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2016年1月6日水曜日

中東の状況は第三次世界大戦…佐藤優氏×山内昌之氏が示した衝撃シナリオ BSフジ『プライムニュース』― 【私の論評】今こそ憲法解釈は自衛戦争を是とする京都学派の解釈に従い、第三次世界大戦に備えよ(゚д゚)!


佐藤優氏(左)と山内昌之氏

 サウジアラビアとイランの国交断絶で中東に戦争の危機が広がっている。そんななか、『第3次世界大戦の罠-新たな国際秩序と地政学を読み解く』(徳間書店)の共著がある元外務省主任分析官で作家の佐藤優氏と中東研究の第一人者、明治大学特任教授の山内昌之氏が5日夜、BSフジ「プライムニュース」に出演し、世界情勢の展望を語った。2人は緊迫する中東の状況について「第三次世界大戦」と指摘。核戦争への危機感も示した。

 2人の識者が示したのは、衝撃的なシナリオだった。

 問題の背景には、イスラム教のスンニ派とシーア派の宗派対立がある。

 佐藤氏はその点に触れ、イスラム教スンニ派過激組織「イスラム国(IS)」掃討のため、イランに接近した米国に対するサウジの「怒りのメッセージだ」と分析した。

 山内氏は両国の対立がISを利することになるとの見方を示し、「ISがこの機会に伸びていく、力を保持していくということになりかねない」と危ぶんだ。

 ISへの対応をめぐって米国に接近するイランには核開発の疑惑が絶えない。

 山内氏はこの点を踏まえ、サウジが米国と急接近するイランに対抗するために「ロシアに近づいた」とも指摘。これによって、サウジが「核の開発に限りなく近いことをロシアの援助を受けてやっていくだろう」と核開発に着手する可能性を示唆し、「核の拡散が起きるということが大きな問題だ」と話した。

 シーア派とスンニ派の宗派対立によって分断される中東諸国。複雑化する中東情勢を山内氏は「第二次冷戦的な状況」と表現し、インターネットを通じて世界中にテロを拡散するISの台頭によって「以前の戦争は陸海空で行われていたが、いまはサイバー空間でも戦争が始まっている」と分析した。

ローマ法王 フランシスコ 写真はブログ管理人挿入 以下同じ

 2人は、ローマ法王の発言を引き、現在の状況を「第三次世界大戦」になぞらえた。

 山内氏は、大規模な戦争に突入する事態を想定し、「国家間の戦争だけをイメージしてはダメだ」とし、国家間の戦争や国家とISなどのテロ集団との戦争についても警鐘を鳴らした。

【私の論評】今こそ憲法解釈は自衛の戦争を是とする京都学派の解釈に従い、第三次世界大戦に備えよ(゚д゚)!

本日は、北朝鮮の水爆実験が午前中にありました。そのため、こちらのほうを掲載しようか、どうしようか迷いましたが、結局中東情勢のほうにしました。北朝鮮の水爆については、何かそれらしきものが爆発したという情報があるだけです。

今のところ、北朝鮮が、水爆を爆発させたと主張しているだけで、どこの国も水爆であるとの確証をつかんでいません。実際水爆ではなかった可能性があることも否定できません。要するにあまりに情報が少ないので、本日は掲載しません。さらに情報が得られた場合、掲載しようと思います。

本日は、まずは、上のローマ法王の発言について以下掲載します。ブログ冒頭にも掲載されている、ローマ法王の発言は、昨年の11月14日にされたものです。その記事を以下に掲載します。
ローマ教皇も言及! 2015年、ついに第三次世界大戦が始まった!? 
 世界中のサイキックたちが、2015年に人類が破滅へと向かうことを予言していた。その中には、「2015年に第三次世界大戦が勃発する」との指摘も多かったが、この恐るべき予言がとうとう的中してしまったようだ。なんと、ローマ教皇が「すでに第三次世界大戦が始まっている」という旨の発言を行い、世界中のメディアを驚かせている。 
 今月13日に発生したパリ同時テロ、そして首謀者であるイスラム過激派組織「イスラム国(IS)」の台頭。さらにアメリカにおける人種間対立、依然として継続するウクライナ騒乱とロシアのクリミア侵攻など、今年も数えきれないほどの争いが世界各地で発生し、多くの人々が犠牲となった。 
そして14日、イタリアの聖職者放送局「TV2000」の電話インタビューに応じた第266代ローマ法王フランシスコ1世だったが、なんと「イスラム国」の暴挙を厳しく非難した上で、前日に発生したパリ同時テロは「第三次世界大戦の一部だ」と語ったというのだ。しかも16日には、オランド大統領までもが「フランスは戦争状態にある」と演説している。 
 この「第三次世界大戦」という言葉が、西ヨーロッパ文化圏、そして世界11億人のカトリック信者の精神的支柱であるローマ教皇の口から発せられた意味は非常に大きい。数百年後、いや数十年後に歴史の教科書を開くと、この2015年こそが第三次世界大戦の始まった年であると記されている可能性もありそうだ。もちろん、それまでに人類が滅亡していなければの話だが......。
 このローマ法王の発言のあったのは、安全保障関連法が9月19日日未明に可決成立してから、二ヶ月後のことです。二ヶ月で世界情勢がいきなり変わるということもなく、安保保証関連法が国会で審議されている頃から何も変わっていなかったと思います。
テロ事件から1週間、襲撃を受けたバー「ル・カリオン」前にはメッセージや花が・・・・・
法案が成立したあと、パリのテロ事件が発生、その後今年に入って、サウジアラビアとイランの国交断絶、北朝鮮の水爆実験の発表がありました。


さらに、中国による南シナ海の埋め立て問題が先鋭化し、米国はイージス艦「ラッセン」を派遣、さらにはB52戦略爆撃機を中国の埋立地の上を飛行させるなどのことが発生しました。

