まとめ
- 「最低賃金1500円」だけに目を奪われてはならない。本質は、高市政権が掲げる370兆円官民投資によって、日本の供給力と技術力を取り戻せるかどうかである。
- 賃金は政治の命令や労使交渉だけでは上がらない。韓国の最低賃金急騰の失敗が示すように、企業収益、生産性、価格転嫁、国内投資が伴わなければ、雇用と中小企業にしわ寄せが及ぶ。
- 円安対策としても、安易な利上げより国内投資こそ本筋である。AI、半導体、宇宙、防衛、重要鉱物への投資は、賃金を上げ、円の信用を高め、我が国を再び「稼ぐ国家」に戻すための国家戦略である。
政府が日本成長戦略の原案を取りまとめた。報道によれば、柱は2040年度までに官民合わせて370兆円以上の投資を実現することである。対象は、AIに必要な次世代半導体、人工衛星、月面探査などを含む17の戦略分野であり、地域の消費を生み出して次の投資につなげるため、遅くとも2030年代前半に最低賃金を全国平均1500円へ引き上げる目標も盛り込まれた。城内実成長戦略担当大臣は「今回の日本成長戦略原案の最大のポイントは、国内民間投資を引き出し、それを起点として強い経済を構築することであります」と説明している。
この流れは、唐突に出てきたものではない。6月24日には、経済財政諮問会議と日本成長戦略会議の合同会議が開かれ、62の主要な製品・技術等について、2040年までに総額370兆円を超える官民投資を引き出す構想が示された。高市首相は同会議で、「行きすぎた緊縮志向と未来への投資不足の流れを断ち切り」と述べ、技術の社会実装と市場獲得を後押しする姿勢を示している。
報道では「最低賃金1500円」が目立つ。しかし、ここだけを見て評価してはならない。今回の本丸は、最低賃金そのものではなく、370兆円の官民投資によって我が国の供給力、技術力、生産性を引き上げることである。賃金は政治の号令だけで上がるものではない。企業が稼ぎ、生産性が上がり、価格転嫁が進み、国内に強い産業が育つ。その結果として、持続的な賃上げが実現するのである。
つまり、最低賃金1500円は「目的」であると同時に「結果」でもある。順序を間違えてはならない。
1️⃣最低賃金1500円は「命令」では実現しない
政府は、遅くとも2030年代前半に最低賃金を全国平均で1500円へ引き上げる目標を掲げた。この方向性自体は間違っていない。働く人の所得が増えなければ、消費は伸びず、地域経済も疲弊する。問題は、どう実現するかである。
ここで制度上の確認が必要である。政府は政策目標を掲げることはできる。しかし、地域別最低賃金の具体額は、政府が一方的に決めるものではない。厚生労働省によれば、地域別最低賃金は、中央最低賃金審議会が示す引き上げ額の「目安」を参考に、地方最低賃金審議会が地域の実情を踏まえて審議・答申し、異議申出の手続きを経たうえで、都道府県労働局長が決定する。最低賃金法上も、労働者の生計費、賃金、通常の事業の賃金支払能力を考慮することが求められている。
したがって、最低賃金1500円は、政治的な目標であっても、現実には企業の支払能力、地域経済、価格転嫁、生産性向上と切り離して実現できない。最低賃金を機械的に引き上げれば、すべての労働者が豊かになるという単純な話ではない。大企業と違い、中小企業、地方企業、零細事業者には価格転嫁の余地が限られている。人件費だけが先に上がり、売上や利益が伸びなければ、雇用を減らすか、営業時間を短縮するか、廃業するかという選択に追い込まれる。
| 写真はAI生成画像 以下同じ |
この失敗例は、すでに韓国で示されている。
韓国の文在寅政権は、家計所得の増加を起点に経済の好循環を生み出す「所得主導成長」を掲げ、最低賃金を急激に引き上げた。JETROによれば、2017年に時給6470ウォンだった韓国の最低賃金は、2018年に前年比16.4%、2019年に同10.9%引き上げられた。ところが、急激な人件費負担の増加により、中小・零細企業が雇用を減らす副作用が指摘され、卸・小売業、宿泊・飲食店など、最低賃金での雇用が多い業種で就業者数が減少した。
