まとめ
- 今回の事件は「米兵だから米国が裁く」事件ではない。公務外の犯罪では原則として日本側が第一次裁判権を持つ。今回は沖縄県警が容疑者を逮捕し、日本側が身柄を確保している。
- 米軍撤退だけがフィリピンやイラクの混乱の原因ではないが、撤退による抑止・支援環境の変化は重要な要素だった。他の政治・軍事的要因と併せて見る必要があり、「唯一の原因でもないが、無関係でもない」という整理が正確である。
- 沖縄で重要なのは、撤退か現状維持かという二択ではなく、縮小した軍事機能を何が代替するかである。沖縄の基地負担軽減と事件防止を進めながら、我が国の抑止力に空白を生じさせない制度と能力を同時に整える必要がある。
まず、今回の事件で亡くなられた方に謹んで哀悼の意を表し、ご冥福をお祈りしたい。ご遺族にも心からお悔やみを申し上げたい。
10月3日に沖縄県那覇市で発生した強盗殺人事件をめぐり、米海兵隊員が容疑者として逮捕された。人命が奪われた重大事件である。徹底した捜査と適正な司法手続を尽くし、犯罪事実が立証されれば、日本の法律に基づいて厳正に責任を問わなければならない。同時に、米軍には綱紀粛正と実効性のある再発防止を求める必要がある。
高市早苗首相は10月5日の所信表明演説の冒頭で被害者への哀悼と遺族へのお悔やみを表明し、日本政府として米側に抗議したことを明らかにした。茂木敏充外相も4日、グラス駐日米国大使を外務省に召致し、捜査への全面的な協力、米軍人等の綱紀粛正、再発防止の徹底を要求している。外務省「茂木外務大臣によるグラス駐日米国大使への抗議」 今回紹介したロイター報道も、政府内に事件が日米安全保障協力へ波及することへの懸念があると伝えている。
ここで必要なのは、事件の重大性を薄めることではない。逆である。犯罪への対応を徹底したうえで、個人の刑事責任、米軍の規律、沖縄の基地負担、日米同盟と我が国の抑止態勢を、すべて同じ問題として一括りにしないことである。事件を政治が扱うのは当然だが、犯罪への怒りから基地撤退や安全保障体制の結論まで一足飛びに進めば、別の重大なリスクを見落としかねない。
1️⃣「米兵だから米国が裁く」わけではない
今回の事件を論じる前に、日米地位協定を正確に確認しておきたい。「米兵が日本で犯罪を犯しても、地位協定によって米国が裁く」という理解は正しくない。
日米地位協定第17条は刑事裁判権について定めている。日米双方の裁判権が競合する場合、米軍人等の公務執行中の作為・不作為から生じる犯罪などでは米側が第一次裁判権を持つ。一方、公務外に日本国内で犯した通常の犯罪では、原則として日本側が第一次裁判権を持つ。外務省「日米地位協定及び関連情報・第17条」
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| 日本の司法で裁かれることを象徴する那覇地方裁判所 AI生成画像 |
地位協定で問題になりやすいのは、裁判権そのものより、被疑者の「身柄」の扱いである。日本側が裁判権を行使する事件でも、被疑者の身柄を米側が確保している場合、第17条5(c)により、日本が起訴するまで米側が拘禁を続けるのが原則である。ただし、1995年の少女暴行事件を受けた日米合同委員会合意により、殺人や強姦などの凶悪犯罪では、日本側が起訴前の身柄移転を求める道が設けられた。外務省「日米地位協定第17条5(c)及び刑事裁判手続に係る日米合同委員会合意」
地位協定について改善すべき点を検討することと、制度の実態を誤って伝えることは別である。今回の事件を材料に議論するなら、まず「日本には裁判権がない」という誤解を取り除くところから始めるべきだ。
2️⃣事件と基地・同盟政策をどこまで結び付けるのか
今回の事件の約2週間後には、大規模な日米共同統合演習「キーン・ソード27(Keen Sword 27)」が予定されている。10月19日から29日まで実施され、自衛隊だけで約4万5,000人、車両約6,100両、艦艇約40隻、航空機約260機が参加する。統合幕僚監部によれば、目的は各種事態における日米共同対処と自衛隊の統合運用を演練・検証し、日米の共同統合運用能力を維持・向上させることにある。統合幕僚監部「Keen Sword 27」公表資料
ロイターは首相官邸幹部が、演習について安全保障上の必要性が高いとしたうえで、事件とは「分けて考える必要がある」との認識を示したと報じた。これは重要な論点である。刑事事件の捜査と処罰を徹底することと、我が国の防衛に必要な訓練を実施することは両立し得る。どちらか一方を軽く扱う必要はない。
