2026年9月29日火曜日

なぜ「船体」が重要物資になったのか――日本の造船再生は産業政策を超えた経済安全保障

まとめ

  • 日本には、設計力、造船所、そして舶用機器の約9割を国内で供給できる産業基盤がまだ残っている。失ってから再建するより、今こそ供給力を立て直すべき時である。
  • 米国はリバティ船2710隻を建造した国でありながら、現在は商船建造能力を大きく縮小した。一度失われた造船の産業生態系は、巨額の資金を投入しても簡単には戻らない。
  • 中国は圧倒的な建造量を背景に、部品、高付加価値船、技術力まで伸ばしている。日本が守るべきものは造船所だけではなく、「必要なときに船を造れる国」という国家資産である。

2025年12月、政府は政令を改正し、すでに経済安全保障推進法上の特定重要物資に指定されていた「船舶の部品」の範囲に、船体を構成するものを追加した。2026年2月には国土交通大臣が安定供給確保のための取組方針を改定し、9月には具体的な供給確保計画の認定が始まった。つまり、「船体」は国土交通省が単独で重要物資に指定したのではない。政令によって特定重要物資の対象に加えられ、国土交通大臣が所管大臣として具体的な供給確保計画を認定・支援する制度なのである。内閣府「サプライチェーン強靱化の取組」 国土交通省「船舶の部品の安定供給確保について」 内閣官房

半導体でもレアアースでもない。船そのものを形づくる船体である。一見すれば、衰退してきた造船業への産業支援に見える。しかし、我が国はエネルギーや食料をはじめ、貿易量の99%以上を海上輸送に依存する。必要な船を安定して確保できなくなれば、影響は一業界の業績にとどまらず、国民生活と経済活動そのものに及ぶ。政府が造船を経済安全保障の問題として扱い始めた理由はここにある。国土交通省

しかも造船能力とは、ドックの数だけではない。船を設計する技術者、鋼材を加工する企業、エンジンやプロペラ、電気機器などを供給するメーカー、熟練技能者、修繕拠点までがつながって初めて一隻の船になる。その産業生態系は、失ってから予算を積めば数年で買い戻せるものではない。米国の現在がそれを示し、中国の急拡大がその反対側を示している。

1️⃣日本にはまだ「造船できる国」の土台が残っている

2025年12月に国土交通省と内閣府が策定した「造船業再生ロードマップ」は、2024年時点で907万総トンだった我が国の建造能力を、2035年に1800万総トンへ引き上げる目標を掲げた。ほぼ倍増である。柱は設備増強だけではなく、人材の確保・育成、脱炭素化などを通じた技術革新、安定需要の確保、同志国・グローバルサウスとの連携にまで及ぶ。国土交通省「造船業再生ロードマップ」 国土交通省

その構想が今年、巨額の設備投資へ移り始めた。国土交通大臣は9月4日に3件、11日に5件、計8件の船体に係る供給確保計画を認定した。8計画を合わせた官民投資は総額約9000億円規模で、支援額は最大約3110億円である。省力化・自動化設備だけでなく、ドックの拡張や大型クレーンの導入も対象となる。国土交通省「造船業再生基金に係る供給確保計画の認定」 国土交通省

日本の造船を支える船舶用エンジン製造現場 AI生成画像
ここで見落としてはならないのが、日本にはまだ厚い産業基盤が残っているという事実である。OECDの2026年レビューによれば、2022年に日本で建造された船に搭載された舶用機器の約92%は国内製だった。これは「船の全構成部品の92%」という意味ではなく、あくまで舶用機器についての数字であるが、それでも国内供給網の厚さを示す重要な指標である。2019年の87%からも上昇している。OECD「Peer Review of the Japanese Shipbuilding Industry 2026」 OECD

日本の強みは部品供給だけではない。OECDは、日本が高付加価値船において強いエンジニアリング能力、品質管理、納期の信頼性を維持していると評価する。2024年のCGTベースでも日本は中国、韓国に次ぐ世界第3位の造船国であり、「何も残っていない衰退産業」ではない。OECD

だからこそ、今が重要なのである。建造量が一定水準を下回れば、造船所だけが痩せるのではない。舶用機器メーカーの仕事が減り、技能者が離れ、設計者を育てる理由が薄れ、研究開発投資も細る。造船は企業単位ではなく、産業全体のつながりとして弱っていく。

我が国の課題は、消えてしまった産業をゼロから復活させることではない。設計、舶用機器、人材、造船所がまだ同時に残っているうちに、供給力を再び厚くできるかどうかなのである。

2️⃣リバティ船2710隻から年3~5隻へ――米国が失い、中国が積み上げたもの

造船産業の恐ろしさは、一度失うと再建に時間がかかることにある。その典型が米国である。

第二次世界大戦中、米国は標準型貨物船「リバティ船」を2710隻建造した。標準設計、溶接、部材の事前製作、ブロック化を組み合わせた大量建造であり、カイザー系造船所では建造期間が当初の197日から14日程度まで短縮された。記録競争で建造されたロバート・E・ピアリー号は、起工から進水までわずか4日15時間余りだった。ただし、これは通常の建造期間ではなく、速度記録を狙った特殊な事例である。米海軍歴史部「Liberty Ship」関連資料 海軍歴史センター

重要なのは「4日」という数字そのものではない。米国では1936年商船法を契機に平時から商船建造計画が進められ、それを戦時に巨大な鉄鋼業、機械産業、造船所、労働力と結び付けた。だから標準設計を数千隻の実物へ転換できたのである。リバティ船は、設計力と大量生産力が一つの産業システムとして結び付いていた時代の米国を象徴している。国立公園局

リバティ船を大量建造した第二次世界大戦時の米国造船所 AI生成画像
現在との差は大きい。米運輸省海事局向けにまとめられた2026年の議会要請による独立研究は、米国内の大型外航商船の平時建造能力を年3~5隻程度としている。研究に参加した専門家は、既存造船所からこれを年10隻程度へ増やすにも約2年、年20隻規模へ拡大するには約3年を要すると試算した。しかもこれは一定の前提を置いた概算であり、同報告自身が不確実性を明記している。海事局

米国が船の設計能力まで失ったわけではない。少なくとも海軍分野では、Naval Surface Warfare CenterのCarderock Divisionが、水上艦・潜水艦の船型、推進、構造、材料、システム統合まで高度な研究・設計能力を保持している。米海軍Carderock Division「Ship Integration and Design」 NAVSEA

問題は、優れた設計能力を持つことと、それを予定通り大量の船へ変えられることは別だという点である。米政府自身も2026年8月の大統領覚書で、米国の造船産業基盤を「atrophied(萎縮した)」と表現し、造船所の能力不足と競争不足、隣接する供給基盤の弱体化が遅延とコスト増を招いているとの認識を示した。ホワイトハウス「Rebuilding the United States Navy and America’s Shipbuilding Industrial Base」 The White House

一方、反対側で巨大な製造能力を積み上げてきたのが中国である。中国工業情報化部の2026年上半期統計によれば、中国の造船完工量は世界の62.2%、新規受注量は82.3%、受注残は71.2%を占めた。いずれも載貨重量トン、DWTベースであり、船種ごとの建造難易度を調整するCGTとは異なるので、数字をそのまま技術力の比率とみなすことはできない。それでも、世界の建造能力が中国に大きく集中していることは明らかである。中国・2026年上半期造船統計 福建省人民政府

中国についても、「安く大量に組み立てるだけ」と見るのは危険である。大量生産は、それ自体が経験、工程データ、コスト低下、部品企業の育成につながる。中国はその規模を背景に、高付加価値船や低炭素技術へ領域を広げている。ただし、OECDによれば、ディーゼルエンジン、スマートブリッジ、プロペラ関連など一部の高付加価値舶用機器では、なお中国は貿易赤字を抱えている。日本の「92%」と同じ定義の中国の全国一律国内調達率は確認できないため、安易な数字の横並びは避けるべきである。OECD

ここで、以前の記事「中国、9月15日に出国規制を強化――『大量生産大国』なのに、なぜ人も金も外へ出たがるのか」で論じた視点も補助線になる。2026年9月15日に施行された中国国務院の新しい出入国管理規定は、輸出管理や技術輸出入管理への違反が国家の産業安全・技術安全を害する可能性がある場合、国務院の商務など関係主管部門が中国公民を出国禁止にできると定めている。これは造船人材の流出対策を直接目的とした制度ではない。そのように断定すべきではないが、産業競争力を考えるとき、量産能力だけでなく、技術、人材、資本を国内に蓄積できる環境も見る必要があるという論点にはつながる。以前の記事「中国、9月15日に出国規制を強化」 Zibo FAO

米国は高度な設計能力を残しながら、大量建造へ転換する産業基盤を弱めた。中国は巨大な建造量を土台に、部品や高付加価値技術へ裾野を広げている。そして日本には、規模を縮小させながらも、設計・エンジニアリング、舶用機器、造船所がまだ同時に残っている。

この違いこそ、我が国が今動くべき理由である。

3️⃣守るべきは造船所だけではない――「造船できる国」という国家資産

日本の造船再生を、中国との建造量競争だけにしてはならない。人口減少が進む我が国が、大量の労働力を投入し、価格と数量だけで競うモデルには限界がある。日本に残っている設計、品質管理、省エネルギー技術、舶用機器、生産技術を、AI、ロボット、デジタル設計、自動化と結び付ける必要がある。

国土交通省は2026年、AI造船ロボットなどに関する研究開発事業を14件採択した。大学、研究機関、AI・ロボット企業、造船事業者などを結び、曲げ加工や溶接で使うAI造船ロボットや、ロボットを効率的に配置するためのシミュレーション技術などの研究を進めている。狙いは、昔の造船所をそのまま大きくすることではない。人手不足の下でも高い供給力を維持できる生産方式へ変えることにある。国土交通省「AI造船ロボット等に係る研究開発事業」 国土交通省

AI・ロボット化が進む次世代造船所のイメージ AI生成画像
ここで日米協力にも意味が出てくる。2025年10月28日、金子国土交通大臣とラトニック米商務長官は、両国の建造能力拡大、人材育成、AI・ロボットなどの先進建造技術、先進船舶の設計・機能開発を含む造船協力覚書に署名した。これは国土交通省と米商務省だけの企業支援策ではなく、両政府間の覚書であり、その後、関係省庁を含む作業部会へつながっている。国土交通省「日米両国の造船能力拡大に向けた協力を促進」 国土交通省

さらに9月18日、国土交通省は日米連携によるAI造船技術の研究開発を加速すると発表した。日本側関係者が米国を訪問し、AI造船ロボットやAIシミュレーション基盤などの共同開発について協議している。国土交通省「日米連携によるAI造船技術の導入に向けた研究開発を加速化」 国土交通省

日米協力を「日本が米国の船を代わりに造る話」とだけ見るのは狭い。米国には大きな需要と海軍分野を中心とする高度な研究・設計能力がある。日本には造船所、設計・エンジニアリング能力、舶用機器メーカー、生産技術が残る。両者を組み合わせる余地は大きい。

ただし、日本にとって目的は米国造船業の救済ではない。日米協力を我が国自身の建造能力、研究開発力、人材、部品供給網の強化へ結び付けることである。国内の設計部門や舶用工業が細り、技術や投資だけが外へ流れるなら、経済安全保障政策としては本末転倒である。

2035年の1800万総トンという目標も、その意味で見るべきだ。建造量を確保すれば、造船所に仕事が入り、エンジン、プロペラ、電気機器、素材、設計、修繕にも需要が波及する。企業が若い技能者や技術者を採用し、次の研究開発へ投資する理由も生まれる。政府支出が一時的な需要で終わらず、民間の設備、人材、技術として残れば、それは将来の供給力を生む国家資産形成になる。

結論 失ってから買い戻すのでは遅い

世界の造船業を見ると、3つの姿が浮かぶ。

中国は世界最大の建造能力を持ち、その規模を部品、高付加価値船、技術開発へつなげようとしている。中国の量産力を過小評価すべきではない。同時に、建造シェアの高さと、あらゆる高度部品や技術で完全に自立していることは同義でもない。

米国は、かつてリバティ船2710隻を生み出した巨大な製造基盤を持っていた。現在も少なくとも海軍分野では高度な設計・システム統合能力を保持するが、それを大量の実物へ転換する造船・供給基盤の再建に苦しんでいる。

そして日本は、そのどちらとも違う。建造量は縮小した。しかし、高度なエンジニアリング能力がある。造船所がある。熟練技能がある。日本建造船に搭載される舶用機器の約92%を国内で生産できる供給網も残っている。

だから、日本の造船再生を「衰退産業への救済」とだけ見るべきではない。

我が国には、米国のように産業基盤を大きく失ってから巨額の資金で買い戻そうとするのではなく、設計、部品、人材、造船所がまだつながっているうちに立て直す余地が残っている。

船を設計する人がいる。エンジンやプロペラを造る企業がある。それらを一隻の船へ統合する造船所がある。船を修繕できる拠点があり、次の技術へ投資する企業がある。その連鎖全体が「必要なときに船を造れる国」という能力をつくる。

リバティ船の時代の米国が示したのは、その能力を持つ国の圧倒的な供給力だった。現在の米国が示しているのは、一度それを弱らせれば、世界最大級の経済力を持つ国でも短期間には取り戻せないという現実である。そして中国が示しているのは、大量生産そのものが経験と技術を蓄え、次の競争力をつくるという現実である。

日本が学ぶべきなのは、どちらかをそのまままねることではない。我が国にまだ残る設計力、舶用工業、製造能力、人材をつなぎ直し、AIやロボットを加えて供給力を厚くすることである。

海上輸送によって国民生活と経済を支える我が国が、設計から部品、建造、修繕までの選択肢を自ら持ち続けられるか。

造船再生で問われているのは、過去の世界シェアを取り戻すことではない。「船を造れる国」という国家資産を、次の世代へ残せるかどうかなのである。

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2026年9月28日月曜日

国家情報局が動き始めた――日本の弱点は「情報不足」ではなく「情報を国家の判断に変える力」だった

まとめ

  • 9月25日、国家情報会議は2026年度上半期の情勢認識と下半期の重点事項を審議した。7月31日に始動した新しい情報体制は、制度整備から本格運用の段階へ移りつつある。内閣官房「国家情報会議 開催状況」

  • 「日本はスパイ天国だから公安当局も無能だった」という見方は正確ではない。警察白書を遡れば、中国などによる対日工作や技術情報収集を、日本の警察は長年継続して追ってきたことが分かる。警察庁「令和7年版警察白書」

