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2015年12月26日土曜日

【ニッポンの新常識】SEALDsだからおかしい、との主張に私は与しない―【私の論評】誰が正しい間違いという考え方は、そもそも大間違い!成功は対立の中にある。自分と違う意見の人を見つけて、あえて議論せよ(゚д゚)!


ケント・ギルバート氏
今年、最後のコラムである。昨年11月に夕刊フジの集中連載「反撃せよ! ニッポン」を担当し、2月にこの連載がスタートした。その後、「産経新聞」や「正論」「Voice」「新潮45」「WiLL」など、2015年は数多くの活字メディアに私の記事が掲載された。

 共著を含む書籍は4冊刊行され、『まだGHQの洗脳に縛られている日本人』(PHP研究所)は12刷に突入した。各関係者には、この場を借りてお礼を申し上げたい。

 在日米国人の視点が新鮮だったのだろうか。それとも、「憲法9条こそが憲法違反」のような発言が目立ったせいだろうか。ツイッターを中心に賛否両論、数多くの批評やご意見をいただいた。反応してくださった方々にもお礼を言いたい。

 少し気になる反応が2種類あった。

 1つ目は、学生グループ「SEALDs(シールズ)」や、女優の吉永小百合さんの話題を取り上げたとき、私の主張に賛同する側に多かったのだが、「何も分からない学生(芸能人)が、政治や軍事の問題に口を出すな!」という趣旨の反応である。私はこれに賛同しない。

 発言者の職業や肩書、学歴、年齢、性別などの属性を気にする人は、自分の中に明確な判断基準を持っていない可能性が高い。有識者の主張は無条件で受け入れるなど、流されやすく、プロパガンダにだまされやすい。「誰の主張か?」ではなく、「主張内容は合理的か?」を検証すべきだ。

 2つ目は、主に私の主張に賛同しない側の意見だが、「昔のケントはあんなことは言わなかった」という反応である。

 私がテレビに出始めたのは1983年、TBS系「サンデーモーニング」のレギュラー出演終了が97年だから、「昔のケント」とは、最低でも15年以上昔の私のことだろう。

 この15年で、世間はどれほど変化したのか。「9・11米同時多発テロ」や「アフガン戦争」「拉致被害者の帰国」「イラク戦争」「中国での反日暴動」「民主党政権誕生」「尖閣諸島の国有化」「東日本大震災」「第2次安倍晋三内閣発足」「朝日新聞による慰安婦大誤報の取り消し」「自称イスラム国(IS)台頭」「中国による南シナ海の岩礁埋め立て」「抗日戦争勝利70周年の軍事パレード」「パリ同時多発テロ」など…。

 インド独立の父、マハトマ・ガンジーは「明日死ぬつもりで生きろ。永遠に生きるつもりで学べ」との名言を残した。学習や変化、進歩を拒むのは個人の自由だが、私はさび付いた常識に基づいて生きるつもりはない。

 ということで、来年もよろしくお願いします。

 ■ケント・ギルバート 

【私の論評】誰が正しい間違いという考え方は、そもそも大間違い!成功は対立の中にある。自分と違う意見の人を見つけて、あえて議論せよ(゚д゚)!

ケント・ギルバート氏のブログ冒頭記事における、2つの主張に私は全面的に賛成です。第一の主張である、誰のいうことだから正しくないというような反応には、賛同しないというものです。

これについては、以前もこのブログに掲載したことがあります。

その記事のリンクを以下に掲載します。
民主など 首相の大阪でのテレビ出演に抗議―【私の論評】最初から誰が正しいか何が受け入れられるかで意思決定するな!すれば与野党ともドツポにはまる(゚д゚)!
詳細は、この記事をご覧いただくものとして、この記事では、いわゆる安倍嫌いの人々が、陥る意思決定のまずさについて掲載しました。

