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2018年5月1日火曜日

「公共の場所に像を設置し、日本を侮辱すべきでない」と明言 ドゥテルテ比大統領の慰安婦像撤去に称賛の声―【私の論評】中国や韓国のように日本を悪魔化し国民の憤怒のマグマをそらす必要のない国フィリピン(゚д゚)!

「公共の場所に像を設置し、日本を侮辱すべきでない」と明言 ドゥテルテ比大統領の慰安婦像撤去に称賛の声


ドゥテルテ氏の意向で撤去された慰安婦像=昨年12月

 フィリピンのロドリゴ・ドゥテルテ大統領が、同国の「良心」を示した。首都マニラに設置されていた慰安婦を象徴する女性像が撤去されたことについて、「公共の場所に像を設置し、日本を侮辱すべきでない」と明言したのだ。ネット上では、ドゥテルテ氏に対し、「大統領偉い!」「感動した」などと、称賛の声が上がっている。

 地元メディアによると、ドゥテルテ氏は4月29日の記者会見で、「日本は多くの代償を払い、賠償は何年も前に始まっている。他国を敵に回すことは、政府の方針ではない」とも述べた。

 女性像は、地元の華人団体が昨年12月に設置した。翌月、マニラを訪問した野田聖子総務相が「遺憾」を表明するなど、日本政府からフィリピン側に働きかけを強めていた。

 女性像は、マニラ市と公共事業道路省が4月27日夜、ショベルカーで撤去し、台座や記念碑板も持ち去った。日本政府関係者には、女性像の再設置や移転は行われないとの連絡があったという。

【私の論評】中国や韓国のように日本を悪魔化し国民の憤怒のマグマをそらす必要のない国フィリピン(゚д゚)!

本日は、女性像の撤去に関する追加情報などもあまりありませんので、フィリピンについて気になるところを掲載します。

ドゥテルテは日本のメディアのなかでは「フィリピンのトランプ」と称されることが多いのですが、これは完璧な間違いです。

富の象徴トランプタワー トランプ氏の自宅も入っている

この二人の「自宅」をみれば一目瞭然です。トランプ氏は大統領になってからは、無論のことホワイト・ハウスに住んでいますが、元々自宅はあのトランプタワー内にあります。これは、日本でも内部などが公開されているので、ご存知の方も多いと思います。

大富豪・トランプ氏にふさわしい大邸宅です。一方ドゥテルテ氏の自宅は、質素で超庶民的な造りです。ドゥテルテの父親は弁護士で州知事、母親は学校の先生です。フィリピンのなかでは上流階級に属するので彼の実家は立派な建物です。でも、トランプの豪邸と比較できるようなものではありません。

ドゥテルテ氏の自宅前で記念撮影をする人々 観光スポットになっている

さらに、二人は政治家実績がこれまた対照的です。ドゥテルテは1986年にダバオの副市長になり、その後、同じダバオで九選近く市長職を勤めてきた経験と実力を併せ持った政治家です。一方のトランプは政治家としての大統領になる前まではゼロです。

さらに、国民からの支持も違います。ドゥテルテは2016年の大統領選挙で2位のロハスに700万票の差をつけて圧勝しています。トランプは一般投票では、ヒラリーに200万票以上負けています。就任時の支持率は40%少しで、歴代の大統領のなかでも最悪の状況からスタートしています。

このように何から何まで二人は違っています。日本のマスコミは韓国の文在寅大統領のことも「韓国のトランプ」と評したりしていました。そもそも、このブログでも何度かしてきしきたように、日本のマスコミのトランプ大統領の評価は間違っています。

日本の近隣諸国の中でも一番戦争被害をこうむったフィリピンですが、中国や韓国と違い、今では親日的です。

なぜそうなったかといえば、まずはマルコス政権時代には、日本とフィリピンは反共同士ということもあって両国の関係が発展したということがあります。また、その間にルバング島で小野田寛郎さんが発見されるなどのエポックな出来事もありました。

