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2016年5月19日木曜日

「自衛隊は要らない」という「9条信者」が忌み嫌う『カエルの楽園』―【私の論評】護憲派だけでなく保守ですら錯誤している憲法9条!宅配ピザは違憲ではない(゚д゚)!


カエルの楽園


■自衛隊は違憲だ

5月3日の憲法記念日に合わせて、新聞やテレビなどでは憲法9条や改憲に関する話題が多く扱われた。NHKの「日曜討論」には各政党の党首、幹部が出席して議論を繰り広げていたが、中でも異彩を放っていたのは日本共産党だろう。

「自衛隊を違憲と考えるのか」という問いに対し、志位和夫委員長は従来からの自説、すなわち、同党が以前より唱えている「段階的解消」論を述べた。

これは、ごく簡単にいえば、自衛隊を「当面は維持」するが、そもそも自衛隊は「憲法9条違反」の存在なのだから、軍縮を進めて、段階的に解消する、という方針のことである。

「それで国の安全は守れるの?」という素朴な疑問に対しては、すべてのことを話し合いで解決できるような状況を外交的努力によって実現すれば、自衛隊は不要であるし、政治の力でそういう状況を作ることはできる、というのが志位氏らの主張だ。

このスタンスはかなり極端だとしても、「憲法9条のおかげで日本は平和だったが、集団的自衛権の行使容認によってリスクが高まった」という主張をする政党、識者は多い。一方で、こうした立場に対して「9条信者」と揶揄する人も少なくはない。この古典的な対立の構図はいまだ健在で、「日曜討論」でも、お馴染みの言い合いが繰り広げられていたのである。

■争うための力は不要?

こうした議論に関して、「あの小説にそっくり」という声が一部で上がっている。百田尚樹氏の新作『カエルの楽園』だ。

百田尚樹氏

同書の主な舞台は「ナパージュ」というカエルたちの国。そこには「三戒」という教えが存在していて、国民(カエル)たちは皆、それを信じている。「三戒」とは、「カエルを信じろ」「カエルと争うな」「争うための力を持つな」というもの。

ナパージュのカエルの多くは、「自分たちが平和に暮らせているのは、『三戒』のおかげだ」と信じている。

しかし、外の世界から来たカエルには、到底信じられない話なので、あれこれ聞いてみるのだが、ナパージュのカエルたちの「信念」は揺るがない。その問答の一部を、同書から引用してみよう。

「もし(他の国から)襲われたら、どうするの?」

「襲われたって争いにはなりません」

「どうして?」

「ぼくらが争わなければ、争いにはならないからです」

「たしかに争わなければ争いにはならないだろうけど、襲われたら、どうやって身を守るんだい?」

「襲われないんですから、そんな話をしてもしかたがないでしょう。この国は三戒が誕生してから、一度だって他のカエルに襲われていないんですから」

「それって、たまたまじゃないのか」

「あなたはたまたまで平和が長く続くと思いますか? いいですか、この平和はぼくらの三戒の教えのおかげなんです。それ以外にはないんです」

徹底して、ある種の「カエル」たちを戯画化した同作は、これまでの百田作品以上に賛否両論を巻き起こしている。福岡県在住の共産党の町議会議員は「立ち読み」をしたうえで、「ひどいの一言」という感想をツイッターで述べたほどである(それに対し、そもそも丸ごと「立ち読み」というのはいかがなものか、という批判も出た)。ナパージュが迎える衝撃の結末が、癇に障ったのだろうか。

一方で「これからの日本を考えさせるために、子どもに読ませておきたい」といった感想も多く寄せられており、同作は寓話ながらも、これから憲法を考える上で、一つの入り口となっていくのかもしれない。

【私の論評】護憲派だけでなく保守ですら錯誤している憲法9条!宅配ピザは違憲ではない(゚д゚)!

この小説『カエルの楽園』は、私も読みました。非常に読みやすいので、半日もあればゆっくりと読んでも、十分読めます。非常に寓意に満ちた書籍です。この書籍を読めば、現在の日本の状況はまさに「カエルの楽園」であり、いかに危険なのかが理解できます。

そうして、当然のことながら、いわゆる多くの護憲派の憲法9条の解釈がいかに危険なものであるのか、良く理解できます。ここで、わざわざ「護憲派の憲法九条の解釈」と掲載したのにはわけがあります。

とにかく、護憲派は憲法九条に書いてあるから、日本はそもそも武装はできないし、どのような場合にもそれを行使してはならないと主張します。そうして、憲法9条にそう書かれているのだから、自衛隊は違憲であると主張します。

しかしながら、私はここにはっきりと言いたいのですが、これはいくつかある憲法9条の解釈のうちの一解釈に過ぎないです。

私は、常々驚いているのですが、百田尚樹氏も憲法九条について、このような解釈しかないと考えておられるようで、ある動画では「確かに憲法九条を読めば、日本は武装はできないし、自衛隊も意見なのです」という趣旨のことを語っておられました。

これについては、ご本人に直接確かめたことはないので、いずれ確かめてみようと思っています。ただし、私の周りの改憲派の人に聞いてみたところでは、全員が「憲法9条により、日本はいかなる武力も持てないし、いかなるときも武力を行使してはならない」と解釈していました。おそらく、他の改憲派の方々も同じように考えていらっしゃるのだと思います。

『かえるの楽園』にでてくる挿絵

なぜか、日本では、護憲派はもとより、改憲派や保守派の人々の多くまでが、憲法九条の解釈は一つしかないと考えておられるようです。

しかし、これは間違いです。たとえば、Wikipediaで憲法九条と検索してみてください。Wikipediaの憲法9条の中に、第9条の解釈上の問題という項目があります。