結論からいうと、意思決定の過程において、SEALsが言っているからとか、吉永小百合が言っているからとか、安倍総理が言っているから正しいとか、間違いとか、○○であるとの結論を出すことはそもそも、大間違いです。

誰が発言しようと、正しい場合もあるし、間違いの場合もあるのです。要は、誰の発言が正しいか、間違いかということを考えるのは不毛であり、何が正しいか、何が間違いかを考えることこそ、結果として正しい判断ができるということです。

この記事より、それに関連する部分を以下にコピペします。
最初から誰が正しいか何が受け入れられるかで決定してはならない 
この言葉の意味は重要です。この言葉を良く理解すれば、なぜ今の国会審議があれほどまでに、空虚で意味のないものになっているのかを良く理解できます。 
ドラッカー氏は、『経営者の条件』という書籍で以下のように述べています。 
意思決定の過程においては、まずは「誰が正しくて、誰が間違いか」などという論議すべきではなく、あくまで「何が正しくて、何が間違いか」という議論をすべきであって、そうでなければ、全く不毛な論議となってしまい、まともな意思決定ができなくなってしまうということです。 
いわゆる「安倍嫌い」は、最初から「誰が正しくて、誰が間違いか」という主張をしているに過ぎません。要するに、上のTweetで田中氏が述べているように、「自分と意見違うものはリンチという徹底した態度」ではまともな論議ができず、まともな意思決定もでなきないということてず。 
そのためでしょうか、国会での最近の安保法制の議論など、全くまともな議論になっておらず、国民にとっても理解しがたいものになっています。 
しかも、大方の政治家は、せっかくの意思決定も実行されなければ意味がないと思うものです。そのため、最初から落としどころとしての妥協を考えてしまいます。 
妥協には昔から知られているように2つの種類があります。1つは古い諺の「半切れのパンでも、ないよりはまし」、1つはソロモンの裁きの「半分の赤ん坊は、いないより悪い」との認識に基づくものです。 
前者では半分は必要条件を満足させる。パンの目的は食用であり、半切れのパンは食用となる。しかし、半分の赤ん坊では妥協にもなりません。
 「決定においては何が正しいかを考えなければならない。やがては妥協が必要になるからこそ、最初から誰が正しいか、何が受け入れられやすいかという観点からスタートしてはならない」
ラファエロ作『ソロモンの審判』
『ソロモンの審判とは、』旧約聖書に出てくる話であり、イスラエルの賢王ソロモンが、いかにも当時の絶対専制君主らしく、子を剣で半分に切って女二人で分けよと審判します。このような妥協ならしないほうがずっとましです。 
民主党などの野党は、とにかく「安倍嫌い」の立場から、安倍総理の主張は全く間違いであり、自分たちが正しいものとして、物事を考えているようです。そうして、そのスタンスで安倍総理に対峙するものですから、とにかく憲法解釈の変更による集団的自衛権に関わる、安保法制は違法として、安倍総理に対峙しようとします。 
そのため、全く話が噛み合いません。そうして、いずれ妥協の段階に入るとは思いますが、安倍総理の立場からすれば、民主党などの言うとおりに妥協してしまえば、まともな「戦争抑止法案」とはなりえず、それこそソロモンの裁きの「半分の赤ん坊は、いないより悪い」という結果を招いてしまい、とんでもないことになってしまうため、妥協はできません。そのため、無意味な審議は長引くばかりです。
ドラッカーは、何が受け入れられやすいか、何が反対を招くから触れるべきでないかを心配することは無益であって、時間の無駄だと言います。心配したことは起こらず、予想しなかった困難や反対が突然ほとんど対処しがたい障害となって現れるとしています。
以上のように、誰が正しいか、誰が間違いかを議論するのは、全くの間違いです。本当にやるべきは、何が正しくて、何が間違いかを議論することです。