それで少しずつ融和的になっていきました。さらに、フィリピンはカトリック教国です。そのカトリックの「赦しの思想」といったものが根底にあると考えられます。

ただ、一番大きいのは、戦争中にフィリピンは日本に「やり返し」ていることです。フィリピンは75余万の日本軍相手に米軍とともに戦って日本軍を追い出しています。フィリピン側の被害も多かったのですが、とにかくフィリピン人が犠牲をはらって日本軍を追い出しているのです。

これに比較すると、中国はやられっぱなしで終戦していますす。蒋介石は援蒋ルートで米英ソから援助を受けておきながら、最後まで日本軍に対し大反攻できませんでした。

中共は、第二次世界大戦中は大陸各地を国民党軍から逃げ回り、第二次世界大戦直後よりようやく数年立ってから国民党軍を台湾に追い出して現在の中華人民共和国を建国しました。日本と直接戦争をしたこともありません。

また、韓国はどちらかというと日本と一緒に戦っていた側ですから、こちらも一度もやり返していません。韓国は、一度日本から米国の統治に委ねられ、米国から独立しています。日本から直接独立したわけではありません。フィリピンは、一度は日本軍にやられましたが、「やり返して勝っている」というのが人々の気持ちの根底にあります。

それがあるから「赦そう」というふうになるのでしょう。中国や韓国は本当の意味での戦勝国ではありませんが、フィリピンは真の戦勝国なのです。もちろん、その他の要因として、さまざまな民間交流とかODA等いろいろな要員がありますが、根本的には自分たちの血を流して力で「日本に勝っている」という気持ちが、大きく作用していると思います。

自力で勝った国と、勝てなかった国のコンプレックスは、人々の精神の根底に強い影響を残していると思います。

1992年のフィリピンからの米軍が撤退しました。戦前・戦後の一時期、クラークフィールドは極東最大の米軍基地でしたが、ご存じのように1992年にそこから米軍が出ていきました。その跡地が今ではクラーク経済特区になっていて、カジノ、病院、ショッピングモールなどの施設がたくさん造られています。

米軍撤退がハッピーエンドに行われたのか、というとそういうわけでもありません。街には相変わらず娼婦がいます。彼女らのお相手が米軍兵から外国の観光客に変わっただけであって、格差の構造は以前と変わっていません。

これは非常に大きな問題だとは思います。今でもクラークフィールドまでマニラの中心部から鉄道が繋がっていないです。だから、ここはまだ建設途中の街といえるかもしれません。

考えてみると、今から25年も前に「アメリカは出て行ってくれ」と言ったために、フィリピンの近くの南シナ海の環礁が埋め立てられ中国の基地となってしまうきっかけになったと思います。これは、過去のフィリピンの大失敗でした。

日本でも、沖縄で市民運動家が基地反対運動をしていますが、本当に沖縄から米海兵隊が完璧に引き上げれば、尖閣諸島や東シナ海に中国が進出してきて、それこそ南シナ海の二の舞いとなることでしょう。

「近くて遠い国」という言い方があります。昔は韓国や中国に対してそんな言い方をしていましたが、今はフィリピンのことを指すのに適当ではないかと思います。フィリピンと日本は、歴史的にもいろいろと関係し合ってきました。日米戦争でも日比間ですさまじい戦闘が行われました。そんな関係の深い国なのですから、今のように簡単に素通りさせてはいけないです。

私は、これからはフィリピンの時代だと思います。マニラだったら空路を使えば日本から約5時間足らずで行けますから。「アジアの盲点・フィリピン」を埋めていくことが、日本にとって今、いちばん必要なことだと思います。

そうして、何よりもドゥテルテ大統領が、慰安婦像を撤去して日本に配慮を見せたことに注目すべきです。

ドゥテルテ大統領

中共も韓国も、日本と戦ったことがないので、フイリピンのように自分たちが血を流しては勝てなかったというコンプレックスがあります。さらに、中共も、韓国も、フィリピンよりは経済的には恵まれていますが、政府による統治がフイリピンに比較すれば、劣っているので国民は常に不満が鬱積していて、統治の正当性を疑われています。そもそも、中共には選挙すらありません。さらに、最近では習近平が終身主席となる道がひらかれ、実質上の皇帝になってしいました。

