まとめ
- 日本で害獣が増えている本質は、動物が突然凶暴化したことではなく、人間が山と里山の管理から退いたことにある。山際の農地が荒れ、藪や放任果樹が増えれば、そこはシカ、イノシシ、クマの通り道になる。
- 「木を切らないことが自然保護」という思い込みが、かえって山を荒らしてきた。間伐されない森は光が入らず、下草も小動物も乏しい「緑の砂漠」になり、国産材や吉野の割り箸のような循環も失われていく。
- 必要なのは、昔の里山に戻ることではない。ドローン、AI、スマート林業、国産材利用、広域捕獲体制を組み合わせ、森林を国土インフラとして管理し直すことだ。それは日本人の霊性と常若の精神を、現代に生かす転機でもある。
日本でクマ、シカ、イノシシなどの害獣被害が増えている。これは単に「野生動物が増えた」という話ではない。根本には、人間が山と里山の管理から退いたという問題がある。
令和6年度の野生鳥獣による全国の農作物被害額は188億円に達した。シカは79億円、イノシシは45億円である。環境省の推定でも、令和5年度末時点で全国のニホンジカは中央値で約303万頭、イノシシは約122万頭とされている。これは一部地域の一時的な騒ぎではない。我が国全体の山林管理、農村維持、国土保全の問題である。(農林水産省)
1️⃣害獣が増えたのではない。人間の境界線が消えたのだ
昔の農村には、山と里の間に境界線があった。もちろん、壁があったわけではない。そこにあったのは、人間の暮らしそのものである。薪を取り、草を刈り、木を切り、畑を耕し、果樹を管理し、田畑を見回る。そうした日々の営みが、野生動物に対して「ここから先は人間の領域だ」と知らせる境界線になっていた。
ところが今は違う。過疎化と高齢化で人が山に入らなくなり、耕作放棄地が増え、放任果樹が残り、藪が広がった。かつては人間の気配があった場所が、今ではシカ、イノシシ、クマにとって安全な通り道になっている。畑のそばに藪があり、集落の近くに放任された柿や栗があり、人家の裏手に隠れ場所がある。これでは、野生動物に「来るな」と言う方が無理である。
害獣問題の本質は、山奥の動物が突然凶暴化したことではない。人間が山と里の管理をやめた結果、野生動物が人間の生活圏を餌場、通路、隠れ場として学習したことにある。一度、人里で食べ物を得た個体は、人間の生活圏を恐れる場所ではなく、利益のある場所として覚える。これは一時的な出没ではない。人間と野生動物の距離感そのものが変わってしまったのである。
農水省は、鳥獣被害対策として、放任果樹の除去、緩衝帯の整備、耕作放棄地の解消などを示している。要するに、人里の周辺を再び「野生動物にとって居心地の悪い場所」に戻すということだ。柵だけ張ればよいのではない。餌をなくし、隠れ場をなくし、人間の気配を戻さなければならない。(農林水産省)
ここで見誤ってはならないのは、害獣被害は農作物の損害だけで終わらないということである。山際の田畑が守れなくなれば、農家は耕作をあきらめる。耕作放棄地が増えれば、そこがまた獣の隠れ場になる。獣の隠れ場が増えれば、さらに人里へ出やすくなる。こうして、被害が被害を呼ぶ悪循環が生まれる。
やがて、耕作地は後退する。耕作地が後退すれば、集落の外縁も後退する。人が住み、農地を守り、道を使い、山に入ることで維持されていた生活圏が、少しずつ野生動物側へ押し返されていく。これは単なる「動物が畑を荒らす話」ではない。人間が安心して住める地域、耕作できる地域、生活できる地域そのものが狭められていく問題である。
つまり、害獣が増えたというより、人間の側が引いたのだ。山から人が消え、里山から手入れが消え、農地から見回りが消えた。その空白に、シカ、イノシシ、クマが入ってきたのである。
2️⃣「切らない自然保護」が山を荒らした
ここで見落としてはならないのが、森林に対する間違った考え方である。
日本では長く、「木を植えること」は善として語られてきた。これは間違いではない。問題は、その反対側で「木を切ること」は悪、「伐採は自然破壊」、「山は放っておけば自然に戻る」という単純な考え方が広がったことだ。
林野庁は、健全な森林を維持するには「植える、育てる、収穫する、使う、また植える」という循環が重要だとしている。木を植えるだけでは森林は守れない。育て、切り、使い、その利益を山へ戻して初めて、森林は次の世代につながる。(りんや)
間伐をしない人工林は、外から見れば緑の山に見える。だが、森の中へ入ると様子はまったく違う。木が密集しすぎると、太陽の光が地面まで届かない。光が届かなければ、下草も低木も育たない。草も実も少なければ、昆虫、小鳥、ネズミ、リスなどの小動物も生きにくくなる。森は緑に覆われているようで、地表には生命の気配が乏しい。いわば「緑の砂漠」である。
