わる。ただし、日米双方の需要が同時に増えた場合、どのように供給を確保するのかという課題も残る。

したがって、今後の焦点は、単に国内施設が完成するかどうかではない。実際に何発を生産できるのか、どの工程を国内企業が担うのか、部品不足や輸送の混乱にも対応できるのか。そして、必要なミサイルをどれだけ迅速に自衛隊へ供給できるのか。政府はこれらの課題について、機密保護に配慮しながらも、可能な範囲で具体的な成果を示す必要がある。

防衛力を維持するには、装備品の調達予算を増やすだけでは足りない。生産能力を整え、供給網を守り、必要な装備を補充し、修理し、改修できる。そこまで実現して初めて、防衛力の強化は実体を持つのである。

結論

10月28日の日米合意は、ミサイルの国内最終組立と増産協力を具体化する重要な一歩である。しかし、その意義を単なる装備品の生産協力として捉えてはならない。

核の脅威が存在する東アジアで、我が国が侵攻を阻止し、防衛を継続できるのかという問題が、その背後にある。米国の核の傘は重要である。しかし、通常戦力による侵攻を阻止する能力、飛来する弾道ミサイルを迎撃する能力、必要な装備を継続して供給する能力が不足していれば、抑止態勢全体の信頼性にも影響する。

我が国には、F-15Jの国内生産と改修、F-35Aの国内組立と整備を通じて培ってきた技術と産業基盤がある。これらを維持し、さらに発展させることが重要である。単に兵器を購入するだけではなく、自ら製造し、修理し、必要な改修を行える能力を確保しなければ、海外の供給事情や技術上の制約に左右され続けることになる。

同時に、防衛装備の国内生産は、国家の経済力と技術力にも関わる。生産設備を整え、企業と技術者を育て、重要な製造技術を維持することは、有事への備えであると同時に、平時の産業基盤を強くすることにもつながる。安全保障と経済を切り離して考えるべきではない。

そして、防衛力の目的は戦争をすることではなく、戦争を起こさせないことである。相手に攻撃しても目的を達成できないと判断させるには、兵器の性能や保有数だけでなく、必要な期間にわたって防衛を継続できるという信頼性が欠かせない。

今回の日米合意が真に意味を持つかどうかは、今後の実行にかかっている。合意した施設を整備し、技術協力を具体化し、国内企業の生産・整備能力を高め、必要な装備を安定して確保できる体制を築けるのか。その成果を検証する必要がある。

兵器を買うことと、国を守り続けることは同じではない。必要な兵器を生産し、補充し、修理し、改修できる国家の能力こそ、持続的な防衛力を支える。我が国がその能力をどこまで築けるのか。今、問われているのは国家の統治能力である。

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2026年10月29日木曜日

11月2日に全国民へ備蓄を緊急要請――政府は最初の72時間に何を守るのか


 まとめ

  • 11月2日、政府が全国民に最低3日分の備蓄を緊急要請。 熊本地震では直接死50人に対し、災害関連死は225人。災害を生き延びた後にも命の危険がある。

  • 停電、断水、サイバー攻撃で社会は止まる。 北海道のブラックアウトや青森市の防災情報停止が示したのは、家庭の備蓄だけでは守れない国民生活の弱点だ。

  • 政府は最初の72時間に何を守るのか。 ドラッカーの統治論から、政府・自治体・企業・国民の役割を整理し、防災庁の真価を問う。

11月2日、政府は防災庁の発足に合わせ、全国民に最低3日分、できれば1週間分の水、食料、携帯トイレなどを備蓄するよう緊急要請を出す方針である。地方自治体や中央省庁にも防災体制の強化を求め、年内をめどに対応状況を確認するという。細野豪志防災担当相は10月20日の公式記者会見で、この方針を明らかにした。

なぜ今、これほど広範囲に備えを呼びかけるのか。第三次世界大戦が近づいているのか。AIを利用したサイバー攻撃で社会が麻痺する事態を想定しているのか。しかし、今回の要請が差し迫った戦争や特定のサイバー攻撃を理由としている証拠はない。最低3日分、できれば1週間分という備蓄基準も、以前から政府が示してきたものである。

だが、備蓄を単なる防災用品の準備と考えてはならない。2016年の熊本地震では、直接死50人に対して災害関連死が225人に上った。熊本県が2025年4月時点で公表した数字である。地震を生き延びた人が、その後の避難生活や持病の悪化などで命を失った。災害の発生は防げなくても、その後の対応によって守れる命がある。

しかも、国民生活を脅かすのは自然災害だけではない。10月にはGMOインターネットのクラウドサービスがサイバー攻撃を受け、利用者の金融取引に被害が生じた。青森市では防災情報の自動配信サービスが不正アクセスによって停止した。電力、通信、医療、金融などの社会機能が止まれば、原因が何であっても国民生活は脅かされる。