国民の不満の鬱積をかわすためには、ことさら日本を悪者にしたてて、国民の煮えたぎる憤怒のマグマを日本に向けさせる必要があるのです。

しかし、フィリピンは違います。先にも述べたように、ドゥテルテは2016年の大統領選挙で2位のロハスに700万票の差をつけて圧勝しているのです。中国や韓国のように日本をことさら悪者に仕立てて、国民の憤怒のマグマをそらす必要などないのです。

中国や韓国は、慰安婦像などを設置して、国民に日本を悪魔であると印象操作をして、国民の憤怒のマグマを自分たちが浴びないようにする必要があるのですが、フィリピンではそのようなことをわざわざしなくても、選挙によって十分に統治の正当性が得られているのです。

日本も同じことです。連合国に最終的には戦争に負けたというコンプレックスはありながらも、三年半にもわたり米国を筆頭とした連合国と戦争を継続し、緒戦では勝利を治め、敗戦後には結果として、大東亜戦争の大義でもあった、アジアから西欧諸国の植民地はなくなりました。

だから、日本は中国や韓国のような重度のコンプレックスに見舞われているわけではありません。そういう意味では、日本は中国や韓国よりも、フィリピンに近いということがいえます。

韓国や中国が慰安婦像、女性像を設置するのに血眼なのに、フィリピンは今回撤去したことことは、象徴的です。

日本は、これから中国や韓国とかかわるくらいなら、フィリピンに多いに関わっていくべきと思います。

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2016年10月26日水曜日

【スクープ最前線】ドゥテルテ比大統領、米国憎悪の真相 CIAによる暗殺計画の噂まで浮上―【私の論評】歴史を振り返えらなければ、米国への暴言の背景を理解できない(゚д゚)!

【スクープ最前線】ドゥテルテ比大統領、米国憎悪の真相 CIAによる暗殺計画の噂まで浮上

握手するドゥテルテ比大統領と、安倍首相
「暴言王」こと、フィリピンのドゥテルテ大統領が25日午後、来日した。26日に安倍晋三首相との首脳会談に臨み、27日に天皇陛下に拝謁する予定だ。ただ、ドゥテルテ氏は先週の中国訪問で、「対中接近」「米国離反」の姿勢をあらわにし、東アジアの平和と安定を危機的状況に追い込んだ。ドゥテルテ氏の過剰な反米感情の背景と、中国とロシアによる狡猾な情報戦とは。ジャーナリストの加賀孝英氏が緊急リポートする。

「日比首脳会談がどうなるか。南シナ海だけでなく、東アジアの行方が決まりかねない。米国をはじめ、世界各国が注視している」

旧知の米政府関係者はこう語った。その懸念は当然だ。

ドゥテルテ氏は18日から21日まで訪中し、習近平国家主席と20日、首脳会談を行った。同日のビジネス会合での演説では、「軍事的にも経済的にも米国と決別する」と、同盟国である米国が驚愕する宣言を行った。一番喜んだのはもちろん習氏、中国だ。

翌21日、共同声明が発表された。ご存じのように、中国は南シナ海で軍事的覇権を拡大し、世界各国から「無法国家」と批判されている。だが、ドゥテルテ氏は南シナ海問題で大幅に譲歩し、総額240億ドル(約2兆5000億円)相当の経済協力を得る見通しとなった。破格の大盤振る舞いである。

中国外務省の華春螢報道官は同日の定例記者会見で、「南シナ海問題は2国間対話の正しい軌道に戻った」と勝利宣言した。中国共産党機関紙・人民日報系の環球時報も同日の社説で「中国とフィリピンは再び抱擁した」「(日米など諸外国)外部は南シナ海を放棄しろ」とまで書いた。