これをご覧いただければ、憲法9条の解釈は一つだけではなく、複数あることがおわかりになると思います。

詳細は、これをご覧いただくものとして、この憲法解釈の中に、佐々木惣一氏による解釈が以下のように掲載されています。

  • 戦力限定不保持説(自衛戦力肯定説)
憲法第9条第2項は自衛のための「戦力」まで禁ずるものではないとする説。
佐々木惣一氏は、憲法学会の中でも、京都学派といわれる学派の重鎮です。残念ながら、Wikipedia にはこの一行しか掲載されていません。"・戦力全面不保持説"については、いくつか掲載されていて、若干の説明もあるのですが、"・戦力限定不保持説(自衛戦力肯定説)"については、これしか触れられていません。
これ一つとっても、日本では"・戦力全面不保持説"が圧倒的に主流であり、自衛戦力肯定説は少数派であることがわかります。確かに、自衛戦力肯定説については、ここ20年くらいは全く影を潜めて、まるでなきがごときです。
しかし、この自衛戦力肯定説は、今から30年くらいまでは、新聞やテレビ報道でも紹介されていたものです。そのため、一般の人でもこれを理解している人も存在していました。しかし、いつの間にか完璧に消えてしまいました。
この説明だけでは何を意味する説なのか、あまりにも簡素な説明で、理解不能であると思います。
これについては、以前このブログにも掲載したことがあります。その記事のリンクを以下に掲載します。
佐々木惣一の「憲法第九条と自衛権」―【私の論評】安保法制=戦争法案としてデモをする人々は、まるで抗日70周年記念軍事パレードをする人民解放軍の若者と同じか?
佐々木惣一氏
詳細は、この記事をご覧いただくものとして、以下に、元記事の田中秀臣氏の記事から一部分を引用します。
佐々木の「憲法第九条と自衛権」をめぐる主張は、まずは純法理論的に行われている。この憲法第九条と自衛権の関係については、佐々木の『憲法学論文選(三)』(有斐閣)を中心に収録されている。ここでは、以下の著作から引用しておく。 
「国際関係複雑を極め,諸国間の対立激甚を極める今日,いかなる場合にも,いかなる国家よりも,侵略をうけることがないとは限らぬ。そういう場合に,国家としては,自己の存在を防衛するの態度をとるの必要を思うことがあろう。これに備えるものとして戦力を保持することは,国際紛争を解決するの手段として戦力を保持することではないから,憲法はこれを禁じていない。このことは,わが国が世界平和を念願としている,ということと何ら矛盾するものではない。これは,今日いずれの国家も世界平和を希求していること,何人も疑わないにもかかわらず,戦力を保持しているのと同じである。」(佐々木惣一『改定 日本国憲法論』)。
これらの佐々木惣一の解釈をもとに、憲法9条を読みなおしてみると、確かに、憲法9条は国際紛争を解決する手段として、戦力を保持することははっきりと認めていませんが、集団的、個別的を問わず、自国の防衛をすることまでは、はっきりとは否定していません。

皆さんも、もう一度憲法9条を読みなおして見てください。憲法9条には、自国の防衛のための軍備もするなとか、自国の防衛のために武力を行使できないと、はっきりと明示はされていません。

ということは、自衛のための軍備はしても、行使をしても良いという解釈は成り立つものと思います。

しかし、これは今の日本の東大を頂点とする日本の主流の憲法学会の憲法解釈とは明らかに違います。

そうして、この解釈は、佐々木惣一氏自身が述べているように、どんなに憲法解釈が純法理的にすばらしくても、現実に平和が維持されないでは意味をなさないのです。そこに佐々木の平和主義的な立場が濃厚に表れています。現在の安保法制議論でも単なる憲法学者の「違憲」表明だけで法案の現実政策的側面が忘却されがちですが、その点を合わせて考えると、佐々木氏の視点はいまも鋭いです。

いずれにせよ、以下に少数派ではあれ、憲法9条の解釈は唯一無二でないことだけは確かです。

自衛隊は合憲であるという憲法解釈も存在する
そうして、多くの人々は、あまりにも"・戦力全面不保持説"を刷り込まれてしまっていると思われるので、以前も掲載したことなのですが、以下に再度"戦力限定不保持説(自衛戦力肯定説)"も憲法解釈として十分成り立ち得ることを示す事実をいくつかあげておきます。

まず、自衛に関しては、国際連合の憲章にも、独立国に認められる当然の権利であることが掲載されています。

さらに、ほとんどの国々の憲法典(文章化された憲法)には、自衛に関しては集団的自衛権、個別自衛権にかかわらず、当然の権利であるとして、わざわざ憲法典に盛り込んでいません。憲法に書かれていないのですが、当然の権利として、行使できるものとしています。

さらに、日本の護憲派は、集団的自衛権については、これを認めると戦争になると主張しますが、これも本当に正しい見方であるのか、はなはだ疑問です。なぜなら、たとえばドイツには個別自衛権が認められていません。あくまで、NATOの管轄下での集団的自衛権しか認められていません。なぜかといえば、ドイツの個別自衛権を認めてしまえば、ドイツ一国で戦争を始めることができるという理由からです。

こんなことを掲載すると、護憲派の方々の中には、憲法9条に書かれていない、自衛権など行使できるはずはないと反論されるかもしれません。

しかし、そんな反論に対しては、以下のような反論をさせていただきます。

上記のような主張をする人は、「憲法典にはピザのことが書かれていない、よって宅配ピザの注文は違憲である」と主張しているのと何も変わりありません。全く非合理的です。もし、憲法に書いていないことを実行すれば、すべて違憲というのであれば、私たちは、そもそも憲法にしたがって生活することはできません。

宅配ピザを注文するのは違憲?


憲法9条の解釈は、このように"戦力全面不保持説"だけではなく、"戦力限定不保持説(自衛戦力肯定説)"も存在しているのであり、この解釈も十分に成り立つものです。

この解釈に従えば、そもそも自衛隊は違憲ではないし、自衛に限るならば、自衛隊が武力を行使することも違憲ではありません。そうして、集団的自衛権の行使も無論のこと、違憲ではありません。

この解釈をもっと多くの人々に広めるべきと思います。

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2016年5月4日水曜日

トランプ氏、共和党の指名確実な情勢 クルーズ氏が撤退―【私の論評】元々自衛戦争はできる!護憲派も、改憲派も牛丼を食べるのは違憲とするのはもうやめよう(*_*)

トランプ氏、共和党の指名確実な情勢 クルーズ氏が撤退


インディアナ州予備選でトランプ氏に大敗を喫し、選挙戦からの撤退を

表明するクルーズ上院議員=3日夜、インディアナポリス

米大統領選の共和党候補者指名争いで、獲得代議員数が2位だったクルーズ上院議員(45)が3日(日本時間4日午前)、選挙戦からの撤退を表明し、実業家のトランプ氏(69)が同党の指名を獲得することが確実な情勢となった。同日に行われたインディアナ州予備選で同氏が大勝し、クルーズ氏が選挙戦の継続を断念した。