国民に3日分の備蓄を求めるのであれば、政府はその3日間に何を守り、何を優先して復旧させるのかを示さなければならない。11月2日の防災庁発足は、その能力が問われる機会なのである。

1️⃣3日分の備蓄で命は守れるのか――熊本地震と北海道の教訓

政府が最低3日分の備蓄を求めるのは、大規模災害の直後には道路や港湾が使えなくなり、救援物資がすぐには届かない場合があるからだ。しかし、食料と水さえあれば命を守れるわけではない。過去の災害では、避難生活そのものが多くの命を奪ってきた。

熊本地震では震度7の揺れが2度発生し、余震も続いた。自宅で眠ることを恐れ、車中泊や避難所で生活する人が相次いだ。内閣府の災害関連死事例集には、避難生活による身体的負担、持病の悪化、医療の中断などが死亡につながった事例が収録されている。災害関連死とは、建物の倒壊などによる直接死とは異なり、避難生活など災害後の事情が原因となって亡くなることである。

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特に危険なのが、トイレの問題である。断水して水洗トイレが使えず、避難所のトイレも不衛生であれば、水分摂取を控える人が出てくる。しかし、脱水は血栓などの危険を高め、車中泊で同じ姿勢を続ければエコノミークラス症候群の危険も増す。食料が十分にあっても、清潔なトイレや飲料水が確保されなければ、命に関わるのである。

こうした教訓から、細野大臣は避難所の「TKBB」の充実を掲げている。**Tはトイレ、Kはキッチン(温かい食事)、最初のBはベッド、次のBはバス(入浴)**を意味する。清潔なトイレ、栄養のある食事、十分に休める場所、衛生を保つ環境を整えるという考え方である。体育館の硬い床で何日も眠り、温かい食事も入浴もできない生活は、高齢者や持病のある人に大きな負担となる。TKBBは快適さのためだけではない。災害関連死を減らすための対策なのである。

家庭の備えにも不足がある。内閣府の2025年の防災に関する世論調査では、3日分以上の飲料水を備蓄している人は69.8%、食料品は59.8%だった。一方、携帯トイレや簡易トイレは27.2%にとどまる。飲料水の目安は1人1日3リットル、トイレは1日5回程度である。家族4人なら3日分で水36リットル、携帯トイレ60回分が必要になる。常備薬や予備電源なども、家族の事情に応じて備えなければならない。

北海道では、寒さへの備えも欠かせない。2018年の北海道胆振東部地震では、最大約295万戸が停電した。9月の停電でさえ生活に大きな影響が出たのである。これが厳冬期で、暖房が何日も止まったらどうなるのか。高齢者や乳幼児のいる家庭では生命に関わる危険が生じる。家庭には停電時の防寒対策が必要であり、自治体には暖房を確保した避難所が求められる。

では、政府と自治体は何をすべきなのか。細野大臣は10月20日の会見で、防災庁ができたからといって自治体が政府任せになることを戒めた。平時には市町村が準備し、都道府県と政府が支援する。大規模災害で自治体の能力を超えた場合には政府が前面に出る。この役割分担が必要だというのである。

災害関連死を減らすには、国民の備蓄、自治体の準備、政府の支援がそれぞれ機能しなければならない。制度をつくるだけでなく、実際に命を守れるかどうかが問題なのである。

2️⃣AI攻撃と武力攻撃でも社会は止まる――制度の境界が弱点になる

10月1日、重要インフラのサイバーセキュリティ対策のための統一基準が施行された。2026年7月31日に政府のサイバーセキュリティ戦略本部が決定したもので、電力、水道、医療、金融、通信、物流など16分野を対象とする。分野ごとに異なっていた対策の水準を高め、社会機能の停止を防ぐための制度である。

なぜ統一的な対策が必要なのか。電力が止まれば通信設備や病院の運営に影響する。通信が止まれば金融取引や物流にも支障が生じる。決済システムが停止すれば、店舗に商品があっても購入できなくなる可能性がある。現在の社会では、1つの障害が別の分野へ連鎖する危険がある。これは自然災害でもサイバー攻撃でも同じである。

実際、10月にはGMOインターネットの「お名前.com デスクトップクラウド」がサイバー攻撃を受け、利用者の取引口座で不正な取引が行われたとの報告が寄せられた。GMOは10月24日の公式発表で、不正アクセスと顧客情報の外部流出を認め、損失の補償を発表した。この事件については、10月28日の記事「GMOは警告を潰せず、国は法律を使えない」でも詳しく論じた。一般のクラウドサービスであっても、その弱点が利用者の財産を直接脅かすのである。