尖閣付近には、今までなかった動きがありました。それまではなかったのですが、昨年暮れから、機関砲装備した中国の公船が尖閣付近で不穏な動きを見せています。

こうした、世界情勢を踏まえると、安保法案を成立させたことは正しい措置だったと思います。

それにしても、あの程度の安保法案で、「戦争法案」などと叫ぶ、護憲派はやはり、頭がお花畑で、どうしようもないと思います。あの法案では、はっきりいって本気で日本国民の生命・財産を本気で守るというには、あまりに手緩すぎます。

彼らは、念仏を唱えれば、戦争は起こらないと考えているようです。確かに、本当にそうなら、私も朝から晩まで念仏を唱えまます。しかし、そんなことで世界から戦争がなくなることはありません。

安保法案反対デモ

このブログでは、日本で主流の憲法学者の憲法学者の憲法解釈ではなく、少数派の京都学派の憲法解釈を掲載してきました。

それによれば、憲法9条は、日本が国際紛争解決の手段として、武力を用いてはいけないという明確な規定がありますが、自衛戦争についてはそのような規定はないと解釈しています。実際、憲法9条には、自衛戦争まで放棄するなどとは一言も書かれていません。

よって、日本が自衛のための軍隊を持ったり、自衛のために武力を行使したりすることは、憲法違反ではないと解釈しています。

さらに、世界の憲法典をみまわしてみれば、自衛戦争について出来るとか、出来ないなどとはっきり書いてあるものはありません。なぜなら、それは、わざわざ憲法典に書くまでもなく、独立国の当然の権利であるからです。国連憲章でも、独立国の自衛戦争は当然の権利として認めています。

現在のように地政学的リスクが高まり、それに加えて、ISが跋扈したり、北朝鮮が水爆を開発したと主張するような情勢では、日本の主流派憲法学者の憲法解釈により、自衛のための戦争すらできないということでは、本当に私達の生命・財産を守り切ることはできまん。

今こそ憲法解釈は防衛戦争を是とする京都学派の解釈に従い、第三次世界大戦に備えるべきです。京都学派の憲法解釈に従えば、何の矛盾もなく、日本は防衛戦争ができます。

この京都学派の憲法解釈については、改憲派の人々や、保守派の人々にも良く知られていないようです。そのためか、保守派の人ですら、とにかく戦争は自衛・侵略を問わず、絶対にできないというのが、唯一正しい憲法解釈であると思っているようです。

そんなことは、ありません。そもそも、集団的自衛権に関しては、佐藤内閣の頃から、本来もっているはずだが、日本は使えないとの解釈が定着しました。それ以前には、集団的自衛権はあるのは当然だし、核兵器の保持まで考えていた政権もありました。

さらに、内閣法制局も、佐藤内閣前には、しばしば憲法解釈を随分と変えています。そもそも、憲法解釈の変更は、戦後何度もされてきたことであり、安倍内閣が初めて変えたなどと勝手に思いこむのは、完璧な間違いです。

京都学派については、下の【関連記事】のところに、詳しく解説した記事を掲載しておきますので、ご存知のない方はぜひご覧になってください。

そうして、広く世間に拡散していただきたいと思います。よろしくお願いします。

【関連記事】





【関連図書】

佐々木惣一氏の書籍で現在アマゾンで入手できるものと、佐々木惣一氏を紹介した倉山満氏の書籍を以下にチョイスさせていただきました。

憲政時論集〈1〉 (日本憲法史叢書)
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2015年12月26日土曜日

【ニッポンの新常識】SEALDsだからおかしい、との主張に私は与しない―【私の論評】誰が正しい間違いという考え方は、そもそも大間違い!成功は対立の中にある。自分と違う意見の人を見つけて、あえて議論せよ(゚д゚)!


ケント・ギルバート氏
今年、最後のコラムである。昨年11月に夕刊フジの集中連載「反撃せよ! ニッポン」を担当し、2月にこの連載がスタートした。その後、「産経新聞」や「正論」「Voice」「新潮45」「WiLL」など、2015年は数多くの活字メディアに私の記事が掲載された。

 共著を含む書籍は4冊刊行され、『まだGHQの洗脳に縛られている日本人』(PHP研究所)は12刷に突入した。各関係者には、この場を借りてお礼を申し上げたい。

 在日米国人の視点が新鮮だったのだろうか。それとも、「憲法9条こそが憲法違反」のような発言が目立ったせいだろうか。ツイッターを中心に賛否両論、数多くの批評やご意見をいただいた。反応してくださった方々にもお礼を言いたい。

 少し気になる反応が2種類あった。

 1つ目は、学生グループ「SEALDs(シールズ)」や、女優の吉永小百合さんの話題を取り上げたとき、私の主張に賛同する側に多かったのだが、「何も分からない学生(芸能人)が、政治や軍事の問題に口を出すな!」という趣旨の反応である。私はこれに賛同しない。

 発言者の職業や肩書、学歴、年齢、性別などの属性を気にする人は、自分の中に明確な判断基準を持っていない可能性が高い。有識者の主張は無条件で受け入れるなど、流されやすく、プロパガンダにだまされやすい。「誰の主張か?」ではなく、「主張内容は合理的か?」を検証すべきだ。

 2つ目は、主に私の主張に賛同しない側の意見だが、「昔のケントはあんなことは言わなかった」という反応である。

 私がテレビに出始めたのは1983年、TBS系「サンデーモーニング」のレギュラー出演終了が97年だから、「昔のケント」とは、最低でも15年以上昔の私のことだろう。

 この15年で、世間はどれほど変化したのか。「9・11米同時多発テロ」や「アフガン戦争」「拉致被害者の帰国」「イラク戦争」「中国での反日暴動」「民主党政権誕生」「尖閣諸島の国有化」「東日本大震災」「第2次安倍晋三内閣発足」「朝日新聞による慰安婦大誤報の取り消し」「自称イスラム国(IS)台頭」「中国による南シナ海の岩礁埋め立て」「抗日戦争勝利70周年の軍事パレード」「パリ同時多発テロ」など…。

 インド独立の父、マハトマ・ガンジーは「明日死ぬつもりで生きろ。永遠に生きるつもりで学べ」との名言を残した。学習や変化、進歩を拒むのは個人の自由だが、私はさび付いた常識に基づいて生きるつもりはない。

 ということで、来年もよろしくお願いします。

 ■ケント・ギルバート 

【私の論評】誰が正しい間違いという考え方は、そもそも大間違い!成功は対立の中にある。自分と違う意見の人を見つけて、あえて議論せよ(゚д゚)!