 クルーズ氏は、同日夜のインディアナ州での集会で、支持者を前に「我々は選挙戦から撤退する」と表明。一方、トランプ氏は早くも民主党のクリントン前国務長官(68)との対決を見据え、「我々はヒラリー・クリントン氏を打ち負かす。彼女は偉大な大統領にはなれない」と自由貿易に対する政策の違いなどを強調し、「(本選挙が実施される)11月に我々は勝利する」と述べた。

 これまでの獲得議員数で3位のオハイオ州のケーシック知事は依然撤退の意向を示していないが、トランプ氏が7月の共和党全国大会前に候補者指名に必要な代議員総数の過半数を獲得するのは確実な情勢だ。

 同党全国委員会のプリーバス委員長は同日、ツイッターで「トランプ氏が共和党候補となるだろう。我が党が団結し、クリントン氏を打倒することに集中する時だ」とコメントし、トランプ氏が指名を獲得するとの見通しを明らかにした。

 一方、民主党のインディアナ州予備選ではサンダース上院議員(74)が、ク
リントン氏を僅差(きんさ)で破り、勝利した。クリントン氏が党の指名を獲得するのは確実な情勢だが、サンダース氏は選挙戦を継続する方針で、最終決着はしばらく先になりそうだ。(インディアナポリス=金成隆一、ワシントン=佐藤武嗣)

【私の論評】元々自衛戦争はできる!護憲派も、改憲派も牛丼を食べるのは違憲とするのはもうやめよう(*_*)

私は、アメリカ大統領選挙戦が始まってから、トランプ氏に対してまともに批判したことは一度もありません。確かに、ときおり理解に苦しむような発言をしたりすることもありましたが、それを除けば、批判もしなかったし、ましてや色物のような発言もしたことはありません。

なぜ、そうなのかといえば、トランプ氏の登場により、日本の安全保障などを含めて、日本がまともな独立国になる最後のチャンスかもしれないと捉えたからです。米国人の多数が、トランプ氏を色物のように語るのは、トランプ氏がここしばらくは、存在しなかったいわゆるエスタブリッシュメント(支配層)の金で息のかかった、操り人形のような候補者ではなく、自前で選挙資金を賄う候補者だからです。

共和党大統領候補になることが決まったトランプ氏
アメリカでも、多くの人々がほんの一部のエスタブリッシュメントにより、直接・間接に多くの恩恵を被っています。このような人たちは、トランプ氏を色物扱いして、決して大統領になってはいけない人物として排斥しようとしました。ところが、一方にはエスタブリッシュメントの恩恵など何も受けていない人たちも、大勢というか、こちらのほうが遥かに多数派です。

しかし、社会においては、エスタブリッシュメントや、その恩恵にあずかる人たちが、高い地位にあります。様々な組織において高い地位にあります。この人たちはは、エスタブリッシュの意向にさからえば、自分の立場を捨てることになります。だからこそ、トランプ氏を色物扱いして、最初から大統領としては全くふさわしくない人物という見方をしてきたのです。

私は、トランプ氏が、あのような過激な発言をしたのは、自身が自分はエスタブリッシュメントの息のかかった、操り人形ではないことを、多くの人々に強烈に訴えるための手段であり、今日トランプ氏の試みは、十二分に成功したといえます。

憲法記念日の昨日札幌大通り公園に集まった護憲派の人々
昨日は憲法記念日でしたが、、日本の護憲派といわれる人たちは、ほとんどがアメリカの大統領選挙に関しては無視です。本当に不思議です。

しかし、今回米大統領戦の共和党候補者選びでは、トランプ氏が本決まりです。この状況だと、トランプ大統領が誕生したとしても、不思議でもなんでもないよう状況になってきました。トランプ氏が大統領になったとしたら、日本として真剣に考えるべき課題が多々あります。

その一つが、安全保障問題です。トランプ氏は、北大西洋条約機構(NATO)や国連などの国際機関への資金分担は不相応に多いとするとともに、日本や韓国、サウジアラビアといった同盟諸国との関係についても不公平であるとしています。

日本に対しては、在日米軍の負担増額を要求し、できなければ撤退し、最終的には日本の核兵器保有を容認する姿勢をみせました。

この発言は、米国はいついかなるときも必ず日本を守ってくれるという平和ボケを通り越したお花畑的発想を考え直す良い機会を提供してくれているともいえます。。

防衛というと、いろいろな立場がありますが、一つは非武装中立の立場で、国連などの場で外交努力をするが、自国による防衛をしないというものです。このような非現実的な「お花畑」のような論を唱える人はいまも結構多いです。これは、全く問題外です。このような論を展開する人は、永世中立国の立場であるスイスがどれだけ国防に時間とコストかけているのか、理解できないし、理解しようともしない、愚かな人々です。

このような説は、全くの問題外として、自国の防衛を行う場合には、他国との共同防衛か自主防衛かという選択肢があります。前者は日米同盟を考えると現状に近いものです。後者は、対米追随ではなく完全自主防衛であれば、当然のことながら核兵器保有を考えなければなりません。

日米同盟と自主防衛のコスト比較については、防衛大学校教授の武田康裕氏と武藤功氏による『コストを試算!日米同盟解体 国を守るのに、いくらかかるのか』(毎日新聞社)という本が非常に参考になります。

同書には、日米同盟のコストは1・7兆円、自主防衛コストは24~25・5兆円であると掲載されています。

自主防衛コストについては、いろいろな見方があるとはいえ、日米同盟コストに今の防衛関係費を加えても6・7兆円ですが、自主防衛コスト24~25・5兆円より小さいというこの結論にはあまり変わりないでしょう。

この現実を知れば、日米安保と自主防衛のどちらを選ぶべきかといえば、当然のことながらコストの問題から、現実問題としては日米安保にならざるを得ないです。自主防衛とすれば、トランプ氏が言うように核兵器配備は必須です。

日本が集団的自衛権を認めれば、米国側も日米安保にメリットがありますから、日本側の負担は抑えられます。一方、集団的自衛権を認めず、日本が専守防衛に固執するなら、日本側の負担が際限なく大きくなり、米軍も撤退ということになります。

