2026年10月15日木曜日

造船業が再び問う日本の底力――函館どつく(株)函館造船所に、いまエールを送りたい

まとめ

  • 「船体」が経済安全保障推進法に基づく特定重要物資である「船舶の部品」の対象に加わり、国内で船を造る力の重要性が政策にも明確に表れている。
  • 仕事の都合で函館に暮らし、函館どつくを不況や非効率の象徴のように見ていた私自身も、地域に蓄積された仕事と技術の価値を問い直している。
  • 函館どつくと名村造船所の供給確保計画も認定された。造船業への再評価を、次の世代の雇用、人材育成、設備投資につなげてほしい。

造船業の重要性が、改めて見直されている。政府は2025年12月に「造船業再生ロードマップ」を策定し、2035年の年間建造量を1,800万総トンへ引き上げる目標を掲げた。策定時に示された約900万総トンから、倍増を目指す計画である。国土交通省の公表資料

この動きを見ながら、私には思い出す街と企業がある。かつて仕事の都合で暮らした函館と、函館どつくである。

今から20年ほど前、私には造船業が、構造不況から抜け出せない産業のように見えていた。函館どつくにも、街の不況や非効率を象徴するような印象を抱いていた。その私が、いまは造船の技術を守り、つないできた人々にエールを送りたいと思っている。

「船体」の安定供給を経済安全保障の課題として支える政策も動き出している。かつての自分の見方と現在の政策を重ねると、産業や地域の価値をどのような物差しで測るべきか、改めて考えさせられる。

1️⃣住めば都となった函館で、私が見落としていたもの

函館は私の郷里ではない。仕事の都合で移り住んだ街である。それでも、ある程度の期間を暮らせば、住めば都という言葉のとおり、愛着が湧いてくる。私にとって函館は、単なる赴任先ではなくなっていた。

ただ、私が暮らしていた当時、函館は不況のさなかにあった。私の記憶にも、街の経済に対する閉塞感が残っている。そのなかで、函館どつくは、街が抱える不況を象徴する存在のように私には見えていた。

造船業は構造不況から抜け出せず、将来の展望も描きにくい。函館どつくも非効率を抱えた企業なのだろう。当時の私は、街全体に感じていた停滞感を、この企業に重ねて見ていたのだと思う。

 港を望む秋の坂道とハイカラ號。住めば都となった函館への思い AI生成画像
一方で、忘れられない知人がいる。函館出身で、東京で就職した後に仕事を辞め、函館へ戻ってきた人だった。その知人が、函館の「後進性」を吐き捨てるように語っていたことがある。私は、その言葉には同調できなかった。

私自身も街の経済に厳しい見方をしていた。それでも、暮らすうちに愛着を持った街を、そのように一括りに評することには抵抗があった。経済が停滞しているからといって、そこに暮らす人々の営みや、積み重ねられてきた仕事の価値まで低く見てよいとは思えなかった。

函館を何によって評価するのか。それを考える身近な例が、飲食店である。

函館は、道央圏に比べて大手飲食チェーンの進出が遅いとされてきた。2025年には、松屋やサイゼリヤ、ゆで太郎などの出店が相次いでいることが、地元紙で取り上げられている。北海道新聞

全国で見慣れた看板が少なければ、不便に感じる人もいるだろう。しかし、それだけで街の豊かさを測れるだろうか。

函館には、ラッキーピエロやハセガワストアといった、地域ならではの店がある。ラッキーピエロは地元の食材を生かす「地産地食」に取り組み、ハセガワストアの「やきとり弁当」は、豚肉をやきとりと呼ぶ道南の食文化を伝えている。そこには、全国共通の看板の数では捉えられない、土地に根差した商売と暮らしがある。ラッキーピエロ公式サイト、ハセガワストア公式サイト

全国チェーンの進出によって選択肢が増えることは歓迎したい。同時に、それ以前から地域で育ってきた店や食文化にも、目を向ける必要がある。東京と同じものがそろっているかどうかだけで、その街の価値は決まらない。

知人の言葉に同調できなかった理由も、いま振り返ればそこにあったのだと思う。暮らすうちに愛着を持った街には、外からの比較だけでは見えにくい価値があった。

もっとも、私自身も、その価値を十分に見抜いていたわけではない。函館という街を一括りに低く評価することには反発しながら、函館どつくには、実情を詳しく知らないまま「非効率」という印象を重ねていたのである。

函館どつくが街の不況の原因だったという意味ではない。私は経営や生産現場を検証したうえで、その効率を判断していたわけでもなかった。地域経済への閉塞感と企業への評価を重ね、産業の価値を狭い物差しで見ていたのではないかと思う。

飲食業と造船業では、事業の条件も社会的な役割も異なる。それでも、地域で何が育ち、どのような仕事が積み重ねられてきたのかを見る必要があるという点は共通している。

船を造り、直す仕事には、設備とともに人の技能が必要である。図面を理解し、材料を加工し、溶接し、多くの工程を調整して一隻の船に仕上げる。その力は、設備や材料を購入するだけでは手に入らない。現場で経験を積み、先輩から後輩へ仕事を伝える時間が欠かせない。

函館どつくは1896年創立の函館船渠を前身とし、現在も造船や船舶修繕などを担っている。同社は技能の研鑽と承継を掲げ、社内教育の仕組みも設けている。函館どつく公式サイト、会社概要、社内教育

私が外から「非効率」という印象を抱いていた間にも、そこには船を造り、修繕し、仕事を覚え、次の人へ伝える営みがあった。その価値を、当時の私は十分に見ていなかった。

産業に対する社会の評価は変わる。しかし、評価が変わるまで技術を休ませておくことはできない。仕事を続け、人を育てることでしか残せない力がある。

2️⃣「船体」の重要物資指定が示す、造船業の新たな位置付け

造船業の再評価を考えるうえで、注目すべき政策の変化がある。経済安全保障推進法に基づく特定重要物資である「船舶の部品」の対象に、「船体」が追加されたことである。

私は先のブログ記事、「なぜ『船体』が重要物資になったのか――日本の造船再生は産業政策を超えた経済安全保障」でも、この問題を取り上げた。今回、函館で暮らしていた頃の記憶と重ねると、その意味が一層身近に感じられる。

我が国の貿易量の99.6%は海上輸送が担っている。食料もエネルギーも、工場で使う原材料も、船による輸送に大きく依存している。船舶を安定して確保する力は、日々の暮らしと経済活動を支える基盤なのである。国土交通省の公表資料

国土交通省は、国内の建造量の減少が続けば、造船のサプライチェーンを維持できなくなり、国民生活や経済活動に甚大な影響を及ぼす恐れがあると説明している。そのため、船体の安定供給に向けた取組方針を改定し、造船業再生基金を通じて設備・施設への投資や新技術の研究開発を支援する方針を示した。国土交通省・2026年2月25日発表

クリックすると拡大します AI生成画像

ここから読み取れるのは、国内で船を造る能力を、我が国が維持すべき経済安全保障の基盤として捉える視点である。

船を海外から調達することには合理性がある。しかし、国内の建造能力が失われれば、調達先を選ぶ余地も狭まる。必要なときに船を確保するためには、平時から設備を維持し、人を育て、技術を更新し続けなければならない。供給が不安定になってから造船所や熟練者を急いでそろえることは難しい。

そして、この政策は函館どつくにも具体的につながっている。

国土交通省の公表資料によれば、2026年9月4日、名村造船所と函館どつくによる船体の供給確保計画が認定された。取組内容は、船体の供給能力を高める先進的な施設等の導入である。最大助成額は両社の計画に対して約499億円とされている。これは函館どつく単独への助成額でも、すでに支払われた金額でもない。国土交通省・供給確保計画の認定実績

かつて私が不況や非効率の象徴のように見ていた企業が、いま、我が国の船舶供給能力を強化する計画の担い手となっている。この事実は重い。

現場に人と技術が受け継がれてきたからこそ、設備投資を通じて将来の供給能力を高める道を描ける。函館どつくの歩みと経済安全保障は、ここで具体的につながっているのである。

3️⃣函館どつくへのエールを、次の世代につなげたい

いま私が函館どつくに伝えたいのは、長く技術をつないできたことへの敬意である。

私のように、造船業に厳しい見方をしていた人間もいた。それでも現場では仕事を続け、船を造り、修繕し、人を育ててきた。その積み重ねがあるからこそ、いま将来に向けた可能性を考えられる。

もちろん、企業にとって採算や生産性は重要だ。政策上の重要性が認められ、支援の対象になったことをもって、再生が実現したと考えるのは早い。年間建造量の倍増は、これから達成すべき目標である。公的支援が生産性の向上や安定した供給能力につながるかは、実際の成果によって確かめる必要がある。

技術革新の取組も始まっている。国土交通省は、曲げ加工や溶接などに活用するAI造船ロボットや、その活用を支える基盤の研究開発について、14件の事業を採択した。少ない人手でも安定して船を供給できる体制づくりと、技能の継承を目指す取組である。国土交通省の採択発表

熟練者から若手へ。船を造る技術を、次の世代につなぐ AI生成画像
こうした新技術を現場で使いこなすためにも、人材への投資が重要になる。熟練者の経験を若い世代に伝えながら、仕事の進め方を改善し、安全性と生産性を高めていく。その努力を継続できる環境が必要だ。

働く人が技能に見合った処遇を得られること。若い世代が、ここで働き続けたいと思えること。安全な職場と、新しい技術を学ぶ機会があること。そして、企業が人材育成や設備投資を続けられるだけの仕事の見通しを持てること。こうした条件が整って初めて、技術の継承は将来につながる。

函館で暮らした経験を持つ私にとって、これは街の将来にも関わる話である。地域に専門的な仕事があり、そこで技能を磨き、暮らしを築ける。その選択肢を残し、広げていくことに、造船業を支える大きな意味がある。

地域に根差した店が食文化を育ててきたように、造船の現場には、長年の仕事を通じて蓄積された技術がある。それぞれの価値を見極め、将来につながる力を伸ばしていくことが、街の可能性を広げる。

函館どつくへのエールには、長年の努力への感謝とともに、そこで働く人々の将来への期待を込めたい。技術を守ってきた人々が報われ、次の世代がその仕事に誇りを持てるようになってほしい。

おわりに

造船業の再評価は、私自身に、産業を見る目を問い直す機会を与えている。

目先の採算や効率を確かめながらも、その産業を失ったときに何が失われるのかを考える。人材や設備に蓄積された力を、長い時間軸で評価する。「船体」の重要物資指定は、そうした視点を政策として具体化する動きと受け止められる。

函館は私の郷里ではない。それでも、仕事で移り住み、日々を重ねるうちに、住めば都となった街である。知人の語る「後進性」に同調できなかったのも、そこで暮らすことを通じて、比較だけでは測れない価値を感じていたからだろう。

その一方で、函館どつくに蓄積された人と技術の価値を、私は十分に理解していなかった。かつて街の不況を象徴するように見えていた企業を、いまは、我が国の将来を支える技術をつないできた存在として見直している。

当時の自分の見方を省みながら、函館どつくに、心からエールを送りたい。

そして、そのエールが届く先に、次の世代の仕事と誇りが育ってほしい。造船業への再評価を、継続的な投資と人材育成につなげることが、いま求められている。

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2026年10月14日水曜日

北方領土を中露接近の中で読む――択捉島訪問と道新記者拘束が問う日本の戦略


まとめ
  • 北方領土では、ロシアの軍事的な支配に、中国の経済的な利害が重なる可能性が生じている。日本は、実効支配が固定化される過程を具体的に把握し、対応しなければならない。
  • 道新記者の拘束では、ロシア側の容疑を事実と混同せず、邦人の安全と独立した取材を守る必要がある。現地を知る手段が細れば、日本の判断力も損なわれる。
  • 高市政権には、外交上の申し入れと、北方・南西を併せた警戒監視、北海道の生活・産業基盤の強化を結び付け、我が国の交渉力を支える政策が求められる。