ケント・ギルバート氏のブログ冒頭記事における、2つの主張に私は全面的に賛成です。第一の主張である、誰のいうことだから正しくないというような反応には、賛同しないというものです。

これについては、以前もこのブログに掲載したことがあります。

その記事のリンクを以下に掲載します。
民主など 首相の大阪でのテレビ出演に抗議―【私の論評】最初から誰が正しいか何が受け入れられるかで意思決定するな!すれば与野党ともドツポにはまる(゚д゚)!
詳細は、この記事をご覧いただくものとして、この記事では、いわゆる安倍嫌いの人々が、陥る意思決定のまずさについて掲載しました。

結論からいうと、意思決定の過程において、SEALsが言っているからとか、吉永小百合が言っているからとか、安倍総理が言っているから正しいとか、間違いとか、○○であるとの結論を出すことはそもそも、大間違いです。

誰が発言しようと、正しい場合もあるし、間違いの場合もあるのです。要は、誰の発言が正しいか、間違いかということを考えるのは不毛であり、何が正しいか、何が間違いかを考えることこそ、結果として正しい判断ができるということです。

この記事より、それに関連する部分を以下にコピペします。
最初から誰が正しいか何が受け入れられるかで決定してはならない 
この言葉の意味は重要です。この言葉を良く理解すれば、なぜ今の国会審議があれほどまでに、空虚で意味のないものになっているのかを良く理解できます。 
ドラッカー氏は、『経営者の条件』という書籍で以下のように述べています。 
意思決定の過程においては、まずは「誰が正しくて、誰が間違いか」などという論議すべきではなく、あくまで「何が正しくて、何が間違いか」という議論をすべきであって、そうでなければ、全く不毛な論議となってしまい、まともな意思決定ができなくなってしまうということです。 
いわゆる「安倍嫌い」は、最初から「誰が正しくて、誰が間違いか」という主張をしているに過ぎません。要するに、上のTweetで田中氏が述べているように、「自分と意見違うものはリンチという徹底した態度」ではまともな論議ができず、まともな意思決定もでなきないということてず。 
そのためでしょうか、国会での最近の安保法制の議論など、全くまともな議論になっておらず、国民にとっても理解しがたいものになっています。 
しかも、大方の政治家は、せっかくの意思決定も実行されなければ意味がないと思うものです。そのため、最初から落としどころとしての妥協を考えてしまいます。 
妥協には昔から知られているように2つの種類があります。1つは古い諺の「半切れのパンでも、ないよりはまし」、1つはソロモンの裁きの「半分の赤ん坊は、いないより悪い」との認識に基づくものです。 
前者では半分は必要条件を満足させる。パンの目的は食用であり、半切れのパンは食用となる。しかし、半分の赤ん坊では妥協にもなりません。
 「決定においては何が正しいかを考えなければならない。やがては妥協が必要になるからこそ、最初から誰が正しいか、何が受け入れられやすいかという観点からスタートしてはならない」
ラファエロ作『ソロモンの審判』
『ソロモンの審判とは、』旧約聖書に出てくる話であり、イスラエルの賢王ソロモンが、いかにも当時の絶対専制君主らしく、子を剣で半分に切って女二人で分けよと審判します。このような妥協ならしないほうがずっとましです。 
民主党などの野党は、とにかく「安倍嫌い」の立場から、安倍総理の主張は全く間違いであり、自分たちが正しいものとして、物事を考えているようです。そうして、そのスタンスで安倍総理に対峙するものですから、とにかく憲法解釈の変更による集団的自衛権に関わる、安保法制は違法として、安倍総理に対峙しようとします。 
そのため、全く話が噛み合いません。そうして、いずれ妥協の段階に入るとは思いますが、安倍総理の立場からすれば、民主党などの言うとおりに妥協してしまえば、まともな「戦争抑止法案」とはなりえず、それこそソロモンの裁きの「半分の赤ん坊は、いないより悪い」という結果を招いてしまい、とんでもないことになってしまうため、妥協はできません。そのため、無意味な審議は長引くばかりです。
ドラッカーは、何が受け入れられやすいか、何が反対を招くから触れるべきでないかを心配することは無益であって、時間の無駄だと言います。心配したことは起こらず、予想しなかった困難や反対が突然ほとんど対処しがたい障害となって現れるとしています。
以上のように、誰が正しいか、誰が間違いかを議論するのは、全くの間違いです。本当にやるべきは、何が正しくて、何が間違いかを議論することです。

だから、SEALDsが言っているからどうの、吉永小百合さんが言っているからどうの、安倍総理が言っているからどうのというのではまともな議論にならないのです。

しかし、世の中にはこれが理解できない人が、上下左右を問わず数多く存在するようです。

SEALsが言っているから間違いとか、安倍総理が言っているから最悪などという人達はそもそも、最初から意思決定を避けているようなものです。

本来は、SEALsの言っている「○○という主張は△△だから間違い」とか、安倍総理の語る「○○という主張は□□だから間違い」などと、エビデンス(証拠・根拠、証言、形跡)をあげながら、議論をしたり、意見を述べるならまともな議論になると思いますが、そうでなければ全く不毛です。

このように考えると、 SEALsの言う「安倍政治を許さない」なども全く不毛ですし、いきなり「戦争法案」というのも飛躍のしすぎで、お話にならないです。

SEALDsが言っているから、おかしいなどという言い方も全くお話にならないわけです。

そうして、このような議論をする人たちは、先にも示したように、いつも議論が十分でないため、妥協するにしても、「半分のパン」の妥協をするのではなく、「半分の赤ん坊」の妥協をすることになるため、いつも閉塞感に苛まされることになるのだと思います。

それともう一つ、意見の不一致のない意思決定は非常危険だということがあります。これについても、以前このブログに掲載したことがあります。
成功は対立の中にある。自分と違う意見の人を見つけて、あえて議論をする価値―【私の論評】ドラッカーも昔から主張する意思決定のための意見の不一致!増税決定の意思決定のように、皆が賛成する意思決定にはろくなものがない(゚д゚)!