集団的自衛権の否定論者は、トランプ氏の提案にどう答えるのでしょうか。
昨日の改憲派の集会
このようなことを言うと、すぐに憲法論議となりますが、私は憲法など変えなくても、今のままで、十分集団的自衛も、個別的自衛も可能であると解釈しています。
憲法9条は、日本の憲法学者の主流の解釈では、日本はいかなる場合でも、軍備をしても、それを行使しても違憲であるとしています。
そうして、なぜか日本では、保守派の方々まで含む、ほとんどの人が、憲法9条はそのようにしか解釈しようがないと考えているようです。だから、自衛隊は違憲などとしています。
しかし、憲法9条の解釈はそれだけではありません。憲法学でも少数である、京都学派の解釈によれば、そうではありません。確かに憲法9条では、国際紛争を解決する手段としては、武力をもちいてはならないと明確に示しています。
しかし、自衛のための軍備をしたり、それを行使してはないらないなどとは一言も書かれてありません。だから、京都学派は、日本は自衛のための軍備はできるし、それを行使しても違憲ではないという解釈をしています。
実際、この解釈によれば、日本は自衛隊を持つことも、自衛隊を用いて自衛戦争をすることも違憲ではありません。
そんなことをいうと、護憲派はこの解釈を詭弁だというかもしれません。しかし、これは決して詭弁などではありません。実際、多くの国々の憲法典(文書化された憲法)には、あまり自明の理なので、わざわざ自国を守るために、軍備をしてそれを行使できると明記していないものなどいくらでもあります。
このようなことを言うと、さらに護憲派は、これも詭弁だというかもしれません。そうして、護憲派はきっとこういうことでしょう。「憲法に書かれていないことなど実行できない」と・・・・。
牛丼を食べる優香さん
しかし、これこそが詭弁です。そんなことは、小学生にでも理解できます。彼らの主張は、「憲法には牛丼のことが一言も書かれていない、故に牛丼を食べることは違憲である。違憲であることは絶対にやってはいけない。故に、牛丼を食べてはならない」と言っているのと何ら変わりありません。
私自身は、憲法改正を拙速にやってはほしくありません。憲法9条などの解釈を変えれば、当面の間安全保障などに関して何とでもできるはずです。
だから、いずれ改憲するのは、必須とは思いますが、改憲するというのなら、日本の国柄や歴史を踏まえた日本人による日本人のための優れた憲法を目指すべきものと思います。

そのためには、ある程度時間をかける必要があります。防衛戦争できないから、すぐ改憲ということもないと思います。そんなことをしなくても、自衛隊は違憲でもないし、集団的自衛権も違憲でもないですし、そもそも日本は最初から防衛戦争はできるという解釈は成り立ちます。

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2015年12月16日水曜日

夫婦同姓規定は合憲 再婚禁止6カ月は違憲 最高裁が初判断―【私の論評】「ゆとり教育」と同じく周回遅れの「選択的夫婦別姓」だが(゚д゚)!

夫婦同姓規定は合憲 再婚禁止6カ月は違憲 最高裁が初判断

再婚禁止期間」訴訟、最高裁で違憲判決が出され、「違憲判決」
と書かれた紙を掲げる原告側の人たち=16日午後、最高裁
民法で定めた「夫婦別姓を認めない」とする規定の違憲性が争われた訴訟の上告審判決で最高裁大法廷(裁判長・寺田逸郎長官)は16日、「規定は合憲」とする初めての判断を示した上で、原告側の請求を棄却した。原告は「時代の変化に従って選択的夫婦別姓を認めるべきだ」などと主張したが、「夫婦や親子など家族のあり方が損なわれる」との慎重論は多く、世論調査も賛成・反対が拮抗(きっこう)してきた。

一方、「女性は離婚後6カ月間、再婚できない」とする規定をめぐる訴訟で、大法廷は「規定は違憲」と初判断。100日間を超える部分は違憲だとしたことで、国は法改正を迫られる。最高裁が法律を違憲と判断したのは戦後10件目。

夫婦の姓について原告側は「選択的夫婦別姓を認めないことは、婚姻の自由を不合理に制約していて、両性の本質的平等に立脚していない」と主張。「規定は違憲で、国会の高度な立法不作為にあたる」と指摘していた。国側は「民法では、結婚後にどちらの姓を名乗るかについて、夫婦の協議による決定に委ねている。婚姻の自由や男女の平等を侵害していない」と反論。規定に違憲性はなく国会の立法不作為にもあたらないと主張していた。

両規定をめぐっては、法相の諮問機関の法制審議会が平成8年、選択的夫婦別姓を導入し、再婚禁止期間も100日に短縮するよう答申した。しかし、国会や世論の反対が多く、改正は見送られた。民主党政権時代にも改正の動きがあったが、閣内の反対などで法案提出には至っていない。

【私の論評】「ゆとり教育」と同じく周回遅れの「選択的夫婦別姓」だが(゚д゚)!

本日の最高裁の判決は、妥当なものだったと思います。わざわざ、夫婦別姓を法制化してまで実行する必要性などありません。「選択的夫婦別姓を認めないことは、婚姻の自由を不合理に制約していて、両性の本質的平等に立脚していない」との判決は当然のことであると、私は思います。時代遅れの気べ接位

一方、「女性は離婚後6カ月間、再婚できない」とする規定をめぐる訴訟で、大法廷は「規定は違憲」と初判断も妥当なものだと思います。この規定が制定された時代には、誰の子供かわからなくなるという理由もあったので、ある程度は妥当性もあったと思いますが、現在ではDNA鑑定が可能なのでその妥当性も希薄なものになったと思います。

選択的夫婦別姓に関しては、これを現時点で声高に主張するのは、いささか時代遅れの感があります。それについては、以前このブログにも掲載したことがあります。その記事のリンクを以下に掲載します。
選択的夫婦別姓を明記 第3次男女共同参画基本計画策定に向け答申―日本解体始動!!ゆとり教育の二番煎じになるか?
旧姓で北京五輪に出場した女子マラソンの土佐礼子選手「通称使用」は職場など
でも可能になってきたが、不便さはまだ残るとする声もあるのだが・・・・
(2009年03月10日午後、国立競技場で)