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| 住宅地と隣接する沖縄の米軍基地。基地負担と抑止力が共存する現実 AI生成画像 |
もちろん、沖縄が大きな基地負担を背負っている現実も直視しなければならない。2026年版防衛白書によれば、2026年1月1日時点で全国の在日米軍専用施設・区域の約70%が面積ベースで沖縄県に集中し、県面積の約8%、沖縄本島の約14%を占める。負担軽減は政府自身が取り組むべき課題と位置付けている。実際、「Keen Sword 27」でも普天間飛行場所在のMV22(オスプレイ)の訓練を霧島演習場と種子島へ移す計画であり、これは沖縄の訓練負担軽減を目的とする措置である。防衛省「沖縄県外への訓練移転」
しかし同じ防衛白書は、沖縄が朝鮮半島や台湾海峡に近く、約1,200キロに及ぶ南西諸島のほぼ中央にあり、我が国の重要なシーレーンにも隣接する戦略上重要な位置にあると説明する。そのうえで、高い機動力と即応性を持つ米軍の駐留が日米同盟の実効性と抑止力を高めているというのが政府の公式見解である。
したがって、基地の整理・統合・縮小や訓練移転によって沖縄の負担を軽減することと、在沖米軍の軍事的機能そのものを失わせることは同義ではない。仮に在沖米軍の大幅な撤退を求めるのであれば、その機能を何が代替するのかまで示さなければ安全保障政策として完結しない。自衛隊を増強するのか、米軍をグアムなどへ分散させながら即応性を維持するのか、日米共同運用を別の形で強化するのか。それを考えず「撤退」だけを論じれば、力の配置が変わった後に何が起きるかという問いが抜け落ちる。
3️⃣フィリピンとイラクが示した「力の空白」
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| フィリピンとイラクの事例で見る、米軍撤退後の「力の空白」 クリックすると拡大します |
米国はかつてクラーク空軍基地やスービック海軍基地など、フィリピンに大規模な軍事拠点を置いていた。1991年、フィリピン上院が基地使用を延長する条約案を否決した。クラーク基地は同年のピナトゥボ山噴火で大きな被害を受けており、米国は同基地を放棄した。最終的に米軍の撤収は1992年11月24日に完了した。なお、米比相互防衛条約まで廃止されたわけではない。米国務省「Philippines Background Notes」
その後、中国は1994年末に南シナ海のミスチーフ礁を占拠し、1995年に施設建設がフィリピン側に明らかになって大きな外交問題となった。CSISは、米軍撤退後に米比同盟の戦略的重要性が低下していた時期に起きたこの占拠を、両国が安全保障関係を再評価する契機の一つとして位置付けている。CSIS「The Transformation of the U.S.-Philippines Alliance」
2016年の南シナ海仲裁判断では、ミスチーフ礁はフィリピンのEEZと大陸棚の範囲内にある低潮高地であり、中国がフィリピンの許可なく人工島や施設を建設したことはフィリピンの主権的権利を侵害したと判断された。常設仲裁裁判所の南シナ海仲裁事件ページ この判断の内容は米国務省も確認している。米国務省「U.S. Position on Maritime Claims in the South China Sea」
ここで因果関係を単純化してはならない。米軍基地の撤収だけを理由に、中国がミスチーフ礁へ進出したと断定することはできない。中国の長期的な海洋進出戦略、当時のフィリピン軍の能力不足、冷戦終結後の地域情勢など複数の要因があった。しかし、大規模な米軍常駐が消えたことによって地域の軍事的環境が変化したことも無視できない。撤退は唯一の原因ではないが、抑止を構成していた一つの大きな要素が消えたのである。
その後、フィリピンは米国との安全保障協力を再び強めていった。1999年には訪問米軍地位協定(VFA)が発効し、2014年には防衛協力強化協定(EDCA)が結ばれた。さらに2023年には米軍がローテーション方式でアクセスできるEDCA対象拠点が4か所追加され、従来の5か所と合わせて9か所となった。米国防総省「Philippines, U.S. Announce Locations of Four New EDCA Sites」
