2015年2月1日日曜日

【イスラム国殺害脅迫】後藤さん殺害か 「イスラム国」がネットに映像公開―【私の論評】宗教を信奉しつつも、その根底には霊性を重んじる精神があり、その精神界においてはどのような宗教の人々とも理解し合える、そんな世界を目指せ!!

【イスラム国殺害脅迫】後藤さん殺害か 「イスラム国」がネットに映像公開



【産経新聞号外】「後藤さん殺害」映像 安倍首相「非道卑劣」[PDF]

イスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」に拘束されていた後藤健二さん(47)を殺害したとされる映像が1日、インターネット上に公開された。日本政府は確認作業を進めるとともに、引き続き情報収集・分析を急ぐ。

イスラム国の日本人殺害脅迫事件をめぐっては、湯川遥菜(はるな)さん(42)と後藤さんの殺害を警告するビデオ声明を1月20日にネット上で確認。その後、湯川さんが殺害されたと読み上げる後藤さんとみられる男性の映像も確認された。

さらに、1月29日朝に後藤さんとみられる男性の音声付き画像が公開された。その中でイスラム国側は、後藤さんとヨルダンで収監中のサジダ・リシャウィ死刑囚の人質交換を要求。応じなければ拘束中のヨルダン人パイロットを殺害すると警告していた。

ただ、イスラム国側が期限とした29日深夜を過ぎても事態の進展はみられず、ヨルダン政府が水面下でイスラム国側と交渉を続けていたとされる。パイロットの安否は1日の時点で確認されていない。

安倍晋三首相は1月20日以降、繰り返しイスラム国を非難するとともに、関係国との連携強化など「人命第一」と「テロとの戦い」の取り組みを続けてきた。特に対イスラム国の最前線となっているヨルダン政府には、後藤さんの解放に向けた協力を要請してきた。ただ、ヨルダン政府は、後藤さんよりパイロットの解放を求める国内世論が強まるなど、厳しい判断を迫られていた。

【私の論評】宗教を信奉しつつも、その根底には霊性を重んじる精神があり、その精神界においてはどのような宗教の人々とも理解し合える、そんな世界を目指せ!!

後藤さんは、亡くなったものと判断されますので、まずは後藤さんのご冥福をお祈りいたします。

さて、国際的にも、ここ日本においても、今回の「いわゆるイスラーム国」による、人質事件に関して現代の宗教的世界観による精神世界の限界を示すものであるとの論調などほとんどありません。

このような精神世界の限界が、世界で様々な対立を生み出しているという論調はないし、ましてや、霊性を重んじる日本文化がこうした対立をなくすためのヒントにもなり得ることなど、全く報道されないのが非常に残念なことです。

これについては、このブログで掲載したことがあります。その記事のURLを以下に掲載します。
【本の話WEB】日本人人質事件に寄せて――「日本人の心の内」こそ、彼らの標的だ―【私の論評】日本にこそ、世界に新秩序を確立するためのヒントがある!日本人の心の内にある霊性を重んじる精神、これこそが世界の宗教的混乱を救う一里塚なると心得よ(゚д゚)!
式年遷宮「遷御の儀」で現正殿から新正殿に向かう渡御行列。
伊勢神宮は日本人と心のふるさと、未来への道しるべだ
=平成25年10月2日夜、三重県伊勢市の伊勢神宮

詳細はこの記事をご覧いただくものとして、この記事では、21世紀は、「霊性の世界」になることを、フランスの作家マルローや、ドイツの心理学者ユングが予言していることを掲載しました。

そうして、宗教的世界観だけではなく「霊性の精神」を未だに維持発展させている日本について解説し、結論としては以下のようなことを述べました。
日本人の精神世界は、宗教だけではなく、その根本に霊性を重んじるという観念が今でも根付いて、息づいています。これは、多くの人々が、意識するしないにかかわらず、日本人の生活習慣や考え方に自然と組み込まれていて、多くの人にとってはごく自然てあり、空気のような存在になっています。しかし、霊性が失われて、宗教が精神世界の大きな部分を占めるようになった他国ではこのようなことはないのです。