"
ドラッカーは、上記のようなことをすでに数十年も前から主張しています。
 成果をあげる者は、意図的に意見の不一致をつくりあげる。そのようにして、もっともらしいが間違っている意見や、不完全な意見によってだまされることを防ぐ」(ドラッカー名著集(1)『経営者の条件』)
ドラッカーは、意思決定の過程では意見の不一致が必要だといいます。理由は三つあります。
 第一に、組織の囚人になることを防ぐためです。組織では、あらゆる者が、あらゆる決定から何かを得ようとします。特別のものを欲し、善意の下に、都合のよい決定を得ようとします。 
 そのようなことでは、小さな利害だけで決定が行なわれます。問題の理解抜きでのそのような決定の仕方は、きわめて危険です。
 第二に、選択肢、つまり代案を得るためです。決定には、常に間違う危険が伴います。 
 最初から間違っていることもあれば、状況の変化によって間違うこともあります。決定のプロセスにおいて他の選択肢を考えてあれば、次に頼るべきものとして、十分に考えたもの、検討ずみのもの、理解ずみのものを持つことができます。 
 逆に、全員一致で決めていたのでは、その決められたものしか案がないことになります。
 第三に、想像力を刺激するためです。理論づけられ、検討し尽くされ、かつ裏づけられている反対意見こそ、想像力にとって最も効果的な刺激剤となります。すばらしい案も生まれます。 
 明らかに間違った結論に達している者は、自分とは違う現実を見て、違う問題に気づいているに違いないと考えなければなりません。 
 もし、彼の意見が知的かつ合理的であるとするならば、彼はどのような現実を見ているのかを考えなければなりません。意見の不一致こそが宝の山です。意見の不一致が問題への理解をもたらしてくれます。 
 いかなる問題であれ、意見の不一致が皆無などということは、奇跡です。いわんや、四六時中奇跡を起こしているなどありえないと心得るべきです。それでは、社長が一人いればよいことになります。 
 後で不祥事となった行動の多くが、ろくに議論もされずに決められていることは偶然ではありません 
 「成果をあげる者は、何よりも問題の理解に関心をもつ」(『経営者の条件』)
 意見の不一致のない、意思決定は非常に危険です。それは企業内の意思決定についても同じです。無論、企業などの組織では、職位の高い人の意見が優先するのは当たり前のことです。しかし、職位の一番高い社長や会長の意見と、それ以下の人たちの意見がいつも一致するというようなことがあれば、それは全く異常なことです。何かが間違えています。

最終的に職位の最も高い人の意見に従うということにはなりますが、それでも職位の低い人も意見は述べるべきでしょう。上の事例では、意見の不一致があったときに、相手がどのような現実を見ているのかを知るべきとしています。

この場合、無論全く異なる現実を見ている場合もありますが、実は同じ現実みているにもかかわらよず、意見の不一致があるという場合もあります。

・・・・・・・・・〈略〉・・・・・・・・・

ドラッカーの著書にもGMの会長だったアルフレッド・スローンが、会議で反対意見が全くなかった場合は、この議論はまだまだ醸成されらおらず、よって次の機会にまた話し合うことにするとして、反対意見がでることを助長していたことが掲載されていました。

いつも会議で満場一致のようになる企業・政府などの組織、全くおかしいです。こんなことになるのは、独裁的であるか、あるいは無責任な経営者や政治家の集まりの組織以外にあり得ません。

意思決定において、反対意見が全くないとか、反対意見を言えるような雰囲気ではないという状況は最悪です。この面からみても、自民党の増税の意思決定は大失敗だったと思います。

憲法改正などの意思決定においても、たとえば、民主党、社民党、共産党の反対意見は、重要です。彼らのお花畑的な考えで、憲法解釈などしていたら、この日本というという国がとんでもないことになってしまうことが、目に見えるように理解できるので、ますます自信を深めることができます。

とにかく、どのようなことにでも、意思決定においては、意見の不一致は重要です。意見不一致が表面化しないような意思決定はまともなものではありません。私たちは、これを前提として、重要な意思決定をすべきです。
"

今年の安保法案の国会審議に関しては、おおいに反対意見が出ました。いや、というより、反対意見ばかりが多すぎでした。野党側など、ほとんど反対一辺倒だったというのも、非常に問題です。

何からなにまで反対で、「戦争法案」というレッテル貼りをしたということは本当に問題だったと思います。

それにしても、様々な反対意見が出ていたので、私自身にとっては安全保障についていろいろ考えるきっかけとなって良かったと思います。

特に、憲法学における京都学派の憲法解釈に巡り会えたのは大きな収穫だったと思います。それについては、このブログにも以前掲載したことがあります。その記事のリンクを以下に掲載します。
井沢元彦氏がSEALDsに意見 「9条を守れ」の主張は人権侵害―【拡散希望】主流派憲法学者の解釈を踏襲するな!京都学派の解釈に従えば、ほとんど現実世界と矛盾しない(゚д゚)!
井沢元彦氏(写真左)今年1月