この記事は民主党政権時代であった、2010年7月23日のものです。この記事では、「選択的夫婦別姓の導入」は、「ゆとり教育」と同じく、時代錯誤であることを掲載しました。詳細は、この記事をご覧いただくものとして、以下に時代錯誤であると断定した部分を引用させていただきます。
選択的別姓の真実
さて、男女共同参画会議パブリックコメントを募集。約1万3000件寄せられた意見では、夫婦別姓に関する反対意見が多数あったというにもかかわらず、学識者らで構成する同会議傘下の専門調査会で「男女共同参画の実現には選択的夫婦別姓の導入が必要」ということで、あくまで、導入するつもりのようです。夫婦別姓に関して、少し考えただけでも非常にまずいことがおこることがわかります。 
そのうえ、民主党が推進している選択的夫婦別姓制度には以下のような欠陥があります。
●選択的夫婦別姓法案の最大の問題点。それは、夫婦別姓が親子別姓だということです。何人子供がいても子供の姓は皆どちらかひとつに統一されます。いったん決めてしまえば、後で後悔しても同姓に戻すことは許されないのです。 
これでは、"選択的"という接頭辞は、単なる見せかけのものにすぎず、子供にとっては、ものごころがつかないころに決められてしまえば、強制的で決して選択的ではありません。
●夫婦別姓の改正民法には「非嫡出子差別の禁止」として不倫で生まれた子供も非嫡出子として財産を平等に与えるよう定めています。
これに関しては、たとえば、中小企業の社長がなくなったりした場合、不倫で生まれた子供に関してはまったく蓄財に寄与しないどころか、養育費や生活費を与えていたとしても、不倫の子供にも平等に財産を与えなければならないことを意味しています。 
これも、少し考えればどんなことになるかすぐに判ることです。この二つの点に関しては何が何でも、無条件で決定させては絶対にならないことであると思います。
さて、この選択的夫婦別姓に関しては、米国では、現在の日本と同様、結婚によって夫婦は同じ姓になりますが、婚前の姓をミドルネームと言う形で残すのは、普通のことのようです。「私のパパの名前をミドルネームにして使っているの」という女性も多いです。米国では、法律では夫婦別姓に関して決まりはありません。
ところが、米国では1960年代からいわゆるリベラリスト(自由主義者)らによるフェミニズムの影響で、男性からの経済的自立で女性は自由を得るという生き方が吹聴され、夫婦別姓や事実婚を推奨する運動が盛んでした。
だから、アメリカでは働く女性が自分の旧姓を名乗り続けるなどのことが、珍しくないことになっていました。あるいは、実質的には夫婦関係にあるにもかかわらず、結婚せずに、夫婦別姓で、いわゆる事実婚という形をとるカップルも増えました。ところが、この法律にもとづかない実質的な夫婦別姓制度が大きな不幸をもたらしました。
夫婦別姓、女性の社会進出、子育ての外注化という流れの中で米国では多くの男性が妻と子供を扶養する責任を感じなくなっていきました。離婚や未婚の母が増加し、家族という生活の基礎的な基盤を失って苦しむ子供たちが急増しました。皆さんご存知でしょうが、現在アメリカで結婚したカップルのうち、半数以上が離婚します。半数以上ですよ!米国では、離婚は当たり前のことになってしまいました。近いところでは、あのおしどり夫婦で有名だったアル・ゴア氏の離婚が有名ですね。
ペンシルベニア州立大学ポール・アマト教授は「安定的な結婚を1980年の水準まで上昇させれば、停学になる子供を50万人、非行、暴力行為に走る子供を20万人、心理療法を受ける子供を25万人、喫煙する子供を25万人、自殺志向の子供を8万人、自殺未遂の子供を2万8千人、それぞれ減らせる」と警鐘を鳴らしました。
「家族の絆(きずな)」よりも「個人の意向」を優先する社会-。これが何をもたらしたか。米国の女性たちは既に教訓を得ました。「(米国女性は)過去25年間で初めて女性の就労率が下降し、女性の86%が『仕事よりも家庭が大事だ』と思っている」(2002年3月12日付『USAトゥデー』)
日本は米国の過ちを繰り返すのでしょうか?米国でのこうした、法律で定められていない、ライフスタイルにもとづく夫婦別姓がこれだけ社会に大弊害をもたらしているのです。日本が法律に基づく夫婦別姓を導入したら一体どういうことになるのでしょうか? 
米国での、法律に基づかないライフスタイルとしての夫婦別姓が、このような結果を生んでしまったということを、先の学識者らで構成する男女共同参画会議傘下の専門調査会は知らないのでしょうか?一体専門家とはどういう人達なのでしょうか?
選択的夫婦別姓もゆとり教育の二番煎じになるか? 
米国での失敗を学ばないということ、以前にもありましたね、昨日のテレビで「ゆとりの教育」の失敗ということで、結局は「ゆとりの教育」はやめるということが報道されていました。「ゆとりの教育」の導入に当時尽力した中曽根さんがテレビのインタビューを受けていて、「ゆとりの教育」が失敗したことを率直に認めていました。 
ゆとりの教育に関しては、日本が導入の検討をし始めたときには、アメリカではもうとっくに導入されていたどころか、完全に失敗したことが明らかになったため、とりやめて、逆に「若いうちに詰め込めるだけ詰め込め」が合言葉になっていました。
ゆとり教育に関しては、私自身がその酷さに直面したことがありました。工学部志望の東京大学1年生と話をしていて、ファラディーの右手の法則、左手の法則など当然のこととして話をしたら、何と彼女はこの法則を知りませんでした。良く話しを聴くと、高校では物理は選択制となっており、物理は履修していなかったそうです。現在の入試制度では、将来工学部に進むことができる理Ⅰ類でも、物理の試験は受けなくとも良いということを聴いて驚いてしまいました。
要するに、ゆとりの教育という名の下で、受験に必要のない科目は勉強しなくなても良いということが平気で行われていたということです。だから、世界史など全く知らない東大生もたくさんいます。
アメリカのゆとり教育の時代には、高校ではほとんど勉強せず、基礎学力が落に落ちていました。大学の教養の講座でも、得体のしれない今日ではとっくに消滅した講座がたくさんありました。 
個性豊かにというキャッチフレーズのもの、たとえば、「結婚式の講座」とか、「カメラの講座(映像美術などとは異なる)」とか、「ポップミュージック講座(音楽史などではない)」「映画鑑賞講座(これも純粋な意味で学問とはとても呼べないしろもの)」とか、学問とは無関係のものが大真面目で大学で教えられていたものでした。その結果、大学生でも、世界地図で、アメリカを指せないとか、アメリカの地図でニューヨークを指すことのできない人が大勢いました。
日本の大学では、さすがにそこまで乱れなかったのは、幸いなことだったと思います。ただし、日本ではあまりに学生の学力が低いので、大学教育などできる水準ではなく、何と、数学や英語など中学の内容を補講するというところもあるそうです。 
実際、私も函館大学の英語のテキストなどみて驚いたことがあります。水準として、中学の復習ならびに高校1~2年くらいの内容だったと思います。あれでは、とても大学教育など無理と感じてしまいました。さらに、北海道大学の学生など、昔では考えられないくらい読書をしないということがわかってびっくりしたことがあります。 
要するに、学校でも、受験には関係ないことは全くさせないとか、本人も受験に関係ないものは見向きもしないということが、ゆとり教育という名の下に繰り広げられてきたということだと思います。ある程度まとまった、書籍を素早く読んで概略をつかむということは、創造性を育むのに必要不可欠なことだと思います。 
ゆとり教育時代のアメリカの大学生を見て、誤解した日本人の中には、「アメリカの学生はものすごく勉強する」などと評している人もいましたが、事実は違いました。その当時の日本人のまともな学生なら、別に勉強しなくても知っているような常識的な事柄を高校でまったく学んでこなかったので、大学でまともなレポートを書くように要求されると、ひがな一日図書館などに閉じこもり、常識を調べていたというのが実情です。 
日本でも、もっと酷い誤解としては、アメリカの大学全般は入るのがやさしくて、卒業するのが難しいというまことしやかな神話などもありました。しかし、これは、日本でもアメリカでも同じことです。 
昔からアメリカでも、誰でも入れて、だいたい誰もが卒業できる大学がある一方で、誰もが簡単には入れないし、卒業も難しい大学もあります。これは、ゆとり教育が実施されているときでも同じ事だったと思います。 
アメリカの私学の有名校はそれなりに伝統があるので、ゆとり教育などとは無縁のところもありました。ただし、この時代の誰でも入れる大学や中程度の大学での乱れようや、バカバカしさは筆舌につくしがたいところがあったと思います。 
こうした神話が、日本のゆとり教育の導入を助長した面は否めないと思います。アメリカの名門校など、わざわざ調査員を派遣して受験生個々人の素行調査(学力だけでなく、社会貢献なども調べる)まで行なうのと、寄付金(たとえば親が同じ大学卒で経済的に余裕があるにもかかわらず寄付金をはらっていなかったら、合格は望み薄)もからんできますから、場合によっては、日本の大学に入るより難しい場合があります。 
まあ、日本でまともな大学に入れない人がアメリカに行っても、かえって駄目ですね。日本のまともな大学を卒業して、アメリカの大学院に行くなどとか、あるいは日本でまともな大学に入れる人がアメリカの大学に行くというのなら良いでしょうが・・・・・・・。
アメリカで大失敗した「ゆとり教育」なぜ、日本であまり考えもせずに、導入されてしまったのか、今から考えると不思議でなりません。
さて、上記のアメリカの例をみても、選択的夫婦別姓など時代錯誤もはなはだしいことが良く理解できると思います。