  • 我が国の弱点は、情報そのものがなかったことではない。各機関が持つ情報を国家として集約し、「情報要求→収集→総合分析→政策判断→フィードバック→再収集」という循環に乗せ、インテリジェンスへ高める機能が十分強くなかったことである。

「日本版CIA」「日本版スパイ組織」。国家情報局について、こうした言葉を使えば分かりやすい。しかし、それだけでは今回の改革の核心を見誤る。

9月25日、国家情報会議は2026年度上半期の情勢認識と下半期の重点事項を審議した。7月31日の初会合では運営方針や諸規則を定めており、新しい情報体制は組織を整える段階から、実際に運用する段階へ移ったとみてよい。国家情報会議は政府全体の重要な情報活動について基本的な方向を調査審議する閣僚級の会議であり、国家情報局は内閣官房の情報機関として、自ら情報収集に当たるとともに、各行政機関から情報を集約し、総合分析し、情報活動を総合調整する。両者の役割は異なる。内閣官房「国家情報会議 開催状況」

私は2024年、このブログで外務省の情報管理問題を取り上げ、「日本版CIA」の創設を含む情報機能の強化を提起した。その問題意識は現在も変わらない。ただし国家情報局が実際に動き始めた今、もう一段深く考える必要がある。我が国に本当に不足していたのは、情報を集める組織だけだったのか。それとも、すでに各所に存在する情報を一つの国家判断へ変える「頭脳」だったのか。

1️⃣「スパイ天国=公安無能」という誤解

日本は長年、「スパイ天国」と呼ばれてきた。この言葉から、外国の工作員が自由に活動し、日本の公安当局は何も把握できていなかったという印象を持つ人もいる。しかし、警察白書を遡れば、そのような単純な図式は成り立たない。

日本の警察はかなり以前から、中国を含む外国勢力による対日工作や情報収集活動を継続して追ってきた。1990年代の警察白書にも、中国が学者、技術者、留学生、代表団などを通じて我が国の高度科学技術や各界の情報を得ようとし、政財界や企業関係者への働き掛けを行っているとの記述がある。現在の警察白書も、中国による目的を偽った機微情報の収集、先端技術を有する企業や研究機関への接触、技術移転への働き掛けなどを「対日有害活動」として継続的に警戒している。警察庁「令和7年版警察白書」

したがって、「スパイ天国」であることと、「公安当局が情報を持っていないこと」は同義ではない。外国勢力が我が国で長期間活動してきたのであれば、警察や公安機関には人物関係、接触先、組織、人脈、工作手法について独自の情報が蓄積されてきたと考える方が自然である。摘発件数が少ないことも、情報を持っていないことの証明にはならない。情報として把握することと、既存法令を適用して刑事事件として立件することは別だからである。

日常空間の中で続く情報収集と監視活動をイメージした場面 AI生成画像
特に中国について、我が国には地理的、歴史的、人的、経済的に長い接点がある。企業、大学、研究機関、地方自治体などを含めた交流の厚さを考えれば、日本国内で形成された人的ネットワークや接触関係について、日本側にしか蓄積できない情報が存在する可能性は高い。Five Eyes諸国は通信情報や国外での情報収集、同盟間の情報共有で強大な能力を持つが、だからといって日本国内の中国関連情報まで一律に日本より豊富だと考える理由はない。

重要なのは、どちらの情報機関が上かという比較ではない。それだけの情報が各所に蓄積されていたとして、我が国はそれを国家として十分に使えていたのか、ということである。警察が人物の動きを知り、公安調査庁が組織の動向を知り、外務省が中国政府の政策変化を把握し、防衛省が特定技術の軍事的意味を分析し、経産省がその技術の経済安全保障上の重要性を把握していても、それぞれが別々に処理されていれば全体像は見えない。

しかし、それらを重ね合わせれば、「特定技術の獲得を国家的に強めているのではないか」「一見無関係な人物や案件が同じ目的につながっているのではないか」という別の絵が浮かぶことがある。

我が国の弱点は、情報がなかったことではない。各機関に存在する情報を、国家全体の一枚の絵に変える力が十分強くなかったことである。

2️⃣国家情報局は「日本版CIA」より国家の頭脳に近い

この視点に立つと、国家情報局を「日本版CIA」とだけ呼ぶことの限界も見えてくる。CIAという言葉から連想されやすいのは、国外での人的情報収集や秘密工作である。そうした対外情報収集能力を我が国が強化する必要性はあるが、国家情報局の現在の役割はそれだけではない。

国家情報局の重要な任務は、自ら情報を収集することに加え、各行政機関が持つ情報を集約し、総合分析し、政府全体の情報活動を調整することにある。つまり、日本に新しい「目と耳」を1組加えるだけではなく、すでにある多数の目と耳を一つの頭脳へつなぐ役割である。


各機関の断片的な情報を集約・分析し、国家判断につなげる場面 AI生成画像
外事警察、公安調査庁、外務省、防衛省、海上保安庁、衛星情報、サイバー情報、経済安全保障、輸出管理、金融、物流など、我が国にはすでに多くの情報源がある。しかも現代は、SNS、企業情報、衛星画像、船舶・航空機情報など公開情報も膨大である。国家に求められるのは、それらを大量に集めるだけではない。情報源の信頼度を評価し、異なる情報を突き合わせ、矛盾を見つけ、一つ一つの断片が安全保障上どのような意味を持つのかを判断する能力である。

一人の人物の動向だけなら警察情報で終わるかもしれない。一件の技術移転だけなら経済安全保障案件で終わる。一つの資金移動だけなら金融問題、一つの軍事技術なら防衛問題である。しかし、それらを同じ問題意識の下で重ね合わせれば、国家的な意図が見える場合がある。単なる情報、すなわちインフォメーションを、政策判断に使えるインテリジェンスへ変えるとはそういうことである。

だから国家情報局の核心は、情報量を増やすことだけではない。

情報を持つ国から、情報を考えられる国へ変われるか。

ここが問われている。

3️⃣国家の頭脳は「インテリジェンス・サイクル」で動く

もっとも、各省庁の情報を1か所へ集めれば、それだけで国家の頭脳が完成するわけではない。国家情報局の成否は、集めた情報を政策へつなぎ、その結果を再び情報収集へ戻す「インテリジェンス・サイクル」を本当に回せるかどうかで決まる。

その循環は、「情報要求→収集→集約・総合分析→政策判断→フィードバック→再収集」と整理できる。ここで重要なのは、出発点が「収集」ではないことである。まず政策側が「国家は今、何を知らなければならないのか」を明確にしなければならない。

クリツクすると拡大します

例えば「中国について調べろ」では広すぎる。台湾周辺の軍事行動なのか、半導体技術の獲得なのか、重要鉱物を使った経済的圧力なのか、日本国内での影響工作なのか。問いが違えば、必要な情報源も担当機関も分析方法も変わる。したがって国家の情報力は、情報機関の能力だけでは決まらない。首相や閣僚を含む政策側が「何を知らなければ判断できないのか」を正確に問えることも重要である。

問いが定まれば、各機関がそれぞれの手段で情報を集める。国家情報局は、それらを同じ問題意識の下で集約し、総合分析する。警察にとっては1人の人物、経産省にとっては1件の技術移転、財務当局にとっては1件の資金移動、防衛省にとっては1つの軍事技術上の変化であっても、全体を重ねれば同じ国家戦略の一部であることが見えるかもしれない。

ただし、分析と政策判断を混同してはならない。情報機関が政治家の望む結論に合わせて分析を変えれば、インテリジェンスは政策を正当化する資料に堕する。逆に、情報機関自身が政策を決めるべきでもない。情報部門が示すべきなのは、何が確認され、どの情報の確度が高く、何がまだ分からず、別の可能性がどの程度残っているかという判断材料である。政策を決め、その結果について政治責任を負うのは政治である。

そして政策を決めたところでサイクルは終わらない。制裁をすれば相手は迂回し、輸出管理を強化すれば別の調達ルートを探し、工作活動への警戒を強めれば手口を変える。その反応を再び観察し、「当初の分析は正しかったのか」「何を見落としていたのか」を検証しなければならない。その評価が次の情報要求となり、新たな収集と分析へ戻っていく。

この循環が重要なのは、国家自身が学習できるからである。情報を集めて報告書を作れば終わりではない。問いを立て、情報を取り、異なる情報を突き合わせ、分析し、政策へ渡し、その結果を検証して、次の問いを立てる。

この循環が以前より速く、深く、正確に回るようになるか。そこに国家情報局の成否がある。

結論――日本に足りなかったのは情報より、それを国家の知性へ変える仕組みだった

「日本はスパイ天国だ」という言葉は、我が国の安全保障上の弱点を表している。しかし、そこから「だから日本の公安当局は無能だった」と結論づけるのは正確ではない。警察白書を遡れば、日本の警察が中国を含む外国勢力の対日工作、人的接触、情報収集、技術獲得活動を長年追ってきたことは確認できる。警察庁「令和7年版警察白書」

問題は、その先にあったのではないか。警察には警察の情報があり、公安調査庁には公安調査庁の情報がある。外務省には外交情報、防衛省には軍事情報、経産省には産業・技術情報、財務当局には資金や制裁に関する情報、海上保安庁には海洋情報がある。それぞれの断片には価値があるが、国家が必要としているのは断片の山ではない。

必要なのは、断片をつないで意味を見いだし、政策判断へ変え、その結果を次の情報収集へ戻す能力である。

だから国家情報局を「日本にもCIAができた」という話だけで理解してはならない。それでは改革の最も重要な部分を見失う。国家情報局の核心は、日本政府の中に存在する情報を「情報要求→収集→総合分析→政策判断→フィードバック→再収集」という1つの循環へ乗せることにある。

9月25日の国家情報会議で2026年度上半期の情勢認識と下半期の重点事項が審議されたことは、その意味で重要である。内閣官房「国家情報会議 開催状況」 国家として何を重点的に知るべきかを考え、その方針を踏まえて情報を集め、分析し、政策へ返す。そして結果を検証して、次に何を知らなければならないのかを問い直す。ここまで回って初めて、情報は国家の知性になる。

私は今年5月の記事で、散らばった情報を「点から線へ、線から面へ」変える必要性を書いた。国家情報局が始動した今、求められているのはさらにその先である。面になった情報から仮説を立て、政策を動かし、結果を確認し、新たな問いを立てる。その循環が定着するかどうかである。

我が国は、何も見えていなかった国ではないのかもしれない。むしろ、各所で見えていたものを、一つの国家として十分に考える仕組みが弱かったのである。

「日本版CIAができたのか」という問いでは、本質を見誤る。本当に問うべきなのは、我が国が、自分が何を知らないのかを把握し、必要な情報を取り、断片を一つの意味へ変え、その結果から次の問いを立てられる国家になれるのか、ということである。

国家情報局が変えようとしている日本の情報機関の本当の弱点とは、そこなのである。

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2026年9月27日日曜日

石油危機から半世紀、日本は石油依存を減らした――それでも残るエネルギー安全保障の穴


 まとめ
  • 日本は石油危機後、石油依存を大幅に下げ、電源分散、省エネルギー、LNGの世界的調達網、LPGの供給先転換を進めてきた。日本の半世紀を単純な「中東依存の失敗」と見るのは正しくない。
  • 一方、中東は現在も原油だけでなく、石油製品、ナフサ、化学品、アルミニウムなど、日本の産業を支える重要物資の供給地である。したがってホルムズ問題は、原油価格だけではなく供給網全体の問題として見る必要がある。
  • 次の課題は中東依存率を機械的に下げることではない。備蓄、代替調達、原子力、LNG、国内電源、海運、基礎素材の調達分散を組み合わせ、一つの供給源が止まっても日本経済を止めない「日本版エネルギードミナンス」を構築することである。

1973年の第一次石油危機から半世紀以上が過ぎた。現在のホルムズ海峡をめぐる危機を見ると、日本が輸入する原油の9割以上が同海峡を経由しているという数字が目につく。しかし、この数字だけを見て「日本は石油危機から何も学ばなかった」と考えるのは正しくない。

実際、日本はこの半世紀で石油への依存そのものを大幅に減らしてきた。発電では石油火力を主役から降ろし、LNG、原子力、石炭、再生可能エネルギーなどへ電源を分散した。産業界では省エネルギーが進み、LNGでは世界各地から調達する巨大な供給網を築いた。LPGでも中東依存を大幅に引き下げている。

つまり、石油危機後の日本のエネルギー政策は、少なくとも「石油一本足打法から脱する」という点では相当程度成功した。

では、なぜ現在のホルムズ危機がこれほど重要なのか。

理由は単純である。石油への依存は下がっても、日本が中東から調達する重要物資がなくなったわけではないからだ。原油だけでなく、石油製品、ナフサなどの石油化学原料、アルミニウムを含む非鉄金属、有機化合物など、日本の産業を支える物資が中東から入っている。

したがって、今回考えるべき問題は「日本はまだ石油に依存している」という話ではない。

石油依存をかなり減らした日本が、それでも残る中東との供給網を、危機のときにも止めないために何をすべきか。

ここが本稿の中心である。

1️⃣日本は石油危機から相当程度、学んできた

1973年10月、第四次中東戦争を契機として産油国による供給制限や価格引き上げが進み、原油価格が急騰した。当時の日本は一次エネルギー供給の75.5%を石油に依存しており、物価高騰や物不足が社会を直撃した。第一次石油危機が日本のエネルギー政策を根本から変えた経緯は、資源エネルギー庁「日本のエネルギー、150年の歴史」に整理されている。

日本がその後に行ったのは、単なる原油輸入先の変更ではない。石油そのものへの依存を減らし、原子力、天然ガス、石炭などへエネルギー源を分散するとともに、省エネルギーを進めた。

石油危機後、日本のエネルギー構成は大きく多様化 AI生成画像 クリックすると拡大します
その成果は明確である。一次エネルギー国内供給に占める石油の割合は、1973年度の75.5%から2024年度には34.5%まで低下した。資源エネルギー庁「総合エネルギー統計」で確認できるように、日本経済全体で見れば石油依存度は石油危機当時の半分以下になっている。

発電では変化がさらに大きい。2023年度の発電電力量を見ると、LNG32.9%、石炭28.3%、新エネルギー等15.3%、原子力8.5%、水力7.6%に対し、石油等は7.4%である。資源エネルギー庁「エネルギー動向2025年6月版」が示すように、発電を石油に大きく依存していた時代から、複数の電源を組み合わせる構造へ移行した。