何たることか! これでは、「ドゥテルテ氏が米国を裏切り、中国の札束攻撃の前に屈した」と思われても仕方ないではないか。

日本の外務省関係者はこう説明する。

「現在、ドゥテルテ氏の真意について、日米両国は情報収集と分析を急いでいる。日米や世界各国はこれまで、中国の南シナ海での暴挙に対して『国際法の順守』と『航行の自由』を求めてきた。だが、当事国のフィリピンが寝返ったとなれば、すべての戦略を見直さなければならない」

実は、とんでもない情報がある。なぜ、ドゥテルテ氏が米国を憎悪するのか。以下、複数の米軍、米情報当局関係者から得た情報だ。

「ドゥテルテ氏は容赦のない『麻薬撲滅運動』を展開しており、麻薬密売人など数千人が殺害されている。オバマ米大統領がこれを『人権問題だ』として非難したことが、関係悪化を深めた。加えて、混乱の中で『ドゥテルテ氏が自分の政敵を殺害した』というデマが流された。発信地は中華街のようだが、ドゥテルテ氏は『米国が流した』と思い込んだ」

「中国は、南シナ海の島々を軍事基地化しながら、ASEAN(東南アジア諸国連合)諸国に、裏ですさまじい圧力をかけた。米国はそれを知りながら、島の近くに駆逐艦を航行させるぐらいしか手を打たなかった。『米国は頼りにならない』『中国についた方が得ではないか』と考える国が増えた」

決定的なのは、ドゥテルテ氏の暗殺計画情報だ。

ドゥテルテ氏は今月7日、地元・ダバオで就任100日目の演説を行った。CIA(米中央情報局)が画策する失脚工作や暗殺計画の噂に触れ、オバマ氏を罵倒して、「やれるならやってみろ!」と挑発した。衝撃情報はこう続く。

「CIAによる暗殺計画の噂は9月に流された。発信地はロシアに近い情報筋とみられている。今年7月にトルコでクーデター未遂が起きたときも、ロシアはいち早く、トルコのエルドアン大統領に暗殺危機を知らせ、同国を『反米親露国』に劇的に変えた。構図はそっくりだ」

フィリピンの事情に詳しい大使経験者がいう。

「ドゥテルテ氏は大の親日家だ。『最初の外国訪問は日本に』と固く決めていた。それを中国にひっくり返された。日本外務省の大失態だ。日本が先なら、こんな事態にはなっていない。だが、『ドゥテルテ氏が中国に寝返った』とみるのは、早計で失礼だ。彼は愛国者で戦略家、そして策士だ。だから、(中国嫌いが多い)国民の90%前後が支持している」

ドゥテルテ氏は22日、ダバオでの記者会見で、記者から外交政策について聞かれ、「米国との決別とは、外交関係を断ち切る断交ではない」「(ただ)外交政策は米国と完全に一致する必要はない」と説明した。

安倍首相との首脳会談について聞かれると、「協議の多くは経済協力についてだ」といいながら、南シナ海問題についても「平和的に話をし、課題を解決して、良い方策を考え出すことで合意できる」と語った。

世界が日比首脳会談を注目している。フィリピンを自由主義陣営に引き留めなければならない。安倍外交の神髄を見せてほしい。

加賀孝英(かが・こうえい)

【私の論評】歴史を振り返えらなければ、米国への暴言の背景を理解できない(゚д゚)!

上の記事では、フイリピンの過去の歴史については全く触れられていません。無論、この記事を書いた加賀孝英氏は、それについて熟知していると思います。しかし、この記事の中に歴史まで含めてしまうと、記事が長大になってしまうため、敢えてそうしなかったのでしょう。

現在の日本人の多くは、フイリピンの歴史を知らないのではないでしょうか。そうして、日本マスコミもこれに関してはほとんど報道しません。しかし、これを知ればなぜドゥテルテ大統領がアメリカのオバマ大統領にあのような暴言を吐いたのか、かなりの程度理解できます。