中国の地方代表団が択捉島を訪れ、北海道新聞の記者がサハリンで拘束された。相次いで伝えられた2つの出来事は、北方領土をめぐる状況が、我が国の交渉を待たずに動いていることを突き付けた。

両者が連動した対日工作だと示す証拠は確認できない。それでも、ロシアが支配する地域で経済事業への参入が模索される一方、外国人記者の取材が制約される問題を、日本の北方政策として考える必要がある。

本稿で問いたいのは、中露接近の下で進み得る実効支配の固定化に、日本がどう対応するかである。領土についての原則を守り、その実現を支える防衛力、経済力、現地情勢を把握する力を備えなければならない。

1️⃣ 択捉島の視察を、実効支配の固定化という視点で読む

サハリン州などは10月13日、中国黒竜江省の行政関係者や実業家らが択捉島を訪れ、観光施設の建設候補地や養魚場などを視察したと発表した。ホテル事業やウニ、ナマコの養殖に関心を示したという。現段階では事業の可能性を探る訪問であり、投資の実行が決まったわけではない。FNNの報道

この動きには前段がある。8月13日、プーチン大統領が択捉島を訪問し、高市首相は強く抗議した。今回の中国代表団の視察は、その後に続く経済面の動きとして捉えるべきである。首相官邸の会見記録

ホテルや水産事業が具体化すれば、島には投資、雇用、物流、販売先といった継続的な利害が生まれる。ロシアの制度の下で利益を得る第三国の関係者が増えれば、現在の統治の継続を望む主体も増え得る。

視察と、事業化した場合の影響を分けて示した概念図。AI生成画像。クリックすると拡大します
領有権が法的に変わらなくても、返還交渉を取り巻く条件は変わる。経済活動の積み重ねが、実効支配を固定化する方向に働く可能性がある。

その背後には軍事的な事情もある。オホーツク海はロシアの核ミサイルを搭載する戦略原子力潜水艦の活動海域である。防衛省は、北方領土や千島列島などへのミサイル配備を、他国軍の接近を阻んでこの海域を守る戦略の一環と分析している。ロシアは島々を、対米核抑止を支える周辺防衛にも位置付けているのである。防衛白書の解説

四島それぞれの軍事的役割は異なり、この事情が占拠を正当化することもない。ただ、日本の返還要求に対し、ロシアには支配を維持する軍事的な動機がある。そこに第三国の経済的な利害が加わる可能性を、今回の視察は示している。

茂木外相は10月13日の会見で、事実関係を確認し、日本の立場に基づいて対応すると述べた。日本政府は従来、ロシアの管轄権を前提とする第三国の北方領土での経済活動を容認できないとしている。この原則を、具体的な事業の把握と外交上の働きかけにつなげることが次の課題となる。外相会見、外務省の基本的立場

2️⃣ 中露の協力と利害の違いを見極め、日本の対応を具体化する

今回の訪問だけで、中国政府が北方領土へのロシアの主権を正式に承認したとも、中国軍の進出が決まったとも言えない。地方政府、企業、中央政府の判断を分け、誰が何を進めようとしているのかを見極める必要がある。

防衛研究所の研究者による『中国安全保障レポート2026』も、中露の協力の進展と同時に、外交戦略や軍事協力の非対称性を指摘している。両国の協力を警戒しながら、個々の利害の違いを外交に生かす姿勢が必要である。中国安全保障レポート2026

日本がまず把握すべきは、事業主体、資金の出し手、許認可、輸送経路、販売先である。視察が契約や着工へ進むのかを追い、中国政府への申し入れと関係企業への説明を重ねる。軍事転用や制裁対象との取引が疑われる場合には、根拠を確認したうえで、同盟・同志国と対応を調整すべきだ。

軍事面では、北方と南西を併せて考えなければならない。中露はベーリング海などでの爆撃機の共同飛行や、日本海から北極海にかけての共同航行も実施している。南西方面の緊張時に北方でも警戒を迫られれば、日本の監視・補給・部隊運用の負担は増す。共同参戦を決めつける必要はないが、複数方面への備えは不可欠である。2026年版防衛白書

北海道の燃料供給・物流・産業基盤を象徴するイメージ AI生成画像
経済面では、日本自身の対露関係も見直し続ける必要がある。政府はサハリン1・2の権益を、エネルギーの安定供給上重要として維持する方針を示している。これは北方四島での事業とは領土問題上の位置付けが異なるが、対露依存への備えが必要なことに変わりはない。代替調達と国内供給力を確保するほど、外交上の選択肢も広がる。外交青書2026

**相手の行動を変える外交には、自らが圧力に耐えられる基盤が要る。**北海道の港湾、空港、通信、燃料供給の強化は、その基盤となる。漁業や地域の雇用を支え、人が暮らし続けられる環境を守ることも、北方政策の一部である。

3️⃣ 道新記者拘束――邦人の安全と、現地を知る手段を守れ

ロシア連邦保安局(FSB)は10月13日、北海道新聞ユジノサハリンスク支局の日本人記者をスパイ容疑で拘束したと発表した。10月14日午前6時4分のFNN報道では、在ロシア日本大使館と北海道新聞社は、ともに事実関係を確認中としている。FNNの報道

FSBは、日本の情報機関の指示による防衛関連情報の収集を主張している。しかし、当局の発表や公開した拘束映像だけで、容疑が立証されたことにはならない。安全保障に関する取材とスパイ活動は同一ではなく、具体的な証拠と手続きの検証が必要である。TBSの報道

現地取材を支える機材と作業室のイメージ AI生成画像
ロシア外務省も、日本が特派員を情報収集に利用しようとしているとの趣旨の非難を表明したと報じられた。ロシア側自身が、記者個人の容疑を日本政府への批判に結び付けている。ただし、その主張を裏付ける独立した証拠は確認できていない。共同通信の報道

日本政府が優先すべきは、本人の所在と健康状態の確認、領事面会、弁護人へのアクセス、拘束根拠の具体的な説明を求めることである。不当な拘束であれば、速やかな解放を求めなければならない。新聞社の論調に対する賛否によって、邦人保護の重みが変わることはない。

この問題は、北方情勢を把握するうえでも重要である。拘束への恐れで取材協力者が口を閉ざし、現地取材が細れば、住民生活や戦争の影響、企業活動の実情を知る手段が減る。経済的な既成事実が積み重なっても、その過程を外から確かめにくくなるおそれがある。

独立した報道は、ロシア側の説明だけでなく、日本政府の認識や政策を検証するためにも必要である。報道機関の独立性を尊重し、記者と取材協力者の安全を守ることは、我が国が判断を誤らないための条件でもある。

結論――北方領土の返還を支える国力を蓄積せよ

今回の代表団訪問が、直ちに大規模投資へつながるとは限らない。それでも、日本が返還を求める間に、ロシアの支配を支える経済的な関係が増える可能性はある。記者拘束によって現地を知る手段まで細れば、その変化への対応も難しくなる。

高市政権には、領土についての原則を明確に示し、事業参入への外交的な働きかけ、北方と南西を併せた防衛、北海道の生活・産業基盤の強化を、一つの北方政策として進めることを求めたい。同時に、元島民と家族の人道的な往来や漁業の実務協議に必要な外交窓口も維持すべきである。

返還を求める意思を、交渉を支える力へ変える。そのために、現地で進む変化を把握し、日本の選択肢を増やす具体策を積み重ねることが必要である。

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2026年10月13日火曜日

高市政権が見直す基金7兆円、本当に全部必要なのか


まとめ
  • 基金7兆円は、全部が無駄でも、全部が必要と確認されたものでもない。 大企業の資金管理と同様、必要額を継続的に検証しなければならない。基金を管理する側だけでなく、造成や積み増しを認めた政府の判断も検証する必要がある。
  • 高市政権の7月と10月の改革は、必ずしも矛盾しない。 7月には基金の3年ルールを見直し、長期投資を支援した。10月には滞留資金の見直しを強化した。必要な事業の継続性と厳格な資金管理を両立させることが重要である。
  • 日本版DOGEは、削減額だけでなく政策の成果で検証すべきである。 ドラッカーの「体系的廃棄」を手掛かりに、基金や特別会計の必要性を問い直し、不要な資金を見直しながら、必要な投資を確保することが求められる。

2026年10月9日、高市政権は「日本版DOGE」による政府基金の見直しを強化した。片山さつき財務相によれば、対象となる約200基金の2027年度末残高は、約7兆円に達する見込みである。

DOGEとは、2025年1月にトランプ米大統領が設置した政府効率化の取り組みである。イーロン・マスク氏が活動を主導したことで知られる。日本版DOGEは米国の制度をそのまま導入したものではなく、租税特別措置、補助金、基金などの必要性を見直す取り組みである。米国の制度については設置に関する大統領令で確認できる。

問題は、基金7兆円のすべてが本当に必要なのかということである。

この問題を理解するには、個人の家計よりも、何万人もの従業員を抱える大企業の経営が参考になる。個人には寿命があるが、大企業は経営者や従業員が交代しても事業を継続する。国家もまた、政権や世代が交代しても存続することを前提とする。もちろん、国家には課税権など企業とは異なる仕組みがあるが、将来の事業に備えて資金を確保し、その必要性を検証する点では共通している。

経営学者ピーター・ドラッカーは、1963年の論文「Managing for Business Effectiveness」で、経営者の責任は利用できる資源から成果を生み出すことだと論じた。

資金を持っていること自体が成果ではない。その資金で何を実現するかが問われるのである。

1️⃣大企業ならどうするか――資金を確保する責任と見直す責任

従業員3万人を抱える大企業が、5年後の新工場建設に備えて500億円を確保したとしよう。

工場建設には長期間にわたる支出が必要になるため、将来に備えて資金を確保することは合理的な経営判断である。

しかし、建設計画が中止されたにもかかわらず、経営陣が「いつか必要になるかもしれない」と説明するだけで、何年も500億円を保持していたらどうだろうか。

大企業の設備投資と資金管理 AI生成画像
取締役会や株主は、その必要性を問い直すだろう。別の設備投資や研究開発に使えないのか。借入金の返済に振り向ける方が合理的ではないか。経営者には、資金を確保した理由だけでなく、保有し続ける理由を説明する責任がある。

もちろん、余裕資金の保有自体は違法ではない。しかし、会社法は取締役に忠実義務を課し、任務を怠って会社に損害を与えた場合には賠償責任を定めている。違法行為がなくても、必要な投資機会を逃せば、経営判断の妥当性が問われる。

ここで重要になるのが、ドラッカーの「体系的廃棄」という原則である。

ドラッカーは1992年の論文「The New Society of Organizations」などで、従来の活動を必要に応じて廃止し、新しい活動を創出する重要性を説いた。これは単なる経費削減ではない。成果を生まなくなった事業から、より重要な事業へ資源を振り向けるという考え方である。

先ほどの500億円に当てはめれば、問いは明快だ。

「もし今、新工場建設の計画が存在しなかったとして、それでも500億円を新たに確保するだろうか」

必要なら維持すればよい。説明できなければ、使い道を見直すべきである。

さらに、投資計画を承認した経営陣にも責任がある。計画が実現しなかった場合、担当部門だけでなく、承認した側も当初の判断を検証しなければならない。

資金を管理する側だけでなく、資金の確保を認めた側にも責任がある。

この原則は国の基金にも当てはまる。

2️⃣基金では何が起きたのか――会計検査院の指摘と政府の責任

国の基金は、複数年度にわたる政策のために資金を確保する仕組みである。半導体、研究開発、経済安全保障など、長期的な事業では合理性がある。しかし、計画が変更された場合、必要額は適切に見直されているのだろうか。

2025年12月に公表された会計検査院の基金に関する報告書には、具体的な事例がある。

会計検査院が指摘した基金管理の3事例 AI生成画像。クリックすれば拡大します
総務省は2022年3月、デジタルインフラ整備基金に500億円を交付した。しかし、国内海底ケーブル関連の一部事業では、2023年度末に約267億円が使われず、2024年度末になっても公募が行われていなかった。総務省は事業実施体制の構築や資材価格の高騰への対応などに時間を要したと説明しているが、計画と必要額を再検討する必要性は明らかである。