アメリカでは、夫婦別姓が法制化されているわけではありません。規定する法律は特に無ありません。慣習法によれば、婚姻時に夫の姓を称するのは慣習によるもので、制定法によるものではありません。女性は、コモン・ロー、制定法及び規則により婚姻時に夫の姓名を称することを要求されません。ただし、要求されないというだけで、現実には夫の姓名を称することが多いです。ただし、これは市場定めのある州においては、その州の定めに従っているようです。

これと、他国の別姓の状況については、以下のリンクをご覧になってください。



選択的夫婦別姓の法制化は、法律によって、"「家族の絆(きずな)」よりも「個人の意向」を優先する社会"を目指すことを意味します。そうしてこれは、上で述べたように、アメリカでは1980年代以降、法律的裏付けはないものの、ライフスタイルとして実行して、惨憺たる結果を招いたわけです。

そのため、今日アメリカでは、声高に選択的夫婦別姓を叫ぶような風潮はなくなりました。日本では、バブル期までには、「個人の権利」をどこまでも追求する傾向がありました。

しかし、バブルの崩壊、崩壊に続く日銀の金融政策の大失敗、政府による財務政策の大失敗などにより、日本経済は長期のデフレに見舞われ、「個の権利」をどこまでも追求できるような時代ではなくなりました。「個」によって分断されている人々にはかなり、生きにくい世の中になりました。

そのような最中に、1000年に一度ともたとえられる、東日本大震災が発生し、その直後から社会に絆を重視する風潮が強まりました。このような風潮を考えると、「選択的夫婦別姓」をわざわざ法制化する必要性は薄れたと思います。

アメリカで「ゆとり教育」で大失敗した後に、日本では周回遅れでこれを導入して、やはり大失敗して、廃止しました。「選択的夫婦別姓」も周回遅れの感を否めません。しかし、選択的夫婦別姓が合憲とされて、法制化などされてしまえば、「ゆとり教育」のように廃止するのは簡単なことではありません。

以上のことから、今回の、最高裁の判断は妥当なものだったと思います。

私は、そう思います。皆さんは、どう思われますか?

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2015年10月31日土曜日

井沢元彦氏がSEALDsに意見 「9条を守れ」の主張は人権侵害―【拡散希望】主流派憲法学者の解釈を踏襲するな!京都学派の解釈に従えば、ほとんど現実世界と矛盾しない(゚д゚)!