私たち日本人は、このような国日本に誇りを持ち、自信を持ち、世界に日本の素晴らしさを伝えてていくべきです。日本のやり方が、世界伝わりそれが理解されれば、世界は変わります。

霊性を重んじるという精神を捨てて、宗教一色に染まった世界は、ますます混迷を深めていくばかりです。

さて、この記事の元記事を書かれた、上田和男(こうだ・かずお)氏は、元記事ので以下のように結論を述べています。 
考えるに、人類文化の危機は「画一化」にあり、文明が衝突するのではなく、文明に対する無知が紛争の根源となるのだと思います。思考のプロセスを自省し、他にかぶれたり迎合させられたり、徒に自虐的になることから一歩距離を置いて、確信されてきたものを再吟味し、忘れ去っていた古き良きものへ思いをきたし、一方で他民族との交流においては、異質なもの・新たなものを受容し合う-。こうしたことが、文明間の対話で重要だと思います。 
国家的文化戦略は、長期構想として構築し、粘り強く世界へ向けて発信してゆくことが最重要です。世界的有識者の言説を待つまでもなく、21世紀が霊性の時代へと向かうならば、日本人としても1300年間継承されてきた伝統精神を矜恃し、発信・交流してゆくことが、自らの背骨を正すとともに、世界平和への貢献に資することにもなると確信いたします。
まさに、この通りです。今まで通り、多くの人々が信奉してきた宗教を捨て去り、霊性の世界に戻る必要などありません。それは、日本がすでに具現化しています。日本には、様々な宗教が混在しつつ、その精神世界の根底には、霊性を重んじる習慣が根付いています。日本では、年配の人が、「ご先祖様に申し訳がたたない」という言葉を発することがありますが、これこそ、霊性の発露でもあります。 
世界の人々が、宗教以前に、その根底には霊性の世界があることに目覚め、それを重要視するようになれば、世界から宗教戦争は消えます。そうして、今回のような人質事件のようなこともなくなると思います。 
そのために、霊性の世界を維持・発展させてきた私たち、日本人ができることがあるはずです。無論、今回の人質事件をすぐに解決するということはできないかもしれません。宗教で凝り固まった人々の精神を解きほぐすには、かなり長い時間を要するかもしれません。 
しかし、私は日本人の心の内にある霊性を重んじる精神、この精神を土台としつつどの宗教でも受け入れてしまう寛容さ、これが世界の宗教的混乱を救うための、一里塚になると思います。 
私は、そう思います。皆さんは、どう思われますか?
日本の巫女

さて、この記事においては、日本人の「霊性を重んじる精神」自体については、あまり説明しませんでした。私は、この精神は、いわゆる古神道にその原点があると思います。そうして、古神道によって培われてきた日本人の精神は、今に至るも日本人の文化として現在に至るまで継承され、今日に至っています。

古神道とは、仏教や儒教などの影響を受ける以前のわが国固有の神道です。日本の伝統的信仰で、祭祀(サイシ)を重んずる多神教の宗教。その神には自然神と人間神とがありますが、一般には人間神、すなわち皇室や国民の祖先である天照大神をはじめとする神々が多く祭られ、祖先崇拝が中心となっている。かんながらの道。神道(シンドウ)。

私自身は、我が国の古神道は言葉の厳密な意味において、宗教ではないと思っています。宗教なるもの以前の日本人の精神にあったより根源的なものであると思っています。欧米の知識人等の中には、日本の神道を宗教の原点と捉える人々もいます。

欧米の知識人等が東洋の伝統文化に驚き、その極致ともいうべき仏教文化に感動しているあいだは、まだ日本文化の表面をなでているにすぎません。日本文化を本当に理解しようとする人びとは、その根底にある神道と出逢ってしまうのです。