そうして、かつてフイリピンがアメリカ軍を国内から撤退させたのかも理解できると思います。無論この完全撤退は中国の南シナ海への進出を促したという点では失敗であったことにはかわりはありません。おそらく、フイリピンの左翼系が、フイリピンの歴史を利用して、この撤退を促したのだと思います。

しかし、フイリピンの過去の歴史を知れば、なぜこのようなことになったのか、そこにはそれなりの背景があるということに気づくはずです。

以下に、大雑把にフイリピンの歴史を振り返っておきます。関心のある方は、もっと詳しい資料にあたって頂きたいと思います。

■フイリピンの歴史概要■

まだ、フィリピンが大陸と陸続きであった時代、フィリピンにはネグリト族などが住んでいたといわれています。どれくらい昔から住んでいたのかは正確にはわからないのですが2万年くらい前からではないかといわれています。

その後、島々が大陸から離れてからは新石器の技術を持った原始マレー人が住み、紀元前2000年~紀元前1500年頃には水田農耕文化を持った古マレー人が、紀元前500年頃からは新マレー人が移住して定住を始めるようになりました。

14世紀頃になると中国、東南アジア、インド、中東を繋ぐ航路上で海上貿易を行っていたイスラム商人たちが盛んに訪れるようになり、フィリピンにもイスラム教が広まりました。また、スールー諸島からミンダナオ島西部にはスールー王国やマギンダナオ王国といったイスラム教国の王であるスルタンが支配する国家も成立しました。

■スペイン植民地時代

1521年。フィリピンにフェルディナンド・マゼランという人物がスペイン船団を率いてやってきました。彼らは、現地の人々にキリスト教への改宗やスペイン王国への忠誠を要求し部族長を次々に服従させていきました。しかし、イスラムの部族長ラプ・ラプはこれを拒絶。スペインと住民の間で争いが起きました。この争いに勝利したのはラプ・ラプ。スペイン船員らは戦いに敗れてマゼランも戦死してしまいました。

しかし、その後もスペインはフィリピンに向け攻撃を仕掛け続けました。1542年に艦隊で襲撃。しかし、これも失敗。1565年にはミゲル・ロペス・デ・レガスがセブ島を落とすことにやっと成功。1570年には彼の孫がマニラを制圧。翌年、フィリピンはスペイン領であることを宣言するとこの地はスペインの副王領であるメキシコ政府の統治下に入ることになりました。

17世紀に入ると政治的にスペインと対立していたオランダの攻撃や華人の反乱が起き、1762年にはフィリピンとの間で密輸を続けてたイギリス東インド会社によりマニラが占領されました。このイギリスによるマニラ占領は2年間でイギリスは撤退したのですが、当時勢力を拡大していたイギリスは1809年にマニラに商館を建設。ところが、イギリスが清の攻略に乗り出していたこともありフィリピンを領有することはありませんでした。

スペインは、1821年にメキシコ独立戦争に敗北。副王領が廃止されるとフィリピンはスペイン本国の直接統治下に置かれることになりました。

1565年からフィリピンはスペインの植民地となっていたのですが、それは1898年まで続きました。1898年の米西戦争(アメリカとスペインがキューバを舞台に戦争)が始まるまで続きました。

アメリカ海軍の巡洋艦「U.S.S.ローリー」現在はペンシルベニア州フィラデルフィアのインディペンデンス・シーポート・ミュージアムで、現存する唯一の米西戦争を経験した艦として公開されている。
■アメリカ植民地時代

当時は、フィリピン国内にて独立を目指し運動を起こす人が大勢いました。アメリカはそこに目をつけ、フィリピンに独立の支援を約束し、見返りに戦争に協力をしてくれるように要請しました。フィリピンの革命家たちは軍を組織してフィリピンに駐留しているスペイン軍と戦い勝利。1898年6月12日にフィリピンは独立を宣言し国歌と国旗を定めました。

これで長かったスペインからの支配に終止符を打ったと、思いきや、フィリピンはアメリカに見事裏切られてしまいました。

アメリカはスペインとの間で2千万ドルを支払うことでフィリピンを譲り受けることになったのです。これに怒ったフィリピン側はアメリカとの戦争を決意しました。アメリカが初代総督として派遣したのは、あの有名なダグラス・マッカサーの父、アーサー・マッカーサーでした。