井沢元彦氏(写真左)今年1月 写真、動画はブログ管理人挿入 以下同じ

作家・井沢元彦氏は、集団的自衛権行使容認に反対する人たちのやみくもな軍隊否定や護憲主義に疑問を投げかけている。憲法9条を守れと主張することは、ときに人権侵害にも及ぶ状況があるという。週刊ポストの連載「逆説の日本史」における井沢氏の解説を紹介しよう。

* * *
1985年(昭和60)のことである。当時イランと戦っていたイラクのフセイン大統領は、敵国イラン領空を飛ぶ飛行機はたとえ民間航空機であってもすべて撃ち落とすという、とんでもない声明を発表した。当時イランにいた日本人二百人余りは直ちに脱出しようとしたが、脱出のための航空機派遣を政府から依頼された日本の民間航空会社はこれを拒否した。労働組合が反対したのである。

もっともこれは当然の反応ではある。ミサイルが飛んでくるかもしれない危険空域に丸腰の民間機が入ったら乗務員の安全は保証できない、反対したこと自体は責められない。だからこそ、こういう時のために訓練を積んだ軍隊というものが必要なのである。警察では国外の戦争が絡んだ事件に対処する能力も権限もない。

しかしそういう能力を持った自衛隊機は現地に飛べなかった。日本社会党を中心とする護憲派が「海外派兵絶対反対」と強く反対したからである。このためイランの首都テヘランに残された日本人約二百人は脱出できず、中には死を覚悟した人もいたという。


助けてくれたのはトルコであった。トルコ共和国政府の意を受けたトルコ航空の民間パイロットが名乗りを上げ、危険を冒してテヘランに飛び日本人全員を脱出させてくれた。実は1890年(明治23)、トルコ海軍の軍艦エルトゥールル号が日本の紀州沖で沈没した時、近くの村の日本人が命がけで乗組員多数を救助してくれたという話がトルコでは歴史の教科書に載っていて、「その借りを返すため」に命がけで助けてくれたのである。

ところが、この行為に対して感謝するどころか、もっとも不快に思ったのが「護憲派の守護神」朝日新聞である。朝日は記事でトルコが助けてくれた理由を、日本が「トルコ経済援助を強化している」からだと書いた。要するに「カネがもっと欲しいんだろう」と貶めたのである。朝日がなぜそんなことを書いたか、これをきっかけに「軍隊は必要だ」という議論が高まることを恐れ「カネをバラ撒いていれば大丈夫だ」と思わせたかったのだろう。

こんな事件が過去にあったことを、つい最近まで国会を包囲していたSEALDsの若者たちは知っているのだろうか? そしてまた同じような事件が起こったら「海外派兵絶対反対」と叫んで、再び「平和憲法を守るため」戦うのか?


エウトール号の遭難や、テヘランでの日本人救出に関してはこの動画をご覧ください

以上のような事例を知った上で、まだ「日本に軍隊は必要ない」と叫ぶなら、それはそれで仕方がない。論理を受け付けない人間と議論はできない。しかしそうでないなら言おう。

 軍隊の必要性を認めた上で「憲法九条を守れ」と主張することは、極めて重大な人権侵害であることに君たちは気がついているのか? 「必要ない」と言うなら仕方がないが「必要」ならば、自衛隊及び自衛隊員は法治国家日本において正式な存在であるべきだ、しかし憲法九条は法律がなんと言おうと彼等の存在を否定している。だから憲法九条を守るということは、実は自衛隊員の地位と権利を正式なものとしては絶対に認めないということになる。

これもわかりやすく時代劇にたとえようか。

ある旗本の家、そこが突然武装強盗に襲われた。先代の嫡男である当主が撃退しようとしたが日ごろから武芸にはうとく、危うく殺されそうになった。そこへ颯爽と登場したのが側室の生んだ次男、つまり当主の弟である。次男の命をかけた奮闘で賊は撃退された。そして、あそこには強い用心棒がいるという評判が立ち賊も敬遠するようになった。何もかも弟のおかげである。

ところが兄は感謝するどころかこう言う。「メカケの子のくせに図に乗るな、お前はあくまで日陰の存在だ。メシは食わせてやるが、名誉も地位も求めるな!」。

どうです? ひどい兄だとは思いませんか? 人間のクズと言っても過言ではないだろう。

しかし「憲法九条を守れ」と言うのは実はこれと同じことで、「自衛隊員よ、お前たちはあくまでメカケの子だ、引っ込んでいろ」と言っているに等しい。そのことに君たちは気がついているのだろうか?

たぶん気がついてはいないのだろう。気がついているならばこんな態度をとるわけがない。瀬戸内寂聴さんや大江健三郎さんのような日本の良心と言われている人たちも気がついていないのだから仕方がない。本当の日本の歴史を知らないからだ。

【拡散希望】主流派憲法学者の解釈を踏襲するな!京都学派の解釈に従えば、ほとんど現実世界と矛盾しない(゚д゚)!

ブログ冒頭の記事の、トルコが助けてくれた話は有名なものです。もし、あの時トルコが助けてくれなかったら、多くの日本人が本当に命を落としたかもしれません。そうして、この事例は日本の安全保障を考える上で非常に良い事例だと思います。

さて、井沢氏が指摘するとおり憲法9条には上記で示すような矛盾があります。しかし、このような矛盾は、日本の東大を頂点とする憲法学者主流派の解釈を踏襲しているから矛盾しているように見えるだけです。

その解釈とは、憲法9条ではいかなる戦力を保持しても、武力を行使してもいけないう解釈です。東大を頂点とする、日本の主流の憲法学者の解釈を踏襲すれば、確かに上記のように、人権侵害を憲法が許容しているようなとんでもないことが起こる可能性がこれからもあり得ます。

しかし、憲法9条に対する解釈を変えれば、このような矛盾は生じません。実際、憲法学会における京都学派の解釈に従えば、このような矛盾は生じません。

では、京都学派の解釈とはどのようなものでしょうか。それに関しては、このブログに以前掲載したことがあります。その記事のリンクを以下に掲載します。
佐々木惣一の「憲法第九条と自衛権」―【私の論評】安保法制=戦争法案としてデモをする人々は、まるで抗日70周年記念軍事パレードをする人民解放軍の若者と同じか?