日本総合研究所も、文在寅政権の最低賃金政策について、2018年、2019年の2年連続で2桁の大幅引き上げが行われたものの、2020年には引き上げ幅を2.9%へ縮小し、最低賃金1万ウォンという看板公約は大幅未達となる見通しになったと分析している。つまり、善意の賃上げ政策であっても、生産性、企業収益、価格転嫁、国内需要、投資が伴わなければ、雇用と事業継続にしわ寄せが及ぶのである。
ここで確認すべきは、賃金は労使交渉だけで経済全体として上がるものではない、という基本である。もちろん、個別企業では賃上げ交渉によって、その企業の従業員の賃金が上がることはある。しかし、それは経済全体の賃金総額が増えたことを意味しない。企業収益が増えず、生産性も上がらず、需要も伸びていなければ、賃上げ分は価格転嫁、利益圧縮、雇用削減、投資抑制、あるいは他の支出削減で吸収されるだけである。
マクロ経済で重要なのは、個別企業の交渉ではなく、経済全体の所得と雇用環境である。賃金が持続的に上がるには、国内需要が拡大し、企業が投資を増やし、生産性が高まり、労働市場が引き締まる必要がある。人手不足が本物になり、企業が人材を確保するために賃金を上げざるを得ない状況になって初めて、賃金上昇は広く波及する。
つまり、全体の賃金を上げるには、全体の所得を増やすしかない。全体の所得を増やすには、国内投資を増やし、企業が稼ぎ、価格転嫁が進み、生産性が上がる経済を作る必要がある。
この意味で、最低賃金1500円を持続可能なものにする本当の前提は、370兆円投資である。投資なき賃上げは、企業への負担転嫁で終わる。投資を伴う賃上げだけが、国民を豊かにする。
賃上げは、企業への罰ではない。成長の果実でなければならない。最低賃金1500円を本当に実現したいなら、政府がやるべきことは、事業者に負担を丸投げすることではない。投資減税、設備投資支援、研究開発支援、価格転嫁の徹底、公共調達価格の見直し、人手不足対策、エネルギーコストの安定化を進めることである。
最低賃金は、政治家がマイクで叫べば上がるものではない。現場の企業が「これなら払える」と言える経済を作って初めて、持続的に上がる。
2️⃣370兆円投資こそ、緊縮から成長への転換である
今回の成長戦略で最も重要なのは、370兆円という規模そのものではない。重要なのは、政府がようやく「国内投資不足」を正面から問題にし始めたことである。
内閣官房は、日本成長戦略本部について、官民連携の戦略的投資を促進し、製品、サービス、インフラを提供することにより、我が国経済の成長を実現するために設置したと説明している。日本成長戦略会議は、その具体化に向けて、日本成長戦略本部の下で開かれる会議体である。 つまり、ここで示されるのは単なる景気対策ではない。政府が呼び水となり、民間投資を引き出し、国家の生産基盤を作り直す構想である。
日本は長い間、財政規律の名のもとに、未来への投資を削ってきた。インフラ、科学技術、教育、国防、エネルギー、産業基盤。これらは国家の骨格である。ところが、緊縮思想はこれらを「コスト」と見なしてきた。国を支える支出まで削り、将来の成長力を細らせてきたのである。
その結果、日本は何を失ったのか。
半導体では台湾、韓国、米国に大きく水をあけられた。AIでは米中に先行された。エネルギーでは海外依存が続く。防衛産業ではサプライチェーンの脆弱性が残る。重要鉱物では中国依存が深刻である。これらはすべて、安全保障そのものでもある。
政府資料では、戦略17分野において、国内の経済安全保障上のリスク低減、海外市場の獲得可能性、技術革新性などの観点から、官民投資を優先的に支援する主要な製品・技術等を戦略的に選定し、官民投資ロードマップを策定するとしている。 ロイターも、日本政府が2040年度までに官民合わせて370兆円超の投資を実現し、実質成長率1%超、名目成長率3%超、GDP約1100兆円を目指す長期構想を示したと報じている。
特にAI・半導体は重要だ。AIは単なる便利なソフトウェアではない。製造、医療、金融、防衛、物流、行政、教育のすべてを変える基盤技術である。半導体は、そのAIを動かす心臓部である。