さらに深刻なのが、青森市で10月13日に発生した防災情報自動配信サービスへの不正アクセスである。気象警報や避難情報をホームページ、SNS、電話などへ自動配信する仕組みが停止し、15日に復旧した。もし停止中に大規模災害が発生していたらどうなったか。避難情報が届かなければ、逃げ遅れる住民が出る可能性もある。防災情報を伝える仕組みそのものが、サイバー攻撃の影響を受ける時代なのである。

防災情報の自動配信停止を示す再現イメージ。実際の青森市の設備・画面ではない。
こうした中、10月23日にはチームみらいがAIサイバー対策に関する緊急提言を政府に提出した。26日には高市首相がサイバーセキュリティに関する関係閣僚会議で、AIを活用した脆弱性検査や政府への被害情報の集約などを指示した。ただし、能動的サイバー防御の制度は10月1日に一部が施行された段階であり、通信情報の利用制度は2027年秋の施行予定である。制度の完成を待つ間も、既存の手段を使って防御力を高める必要がある。なお、GMO事件と青森市の事件でAIが攻撃に使われたことは確認されていない。

一方、武力攻撃に対しては、すでに国民保護法に基づく住民の避難・救援の仕組みが存在する。防災、サイバー安全保障、国民保護は、それぞれ異なる法律と組織によって担われている。しかし、電力や通信が停止し、住民の避難や救援が必要になれば、実際に行う仕事には重なりが生じる。

国家の弱点は、制度が存在しないことだけではない。制度の境界で責任が途切れ、必要な判断と実行が遅れることである。

3️⃣ドラッカーが説いた統治と実行の分離――政府は何を決め、誰が動くのか

ここで重要になるのが、ピーター・ドラッカーの統治論である。

今日では「ガバナンス」という言葉が、管理、監督、行政による事業の実施まで含む曖昧な意味で使われることが多い。しかし、ドラッカーは『断絶の時代』で、政府の本来の役割を、社会にとって重要な問題について意思決定し、方向を示し、社会の力を結集することだと論じた。そして、この「統治」と、現場で仕事を行う「実行」を区別した。そうして、統治と実行を両立させようとすれば、統治の能力が麻痺する。しかも、決定のための機関に実行させても、貧弱な実行しかできない。それらの機関は、実行に焦点を合わせていない。体制がそうなっていない。そもそも関心が薄いとも述べている。訳者の上田惇生による解説でも、この考え方が示されている。

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統治とは、政府がすべてを直接行うことではない。何を実現するのかを決め、そのために社会の力を結集することである。 この区別に立てば、今回の備蓄要請をめぐる政府、自治体、企業、国民の役割が明確になる。

政府が担うべき統治とは、国民の生命を守るという目的を定め、何を優先するかを決めることである。大規模災害の直後に救命医療をどう維持するのか。停電や断水が続く地域へ、限られた燃料や物資をどの順序で届けるのか。複数の自治体が同時に被災した場合、誰が全体を調整するのか。こうした問題は、個々の現場に任せるだけでは解決できない。

一方、自治体は地域の危険を把握し、避難所、備蓄、住民への情報伝達、要支援者の支援などを具体的に準備する。企業は電力や通信、物流などの事業を継続するための対策を講じ、医療機関は治療を維持する体制を整える。国民は自分と家族のために備蓄し、避難方法や連絡手段を確認する。もちろん自治体にも地域の優先順位を決める責任がある。それぞれが判断すべきことを判断し、実行すべきことを実行する。その力を国全体で結びつけることが重要なのである。

現状では、政府と地方自治体は統治と実行の両方を行わなければならない建てつけになっている。特に地方自治体はそうである。ドラッカーの統治の理論によればこれは統治能力を麻痺させることになるが、残念ながらこれをすぐ変えることはできない。極端なことを拙速に行えば、かえって社会を毀損させることにもなりかねない。現状では統治を行う側と、実行を行う側を厳密に区分するなどのことをして長期的には変えていくことを模索すべきである。

海外でも同様の課題に取り組んでいる。英国政府は10月22日に「Be Ready」という備蓄キャンペーンを開始した。EUは2025年3月の危機への備えを強化する戦略で、自然災害、軍事紛争、サイバー攻撃などを幅広く想定し、市民が最低72時間、自力で生活できるよう備える方針を示した。これらは差し迫った戦争の証拠ではない。政府、企業、国民が役割を分担し、様々な危機に備えるという考え方である。

実は我が国でも、すでに重要な取り組みが始まっている。2026年版防災白書によれば、政府は2025年7月、社会的影響の大きいインフラ障害を災害対策基本法上の災害として扱う考え方を整理した。同年12月18日には、内閣官房と東京都が、自然災害によらない首都圏の大規模停電を想定した合同演習を実施している。政府、自治体、インフラ事業者の連携は、すでに検討されているのである。