詳細はこの記事をご覧いただくものとして、この記事の元記事で、井沢氏は「9条を守れ」の主張は人権侵害になる場合もあることを主張しています。

「9条を守れ」という主張が人権侵害にあたることを主張している部分のみ以下に掲載します。
 軍隊の必要性を認めた上で「憲法九条を守れ」と主張することは、極めて重大な人権侵害であることに君たちは気がついているのか? 「必要ない」と言うなら仕方がないが「必要」ならば、自衛隊及び自衛隊員は法治国家日本において正式な存在であるべきだ、しかし憲法九条は法律がなんと言おうと彼等の存在を否定している。だから憲法九条を守るということは、実は自衛隊員の地位と権利を正式なものとしては絶対に認めないということになる。 
これもわかりやすく時代劇にたとえようか。 
ある旗本の家、そこが突然武装強盗に襲われた。先代の嫡男である当主が撃退しようとしたが日ごろから武芸にはうとく、危うく殺されそうになった。そこへ颯爽と登場したのが側室の生んだ次男、つまり当主の弟である。次男の命をかけた奮闘で賊は撃退された。そして、あそこには強い用心棒がいるという評判が立ち賊も敬遠するようになった。何もかも弟のおかげである。 
ところが兄は感謝するどころかこう言う。「メカケの子のくせに図に乗るな、お前はあくまで日陰の存在だ。メシは食わせてやるが、名誉も地位も求めるな!」。 
どうです? ひどい兄だとは思いませんか? 人間のクズと言っても過言ではないだろう。 
しかし「憲法九条を守れ」と言うのは実はこれと同じことで、「自衛隊員よ、お前たちはあくまでメカケの子だ、引っ込んでいろ」と言っているに等しい。そのことに君たちは気がついているのだろうか? 
たぶん気がついてはいないのだろう。気がついているならばこんな態度をとるわけがない。瀬戸内寂聴さんや大江健三郎さんのような日本の良心と言われている人たちも気がついていないのだから仕方がない。本当の日本の歴史を知らないからだ。
 確かに、井沢氏の言うとおり、憲法9条が、すべての武力を保持することや、武力を行使するものという解釈をするなら、井沢氏の言うことは全く正しいです。

このブログでは、京都学派の憲法解釈にしたがって、憲法を解釈するとこのような矛盾ははなから存在しないことも掲載しました。

その部分を以下に掲載します。
佐々木惣一氏(ブログ管理人注:京都学派の重鎮)は、憲法9条は、国際紛争を解決する手段として武力を用いることを否定しているのであって、これ以外の自衛戦争まで禁じているわけではないと解釈しています。例えば、わが国が突如他国の侵略を受けることがあって、わが国を防衛するために、その他国に武力を以て対抗して、戦争をすることは、明らかにこれにこれを禁じているわけではないとしています。 
そんなこと憲法典(文書として書かれた憲法)には、一つも書かれてはいないから、それは詭弁にすぎないという人もいるかもしれません。しかし、憲法9条を端から端まで何度読んでみても、明らかに防衛戦争を否定するとは、はっきりとは書かれていません。 
このようなことをいうと、書かれていないからといって、書かれていないことが、なんでもできたらとんでもないこになてしまうから、そんなのは詭弁だというかもしれません。 
しかし、そんなことはありません。世界の多くの国々の憲法典でも、自衛権に関してはっきり明記しているものは多くはないです。それは、自然権であり、当然の権利であり、わざわざ記載する必要もないということなのだと思います。 
この事実からも、憲法典に書かれていない事柄は、やってはいけいことなどという解釈は成り立たないことが理解できます。であれば、佐々木惣一氏の日本憲法典の解釈は、突飛でも、詭弁でもないことが理解できます。 
ブログ冒頭の記事を書いた井沢元彦氏は、おそらく改憲派だと思うのですが、それにしても、佐々木惣一氏らの京都学派による憲法解釈はご存知ないのではないかと思います。確かに、日本主流の憲法学者らの解釈によれば、外国にいる日本人の生命がおびやかされても、日本は何もできないということになってしまいます。

しかし、京都学派の解釈なら、自衛隊そのものはそもそも違憲ではないし、場合によっては、日本人の生命を守るために海外に自衛隊を送っても何ら憲法違反にはならないことになります。
私は、このような憲法解釈こそ、様々な矛盾を解消する素晴らしい解釈だと思います。ただし、この解釈は、日本では左派系はもとより、右派系、保守系の人々もほとんど知らないようです。

このような憲法解釈を私が知ることができたのは、安保法案に関する反対意見のみがあまりに多く、かなり違和感を感じたため、私なりに調べてみた結果わかったことです。そうして自分の考えをはっきりとまとめることができました。

そうして、今後は、事あるごとに京都学派の憲法解釈を多くの人々に語っていきたいと思います。

誰が正しい、間違いという考え方は、そもそも大間違いです。私は、成功は対立の中にあると思います。そうして、私は、自分と違う意見の人を見つけて、あえて議論していこうと思います。

私は、そう思います。皆さんは、どう思われますか?

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2015年10月31日土曜日

井沢元彦氏がSEALDsに意見 「9条を守れ」の主張は人権侵害―【拡散希望】主流派憲法学者の解釈を踏襲するな!京都学派の解釈に従えば、ほとんど現実世界と矛盾しない(゚д゚)!