産業部門でも省エネルギーが進んだ。第一次石油危機以降、日本の製造業は生産を伸ばしながらエネルギー効率を改善してきた。背景には設備の効率化に加え、素材型産業から加工組立型産業への産業構造の変化もある。資源エネルギー庁「部門別エネルギー消費の動向」を見ると、日本は「別の石油を探す」だけではなく、そもそも同じ経済活動に必要なエネルギー量を減らしてきたことが分かる。

LNGとLPGも重要である。日本は国内に巨大な天然ガス田を持たない。それでも海外権益、長期契約、LNGタンカー、商社、受入基地、貯蔵・再ガス化設備を組み合わせ、世界各地から天然ガスを調達する巨大な仕組みを築いた。以前このブログで「日本はLNG帝国となった」と書いたのは、この構造を指している。

LPGではさらに大きな転換が起きた。資源エネルギー庁「エネルギー動向2025年6月版」によれば、LPガス輸入の中東依存度は2011年度の86.6%から2023年度には4.7%まで低下した。北米からの調達拡大によって、供給源を大きく組み替えたのである。

この半世紀を振り返れば、日本は石油危機から何も学ばなかったどころか、石油依存の低減、電源の分散、省エネルギー、LNG・LPGの調達多角化を着実に進めてきた。

それでも弱点は残った。

その最大のものが原油である。石油危機後、原油の中東依存度は1987年度に67.9%まで低下したが、その後再び上昇した。中国や東南アジアの産油国で国内需要が増え、日本への輸出余力が減ったことや、ロシア産原油の減少、中東の圧倒的な供給力などが重なったためである。資源エネルギー庁「原油の輸入先と中東依存度の推移」

したがって、現在の状況を正確に表現するならこうなる。

日本は石油依存そのものを大幅に下げることには成功した。しかし、なお必要とする原油については、中東への集中が再び進んだ。

2️⃣中東リスクは原油だけを見ても分からない

ここで視野を一段広げる必要がある。日本の石油依存度が低下したからといって、中東の重要性まで同じ割合で低下したわけではない。

2025年の日本の中東からの輸入を見ると、原油・粗油が圧倒的に大きい。しかし、それだけではない。石油製品、LNG、非鉄金属、有機化合物なども輸入している。JETRO「中東リスクと物流――日本と中東の貿易とホルムズ海峡封鎖の影響」によれば、日本の中東からの輸入はエネルギーを中心としながらも、その周辺に産業用素材の供給網が広がっている。

中東からは原油だけでなく、ナフサやアルミなど基礎素材も入る AI生成画像 クリックすると拡大します
その一つがナフサである。ナフサはプラスチックや化学製品の基礎原料であり、供給が滞れば影響は燃料価格だけにとどまらない。包装材、化学繊維、塗料、樹脂など、製造業の川下まで波及する。

2026年3月、経済産業省は中東情勢を受け、ナフサについても米国や南米などからの代替調達、国内精製、在庫活用によって供給を確保する方針を示した。経済産業省「2026年3月17日大臣記者会見」

アルミニウムも見落とせない。湾岸諸国は安価なエネルギーを背景に大規模なアルミ精錬産業を育ててきた。例えばUAEからの日本の輸入では、原油・石油製品が中心である一方、非鉄金属も一定の比重を占める。JETRO「アラブ首長国連邦の貿易投資年報」を見ると、日本にとってUAEは単なる産油国ではなく、基礎素材の供給国でもある。

サウジアラビアからも同様に、鉱物性燃料だけでなく、化学製品、有機化合物、非鉄金属を輸入している。JETRO「サウジアラビアの貿易投資年報」

ここから見えてくるのは、ホルムズ海峡の問題が「ガソリンが高くなるか」という話だけではないということだ。

原油が止まれば燃料に影響する。ナフサが止まれば化学製品に影響する。アルミニウムなどの素材輸送が滞れば、自動車、建材、電線、電子機器などへ影響が広がる。

ただし、ここから「中東から買うのをやめるべきだ」という結論を出すのも適切ではない。中東産原油には価格や供給量の面で合理性があり、湾岸のアルミ産業にも競争力がある。平時に経済合理性の高い供給源を利用することそのものは問題ではない。

本当に重要なのは、止まったときに代替できるかどうかである。

2026年の中東危機では、高市政権は国家備蓄などで時間を確保しながら、米国、中南米、アジア太平洋、中央アジア、アフリカ、カナダなどへ原油の調達先を広げた。6月11日の中東情勢に関する関係閣僚会議では、6月の代替調達量が必要量の約8割まで拡大し、7月には通常時に近い量をホルムズ海峡外から調達できる見通しが示された。

この事実は重要である。原油のホルムズ依存が高くても、備蓄、商社、海運、外交、製油所の対応力を組み合わせれば、危機時に供給ルートを切り替えることができる。

したがって、エネルギー安全保障を「中東依存率が何%か」だけで評価するのは不十分である。

平時の依存率より、有事の代替能力の方が重要なのである。

3️⃣依存率を下げるより、「止められない国」をつくる

ここまで整理すると、日本が次に目指すべき方向は明確になる。

それは、中東依存を数字合わせで引き下げることではない。中東との経済関係には大きな合理性がある。必要なのは、その合理性を利用しながら、一つの地域や航路に問題が起きても日本経済が止まらない体制をつくることである。

その原型は、すでにLNGで作っている。日本は国内に大規模な天然ガス資源を持たなくても、海外権益、長期契約、LNGタンカー、受入基地、商社、金融を組み合わせ、世界からエネルギーを確保する能力を築いた。LPGでも供給源を大きく転換した。

この能力を原油、電力、基礎素材まで広げるべきである。

LNG、原子力、地熱などを組み合わせる日本版エネルギードミナンス AI生成画像
原油については、中東産を利用しながら、北米、中南米、中央アジアなどの調達ルートも維持する。備蓄、タンカー、海上保険、港湾、製油所を一つの供給網として考え、危機時には速やかに切り替えられるようにする。

ナフサなど石油化学原料についても、複数の供給先を確保し、国内精製能力と在庫を維持する。アルミニウムなどの基礎素材については、調達先の分散だけでなく、国内リサイクルの拡大も重要になる。

電力では、安全性を大前提に原子力を最大限活用し、次世代革新炉を育てる。地熱、水力など国内で確保できる電源も重要である。LNG火力は調整力と安定供給の面で引き続き役割を持つ。省エネルギーも、CO2削減策というだけではなく、外国から買わなければならない資源の量を減らす安全保障政策として考えるべきだ。

高市政権も2026年8月26日のGX実行会議で、中東危機を受け、原油・ナフサの調達先多角化、石油関連製品の供給体制強化、安全性を前提とした原子力の最大限活用、次世代革新炉、次世代地熱などを組み合わせ、エネルギー需給構造を強靱化する方針を示している。

本稿でいう「脱・脱炭素」とは、CO2削減技術を否定することではない。脱炭素そのものを政策の最上位目的に置き、そこからエネルギー政策すべてを逆算する発想から脱するという意味である。

最上位に置くべきなのは、国民生活と産業に必要なエネルギーを、安定的に、十分な量を、許容可能な価格で供給できるかどうかである。その条件を満たしながらCO2も減らせるなら、それに越したことはない。

日本版エネルギードミナンスとは、米国のように大量の石油や天然ガスを自国で産出することではない。

一つの国、一つの地域、一つの航路、一種類のエネルギー源が止まっても、別の選択肢へ切り替えられる国家能力を持つことである。

さらに今回の中東危機は、対象をエネルギーだけに限定することもできないと示した。原油、ナフサ、化学品、アルミニウムなどは、日本の製造業の中で連続した供給網を形成している。

したがって、日本が目指すべきものを一言で表すなら、

「エネルギーと基礎素材を止められない国」

ということになる。

結語 日本は石油危機の次の段階へ進むべきだ

第一次石油危機から半世紀、日本は石油への依存を大幅に下げた。発電では石油火力を縮小し、LNG、原子力、石炭、水力、再生可能エネルギーへ分散した。産業では省エネルギーを進め、LNGでは世界規模の調達網を構築し、LPGでは中東依存を大きく減らした。

石油危機の教訓の多くは、すでに日本のエネルギー構造に反映されている。

それでも中東は重要である。原油だけでなく、石油製品、ナフサ、化学品、アルミニウムなど、日本の産業を支える物資が中東から入っているからだ。

だから問題は、「中東依存をなくすべきか」ではない。

経済合理性の高い中東との取引を続けながら、そこに何か起きても日本経済が止まらない能力を持てるかどうかである。

平時には合理的な供給源を利用する。有事には備蓄で時間を稼ぎ、別の国、別の航路へ切り替える。長期的には原子力、LNG、地熱、水力、省エネルギーなどによって海外資源への依存そのものを抑える。さらにナフサやアルミニウムなどの重要素材についても、供給先の分散と国内能力の強化を進める。

第一次石油危機の本当の教訓は、「石油を使うな」ではなかった。

一つの資源、一つの地域、一つの航路が止まっただけで、国全体が止まる構造を作るな、ということである。

日本は石油依存を減らすところまでは、相当程度やってきた。

次に必要なのは、エネルギーと基礎素材を含む供給網全体を、危機に強いものへ変えることだ。

日本に必要なエネルギードミナンスとは、外国を資源で支配することではない。

外国の事情だけで、日本の経済と国民生活が支配されないだけの選択肢を持つことである。

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2026年9月26日土曜日

変電所を「要塞化」するリトアニア 海洋国家・日本は生命線を守れるか


 まとめ
  • リトアニアは海に面しながら複数国と陸続きであり、ギジャイ変電所ではドローン、車両突入、破壊工作まで想定した物理防護が計画されている。
  • 海洋国家日本は大東亜戦争期、米国による計画的な潜水艦通商破壊と1945年の「飢餓作戦」で海上物流という弱点を突かれた。同時に国内では軍用備蓄や統制物資が存在する一方、配給不足、終戦前後の隠退蔵・物資処分の混乱が重なり、国民生活は深刻な食糧難に陥った。
  • 現代の日本では、変電所、港湾、燃料施設、海底ケーブル、食料・燃料などの備蓄、そしてそれらを届ける物流網までを一体として考え、「どこを止められれば国家が止まるのか」を見極めて、代替・分散・防護・備蓄・輸送・復旧能力を整える必要がある。

戦争への備えと聞けば、戦車、戦闘機、ミサイル、防空システムを思い浮かべる。しかし欧州ではいま、もっと身近な施設まで安全保障の最前線に入りつつある。変電所である。リトアニアの送電事業者Litgridは、ポーランドとの新たな電力連系線「Harmony Link」を国内送電網につなぐギジャイ変電所を建設する計画を進めているが、この変電所は普通の電力設備ではない。爆薬を積んだ車両の突入を想定した外周防護、地下からの侵入を探知する設備、ドローン攻撃から変圧器を守る強化コンクリート構造、主要設備の二重化まで盛り込まれる予定である。Reutersが報じたギジャイ変電所の防護計画では、安全対策の追加だけで従来計画より少なくとも4800万ユーロ(約86億円)の費用増になるとしている。

なぜ一つの変電所に、ここまでの防護が必要なのか。その背景には、ウクライナ戦争を通じて欧州が直面した新しい安全保障の現実がある。現代の国家を麻痺させるには、必ずしも戦車で国境を越える必要はない。電力、通信、港湾、鉄道など社会を動かす基盤の急所を狙えば、全面戦争に至らない段階でも国家に大きな圧力を加えられる。NATOが2026年9月に公表したレジリエンス基準要件も、重要インフラへの物理攻撃、破壊工作、サイバー攻撃、戦略的依存などを明示的なリスクとして扱っている。リトアニアの「要塞化する変電所」は、その変化を象徴している。

1️⃣なぜ一つの変電所をここまで守るのか

ギジャイ変電所は、リトアニア南西部ヴィルカヴィシュキス地区に計画されている。Litgridが公表したギジャイ変電所建設計画によれば、敷地は約35ヘクタールで、完成すれば同社が運用するリトアニア最大の変電所となり、330、220、110、10キロボルトの各電圧階級を扱う。完成目標は2030年末である。ここにつながるHarmony Linkは、リトアニアとポーランドを結ぶ新たな電力連系ルートであり、両国間の送電能力を高める重要な設備である。

ここで時系列を正確に押さえておきたい。バルト三国はHarmony Linkの完成を待ってロシア系統から離脱するわけではない。エストニア、ラトビア、リトアニアはすでに2025年2月9日、ロシア・ベラルーシ系統への長年の依存を終え、ポーランドを経由して欧州大陸系統との同期を実現した。欧州委員会の「Baltic Energy Market Interconnection Plan」も、この日をバルト三国の欧州大陸系統への同期完了日としている。Harmony Linkはその後、国境を越えた送電能力と電力市場統合、系統の強靱性をさらに高める追加ルートなのである。

ギシャイ変電所とスヴァウキ回廊の位置関係 AI生成画像 クリックすると拡大します
そして、この施設を理解するには地理を外せない。リトアニアはバルト海に面しているが、島国ではなく、ラトビア、ベラルーシ、ポーランド、そしてロシアの飛び地カリーニングラードと陸上で接している。ギジャイ変電所の予定地はカリーニングラードにも近く、さらに南西には、カリーニングラードとベラルーシに挟まれたリトアニア・ポーランド間の地域、いわゆるスヴァウキ回廊がある。海に囲まれた島国とは違い、道路、鉄道、送電線、人の移動が陸上国境を越えて連続しているため、車両、工作員、小型ドローンなどによる重要施設への物理的接近を、より現実的な脅威として考えざるを得ない。

だから設計思想も変わる。Reutersの取材によれば、Litgridは従来の自然災害中心の設計から、ハイブリッド攻撃を含む人為的脅威まで考慮する方向へ発想を変えている。計画には、爆薬を積んだ車両の突入を想定した外周防護、地下からの侵入を探知する設備、ドローン攻撃から変圧器を守る強化コンクリート構造、主要設備の二重化などが含まれる。

「攻撃されない施設」を目指すだけではなく、「攻撃されても止まらない施設」をつくる。

そこに、この変電所の本当の意味がある。

2️⃣「戦争未満」でも国家は止められる

リトアニアだけの特殊事情ではない。欧州全体で、電力、通信、交通といった民間インフラを安全保障の中核に組み込む動きが進んでいる。NATOの2026年レジリエンス基準は、政府機能、エネルギー、食料・水、医療、民間通信、交通などについて、平時だけでなく危機・紛争時にも機能を維持する能力を求めている。重要なのは、単に施設を頑丈にすることではない。一部を失っても機能を継続し、代替し、短期間で復旧できる能力まで含めて国家の強靱性と考えていることである。