だから、SEALDsが言っているからどうの、吉永小百合さんが言っているからどうの、安倍総理が言っているからどうのというのではまともな議論にならないのです。

しかし、世の中にはこれが理解できない人が、上下左右を問わず数多く存在するようです。

SEALsが言っているから間違いとか、安倍総理が言っているから最悪などという人達はそもそも、最初から意思決定を避けているようなものです。

本来は、SEALsの言っている「○○という主張は△△だから間違い」とか、安倍総理の語る「○○という主張は□□だから間違い」などと、エビデンス(証拠・根拠、証言、形跡)をあげながら、議論をしたり、意見を述べるならまともな議論になると思いますが、そうでなければ全く不毛です。

このように考えると、 SEALsの言う「安倍政治を許さない」なども全く不毛ですし、いきなり「戦争法案」というのも飛躍のしすぎで、お話にならないです。

SEALDsが言っているから、おかしいなどという言い方も全くお話にならないわけです。

そうして、このような議論をする人たちは、先にも示したように、いつも議論が十分でないため、妥協するにしても、「半分のパン」の妥協をするのではなく、「半分の赤ん坊」の妥協をすることになるため、いつも閉塞感に苛まされることになるのだと思います。

それともう一つ、意見の不一致のない意思決定は非常危険だということがあります。これについても、以前このブログに掲載したことがあります。
成功は対立の中にある。自分と違う意見の人を見つけて、あえて議論をする価値―【私の論評】ドラッカーも昔から主張する意思決定のための意見の不一致!増税決定の意思決定のように、皆が賛成する意思決定にはろくなものがない(゚д゚)!

"
ドラッカーは、上記のようなことをすでに数十年も前から主張しています。
 成果をあげる者は、意図的に意見の不一致をつくりあげる。そのようにして、もっともらしいが間違っている意見や、不完全な意見によってだまされることを防ぐ」(ドラッカー名著集(1)『経営者の条件』)
ドラッカーは、意思決定の過程では意見の不一致が必要だといいます。理由は三つあります。
 第一に、組織の囚人になることを防ぐためです。組織では、あらゆる者が、あらゆる決定から何かを得ようとします。特別のものを欲し、善意の下に、都合のよい決定を得ようとします。 
 そのようなことでは、小さな利害だけで決定が行なわれます。問題の理解抜きでのそのような決定の仕方は、きわめて危険です。
 第二に、選択肢、つまり代案を得るためです。決定には、常に間違う危険が伴います。 
 最初から間違っていることもあれば、状況の変化によって間違うこともあります。決定のプロセスにおいて他の選択肢を考えてあれば、次に頼るべきものとして、十分に考えたもの、検討ずみのもの、理解ずみのものを持つことができます。 
 逆に、全員一致で決めていたのでは、その決められたものしか案がないことになります。
 第三に、想像力を刺激するためです。理論づけられ、検討し尽くされ、かつ裏づけられている反対意見こそ、想像力にとって最も効果的な刺激剤となります。すばらしい案も生まれます。 
 明らかに間違った結論に達している者は、自分とは違う現実を見て、違う問題に気づいているに違いないと考えなければなりません。 
 もし、彼の意見が知的かつ合理的であるとするならば、彼はどのような現実を見ているのかを考えなければなりません。意見の不一致こそが宝の山です。意見の不一致が問題への理解をもたらしてくれます。 
 いかなる問題であれ、意見の不一致が皆無などということは、奇跡です。いわんや、四六時中奇跡を起こしているなどありえないと心得るべきです。それでは、社長が一人いればよいことになります。 
 後で不祥事となった行動の多くが、ろくに議論もされずに決められていることは偶然ではありません 
 「成果をあげる者は、何よりも問題の理解に関心をもつ」(『経営者の条件』)
 意見の不一致のない、意思決定は非常に危険です。それは企業内の意思決定についても同じです。無論、企業などの組織では、職位の高い人の意見が優先するのは当たり前のことです。しかし、職位の一番高い社長や会長の意見と、それ以下の人たちの意見がいつも一致するというようなことがあれば、それは全く異常なことです。何かが間違えています。

