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2013年3月29日金曜日

[注意] 「学生時代は遊んでおけ」というアドバイスは真っ赤な嘘―【私の論評】イケダハヤト氏言う「ポータブルなスキル」が必要だという指摘は本当だ!!ドラッカー先生も言っている!!

[注意] 「学生時代は遊んでおけ」というアドバイスは真っ赤な嘘

イケダ・ハヤト


社会人の中には未だに「学生時代は遊んでおけ!」みたいなアドバイスを与える人がいますが、あれは嘘です。

ポータブルなスキルを身につけろ

学生時代に遊んでいてもよかったのは、企業が新卒人材を育成する余裕があった、幸せな時代の話です。

企業の体力がなくなってきていること、長期雇用が一般的ではなくなりつつあることなどを要因に、企業は新卒学生にも「即戦力」を求めるように変化してきています。

    このため文科省は11月、経済同友会などの企業側と大学側が参加する懇話会を設置し、この席で企業側から 「大学教育の中で、即戦力となる人材を育ててほしい」と要望が出されていた。

    経済同友会の担当者は「長引く不況で研修費を削らざるを得ず、研修が最低限ですむ即戦力を求める傾向が強くなった」と分析している。 


 この記事の続きはこちらから!!



【私の論評】イケダハヤト氏言う「ポータブルなスキル」が必要だという指摘は本当だ!!ドラッカー先生も言っている!!


さて、上のイケダ・ハヤト氏の意見は、本当です。私も、最初は特に「ポータブルなスキル」というフレーズがよくわからなかつたのですが、これは知識ということです。知識ということで考えると、イケダ・ハヤトさんの言っていることは何も、新しいことでも何でもなく、ドラッカー氏がそれこそ、何十年も前から言っていることです。

しかし、知識と言ってもピンとこない方もいらっしゃるかもしれません。なぜなら、まだまだ多くの人達に知識のことが理解されていないからです。本日は、それも含めて掲載させていただきます。

まずは、ドラッカーの言う知識とは何かということを理解しなければ、イケダ・ハヤト氏のいう「ポータルなスキル」を理解できないと思います。

ドラッカー氏


ドラッカー氏の言う知識とは? 

ドラッカー氏は、知識は、本の中にはないと言います。本の中にあるのは情報のみであると・・・・・。知識とは、それらの情報を仕事や成果に結びつける能力のことです。そして知識は、人間、すなわちその頭脳と技能のうちのみに存在するというのがドラッカー氏の主張で。さらにドラッカーは「知識は事業でもある」とも指摘し、物やサービスは、企業が持つ知識と、顧客が持つ購買力との交換の媒体であるにすぎないということも見抜いていました
 

そして企業は、人間の質いかんによって、つくられも壊されもする人間組織だとしています。労働はいつの日か、完全にオートメ化されるところまで機械によって行われるようになるかもしれません。しかし、「知識は、すぐれて人間的な資源である」と知識の重要性トコトン強調しています
 

また、人間能力に関しては、ほかの者と同じ能力を持つだけでは十分ではなく、そのような能力では、事業の成功に不可欠な市場におけるリーダーの地位を手に入れることはできないとしています。そこで、他に抜きん出ること、すなわち、卓越性だけが利益をもたらすとし、さらに純粋の利益は、こうしたエクセレントな力でイノベーションを果たす革新者の利益だけであるとも言っています





しかも経済的な業績は、すべて差別化の結果であるとしています。したがって、差別化の源泉、および事業の存続と成長の源泉は、企業の中の人たちが保有する圧倒的に優れた独自の知識であるとしています。
 

こういう文脈でいうと、ドラッカーの言う「知識」とは、イケダハヤト氏の言う、「ポータルブルなスキル」そのものであり、それをさらに超える概念であることがわかります。とはいいながら、現代人にとっては「ポータブルなスキル」という表現はわかりやすいです。知識とは、知識労働者の頭の中にだけ存在するものです。知識労働者が、他の会社に移動したとしても、その知識を持っていれば、他の会社で十分通用します。しかし、日本の会社のように、会社独自の慣行があり、その会社の中でしか通用しない知識は、知識とも呼べないものだと思います。