重要インフラを支える電力網の監視・制御 AI生成画像
現代社会では、電力は単独のインフラではない。通信、データセンター、金融決済、鉄道、病院、給水設備、行政機関、そして軍事施設まで、安定した電力供給を前提としている。送電網の重要な一点が長期間停止すれば、その影響は別のインフラへ連鎖する。ウクライナ戦争が示したのも、発電能力が残っているだけでは国家の電力を守れないという現実である。変電・送電設備が破壊されれば、必要な場所へ電力を届けることができない。

しかも安全保障上さらに難しいのは、攻撃が必ずしも正規軍による全面侵攻という形を取らないことである。ドローン、サイバー攻撃、破壊工作、通信妨害などを組み合わせれば、武力紛争との境界を曖昧にしたまま相手国へ損害を与えることができる。だから現代のインフラ防護では、「敵を完全に近づけない」だけでは足りない。一部を破壊されても機能を維持できること、別の経路へ切り替えられること、交換部品を確保していること、短期間で復旧できること。こうしたレジリエンスそのものが防衛力の一部になる。

戦争が始まってからインフラを守ろうとしても遅い。平時のインフラを、平時から有事に耐える構造にしておく必要がある。

リトアニアの変電所が示しているのは、この発想である。

3️⃣海洋国家・日本はすでに「生命線を止められる怖さ」を経験した

ここで日本との違いを考えたい。リトアニアは海に面しながら、複数の国と陸続きである。一方、日本には他国との陸上国境がなく、四方を海に囲まれた海洋国家である。外務省「海洋の国際法秩序と国連海洋法条約」も、日本を「四方を海に囲まれた海洋国家」と位置付けている。したがって、リトアニアが想定する脅威をそのまま日本へ当てはめる必要はない。しかし、海に囲まれていることは「安全」を意味しない。海洋国家には海洋国家特有の弱点がある。

そのことを日本が最も深刻な形で経験したのが、大東亜戦争における日米戦争であった。当時の日本は石油、鉄鉱石、ボーキサイト、食料など多くの重要物資を海外からの海上輸送に依存していた。米国側の戦後調査「Japan's Struggle to End the War」も、日本が石油、鉄鉱石、石炭、ボーキサイト、食料などの輸入に強く依存していたことを「島国の基本的脆弱性」として分析している。日本は約600万トンの商船で戦争に入り、戦時中に利用可能だった商船の88%を失ったと同報告はしている。

米国はこの弱点を意識的、継続的に突いた。米海軍の戦後公式報告「Submarine Report」によれば、米海軍作戦部長は真珠湾攻撃当日の1941年12月7日、日本に対する無制限潜水艦戦を命令した。米潜水艦は軍艦だけではなく商船に対しても消耗戦を続け、日本へ向かう燃料、原料、食料などの流れを削っていった。これは偶然に商船が攻撃されたのではなく、日本という国家の戦争遂行能力を支える物流そのものを標的とした戦略であった。

一方、日本も米国や連合国の商船を攻撃しており、通商破壊を行わなかったわけではない。しかし、その優先順位は米国とは異なっていた。米海軍による日本潜水艦戦の分析は、日本海軍の潜水艦を主として艦隊作戦の一部と位置付け、敵商船への攻撃は主作戦を妨げない範囲で行うという思想だったと指摘している。伊58潜水艦長・橋本以行中佐への戦後尋問でも、敵機動部隊への攻撃が優先され、商船は二次的な目標だったと証言されている。

つまり、日本にも通商破壊の能力はあったが、敵国の物流を国家戦略として継続的に締め上げるという点では、米国ほど徹底していなかった。

その違いは小さくない。米国は「敵艦隊を沈める」だけではなく、「敵国が戦争を続けるために必要な物資の流れを止める」ことを戦略として実行した。その最終局面を象徴するのが、1945年の「Operation Starvation」、いわゆる「飢餓作戦」である。米海軍歴史遺産司令部によるOperation Starvationの公式解説によれば、B-29による機雷敷設は下関海峡から主要港湾、日本海側、朝鮮半島との航路へと拡大され、1945年7月9日からの第5段階は米側自身が「total blockade」、全面封鎖と呼んでいた。

その規模も大きい。313爆撃航空団は終戦までに46回の任務、延べ1529機が出撃を実施し、26の機雷原に1万2135発の機雷を敷設した。同じ米海軍公式史料によれば、約670隻の日本船舶が沈没または大破し、500隻弱が沈没した。戦争末期には機雷による損失が潜水艦による損失を上回り、日本の沿岸交通と大陸からの物資輸送を強く圧迫した。

ただし、「飢餓作戦」という名称から、民間人を飢えさせることだけを唯一の目的とした作戦だったと単純化するのは正確ではない。軍事的な中心は海上交通を機雷で遮断し、原料、燃料、食料その他の物資の流れを止めることにあった。しかし、その結果は当然ながら軍需産業だけにとどまらない。米海軍歴史遺産司令部の評価も、機雷封鎖によって日本国民の食料不足が深刻化し、戦争がさらに続けば大規模な飢餓に至った可能性を指摘している。

しかも、日本国民を苦しめたのは米軍による海上封鎖だけではなかった。戦時中の日本では、1942年の食糧管理法などを通じて、国家が食糧の集荷・配給を強く統制し、軍も作戦継続のための糧食を保有していた。終戦時、一般国民が深刻な食糧難に直面する一方で、軍や政府関係機関には相当量の物資が残されていた。1945年12月4日の帝国議会予算委員会における政府答弁によれば、終戦時に陸軍が保有していた主要糧食は米麦約7万トン、雑穀約10万トン、合計約17万トンに達していた。政府側は、これは当時200万人を超える部隊と約10万頭の馬を支えるための約3カ月分の糧秣だったと説明している。

したがって、これらすべてを「政府が国民から食料を隠していた」と一括して断定するのは適切ではない。戦時備蓄や軍用糧食には軍事上の目的があり、終戦後にはその一部が復員兵の携行食や民需にも回された。しかし問題は、物資が極端に不足していた時期に、軍や各種機関が大量の物資を保有し、その処分が必ずしも透明ではなかったことである。同じ帝国議会答弁でも、終戦直後の払い下げが「相当乱雑」に行われたことを政府側が認め、軍需品の処分をめぐって「国民の疑惑」が生じていたことが記録されている。

さらに終戦後には、軍需物資などの隠退蔵そのものが大きな社会問題になった。1946年の「隠匿物資等緊急措置令」をめぐる帝国議会審議では、政府が「終戦後隠退蔵せられて居りました物資」を供出させ、窮迫した国民生活に回すことを制度の目的として説明している。申告漏れや不正申告だけでは物資を確保できないとして、同年4月末には食糧まで対象に追加され、警察による摘発も進められた。同年7月17日の帝国議会答弁では、摘発された食糧だけで18万~19万石程度に達すると説明されている。

その一方で、庶民の食卓は窮乏していた。配給だけでは生活できず、都市住民は農村への買い出しや闇市に頼らざるを得なかった。終戦によって直ちに状況が改善したわけでもない。1946年6月7日の「食糧非常時突破に関する声明」で、政府自身が「食糧事情は遂に最悪の事態に陥り、多数の同胞は飢餓に直面するに至つた」と認めている。戦争末期から終戦直後にかけて、国民は空襲、物資不足、配給の逼迫、海上封鎖、そして戦後の混乱が重なる中で、まさに塗炭の苦しみを味わったのである。

ここから得られる教訓は、「大量に備蓄すればよい」ということでも、「国家備蓄は悪い」ということでもない。危機に備えて食料、燃料、医薬品、重要部品を備蓄すること自体は、むしろ現代のレジリエンスに不可欠である。問題は、何を、どれだけ、どこに備蓄し、危機になったとき誰に、どの経路で届けるのかまで設計されているかである。倉庫に物資があっても、それを必要とする国民や重要施設へ届けられなければ、国家のレジリエンスとはいえない。

そして海底通信ケーブルについても、歴史を正確に見なければならない。海底ケーブルと陸揚げ局は大東亜戦争当時にも存在し、国際通信や軍事通信を担っていた。現代との違いは、その存在の有無ではなく、社会全体の依存度と通信量である。今日では国際通信、金融取引、クラウドサービス、企業活動、データセンター間通信など、社会・経済のはるかに広い領域が大容量の海底光ファイバー網に依存している。そのため、海底ケーブルと陸揚げ局の障害が及ぼす影響も当時とは比較にならないほど広範囲になっている。

ここには、現代の日本に通じる重大な教訓がある。

海は防壁であると同時に、生命線でもある。そして、備蓄は「持っていること」ではなく、「必要な時に届けられること」まで含めて初めて安全保障になる。

現在の日本も、原油、LNG、鉱物資源など多くの重要物資を海上輸送に頼っている。港湾が止まる、燃料受入施設が止まる、海底ケーブルや陸揚げ局が損傷する、発電所や大規模変電所が止まる、サイバー攻撃で物流システムが麻痺する。現代では必ずしも船を大量に沈めなくても、複数の急所を同時に狙うことで海洋国家の機能に大きな負荷を与えることができる。

海洋国家日本を支える港湾と海上物量 AI生成画像
だから、日本がリトアニアから学ぶべきなのは、変電所を同じようなコンクリートで囲うことではない。リトアニアでは陸上国境に近い電力連系設備が一つの急所になる。一方、日本では、中核変電所に加え、港湾、燃料基地、海底ケーブルと陸揚げ局、海上輸送路、離島への電力・通信網、さらに食料・燃料・医薬品などの備蓄と配送網まで、海洋国家ならではの生命線として考えなければならない。

しかも、大東亜戦争時とは違い、現代では潜水艦や機雷だけを警戒すればよいわけではない。ドローン、無人艇、サイバー攻撃、衛星測位妨害、海底インフラへの工作など、攻撃の手段ははるかに多様化している。日本にはすでに内閣府「基幹インフラ役務の安定的な提供の確保に関する制度」があり、電気などの基幹インフラについて、特定重要設備の導入や重要な維持管理等の委託を事前に審査する仕組みが設けられている。しかし、設備調達を通じた妨害リスクを審査することと、物理的な攻撃や物流遮断を受けても国家機能を維持することは同じではない。

問われるのは、どこを失えば国家機能への影響が最も大きいのか、代替経路はあるのか、設備や備蓄は十分に分散されているのか、予備部品や食料、燃料は確保されているのか、そしてそれらを必要な場所へ運ぶ物流網が生き残るのかということである。過去の日本は、物資そのものだけでなく、それを運ぶ海上交通を切断されることが国家と国民生活を追い詰めることを、極めて大きな代償を払って経験した。その教訓を、現代のインフラ防護に結び付ける必要がある。

結語 地理と歴史を知らずして国家は守れない

リトアニアで計画されるギジャイ変電所は、一見すれば欧州東端の特殊な施設に見える。しかし、本当に注目すべきなのは厚いコンクリートでも、高いフェンスでもない。国家が守るべき対象と、国家を止める方法そのものが変わってきたという事実である。

リトアニアは、ロシアの飛び地カリーニングラードやベラルーシに近く、ポーランド、ラトビアとも陸続きである。だから陸上の重要インフラを物理攻撃から守る必要性が切迫している。日本は違う。四方を海に囲まれた海洋国家である。だが、その海は単なる「堀」ではない。日本のエネルギー、食料、貿易、物流、通信を支える生命線でもある。

その弱点を、かつて米国は徹底的に突いた。潜水艦による計画的な通商破壊、そして「飢餓作戦」による機雷封鎖で、日本の軍艦だけではなく、日本という国家を動かしていた物資の流れそのものが標的になった。その一方で国内では、国家統制下に置かれた物資や軍用備蓄が存在しながら、国民は厳しい配給不足に苦しみ、終戦前後には隠退蔵や不透明な物資処分まで社会問題となった。物資を持っていることと、必要な人へ届けられることは同じではないのである。

そこから80年以上が経過した。技術は変わった。脅威も変わった。しかし原理は変わらない。

国家は、最も依存しているものを止められたときに弱くなる。そして国家が物資を持っていても、それを国民へ届けられなければ社会は守れない。

だから安全保障とは、兵器の数だけを数えることではない。自国が何に依存しているのかを知り、その急所を分散し、守り、必要な物資を備蓄し、輸送路を確保し、攻撃や災害を受けても機能を回復できるようにしておくことである。

リトアニアの変電所が日本に教える最大のことは、要塞化そのものではない。

地理と歴史を踏まえ、「国家と国民生活を止めない構造」を平時からつくることなのである。

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パラオで露わになった中国の野望――南シナ海の先で「西太平洋の政治地図」を書き換える 2026年9月5日 
港湾、海底ケーブル、通信、電力など、島嶼国の国家基盤を安全保障の視点から捉えた記事。海洋国家・日本の生命線を考えるうえでも本稿と直結する。
港湾、倉庫、鉄道、通信など国家を動かすロジスティクスそのものが現代戦の標的になる現実を論じた記事。本稿の「国家を止めない構造」という問題意識につながる。
食料が存在していても、保管・情報・輸送の仕組みが止まれば国民には届かない。備蓄だけでなく配送能力まで国家のレジリエンスとして考える本稿の歴史的教訓と重なる。
重要鉱物、半導体、港湾、エネルギー、海底ケーブルなど、安全保障上の「急所」を他国に握らせないことの重要性を論じた記事。
海底ケーブルと陸揚げ拠点を海洋国家の重要インフラとして取り上げた記事。本稿で論じる「現代の日本の生命線」を直接補強する内容である。

2026年9月25日金曜日

米中首脳会談、日本は無視できない国——日本はこの半年何を積み上げてきたか

 
まとめ
  • 9月24日の米中首脳会談は「米中融和」でも「対立解消」でもなかった。貿易休戦は延長されたが、関税、レアアース、技術規制などの核心的な問題は残った。米中は競争をやめるのではなく、競争が制御不能になることを避けようとしている。

  • その2日前の日米首脳会談で、高市首相とトランプ大統領は、米中首脳会談を念頭に中国をめぐる諸課題を協議するとともに、AI、半導体、重要鉱物、日米同盟の抑止力・対処力の強化を確認した。日本は米中関係を外から眺めるだけの存在ではない。

  • この半年、日本はAI・半導体、重要鉱物、エネルギー、日米戦略投資、同盟強化、FOIPなどを積み上げてきた。中国にとっても米国にとっても、日本の戦略的位置は重い。だからこそ日本は、目先の経済利益だけではなく、長期的な国益と安全保障を軸に対中関係と日米同盟を考える必要がある。