会計検査院は、農林水産省と経済産業省の基金事業で、同じ事業者の同じ燃油購入に対し、異なる制度から支援が行われていた事例も指摘した。直ちに違法とはいえないが、政府全体での調整が問われる。

管理費の監督にも問題があった。調査対象131基金のうち66基金では、2019年度から2023年度までの間、所管省庁などが管理費の証拠書類を一度も確認していなかった。

一方、必要額を見直した結果、資金が返納された例もある。全国信用保証協会連合会が管理する経営安定補助金関係の基金では、将来の事業見込額を精査し、使用見込みのない7,452億円が2025年2月に国庫へ返納された。

これらは過去の検査結果であり、2027年度末に見込まれる約7兆円の内訳を直接示すものではない。しかし、基金の必要性を継続的に検証する重要性を示している。

ここで忘れてならないのが、基金を造成した当時の予算判断である。

基金は各省庁が勝手に確保するものではない。一般に、各省庁の予算要求、財務省の査定、内閣による予算案の決定、国会の議決を経て資金が措置される。

大企業でいえば、事業部が提案した投資計画を経営陣が承認するのに似ている。後になって必要額が過大だったと分かったなら、資金を管理する部門だけでなく、当初の投資判断も検証されなければならない。

国の基金についても同様である。所管省庁や基金管理法人の責任だけでなく、財務省を含めた予算編成過程も検証する必要がある。

日本版DOGEが基金の返納を求めるだけでなく、過去の予算判断を将来の制度改善に生かせるかどうかが重要なのである。

3️⃣7月には長期投資を促進、10月には滞留資金を見直し――改革は矛盾するのか

2026年7月30日、高市政権は行政改革推進会議で、基金への新たな予算措置を原則3年程度とする「3年ルール」を見直した。

先端技術の研究開発や企業の長期投資では、機械的な期間制限が政策の実効性を損なう場合があるためだ。小野田紀美大臣も翌31日の記者会見で、柔軟な資金管理と複数年度の予算措置の重要性を説明している。

その一方で、10月9日には日本版DOGEによって基金の滞留資金の見直しを強化した。

7月には長期投資を促進し、10月には資金の返納を進める。一見すると矛盾するようだが、目的は異なる。

例えば、半導体工場の建設に5年間かかるなら、3年で資金措置を区切ることが合理的とは限らない。一方、建設計画が中止されたなら、確保した資金を保持する必要があるのかを検証すべきである。

7月の改革は必要な事業の継続性を確保するもの、10月の改革は必要性を失った資金を見直すものである。

この二つは両立する。

今回の見直しでは、基金の管理方法を変更することも検討されている。その一つが「国庫債務負担行為」の活用である。国会の議決を受けて将来年度にわたる支払い義務を伴う契約を結ぶ制度であり、事業によっては長期的な支払いを確保しながら、基金にあらかじめ交付する資金を減らせる。ただし、すべての基金を代替できるわけではない。

ここで、特別会計にも触れておきたい。

日本には2026年度時点で14の特別会計があり、財務省の資料によれば、年間の歳出予算総額は441.7兆円、重複計上などを除いた純計額は216.2兆円である。これは保有資金の残高ではなく、諸外国とも会計処理が異なるため、金額だけで過大とは判断できない。

しかし、各特別会計が保有する資産や剰余金の必要性は別問題である。

例えば、外国為替資金特別会計では、2024年度決算で約5.36兆円の剰余金が生じ、約3.20兆円が一般会計に繰り入れられた一方、約1.37兆円が外国為替資金に組み入れられた。

2024年度末の組入累計額は約30.19兆円である。ただし、自由に使える現預金ではなく、外貨資産と負債に伴う為替・金利変動への備えという性質がある。財務省は保有外貨資産の30%を中長期的な組入れの目安としているが、その基準の合理性は継続的に検証されるべきである。

実際、特別会計に関する法律は、必要以上の資産を保有しないよう、剰余金を適切に処理することなどを基本理念としている。

基金と特別会計に共通する資金管理の原則 AI生成画像。クリックすれば拡大します
片山財務相も9月4日の記者会見で、特別会計や基金などからの税外収入確保について、ゼロベースで取り組む方針を説明した。

基金と特別会計は別制度であり、資金の返納や剰余金の処理方法も異なる。しかし、政府全体として資金の必要性を問い直すという原則は共通している。

そして、見直しで国庫に戻された資金をどう扱うかも重要である。

資金を返納させることと、必要な財政支出を削減することは同じではない。政府は予算上の手続きを経て、必要な研究開発、インフラ整備、経済安全保障などに資金を振り向けることができる。ただし、一度限りの返納額を継続的な財源と同一視してはならない。

ドラッカーの「体系的廃棄」も、単なる経費削減ではない。成果を生まなくなった活動を見直し、より重要な活動に資源を集中させるための原則である。

必要な事業を継続し、必要性を失った資金を見直す。この二つを両立させることが、基金改革の核心なのである。

結語 基金7兆円に本当に問うべきこと

大企業では、将来の事業に備えて資金を確保する。しかし、事業計画が変われば、その必要額も変わる。経営者には、資金を確保する責任だけでなく、必要性を問い直す責任がある。

国の基金も同様である。

2027年度末に約7兆円の残高が見込まれるからといって、全部が無駄なわけではない。しかし、全部が必要だと証明されたわけでもない。

会計検査院の報告は、事業の停滞や管理上の問題を明らかにしている。一方、必要額を精査した結果、多額の資金が返納された例もある。見直すべきなのは資金の管理方法だけでなく、当初の予算を認めた政府の判断でもある。

さらに、高市政権は7月に基金の3年ルールを見直し、長期投資を継続しやすくした。その一方で、10月には滞留資金の返納を強化している。

この二つは、本来両立すべき政策である。

ドラッカーの経営思想を応用すれば、政府が問うべきことは明快だ。

「もし今、その基金が存在しなかったとして、それでも同じ目的で、同じ金額を新たに確保するだろうか」

必要なら根拠を示して維持すればよい。必要性がなくなったなら、資金の返納や再配分を検討すべきである。

そして、どの事業を続け、どの事業を終え、どこに新たな資金を配分するかという判断には、政治が責任を負わなければならない。

日本版DOGEの成果は、いくら削減したかという数字だけでは測れない。

必要な資金は確保する。不要になった資金は見直す。そして、その資金を国民のためにどう生かすかを政治が決め、成果に責任を負う。

国の資金は、保有すること自体に意味があるのではない。国民のために成果を生み出してこそ意味があるのである。

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2026年10月12日月曜日

高市首相の十勝AI農業特区――北海道を強く豊かにし、何を未来へ残すのか


 まとめ

  • 十勝AI農業特区は、人口減少時代の新しい地方創生を示している。 AIやロボットによって生産性を高め、少ない労働力でも産業と暮らしを維持する取り組みである。人口減少を嘆くだけでなく、技術革新によって豊かさを生み出す発想が重要だ。
  • 北海道の潜在力は、郷土の暮らしを守るために生かすべきである。 農業、半導体、宇宙、エネルギーなどの産業を育て、所得と雇用を生み出すことは重要だ。しかし、産業の成長そのものが地方創生の最終目的ではない。
  • 八百万の神に通じる霊性の精神を失えば、真の地方創生にはならない。 北海道の多様な歴史や文化を互いに排除せず、郷土全体の財産として受け継ぐことが重要である。新しい技術で未来を切り開きながら、先人への感謝と郷土への矜持を忘れず、土地の魂を未来へ渡すことこそ、地方創生の本質である。

10月10日、高市早苗首相は自身のXで「日本列島を、強く豊かに。:十勝編」と題する投稿を行った。取り上げたのは、北海道十勝地方の19市町村が9月30日に指定を受けた「十勝AI農業特区」である。

高市首相の投稿には、「十勝で実証。十勝で成功。全国へ展開。」という言葉が掲げられている。ロボットトラクタやドローン、AIを活用した農業技術の開発・実証を進め、十勝から全国へ広げようという構想だ。

私は、この方向性に異論はない。人口減少が進む北海道だからこそ、AIやロボット技術を活用し、生産性を高める必要がある。北海道には農業、半導体、宇宙、エネルギーなど、大きな経済的潜在力がある。

しかし、ここで根本的な問いが生じる。

私たちは、何のために北海道を強く豊かにするのか。

所得が増え、工場が建ち、生活が便利になれば、それだけで地方創生は完成するのだろうか。経済的には豊かになっても、先人への感謝を忘れ、郷土への誇りを失ってしまえば、それを真の地方創生と呼べるのだろうか。

私は以前、「人口減少の北海道を救うもの――上士幌が示すAI・エネルギー・神社という地方創生」という記事で、今回の特区にも含まれる上士幌町を取り上げた。

この町では、自動運転やバイオガス発電など、新しい技術を活用した地域づくりが進んでいる。一方、上士幌神社には、開拓者たちが故郷の歴史と信仰を新天地へ受け継いだ物語が残されている。

一見異なるこの二つは、実は深く結び付いている。

新しい技術で未来を切り開くことと、先人から受け継いだものを守ること。この両方を実現してこそ、真の地方創生になるのではないか。

1️⃣人口が減っても豊かに暮らせる町をつくる

十勝は、日本を代表する大規模農業地域である。帯広市の公式資料によれば、地域の食料生産量を地域人口の必要量と比較した食料自給率は約1,300%と推計されている。しかし、その十勝も農業従事者の減少と高齢化に直面している。

そこで期待されるのが、AIやロボットによる生産性の向上だ。今回の特区では、ロボットトラクタの公道走行やドローンの活用を進めるため、規制・制度改革と実証に取り組む。政府は農業・食品産業技術総合研究機構(農研機構)の北海道農業研究センター芽室研究拠点についても、AI農業の研究体制を強化する方針を示している。

十勝AI農業特区が目指す未来。機械化が進む十勝農業にAIや自動化技術を取り入れ、省力化と生産性向上を図る。実現には技術実証と制度整備が必要である。(AI生成画像・クリックすれば拡大します)
十勝を、食料を生産するだけでなく、新しい農業技術も生み出す地域へ発展させる。 ここに今回の政策の重要な意味がある。ただし、特区指定によって農業の自動化が完成したわけではない。今後の実証と制度改革を、農家の所得向上や労働負担の軽減につなげることが必要だ。

この発想は、上士幌町の取り組みとも重なる。同町では2017年から自動運転の実証を重ね、2022年には自動運転バスの定期運行を開始した。2024年には公道でレベル4自動運転の実証も行っている。

農業と公共交通では分野が異なるが、人手不足を技術によって補い、地域の暮らしを維持しようとする点は同じである。人口が減少しても、AIやロボットによって一人当たりの生産性を高めれば、地域の供給力と生活水準を維持できる可能性が広がる。

地方創生とは、人口減少を嘆くことではない。人口が減少しても、人々が豊かに暮らせる地域をつくることだ。

十勝AI農業特区と上士幌町の挑戦は、その可能性を示している。

2️⃣北海道の潜在力を、郷土を守る力に変える

上士幌町には、もう一つ注目すべき取り組みがある。牛のふん尿を利用したバイオガス発電である。

以前の記事で紹介した資料によれば、町内のバイオガスプラント7基の年間想定発電量は約1,810万キロワット時。町内の主要施設、畜産農家、一般世帯の年間想定電力消費量約1,800万キロワット時に相当する規模である。常時完全な電力自給を意味するものではないが、地域の資源を活用し、供給力を高める取り組みとして注目される。

上士幌町の酪農とバイオガス発電。家畜糞尿をエネルギーに変え、地域の資源を生かす地方創生の取り組み。(AI生成画像)
北海道全体にも同様の可能性がある。千歳では先端半導体の製造拠点整備が進み、札幌にはIT関連企業や研究機関が集積する。石狩市と苫小牧市は9月、データセンター集積型のGX戦略地域に認定された。大樹町では北海道スペースポートの新しい民間運営体制が始まった。