この戦いでは、フイリピン人の犠牲者が多く発生しました。たとえば、1901年9月28日、サマール島でバランギガの虐殺が発生。小さな村でパトロール中の米軍二個小隊が待ち伏せされ、半数の38人が殺されました。アーサー・マッカーサーは報復にサマール島とレイテ島の島民の皆殺しを命じました。少なくとも10万人は殺されたと推定されています。

マッカーサーはアギナルド軍兵士の出身者が多いマニラ南部のバタンガスの掃討を命じ、家も畑も家畜も焼き払い、餓死する者多数と報告されました。アメリカ軍は、フィリピン軍を次々に撃破すると1901年にフィリピンの英雄アギナルドを捕らえアメリカに忠誠を誓わせ休戦となりました。
アーサー・マッカサー(左)とダグラス・マッカーサー(右)
1915年にはスペインからの統治からはまぬがれていた南部のイスラム・スルタン国家にもアメリカは支配の手を伸ばしました。フィリピン諸島を完全に支配下に取り込んだのでした。

しかし、その後フィリピンを統制する上でアメリカは柔軟な政策も見せるようになりました。将来的にはフイリピンを独立させることを約束したのです。

1916年には、フイリピンをフィリピン人が統治するアメリカの自治区にするという、フィリピン自治法が制定されました。フィリピン人の閣僚なども登用されました。この頃には公教育で英語が教えられ1934年にはフィリピン独立法が可決され、ついに1946年までにフイリピンを独立させることがアメリカによって約束されました。

1935年には現地生まれのマニュエル・ケソンが大統領に就任しました。

■日本によるマニラ制圧

しかし、フィリピンの苦難は続きます。太平洋戦争の勃発です。1942年に日本軍はマニラを制圧。すると日本はフィリピンの人々の心を掴むために1943年ホセ・ラウレルを大統領とするフィリピン第二共和国の独立を認めました。

マニュエル・ケソン氏は日本がマニラを制圧したときにアメリカに亡命していました。そして、日本は日本よりのホセ・ラウレル氏を大統領に据えたのです。


大東亜会議に出席したホセ・ラウレル大統領(右から二人目)(1943年東京)
しかし、この政権は長く続きませんでした。ラウレルと日本はフイリピンをめぐる政策で仲違いしたことと、ラウレル自身も、民衆の支持を広く得ることはできなかったのです。さらに、ラウレル政権は戦前からの地主支配の継続を認めたためにフィリピン親日勢力の離反を招き、ラウレル政権側も日本との協力を拒否する姿勢をとったため、日本は1944年12月にベニグノ・ラモスとアルテミオ・リカルテをはじめとするフィリピン独立運動家達によって設立されたフィリピン愛国連盟(マカピリ)を新たな協力者としました。

1945年には、マニラの戦いが行われました。これは、第二次世界大戦末期の1945年2月3日から同年3月3日までフィリピンの首都のマニラで行われた日本軍と連合軍の市街戦のことを指します。日本軍は敗れ、三年間に及んだ日本のフィリピン支配は幕を閉じました。

このマニラの戦いでは、市民70万人が残っており、10万人もの死者をだしたとされています。市民の犠牲者について、単に市街戦の巻き添えになっただけでなく日本軍によって抗日ゲリラと疑われた市民が虐殺されたとされています。山下大将は市民虐殺についての責任を問われてマニラ軍事裁判で裁かれ、絞首刑となりました。ただし、大岡昇平氏の『レイテ戦記(下)』20版 中央公論新社〈中公文庫〉、1999年、309頁によれば、「米軍の行ったマニラ破壊を日本軍に転嫁するため」との見方をしています。
マニラの戦いで崩壊した市内
1945年には日本が太平洋戦争に敗戦。日本がフィリピンから撤退すると1946年に選挙が行われマニュエル・ロハスが大統領となりフィリピンは共和国(第三共和国)として独立を果たすことになりました。
■マルコス大統領の登場

