「直感」こそ正しい答えだと考えている人は多いですが、心理科学における最新の研究によると、意思決定のプロセスにおいて「直感」が「論理」を押し潰してしまうこともあるということがわかったそうです。
「論理」も脳にあらかじめ組み込まれた重要かつ直観的なセンスです。しかし、実に多くの人が直感的にわき起こる思考に押し流されて、論理を無視してしまいます。その結果、ステレオタイプな行動をとってしまうこともあるようです。プロセスに何かが足りないと感じながらも、論理的に考えることを怠ってしまうのでしょう。
心理科学者Wim De Neysさんは、自分の思考のクセをよくチェックすべきだと言っています。
「思考プロセスのどこに間違いがあるか」を知ることが重要です。例えば、あなたが「なぜ人はタバコを吸うのかを理解したい」と思ったとします。そして、その原因が「タバコは不健康という論理を理解していないからだ」と考えたとしたら、あなたは喫煙者にタバコの害について説明するでしょう。しかし、実際はタバコの中毒性に原因があるのです。
意思決定プロセスにおいて、「論理」と「直感」のどちらも同等に直感的に働きます。次に何かを決断するときは、自分がどちらの思考に傾いているか、よく確かめてみてください。
【私の論評】本当に重要なのは直感ではなく、知覚である!!
まずは、上の写真んで妊婦がでていますが、これは、妊娠を英語で、pregnancyといい、これは妊娠のほかに、創造性、発明の能力などの意味があり、そこから、日本語では、直感ということなのだと思います。日本では、上の写真をみて、直感と関連づけたり、知覚する人ほとんどいないと思います。これは、知覚の仕方が人によって、あるいは、ひとが背負っている文化によって随分異なることの査証だと思います。この違いは、このブログの後のほうでもでてきますので、以下の文章は、このことを記憶にとどめて読んでいただけれれば幸いです。私自身は、直感を大事にするほうです。男性と女性を比較すると、男性は論理的で、直観を忌避する傾向が強いですが、女性は、ものごとを直観で悟る能力に秀でています。多くの人が直感を全否定したとしたら、世の中から創造的な仕事のほとんどは消えるに違いないと思います。ただし、直感を大事にするにしても、何から何まで直感だよりということになれば、これは、否定しなければなりません。
私自身は、最初物事を考えるのは、ほとんどが直感です。ほとんどの人がそうだと思います。最初から分析できたりするような事柄には、直感など必要ないと思います。それは、分析する人に任せればい良いわけです。そうではなくて、いままで一度も経験したことがないこと、あるいは全く新しいシステムなど考えるときには、自分の過去の経験に照らして、直感でこのようなものが良いのではなかろうかと考えるわけです。そうして、それをもとにして、自分の意見を持つわけです。
しかし、それだけで、放置しておくわけではありません。むろん、その意見が正しいかどうか、検証を行います。検証を行うために、いろいろデータにあたり、たいていは、分析します。自分が知る限りの様々な手法を用いて分析します。分析して、分析仕切らないことはいくらでもあります。しかし、そうした仮定を経て気づくこと、知覚できることがでてきます。これら分析結果と、知覚できたことから、最終意見をもとめます。これは、たいていは、レポートにまとめるという作業です。
これが、化学現象などであれば、ほとんどが分析でことが済むのでしょうが、たとえば、プロモーションを行うとか、販売システムを変更するとか、新たな業態をつくるなどの社会現象であれば、いくら、検証を重ね、分析を重ね、様々なことがらを知覚できたしても、100%こうであるなどの結論などだすことはできません。最終的には、知覚がものをいうわけです。
ドラッカーは、知覚について、彼の著書に以下のように述べています。
生態系は全体として観察し理解すべきものである。
部分は全体との関連において意味をもつにすぎない。
数学者と論理学者の世界では、知覚的な認識は感覚にすぎず、疑わしいもの、神秘的なもの、捉えがたいもの、不可思議なものだった。機械的な世界観は、知覚的な認識は理性的でなく、したがって趣味の世界にゆだねるべきもの、すなわちそれ抜きでも支障のないものとした。
だが生物的な世界では、中心に位置するものは知覚的な認識である。生態系なるものはすべて、分析ではなく知覚の対象である。それは全体として観察し理解すべきものである。部分は全体との関連において意味をもつにすぎない。三五〇年前、デカルトは「我思う。ゆえに我あり」といった。いまやわれわれは、これと同時に「我見る。ゆえに我あり」といわなければならない。
新しい現実は、すべて形態的である。したがって、それらの問題を扱うには、分析とともに知覚的な認識が必要である。今日の多元社会の不均衡状態、グローバル経済、地球環境問題、緊急に提示することが求められている教育ある人間のモデルなど、すべてが形態的である。これだけだと、何のことか良く分からないというひともいるかもしれませんので、少々説明させていただきます。デカルトは「システムなどは、小さく分解していき分析すれば、いずれ理解できるものとしました」確かに、普通の機械などそうだと思います。テレビやパソコンなど、確かに、全部の部分を細かく分析して、全体をぶんせきすれば、いずれ、全体がわかります。確かに、多くの製造会社がライバルの製品そのように分解して、分析して、相手の機械を分析して、すべてを理解したうえで、相手に対する対抗策を考えています。
簡単なシステムならそれで良いでしょう。だから、デカルト的な見方は、近代産業の成長にかなり寄与しました。しかし、この見方は、必ずしも世の中の自然現象屋社会現象を理解するには役に立たないと言っているわけです。