農業、半導体、AI、宇宙、エネルギー。これらを結び付ければ、北海道は日本の食料・経済・エネルギー安全保障を支える成長拠点となり得る。

ただし、産業の成長そのものが地方創生の目的ではない。

重要なのは、北海道にどれほど大きな工場が建つかではない。その成長によって、人々が郷土で豊かに暮らし続けられるかどうかである。

仕事と所得が生まれ、若い世代が故郷に将来を見いだせる。地域社会が維持されれば、神社や祭り、先人の記憶を受け継ぐ人々も残りやすくなる。

経済的な豊かさは、郷土を守るための重要な基盤である。しかし、豊かになれば、それだけで歴史や文化が守られるわけではない。

技術は地域の未来を切り開く。だが、何を未来へ残すのかを決めるのは、人間である。

3️⃣八百万の神の精神を忘れた地方創生は「仏作って魂入れず」

AIは生産性を高め、エネルギー技術は供給力を増やし、産業政策は仕事を生み出す。しかし、それらはすべて手段でもある。

「なぜ、この土地を残すのか」「何を次の世代へ渡すのか」という問いには、技術や経済政策だけでは答えられない。

その意味を、上士幌神社の由緒は鮮やかに物語っている。

北海道神社庁の上士幌神社の由緒によれば、上士幌開拓の祖とされる安村治高丸は1907年、富山県早星村から小作農家10余戸とともに移住した。1913年には高木太助を郷里へ遣わし、早星神社の御分霊を迎えて奉斎した。これが上士幌神社の創祀とされている。

神社の由緒によれば、高木太助は御霊代を背中にくくりつけ、山を越え、海を渡り、船中でも眠らずに守り通したという。

開拓者たちは、厳しい自然の中で新しい生活を築こうとしていた。家を建て、農地を拓き、生きるために必要なものはいくらでもあったはずだ。

それでも、遠く離れた故郷から神を迎えた。

なぜだろうか。

新しい土地で生きるために暮らしを変えても、自分たちがどこから来たのか、何を大切にしてきたのかまで忘れる必要はなかったからではないか。

彼らは未来を切り開きながら、過去から受け継いだものを新天地へ運んだのである。

ここに、地方創生に欠かせない「霊性の精神」がある。

1913年、故郷から御霊代を背負って運んだ高木太助。先人の信仰と郷土への思いを伝える。(AI生成画像・上士幌神社の由緒に基づくイメージ)
八百万の神が示す、多様な文化を受け入れる精神

日本には古くから、山や川、海や森などの自然に神々の働きを見いだし、多くの神々を敬う「八百万の神」という考え方がある。神社本庁の解説にもあるように、神道は特定の一柱の神だけを信仰するものではなく、さまざまな神々を敬ってきた。

八百万の神の精神とは、違いを一律に排除するのではなく、多様な存在に敬意を払うという日本の精神文化の一つである。

私は、ここに北海道の歴史と文化を未来へ受け継ぐための重要な手掛かりがあると考える。

北海道には、アイヌ文化が成立する以前から縄文、続縄文、擦文、オホーツクなどの文化が存在し、本州や北方の世界との交流があった。その後、アイヌ文化が形成され、近世・近代には移住者たちが新しい地域社会を築いてきた。

2019年のアイヌ施策推進法は、アイヌの人々を先住民族と明記し、独自の文化振興制度を設けている。ここでは、その法律上の位置付けと、北海道全体の歴史や文化をどう継承するかという問題を区別して考える必要がある。

アイヌ文化を尊重することに異論はない。ただし、特定の文化を独立した法律によって保護・振興する制度が、北海道全体の文化継承とどう調和するのかは問われるべきだ。

北海道には、古代からの文化も、近世・近代の移住者が持ち込んだ神社や祭り、郷土芸能もある。それぞれに固有の歴史があり、尊重されるべきものである。

八百万の神の精神に学ぶならば、異なる歴史や文化を民族や時代によって分断するのではなく、それぞれを尊重しながら、北海道という共通の郷土の財産として受け継ぐことができるはずだ。

もちろん、これは個々の文化の違いをなくし、一つに同化させることではない。異なる文化がそれぞれの姿を保ちながら、同じ土地に暮らす人々の誇りとなることである。

霊性の精神とは、自分たちの歴史だけを大切にすることではない。自然を敬い、先人に感謝し、異なる歴史や文化を尊重しながら、土地の記憶を未来へ渡そうとする精神でもある。

ここに、経済効率を絶対視する悪しきグローバリズムや、人々を属性によって分断するアイデンティティー政治とは異なる、地域社会のあり方が見えてくる。

世界の技術や資本を取り入れることは必要だ。しかし、そのために郷土の固有性を失ってはならない。また、それぞれの文化を尊重することが、地域社会を分断する理由になってはならない。

多様なものを尊重しながら、一つの郷土をともに守る。八百万の神の精神に通じるこの姿勢こそ、北海道の地方創生に必要なのではないか。

豊かになっても、土地の魂を失ってはならない

北海道百年記念塔の問題も、同じ問いを投げ掛けている。

北海道命名100年を記念して建設された百年記念塔は、老朽化や安全確保などを理由に北海道が解体を決定した。私は解体に反対してきたが、ここで問いたいのは、記念塔に込められた先人の思いを、私たちは十分に次の世代へ伝えてきたのかということだ。

建造物も、そこに込められた歴史が忘れられれば、単なる構造物になってしまう。地方創生にも同じことがいえる。

工場を建て、AIやロボットを導入することは重要だ。しかし、経済的に豊かになっても、歴史や文化を失い、郷土への誇りが消えてしまえば、本末転倒ではないか。

だからといって、伝統を守るために技術革新を拒む必要はない。むしろ、新しい技術によって地域の暮らしを支えることは、歴史や文化を受け継ぐ共同体を守ることにもつながる。

AIは農地を耕せるかもしれない。しかし、その土地を耕してきた先人への感謝まで、AIに委ねることはできない。

経済成長は地域を維持するために必要だ。しかし、それ自体を最終目的にし、霊性の精神を置き去りにすれば、「仏作って魂入れず」になってしまう。

強く豊かな北海道を実現することには意義がある。しかし、土地の魂を失えば、経済的に豊かな地域にはなれても、誇りある郷土を未来へ渡すことはできない。

結語 強く豊かな北海道に、土地の魂を宿す

高市早苗首相が紹介した十勝AI農業特区は、北海道の新しい可能性を示している。

AIやロボットによって農業の生産性を高め、上士幌町では自動運転やバイオガス発電に取り組む。北海道各地でも半導体、宇宙、エネルギーなどの産業が育ちつつある。

私は、こうした取り組みに異論はない。北海道の潜在力は、積極的な投資と技術革新によって十分に引き出すべきだ。

しかし、何のために北海道を強く豊かにするのか。その問いを忘れてはならない。

経済的な豊かさは、地域を支える力である。霊性の精神は、その力を何のために使い、何を未来へ残すのかを示すものである。

日本には、八百万の神々を敬ってきた精神文化がある。異なるものを一律に排除するのではなく、それぞれの存在を尊重する。この精神に学べば、北海道の多様な歴史や文化を、互いに対立するものではなく、共通の郷土を豊かにするものとして受け継ぐことができるはずだ。

そして、その精神を象徴するのが上士幌の開拓者たちの物語である。

彼らは故郷を離れ、新しい土地で未来を切り開いた。それでも、歴史と信仰を忘れなかった。御霊代を背負い、山を越え、海を渡ってまで、新天地へ受け継ごうとしたものがあった。

彼らが運んだものは、御霊代だけではなかった。故郷の記憶であり、先人への敬意であり、新しい土地で生きていこうとする人々の心のよりどころでもあった。

現代の私たちは、先人たちが想像もしなかった技術を手にしている。しかし、どれほど技術が進歩しても、自分たちが何者であり、何を次の世代へ渡すのかという問いを忘れてよいはずがない。

北海道を強く豊かにすることと、その歴史や文化を未来へ渡すこと。この二つを切り離してはならない。

経済的な豊かさを実現するだけでは足りない。その土地で生きてきた人々の歴史に敬意を払い、多様な文化を受け入れ、郷土への誇りを育むことが必要なのである。

新しい技術で未来を切り開きながら、自分たちは何者であるかを忘れず、郷土への矜持を持って土地の魂を未来へ渡す。

地方創生の本質は、そこにあるのではないか。


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2026年10月11日日曜日

相次ぐ個人情報流出――AI時代に日本のサイバー防衛は追いつけるか


 まとめ

  • 大規模な個人情報流出が相次いでいる。 2026年10月5日までに100万件以上の漏洩事故が10件確認された。日本の事件で犯行主体は十分に特定されていないが、韓国では中国在住とみられる26歳の人物によるAI利用型攻撃が疑われている。日本の事件との関係は確認されていない。
  • AIは攻撃と防御の双方を変える。 攻撃者はAIによって弱点の探索や情報の悪用を効率化できる。一方、防御側もAIを活用して侵入を早期に発見し、被害を限定できる。特に専門人材の不足する中小企業への普及が重要である。
  • 攻撃されても社会を止めない仕組みが必要である。 クラークのSF小説『彗星の中へ』では、故障したコンピューターに代わって、そろばんが宇宙船の危機を救った。現代社会でも、AIによる防御に加え、独立した決済・通信手段や隔離されたバックアップを維持し、国民生活と経済活動を守る能力を高めなければならない。

企業が保有する個人情報の流出が止まらない。会員アプリ、メールサービス、カーシェアリングなど、身近なサービスから数百万件、時には1000万件を超える情報が流出する事態が相次いでいる。なぜ、これほど大規模な被害が続くのか。企業の情報管理に問題があるのか。それとも、攻撃する側の能力が、防御する側を上回る速度で進歩しているのか。

私は、最近の人工知能(AI)の能力向上が、この問題と無関係ではないと考える。生成AIは文章の作成にとどまらず、プログラムの解析や複雑な作業の自動化にも利用されるようになった。攻撃者に必要な専門知識や時間を減らし、従来より多くの標的を狙える可能性が生まれている。ただし、最近の日本企業の情報流出が、すべてAIによる攻撃だったという証拠はない。確認された事実と、AIの進化によって生じる新たな危険は区別する必要がある。

私は9月30日の記事「10月1日、日本の電気・銀行・病院を守るサイバー防衛が変わる」で、我が国の重要インフラを守る制度の転換を取り上げた。しかし、制度が整備されても攻撃がなくなるわけではない。今問われているのは、AIによって進化する攻撃をどう防ぎ、万一突破されても国民生活と経済活動を維持できるかである。

1️⃣1000万件規模の情報流出――誰が、なぜ攻撃しているのか

2026年10月7日、東京商工リサーチは「上場企業『個人情報漏えい』、過去最悪ペース」と題する調査結果を公表した。上場企業とその子会社の公表事例では、10月5日までに100万件以上の個人情報漏洩事故が10件確認された。2025年の年間6件を上回り、1000万件以上の大規模漏洩も2026年だけで3件発生している。

KDDIのメールシステムでは1223万1954件のメールアドレス、焼肉きんぐの公式アプリでは1078万8963件の会員情報が漏洩した。タイムズモビリティでも約660万アカウントに関する情報の漏洩が公表され、運転免許証の画像を含む本人確認書類が流出した可能性も指摘されている。これらは情報の件数やアカウント数であり、被害人数とは必ずしも一致しない。また、流出が確定した情報と、流出の可能性がある情報は区別する必要がある。

さらに深刻なのが、クラウドサービスそのものへの攻撃である。2026年10月7日、ソフトバンク子会社のIDCフロンティアが運営する「IDCFクラウド」がランサムウェア攻撃を受け、495の企業・自治体に影響が及んだ。同社の10月8日付公式発表によれば、一部の仮想サーバーが停止して再起動できなくなり、保存されていた顧客データも取り出しや復元が困難な見通しとなった。同社は利用者自身が保持するバックアップからの復元を案内している。

この事件が示したのは、クラウドサービスを利用しても、データや業務の安全が自動的に保証されるわけではないという事実である。多くの企業や自治体が同じ基盤に依存すれば、その基盤が攻撃された際、被害は一斉に広がり得る。情報を外部に預けることと、自社の事業継続を保証してもらうことは別問題なのである。