最終的に職位の最も高い人の意見に従うということにはなりますが、それでも職位の低い人も意見は述べるべきでしょう。上の事例では、意見の不一致があったときに、相手がどのような現実を見ているのかを知るべきとしています。

この場合、無論全く異なる現実を見ている場合もありますが、実は同じ現実みているにもかかわらよず、意見の不一致があるという場合もあります。

・・・・・・・・・〈略〉・・・・・・・・・

ドラッカーの著書にもGMの会長だったアルフレッド・スローンが、会議で反対意見が全くなかった場合は、この議論はまだまだ醸成されらおらず、よって次の機会にまた話し合うことにするとして、反対意見がでることを助長していたことが掲載されていました。

いつも会議で満場一致のようになる企業・政府などの組織、全くおかしいです。こんなことになるのは、独裁的であるか、あるいは無責任な経営者や政治家の集まりの組織以外にあり得ません。

意思決定において、反対意見が全くないとか、反対意見を言えるような雰囲気ではないという状況は最悪です。この面からみても、自民党の増税の意思決定は大失敗だったと思います。

憲法改正などの意思決定においても、たとえば、民主党、社民党、共産党の反対意見は、重要です。彼らのお花畑的な考えで、憲法解釈などしていたら、この日本というという国がとんでもないことになってしまうことが、目に見えるように理解できるので、ますます自信を深めることができます。

とにかく、どのようなことにでも、意思決定においては、意見の不一致は重要です。意見不一致が表面化しないような意思決定はまともなものではありません。私たちは、これを前提として、重要な意思決定をすべきです。
"

今年の安保法案の国会審議に関しては、おおいに反対意見が出ました。いや、というより、反対意見ばかりが多すぎでした。野党側など、ほとんど反対一辺倒だったというのも、非常に問題です。

何からなにまで反対で、「戦争法案」というレッテル貼りをしたということは本当に問題だったと思います。

それにしても、様々な反対意見が出ていたので、私自身にとっては安全保障についていろいろ考えるきっかけとなって良かったと思います。

特に、憲法学における京都学派の憲法解釈に巡り会えたのは大きな収穫だったと思います。それについては、このブログにも以前掲載したことがあります。その記事のリンクを以下に掲載します。
井沢元彦氏がSEALDsに意見 「9条を守れ」の主張は人権侵害―【拡散希望】主流派憲法学者の解釈を踏襲するな!京都学派の解釈に従えば、ほとんど現実世界と矛盾しない(゚д゚)!
井沢元彦氏(写真左)今年1月

詳細はこの記事をご覧いただくものとして、この記事の元記事で、井沢氏は「9条を守れ」の主張は人権侵害になる場合もあることを主張しています。

「9条を守れ」という主張が人権侵害にあたることを主張している部分のみ以下に掲載します。
 軍隊の必要性を認めた上で「憲法九条を守れ」と主張することは、極めて重大な人権侵害であることに君たちは気がついているのか? 「必要ない」と言うなら仕方がないが「必要」ならば、自衛隊及び自衛隊員は法治国家日本において正式な存在であるべきだ、しかし憲法九条は法律がなんと言おうと彼等の存在を否定している。だから憲法九条を守るということは、実は自衛隊員の地位と権利を正式なものとしては絶対に認めないということになる。 
これもわかりやすく時代劇にたとえようか。 
ある旗本の家、そこが突然武装強盗に襲われた。先代の嫡男である当主が撃退しようとしたが日ごろから武芸にはうとく、危うく殺されそうになった。そこへ颯爽と登場したのが側室の生んだ次男、つまり当主の弟である。次男の命をかけた奮闘で賊は撃退された。そして、あそこには強い用心棒がいるという評判が立ち賊も敬遠するようになった。何もかも弟のおかげである。 
ところが兄は感謝するどころかこう言う。「メカケの子のくせに図に乗るな、お前はあくまで日陰の存在だ。メシは食わせてやるが、名誉も地位も求めるな!」。 
どうです? ひどい兄だとは思いませんか? 人間のクズと言っても過言ではないだろう。 
しかし「憲法九条を守れ」と言うのは実はこれと同じことで、「自衛隊員よ、お前たちはあくまでメカケの子だ、引っ込んでいろ」と言っているに等しい。そのことに君たちは気がついているのだろうか? 
たぶん気がついてはいないのだろう。気がついているならばこんな態度をとるわけがない。瀬戸内寂聴さんや大江健三郎さんのような日本の良心と言われている人たちも気がついていないのだから仕方がない。本当の日本の歴史を知らないからだ。
 確かに、井沢氏の言うとおり、憲法9条が、すべての武力を保持することや、武力を行使するものという解釈をするなら、井沢氏の言うことは全く正しいです。