9月24日、トランプ大統領と習近平国家主席がホワイトハウスで向き合った。貿易休戦は延長されたが、関税、中国による米国製品購入、レアアース供給、技術規制といった核心的な問題は残った。台湾をめぐる基本的な隔たりも解消していない。会談前から、米中両国は貿易、台湾、AI、重要鉱物などをめぐって対立を抱えつつ、関係の安定化を模索していた。こうした米中関係の構図は、Reutersに
よる米中首脳会談をめぐる分析にも表れている。

これは「米中融和」と呼べるものではない。かといって、対立一辺倒でもない。米中は互いに譲れないものを抱えながら、競争が制御不能になることを避けるために首脳同士の対話を続けている。AIについても、首脳会談に先立つ米中協議で、AI安全と緊急時の連絡手段をめぐる正式な対話を設ける方向が確認されていた。Reutersは米中がAI安全対話を継続する方針を報じている。

ここで、「米国は中国に譲歩したのか」「日本は取り残されるのか」という見方から、いったん離れてみたい。今回の米中首脳会談を日本から考えるうえで重要なのは、米中が話したこと自体ではない。米中が向き合ったとき、日本がどのような位置にいたのかである。

実は、その答えを考えるための材料は2日前に出そろっていた。9月22日、高市首相とトランプ大統領はニューヨークで会談した。両国はこの半年、AI、半導体、重要鉱物、エネルギー、安全保障の各分野で実務協力を積み上げてきた。3月の日米首脳会談でも、ホワイトハウスの公式ファクトシートは、日米同盟の強化、経済安全保障、重要鉱物、AI・量子技術、ミサイル共同生産、台湾海峡の平和と安定を具体的な協力事項として掲げている。

同じ9月22日には、トランプ大統領と高市首相が国連総会でそれぞれ演説した。高市首相は重要鉱物、エネルギー、AI、FOIPだけでなく、国連憲章に残る「敵国条項」の削除と安保理改革まで訴えた。日米首脳会談、両首脳の国連演説、そして米中首脳会談。これらは別々のニュースとして消費するより、一本の線で読んだ方が現在の日本の立ち位置がよく見える。

その線は半年前にもつながっている。今年3月18日、私はこのブログで「北京は待て、日本は進め──トランプ訪中延期と高市会談が暴いたアメリカの本音」と題する記事を書いた。当時、トランプ大統領の中国訪問が延期される一方、高市首相との会談準備は進んでいた。そこで私は、米国は中国との首脳外交を捨てたのではなく、北京との会談というカードを残しながら、日本との関係を先へ進めようとしているのではないか、と論じた。

半年後、北京はもう待っていない。米中は向き合った。しかし、この半年に動いたのは米中だけではない。日本もAI・半導体、重要鉱物、エネルギー、日米戦略投資、同盟の抑止力・対処力、FOIPを積み上げてきた。

だから今回の記事で問いたいのは、「米中が接近したら日本はどうなるのか」ではない。

日本はこの半年で何を積み上げ、米中双方からどれほど無視できない存在になっているのか。

そこから今回の米中首脳会談を見てみたい。

1️⃣「対話か対立か」ではない――米中は競争を管理した

3月にトランプ大統領が中国訪問を延期したとき、それを米中対話の後退と見ることもできた。しかし半年後を振り返れば、少なくとも米国が対話そのものを捨てていなかったことは明らかである。5月にはトランプ氏が北京を訪れ、9月には習氏がワシントンを訪問した。首脳レベルの対話回路は維持されている。

それでも今回の会談を「米中融和」と呼ぶのは正確ではない。象徴的なのが貿易問題である。休戦は延長されたが、恒久的な通商合意には至らず、関税、中国による米国製品購入、レアアース、技術規制などは持ち越された。双方とも関係を壊したくはない。しかし簡単には譲れない。その均衡の上に、現在の米中関係が成り立っている。こうした経緯は、Reutersによる米中関税戦争から休戦までの整理からも確認できる。

対立を抱えながら対話を続ける米中外交 AI生成画像

その構図が最も鮮明に現れているのがレアアースである。中国はレアアースの採掘だけでなく精製・加工でも圧倒的な供給力を持つ。Reutersは、中国が世界のレアアース採掘の約7割、精製・生産では8割を大きく超えるシェアを握ると報じている。レアアースが米中首脳会談で米国側の重要課題となった背景は、この供給構造にある。

レアアースはEVだけでなく、モーター、航空宇宙、レーダー、防衛装備などに関わる。米国には巨大な軍事力、金融力、先端技術がある。しかし中国にも、米国が短期間では容易に代替できない供給力がある。逆に、中国も米国市場、ドル金融、先端技術を無視して経済を運営できるわけではない。

互いに相手を必要としながら、互いへの過度な依存を減らそうとしている。この矛盾こそ、現在の米中関係である。

台湾についても基本構造は変わらない。中国は台湾問題を核心的利益として扱い、米国に強い要求を続けている。5月の北京での米中首脳会談でも、習氏は台湾問題の扱いを誤れば米中関係が危険な状況に陥ると警告していた。Reutersによる5月の米中首脳会談報道からも、この問題が米中関係の根本的な対立点であることが分かる。

つまり今回の会談を一言で表すなら、競争は続ける。しかし、競争を制御不能にはしないということだろう。

「対話か対立か」ではない。

対立しているからこそ、対話する。

この現実を踏まえなければ、日本の立ち位置も見えてこない。

2️⃣米中会談の2日前――日本は何を積み上げていたのか

ここで時計を2日前に戻してみたい。9月22日、高市首相とトランプ大統領はニューヨークで会談した。この半年の日米関係を見ると、安全保障と経済安全保障を別々に扱うのではなく、AI、半導体、重要鉱物、エネルギー、ミサイル、防衛産業を一体として強化する方向が鮮明になっている。

3月の日米首脳会談で、ホワイトハウスは日米同盟強化の具体策として、重要鉱物サプライチェーン、南鳥島周辺のレアアース泥開発、AI・量子技術、AMRAAM共同生産の検討、SM-3 Block IIAの国内生産能力4倍化、政府向け主権クラウド、台湾海峡の平和と安定などを明記した。これは単なる「日米友好」の確認ではない。技術、供給力、防衛力を結び付けた同盟強化である。

ここに、3月19日に書いた「中国を睨む日米会談に突きつけられたホルムズ危機――高市・トランプ会談は日米同盟の踏み絵である」がつながる。あの記事で問題にしたのは、安全保障を軍事だけで考えてよいのかという点でもあった。中国への長期的な備えが重要でも、ホルムズ海峡でエネルギー供給が滞れば、我が国の国民生活と産業は打撃を受ける。重要鉱物が止まれば製造業が傷み、半導体供給が途絶すれば自動車から防衛装備まで影響する。安全保障とは軍艦や戦闘機の数だけでは測れないのである。

高市首相は国連の場で日本の立場と国際秩序改革を訴えた AI生成画像
半年後、高市首相の国連演説には、その問題意識がさらに広い形で現れた。エネルギー、重要鉱物、AI、供給網、FOIPを論じるだけでなく、国連憲章53条、77条、107条に残る、いわゆる「敵国条項」の削除を正面から求めた。2005年の国連総会ではすでに「敵国」への言及を削除する意思が確認されているが、国連憲章改正には総会での3分の2の賛成に加え、安保理常任理事国5か国を含む加盟国3分の2による批准が必要である。したがって、日本政府だけで削除できるものではない。高市首相の発言は、未完の国連改革を国際社会に改めて迫るものだった。

高市首相は同時に、1945年の国際情勢を反映した安保理について、常任・非常任理事国双方の拡大も求めた。これは単なる制度論ではない。戦後80年以上を経た日本が、かつての敗戦国として与えられた位置を受動的に受け入れるだけではなく、現在の国力と国際貢献に応じた秩序形成へ関与しようとする姿勢の表れでもある。

一方、トランプ大統領の国連演説は国家主権と米国の国益をより強く前面に出した。日米の国際機関観は同一ではない。それでもAI、半導体、重要鉱物、防衛という実務では協力が進む。

同盟とは、すべての世界観が一致する関係ではない。

異なる国家が、それぞれの国益を持ちながら、利益の重なる領域で実力を持ち寄る関係である。

3️⃣米中双方が日本を無視できない理由

今回の米中首脳会談から日本が考えるべきものとして、レアアースは象徴的である。中国が米国から無視されない理由の一つは、米国にとって短期間では代替できない供給力を持っていることにある。

では、日本は何を持っているのか。

答えは、すでにかなり具体的である。日本には半導体製造装置・材料、高度な製造技術、精密機械、特殊素材、産業用ロボット、造船などの産業基盤がある。さらに日米同盟、資本、重要鉱物備蓄の知見、エネルギー技術、FOIPを軸とした外交ネットワークがある。

経済産業省は2026年の政策方針で、レアアースや半導体などについて「特定の国に過度に依存することのない強靱なサプライチェーン」の構築、国内生産力強化、供給源多角化、国家備蓄強化を進める方針を明示している。経済産業省の2026年年頭所感は、対中依存を含む供給網リスクへの政府の基本姿勢を示している。

さらに3月の日米首脳会談では、南鳥島周辺の深海重要鉱物資源の共同研究・産業協力や、重要鉱物の生産・供給源多角化を進める行動計画でも一致した。これは、日本が単に中国産レアアースを買う国から、供給力を自ら形成する国へ移ろうとする動きでもある。

そして、ここからもう一段踏み込む必要がある。

米国と中国は立場こそまったく違うが、どちらも日本の戦略的位置を軽視できない。

中国にとって、日本が米国との同盟を強化し、FOIP、台湾海峡、半導体、重要鉱物、防衛面で米国との連携を深めることは、自国を取り巻く戦略環境に直接影響する。逆に、日中関係を安定させ、経済や外交で日本との協力余地を広げることは、中国にとって利益になる。

つまり、中国にとって日本がどちらの方向へ動くかは重要なのである。

一方、米国側の姿勢はさらに明確だ。3月のホワイトハウス文書は、日米同盟を強化し、経済安全保障を高め、重要鉱物、先端技術、防衛生産で連携し、インド太平洋における抑止力を強化する方向を具体的に示している。

米国が中国との長期競争を続けるほど、日本の地理、技術、製造能力、資本、防衛力、海洋能力、外交ネットワークの価値は大きくなる。

米国にとって、日本は単なる「基地を置く国」ではない。インド太平洋戦略そのものを成立させる主要な構成要素である。

ここで重要なのは、だから中国との関係を軽視してよいという話ではない。中国は我が国にとって巨大な隣国であり、主要な経済相手でもある。対話の回路を維持し、協力できる分野では協力する必要がある。

港湾・造船・半導体が支える日本の産業力と供給力。AI生成画像
しかし、目先の経済利益だけで長期戦略を決めれば、別のコストを見落とす。

2026年版防衛白書は、中国の対外姿勢や軍事動向について「これまでにない最大の戦略的な挑戦」と位置付けている。中国は尖閣諸島周辺を含む東シナ海、日本海、西太平洋で軍事活動を活発化させ、台湾への軍事的圧力も強めている。防衛白書の中国軍事動向の詳細では、第一列島線を越え第二列島線に及ぶ活動や、台湾周辺、南シナ海での軍事活動が具体的に記録されている。

さらに、防衛省資料は、中国について、他国の中国への依存を利用して経済的威圧を加える事例があるとも指摘している。防衛省の「装備品等の開発及び生産のための基盤の強化に関する基本的な方針」関連資料にも、この認識が明記されている。

だから日中関係を見る際には、市場規模、観光、輸出入といった目先の数字だけでは足りない。台湾海峡の安定、尖閣諸島を含む東シナ海、重要鉱物への依存、先端技術、安全保障、供給網が寸断された場合の国民生活への影響まで含めて考えなければならない。

これは中国との関係を断てという話ではない。

経済関係を維持することと、戦略的な依存を深めることは同じではない。

ここを区別する必要がある。

政府自身も、経済産業省の2026年政策方針で、レアアースや半導体などについて特定国への過度な依存を避け、国内生産力、供給源多角化、国家備蓄を強化するとしている。中国との経済関係は維持する。一方で、安全保障と経済安全保障では、長期的な脆弱性を減らす。

これは「米国か中国か」という感情的な二者択一ではない。

日本自身の国益を基準に、分野ごとに何を結び、何を守り、どこへの依存を減らすのかを決める問題である。

そして現状では、日本と米国の安全保障上の利害は広い範囲で重なっている。東シナ海、台湾海峡、法の支配、海上交通、先端技術、重要鉱物、エネルギー供給網。その積み重ねが、この半年の日米関係にも表れている。

日本はすでに、中国にとっても米国にとっても無視できない国である。特に米国にとって、中国との競争が長期化するほど、日本の戦略的価値は増す。

3月に私は「北京は待て、日本は進め」と書いた。半年後、北京はもう待っていない。米中は向き合った。

しかし、日本も止まってはいなかった。日本も進んでいたのである。

結論――日本は選ばれる国ではなく、自ら選ぶ国である

今回の米中首脳会談を見て、「米中が接近した」「日本が取り残される」と見ることは簡単である。しかし事実を一つずつ見れば、違う景色が見える。米中は仲直りしたのではない。互いの力と弱点を認識し、競争を続けるために対話を維持している。

そして、その構図の外に日本がいるわけではない。

中国にとって日本は、隣接する主要な経済・技術国であり、米国の主要同盟国でもある。日本が米国との連携を深めれば、中国を取り巻く戦略環境は変わる。だから中国にとって、日本との関係をどう構築するかは重要な戦略課題になる。

米国にとって日本は、さらに明確な存在である。日本はインド太平洋の主要同盟国であり、半導体、素材、製造技術、造船、資本、エネルギー、重要鉱物、防衛、外交ネットワークを持つ。3月の日米首脳会談で示された協力項目を見るだけでも、米国が日本との結び付きを安全保障だけでなく、技術、供給網、エネルギー、防衛生産まで広げようとしていることは明らかである。

しかし、日本は米中双方から「選ばれる」のを待つ国ではない。

我が国自身が、自国の国益を基準に関係を選び、組み立てる国でなければならない。

中国とは巨大な経済関係がある。だから対話と協力は必要である。しかし、目先の市場利益だけで長期戦略を決めることはできない。2026年版防衛白書が示す東シナ海、台湾周辺、西太平洋での軍事動向、重要鉱物への依存、技術、安全保障上の脆弱性も同時に見なければならない。

一方、日米同盟は単なる友好関係ではない。我が国の安全保障、海上交通、技術、供給網、インド太平洋秩序を支える制度的基盤である。この半年、AI、半導体、重要鉱物、エネルギー、防衛で日米の実務協力がさらに具体化したことは、その重みを示している。