それは、単純に考えても、わかることです。たとえば、人体はどうでしょうか。人体をばらばらに分解して、爪は爪、鼻は鼻、脚は脚、心臓は心臓などして分析して、それを細かくさらに分析して、人体のすべてをそのように分析して、その分析結果をすべてあわせたとして、人体がわかるでしょうか?そんなことは、ないです。それは、複数の人間やその他がからむ、社会システムでも同じことです。社会システムでなくても、地球環境のことも、あるは、地球を含めた、太陽系に関しても、全部を細かくわけて、分析して、あとから、その分析結果を統合したからといって、全てが理解できるわけではありません。
だから、こそこのような事柄に関しては、知覚が重要だと言っているのです。それをしないで、デカルト的な分析ばかりくりかえしても、何も理解できないということを言っているのです。このデカルト的な考え方は、西欧近代にすばらしい成果をもたらしましたが、現代では、悪影響が目立ってきています。特に、デカルトの思想が生まれた西欧などで、何にでも、デカルト的に考える人を「デカルトの悪夢におかされた人」などということがあります。デカルトは、大きな誤りをおかしています。「我思うゆえに我あり」これです。進化論は、その逆を教えています。まず人間は存在した、思考はその後です。
心は脳のソフトウエアのようなものだという考えは、いまでもあります。多くの人は、ほとんどデカルト的心身二元論のように考え、そのように話します。しかし、脳と身体は密接であり、不可分のものです。脳だけをとりあげて人を思考を語ることはできません。何でも、デカルト的に心身二元論のように考えていては、良いことはありません。
デカルト |
このような人日本にも増えてきているようです。何でも、白黒でわりきって、意思決定をするような人が・・・・。そういう人は、社会システムに関しては、大小を問わず、どのようなものでも、まともな意思決定はできないと思います。おそらく、夫婦関係はもとより、親子関係もギクシャクし、 たとえ最初は優秀であっても、 職場でも創造性を発揮できず、いずれ凡庸でつまらない人生を送ることになると思います。
さて、知覚に関しては、その定義など、述べずに上記の論を展開してきましたが、その一般的な定義を以下に掲載しておきます。
知覚(ちかく)とは、動物が外界からの刺激を感じ取り、意味づけすることである。 視覚、聴覚、嗅覚、味覚、体性感覚、平衡感覚などの感覚情報をもとに、「熱い」「重い」「固い」などという自覚的な体験として再構成する処理であると言える。
上は動物の例ですが、人間なら、自覚的な体験として再構築するということは、様々な感覚情報や、分析などから、特定の現象などに意味付を行うということだと思います。こうしたことができずに、分析するだけでは、社会システムは永遠に理解できないということです。こうした、意味付まですれば、それは、最早直感とはいえず、知覚したということであり、社会システムへの理解が深まったということです。
さて、上で、最初は、直感で意見を持つということを掲載しましたが、これも知覚に関係します。意見を持つということ、ドラッカーは以下に述べています。
「意志決定についての文献のほとんどが事実を探せという。
だが,仕事のできる者が、事実からスタートすることなどできないことを知っている。誰もが意見からスタートする」
(ドラッカー名著集①『経営者の条件』)
ドラッカーは、事実を探すことから始めるのは感心したことではないとさえいう。なぜなら、誰もがするように、すでに決めている結論を裏付ける事実を探すだけになるからである。見つけたい事実を探せない者はいない。
意志決定も科学と同じように、仮説が唯一の出発点である。
われわれは、仮説をどう扱うかを知っている。論ずべきものではなく、検証すべきものである。
初めに意見を持つことを奨励しなければならない。そして意見を表明する者に対しては、現実による検証を求めなければならない。
米GMのアルフレッド・P・スローンは
「それではこの決定に関しては、意見が完全に一致していると了解してよろしいか」と聞き、
出席者全員がうなずくときには
「それではこの問題について異なる見解を引き出し、この決定がいかなる意味を持つかを理解するための時間が必要と思われるので、
次回さらに検討することを提案したい」と言ったという。
不思議なことと言うべきか、当然というべきか、これまでの不祥事の多くが、
役員室で意見の対立を見ることなく行なわれている。
「意志決定において重要なことは、意見の不一致が存在しないときには
決定を行なわないことである」
(『経営者の条件』)
こうした、意見の不一致が、同じ出来事を、めいめいがどのように知覚しているかを明らかにし、問題をいっそう明確にしていくのだと思います。そうして、直感から、知覚へ、そうして、全員が同じできごとをどのように知覚しているかを知ることによって、問題・課題への対処の仕方が明確になって行くのだと思います。
全員の知覚を検証したあとに、出される結論は、もはや直感ではないということになります。何か、このようにしてみていくと、心理学者の実験よりも、こちらのほうがよほど楽しいし、面白いと思うのは私だけでしょうか?こうした、心理学の実験の結果など、おそらく実験などせずとも、長い間経験を積んだ優秀な経営者なら、このようなことを日ごろの業務などから、知覚して認識して実務に役立てていると思うのは、私だけでしょうか?
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