井沢元彦氏(写真左)今年1月 写真、動画はブログ管理人挿入 以下同じ

作家・井沢元彦氏は、集団的自衛権行使容認に反対する人たちのやみくもな軍隊否定や護憲主義に疑問を投げかけている。憲法9条を守れと主張することは、ときに人権侵害にも及ぶ状況があるという。週刊ポストの連載「逆説の日本史」における井沢氏の解説を紹介しよう。

* * *
1985年(昭和60)のことである。当時イランと戦っていたイラクのフセイン大統領は、敵国イラン領空を飛ぶ飛行機はたとえ民間航空機であってもすべて撃ち落とすという、とんでもない声明を発表した。当時イランにいた日本人二百人余りは直ちに脱出しようとしたが、脱出のための航空機派遣を政府から依頼された日本の民間航空会社はこれを拒否した。労働組合が反対したのである。

もっともこれは当然の反応ではある。ミサイルが飛んでくるかもしれない危険空域に丸腰の民間機が入ったら乗務員の安全は保証できない、反対したこと自体は責められない。だからこそ、こういう時のために訓練を積んだ軍隊というものが必要なのである。警察では国外の戦争が絡んだ事件に対処する能力も権限もない。

しかしそういう能力を持った自衛隊機は現地に飛べなかった。日本社会党を中心とする護憲派が「海外派兵絶対反対」と強く反対したからである。このためイランの首都テヘランに残された日本人約二百人は脱出できず、中には死を覚悟した人もいたという。


助けてくれたのはトルコであった。トルコ共和国政府の意を受けたトルコ航空の民間パイロットが名乗りを上げ、危険を冒してテヘランに飛び日本人全員を脱出させてくれた。実は1890年(明治23)、トルコ海軍の軍艦エルトゥールル号が日本の紀州沖で沈没した時、近くの村の日本人が命がけで乗組員多数を救助してくれたという話がトルコでは歴史の教科書に載っていて、「その借りを返すため」に命がけで助けてくれたのである。

ところが、この行為に対して感謝するどころか、もっとも不快に思ったのが「護憲派の守護神」朝日新聞である。朝日は記事でトルコが助けてくれた理由を、日本が「トルコ経済援助を強化している」からだと書いた。要するに「カネがもっと欲しいんだろう」と貶めたのである。朝日がなぜそんなことを書いたか、これをきっかけに「軍隊は必要だ」という議論が高まることを恐れ「カネをバラ撒いていれば大丈夫だ」と思わせたかったのだろう。

こんな事件が過去にあったことを、つい最近まで国会を包囲していたSEALDsの若者たちは知っているのだろうか? そしてまた同じような事件が起こったら「海外派兵絶対反対」と叫んで、再び「平和憲法を守るため」戦うのか?


エウトール号の遭難や、テヘランでの日本人救出に関してはこの動画をご覧ください

以上のような事例を知った上で、まだ「日本に軍隊は必要ない」と叫ぶなら、それはそれで仕方がない。論理を受け付けない人間と議論はできない。しかしそうでないなら言おう。

 軍隊の必要性を認めた上で「憲法九条を守れ」と主張することは、極めて重大な人権侵害であることに君たちは気がついているのか? 「必要ない」と言うなら仕方がないが「必要」ならば、自衛隊及び自衛隊員は法治国家日本において正式な存在であるべきだ、しかし憲法九条は法律がなんと言おうと彼等の存在を否定している。だから憲法九条を守るということは、実は自衛隊員の地位と権利を正式なものとしては絶対に認めないということになる。

これもわかりやすく時代劇にたとえようか。

ある旗本の家、そこが突然武装強盗に襲われた。先代の嫡男である当主が撃退しようとしたが日ごろから武芸にはうとく、危うく殺されそうになった。そこへ颯爽と登場したのが側室の生んだ次男、つまり当主の弟である。次男の命をかけた奮闘で賊は撃退された。そして、あそこには強い用心棒がいるという評判が立ち賊も敬遠するようになった。何もかも弟のおかげである。

ところが兄は感謝するどころかこう言う。「メカケの子のくせに図に乗るな、お前はあくまで日陰の存在だ。メシは食わせてやるが、名誉も地位も求めるな!」。

どうです? ひどい兄だとは思いませんか? 人間のクズと言っても過言ではないだろう。

しかし「憲法九条を守れ」と言うのは実はこれと同じことで、「自衛隊員よ、お前たちはあくまでメカケの子だ、引っ込んでいろ」と言っているに等しい。そのことに君たちは気がついているのだろうか?

たぶん気がついてはいないのだろう。気がついているならばこんな態度をとるわけがない。瀬戸内寂聴さんや大江健三郎さんのような日本の良心と言われている人たちも気がついていないのだから仕方がない。本当の日本の歴史を知らないからだ。

【拡散希望】主流派憲法学者の解釈を踏襲するな!京都学派の解釈に従えば、ほとんど現実世界と矛盾しない(゚д゚)!

ブログ冒頭の記事の、トルコが助けてくれた話は有名なものです。もし、あの時トルコが助けてくれなかったら、多くの日本人が本当に命を落としたかもしれません。そうして、この事例は日本の安全保障を考える上で非常に良い事例だと思います。

さて、井沢氏が指摘するとおり憲法9条には上記で示すような矛盾があります。しかし、このような矛盾は、日本の東大を頂点とする憲法学者主流派の解釈を踏襲しているから矛盾しているように見えるだけです。

その解釈とは、憲法9条ではいかなる戦力を保持しても、武力を行使してもいけないう解釈です。東大を頂点とする、日本の主流の憲法学者の解釈を踏襲すれば、確かに上記のように、人権侵害を憲法が許容しているようなとんでもないことが起こる可能性がこれからもあり得ます。

しかし、憲法9条に対する解釈を変えれば、このような矛盾は生じません。実際、憲法学会における京都学派の解釈に従えば、このような矛盾は生じません。

では、京都学派の解釈とはどのようなものでしょうか。それに関しては、このブログに以前掲載したことがあります。その記事のリンクを以下に掲載します。
佐々木惣一の「憲法第九条と自衛権」―【私の論評】安保法制=戦争法案としてデモをする人々は、まるで抗日70周年記念軍事パレードをする人民解放軍の若者と同じか?