 「知識労働者自身」に上下はない

かねてから知識労働者(ノウレッジ・ワーカー)の台頭を重視してきたドラッカーは、その本質やあり方について、しばしば随所で言及しているが、特に「知識労働者自身」に上下はないと語っています
 

この言葉に続いてドラッカーは、高級な知識、低級な知識というものはないからだと、この発言の理由を説明しています。知識の評価については与えられた仕事に関して適切か適切でないかがあるだけだと喝破し、しかも課題解決自体によって必要とされる経験や予算によって、その従事者の組織内のランクは決まるといっていっています。


よく様々の事柄を医者にたとえるのが好きなドラッカーは、さらに、眼病には眼科医が適切であり、胆嚢の切除にあたるのは腹部専門の外科医だとも述べています。したがってドラッカーは、知識労働を中心とした組織は、権威や権力志向の組織ではなくて、課題解決や目的によって規定されるべき業績志向組織を必要とすると結論づけています
 

さて、ドラッカーは知識労働者について、もう一つ大事なことを説いています。それは、優れた仕事をするためには、常に努力をしなければならないという点についてで
 

「ようやくできた」とか「辛うじて成し遂げた」などという言い方は、知識労働では物の役に立たないと厳しく突き放しています。いつも腕の冴えを示せることが、卓越した知識労働者のあり方だとしています。そして、仕事への貢献度の向上を絶えず意識の最先端へおいて、腕を磨くことを片時も忘れないでいるべきだとしています。

 
 

したがって知識労働者の動機づけは、その効果性に―――つまり、どれだけ効果をあげることができるかということに依存するところが大きいとしています。だから、もしその仕事が十分効果的でない場合には、知識労働者自身の働く意欲も、組織目的に貢献する意欲もやがて枯渇し、午前九時から午後五時まで、期待された動作をただ単に繰り返すご都合主義者に堕してしまうと訴えています。
 

ということは、マネジメントする立場からいえば、その努力と成果に対して、厳しい要求をすべきことを意味しますが、他方、知識労働者のほうも自らの職務上の充足感と刺激の有無に対して高い要求をすべきであるとドラッカーは述べています




しかも知識労働者自身に当を得た意思決定をさせるには、課題での成果と、どういうやり方でその達成をすべきかをよく知らせておかねばならないとしています。自分の知識と技能と作業が、いかに企業全体に寄与するのかがわからなければ、自分自身をマネジメントしたりモーティベートし得ないとしています
 

したがって、知識労働者が非常に立派な業績をあげている組織では、どこでもトップが一定の規則的なスケジュールに従って、特に時間をさいて知識労働者たちとテーブルを囲んで座り、寛いで話し合うことをしていると指摘しています。
 

これを欠くような場合は、知識労働者は働く意欲を失って、上述したような単に時間に縛られて働く人間になり下がるか、その精力と関心をごく狭い専門分野にのみ向けてしまって、組織自体の持つ機会や要求するところからは、ますます離れていってしまうかのどちらかになってしまうとしています。  

イケダハヤト氏にもドラッカーを是非読んでいただきたい 
イケダハヤト氏の論考など、このブログでも時々掲載させていただいています。それは、表現が今風でありながら、ドラッカー氏のマネジメントの原理・原則を踏まえているからです。今まで、私が読んだイケダハヤト氏の論考は、この原理・原則から離れているものはほとんどありません。

だから、少々残念な気がします。イケダハヤト氏は、おそらく、ドラッカーは読んでいないか、読み込んでいないと思うのです。もし、読み込でいたら、ドラッカーの知識という文脈と「ポータブルなスキル」に関して、さらに深い論考と、考察ができるのではないかと思います。

それにしても、彼の論考は、非常に今風なので、非常にわかりやすく、現代のマネジメントを考える上で、かなり役にたちそうです。本日の例でも、特に若い世代に対しては、「知識」などというよりは、最初は「ポータブルなスキル」と言ったほうが、ドンピシャとわかってもらえるのではないか思います。確かに、新卒などどこの会社での、「ポータブルなスキル」をいくつか持っていてほしいものです。


これから、若い世代に「知識」の重要性を語るときに、「ポータブルなスキル」という言葉も使っていこうと思います。

こうした若い世代の言葉、論考もよく熟知しておけば、特に若い世代に対して話をするときに、互いに理解が深まると思います。そう思うのは、私だけでしょうか?皆さんは、どう思われますか?