政府資料は、フィジカルAIについて、画像、音声、動画、各種センサーを統合し、現実世界を理解して行動を生成するAIだと説明している。AIロボット市場は2030年頃を境に急拡大し、2040年に約60兆円規模へ成長すると見込まれるという。さらに、我が国は産業用ロボット市場で世界シェア約7割を有し、モーター、減速機などの主要コンポーネントでも高い競争力を持つとされる。
ここを他国に握られれば、日本は産業国家としての自立を失う。逆に、ここに投資すれば、日本は再び技術立国として立ち上がることができる。
もちろん、370兆円と聞けば、緊縮派は必ず「財源はどうするのか」と言うだろう。しかし、問題の立て方が違う。国債発行を当然の前提としても、問うべきは「金を使うか使わないか」ではない。「何に使うか」である。
将来の税収を生まないバラマキなら問題である。しかし、国内に生産力を作り、技術を育て、民間投資を呼び込み、雇用と所得を増やす投資なら、それは国家資産形成である。道路、港湾、電力、通信、半導体、造船、宇宙、防衛、医薬、重要鉱物。これらは単年度の損得で測るべきものではない。
日本に必要なのは、財政を縮めて衰える国家ではない。投資して強くなる国家である。
3️⃣円安対策も、利上げより国内投資が本筋である
今回の成長戦略は、円安問題とも関係している。
円安を止めるために、日銀は利上げすべきだという議論がある。教科書的には、利上げは円高要因である。金利が上がれば円を持つ魅力が増すからだ。しかし、今の日本でそれだけを見て判断するのは危うい。
成長力が弱いまま利上げをすれば、企業投資は冷え、中小企業の資金繰りは苦しくなり、住宅投資も消費も圧迫される。すると市場は「日本経済はさらに弱くなる」と見る。そうなれば、形式的には利上げでも、実質的には円の信認を高めることにはならない。
もちろん、日本銀行は政府の下請け機関ではない。金融政策は日本銀行が決定する。政府は経済政策全体の方向性を示し、日銀との間で物価安定と経済成長に関する認識を共有する立場にある。ここを混同してはならない。ロイターは、今回の経済構想が日銀に対して政府の成長目標と整合的な金融政策運営を求める内容を含むと報じているが、それは日銀の政策決定を政府が直接命令するという意味ではない。
円安を本当に止めたいなら、日本の成長期待を高めるしかない。日本国内に投資し、稼ぐ産業を増やし、エネルギーと重要物資を自前で確保し、技術の輸出力を高める。そうして初めて、円そのものの信用が高まる。
円は、金利だけで買われるのではない。その国の将来性で買われる。
日銀が焦って利上げすれば、円安が止まるという発想は短絡的である。むしろ、国内投資を冷やし、企業収益を削り、将来の供給力を弱めれば、円の土台そのものが脆くなる。必要なのは、成長なき利上げではない。成長を生む投資である。
その意味で、370兆円官民投資は、単なる産業政策ではない。円の信用を回復するための国家戦略でもある。
結論
今回の日本成長戦略には、当然ながら課題もある。17分野は広く、総花的に見える部分もある。370兆円という看板だけでは意味がない。どの分野に、どの順序で、どの主体が、どれだけ投資するのか。政府支援が本当に民間投資を呼び込むのか。国内雇用、国内技術、国内生産に結びつくのか。ここを厳しく見なければならない。
しかし、それでも方向性は正しい。
最低賃金1500円を実現する道は、企業を締め上げることではない。日本国内に投資し、日本人の技術を磨き、日本企業が稼げる環境を作ることである。賃金は命令で上げるものではない。国が成長を取り戻した時、賃金は自然に上がる。
我が国に必要なのは、分配の掛け声ではない。分配の原資を生む国家戦略である。
370兆円投資は、その試金石である。これが単なる官製スローガンに終わるのか。それとも、緊縮の時代を終わらせ、日本再生の号砲となるのか。問われているのは、政府の本気度であり、我が国が再び「稼ぐ国家」へ戻る覚悟である。
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