小泉八雲

ギリシア・リュカディア島生まれのイギリス人、ラフカディオ・ハーンこと小泉八雲もそうでしたし、イギリスの歴史学者アーノルド・J・トインビーもそうでした。ちなみにトインビー博士は昭和42年の秋、伊勢神宮(内宮)を参詣したとき、その参拝記念帳に次のように書きしるしました。

「この神聖なる庭に立つと、わたしはここがすべての宗教の原点であることを感じる」

アーノルド・J・トインビー
いうなれば彼らにとって日本の神道は、宗教の源泉なのです。たとえば、ローマ・カソリックが日本の禅と神道を霊性開発の手段として半ば公認しているのは、キリスト教自体に霊性開発の能力が失われているからほかならないのですが、もうひとつの理由としては、彼らが日本の神道を宗教の源泉と考えているからです。

日本の神道はしばしば多神教であるといわれ、実際、八百万の神々の存在を認めますから、多神教のなかでも際立ったものです。すなわち、自然界の万物に神性を見、自然界に起きた諸々の現象を神々からの通信として感じるのです。いうなれば、古神道のいわゆる<神ながら>とは、自然に偏在する神々のすべてと一体化する、ということです。

このように、神道がいま世界的に注目され始めています。それは神道が人びとの霊性を刺激し、人間と神々との交流を活発にさせるからです。その点で神道が"宗教の源泉"と呼ばれること自体には、大いに意義があることと思います。

自然にも霊が宿るとした日本人

ここで、日本人の宗教に対する考え方や接し方をとりあげてみます。日本人に「あなたの宗教は何ですか?」と質問してみると、すぐには答えがかえってこないのです。そのために「日本人は無宗教だ」といわれることも多いのですが、それは、日本ではあらゆる宗教が共存しているからです。

神道は古代から現代につづいている日本の民族信仰ですが、その間に、西暦3世紀から4世紀頃には儒教や道教が伝来して日本人の生活になじみはじめました。続いてて6世紀には仏教が伝わって来て、それらと日本固有の伝統信仰と区別するために神道(シントウ)という言葉が生まれました。16世紀にはキリスト教が日本に上陸しました。

キリスト教の宣教師たちは、日本人が神社にもお寺にもおまいりするのを見て、驚きました。ある宣教師は祖国に、次のような報告をしています。

「日本には宗教が二つある。神道と仏教というもので、長い年月を経て、お互いに影響しあって、日本人の生活に溶け込んでいる。日本人はホトケという偶像を拝み、カミという見えない存在に畏敬の念を抱いている。仏教のお寺にも行き、神道の社にも行くことに何の不思議も感じない」。

一神教であるキリスト教徒にすれば、神も仏も同一に感じ、礼拝しているのは、理解できないことだったのです。

フランシスコ・ザビエル

また、このような精神世界を持つ、日本にもバチカンはキリスト教を広めようとしため、あのフランシスコ・ザビエルが、日本で布教活動をしたのですが、出会った日本人が彼に決まって尋ねた事があります。

それは、「そんなにありがたい教えが、なぜ今まで日本にこなかったのか」ということでした。 そして、「そのありがたい教えを聞かなかったわれわれの祖先は、今、どこでどうしているのか」ということてした。

つまり、自分たちは洗礼を受けて救われるかもしれないけれども、洗礼を受けず死んでしまったご先祖はどうなるのか、やっぱり地獄に落ちているのかという疑念です。

元来、キリスト教においては、洗礼を受けてない人は皆地獄ですから、ザビエルもそう答えました。すると日本人が追求するわけです。 

「あなたの信じている神様というのは、ずいぶん無慈悲だし、無能ではないのか。全能の神というのであれば、私のご先祖様ぐらい救ってくれてもいいではないか」

ザビエルは困ってしまいまして、本国への手紙に次のように書きました。 

「日本人は文化水準が高く、よほど立派な宣教師でないと、日本の布教は苦労するであろう」と。当時の中国にも、韓国にも、インドシナにもこうしたキリスト教の急所(?)を突くような人間はいなかったわけです。