そして国連総会では、日本は敵国条項の削除と安保理改革を正面から求めた。

これは、戦後の国際秩序の中で自らを小さく位置付け続ける国の姿ではない。

自らの技術を磨き、供給力を再建し、国家資産を形成し、同盟を強くし、中国とも必要な対話を続けながら、国際秩序そのものにも意見を述べる国の姿である。

3月、北京は待たされた。9月、米中は再び向き合った。その半年の間、日本も前へ進んだ。

日本は中国にとって無視できない国である。そして米国にとっても、インド太平洋戦略を考えるうえで極めて重要な同盟国である。

だから米中が話すことを恐れる必要はない。

必要なのは、どちらかの大国の顔色を見て動くことではない。短期の利益と長期の国益を混同せず、日本が持つ技術、産業、供給力、防衛力、同盟、外交を国家資産としてさらに厚くすることである。

米中双方が日本を必要とする時代だからこそ、日本は自らの国益を軸に、自らの意思で前へ進めばよい。

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2026年9月24日木曜日

名古屋アジア大会で何が起きたのか――失われる日本の大会運営力

まとめ

  • 愛知・名古屋アジア大会では、個々のミスではなく運営体制そのものを検証する必要がある。 分散型宿泊への転換に加え、GL eventsへの大規模な一体委託、総合プロデュース企業を置かない体制などを含め、誰が大会全体を統括していたのかを大会後に検証すべきである。
  • 外国企業の起用自体が問題なのではない。 問われるのは、外国企業を活用しながら日本側が品質管理と司令塔機能を保持し、大規模イベントを運営する人材とノウハウを我が国に蓄積できたかである。巨大イベントの運営能力も供給力であり、国家資産である。
  • 国益は中央政府だけが守るものではない。 札幌、釧路、北海道の事例が示すように、地方行政の判断は日本の信用、環境、国土、供給力と深く関わっている。自治体の政策と実績を住民が継続的に検証することが、地方自治を機能させる前提なのである。

愛知・名古屋で開催中のアジア競技大会で、運営をめぐる問題が相次いでいる。宿泊施設、送迎バス、資格認定などをめぐる混乱に加え、韓国男子ホッケー代表の試合では韓国国歌ではなく北朝鮮国歌が流れ、組織委員会が謝罪する事態となった。韓国選手団からは宿泊や輸送への批判も出ており、組織委員会は改善を進めている。

一つ一つなら、大規模な国際大会につきもののトラブルと片付けることもできる。しかし、宿泊、輸送、資格認定、国際儀礼という大会運営の基本部分で問題が重なれば話は違う。日本が長い時間をかけて築いてきた最大の無形資産の一つは、「日本なら大丈夫」という信用だからである。時間を守る。安全で清潔である。複雑な仕事でも正確に動かす。この信用は日本企業だけではなく、交通、観光、行政、地域社会まで含めた我が国全体が積み上げてきた国家資産である。

外国人選手や海外メディアから見れば、愛知県、名古屋市、大会組織委員会の法的・行政的な境界は、日本国内ほど重要ではない。そこで経験したものが「日本で開かれた大会」の印象になる。だから今回問われているのは、大会の成否だけではない。地方行政や大会組織が、自らの仕事も日本全体の信用、ひいては国益につながっていると認識しているかという問題なのである。

1️⃣運営不備の背後で何が起きていたのか

今回の大会では、当初想定された大規模な選手村の整備を取りやめ、ホテル、クルーズ船、仮設宿泊施設などを組み合わせて選手・役員を受け入れる方式が採用された。大会後に利用先の乏しい巨大施設を残さず、経費を抑えるという判断自体には合理性がある。しかし、宿泊を分散すれば、競技場、練習場、食事、警備、資格認定、輸送などを結ぶ仕事はむしろ複雑になる。施設を造らないなら、その分だけ運営を強くしなければならない。

しかも大会直前の8月29日、アジア・オリンピック評議会(OCA)と大会組織委員会は、選手・役員の宿泊施設を確保し、最終準備も予定通り進んでいるとの認識を示していた。それだけに、開幕後に基本的な運営問題が表面化したことは重い。「順調」と判断していた管理体制が、なぜ実際の運用段階で十分に機能しなかったのか。この検証が必要である。

そして今回、もう一つ見逃してはならないのが、大会全体を誰がどのように束ねていたのかという問題だ。

愛知県議会での県側の説明によると、競技会場の仮設整備や運営などを担う「ベニューオペレーション」は、フランス・リヨンに本拠を置くGL events系企業へ一体的に委託され、その規模は約630億円である。個別に発注した場合の試算約700億円より費用を抑えられたと説明されている。愛知県議会「アジア・アジアパラ競技大会推進特別委員会審査状況」

大会運営を支える司令塔機能のイメージ AI生成画像
GL eventsは国際的な大型イベントの経験を持つ企業であり、外国企業を起用したこと自体を問題視する理由はない。大会公式資料でも、同社はイベントデリバリーサービスを担う最上位のプレステージパートナーと位置付けられている。また県議会では、GL events SAがプレステージパートナーであることから、その日本法人が組織委員会の契約規則に基づく随意契約の候補者として選ばれ、理事会承認を経て契約したと説明されている。愛知県議会「教育・スポーツ委員会審査状況」

より重要なのは、今回の大会には、従来の大型国際イベントで見られたような「大会全体の総合プロデュースを担う企業」が存在しないことである。2025年12月の愛知県議会で県側は、今回の愛知・名古屋大会について「総合プロデュースをする企業に該当する企業はない」と明言した。県議会では、過去の大規模イベントでは電通や博報堂などが企画、演出、PR、企業調整などを総合的に担ってきたのに対し、今回はそうした司令塔がないのではないかとの指摘も出ている。県側は、県・名古屋市職員だけでなく、国際スポーツ大会や大規模イベントの経験者、ITや出入国管理などの専門人材も加えて準備していると答弁している。愛知県議会「教育・スポーツ委員会審査状況(2025年12月11日)」

ここは慎重に見る必要がある。「経験ある日本企業を排除したから失敗した」と単純化することはできない。東京五輪をめぐる汚職・談合事件への反省は当然必要であり、従来の仕組みを無条件で復活させればよいという話でもない。

しかし、不祥事を起こした仕組みを改めることと、我が国が長年蓄積してきた巨大イベントを束ねる能力まで失うことは別問題である。数万人の選手・関係者を動かし、自治体、交通機関、宿泊施設、警備、医療、スポンサー、各国代表団を同時に調整する能力は、一朝一夕には作れない。それは我が国の「供給力」の一部であり、蓄積すべき無形の国家資産でもある。

中国企業の関与もある。中国浙江省に本社を置くZhejiang Dafeng Industryは、アジア大会の開閉会式について、企画・制作・運営やデジタルコンテンツ、聖火台などを含む分野を担当するパートナーとなっている。愛知県議会でも、組織委員会が同社と2025年8月に開閉会式の運営計画作成などに関する委託契約を締結したことが説明されている。大会公式のスポンサー一覧では、中国企業Shanghai Yude Energyも大会運営に関する臨時電源供給のパートナーとして掲載されている。大会組織委員会「スポンサー一覧」

これも、中国企業だから問題だという話ではない。国際大会なのだから、優れた外国企業を活用することはあってよい。問われるべきは、何を外部へ委ねても、日本側が全体を統括し、品質を管理し、問題が起きれば即座に修正できる能力を保持していたのかということである。

公金を使う以上、経費節減は必要だ。だが、安くすることと、我が国自身の運営能力を失うことを混同してはならない。大会終了後には、個々のミスだけでなく、委託契約の設計、指揮命令系統、情報共有、そして「誰が大会全体を見るのか」という司令塔機能まで検証すべきである。

2️⃣名古屋だけではない――札幌と釧路が示した地方行政の課題

今回の問題を愛知県と名古屋市だけの特殊事情として片付ければ、本質を見誤る。北海道にも地方行政の統治能力を考えさせる事例がある。札幌市は冬季オリンピック・パラリンピック招致を進めたものの、最終的に活動を停止した。その後、市は「なぜ大会招致への理解が広まらなかったのか」という観点から招致活動そのものを総括・検証している。札幌市「冬季オリンピック・パラリンピックに係る招致活動の総括・検証」

冬の札幌・大通公園周辺に見る地方行政の現場 AI生成画像
ここで重要なのは、五輪招致への賛否ではない。巨額の公金と都市の信用を背負う事業を進める以上、自治体は費用、利益、リスクを住民に説明し、その結果を検証する責任を負うということである。愛知・名古屋大会でも、終了後に「成功した」で終わらせるのではなく、宿泊、輸送、契約、情報伝達、責任分担のどこに問題があったのかを明らかにしなければならない。

釧路市のメガソーラー問題も、分野は違うが地方行政の役割を示している。釧路市は自然環境への懸念や一部事業者の法令違反などを受け、2025年に「ノーモア メガソーラー宣言」を出し、条例を施行して一定の太陽光発電施設を許可制とした。なお、問題となっている施設が釧路湿原国立公園の区域内にあるわけではない。この点は釧路市自身が明確に説明している。釧路市「ノーモア メガソーラー宣言」

重要なのは再生可能エネルギーへの賛否ではない。国が大きな政策を決めても、土地利用、自然環境、住民生活との調整は地方の現場で行われる。そして問題が生じれば、自治体には制度を修正する力もある。地方自治とは、中央政府の方針を機械的に実行することではなく、地域の現実を把握し、自ら判断する仕組みなのである。

札幌と釧路の例に共通するのは、地方行政は一度決めたことを進め続けるだけでは駄目だということである。問題があれば立ち止まり、検証し、必要なら政策を変える。この当たり前の能力こそ、愛知・名古屋大会にも求められている。

3️⃣国益は霞が関だけが守るものではない

我が国では近年、経済安全保障、重要インフラ、重要土地、半導体、エネルギーなど、国益を意識した制度整備が進んできた。しかし、国益を守る仕事を中央政府だけに委ねることはできない。外交や防衛そのものは国の権限だが、都市計画、土地利用、環境、水資源、観光、地域インフラ、国際イベントなど、日本の安全と信用を現場で支える仕事には地方自治体が深く関わっている。

北海道が2026年9月に公表した調査では、2025年末時点で、外国法人や海外居住外国人、国内の外資系企業・外国人などによる道内森林の所有は、確認された範囲で4,430ヘクタール、370所有者となっている。もちろん、外国人や外国法人が土地を所有しているというだけで、安全保障上の問題と決めつけるべきではない。重要なのは、その土地がどこにあり、何に利用され、重要施設や水源などとどのような関係にあるのかを行政が把握できているかである。北海道「外国法人等による森林取得状況」

例えば札幌市の丘珠駐屯地周辺は、重要土地等調査法に基づく注視区域に指定されている。これは札幌市ではなく国が所管する制度である。一方、北海道には水資源保全地域における土地取引の事前届出制度がある。安全保障は国、水資源や地域の土地利用には地方も関わる。それぞれの権限は違っても、国土を守るには双方が機能しなければならない。内閣府「北海道内の注視区域・特別注視区域」

森林・水資源・インフラが支える地域と国土 ※AI生成画像
そして、ここで愛知・名古屋アジア大会に戻る。外国人選手にとって、送迎バスを誰が発注したのか、会場運営をどの企業に委託したのかは、責任を検証する日本側には重要でも、日本への印象という意味では二次的である。「日本で開かれた大会で何が起きたか」が記憶されるからだ。自治体や組織委員会の失敗であっても、日本の信用は自治体の境界線で切り分けられない。

国益とは霞が関だけで守るものではない。地方自治体の日々の判断も、日本の信用、安全、供給力、自然環境、国家資産を積み上げもすれば、損ないもするのである。

特に今回考えるべきなのは「供給力」である。半導体やエネルギーだけが供給力ではない。大規模な国際イベントを設計し、何万人もの人間を安全かつ正確に動かす能力もまた、社会を支える供給力である。外部企業の力を借りること自体は悪くはない。しかし、外注を重ねた末に、日本側から「全体を動かせる人」と「全体を動かせる組織」が消えてしまえば、次の大会ではさらに外国企業への依存が深まる。それでは国家資産の形成ではなく、ノウハウの空洞化になりかねない。

地方自治体にも、「地域にとってどうか」だけではなく、「この判断が我が国全体に何を残すのか」という視点が必要である。それは自治体を中央政府の下請けにすることではない。地域を最もよく知る自治体だからこそ、地域の利益と国益を両立させ、そこで得た人材とノウハウを次代へ残す責任があるということだ。

結論 「日本なら大丈夫」を守るのは私たちでもある

愛知・名古屋アジア大会で最も心配すべきなのは、ベッドが短かったことでも、バスが遅れたことでもない。それらが積み重なり、日本が長年築いてきた「日本なら大丈夫」という信用が傷つくことである。この信用は、予算を付ければ来年度に買い戻せるものではない。日本製品が選ばれ、日本の交通が評価され、日本への旅行が好まれ、日本企業との取引が信頼される。その根底には、我が国の社会は最後にはきちんと動くという評価がある。

今回の大会では、フランス系企業が大規模な会場運営業務を担い、中国企業も開閉会式などに関与している。しかし、それ自体を問題視するのは筋違いだ。世界の優れた企業を使えばよい。問題は、外国企業を使いながら、日本側が全体を統括し、技術とノウハウを吸収し、次の世代へ蓄積する仕組みを持っていたのかということである。

東京五輪をめぐる不祥事を受け、従来の大会運営の在り方を改める必要はあった。しかし、腐敗をなくすことと、能力をなくすことは違う。透明性を高めながら、大規模イベントを束ねる日本自身の能力を再構築しなければならない。それもまた供給力再建であり、国家資産形成なのである。

そして、その責任は総理大臣や中央省庁だけにあるのではない。知事、市長、地方議会、行政組織にもある。それを検証するのは住民である。公金を何に使ったのか。誰に委託したのか。なぜその契約方式を選んだのか。リスクを想定していたのか。問題が起きたとき原因を明らかにし、制度を改めたのか。議会、情報公開、監査、報道、そして選挙は、そのためにある。

国政レベルで国益を重視する制度が整っても、47都道府県と市区町村の現場が変わらなければ、我が国全体は強くならない。愛知・名古屋アジア大会の混乱を、一過性の「大会運営の不手際」で終わらせてはならない。大会終了後には、現場のミスだけでなく、契約、外注、司令塔、責任分担、そして日本に何のノウハウが残ったのかまで検証すべきである。