佐々木惣一氏は憲法学者の中で、京都学派の重鎮だった方です。詳細は、この記事をご覧いただくものとして、この記事から憲法9条の解釈に関する部分を以下に掲載させていただきます。
さて佐々木惣一は戦後、特に力をいれた仕事は、憲法第九条と自衛力との関連のものである。今日の安保法制に関してマスコミの報道では、「集団的自衛権は違憲である」というのがまるで総意であり、「真理」であるかのように喧伝されている。だが敗戦後、佐々木惣一は一貫して、憲法第九条の法理論的解釈として、日本が自衛力を保有することを合憲としていた。ちなみに今日の議論のように、自衛権を個別的自衛権と集団的自衛権にわけて、それを厳密に区分して議論する日本的な風土とは、佐々木の自衛権解釈は一線を画している。つまり自衛self-defenseには、国際的な解釈と同じように、自分(自国)のみならず、親や子など近しいもの(同盟を組んでいる他国など)を守るという意味も含んでいる。
佐々木の自衛権解釈の多くはネットなどで容易に見ることができないせいか、ほとんど忘却されている。まず佐々木は、さきほどの倉山本の内容を紹介したときに言及したように、憲法論と政策論は別にわけて慎重に議論すべきだとしている。つまり憲法解釈がいかに解されようと、それと現実の問題はまた別に認識し、相互の関係を判断しなければならない、という姿勢である。これは佐々木の憲法第九条解釈の重要なポイントである(後の砂川最高裁判決の内容と共鳴する論点ではないかと思案する)。佐々木のこの区別(憲法解釈の次元と政策論の次元の区別)は、彼の戦前からの立憲主義の見方にも通ずるものである。つまり単に条文解釈に安住するのが立憲主義ではなく、その現実的政策、政治のあり方との関連を厳しくみることが、立憲主義の本意である(佐々木惣一『立憲非立憲』)。
佐々木の「憲法第九条と自衛権」をめぐる主張は、まずは純法理論的に行われている。この憲法第九条と自衛権の関係については、佐々木の『憲法学論文選(三)』(有斐閣)を中心に収録されている。ここでは、以下の著作から引用しておく。
「国際関係複雑を極め,諸国間の対立激甚を極める今日,いかなる場合にも,いかなる国家よりも,侵略をうけることがないとは限らぬ。そういう場合に,国家としては,自己の存在を防衛するの態度をとるの必要を思うことがあろう。これに備えるものとして戦力を保持することは,国際紛争を解決するの手段として戦力を保持することではないから,憲法はこれを禁じていない。このことは,わが国が世界平和を念願としている,ということと何ら矛盾するものではない。これは,今日いずれの国家も世界平和を希求していること,何人も疑わないにもかかわらず,戦力を保持しているのと同じである。」(佐々木惣一『改定 日本国憲法論』)。
また佐々木は憲法第九条の条文そのものに即して以下のように詳述する。
「憲法によれば、国家は、戦力、武力による威嚇及び武力の行使については国家が国際紛争を解決する手段としてする、というものという標準を設け、かかる戦争、武力による威嚇及び武力の行使を放棄している。故に、国際紛争を解決する手段としてではなく、戦争をし、武力による威嚇をし、武力を行使することは、憲法はこれを放棄していない。即ち禁じているのではない。このことは、前示憲法第9条第一項の規定を素直に考究すれば、明瞭である。同条項によりて、国家は、戦争、武力による威嚇及び武力の行使の三者を放棄する。換言すれば、してはならぬ、と定めている。が、併し、これらの行動を全般的に放棄しているのではなく、その行動を、国際紛争を解決する手段として、することを放棄する、のである。故に、国際紛争を、解決する手段以外の手段として、戦争することは、憲法により禁ぜられているのではない。国際紛争を解決する手段以外の手段として、戦争をする、という場合としては、例えば、わが国が突如他国の侵略を受けることがあって、わが国を防衛するために、その他国に武力を以て対抗して、戦争をするが如きは、明らかにこれに属する。(略)故に、いわゆる自衛戦争は憲法の禁ずるところではない」(佐々木惣一『憲法論文選(三)』)。 
また第二項の戦力の保持や交戦権についての条文については、まず前者は国際紛争を解決する手段としての戦力保持を禁じているだけであり、自衛のための戦力保持を禁じてはいないとする。また交戦権については、「第一項は戦争するという事実上の行動に関する規定であり、第二項は、戦争に関する意思の活用に関する規定である」として、国際紛争を解決する手段としての戦争をする意思を活用することを表現している。そのためこの交戦権も自衛権を放棄していることではない。
この佐々木の解釈は純粋な法理論のモノであり、現実の政策とは分けて考えるべきだと、繰り返し佐々木は強調している。わかりやすくいえば、どんなに憲法解釈が純法理的にすばらしくても、現実に平和が維持されないでは意味をなさない。そこに佐々木の平和主義的な立場が濃厚に表れる。現在の安保法制議論でも単なる憲法学者の「違憲」表明だけで法案の現実政策的側面が忘却されがちであるが、その点を合わせて考えると、佐々木の視点はいまも鋭い。
また(旧)日米安保条約について、佐々木は米国軍の日本駐屯と憲法第9条は矛盾しないと述べている。この点は純法理的な解釈だけではなく、佐々木がどのように、現実の政策と純法理的な解釈との(緊張)関係をみていたのか、それを考えるうえでも有益である。
佐々木は当時の日本の現実の自衛力を踏まえた上で、「然るに、わが国は、現在では一切の戦力を有していないのだから、自衛のための戦争でも事実、することはできない。それで、自国を防衛する方法として、他国の戦力に依頼し、他国の軍隊をして、わが国の領土に駐屯して、必要に応じてわが国の防衛に当らしめる、ということを定めたのが日米安全保障条約である。これは、わが国が他国の侵略に対して自国を防衛する一方法である。憲法第九条に抵触するものではない」(『憲法論文選(三)』)。
今日では砂川判決をめぐる議論の際に、「判決は日本の個別的自衛権のみについてふれていて、米軍基地は米軍の集団的自衛権に関わる」などの主張がきかれる。これらの「通説」と佐々木の主張がいかに離れたものであるかが、わかるだろう。