気になるのは、これほど多くの企業を攻撃しているのが誰なのかという問題である。最近の日本企業の情報流出について、すべてを同一のハッカー集団による犯行と判断できる証拠は公表されていない。

2026年は10月5日までに100万件以上の個人情報漏洩事故が10件発生。2025年の年間6件を上回った。出典:東京商工リサーチ(2026年10月7日)。AI生成画像。クリックすれば拡大します。

10月8日、国内のサイバー攻撃対応を支援する専門組織JPCERT/CCは「直近で相次いでいる国内組織における不正アクセスに関する注意喚起」を公表した。既知のソフトウェアの弱点や管理設定の不備を狙う攻撃が取り上げられているが、各事件の技術的な情報は限定的であり、犯行主体を一括して特定できる状況ではない。

一方、海外では攻撃者の輪郭が見え始めている。米国のサイバーセキュリティ企業CrowdStrikeは、10月7日付の調査報告で、韓国の金融機関への攻撃にAIを活用したツール「ARTEX」などが使われたと分析した。さらに10月8日のロイター通信の報道によれば、攻撃者は中国・広東省に拠点を置く26歳の人物である可能性が浮上している。金銭目的の攻撃とみられるが、身元や犯行が司法手続きで確定したわけではなく、中国政府や日本の事件との関係も確認されていない。

注目すべきなのは、高度な組織だけでなく、比較的小規模な集団や個人でも、AIを利用して金融機関を標的にできる可能性が現実の問題となっていることだ。しかも、被害が巨大化する背景には、顧客情報の集中管理がある。現在は全国の店舗やサービスの情報が、会員管理システムやクラウド上のデータベースに集約されている。業務効率は高まるが、アクセス制御が破られれば、数百万件もの情報が一度に危険にさらされる。

企業が大量の情報を集中管理する一方で、攻撃者はAIによって弱点を探す能力を高めつつある。この組み合わせが、大規模な情報流出を考えるうえで重要なのである。

2️⃣AIが変える攻撃と防御――技術の進歩をどちらが生かすのか

2026年10月9日、ロイター通信は「South Korea, Japan buffeted by hacks as AI lowers bar for cybercriminals」と題する記事で、日本と韓国で相次ぐ攻撃とAIの関係を報じた。専門家は、AIによって攻撃の技術的なハードルが下がり、高速化や低コスト化が進んでいると指摘している。

AIはサイバー攻撃の効率化にも、防御側の弱点発見や不正アクセスの検知にも利用される。重要なのは、AIを適切に活用し、被害を最小限に抑えることだ。AI生成画像。クリックすれば拡大します。

従来、サイバー攻撃には、標的の調査、弱点の発見、プログラムの解析など、多くの専門的な作業が必要だった。現在のAIは、その一部を支援できる。さらにAIエージェントは、途中の結果に応じて次の作業を選び、探索や分析を継続できる。韓国の事件で使われたARTEXはその具体例であり、CrowdStrikeは攻撃者の環境からClaude Codeの作業履歴やARTEXの設定ファイルなどを確認した。AIが自ら犯罪を始めたわけではなく、人間の攻撃者がAIを利用していたのである。

ここで重要なのは、攻撃の経済性が変わることだ。AIによって調査や分析の費用が下がれば、攻撃者は同じ時間でより多くの企業を調べられる。従来は標的になりにくかった中小企業まで狙われる可能性がある。防御側はシステム全体を守らなければならないが、攻撃者は侵入可能な弱点を1つ見つければよい場合がある。AIは、この非対称性をさらに拡大する恐れがある。

さらに、AIは盗まれた情報の悪用も容易にする。複数の企業から流出した氏名、住所、電話番号、購入履歴などを関連付け、標的に合わせた詐欺メールやなりすましに利用することも考えられる。こうした犯罪はAI以前から存在したが、AIによって大量の情報を短時間で処理しやすくなる。

しかし、AIを攻撃者だけの武器にしておく必要はない。防御側も積極的に利用すべきである。

企業のシステムでは、膨大な通信記録やアクセス記録が日々発生する。AIを利用すれば、不審な通信や操作を見つけ、危険度の高いものから優先的に調査できる。ソフトウェアの弱点を発見し、修正の優先順位を判断する作業にも役立つ。特に専門人材が不足する中小企業にとって、AIを組み込んだ監視サービスは有力な選択肢となる。ただし、AIには誤検知や見逃しもあるため、人間による監督は欠かせない。

政府も防御側のAI活用を政策課題としている。IPAの「情報セキュリティ白書2026」でも、AIを悪用した脅威への対処と、AIを活用したセキュリティ強化が取り上げられている。攻撃者がAIによって能力を高めるのであれば、防御側もAIによって監視と分析の速度を高めなければならない。問題は、その技術を我が国の企業が実際に使いこなせるかどうかである。

3️⃣日本のサイバー防衛は何を変えるべきか――宇宙船を救ったそろばんの教訓

私は9月30日の記事「10月1日、日本の電気・銀行・病院を守るサイバー防衛が変わる」で、我が国の重要インフラを守る制度の転換を取り上げた。2026年10月1日には、電力、金融、医療など16分野を対象とする重要インフラのサイバーセキュリティ対策に関する統一基準が施行された。サイバーセキュリティ戦略本部が決定した基準を踏まえ、関係省庁が各分野の対策を進める仕組みである。同日に施行されたサイバー対処能力強化法などは、官民連携や攻撃への対処能力を強化する別の制度だ。

しかし、重要インフラを守る制度だけで、すべての企業の個人情報を保護できるわけではない。一般企業にも個人情報保護法に基づく安全管理措置や委託先の監督義務があり、10月7日には個人情報保護委員会が大規模な情報漏洩を受けた注意喚起を公表している。

特に問題なのが、外部委託先を含む情報管理である。現在、企業のシステム開発や運用には複数の事業者が関わっている。発注元が実際の管理状況を把握せず、元請け企業も再委託先に任せきりになれば、重大な弱点が放置されかねない。最近の流出事件がすべて委託先の管理不備によるものではないが、情報を外部に預けても、発注元の管理責任まで消えるわけではない。

この問題への対応策の1つが、経済産業省などが制度設計を進め、情報処理推進機構(IPA)が関与する「サプライチェーン強化に向けたセキュリティ対策評価制度(SCS評価制度)」である。関連する既存の自己宣言制度「SECURITY ACTION」には、基本対策への取り組みを宣言する★1と、自己診断などを行う★2がある。これとは別に、新たなSCS評価制度では、一般的な攻撃への対策を専門家の確認付きで評価する★3と、侵入後の被害拡大防止なども含めて第三者が審査する★4を設ける。IPAの公式説明によれば、★3・★4は2027年3月頃の運用開始予定だ。ただし、評価を取得すれば安全になるわけではなく、実際の防御能力が問われる。

そのためには、防御側もAIを活用しなければならない。しかし、それだけでは十分ではない。もう1つ必要なのは、最新の技術が使えなくなっても、社会の重要な機能を維持できる仕組みである。

ここで思い出すのが、英国のSF作家アーサー・C・クラークが1960年に発表した短編小説『彗星の中へ』(原題 Into the Comet)である。

物語では、彗星探査に向かった宇宙船のコンピューターが故障し、脱出に必要な軌道計算ができなくなる。地球との通信も途絶え、乗組員は絶望的な状況に追い込まれる。そこで、日系人の乗組員ジョージ・タケオ・ピケットが思い出したのが、日本のそろばんだった。乗組員たちは手作りのそろばんを使って膨大な計算を分担し、地球との通信が可能な場所まで宇宙船を移動させる軌道を算出することに成功する。

最先端の宇宙船を救ったのは、古くから使われてきた計算道具だったのである。

アーサー・C・クラークのSF小説『彗星の中へ』をイメージ。故障した宇宙船のコンピューターに代わり、日系人乗組員がそろばんで軌道を計算する。最新技術を補う代替手段の重要性を描いた。AI生成画像。

これはSF小説であり、現実の宇宙開発における実証例ではない。しかし、現代のサイバー防衛にも通じる教訓がある。どれほど高度な技術でも、故障したり攻撃されたりすれば使えなくなる。そのとき、別の原理で動く手段が残されていれば、危機を乗り越えられる場合がある。

我が国で今も使われているFAXや現金にも、これと共通する面がある。オンライン決済が停止しても、現金があれば取引を継続できる場合がある。従来型の電話回線を使うFAXも、インターネット経由の攻撃を受けにくい場合がある。もっとも、FAXには誤送信などの危険があり、現金も万能ではない。

この教訓は、先に紹介したIDCフロンティアの事件にも通じる。同社は、影響を受けた利用者に対し、別環境でのシステム再構築と、利用者自身が保持するバックアップからのデータ復元を案内した。つまり、クラウドにデータを預けているだけでは、万一の際に事業を再開できるとは限らないのである。重要なのは、普段利用しているシステムが停止しても使える、独立したバックアップや代替手段を確保することだ。バックアップが存在しても、攻撃されたシステムと同時に利用不能になるようでは意味がない。最新のAIやクラウドを活用することと、それらが使えなくなった場合にも業務を継続できる仕組みを持つことは、決して矛盾しない。むしろ、両者を備えてこそ、本当に強靱なシステムといえるのである。

ただし今さらFAXや紙の業務に戻るべきだという話ではない。重要なのは、デジタル技術を活用しながら、それが停止しても機能する独立した手段を残すことである。 病院なら電子カルテ停止時の診療継続手順、電力や水道なら安全な手動操作、企業ならネットワークから隔離したバックアップなどが考えられる。単に予備システムを増やすのではなく、同じ攻撃で同時に停止しない独立性が必要なのだ。

さらに、不要な個人情報を長期間保有しないことも重要である。情報を持たなければ、その情報が流出することもない。アクセス権限を必要最小限に制限すれば、侵入された場合の被害も抑えられる。サイバー防衛の実力は、制度の数や予算規模ではなく、攻撃の検知速度、弱点の修正、被害の限定、業務の復旧能力によって判断すべきである。

2026年7月には、ニチレイがサイバー攻撃によるシステム障害で物流機能に影響を受け、出荷停止に追い込まれたと東京商工リサーチが報告している。情報システムへの攻撃は、企業の情報だけでなく、物資の供給そのものを脅かす。

AIで攻撃を防ぎ、突破されても独立した手段で社会を動かし続ける。半世紀以上前のSF小説が示した教訓は、AI時代の我が国にも通じるのである。

結論――AIによる防御と、攻撃されても止まらない社会を

企業からの大規模な情報流出が相次ぐ背景には、膨大な情報の集中管理と、情報システムの弱点がある。そこにAIの進化が重なり、攻撃者は従来より少ない時間と費用で、多くの標的を狙える可能性が生まれている。ただし、日本国内の最近の流出事件がAIによって引き起こされたと断定することはできない。海外ではAIを利用した攻撃が報告されているものの、国内事件の犯行主体や手法については、なお解明が必要である。

だからこそ、防御側もAIを積極的に活用すべきだ。不審な通信の検知、脆弱性の発見、被害の早期把握などにAIを利用し、人間の専門家が重要な判断に集中できる体制を築く必要がある。しかし、AIによる防御を強化するだけでは十分ではない。

私は前回の記事で、目指すべきは絶対に侵入されない国ではなく、攻撃されても社会の機能を維持できる国だと指摘した。クラークの『彗星の中へ』に登場するそろばんは、その意味を象徴している。最先端のコンピューターが停止しても、独立した手段があれば、危機を乗り越えられる可能性が残るのである。

現金決済、隔離されたバックアップ、重要設備の安全な手動操作、非常時の代替通信手段。こうした仕組みは、平常時には非効率に見えるかもしれない。しかし、1度の攻撃で社会の重要な機能が同時に停止する危険を考えれば、維持する合理性がある。