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2012年12月29日土曜日

「俺がわがままなだけなんだ。我慢するしかない」という諦めが日本社会をダメにする −【私の論評】「わがまま」というより「潔さ」が日本人の精神の背景にありしかも間違って認識されている。日本人は、古来の精神に復帰すべし!!

「俺がわがままなだけなんだ。我慢するしかない」という諦めが日本社会をダメにする



この悲惨さの原因は、日本人が「我慢」を美徳だと勘違いしているからではないでしょうか。

自分の想いを押し殺し、「これは俺が”わがまま”なだけなんだ。オトナなんだから”我慢”するしかない」と、問題解決への努力を諦めてしまっている人が多いから、世界的に見ても悲惨な状況が生まれていると思うのです。「我慢」なんて、「諦め」を自己肯定的に言い換えただけです。

僕自身もサラリーマン時代、この手の「俺がわがままなだけなんだ」という安易な諦めを多用していました。実際変えがたいものもあったと思いますが、振り返ってみると、負担を受入れる覚悟で声を上げれば、十分変えられたものもあったように思います。

「俺がわがままなだけなんだ」ということばのもと自分を押し殺すのは、ある種の防衛本能のようなものなので、いま苦しんでいる人たちを責めるつもりは毛頭ありません。僕自身もそうでしたし。

でも、誰かが「わがまま」を言い出して、行動しないと、世の中は変わっていかないと思うんですよね。選挙権にせよ、有給休暇にせよ、あらゆる社会制度というものは、誰かの「わがまま」が最初にあったのではないでしょうか。

今この時代においては、テクノロジーのおかげで「わがまま」が許容されやすくなっているのも大きなポイントです。僕はまさにこうしてブログを書くことで「わがまま」を享受しています。ITによって在宅勤務がやりやすくなったことも、「家族を大切にしたい」という労働者の「わがまま」を受入れる下地となっているでしょう。

この記事の詳細はこちらから!!

【私の論評】「わがまま」というより「潔さ」が日本人の精神の背景にありしかも間違って認識されている。日本人は、古来の精神に復帰すべし!!

イケダハヤト氏
イケダハヤトさんの、上のブログの記事私は、概ね賛成です。ただし、言葉遣いを変えればもっと多くの人に受け入れられるような気がします。「わがまま」という言葉は、ネガティブなところがありますから、これだとなかなか受け入れられない人も多いのではないかと思います。

そこで、私としては、イケダさんの「わがまま」に変わり、「潔さ」を提唱させていただきます。なぜ、このように考えるかといえば、その理由をご理解いただくために、まずはこのブログに過去に掲載した記事をご覧いただきたいと思います。

マック、崩れた「勝利の方程式」:日経ビジネスオンライン―【私の論評】民間のデフレ対策もそろそろ限界、潔さではどうにもならない状況に!!