「日本なら大丈夫」。その信用を守れるかどうかは、霞が関だけではなく、私たちが暮らす一つ一つの地域にかかっているのである。

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2026年9月23日水曜日

北朝鮮のサイバー攻撃グループは「採用手続」から入る――日本企業の内側に迫る新たな安全保障の危機

まとめ

  • WaterPlumは攻撃手法ではなく、警察庁が「北朝鮮を背景とするサイバー攻撃グループ」と位置付ける集団である。求人、オンライン面接、コーディング課題など採用手続を悪用してIT技術者を攻撃し、警察庁とFBIはWaterPlumと一部の北朝鮮IT労働者について、朝鮮労働党中央委員会軍需工業部313総局の指揮下で運用されていると評価している。

  • 我が国では、北朝鮮IT労働者が遠隔操作するPCを国内支援者宅に置く「ラップトップ・ファーム」が初めて把握され、捜査・解体された。企業が相手を正規の社員や委託先だと信じれば、外部から防壁を破らなくても、正規の認証情報やアクセス権を得られる可能性がある。

  • AIによる顔画像交換、生成AI、音声読み上げソフトなども偽装に利用されている。企業には本人確認、端末、再委託、支払先、アクセス権限を横断的に管理する体制が必要であり、政府には捜査・注意喚起・国際連携をさらに官民の実務的な情報共有へ結び付け、我が国の技術、資金、知的財産という国家資産を守る役割が求められる。

北朝鮮の脅威と聞けば、多くの日本人は弾道ミサイルや核兵器を思い浮かべるだろう。サイバー攻撃についても、北朝鮮のハッカーが国外から日本企業のネットワークへ侵入し、暗号資産や機密情報を盗み出すというイメージが一般的である。だが、その認識だけでは、すでに現実を捉え切れない。

9月18日、警察庁と国家サイバー統括室は米国、豪州、ドイツの関係機関とともに、北朝鮮サイバー攻撃グループ「WaterPlum」と北朝鮮IT労働者の活動実態を公表した。WaterPlum(ウォータープラム)とは攻撃手法の名称ではない。警察庁が「北朝鮮を背景とするサイバー攻撃グループ」と位置付ける集団であり、「Contagious Interview」という関連名称でも知られる。警察庁と米連邦捜査局(FBI)は、WaterPlumと一部の北朝鮮IT労働者について、朝鮮労働党中央委員会軍需工業部313総局の指揮下で運用されていると評価している。

WaterPlumは正規のAI企業、暗号資産企業、NFT企業、人材紹介サービスなどを装い、IT技術者に魅力的な求人を持ちかける。オンライン面接やコーディング課題を利用してマルウェアを実行させ、暗号資産や認証情報などを盗み出す。一方では、北朝鮮IT労働者自身が身元や所在地を偽り、企業の求人に応募したり、クラウドソーシングを通じて仕事を受注したりしている。「採用」という同じ仕組みが、一方では技術者を攻撃する罠となり、もう一方では北朝鮮側が企業から仕事とアクセス権を得る入口になっているのである。

ここで問題になるのは、「北朝鮮のハッカーが巧妙になった」という話だけではない。もっと深刻なのは、相手を正規の技術者だと信じれば、企業自身がIDを発行し、業務に必要な情報やシステムへのアクセス権を与えてしまうことである。

攻撃者が壁を破って侵入するとは限らない。企業が相手を社員や委託先だと信じ、自ら玄関を開け、鍵を渡し、機密情報のある場所まで案内してしまう。それが今回の問題の本質である。

1️⃣求人そのものがサイバー攻撃になった

WaterPlumの攻撃が厄介なのは、被害者に明らかに怪しい行動をさせるとは限らないことだ。ソフトウェア開発者が転職活動をしていれば、採用試験としてコードを取得し、開発環境を立ち上げ、指定されたプログラムを実行することは不自然ではない。WaterPlumはそこを突く。ソーシャルメディア、求人サイト、ギグワーク・プラットフォーム、フリーランス市場などで求職者に接触し、オンライン面接やコーディング課題を装って不正なプログラムをダウンロード、実行させる。

規模はすでに大きい。警察庁と国家サイバー統括室の公表資料によると、2025年12月ごろから2026年7月にかけ、日本を含む100以上の国・地域で3万台以上とみられるPCがWaterPlumのマルウェアに感染した。7000件以上の暗号資産ウォレット情報が窃取され、WaterPlumが管理する暗号資産ウォレットには少なくとも約1071万ドル、警察庁の換算で約17億円相当の暗号資産が送金されていた。これは被害総額ではなく、あくまでWaterPlumが管理するウォレットへの送金額である。

採用課題を装い、IT技術者を狙うサイバー攻撃のイメージ AI生成画像
盗まれるのは暗号資産だけではない。ブラウザに保存されたIDやパスワード、キー入力記録、スクリーンショット、暗号資産ウォレットの秘密鍵、さらには運転免許証やパスポートなどの身分証画像まで対象になる。WaterPlumは盗んだ認証情報を使い、被害者を雇用する組織のネットワークへ侵入し、スパイ活動や知的財産の窃取、企業環境内でのさらなる横展開を可能にすると警察庁は説明している。盗まれた身分証画像が、北朝鮮IT労働者による別人へのなりすましに利用される可能性も指摘されている。

つまり、求人を装って1人の技術者を攻撃し、そこから勤務先企業へ侵入する。さらに盗んだ身分証を、別の北朝鮮IT労働者が身元を偽るために使うこともあり得る。「サイバー攻撃」と「偽装就労」が別々の問題ではなく、つながり得るのである。

さらに厄介なのがAIである。警察庁は、WaterPlumのメンバーが「Magicam」などのAIによる顔画像交換ソフトを使ってオンライン面接を行い、数分後には通信状態を口実に映像を切るよう仲間内で助言していたことを明らかにした。「NaturalReader」のような音声読み上げソフトで日本語の発音を学び、機械翻訳や生成AIも利用していた。顔を見て話す、外国語能力を確認するという従来のオンライン面接だけでは、本人確認として十分とは限ない時代になったのである。

2️⃣日本国内にはすでに「ラップトップ・ファーム」があった

さらに重大なのが、北朝鮮IT労働者による外貨獲得活動である。警察庁によると、北朝鮮IT労働者は我が国に居住する支援者から提供された身分証明書画像を悪用してその人物になりすまし、仕事を受注していた。支援者が受注した仕事を北朝鮮IT労働者が実際に行ったり、支援者の銀行口座を報酬の振込先として使い、その後海外へ送金してもらったりする手口も確認されている。

そして今回、我が国で初めて把握されたのが「ラップトップ・ファーム」である。これは国内の支援者宅にPCを置き、北朝鮮IT労働者が国外から遠隔操作する仕組みだ。支援者が借りたVPS(仮想専用サーバー)も使われ、実際の所在地や作業場所を隠しながら、国内外のクラウドソーシングで仕事を受注していた。警察は国内のラップトップ・ファームを把握し、捜査・解体した。関連捜査で判明した分を含め、北朝鮮IT労働者は暗号資産など数億円相当を海外へ送金していたという。

日本国内に置かれた「ラップトップ・ファーム」のイメージ AI生成画像
この仕組みの恐ろしさは、企業のセキュリティーシステムから見れば、必ずしも「侵入者」に見えないことにある。企業が正規の社員や委託先だと認識してアカウントとアクセス権を与えてしまえば、その人物は正規の認証情報でシステムへ入ることができる。ファイアウォールを破り、不正なIDでログインする必要さえない。

これは「ハッキングされて侵入される」のとは違う。企業が相手を信用し、自分で鍵を作り、自分で渡すのである。

しかも北朝鮮IT労働者は、必ずしも仕事のできない偽物ではない。WaterPlumの一部メンバーについても、日本や米国の企業で専門的なIT業務やWebシステムの設計・開発の仕事に就くことに成功していたと警察庁は明らかにしている。実際に成果物を納める技術力があれば、企業はむしろ「優秀なリモート人材を確保できた」と評価しかねない。そこに、この手口を見抜きにくくする要因がある。

だから「仕事をしてくれるなら問題ない」という話でもない。警察庁は、北朝鮮IT労働者と知らずにプログラム開発を外注した企業で報酬をめぐるトラブルが生じ、北朝鮮IT労働者が自ら担当していたソースコードをインターネット上に公開した事例を確認している。また、北朝鮮IT労働者が制作に関与したWebサイトが後に改ざんされ、正常に表示されなくなった事例もある。主目的は外貨獲得であっても、悪質なサイバー活動が併せて行われる場合があるのである。

さらに、北朝鮮IT労働者への業務発注や報酬支払い、外貨獲得への幇助は、事情によっては国内法令や対北朝鮮制裁に抵触するおそれもある。企業にとっては情報漏洩だけの問題ではない。知らないうちに北朝鮮の外貨獲得活動へ組み込まれる危険まである。

3️⃣bitFlyerへの応募――人事部も安全保障の最前線になった

今回の公表資料で、日本企業にとって最も生々しいのが、暗号資産取引事業者bitFlyerへの採用応募である。2025年5月、同社のエンジニア職に応募があり、警察庁は応募者を北朝鮮IT労働者とみている。応募者は別人になりすました履歴書を添付し、仲介事業者を介さず採用フォームから直接応募した。アクセスには複数のVPNが使われていた。

履歴書だけを見れば魅力的な人材に映った可能性がある。プログラミング言語、ブロックチェーン、クラウドサービスなど、それぞれ10種類以上の知識と経験を持ち、欧州の大学を卒業後、欧州やアジア各地で働いたという経歴だった。ところがオンライン面接では、申告された学歴・職歴と英会話能力の不釣り合い、専門的な質問への抽象的な回答、日本への転居・出社への消極姿勢、暗号資産での給与支払いへの固執など、不審な点が相次いだ。別のモニターを見ながら何かを読み上げる様子や、背後から他人の声が聞こえる場面、映像が途切れる場面もあった。同社は不審点に気付き適切に対応したため、採用や被害には至らなかった。

採用時の本人確認とアクセス管理権を慎重に進める企業のイメージ AI生成画像

重要なのは、これが諜報映画のような特殊な潜入工作ではないことである。求人フォームに履歴書を送り、オンライン面接を受ける。日々、無数の企業で行われている普通の採用手続である。警察庁とFBIは、WaterPlumによるサイバー攻撃と北朝鮮IT労働者による一部の外貨獲得活動について、いずれも313総局が中心的な役割を果たしていると評価している。

企業がここから学ぶべきことは、「外国人を採用するな」という話ではない。国籍ではなく、本人性と権限を確認する仕組みが問われている。履歴書の人物と面接している人物は同じなのか。申告した居住地と接続環境は整合しているのか。貸与したPCを本人が操作しているのか。仕事が第三者へ再委託されていないか。報酬の受取先は不自然ではないか。そして何より、その人物に業務上必要な範囲を超える情報へのアクセスを許していないかである。

警察庁も、外注先へ提供するソースコードや認証情報、アクセス許可範囲を「必要最小限かつ最小権限」とし、外注・再委託に関する契約内容を明確にするよう求めている。採用担当者は履歴書を見る。情報システム部門は接続情報を見る。経理部門は振込先を見る。調達部門は再委託先を見る。これらをばらばらに管理するのではなく、横につないで初めて異常を発見できる。

人事部は、もはや人を採るだけの部署ではない。企業のサイバー防衛と経済安全保障における最初の関門でもある。

しかし、企業だけに責任を負わせるのも現実的ではない。応募者の身元、海外拠点、制裁対象との関係、IPアドレス、国内支援者とのつながりなどを、個々の企業だけで把握するには限界がある。政府はすでに動いている。7月31日には警察庁、国家サイバー統括室、外務省、財務省、経済産業省が、米国や韓国をはじめとする関係国とともに北朝鮮IT労働者に関する各国・企業等への注意喚起を公表し、9月18日にも米国、豪州、ドイツとWaterPlumなどについて共同公表した。今回の国内ラップトップ・ファームも警察の捜査によって解体されている。政府が何もしていないわけではない。

問題は、その先である。捜査で判明した新たな手口や危険指標を、法令や捜査上の制約を踏まえながら、企業が実際の採用・委託審査に使える形で迅速に共有できるか。警察、国家サイバー統括室、外務省、財務省、経済産業省などが、それぞれの所掌に基づいて持つ情報や対策をどう接続するか。重要インフラ、先端技術、防衛、金融、暗号資産など機微な分野では、本人確認、外部委託、再委託、端末管理、アクセス権限をどこまで一体的に扱うべきか。これらは今後、政府と企業が詰めるべき政策課題である。

政府がすべての企業の採用を監視するような仕組みにすべきではない。必要なのは、企業が確認すべき最低限のポイントを明確にし、疑わしい事例を警察などへ速やかに相談でき、官民双方が得た情報を次の防御へつなげる体制を強化することである。WaterPlumや北朝鮮IT労働者の活動は国境を越え、VPN、クラウド、暗号資産、海外拠点などを組み合わせる。国内だけで完結する対策には限界があり、米国をはじめとする関係国との捜査・分析、資金の追跡、情報共有を続ける必要がある。

北朝鮮IT労働者の問題は単なるサイバー犯罪対策ではない。日本企業が蓄積した技術、知的財産、顧客情報、資金がどこへ流れるのかという問題であり、我が国の供給力と国家資産を守る経済安全保障そのものなのである。

結論――「ハッキングされていないのに侵入される」時代

今回の問題が示しているのは、北朝鮮による新しいサイバー攻撃の手口だけではない。企業防衛の前提そのものが変わりつつある。

従来のサイバー防衛では、外から来る攻撃者をネットワークの境界で止めることが基本だった。ところが北朝鮮IT労働者は、その壁を壊す必要すらない。求人に応募し、面接を通過し、仕事を始めれば、企業側から正規のアカウントやアクセス権を得られる可能性がある。日本国内のラップトップ・ファームを利用すれば、実際の作業場所を隠すこともできる。さらにWaterPlumでは、AIによる顔画像交換、音声読み上げソフト、機械翻訳、生成AIまで利用されていた。

つまり、企業にとって最も危険な瞬間は、ファイアウォールが破られたときとは限らない。

採用担当者が「この人物なら大丈夫だ」と判断し、正規のアカウントを発行した瞬間かもしれないのである。

もちろん、すべての外国人IT技術者やリモートワーカーを疑うべきだという話ではない。それでは我が国の企業が必要な人材を確保できず、供給力や競争力を損なう。必要なのは国籍による一律の選別ではなく、本人確認、端末、接続環境、報酬の支払先、再委託、アクセス権限を一体として管理することである。そして企業だけでは確認できない部分を、政府が捜査、情報共有、制裁、国際連携によって支える。この官民の役割分担が欠かせない。