このブログでは、京都学派の憲法解釈にしたがって、憲法を解釈するとこのような矛盾ははなから存在しないことも掲載しました。

その部分を以下に掲載します。
佐々木惣一氏(ブログ管理人注:京都学派の重鎮)は、憲法9条は、国際紛争を解決する手段として武力を用いることを否定しているのであって、これ以外の自衛戦争まで禁じているわけではないと解釈しています。例えば、わが国が突如他国の侵略を受けることがあって、わが国を防衛するために、その他国に武力を以て対抗して、戦争をすることは、明らかにこれにこれを禁じているわけではないとしています。 
そんなこと憲法典(文書として書かれた憲法)には、一つも書かれてはいないから、それは詭弁にすぎないという人もいるかもしれません。しかし、憲法9条を端から端まで何度読んでみても、明らかに防衛戦争を否定するとは、はっきりとは書かれていません。 
このようなことをいうと、書かれていないからといって、書かれていないことが、なんでもできたらとんでもないこになてしまうから、そんなのは詭弁だというかもしれません。 
しかし、そんなことはありません。世界の多くの国々の憲法典でも、自衛権に関してはっきり明記しているものは多くはないです。それは、自然権であり、当然の権利であり、わざわざ記載する必要もないということなのだと思います。 
この事実からも、憲法典に書かれていない事柄は、やってはいけいことなどという解釈は成り立たないことが理解できます。であれば、佐々木惣一氏の日本憲法典の解釈は、突飛でも、詭弁でもないことが理解できます。 
ブログ冒頭の記事を書いた井沢元彦氏は、おそらく改憲派だと思うのですが、それにしても、佐々木惣一氏らの京都学派による憲法解釈はご存知ないのではないかと思います。確かに、日本主流の憲法学者らの解釈によれば、外国にいる日本人の生命がおびやかされても、日本は何もできないということになってしまいます。

しかし、京都学派の解釈なら、自衛隊そのものはそもそも違憲ではないし、場合によっては、日本人の生命を守るために海外に自衛隊を送っても何ら憲法違反にはならないことになります。
私は、このような憲法解釈こそ、様々な矛盾を解消する素晴らしい解釈だと思います。ただし、この解釈は、日本では左派系はもとより、右派系、保守系の人々もほとんど知らないようです。

このような憲法解釈を私が知ることができたのは、安保法案に関する反対意見のみがあまりに多く、かなり違和感を感じたため、私なりに調べてみた結果わかったことです。そうして自分の考えをはっきりとまとめることができました。

そうして、今後は、事あるごとに京都学派の憲法解釈を多くの人々に語っていきたいと思います。

誰が正しい、間違いという考え方は、そもそも大間違いです。私は、成功は対立の中にあると思います。そうして、私は、自分と違う意見の人を見つけて、あえて議論していこうと思います。

私は、そう思います。皆さんは、どう思われますか?

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