多少の不便や費用を受け入れてでも、非常時に機能する独立した手段を残す。これはデジタル化への逆行ではなく、デジタル社会を守るための備えである。

我が国の経済安全保障にとっても、これは重要だ。食品、医薬品、エネルギー、物流などの供給を支える情報システムが停止すれば、国民生活にも重大な影響が及ぶ。非常時にも供給力を維持できる体制は、国家が蓄積すべき重要な資産である。企業、システム事業者、政府はそれぞれの責任を果たし、制度を作り、評価を取得するだけで満足してはならない。

AIによって攻撃の経済性が変わったのであれば、防御の経済性と組織のあり方も変えなければならない。

我が国が目指すべきは、すべてをネットワークにつないだ社会でも、デジタル化を恐れて過去に戻る社会でもない。AIを使って攻撃を防ぎ、万一突破されても、独立した手段によって国民生活と経済活動を維持できる国である。 制度の整備は出発点にすぎない。今こそ、その実効性を問う段階に入ったのである。

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2026年10月10日土曜日

食料品消費税1%へ――37年間の増税路線に歴史的転換点が訪れるか


まとめ
  • 消費税減税は、37年間の増税路線を転換する歴史的な政策である。 1989年の導入以来、日本の消費税は引き上げられる一方だった。今回の減税が実現すれば、税率引下げという新たな前例が生まれる。その成果を検証できることが、将来の財政政策にとって重要な意味を持つ。
  • 減税の成否は、直接的な税収減だけでなく経済全体への効果で判断すべきである。 消費、雇用、賃金の改善が確認されれば、増税中心の財政運営を再検証する根拠となる。財源についても補助金などと共通の基準で政策効果を評価し、税外収入や歳出見直し、国債発行を含めて判断すべきだ。
  • 社会保障目的税化を、減税できない理由にしてはならない。 消費税を社会保障目的税化したのは過去の政治判断である。社会保障の維持と特定の消費税率の維持は別問題だ。今回の減税の成果を踏まえ、2029年以降も経済成長と国民所得の拡大を重視する財政政策へつなげるべきである。
 2026年10月9日、政府は飲食料品の消費税率を2027年4月から2年間、現行の8%から1%へ引き下げる法案を閣議決定し、第222回国会に提出した。2029年4月には税率を8%へ戻し、所得に応じて税や社会保険料の負担を軽減する「就業者負担軽減支援金」を本格導入する構想である。支援金は2027年度から先行導入する。法案はまだ成立しておらず、実施には国会での成立が必要だ。制度の詳細は内閣官房の法案関連資料で確認できる。Cabinet Office, Government of Japan

1989年の導入以来、消費税は3%から5%、8%、10%へと引き上げられてきた。2019年の軽減税率8%も、飲食料品などの税率を据え置いたものであり、既存税率の引下げではない。今回、政府は初めて消費税率そのものを引き下げようとしている。

この減税の最大の意義は、37年間続いた消費税の増税路線を転換し、減税を現実の財政政策として位置づける可能性にある。

しかも、その意味は2年間の家計負担軽減にとどまらない。減税によって個人消費が回復し、企業の売上高、雇用、賃金が改善すれば、増税による税収確保を優先してきた従来の財政運営は、その合理性を改めて問われることになる。

ここで避けて通れないのが、減税のたびに持ち出される「財源がない」という議論と、消費税の社会保障目的税化である。財源確保は重要だが、その手段を特定の税率維持に限定する必然性はない。社会保障目的税化も、過去の政府と国会が採用した制度であり、変更できない経済法則ではない。

今回問われるべきなのは、単に減税が実施されるかどうかではない。消費税減税を契機として、我が国が増税中心の財政運営から、経済成長と国民所得の拡大を重視する政策へ転換できるかどうかである。

1️⃣消費税減税が37年間の増税路線を変える

日本では消費税導入以来、税率の引上げは繰り返されてきたが、引下げは実施されてこなかった。所得税や法人税では減税が政策手段として活用されてきたにもかかわらず、消費税については社会保障財源の確保が優先され、減税は現実の選択肢になりにくかった。


しかし、増税によって税収が増えることと、経済全体が良くなることは別問題である。家計の購買力が低下すれば個人消費が抑制され、企業の売上高や投資、雇用にも悪影響が及ぶ。景気回復が十分でない段階での増税は、所得税や法人税など他の税収にも影響しかねない。

その代表例が2014年4月の消費税率引上げである。税率が5%から8%へ引き上げられた後、個人消費は大きく落ち込んだ。内閣府の経済分析でも、増税に伴う物価上昇と実質所得の減少が消費を抑制し、駆け込み需要の反動などとともに景気回復を弱めたことが示されている。内閣府ホームページ

それならば、消費税率を引き下げれば何が起こるのか。この問いを正面から検証すべきである。

海外には参考となる事例がある。英国では2008年12月、世界金融危機への対応として付加価値税(VAT)の標準税率を17.5%から15%へ一時的に引き下げた。英国財政研究所(IFS)の研究では、小売販売数量が約1%増加したと推計されている。ドイツでも2020年のVAT減税が耐久消費財の購入を促したことが、ドイツ連邦銀行の研究で示されている。ただし、両国の減税は標準税率を対象としており、日本の食料品減税と効果が同じになるとは限らない。Institute for Fiscal Studies

今回、日本で減税が実施されれば、海外の事例に頼るだけでなく、国内の経済データによって効果を検証できる。飲食料品の販売価格や販売数量に加え、個人消費全体、企業収益、雇用、賃金、税収への波及を確認すべきだ。

ここで重要なのは、消費税収だけを見て減税の成否を判断してはならないということである。

減税によって家計の支出が増え、企業の利益や雇用、賃金が改善すれば、所得税や法人税などの税収が増える可能性もある。その増収が消費税の減収をすべて補うとは限らないが、経済全体への波及効果を無視して減税を評価することはできない。

需要不足の局面で財政政策が総需要を支え、生産や雇用に影響するというのは、基本的なマクロ経済学の考え方である。経済政策は財政収支だけでなく、成長率、物価、雇用など実体経済の状況から評価しなければならない。

さらに、需要の回復が企業の設備投資や技術開発を促せば、我が国の供給力再建にもつながる。国内の生産設備、技術、人材への投資は、将来の国民所得を支える国家的な資産となる。短期的な消費刺激を持続的な成長へ結びつけることが重要である。

今回の減税によって景気回復への寄与が確認されれば、増税による税収確保を優先してきた政策判断は再検証を迫られる。その実績こそ、将来の財政政策を変える重要な根拠となるのである。

2️⃣「減税の財源がない」という議論を問い直す

消費税減税が議論されるたびに、「財源をどうするのか」という声が上がる。しかし、減税には必ず同額の恒久財源を用意しなければならないという経済法則があるわけではない。

政府は毎年度、税収だけで予算を編成しているのではない。税外収入や国債発行も利用し、必要な政策を実施している。


2026年度当初予算では、租税等の収入を83兆7350億円、その他収入を8兆9902億円、公債金を29兆5840億円と見込んでいる。これらは既存の歳出を賄うために計上されたものであり、そのまま減税に使える余剰資金ではない。しかし、財政運営には税収以外にも複数の手段があることを示している。財務省

問題なのは、減税についてだけ、他の財政政策とは異なる厳しい財源条件を課すことである。

政府は毎年度、多額の補助金を支出し、基金にも資金を積み立てている。補助金や基金も予算審議を受け、財源が問われることに変わりはない。しかし、減税について直接的な減収額だけを強調し、他の支出については経済効果や必要性の検証が不十分であれば、政策評価として整合性を欠く。

補助金も減税も、経済に影響を与える財政政策である。減税だけに同額の恒久財源を絶対条件として求めるのであれば、その理由を明確に説明すべきだ。

補助金は政府が対象を選び、特定の企業や事業に資金を配分する。一方、消費税減税は対象商品を購入する消費者の負担を広く軽減する。必要な産業政策や研究開発支援は実施すべきだが、効果の乏しい補助金を温存しながら、国民の税負担軽減にだけ厳しい財源論を持ち出すのでは、本末転倒である。

政府自身も、補助金や基金の見直しが必要であることを認めている。10月9日の片山さつき財務大臣記者会見では、2027年度末の基金残高が約7兆円と見込まれることを踏まえ、資金の国庫返納や事業の見直しを進める方針が示された。ただし、7兆円すべてが不要な資金という意味ではなく、実際に活用できる額は個別の検証によって決まる。財務省

さらに、減税財源を考える際には、国債発行も選択肢から排除すべきではない。

政府は今回の法案で、減税などの財源を特例公債に頼らず確保する方針を明示している。これは現在の政府案における制度上の条件であり、実施に当たっては尊重されなければならない。しかし、将来の財政政策において国債発行を活用する選択肢まで否定する根拠にはならない。財務省

景気が弱く、民間需要が不足している局面では、国債発行を伴う減税によって家計の購買力を支え、総需要を拡大する政策は検討に値する。国債発行の是非は、景気、雇用、物価、供給力、金利、利払い負担などを踏まえて判断すべき問題である。

国債を無制限に発行できるわけではない。しかし、だからといって国債発行を一律に否定し、減税財源から排除することも合理的ではない。

また、「恒久財源」という言葉にも注意が必要だ。継続的な制度には中長期の財源見通しが求められるが、景気や物価に対応する時限的な減税は、その目的と期間に応じて財源を判断すべきである。財政政策の機動性を損なうほど硬直的な財源確保を求めれば、必要な時期に必要な対策を講じられなくなる。

「財源がないから減税できない」という説明だけでは不十分である。問われるべきなのは、どの財政手段を選び、何を優先し、国民生活と経済成長にどのような成果をもたらすかという政策判断である。

減税に必要な財源の検討と、減税の経済効果の検証は、対立するものではない。両者を一体として評価することこそ、合理的な財政運営である。

3️⃣社会保障目的税化を見直し、減税を次の政策につなげよ

消費税減税を難しくしてきた要因の1つが、消費税の社会保障目的税化である。

日本では2012年の社会保障・税一体改革を経て、消費税収を社会保障財源とすることが法律上明確にされた。消費税法第1条第2項には、国の消費税収について、地方交付税に関する規定のほか、年金、医療、介護、少子化対策の社会保障4経費に充てることが定められている。地方消費税についても、従来の税率1%相当分を除き、社会保障施策に充てる仕組みである。

さらに、2012年3月13日、野田内閣は参議院への政府答弁書で、地方交付税の法定率分を除く国の消費税収の全額を社会保障4経費に充て、「社会保障目的税化する」と明言した。消費税は1989年の導入当初から社会保障目的税だったわけではない。現在の仕組みは、その後の政府と国会による政策判断の結果である。(sangiin.go.jp)

家計を見つめる夫婦。税と社会保障は暮らしに直結する AI生成画像
経済学者の高橋洋一氏は、2025年6月の論考で、消費税を社会保障目的としているのは日本だけだと主張している。この問題を考える際には、税収の一部を社会保障に配分することと、消費税そのものを社会保障目的の税として位置づけることを区別する必要がある。

ベルギーやフランスにも、VAT収入の一部を法律に基づいて社会保障へ配分する制度がある。しかし、日本では政府が社会保障目的税化を明言し、対象となる税収の全額を社会保障に充てる制度を採用している。世界唯一と断定するには網羅的な国際比較が必要だが、日本の制度が両国と異なることは確かである。(ベルギー連邦社会保障省、フランス社会保障法典)

しかも、日本の消費税収は原則として一般会計で管理され、社会保障専用の独立会計に入るわけではない。政府は法律と予算によって使途を明示しているが、消費税収を社会保障に充当していることと、増税によって社会保障給付がどれだけ追加的に充実したかは別問題である。両者を混同してはならない。

ここで問うべきなのは、社会保障目的税化という過去の制度設計が、消費税率を引き下げない理由として使われてこなかったかという問題である。

社会保障の安定財源を確保する必要があることは当然だ。しかし、それは特定の消費税率を維持し続けなければならないことを意味しない。

社会保障には社会保険料のほか、所得税や法人税などを含む公費も用いられている。経済成長によって国民所得や企業利益が増えれば、税収基盤が拡大する可能性もある。必要に応じて歳出を見直し、経済状況によっては国債発行を活用することも財政政策の選択肢となる。