問題は、その成果をどう実行に移すかだ。例えば人工透析には大量の清潔な水と安定した電力が必要であり、設備が止まれば患者の生命に関わる。病院の非常用電源があっても、燃料や水が届かなければ治療は続けられない。政府は救命医療の維持を優先課題とし、自治体、医療機関、電力会社、物流企業が連携できる体制を整えなければならない。これは医療に限らず、通信や水道、避難所の運営でも同じことである。

11月2日に発足する防災庁には、各省庁への勧告権など、政府全体の対策を進める機能が期待されている。しかし、権限は目的ではなく手段である。どの自治体に何が不足し、いつまでに改善するのか。過去の合同演習で明らかになった問題は解決されたのか。大規模停電時にも病院や避難所を機能させられるのか。こうした具体的な成果によって、防災庁の役割を検証しなければならない。

危機管理への投資も欠かせない。非常用電源、燃料備蓄、通信設備、医療体制、サイバー防御能力の整備には費用がかかる。しかし、これらを単なる支出として扱い、危機が発生してから対応すれば、失われる生命と経済活動ははるかに大きくなる。政府には、国民の生命と生活を守るという目的を明確にし、そのために必要な資源を配分する判断が求められる。

ドラッカーが説いた統治の要点は、政府が何でも直接行うことではなく、何を実現するかを決め、社会の力を結集することである。防災庁が問われるのも、まさにその能力なのである。

結語

熊本地震では、地震を生き延びた後に多くの人が災害関連死で亡くなった。北海道胆振東部地震では、ブラックアウトによって社会機能が広範囲に停止した。これらの教訓は、災害の後にも命と生活を守る仕組みが必要であることを示している。

国民が3日分の備蓄を行うのは当然重要である。しかし、それは政府が72時間何もしなくてよいという意味ではない。国民が自ら備える一方で、自治体は住民を守る体制を整え、政府は社会機能を維持するための判断と調整を行わなければならない。

国民に3日分の備蓄を求めるのであれば、政府はその3日間に何を守り、何を優先して復旧させるのかを明確に示すべきである。

ドラッカーが説いた統治とは、何を実現するかを決め、社会の力を結集することである。防災庁の発足は、その考え方を具体的な成果に変える機会となる。

11月2日に問われるのは、国民の備蓄量だけではない。国家が何を実現すると決め、そのために社会をどう動かすのかという、統治能力そのものなのである。

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2026年10月28日水曜日

GMOは警告を潰せず、国は法律を使えない――サイバー攻撃で問われるのは、危機の前の備えである


まとめ
  • 身代金約80億円の要求を拒み、懸賞金100万ドルを出したGMO。だが社内のホワイトハッカーの警告は、可用性を優先した経営判断の前に、潰し切れなかった。
  • 炎上の芯は「事前の判断を検証せよ」という正当な要求である。説明責任のない国家論は順序が違う。GMOに残された宿題は、自社の検証記録を出すことだ。
  • 国も同じ物差しで測れば落ちる。能動的サイバー防御の法律は作ったが、中核は2027年秋まで発動しない。専守の発想では、サイバーの危機は乗り越えられない。
脅迫の期限が過ぎた。10月27日、GMOインターネットグループは攻撃者の要求に屈せず、支払う相手を変えた。だが、この事件で本当に問われているのは、事件の後の覚悟ではない。危機の前の備えである。その物差しで測れば、警告を受けていたGMOも、法律を作った国も、どちらも合格点には届いていない。

事件の姿を短く押さえる。破られたのは「お名前.com デスクトップクラウド」という、FXの自動売買に使う仮想サーバー(VPS)のサービスである。利用者は自分のパソコンではなく、GMOのサーバー上にあるデスクトップ環境をリモートデスクトップで遠隔操作し、取引口座のログイン情報もその環境の中に保存されていた。つまり、利用者の「取引するパソコン」そのものが、丸ごとGMOのサーバーの中にあった。

10月19日に調査が始まり、20日に不正なプログラムの設置が確認された。サーバーは順次止められたが、環境内に保存されていたログイン情報などが第三者に取得され、不正に使われた。影響を受け得るサーバーの数は最大で2万6739台とされる(被害が確定した数ではない)。24日には一律5000円の見舞金と、不正取引による損失の補償が発表された。そして攻撃者は金銭を要求し、情報公開とランサムウェア攻撃を予告してきた。

1️⃣身代金約80億円を拒否し、懸賞金100万ドルを出した

攻撃者は10月26日深夜、27日12時に利用者の情報を公開し、ランサムウェア攻撃を行うと予告した。要求額は、熊谷正寿社長が自身のブログで明かしたところでは、暗号資産で5000万ドル、約80億円である。