1965年に大統領に就任したのがフィルディナンド・マルコス大統領。イメルダ夫人も有名です。高級ブランドの靴を3000足も持っていたといわれています。

マルコス大統領は、当初失業率の減少などに貢献したのですが、やがて独裁政権を打ちたて国家資産を横領したりしました。1983年には、アメリカに亡命していたベニグノ・アキノ上院議員が民主化推進の為、帰国を決意。しかし、彼は到着し飛行機を降りた途端に射殺されてしまいました。

この様子はテレビでも報道されたのですが、本当に飛行機を降りた直後でした。飛行機を降りるときにタラップが渡されますが、この階段を降りきったか、もしくは階段を下りている途中に射殺されてしまいました。この様子は世界中に報道されマルコス政権に大打撃を与えました。


ベニグノ・アキノ氏


その後、1986年の選挙では、暗殺されたアキノ上院議員の妻であったコラソン・アキノが出馬。彼女が勝利したように思えたのですが、なぜか発表ではマルコスの圧勝しました。しかし民衆は猛反発し、やがてマルコスはハワイへ亡命せざるをえなくなります。

その後、コラソン・アキノ氏が大統領に就任。フィリピンを民主化へと導いていくことになりました。

以上フイリピンの歴史をざっと振り返りました。この歴史を振り返れば、ドゥテルテ氏がオバマ大統領に対して悪態をつくというのもわかるような気がします。

私の知人であるフィリピン人は、「フィリピンの不幸は、日本じゃなくて、アメリカの植民地になった事だ」と語っていました。ことわっておきますが、彼は決してドゥテルテ氏のようなタイプではなく、大学院を卒業し英語も流暢な知的なタイプです。

彼の考えを以下に簡単にまとめます。
マッカーサーは搾取しか考えていなかった。しかし日本に比較的長い間統治されたインドネシアやマレーシアは、あのように発展している。韓国や台湾などは、日本が本格的なインフラ整備と産業拠点を置いたために、今や先進国の仲間入りをしたような状況である。

18世紀に、フィリピンよりも劣等国だった韓国が、日本のインフラと教育で、あれだけ発展できた。今やインドネシアやマレーシアは、既に先進国に見える。タイはまがりなりにも、日本に独立を認められ日本の統治はなかった。だからそれ以下の発展しかしていない。

日本がフィリピンに対し、インフラや教育を十分行える位の期間フイリピンが日本に統治されていたら、今頃どれだけ素晴らしくなっていただろう。絶対にインドネシアやマレーシア以上だったに違いない。
非常に筋の通った論理です。このような考えをする、知識層もフイリピンでは多いのではないかと思います。

日本国内では、フイリピンは、マニラの市街戦による死傷者が多かったことや、バターンの死の行軍などで、フイリピン人は反日との思い込みもあるようですが、これは戦後のアメリカのプロパガンダによるものもかなり影響しているものと思います。

ドゥテルテ氏は、戦後日本の経済協力やイスラム武装勢力との和平協議支援などを高く評価し、親日家とされています。東日本大震災では、海外の自治体の中でいち早く被災者受け入れを表明しました。日本の戦没者供養などにもよく顔を出し、13年には日本人墓地に記念碑を建立。家族旅行で来日していいます。(産経ニュース「ドゥテルテ比大統領、「親中」「反米」そして「親日」」10/24)

さて、ドゥテルテ氏、米国離反、中国接近の姿勢をみせていますが、フイリピンの中国接近は、日本にとっても脅威ですし、フイリピンが完璧に中国の傘下に入ってしまうことになれば、安倍総理の日本の安全保障政策、そうしてアメリカのそれも根本から見直しを迫られることになります。それだけではありません。両国とも、この戦略見直しには莫大な経費と労力と時間を強いられることになります。

まさに、今回のドゥテルテ比大統領との会談は、安倍総理の外交手腕が問われるものとなります。

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