林野庁も、間伐を実施しない森林では林床に光が差し込まず、下層植生が消失し、土壌が流出しやすくなり、水源涵養機能が低下すると説明している。逆に間伐を行えば、光が林内に入り、下層植生が繁茂し、風害や山地災害にも強くなる。つまり、「木が多い森」だから豊かな森とは限らない。光が入り、草が育ち、小動物が生き、土が保たれてこそ森なのである。(りんや)
江戸時代の浮世絵にも、現在の感覚で見ると木の少ない山肌が描かれたものがある。もちろん、浮世絵を写真のように読むのは危険である。草地や篠地を禿山のように描いた例もあるだろう。だが、重要な点は変わらない。山は昔から人間の生活と結びつき、使われ、刈られ、管理されてきたのである。林野庁も、里山林は明治期以前から薪、炭、山菜、農業用の肥料や資材の採取に使われ、20〜30年程度の間隔で伐採と萌芽更新を繰り返してきたと説明している。(りんや)
昔の山は「使いすぎれば荒れた」。そして今の山は「使わなさすぎても荒れる」。ここを見誤ってはならない。
その象徴が、吉野の割り箸である。吉野の割り箸は、森林破壊の産物ではない。吉野杉の酒樽や建築材を作る際に出る端材、背板を活用した産業であり、山の恵みを余すところなく使う「もったいない」の知恵だった。木を丸ごと割り箸にして山を壊していたのではない。木を育て、切り、使い、端材まで活用し、その利益を地域に戻す循環の一部だったのである。(下市町公式サイト)
農水省も、割り箸は建築材を取った後の端材や間伐材など、本来なら捨てられる材料から作られており、「森林破壊」や「はげ山」の問題とは次元が違うと説明している。むしろ国産割り箸の生産は、山村経済の活性化や間伐など森林の手入れを促す。ところが現在、日本で使われる割り箸の97%は外国産である。安価な輸入品によって、国産割り箸と山村の循環は細ってしまった。(農林水産省)
「割り箸は森林破壊だ」と叫ぶのは簡単である。だが、吉野の割り箸は、木を育て、切り、使い、端材まで活用し、その利益を地域に戻す循環の一部だった。これを理解せず、使い捨ては悪、伐採は悪、木を切ることは自然破壊だと決めつけた浅い環境論が、地域の林業と木材利用のエコシステムを弱らせた。
吉野の割り箸を悪者にした我が国が、今になって「山が荒れた」「獣が里に出る」と騒いでいる。これは滑稽というより、国土管理を忘れた我が国の悲劇である。
ただし、ここで誤解してはならない。これは「昔の里山経済に戻れ」という話ではない。薪を取り、炭を焼き、落ち葉を肥料にし、山菜を採る。そうした昔の里山には確かに知恵があった。しかし、現代社会がそのまま江戸時代や昭和前期の暮らしへ戻れるわけではない。人口構造も、産業構造も、エネルギー事情も、生活様式もまったく違う。
必要なのは、懐古ではない。
現代型の森林管理である。
3️⃣森林は、目先の経済合理性だけで測れない国土インフラである
海外を見れば、「木を切らないことが自然保護」という単純な考えが通用しないことはすぐにわかる。
米国では、山火事対策の一環として、森林を放置せず、計画的な火入れや間伐を行っている。米国森林局は、処方火や、過密になった森林を手工具や機械で間引く処理によって、将来の望ましくない山火事のリスクを下げるとしている。燃えるものを山にため込めば、いずれ巨大火災になる。木を一本も切らず、下草も枯れ枝もそのままにして「自然を守った」と考える方が、むしろ危ういのである。(US Forest Service)
カナダも同じである。2022年に伐採された森林面積は約66万9000ヘクタールで、森林面積のおよそ0.2%にあたる。重要なのは、伐採そのものを悪と見るのではなく、伐採後の更新、再生、長期的な森林機能の維持まで含めて管理することだ。EUもまた、森林を「触ってはいけない聖域」とは見ていない。EU森林戦略2030は、森林の保護や回復とともに、農村地域や森林由来のバイオエコノミーを持続可能な範囲で支えることを掲げている。(自然資源カナダ)
欧州環境機関も、自然を活かした管理によって森林火災リスクを下げ、気候変動に対する森林の回復力を高める必要があるとしている。世界の常識は、単純な「切るな」でも「切り放題」でもない。森林を管理することである。(欧州環境庁)
では、我が国は何を目指すべきか。答えは明確である。昔の里山に戻るのではない。経済合理性だけを追求するのでもない。現代の技術、制度、産業、行政を組み合わせた、現代型の森林管理を目指すべきである。
市場原理だけで考えれば、奥山や条件の悪い人工林、過疎地の里山は簡単に見捨てられる。採算が合わないから放置する。人手がないから放置する。木材価格が安いから放置する。だが、その結果として山が荒れ、獣が入り、耕作地が後退し、集落が縮むなら、それは決して安上がりではない。
森林は、単なる民間資産ではない。水を蓄え、土砂災害を防ぎ、生物の棲み場所をつくり、農地と集落を守り、地域文化を支え、国土の居住可能範囲を保つ基盤である。つまり、森林は国土インフラである。