かつて安全保障の最前線は国境、領海、基地にあった。サイバー時代には企業ネットワークが加わった。そしてリモートワークと生成AIの時代には、採用面接、人事部、外注契約、一台のPCまでがその最前線になっている。

敵が壁を越えてくるとは限らない。こちらが敵と知らず、社員証に相当するIDを発行し、鍵を渡して迎え入れることさえあり得る。

企業への注意喚起だけで終わらせてはならない。企業が守り、政府が支え、関係国と情報をつなぐ。その仕組みを作れるかどうかが、日本企業の技術と資金、そして我が国の国家資産を守れるかどうかを左右する。

北朝鮮のサイバー攻撃グループとIT労働者が我が国に突きつけているのは、その現実なのである。

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2026年9月22日火曜日

グローバルホーク墜落――「高価な3機」の次に日本が水中ドローンへ進む理由


まとめ
  • 航空自衛隊は2015年度からRQ-4Bグローバルホークの取得を始め、2023年に3機体制を完成させた。しかし、その後のウクライナ戦争などを通じて無人兵器をめぐる軍事常識は大きく変わった。今回の墜落だけを理由に当時の判断を失敗と決めつけるのではなく、この10年間に得た経験と実戦の教訓を次の防衛投資へ生かすべきである。

  • 日本も「高価な大型無人機を少数持つ」という発想にとどまってはいない。現在はUAVだけでなく、USV、UUV、有人装備を組み合わせる多層的な防衛体制へ移行しつつあり、2027年度中には「安価かつ大量」の無人アセットを活用するSHIELDの構築を目指している。

  • ウクライナで目立つ空中ドローンをそのまま模倣するだけでは、日本の地理に適した防衛にはならない。四方を海に囲まれた我が国では、水上・水中の無人化、とりわけUUVは重要な領域である。日本が蓄積してきた潜水艦、水中音響、センサーなどの技術基盤と結びつければ、水中無人システムを将来の強みに育てる余地がある。

9月15日、航空自衛隊三沢基地所属の無人偵察機RQ-4Bグローバルホークが飛行中に通信を失い、その後、鳥取県沖で墜落した。航空自衛隊は9月20日までに第6報を公表しており、事故原因については調査が続いている。通信障害がなぜ発生したのか、機体にどのような異常があったのかは現段階では確定しておらず、原因を推測して論じるべきではない。航空自衛隊の一連の公式発表を見ても、いま確実に言えるのは、日本が3機体制で運用してきたRQ-4Bの1機を失ったという事実である。

航空自衛隊は2015年度からRQ-4Bの取得を始め、2022年12月に偵察航空隊を新編、2023年6月に3機目が三沢基地へ到着して3機体制が完成した。RQ-4Bは全幅約40メートル、最大高度約6万フィート、航続時間約36時間という大型の高高度長時間滞空型無人機であり、夜間や悪天候下でも各種センサーを使って情報収集できる。航空自衛隊の公式資料が示すように、我が国から比較的離れた地域を含む広域の常続監視能力を強化するために導入された装備であり、単なる「大きなドローン」ではない。

それでも、3機のうち1機を失った意味は軽くない。ただし、ここから「日本はまた高価な装備を買って失敗した」という結論へ飛びつくのも間違いである。グローバルホークの取得を始めた2015年と2026年では、世界が無人兵器について持つ知識そのものが違う。この約10年間に、UAVの大量運用、FPV型UAV、USV、UUV、AI、自律化、有人・無人連携について膨大な実戦知見が蓄積された。そして日本も、その変化を見ながら無人防衛の考え方を変えてきた。

その意味では、グローバルホークへの投資は、日本にとってある種の「高い勉強代」だったともいえる。ただし、それは無駄だったという意味ではない。大型無人ISR機を実際に導入し、操縦者を育て、運用体制を構築した経験は国家の防衛資産として残る。問うべきなのは、2015年の判断を2026年の知識で裁くことではない。

その経験と、その後に世界の戦場から得られた教訓を、我が国が次の10年にどう生かすかである。

1️⃣2015年には見えていなかった「ドローン戦争」

2015年度に日本がグローバルホークの取得を始めた時点では、高高度を長時間飛行し、搭乗員を危険にさらさず広大な地域を監視できる大型無人機には大きな価値があった。実際、2024年版防衛白書も、広域の常時監視能力を強化するため2015年度からRQ-4Bの取得を始めた経緯を説明している。その判断を、現在のドローン戦争についての知識をそのまま過去へ持ち込んで評価するのは適切ではない。

その後の約10年間で、無人兵器を取り巻く状況は大きく変わった。とりわけ2022年以降のウクライナ戦争では、UAVが偵察だけでなく攻撃や砲撃支援など幅広い任務に投入され、比較的安価な機体を多数使用する戦い方が急速に発達した。海上でも無人艇が実戦投入され、「非常に高性能な無人機を少数保有する」という発想だけでは捉えられない無人戦の姿が現れた。機体単体の性能だけでなく、数、コスト、分散、自律化、ネットワーク、そして損耗しても任務を継続できる冗長性が重要になったのである。

大量投入される小型ドローンが変えた現代戦 AI生成画像
米空軍のRQ-4をめぐる動きも象徴的だ。米空軍は2022年、RQ-4 Block 30を計20機、空軍の運用から外して別用途へ移管すると発表した。米空軍航空戦闘軍団の公式発表によれば、これらは単純に廃棄されたのではなく、センサーを変更し、高速システム試験などを支援する用途へ転用された。同年にはビール空軍基地のBlock 30運用終了も発表され、米空軍はISR体系の再構築と、中国やロシアのような高度な軍事能力を持つ相手への対応力向上を理由に挙げている。

ここから「グローバルホークは失敗作だった」と結論づけるのは早計である。むしろ米国は、衛星、有人ISR機、無人機、各種センサー、通信・指揮統制を含め、特定の大型航空機だけに依存しない体系へ資源を移していると見るべきだ。そして日本も、グローバルホークを導入した2015年の発想にとどまってはいない。2022年に策定された防衛力整備計画は、洋上監視用の滞空型UAVだけでなく、偵察用、多用途・攻撃用、小型攻撃用のUAV、USV、UUVを整備し、有人機と無人機の連携や複数の無人アセットを同時運用する能力を強化する方針を明記した。つまり日本はすでに、「高価な3機」の延長線だけで将来を考えているわけではないのである。

2️⃣日本はすでに「3機の発想」から動き始めている

日本の方向転換は、その後さらに明確になった。海上自衛隊は2023年5月からMQ-9Bシーガーディアンの試験的運用を行い、防衛省は2024年11月に同機の取得を決定した。防衛大臣会見では、平時の広域洋上監視能力を強化するとともに、有事には人的損耗を抑えながら任務を遂行することが導入目的として説明されている。さらに2026年版防衛白書によれば、海自によるMQ-9Bの運用開始は2028年度を予定し、それに先立って2027年度から鹿屋航空基地で2機を使った早期導入事業を行う計画である。

より大きな変化が、無人アセットによる多層的沿岸防衛体制「SHIELD」である。2026年版防衛白書は、2027年度中の構築を目指し、FPVタイプのモジュール型UAV、小型攻撃用UAV、水上艦発射型UAV、小型多用途USV、艦載型UAV、艦艇攻撃用UAV、レーダーサイト防衛用UAV、小型多用途UUVなどを取得するとしている。2026年度防衛関係費の予算資料では、SHIELDの構築だけで1001億円を計上し、これとは別に広域用UAV5式、狭域用UAV189式、狭域用UAV汎用型767式なども盛り込まれた。少なくとも政策文書を見る限り、「少数の高性能機だけに依存する」という発想から、多数・分散・多層化へ転換しようとしていることは明白である。

無人あせつとを多層運用する日本の沿岸防衛 AI生成画像
ここは、日本の安全保障を論じる際に見落としてはならない。日本について何でも「遅れている」「また失敗した」と決めつければ簡単だが、それでは現実を見誤る。グローバルホーク導入後に戦場が変わり、防衛省・自衛隊もその変化を認識し、UAVだけでなくUSV、UUV、有人装備を一体化する方向へ政策を修正している。問題があるとすれば方向そのものより、急速に変化する無人戦の技術と戦術に、予算化、調達、研究開発、部隊配備の速度が追いつけるかどうかである。

そして、ここでさらに重要なのは、ウクライナ戦争で目立った無人戦を、そのまま日本へ持ち込めばよいわけではないということだ。ウクライナでは長大な陸上戦線が存在するため、FPV型UAVなど陸上戦を支える無人機が強烈な印象を与えてきた。しかし日本は四方を海に囲まれた島国であり、南西諸島をはじめ多数の島嶼を防衛しなければならない。これは、台湾とも異なる。日本が必要としているのは、ウクライナや台湾のコピーではない。

我が国の地理から逆算した、日本独自の無人防衛である。

3️⃣島国・日本の勝負どころは「水中」にある

そこで注目すべきなのが水中である。水中では電波の利用に大きな制約があり、通信、測位、自律航行、目標探知など、空中のUAVとは異なる難しい技術課題が存在する。これは運用する日本側にとっても難題だが、同時に水中目標の発見・追尾そのものが難しいという特性を意味する。したがって、水中無人システムで高い静粛性、自律性、長期航続能力、センサー性能、通信能力を実現できれば、島国である我が国にとって大きな防衛上の価値を持つ可能性がある。「水中だから自動的にステルスになる」と単純化するべきではないが、空中とは異なる探知環境を生かす余地は大きい。

これは単なる将来構想ではない。防衛力整備計画はすでに「水中優勢を獲得するための各種無人水中航走体(UUV)」を整備すると明記している。また、防衛装備庁は、管制型UUVから別のUUVを管制する技術、水中音響通信、長期運用型UUVなどの研究を続けている。防衛装備庁の研究評価資料を確認すると、UUV・USVの構成要素技術は2010年代前半から研究され、長期間の水中航走を可能にする発電システム、モジュール化、自律技術などへ研究範囲が広がってきた。2025年9月には防衛省が小型多用途UUVについての情報・提案募集を行い、遅くとも2027年度の初期型装備品の装備化を目標としている。

日本の新たな強みとなり得る水中無人システム AI生成画像
日本には、この分野を一から始めるのではないという強みもある。海上自衛隊の「たいげい」型潜水艦には新型ソーナー、雑音低減のための浮甲板構造、リチウムイオン電池を用いた推進システムなどが採用されていることを、防衛省自身が公表している。また、防衛装備庁艦艇装備研究所は、水中音響、水中武器、磁気器材、対潜戦、UUVの水中音響通信などを研究している。これらがそのまま軍事用UUVの優位性を保証するわけではないが、潜水艦、音響、静粛化、電池、センサー、水中通信という周辺技術の蓄積は、水中無人システムを育てるうえで無視できない国家資産である。

もちろん、米国や中国、豪州をはじめ各国もUUV開発を進めており、「日本が本気を出せば他国は追いつけない」と現時点で断言することはできない。だが、だからといって日本に勝ち筋がないわけでもない。防衛装備庁は長期運用型UUV、水中音響通信、複数UUVの管制まで研究を進めており、防衛省は実際の装備化へ踏み出している。ここに日本の潜水艦・造船関連技術、AI、自律制御、電池、センサー技術を集中的に投入し、研究から量産までの速度を上げることができれば、水中無人システムは日本が国際的な競争力を形成し得る有望な領域の一つになる。

しかも、この投資は単に外国製兵器を買う話とは違う。国内でUUVの自律航行、エネルギー、センサー、水中通信、静粛化、量産技術を育てれば、防衛力の強化と同時に国内の技術・生産基盤という国家資産を形成できる。重要部品やソフトウェアまで国内供給力を高められれば、有事の継戦能力にもつながる。防衛投資を単なる「支出」と見るのではなく、我が国の供給力と技術基盤を残す投資として設計する発想が必要である。

グローバルホーク、MQ-9B、衛星が広域を見渡し、有人哨戒機や艦艇が監視し、その下でUSVが海面を、UUVが海中を監視する。さらに各センサーから得られた情報をネットワークで共有し、一つの機体や通信経路を失っても別の手段が補う。日本が目指すべき無人防衛とは、特定の「夢の兵器」を作ることではなく、空、海上、水中、宇宙を結んだ強靱なシステムを構築することだ。

海に囲まれていることを弱点として嘆くのではない。海を、日本の防衛上の強みに変えるのである。

結論 「高い勉強代」を次の国家資産に変えよ

今回のグローバルホーク墜落については、事故調査の結果を待つ必要がある。1機を失ったという事実だけから、2015年度に始まった導入そのものを失敗と決めつけることもできない。当時には当時の安全保障環境と技術水準があり、広域の常続監視能力を強化するという明確な目的があった。そして実際にグローバルホークを導入し、偵察航空隊を新編し、無人ISR機を運用する人材と経験を蓄積したことにも意味がある。

それでも、現在から振り返れば、グローバルホークへの投資はある意味で「高い勉強代」だったといえる。なぜなら、その後の約10年間で無人戦そのものが急速に変わったからだ。しかし、勉強代は払ったこと自体が問題なのではない。そこで得た知識を次へ生かせなければ、初めて本当の無駄になる。

日本はすでに変わり始めている。2026年版防衛白書が示すSHIELDは、UAV、USV、UUVを多数組み合わせ、有人アセットとも連携させる構想である。海上自衛隊はMQ-9Bの導入へ進み、防衛装備庁は水中無人技術の研究を続けている。これは2015年の「高性能な大型無人機を少数導入する」という段階から、分散、多層化、ネットワーク化へ進む変化と見ることができる。

ここで必要なのは、日本について何でも悲観することでも、逆に根拠なく技術力を礼賛することでもない。外国の成功例をそのまま輸入するのではなく、日本の地理と既存の技術基盤から勝負すべき分野を選び、そこへ人材、研究費、調達予算、国内生産能力を集中することである。四方を海に囲まれた日本なら、水上・水中無人システムはその有力候補になる。

グローバルホークの1機喪失を「また日本は失敗した」で終わらせる必要はない。むしろ今回の事故を、過去10年間に得た経験を棚卸しし、次の無人防衛へ進む契機にすればよい。

高い勉強代だったのなら、その勉強代を次の国家資産に変えればよい。

日本の無人防衛の次の10年は、空に何機持つかだけでは決まらない。空、海上、水中、宇宙をどう結び、日本の地理と技術をどう生かすかで決まる。その中でも水中には、我が国がこれから強みを築く余地がまだ大きく残されている。


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