この他にも、『もし神様が天地万物を造ったというなら、なぜ神様は悪も一緒に造ったのか?(神様がつくった世界に悪があるのは変じゃないのか?)』などと質問され答えに窮していたようです。

ザビエルは、1549年に日本に来て、2年後の1551年に帰国しますが、日本を去った後、イエズス会の同僚との往復書簡の中で「もう精根尽き果てた。自分の限界を試された」と正直に告白しています。

霊性の世界を信じ、集団原理の中で生きてきた日本人にとって、魂の救済という答えは個人課題ではなく先祖から子孫に繋がっていくみんなの課題であったはずです。

「信じるものは救われる」=「信じない者は地獄行き」 

といった、答えを個人の観念のみに帰結させてしまうキリスト教の教義の矛盾に、当時の日本人は本能的に気づき、ザビエルが答えに窮するような質問をぶつけたのではないでしょうか。

そうして、当事のバチカンは、日本で布教するにおいては、他国で布教する際には認められなかった、日本ルールともいえる例外をいくつか認めました。

日本神話に登場するアメノウズメ

このように日本独特の宗教共存を可能にしたのは、八百万の神々を崇拝する神道が基盤になったからです。神道には、もともと包容性があり、客人(まれびと)を大切にして、異文化との接触による文化変容を可能にする素地がありました。

日本では「文化庁」という役所が宗教団体を取り扱っていて、毎年、「宗教年鑑」という日本の宗教に関する統計を発表しています。ここで、細かな統計は、文化庁のサイトに譲ることにして、文化庁に登録された宗教団体に属する信者総数は少し古い資料ですが、平成10年では2億1千5百万人程度となっています。

つまり宗教人口が実際の日本人口の2倍近くになっているのです。どうしてこんな現象が起きているのでしょうか。そのわけは、一人の日本人が複数の宗教団体に登録されているからなのです。



神社の氏子であり、お寺の檀家であり、新宗教の会員でもあるということが何の不思議もなく行われているのです。さすがにキリスト教系の団体では、そんなダブルブッキングは許されていないようですが、神社やお寺は二重、三重に所属していてもとやかく言うことはありません。

ですから、先に述べたように日本人は「あなたの宗教は何ですか?」という質問にすぐに「私の宗教はこれです」と答えがでないのは、そのような事情があるからです。

このような霊性を重んじる精神を維持発展させてきた日本は、世界の中でも特異な位置を占めると思います。以前にも、もともと、世界にはどの地域においても、アニミズムやシャーマニズムという形で霊を重んじる精神がありましたが、しかし、宗教が世界に敷衍してからは、この精神はほとんど失われました。しかし、日本だけが、上に述べたように、その精神を現在に至るまで継承し発展させてきました。

米国の新聞が伝える人質虐殺

世界から、宗教的な対立をなくすためには、今一度人類は、霊性を取戻す必要があります。そうならければ、これからますます、宗教的対立が世界を覆い、収拾がつかなくなり、人々は閉塞感にさいなまされ、自分たちの未来を信じることができなくなります。だからこそ、マルローや、ユングは今世紀は、霊性の時代になると予言したのだと思います。

こういうことを考えると、私は、今回の「いわゆるイスラーム国」による人質殺害事件は、宗教のみによる世界観では限界があることを象徴しているように思えます。そうして、霊性の精神世界を忘れた世界への警鐘であると思えてなりません。

そうして、世界がもう一度霊性を取戻すことにより、今回の人質事件を含む、宗教的な対立はこの世から消えいくのではないかと思います。

日本のように、宗教を信仰しつつも、その根底には霊性を重んじる精神があり、そのことにより多くの宗教を鷹揚に受け入れ、対立することもない世界。その精神界においてはどのような宗教の人とも理解し合える。そんな世界になることを願います。

私は、そう思います。皆さんは、どう思われますか?

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