消費税の社会保障目的税化は、過去の政治判断によって採用された制度である。政府が法案を提出し、国会が法律を制定・改正することで、制度は変更できる。社会保障財源の確保と消費税率の設定は、分けて考えるべき問題だ。

そして今回の減税は、その関係を問い直す機会となる。

政府案では、2027年4月から飲食料品の消費税率を1%へ引き下げ、2029年4月には8%へ戻す。その間に「就業者負担軽減支援金」を先行導入し、2029年度から本格導入する。政府は幅広い家計への減税と、中低所得の就業者への重点的な支援を組み合わせる方針である。(財務省・2026年10月9日記者会見)

しかし、2029年の日本経済がどのような状態にあるかは、現時点では分からない。

仮に減税によって個人消費が回復し、企業活動や雇用が改善していた場合、その成果を十分に検証せず、予定どおり税率を戻すことが合理的とは限らない。再び税率を引き上げれば、家計の購買力が低下し、回復しつつある需要を弱める可能性があるからだ。

もちろん、2029年には支援金制度が本格導入される予定である。しかし、税率復帰による負担増をどこまで補えるかは、対象者や給付水準によって異なる。税率の変更と給付制度を一体として評価しなければならない。

重要なのは、2029年の税率復帰を機械的に実行するのではなく、その時点の経済状況と減税の成果を踏まえて判断することである。

減税の効果が確認されれば、延長も検討対象となる。食料品以外への減税拡大や、所得税・社会保険料などの負担軽減を組み合わせる政策も考えられる。財源についても、税収や税外収入、歳出の見直し、必要に応じた国債発行を含め、経済状況に応じて判断すべきだ。

消費税率を1度引き下げれば、その経済効果を国内のデータで検証できる。成果が確認されれば、将来の財政政策を見直す有力な根拠が生まれる。

今回の減税は、単なる2年間の時限措置ではない。増税を優先してきた財政運営を再検証し、経済成長と国民所得の拡大を重視する政策へ転換する出発点となり得るのである。

結論――消費税減税を財政政策転換の出発点に

1989年の導入以来、日本の消費税は税率を引き上げる一方だった。今回の飲食料品消費税率1%への引下げが実現すれば、37年間続いてきた税制運営に初めて異なる前例が生まれる。

その意義は、2年間の家計負担軽減だけではない。減税によって経済がどう変わるかを検証し、その成果を次の財政政策に生かせることにある。

減税によって消費が拡大し、雇用や賃金が改善すれば、増税による税収確保を優先してきた政策判断を再検証する有力な根拠となる。逆に十分な効果が得られなければ、その原因を分析し、次の政策に生かせばよい。

同時に、「財源がない」という議論も問い直す必要がある。国は毎年度、税収や税外収入、国債発行などを組み合わせて財政を運営している。補助金や公共投資と同様、減税についても、その経済効果と国民生活への影響を基準に判断すべきだ。国債発行も選択肢から一律に排除せず、経済状況に応じて検討する必要がある。

社会保障目的税化という過去の制度設計も、消費税率を固定する絶対的な理由にはならない。社会保障の維持に必要なのは、特定の税率を守ることではなく、持続的な財源と、それを支える経済基盤を確保することである。

財政政策の目的は、税収を最大化することでも、特定の税率を維持することでもない。国民所得を増やし、雇用を安定させ、我が国の供給力を高めることである。

今回の減税が景気回復に寄与することが確認されれば、その成果を2029年以降の政策へ反映すべきだ。減税の延長や対象拡大も含め、経済状況に応じた柔軟な政策判断が求められる。

今回の消費税減税が持つ最大の意味は、増税一辺倒だった日本の財政政策に、減税という現実の選択肢を生み出すことである。

この機会を単なる時限措置で終わらせてはならない。消費税を1度下げ、その効果を検証し、次の財政政策へつなげる。そこにこそ、今回の減税が持つ歴史的意義がある。

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2026年10月9日金曜日

高市首相を呼び捨てにする中国――世界に広がる日本外交と北京の焦り

まとめ

  • 中国が高市首相に答弁の撤回・是正を迫る間にも、日本は国際協力を進めてきた。

  • その協力は、レアアースに加え、防衛、アジアとの経済協力、通信基盤に及ぶ。

  • 北京の焦りは、圧力を強めても日本の政策を変えさせられず、圧力の効きにくい条件が整いつつある点から考えるべきだ。

中国外務省の報道官が、高市早苗首相に肩書を付けず、「高市早苗」と呼んだ。日本の外務省は、首脳への敬意は国際儀礼上当然だとして、中国側に申し入れた。テレビ朝日の報道

注目すべきは、この呼称の背後にある外交の動きである。中国が昨年の台湾有事をめぐる国会答弁の撤回・是正を求める間にも、高市政権は各国との協力を積み上げてきた。

私は、この対照に北京の焦りを見る。日本への圧力が続く一方、その圧力に左右されにくい条件を、日本自身が整えようとしているからである。

1️⃣昨年11月の国会答弁から続く、中国の要求

出発点は、2025年11月7日の衆議院予算委員会である。

岡田克也氏の質問に対し、高市首相は、台湾をめぐる事態が武力行使を伴う場合には、存立危機事態になり得るとの認識を示した。同時に、実際の認定は個別具体的な状況と情報を総合して判断すると説明した。台湾有事への自動的な軍事介入を宣言した答弁ではない。国会会議録

その後の経緯を、日本外交の動きと並べてみよう。

【図の出典・参考資料】

本図は、以下の公表資料を基に、日中双方の主要な動きを抜粋して作成しました。中国側の主張は、中国政府の見解を示すものであり、その正当性を認める趣旨ではありません。

※主要な出来事の抜粋であり、網羅的な年表ではありません。出来事の順序は、政策間の因果関係や「中国の焦り」を直接証明するものではありません。

中国の要求が続いても、日本外交は止まらなかった。この点が重要である。

2️⃣高市外交は、中国の圧力が届きにくい条件をつくる

高市政権が進める協力の意味は、日本が自ら判断できる余地を広げることにある。

まず、重要鉱物だ。3月の日米協議では、採掘・加工・製造の案件を資金と政策で支える方向が示された。5月の日豪首脳会談でも、重要鉱物、エネルギー、防衛などの協力が打ち出された。日米協議の発表、日豪首脳会談の発表

同志国との連携を広げる日本外交 AI生成画像

中国は、2024年の磁石用レアアースで、世界の採掘量の60%、精製生産の91%を占めた。調達先の分散には、鉱山だけでなく分離・精製の能力も必要になる。IEAの分析

供給を政治的な圧力に使うほど、需要国は依存の危険を認識する。割高な代替供給網にも、工場の停止を避ける価値が生まれる。中国の圧力が、長期的には自らの支配力を弱める投資を促す可能性があるのだ。

ただし、代替供給網には継続的な投資と購入が欠かせない。プレジデントオンラインの記事が論じるように、中国産の価格が下がっても事業を維持できる仕組みが必要となる。同記事の掲載部分

協力は防衛にも広がる。6月のイタリア訪問では、東アジア情勢への連携と、日英伊の次期戦闘機共同開発「GCAP」を進める方針が示された。装備の共同開発は、企業、技術、人材を長期に結びつけ、日本を支える関係を欧州にも広げる。首相官邸の発表

アジアに対しては、5月に発表した「進化したFOIP」が、経済協力、ルールの共有、安全保障の連携を掲げる。参加国に利益のある協力を提供できれば、各国が一国への依存を避け、自ら政策を選べる余地も広がる。外務省の説明

海底ケーブルや衛星通信などを対象とする「FOIPデジタル回廊構想」も同じ文脈にある。物資に加え、情報を運ぶ経路と設備の選択肢を増やすことも、国家の自律性を支える。高市首相の寄稿

高市首相は、こうした協力を多国間協議と対米調整につなげている。6月のG7では経済的威圧への懸念を共有し、9月には米中首脳会談の前後にトランプ大統領と協議した。G7後の会見、9月22日の会談、26日の電話協議

これらには歴代政権の蓄積があり、協力国にも独自の国益がある。それでも、高市政権下で複数分野の協力が進んでいる事実は重い。中国が一つの圧力手段で日本の判断を変えさせることは、難しくなり得るからだ。

3️⃣対中人脈は、高市政権を動かせるのか

この構図の中で見ると、岩屋毅前外相の訪中も意味を持つ。

岩屋氏は日本国際貿易促進協会の会長として、王毅外相、何立峰副首相と会談した。中国側は対話に応じながら、高市首相の発言の是正を求めた。時事通信の報道

岩谷毅氏と王毅氏の会談 AI生成画像

その直後、中国外交部の会見では高市首相の肩書が省かれた。直接の質問は小泉防衛相の発言についてだったが、対話相手への対応と首相本人への厳しい姿勢の落差は目を引く。中国外交部会見録

中国との関係を重視する政治家は、この落差を埋め、政権の判断を変えられるのか。

中央社によると、岩屋氏は中国側に、首相による発言撤回の政治的ハードルは高いと説明し、日中共同声明の精神を再確認する打開策を提案したとされる。仲介する側も、撤回の難しさを認識していることがうかがえる。中央社の報道

対中人脈と、政府を動かす力は別である。自民党内の反高市的な動きが中国との関係を圧力として使えるのかは、具体的な政策変更によって検証すべきだ。訪中した事実だけで、その意図や影響力は判断できない。

今回確認した資料では、仲介が高市政権の外交方針を変更させた成果は見当たらない。しかも、日本の協力は各国との合意や共同事業に広がっている。中国が日本側の対話相手を確保しても、それだけで政策全体を動かせるとは限らない。

結び――圧力の強さより、日本を動かせるか

香港紙・星島日報は、今回の呼称を意図的だったと分析した。そこに焦りがあるかは、強硬姿勢の演出や交渉上の圧力という可能性も踏まえて考える必要がある。共同通信の報道

それでも、昨年11月からの経緯には明確な対照がある。中国が撤回・是正を求める間にも、日本は資源、防衛、地域協力、通信基盤で関係を深めてきた。中国の言葉が強まっても、日本の政策を変えさせた成果はどこにあるのか。

北京の焦りを考える鍵はここにある。圧力が依存の危険を認識させ、その認識が新たな投資と協力を促す。日本がこれを実際の能力へ変えれば、中国の交渉力を支える条件も変わる。

我が国に必要なのは、合意を供給、生産、技術、人材へと具体化することである。対話を続けながら、圧力に左右されず判断できる日本をつくる。高市外交の実力も、中国の焦りも、その進展によって測るべきだ。

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2026年10月8日木曜日

沖縄米兵事件を基地撤退論に直結させてよいのか――米軍が去ったフィリピンとイラクで何が起きたのか

まとめ

  • 今回の事件は「米兵だから米国が裁く」事件ではない。公務外の犯罪では原則として日本側が第一次裁判権を持つ。今回は沖縄県警が容疑者を逮捕し、日本側が身柄を確保している。
  • 米軍撤退だけがフィリピンやイラクの混乱の原因ではないが、撤退による抑止・支援環境の変化は重要な要素だった。他の政治・軍事的要因と併せて見る必要があり、「唯一の原因でもないが、無関係でもない」という整理が正確である。
  • 沖縄で重要なのは、撤退か現状維持かという二択ではなく、縮小した軍事機能を何が代替するかである。沖縄の基地負担軽減と事件防止を進めながら、我が国の抑止力に空白を生じさせない制度と能力を同時に整える必要がある。

まず、今回の事件で亡くなられた方に謹んで哀悼の意を表し、ご冥福をお祈りしたい。ご遺族にも心からお悔やみを申し上げたい。

10月3日に沖縄県那覇市で発生した強盗殺人事件をめぐり、米海兵隊員が容疑者として逮捕された。人命が奪われた重大事件である。徹底した捜査と適正な司法手続を尽くし、犯罪事実が立証されれば、日本の法律に基づいて厳正に責任を問わなければならない。同時に、米軍には綱紀粛正と実効性のある再発防止を求める必要がある。