詳細は、上記の記事をご覧いただくものとして、本日の話題と関係する部分のみ以下に掲載しておきます。
そうして、原田会長としては、市場に関して自分の見立て違いであると反省しておらるようですが、私は、現状では、それだけではなく、日銀のマクロ金融政策や、政府の財政政策に関しても、そろそろ、苦言を呈しても良い時期にさしかかっているのではないかと思います。
これは、経営者としては、格好が悪いです。景気が悪くても、胸を張って、「景気が悪くても、こんなに業績をあげています。こんなに頑張っています」という経営者のほうが、かなり格好は良いです。そうして、景気が少しくらい落ち込んだからといって、すぐに、景気のせいにする経営者など、格好も悪いして、自らの能力のなさを披瀝しているようなものでした。そうして、これは、20年くらい前までは、確かにしっかりあてはまったことだと思います。
しかし、現状では、かなり状況が異なってきています。すでに、デフレ傾向になってから、20年、統計上でも、はっきりとデフレとなってからも、14年m継続しています。14年以上もデフレが続いた国など、歴史上はじめてではないかと思います。無論、日本では、まともな経済統計ができて以来はじめてのことです。
上の記事をご覧いただければ、私の言いたいことはお判りになると思います。イケダさんは、育児休暇をなかなか取得しないとか、会社に不満があっても、それをいわずに押し殺して「俺がわがままなだけなんだ。我慢するしかない」という諦めが日本社会をダメにするとしているわけです。


そうして、結局私が言いたいこともほとんど同じなのですが、私の場合は、表現が少し異なり「自分の周りに自分以外のことで問題があったとても、そのせいにすることは、潔くない、だから我慢するしかない」ということになります。「潔い」というのは、日本人の感性にあっていますから、こちらのほうが、より多くの人々に受け入れられやすいと思います。

上にも書いたように、これだけ長い間デフレというのは、本当に異常なことでした。しかし、日本の多くの経営者らは、「潔さ」からでしょうか、デフレに対して真っ向から抗議をするという人はあまりいなかったように思います。これだけ、デフレが続けば、雇用にも悪影響があるのは、当たり前ですし、円高傾向になるのも当たり前です。特に、異常なウォン高の韓国と、異常な円高の日本とでは、企業同士の競争といっても、日本側は、まるで最初から足枷手枷をされて勝負しているようなものでした。あの凡庸な企業にすぎないサムスンですら、日本の企業と比較すれば圧倒的に有利な条件で競争ができたのです。

最近、アベノミクス効果で、円安、ウォン高傾向になってから、日本企業は俄然活気づいています。それにしても、 これだけデフレが続く前に、大企業の経営者などは、もっともっと、怒りの声をあげて、政府には、まともな財政政策を、日銀には、金融緩和をせまるべきでした。このデフレは、大きな社会問題や、社会の歪の発生源でもあります。特に若者の雇用や、賃金にはかなり悪影響を及ぼしてきました。

だからこそ、私は社会を良くするためには、「潔さ」だけではどうにもできないと思うのです。「潔さ」よさ などきっぱり捨てて、社会を変えるために、多くの人々がもっと声をあげていれば、このデフレもこんなに長くは続かなかったのではないかと思います。

これに比較すると、アメリカなどでは、影響力の大きい大企業の経営者などが、何かあると日本と比較すると、すぐに抗議の声をあげます。FRBにだって、政府にだって景気対策がうまくいかないと、すぐ声をあげます。場合によっては、外国にまでも抗議の声をあげます。たとえば、あの車のビッグスリー(アメリカの三大自車メーカー)は、トヨタが進出しはじめた頃もなにかにつけて抗議をしていました。




最近だと、たとえば、日本からの車の輸入に関税がかからなくなるからといって、TPPに反対してみたり、日本の小型車が日本の独自の規制を行っているので、日本にアメリカから輸出するには、この規制にしたがわなければならないため、これに抗議したりしています。日本人の感覚からすれば、こんなことまでいうなんて"なんてわがまま"なのかと思うようなことを平気で言います。私は、このようなことを日本の自動車メーカーの社長が語っていたことは、聴いたためしがありません。ただし、例外はあります。あのUNIQULOの柳井さんです。これは、本日は本題ではないので、当該ブログをご覧になって下さい。

しかし、これはこれで良いのだと思います。言ってみるだけ言ってみても損をすることはありませんから!!それに比較すると、本当に日本の大手企業や経営者は、あまりこのようなことを言いません。それに、報道もされません。これは、やはり、日本人の人生観や考え方に深く根ざしているからかもしれません。

私は、この根底には、今では中途半端になってしまった日本文化の存在があると思います。たとえば、武士道の精神です。「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉がありますが、これは良く曲解されて、たとえば、戦時中の特攻隊の精神的支柱とみなされたりします。