正午を過ぎ、GMOや利用者に関する情報の公開が確認されたと報じられている。ただし、公開されたとされる情報が本物かどうか、その範囲は調査中であり、予告されたランサムウェア攻撃が実際に実行されたかどうかも確認されていない。ここは断定できない。

脅迫期限の正午が迫るサーバールーム(イメージ、AI生成画像)

GMOの姿勢は一貫している。要求には「永久に応じない」。利用者にはパソコンの電源を落とすよう異例の呼びかけを行い、情報の転載や拡散を控えるよう求めた。掲載サイトへアクセスした人の情報を攻撃者が取得していることも確認したとして、サイト自体に近づくなと警告し、悪質な拡散者には法的措置を取る構えである。

そして27日夜、GMOは2つの金を発表した。特別見舞金は、情報を公開された利用者に、情報の種類に応じて1万円から2万5000円を合算し、1回の公開につき上限300万円を支払うもので、一律5000円の見舞金や損失の補償とは別枠である。もう1つの「GMOサイバー犯罪撲滅・懸賞金」は、関与者の特定・検挙につながる情報への報奨金で、制度全体で総額100万米ドル、約1億5000万円が上限となる。受付は本日28日12時からである。

払う相手を変えた、ということである。攻撃者には1円も払わない。被害者と、事件を解き明かす情報に払う。この即断は、事後の覚悟としては評価できる。だが、事後の覚悟は、事前の備えの失敗を消しはしない。話の中心は、ここからである。

2️⃣会社の備えは、警告の前で止まっていた

まず確認できる事実から置く。熊谷社長は10月25日のブログで、社内のホワイトハッカーから「改善すべき課題」が事前に指摘されていたと明かした。現場は対策を進めていたが、「対応の深度とスピードが十分ではなく、攻撃者にその間隙を突かれてしまった」という。課題を潰し切れなかった理由は、サービスの可用性への影響や他の対処事項との優先順位を考慮し、慎重に対応を進めた結果だと説明する。指摘された課題の内容そのものは、今も公表されていない。

言い換えれば、これは未知の攻撃に不意を突かれた話ではない。リスクは社内で特定され、警告は上がっていた。それでも、可用性と天秤にかけて「慎重に進める」という経営の判断が下され、備えは完成しないまま攻撃の日を迎えた。危機の前の備えの失敗である。

攻撃者側の主張もある。攻撃者は自ら開設したサイトで、設定の不備を突いて侵入したと主張している。全てのVPSに共通の管理者アカウントがあったこと、利用者がVPSに接続すると手元のパソコンのドライブまでサーバー側から見える設定が初期状態になっていたこと、がその内容である。リモートデスクトップで操作できるのは、サーバー上の環境だけではなかったという主張だ。GMOは脆弱性の詳細を明らかにしておらず、真偽は不明である。ただ、仮に事実なら、高度な攻撃以前に基本的な設定の問題だったことになる。そしてGMOが利用者全員に電源オフを求めた事実は、端末側への波及をGMO自身が否定できなかったことを示している。

経済評論家の髙橋洋一氏は動画で、多数の仮想サーバーを一元的に管理する仕組みに横のつながりが1本通っており、そこを押さえれば全体を支配できる構造だったと指摘した。技術的な断定は公式発表の範囲を超えるが、批判の方向は攻撃者の主張とも重なっている。

炎上の構図は、すでに分析報道として整理されている。批判の第一は、論点のすり替えである。社内の警告がありながら可用性を優先したのなら、それは自社の判断ミスであり、「日本を守ろう」という国家論に話を持っていくのは筋が違う。第二に、「国民の財産」という言葉への違和感である。失われたのは自社サービスの利用者の資産であって、国民全体の財産と呼ぶのは誇張ではないか。第三に、ブログが前面に出すAIの脅威論と、今回の侵入そのものは切り分けるべきだという指摘である。今回の攻撃にAIが使われたと示す資料は、公開された範囲には見当たらない。実業家の田端信太郎氏は、経営は結果責任だとして、より直截に経営姿勢を批判した。

登録者22万人のチャンネルで拡散した批判動画も、軸は同じである。ビジネスは自己責任であり、困ったときに政府へ助けを求めるのは原則に反する。説明責任が「生ぬるい」という言葉もあった。一律5000円の見舞金には、発表直後から「幕引きにするつもりか」という懸念が寄せられていた。

この炎上は、単なる騒ぎではない。その芯にあるのは、「事前の判断を検証せよ」という正当な要求である。GMOは事件の後、国家論と事後の覚悟を前面に出した。だが世間が求めたのは、その前の話だった。侵入経路、事前に認識していたリスク、対策が遅れた理由、可用性を優先した経営判断の過程。それらを事実に基づいて並べた検証の記録が、いまだに出ていない。