もう一つがイラクである。米軍は2011年末に主要部隊を撤収した。しかし、その後、マリキ政権によるスンニ派の疎外、治安機構の政治化と弱体化、腐敗、シリア内戦などが重なり、ISISが勢力を急速に拡大した。2014年にはモスルを制圧し、米国は対ISIS作戦のため再び軍事介入することになった。CSISの分析も、マリキ政権の統治失敗を重視すると同時に、2011年の米軍撤退後に助言・支援能力が失われ、ISISがその環境を利用したことを重要な要素として挙げている。CSIS「Resurgence of al Qaeda in Iraq」 CSIS「Correcting America's Grand Strategic Failures in Iraq」
ここでも「米軍が撤退したからISISが台頭した」とだけ説明すれば誤りである。しかし、「撤退以外にも原因があった」ことと、「撤退の影響は小さかった」ことも同じではない。米軍が担っていた助言、情報、訓練、抑止などが急速に縮小した一方、イラク側の統治能力と治安能力が十分に確立していなかった。その空白をISISが利用したという評価には相応の根拠がある。
しかもこれは過去の話だけではない。米中央軍は2026年9月30日、エルビル空軍基地から米軍部隊と装備の撤収を完了し、イラク国内における「生来の決意作戦」の任務が終了したと発表した。ただし、これは米国とイラクの防衛関係そのものの終了ではない。米中央軍は米・イラク2国間の防衛関係への計画的移行と位置付け、対ISIS任務はヨルダンに司令部を移したうえでシリアなどで継続するとしている。米中央軍「U.S. Forces End Operation Inherent Resolve Mission in Iraq」
フィリピンとイラクは国家体制も脅威も全く違う。それでも共通する教訓はある。軍事力を引くとき、本当に問われるのは「撤退するか」だけではなく、「撤退した後を何が埋めるのか」である。
「沖縄から米軍が撤退すれば、一番喜ぶのは中国ではないか」という言い方がある。この言葉を感情的なスローガンで終わらせてはならない。問うべきなのは軍事的な中身である。防衛白書が示す通り、沖縄は台湾海峡や南西諸島、大陸から西太平洋へのアクセスを考えるうえで戦略上重要な位置にある。現在そこに存在する米軍の機動力と即応性が、何の代替措置もなく大幅に失われれば、中国側が直面する軍事上の制約を緩める方向に働く可能性はある。だからこそ基地縮小を論じるなら、同時にその機能をどう補うのかを論じなければならない。
結論 被害者への哀悼と国家の安全を、どちらも軽く扱わない
今回の事件で何より先に考えるべきなのは、亡くなられた方とご遺族である。安全保障論を持ち出して事件を相対化することがあってはならない。捜査を尽くし、犯罪事実が立証されれば日本の法に基づいて厳正に責任を問う。米軍にも綱紀粛正と実効性ある再発防止を求める。沖縄の過重な基地負担を軽減する努力も続けなければならない。
しかし、それと「在沖米軍をどうするか」という国家安全保障上の判断は、同じ問いではない。
フィリピンでは米軍の大規模基地撤収後、南シナ海をめぐる安全保障環境が変化し、その後、米比軍事協力は別の形で再び強化された。イラクでは米軍撤退だけで説明できない複数の要因があったものの、十分な統治・治安能力が整わない中で米軍の支援機能が失われ、ISISが生まれた空白を利用した。いずれも、「撤退した後を誰が埋めるのか」を考えない軍事的縮小にはリスクが伴うことを示している。
沖縄でも、米軍人による犯罪には厳正に対処する。基地負担は減らす。地位協定の運用に改善すべき点があれば改善する。しかし、在沖米軍の抑止機能を縮小するのであれば、自衛隊の能力増強や米軍の分散配置など、代替する抑止態勢を同時に構築する必要がある。
犯罪への怒りと安全保障上の判断を混同しないことである。被害者への哀悼と、国民の命、領土、シーレーンを守る国家の責任は、どちらか一方を選ぶ問題ではない。
どうすれば事件を減らせるのか。どうすれば沖縄の負担を減らせるのか。そして、それを実現しながら我が国の周辺に新たな「力の空白」を生じさせないためには何が必要なのか。
今回の事件を一過性の政治論争で終わらせないために、問うべきなのはこの3点である。
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