佐々木惣一氏は、憲法9条は、国際紛争を解決する手段として武力を用いることを否定しているのであって、これ以外の自衛戦争まで禁じているわけではないと解釈しています。例えば、わが国が突如他国の侵略を受けることがあって、わが国を防衛するために、その他国に武力を以て対抗して、戦争をすることは、明らかにこれにこれを禁じているわけではないとしています。

そんなこと憲法典(文書として書かれた憲法)には、一つも書かれてはいないから、それは詭弁にすぎないという人もいるかもしれません。しかし、憲法9条を端から端まで何度読んでみても、明らかに防衛戦争を否定するとは、はっきりとは書かれていません。

このようなことをいうと、書かれていないからといって、書かれていないことが、なんでもできたらとんでもないこになてしまうから、そんなのは詭弁だというかもしれません。

しかし、そんなことはありません。世界の多くの国々の憲法典でも、自衛権に関してはっきり明記しているものは多くはないです。それは、自然権であり、当然の権利であり、わざわざ記載する必要もないということなのだと思います。

この事実からも、憲法典に書かれていない事柄は、やってはいけいことなどという解釈は成り立たないことが理解できます。であれば、佐々木惣一氏の日本憲法典の解釈は、突飛でも、詭弁でもないことが理解できます。

ブログ冒頭の記事を書いた井沢元彦氏は、おそらく改憲派だと思うのですが、それにしても、佐々木惣一氏らの京都学派による憲法解釈はご存知ないのではないかと思います。確かに、日本主流の憲法学者らの解釈によれば、外国にいる日本人の生命がおびやかされても、日本は何もできないということになってしまいます。

しかし、京都学派の解釈なら、自衛隊そのものはそもそも違憲ではないし、場合によっては、日本人の生命を守るために海外に自衛隊を送っても何ら憲法違反にはならないことになります。

かつては、京都学派の憲法解釈も知られていた時期がありました。私が中学生か高校生だった頃に、社会科の教師が「京都学派」という名称までは語らなかったとは思いますが、憲法学者の中にはこういう考え方の人もいるという話をしていたことを覚えています。

確か、テレビでも、コメンテーターがそのようなことを語っていたこともあったことを記憶しています。

しかし、今では、この京都学派の憲法解釈はほとんどの人が知りません。井沢氏も知らないのだと思います。だからこそ、ブログ冒頭の記事のような矛盾を指摘したのだと思います。

作家といえば、百田尚樹氏もあるテレビ番組で「確かに憲法を字面通りに読めば、軍隊を持てないし、武力も行使できません」と語っていました。おそらく、百田尚樹氏ですら、京都学派の憲法解釈のことなど知らないのだと思います。

百田尚樹氏

日本の安全保障を考える上で、今の日本の主流の憲法学者の憲法解釈を踏襲すると、ほんとうに矛盾だらけです。しかし、京都学派の解釈であれば、大きく矛盾するようなことはありません。

であれば、私たちは京都学派の憲法解釈を踏襲するべきではないでしょうか。そうすることにより、憲法を改正しなくても、自衛隊を自衛軍とすることもできますし、日本人の生命を守るために、自衛隊を海外に送ることもできます。そうして、実際に他国が日本を攻めたり、日本人の生命を脅かすような軍事行動をとった場合、それに対抗しても、何ら矛盾は発生しません。自衛隊員を日陰者扱いする必要性もありません。

それにしても、どうして日本では京都学派の憲法解釈が顧みられなくなったのでしょうか。私自身は、京都学派の憲法解釈が忘れさられたからこそ、日本の安全保障の論議が全くおかしなことになっているのだと思います。

私自身、憲法解釈としては、こと憲法9条などに関しては、京都学派の見方が正しいと思います。そもそも、日本国憲法は、GHQが作成したものを下敷きにして作成されたものです。そうして、GHQには当時コミンテルン(旧ソ連のスパイ)が多数存在していました。

そのコミンテルンらが、日本国憲法草案に関わったとされています。これは、ベノナ文書などでも明らかにされています。

当時のコミンテルンがソ連に有利になるように、日本国憲法で日本国弱体化を目論んだのでしょうが、さすがに彼らも「日本国には防衛権すらない」などとはっきりと、憲法典に明記することはできなかったのでしょう。

もし、「日本国には自衛権がない」という条文を日本国憲法に盛り込んだ場合、さすがに日本国弱体化を目論むマッカーサーや、米国大統領や議会もこれではあまりにもあからさまということで、承認しなかったことでしょう。そもそも、西欧諸国にとっては、自衛権は独立国にとって「自然権」であるという大前提があります。さすがに、この大前提を崩すことはできないかったと思います。

実際には、ひよっとすると、コミンテルンは「日本には自衛権がない」という条文を盛り込んでいたかもしれませんが、そんなことではとても独立国の憲法としては認められないということで上層部に却下されて、今日の日本国憲法になったのかもしれません。

いずれにしても、憲法典に書いてあることだけは正しくて実行しても良いことであり、書かれていないことはとにかく何が何でも実行してはいけないなどということでは、あまりにも硬直的であり、それはもうすでに、実務的な政治や法律の世界とはかけ離れており、それはすでに宗教の領域です。それも、宗教の権威だけが正しいとする教条的、強権的なものであり、それこそ、イスラム過激派、原理主義者などとあまり変わりないと思います。

日本の護憲派は、行動ではさすがに、過激派や原理主義者のような酷いテロ行為はしませんが、考えたは非常に似ていると思います。テロリストにとっては、自分たちの考えが絶対的ですが、日本の護憲派にとっては、憲法典そのものが絶対的なものになっていて、京都学派などの憲法解釈などは全く受け付けません。

こんな状態を打破するためには、井沢氏や百田氏ですら知らない、京都学派の憲法解釈を拡散していく必要があると思います。井沢氏や百田氏だって、これを知れば随分と考え方が根本から変わると思います。

私は、そう思います。皆さんは、どう思われますか?

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