高市早苗首相は10月5日の所信表明演説の冒頭で被害者への哀悼と遺族へのお悔やみを表明し、日本政府として米側に抗議したことを明らかにした。茂木敏充外相も4日、グラス駐日米国大使を外務省に召致し、捜査への全面的な協力、米軍人等の綱紀粛正、再発防止の徹底を要求している。外務省「茂木外務大臣によるグラス駐日米国大使への抗議」 今回紹介したロイター報道も、政府内に事件が日米安全保障協力へ波及することへの懸念があると伝えている。

ここで必要なのは、事件の重大性を薄めることではない。逆である。犯罪への対応を徹底したうえで、個人の刑事責任、米軍の規律、沖縄の基地負担、日米同盟と我が国の抑止態勢を、すべて同じ問題として一括りにしないことである。事件を政治が扱うのは当然だが、犯罪への怒りから基地撤退や安全保障体制の結論まで一足飛びに進めば、別の重大なリスクを見落としかねない。

1️⃣「米兵だから米国が裁く」わけではない

今回の事件を論じる前に、日米地位協定を正確に確認しておきたい。「米兵が日本で犯罪を犯しても、地位協定によって米国が裁く」という理解は正しくない。

日米地位協定第17条は刑事裁判権について定めている。日米双方の裁判権が競合する場合、米軍人等の公務執行中の作為・不作為から生じる犯罪などでは米側が第一次裁判権を持つ。一方、公務外に日本国内で犯した通常の犯罪では、原則として日本側が第一次裁判権を持つ。外務省「日米地位協定及び関連情報・第17条」

日本の司法で裁かれることを象徴する那覇地方裁判所 AI生成画像
今回、容疑者は沖縄県警が緊急逮捕し、日本側が身柄を確保している。したがって、米軍が容疑者を拘禁したまま日本への引渡しを拒んでいる事件ではない。日本の捜査機関が捜査し、検察が起訴すれば、日本の裁判所で審理されることになる。現段階ではあくまで容疑者であり、有罪か否かは証拠に基づく司法手続で判断されるべきことは言うまでもない。茂木外相も10月6日の会見で、今回の事件への対応と再発防止について説明している。外務省「茂木外務大臣会見記録」

地位協定で問題になりやすいのは、裁判権そのものより、被疑者の「身柄」の扱いである。日本側が裁判権を行使する事件でも、被疑者の身柄を米側が確保している場合、第17条5(c)により、日本が起訴するまで米側が拘禁を続けるのが原則である。ただし、1995年の少女暴行事件を受けた日米合同委員会合意により、殺人や強姦などの凶悪犯罪では、日本側が起訴前の身柄移転を求める道が設けられた。外務省「日米地位協定第17条5(c)及び刑事裁判手続に係る日米合同委員会合意」

地位協定について改善すべき点を検討することと、制度の実態を誤って伝えることは別である。今回の事件を材料に議論するなら、まず「日本には裁判権がない」という誤解を取り除くところから始めるべきだ。

 2️⃣事件と基地・同盟政策をどこまで結び付けるのか

今回の事件の約2週間後には、大規模な日米共同統合演習「キーン・ソード27(Keen Sword 27)」が予定されている。10月19日から29日まで実施され、自衛隊だけで約4万5,000人、車両約6,100両、艦艇約40隻、航空機約260機が参加する。統合幕僚監部によれば、目的は各種事態における日米共同対処と自衛隊の統合運用を演練・検証し、日米の共同統合運用能力を維持・向上させることにある。統合幕僚監部「Keen Sword 27」公表資料

ロイターは首相官邸幹部が、演習について安全保障上の必要性が高いとしたうえで、事件とは「分けて考える必要がある」との認識を示したと報じた。これは重要な論点である。刑事事件の捜査と処罰を徹底することと、我が国の防衛に必要な訓練を実施することは両立し得る。どちらか一方を軽く扱う必要はない。

住宅地と隣接する沖縄の米軍基地。基地負担と抑止力が共存する現実 AI生成画像

もちろん、沖縄が大きな基地負担を背負っている現実も直視しなければならない。2026年版防衛白書によれば、2026年1月1日時点で全国の在日米軍専用施設・区域の約70%が面積ベースで沖縄県に集中し、県面積の約8%、沖縄本島の約14%を占める。負担軽減は政府自身が取り組むべき課題と位置付けている。実際、「Keen Sword 27」でも普天間飛行場所在のMV22(オスプレイ)の訓練を霧島演習場と種子島へ移す計画であり、これは沖縄の訓練負担軽減を目的とする措置である。防衛省「沖縄県外への訓練移転」

しかし同じ防衛白書は、沖縄が朝鮮半島や台湾海峡に近く、約1,200キロに及ぶ南西諸島のほぼ中央にあり、我が国の重要なシーレーンにも隣接する戦略上重要な位置にあると説明する。そのうえで、高い機動力と即応性を持つ米軍の駐留が日米同盟の実効性と抑止力を高めているというのが政府の公式見解である。

したがって、基地の整理・統合・縮小や訓練移転によって沖縄の負担を軽減することと、在沖米軍の軍事的機能そのものを失わせることは同義ではない。仮に在沖米軍の大幅な撤退を求めるのであれば、その機能を何が代替するのかまで示さなければ安全保障政策として完結しない。自衛隊を増強するのか、米軍をグアムなどへ分散させながら即応性を維持するのか、日米共同運用を別の形で強化するのか。それを考えず「撤退」だけを論じれば、力の配置が変わった後に何が起きるかという問いが抜け落ちる。

3️⃣フィリピンとイラクが示した「力の空白」

フィリピンとイラクの事例で見る、米軍撤退後の「力の空白」 クリックすると拡大します
この問題を考えるうえで、まず参考になるのがフィリピンである。

米国はかつてクラーク空軍基地やスービック海軍基地など、フィリピンに大規模な軍事拠点を置いていた。1991年、フィリピン上院が基地使用を延長する条約案を否決した。クラーク基地は同年のピナトゥボ山噴火で大きな被害を受けており、米国は同基地を放棄した。最終的に米軍の撤収は1992年11月24日に完了した。なお、米比相互防衛条約まで廃止されたわけではない。米国務省「Philippines Background Notes」

その後、中国は1994年末に南シナ海のミスチーフ礁を占拠し、1995年に施設建設がフィリピン側に明らかになって大きな外交問題となった。CSISは、米軍撤退後に米比同盟の戦略的重要性が低下していた時期に起きたこの占拠を、両国が安全保障関係を再評価する契機の一つとして位置付けている。CSIS「The Transformation of the U.S.-Philippines Alliance」

2016年の南シナ海仲裁判断では、ミスチーフ礁はフィリピンのEEZと大陸棚の範囲内にある低潮高地であり、中国がフィリピンの許可なく人工島や施設を建設したことはフィリピンの主権的権利を侵害したと判断された。常設仲裁裁判所の南シナ海仲裁事件ページ この判断の内容は米国務省も確認している。米国務省「U.S. Position on Maritime Claims in the South China Sea」

ここで因果関係を単純化してはならない。米軍基地の撤収だけを理由に、中国がミスチーフ礁へ進出したと断定することはできない。中国の長期的な海洋進出戦略、当時のフィリピン軍の能力不足、冷戦終結後の地域情勢など複数の要因があった。しかし、大規模な米軍常駐が消えたことによって地域の軍事的環境が変化したことも無視できない。撤退は唯一の原因ではないが、抑止を構成していた一つの大きな要素が消えたのである。

その後、フィリピンは米国との安全保障協力を再び強めていった。1999年には訪問米軍地位協定(VFA)が発効し、2014年には防衛協力強化協定(EDCA)が結ばれた。さらに2023年には米軍がローテーション方式でアクセスできるEDCA対象拠点が4か所追加され、従来の5か所と合わせて9か所となった。米国防総省「Philippines, U.S. Announce Locations of Four New EDCA Sites」

もう一つがイラクである。米軍は2011年末に主要部隊を撤収した。しかし、その後、マリキ政権によるスンニ派の疎外、治安機構の政治化と弱体化、腐敗、シリア内戦などが重なり、ISISが勢力を急速に拡大した。2014年にはモスルを制圧し、米国は対ISIS作戦のため再び軍事介入することになった。CSISの分析も、マリキ政権の統治失敗を重視すると同時に、2011年の米軍撤退後に助言・支援能力が失われ、ISISがその環境を利用したことを重要な要素として挙げている。CSIS「Resurgence of al Qaeda in Iraq」 CSIS「Correcting America's Grand Strategic Failures in Iraq」

ここでも「米軍が撤退したからISISが台頭した」とだけ説明すれば誤りである。しかし、「撤退以外にも原因があった」ことと、「撤退の影響は小さかった」ことも同じではない。米軍が担っていた助言、情報、訓練、抑止などが急速に縮小した一方、イラク側の統治能力と治安能力が十分に確立していなかった。その空白をISISが利用したという評価には相応の根拠がある。

しかもこれは過去の話だけではない。米中央軍は2026年9月30日、エルビル空軍基地から米軍部隊と装備の撤収を完了し、イラク国内における「生来の決意作戦」の任務が終了したと発表した。ただし、これは米国とイラクの防衛関係そのものの終了ではない。米中央軍は米・イラク2国間の防衛関係への計画的移行と位置付け、対ISIS任務はヨルダンに司令部を移したうえでシリアなどで継続するとしている。米中央軍「U.S. Forces End Operation Inherent Resolve Mission in Iraq」

フィリピンとイラクは国家体制も脅威も全く違う。それでも共通する教訓はある。軍事力を引くとき、本当に問われるのは「撤退するか」だけではなく、「撤退した後を何が埋めるのか」である。

「沖縄から米軍が撤退すれば、一番喜ぶのは中国ではないか」という言い方がある。この言葉を感情的なスローガンで終わらせてはならない。問うべきなのは軍事的な中身である。防衛白書が示す通り、沖縄は台湾海峡や南西諸島、大陸から西太平洋へのアクセスを考えるうえで戦略上重要な位置にある。現在そこに存在する米軍の機動力と即応性が、何の代替措置もなく大幅に失われれば、中国側が直面する軍事上の制約を緩める方向に働く可能性はある。だからこそ基地縮小を論じるなら、同時にその機能をどう補うのかを論じなければならない。

結論 被害者への哀悼と国家の安全を、どちらも軽く扱わない

今回の事件で何より先に考えるべきなのは、亡くなられた方とご遺族である。安全保障論を持ち出して事件を相対化することがあってはならない。捜査を尽くし、犯罪事実が立証されれば日本の法に基づいて厳正に責任を問う。米軍にも綱紀粛正と実効性ある再発防止を求める。沖縄の過重な基地負担を軽減する努力も続けなければならない。

しかし、それと「在沖米軍をどうするか」という国家安全保障上の判断は、同じ問いではない。

フィリピンでは米軍の大規模基地撤収後、南シナ海をめぐる安全保障環境が変化し、その後、米比軍事協力は別の形で再び強化された。イラクでは米軍撤退だけで説明できない複数の要因があったものの、十分な統治・治安能力が整わない中で米軍の支援機能が失われ、ISISが生まれた空白を利用した。いずれも、「撤退した後を誰が埋めるのか」を考えない軍事的縮小にはリスクが伴うことを示している。

沖縄でも、米軍人による犯罪には厳正に対処する。基地負担は減らす。地位協定の運用に改善すべき点があれば改善する。しかし、在沖米軍の抑止機能を縮小するのであれば、自衛隊の能力増強や米軍の分散配置など、代替する抑止態勢を同時に構築する必要がある。

犯罪への怒りと安全保障上の判断を混同しないことである。被害者への哀悼と、国民の命、領土、シーレーンを守る国家の責任は、どちらか一方を選ぶ問題ではない。

どうすれば事件を減らせるのか。どうすれば沖縄の負担を減らせるのか。そして、それを実現しながら我が国の周辺に新たな「力の空白」を生じさせないためには何が必要なのか。

今回の事件を一過性の政治論争で終わらせないために、問うべきなのはこの3点である。

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