熊谷氏の反論も書いておく。不正取引の損失は取引所が返金に応じない場合も含めて全額を自社が支払い、民間の負担を国に負わせる意図は一切ないという。能動的サイバー防御の具申は、自社が制度の対象事業者でないことを理解した上で、新法を生きた制度にするためのモデルケースを築く覚悟だとする。その上で、である。説明責任と危機の提起は、両立しても代替はできない。「一切逃げ隠れしない」という言葉が本物であるなら、向かうべき先は国家論の高みではなく、自社の足元の検証であるはずだ。

3️⃣政府の備えもまた、未完成のままである

同じ物差しを、政府にも向ける。政府の備えは、危機の前に完成していたか。

10月26日、第1回サイバーセキュリティ関係閣僚会議が開かれ、高市首相はアクセス・無害化措置を含むあらゆる対応を戦略的に実行することと、来週中を目途に緊急対策パッケージを策定することを指示した。ただし27日の時点でも、パッケージの中身は決まっていない。事件が起きてから、対策をまとめ始める。これもまた、事後の対応である。

27日の閣議後会見で、片山さつき金融担当相は被害を報告したFX業者は5社であり、取引停止や不正注文の遮断は済み、新たな不正取引の報告はないと説明した。赤沢経産相は中小企業向けの無料相談窓口を表明した。いずれも封じ込めと支援であり、攻撃者を止める備えの話ではない。

時間軸の問題は26日の記事で指摘したとおりである。能動的サイバー防御の関連法は10月1日に施行された。だが中核となる通信情報の利用は、2027年秋の施行予定で、まだ発動していない。しかもGMOは特定社会基盤事業者に当たらず、被害を受けた企業の要請で国が動く手続き自体が存在しない。法律は作った。だが、肝心の部分はまだ使えない。会社の備えが警告の前で止まっていたのと、国の備えが施行の前で止まっているのは、同型の失敗である。

ここで、サイバーにおける「専守防衛」の限界を言わなければならない。攻撃者はすでに内側に入り込み、情報を握って脅迫し、公開で揺さぶってくる。守る側が自社の壁だけを見つめていては、攻撃者のサーバーも、資金の流れも、司令塔も止められない。

思い起こすべきは2024年9月の出来事である。イスラエルは、ヒズボラのポケベルと無線機にあらかじめ爆発物を仕込み、一斉に起爆して戦闘員を無力化したと指摘されている。敵の手元の機器に先に手を入れ、決めた瞬間に無力化する。以前の記事で書いたとおり、これは待ち受けるだけの防衛では決して生まれない効果である。国家の備えとして、相手の攻撃基盤に働きかけて無力化する手段を危機の前に用意しておかなければ、危機は乗り越えられない。能動的サイバー防御のアクセス・無害化措置は、そのための制度であるはずだった。

会社の責任と国の備えは、別の勘定である。制度の不備はGMOの説明責任を軽くしないし、GMOの不備は国の備えの遅れを正当化しない。両者に共通するのは、危機の前の備えが未完成だったという事実である。国内外70社を超える金融機関に接続する環境が人質に取られる事態に、国が止める手段を持っていない現実は、我が国の弱さとして残る。

結論

26日の記事で、財産を守るとは「止める力、止めない備え、償う仕組み、検証する仕組み」を用意することだと書いた。今回の事件が教えるのは、その全てが「危機の前」に用意されていなければならない、ということである。

GMOは、被害者への償いと事件の解明に自社の資金を投じ、攻撃者への支払いを永久に拒んだ。事後の覚悟は本物だろう。だが「検証する仕組み」は、まだ自社に適用されていない。国は、法律を作りながら、その中核を発動できないまま事件を迎えた。来週の緊急対策パッケージが、時間軸の遅れを取り戻す最初の一歩になるかどうかが試金石である。

攻撃者は、会社の検証も国の会議も待ってはくれない。我が国が「攻撃者に払わない国」になるためには、会社には危機の前の備えと検証を、国には発動できる止める力を、それぞれに求め続けなければならない。

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2026年10月27日火曜日

中国の最新認知戦「米国不信」にやられるな――標的は「反中国」の保守である

まとめ
  • レアアースの威圧も外交圧力も裏目に出た中国は、見えにくい認知戦へ軸足を移している。習近平主席の「中米はともに日本と戦った」は、歴史のすり替えによる日米離反の物語づくりである
  • 台湾・国家安全局の報告は、pixivでの対日工作や異常アカウント4万5000超を指摘した。我が国はすでに認知戦の標的である
  • 認知戦は米国への不信を増幅する戦いだ。「反中国」の保守こそ、自分が広める物語が北京の狙いと重なっていないか点検すべきである