しかし、本当の意味は、そんなに単純ではありません。潔く死ぬことだけが、武士道ではありません。むしろ、こういう気構えをして、はかない命であるからこそ、今日この日を大切に力一杯過ごしていこうというのが、武士道のもう一つの側面です。しかし、今の日本でもこれが曲解されて、潔さばかりが強調されるどころか、「潔さ」と「諦め」が混同されているところがあるのだと思います。これは、武士道を特に意識していなくても、日本人の美意識の中に「潔さ」という動かし難い観念があることだけは確かだと思います。

そうして、今の日本では、イケダさんがおっしゃる通り、「潔さ」と「諦め」が混同され、「我慢」し続ける人が多くなっているのだと思います。


今の日本人にはこのように、「諦め」の境地ばかりが目立つのですが、かえってアメリカ人の中に「武士道的」生き方をする人もでてきました。その筆頭は、誰あろう、元アップルのCEOであったかのスティーブ・ジョブズ氏です。

このことは、以前のブログにも掲載しました。その記事のURLを以下にコピペします。

Appleを復活させた「魔法使い」、ジョブス氏の休職―【私の論評】ジョブスの生き方は、「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」という日本人の理想を体現している!?
ジョブスは、上の動画の中で、「死を意識すること」の意義、特にポジティブな面を強調していました。これは、日本の武士道の中の「葉隠れ」の思想とも根本では相通じるところがあります。まさに、「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」という言葉を真の意味で実践しているようです。葉隠れは、一部の人々が曲解しているように、死を美化するものではありません。というより、まさに、上の動画でスティーブ・ジョブスが「死を意識すること」の意義と似ています。というより、生まれ育った環境や活躍してる舞台がIT業界であることなど葉隠れの思想がでてきた時代背景とは大きく異なるので、表現や、出てくる行動が少し異なるようにみえても、本質的には同じだと思います。
今の多くの日本人が忘れてしまったこのような生き方、少なくとも、少し前までは、多くの日本人の理想とした生き方、彼の生き方は、それを私たちに思い出させてくれます。だからこそ、日本でもジョブスに人気があるのだと思います。今日本では、産業に活気がありません。ジョブスがやってきたような、イノベーションは、少し前までなら日本が行っていたと思います。私は、そのようなイノベーションが行われなくなった今の日本、背景にはジョブスのような一昔前の日本人が理想とする生き方を多くの日本人が忘れてしまったからではないかと、危惧しています。
さて、そう思って現在のジョブスを見ると、あの有名なプレゼンでみせる、黒を基調とした服装、ジーンズという飾らないいでたち、なにやら、戦に挑む日本の古武士のようにも見えてきます。あの全身全霊を傾けて、ものごとに取り組む姿勢とエネルギーは、本質的には「葉隠れの思想」から沸き出でてくるものであることが、理解できます。今の若い世代には、「葉隠れ」と言っても、ほんどの人が何のことかも理解していないようです。いつから、日本の優れた世界に誇るべき伝統文化が、継承されなくなってしまったのか!!本当に残念なことです。
だから、私は、ジョブスを単純にカリスマとは呼びたくはありません。私は、彼を偉大なリーダーであると呼びたいです。日本にこのような生き方をする政治家や経営者が昨今、非常に少なくなってきたことを残念に思います。

今のニッポン人には、古の日本人の精神が残ってはいるのですが、中途半端な残りかたをしているのだと思います。だから、我慢して諦めるとか、その諦めを潔さと勘違いしているという事があるのだと思います。

こうした精神構造を変えるには、イケダさんが言っているように、我慢するしかないとか、私の言葉でいえば、潔さから諦めるなどということやめて、真正面から問題を指摘し、その問題に取り組むという姿勢が重要なのだと思います。その姿勢を持つためには、今更日本人が外国人のものまねをしても身につくとは思えないので、やはり、ジョブズのように現代風の武士道のような、日本古来からの精神に復帰するしかないと思います。みなさんは、どう思われますか?


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