道路、港湾、発電所、防衛装備と同じく、森林管理もまた長期にわたり国益を支える国家資産形成として考えるべきものだ。短期の採算だけで切り捨てれば、最後に失うのは山だけではない。農地であり、集落であり、人間が住める空間そのものである。
だからこそ、ドローン、センサーカメラ、GIS、衛星データ、AIによる獣害予測、スマート林業、木材トレーサビリティ、CLTなどの国産材利用、端材活用、バイオマス利用、ジビエ処理施設、広域捕獲体制を組み合わせる必要がある。山を「放置された自然」ではなく、「管理された国土」として再設計するのである。
経済合理性は必要である。だが、それだけでは足りない。防災、水源、食料安全保障、居住可能地域の維持、文化継承、獣害抑止、国産材による供給力再建まで含めて評価しなければならない。山を管理することは、地方だけの問題ではない。水、食料、住宅、災害、安全、景観に関わる。都市で暮らす国民生活にも直結する問題である。
ここで忘れてはならないのは、我々の先祖は長いあいだ、森林を管理してきたという事実である。山を畏れ、山に感謝し、山の恵みをいただき、しかし同時に山へ手を入れてきた。木を切り、薪を取り、炭を焼き、水を守り、田畑を守り、集落を守ってきた。その積み重ねの中で、日本人の霊性の精神は育まれてきた。
これは、観念だけの話ではない。日本人の霊性は、神社の森、田植え、収穫祭、箸、木の家、庭、清掃、道具を大切にする習慣など、日々の生活の中に深く埋め込まれてきた。だから日本人は、ことさらに語らなくても、自然を単なる資源とも、単なる鑑賞物とも見なさない感覚を持ってきた。その感覚が、知らず知らずのうちに日本文化の独自性として滲み出て、海外からも評価されてきたのである。
しかし今こそ、それを無意識の美徳のままにしておいてはならない。日本人は、自らの深層意識に埋め込まれた霊性の精神を、意図して思い起こすべきである。そして、思い起こすだけでは足りない。常若の精神を発揮し、古い知恵を現代社会に適応させなければならない。
常若とは、古いものを古いまま保存することではない。大切な核を守りながら、時代に合わせて更新することである。神社が式年遷宮によって新しく生まれ変わりながら本質を継承してきたように、我が国の森林管理もまた、現代の技術、制度、産業、データ、地域経済と結び直すべきである。
山を畏れるなら、山を放置してはならない。
自然に感謝するなら、自然を管理する責任から逃げてはならない。
霊性を語るなら、それを現代の国土管理として実践しなければならない。
ここに、日本の転機がある。
結論
日本の害獣問題は、動物の問題である前に、人間の側の問題である。
人が山に入らない。木を切らない。木を使わない。里山を手入れしない。農地を守らない。果樹を放置する。国産材も国産割り箸も使わない。その結果、山と里の境界線が消えた。
このまま森林管理を放棄すれば、被害は山の中だけで終わらない。耕作地は後退し、集落は縮み、人間が安心して暮らせる地域は少しずつ狭められていく。害獣問題とは、国土の使える範囲を守る問題でもある。
だからといって、昔の里山経済へ戻ればよいわけではない。薪炭の時代へ戻るのでもない。採算の合わない山を精神論だけで守れという話でもない。必要なのは、現代型の森林管理である。
我が国に必要なのは、経済合理性を否定することではない。目先の経済合理性だけで山を測らないことだ。森林は、水源、防災、食料安全保障、農地保全、獣害抑止、文化継承、居住可能地域の維持に関わる国土インフラである。だから、短期の採算だけで切り捨ててはならない。
切るべき木は切る。使うべき木は使う。植えるべき場所には植える。守るべき農地は守る。危険な個体は捕獲する。端材まで使い切る産業を守る。そして、ドローン、センサーカメラ、GIS、衛星データ、AI、スマート林業、国産材利用、広域捕獲体制を組み合わせ、山を現代にふさわしい形で管理し直す。
その根にあるべきものは、単なる経済合理性だけではない。先祖が長く育んできた、自然を畏れ、恵みに感謝し、同時に手を入れて守る霊性の精神である。
ただし、それは古い暮らしに戻ることではない。常若(とこわか)とは、古いものを古いまま保存することではない。大切な核を守りながら、時代に合わせて更新することである。
我が国の森林管理もまた同じだ。
山を現代にふさわしい形で管理し直すこと。
霊性を、感傷ではなく国土管理の実践としてよみがえらせること。
常若の精神によって、先祖の知恵を現代の制度、技術、産業へ接続すること。
害獣対策とは、単なる獣退治ではない。
我が国がもう一度、山を管理できる国に戻れるかどうかの問題である。
そしてそれは、日本人が自らの深層にある霊性を思い起こし、現代にふさわしくよみがえらせる転機なのである。
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