「私は中国の認知戦の標的となったのか」。ジャーナリストの古森義久氏が、そう題する報告を寄せた。ワシントンで米中首脳会談を取材した古森氏が、習近平国家主席の発言をXで速報したところ、予想もしなかった反応が返ってきたというのである。

認知戦とは、中国が「三戦」(世論戦・心理戦・法律戦)を総合した戦法であり、実際の戦争をせずに、相手の思考や判断そのものを操作して自国に有利にゆがめる戦いである。

古森氏の体験は一人の記者の話にとどまらない。我が国全体がすでに標的であり、その中には中国に最も警戒しているはずの保守派も含まれる。本稿はその構造を、公的な記録に即して検証する。

1️⃣習近平の歴史のすり替え

2026年9月24日夜、ホワイトハウス。トランプ大統領が習主席を迎えた公式晩餐会で、習主席は「日本」の国名を二度挙げた。時事通信によれば、習主席は「80年以上前、中米両国人民は協力して日本軍国主義の侵略者と戦った」と述べた。米中の友好を祝う席で、第三国である日本の名を「共通の敵」として挙げるのは異例である。

首脳外交の晩餐会(イメージ、AI生成画像)
第一に指摘すべきは、歴史のすり替えである。第2次世界大戦でアメリカと共に戦った中国側の政権は、蒋介石率いる中華民国である。中国共産党政権、つまり中華人民共和国が成立したのは終戦後の1949年だ。中国共産党軍も抗日戦に参加したこと自体は否定しない。しかし「中国とアメリカは同盟国として共に戦った」という物語を、現在の中華人民共和国の功績として語るのは歴史の横取りである。トランプ大統領自身も歓迎行事で米中が「同盟国」として戦ったと発言したが、この言い方に乗れば、中国の物語づくりに手を貸すことになる。

古森氏はこの発言をXでいち早く報じた。投稿は3日ほどで180万ビューに達したという。当初の反応は日本語の投稿が中心で、「当時戦ったのは中華民国だ」という批判が多かった。ところが、そこに中国語の投稿が短時間で急増した。古森氏によれば、全体の3分の1にあたる約60万ほどが中国語で、内容はどれも習主席の擁護と日本への攻撃だった。中国国内の一般国民はXへのアクセスを禁じられている。だとすれば、この波は誰が送り込んだのか。古森氏は、中国当局がからむ認知戦の標的になったと判断した。もっとも、数字も割合も古森氏本人の観察であり、当局の関与はその観察に基づく推論である。この点は割り引いて読む必要がある。

それでも意図は明らかだ。産経新聞の榊原智論説委員長は、この動きを「日米離間策」と呼んだ。「共通の敵と戦った同盟国」という物語は、日米同盟の正統性を歴史の次元で掘り崩す。習主席の狙いは外交儀礼ではなく、日本とアメリカの間に物語のくさびを打ち込むことだ。

この日米離反の試みは、今回が初めてではない。筆者は2026年5月、トランプ大統領の訪中による米中首脳会談を論じた際、中国が日本国内の対中融和派や経済界、一部世論を利用して日米の結束を緩めようとしたが、高市政権の登場によってその目論見は失敗したと書いた(「中国が日本を脅す時代は終わった」)。レアアースを武器にした威圧も、脱中国の供給網を加速させるだけに終わった。直接の脅しが効かなくなったのである。だが北京は日米離反を諦めたのではない。戦場を、歴史の物語とSNSの増幅という認知の領域へ移しただけだ。なぜ今、認知戦なのか。脅しが効かない時代になったからである。

2️⃣日本はすでに戦場である

古森氏の体験を「一人の記者への嫌がらせ」で済ませられない理由がある。台湾の情報機関が、対日工作を含む認知戦の実態を公的な報告書で明らかにしているからだ。

台湾・国家安全局は2026年1月、報告書「2025年中共対台認知戦操作手法分析」を公表した。土屋貴裕・京都外国語大学教授の解説によれば、中国は党・政・軍と民間の資源を総動員し、ビッグデータや生成AI、不正アカウントを使って台湾社会に浸透している。2025年に確認された行動異常アカウントは4万5000以上で、前年より1万7000以上増えた。収集された偽情報は231万件を超える。

注目すべきは、報告書が対日工作の具体例まで挙げていることだ。中国公安部系のアカウント集団が、イラスト投稿サイト「pixiv」に「高市早苗首相が台湾有事を扇動した」と揶揄する虚偽の情報を投稿し、それをさまざまなプラットフォームに拡散させたという。政治色の薄い趣味の場は「ネタ」として扱われ、反証が難しい。笑いの形を取った工作は、警戒されずに広がる。

対日工作の系譜はこれだけではない。2023年の処理水放出以降、我が国を標的にした偽情報が本格化し、2025年11月には高市首相の台湾有事をめぐる発言への「軍国主義の回帰」という攻撃に続いた。公安調査庁も「内外情勢の回顧と展望」で、中国の大学やシンクタンクが沖縄の独立を求める団体の関係者に接近し、分断を図る動きを継続的に記録している。台湾は認知戦の「試験場」であり、そこで試された手法は他の民主国家にも応用される。

我が国の備えは薄い。2022年の安保3文書には「認知領域への対処」が明記されたが、具体策は乏しいままである。年末の安保3文書改定で、認知領域を理念から実効ある対策に落とせるかが問われている。

3️⃣一番危ないのは「反中国」の側だ

認知戦とは、相手に中国の主張をそのまま唱えさせる戦いではない。相手の社会にもともとある不満や不信、不安を増幅し、分断を深めることで、その社会の判断を自国に有利な方向へゆがめていく戦いである。だから「自分は反中国だから関係ない」という油断が、一番危ない。

台湾・国家安全局の報告書は、中国が繰り返し拡散する物語として「米国懐疑論」と「軍事介入懐疑論」を挙げている。アメリカは当てにならない。アメリカは台湾も日本も守らない。台湾有事を煽る者は日本を戦争に巻き込む。こうした物語である。

振り返って、我が国の言論空間はどうか。保守と目される人の中にも、「アメリカは結局、日本を見捨てる」「台湾有事に日本を巻き込むな」「防衛費を増やしても無駄だ」と繰り返す人が増えたように見える。これらの言い方は、台湾の報告書が挙げる中国の物語と、型の上で重なっている。本人に中国の意図などなく、我が国を思っての発言かもしれない。しかし認知戦の成否は、本人の意図では決まらない。その言説が日米の亀裂を広げ、我が国の防衛意思を痩せさせる結果をもたらすかどうかで決まる。意図せず北京の狙いを手伝うことは、十分にあり得るのである。

ここでもう一つ、情報環境の歪みを挙げておく。台湾有事をめぐる恐怖の前提である。筆者は以前、本ブログで台湾侵攻の困難さを論じた。結論は「台湾侵攻は、一般に考えられているよりは、はるかに困難なのである」というものだった。急峻な山岳地形、複雑な河川網、地下軍事施設、住民の国防意識。武力侵攻の障壁は極めて高い。詳細はリンク先に譲る。

ところが、この種の軍事的事実は、我が国ではほとんど報じられない。侵攻が間近で、しかも容易いかのような前提に立てば、「巻き込まれるな」という声は強まり、抑止への支持は痩せる。恐怖が広がる方が、北京には都合がよいのだ。困難だという事実が報じられにくいこと自体、中国の認知戦が作り出した情報環境の歪みである可能性がある。

もっとも、ここには引くべき一線がある。アメリカへの疑問や台湾有事への懸念そのものは、正当な議論である。それらを根拠もなく「中国の認知戦だ」と決めつければ、対策自体が陰謀論になり、国内の分断はかえって深まる。それこそ工作の思うつぼだ。工作と呼べるのは、台湾・国家安全局や公安調査庁の記録のように、出所と手口に裏付けのあるものだけである。点検すべきは、主張の是非の前に、その情報の出所と増幅のされ方である。

結論

中国の認知戦は、もう対岸の出来事ではない。国家元首自らが歴史の物語を仕掛け、情報機関の報告書が対日工作を記録し、趣味のサイトにまで偽情報が入り込む時代である。

筆者は5月に「中国が日本を脅す時代は終わった」と書いた。その判断は今も変わらない。ただし、脅しが消えたのではない。姿を変えたのである。見える脅しに屈しなくなった我が国に対して、北京は見えない戦いを強めている。中国が強く出るほど日本の戦略価値が上がるという優位の構図は、認知の領域では自動的には働かない。不信と分断は、価値が上がる前に社会の足元を崩す。優位の時代にこそ、認知の防衛が要る。

備えは二層で考えるしかない。国家の層では、年末の安保3文書改定において認知領域への対処を理念で終わらせず、台湾など最前線の知見を共有する仕組みまで含めた具体策に落とすこと。個人の層では、出所を確かめ、一次資料に当たり、煽られるままに拡散しないことである。

そして最後に、保守への自戒を込めて書く。認知戦の標的は、親中の人だけではない。中国に最も警戒する人々の不信と不安こそ、増幅の材料として狙われている。戦わずして相手の判断をゆがめる戦いは、すでに始まっている。我が国を守るというなら、まず自分が拡散する物語が、誰の狙いと重なっているかを点検すべきである。

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