佐々木惣一氏は憲法学者の中で、京都学派の重鎮だった方です。詳細は、この記事をご覧いただくものとして、この記事から憲法9条の解釈に関する部分を以下に掲載させていただきます。
さて佐々木惣一は戦後、特に力をいれた仕事は、憲法第九条と自衛力との関連のものである。今日の安保法制に関してマスコミの報道では、「集団的自衛権は違憲である」というのがまるで総意であり、「真理」であるかのように喧伝されている。だが敗戦後、佐々木惣一は一貫して、憲法第九条の法理論的解釈として、日本が自衛力を保有することを合憲としていた。ちなみに今日の議論のように、自衛権を個別的自衛権と集団的自衛権にわけて、それを厳密に区分して議論する日本的な風土とは、佐々木の自衛権解釈は一線を画している。つまり自衛self-defenseには、国際的な解釈と同じように、自分(自国)のみならず、親や子など近しいもの(同盟を組んでいる他国など)を守るという意味も含んでいる。
佐々木の自衛権解釈の多くはネットなどで容易に見ることができないせいか、ほとんど忘却されている。まず佐々木は、さきほどの倉山本の内容を紹介したときに言及したように、憲法論と政策論は別にわけて慎重に議論すべきだとしている。つまり憲法解釈がいかに解されようと、それと現実の問題はまた別に認識し、相互の関係を判断しなければならない、という姿勢である。これは佐々木の憲法第九条解釈の重要なポイントである(後の砂川最高裁判決の内容と共鳴する論点ではないかと思案する)。佐々木のこの区別(憲法解釈の次元と政策論の次元の区別)は、彼の戦前からの立憲主義の見方にも通ずるものである。つまり単に条文解釈に安住するのが立憲主義ではなく、その現実的政策、政治のあり方との関連を厳しくみることが、立憲主義の本意である(佐々木惣一『立憲非立憲』)。
佐々木の「憲法第九条と自衛権」をめぐる主張は、まずは純法理論的に行われている。この憲法第九条と自衛権の関係については、佐々木の『憲法学論文選(三)』(有斐閣)を中心に収録されている。ここでは、以下の著作から引用しておく。
「国際関係複雑を極め,諸国間の対立激甚を極める今日,いかなる場合にも,いかなる国家よりも,侵略をうけることがないとは限らぬ。そういう場合に,国家としては,自己の存在を防衛するの態度をとるの必要を思うことがあろう。これに備えるものとして戦力を保持することは,国際紛争を解決するの手段として戦力を保持することではないから,憲法はこれを禁じていない。このことは,わが国が世界平和を念願としている,ということと何ら矛盾するものではない。これは,今日いずれの国家も世界平和を希求していること,何人も疑わないにもかかわらず,戦力を保持しているのと同じである。」(佐々木惣一『改定 日本国憲法論』)。
また佐々木は憲法第九条の条文そのものに即して以下のように詳述する。
「憲法によれば、国家は、戦力、武力による威嚇及び武力の行使については国家が国際紛争を解決する手段としてする、というものという標準を設け、かかる戦争、武力による威嚇及び武力の行使を放棄している。故に、国際紛争を解決する手段としてではなく、戦争をし、武力による威嚇をし、武力を行使することは、憲法はこれを放棄していない。即ち禁じているのではない。このことは、前示憲法第9条第一項の規定を素直に考究すれば、明瞭である。同条項によりて、国家は、戦争、武力による威嚇及び武力の行使の三者を放棄する。換言すれば、してはならぬ、と定めている。が、併し、これらの行動を全般的に放棄しているのではなく、その行動を、国際紛争を解決する手段として、することを放棄する、のである。故に、国際紛争を、解決する手段以外の手段として、戦争することは、憲法により禁ぜられているのではない。国際紛争を解決する手段以外の手段として、戦争をする、という場合としては、例えば、わが国が突如他国の侵略を受けることがあって、わが国を防衛するために、その他国に武力を以て対抗して、戦争をするが如きは、明らかにこれに属する。(略)故に、いわゆる自衛戦争は憲法の禁ずるところではない」(佐々木惣一『憲法論文選(三)』)。 
また第二項の戦力の保持や交戦権についての条文については、まず前者は国際紛争を解決する手段としての戦力保持を禁じているだけであり、自衛のための戦力保持を禁じてはいないとする。また交戦権については、「第一項は戦争するという事実上の行動に関する規定であり、第二項は、戦争に関する意思の活用に関する規定である」として、国際紛争を解決する手段としての戦争をする意思を活用することを表現している。そのためこの交戦権も自衛権を放棄していることではない。
この佐々木の解釈は純粋な法理論のモノであり、現実の政策とは分けて考えるべきだと、繰り返し佐々木は強調している。わかりやすくいえば、どんなに憲法解釈が純法理的にすばらしくても、現実に平和が維持されないでは意味をなさない。そこに佐々木の平和主義的な立場が濃厚に表れる。現在の安保法制議論でも単なる憲法学者の「違憲」表明だけで法案の現実政策的側面が忘却されがちであるが、その点を合わせて考えると、佐々木の視点はいまも鋭い。
また(旧)日米安保条約について、佐々木は米国軍の日本駐屯と憲法第9条は矛盾しないと述べている。この点は純法理的な解釈だけではなく、佐々木がどのように、現実の政策と純法理的な解釈との(緊張)関係をみていたのか、それを考えるうえでも有益である。
佐々木は当時の日本の現実の自衛力を踏まえた上で、「然るに、わが国は、現在では一切の戦力を有していないのだから、自衛のための戦争でも事実、することはできない。それで、自国を防衛する方法として、他国の戦力に依頼し、他国の軍隊をして、わが国の領土に駐屯して、必要に応じてわが国の防衛に当らしめる、ということを定めたのが日米安全保障条約である。これは、わが国が他国の侵略に対して自国を防衛する一方法である。憲法第九条に抵触するものではない」(『憲法論文選(三)』)。
今日では砂川判決をめぐる議論の際に、「判決は日本の個別的自衛権のみについてふれていて、米軍基地は米軍の集団的自衛権に関わる」などの主張がきかれる。これらの「通説」と佐々木の主張がいかに離れたものであるかが、わかるだろう。

佐々木惣一氏は、憲法9条は、国際紛争を解決する手段として武力を用いることを否定しているのであって、これ以外の自衛戦争まで禁じているわけではないと解釈しています。例えば、わが国が突如他国の侵略を受けることがあって、わが国を防衛するために、その他国に武力を以て対抗して、戦争をすることは、明らかにこれにこれを禁じているわけではないとしています。

そんなこと憲法典(文書として書かれた憲法)には、一つも書かれてはいないから、それは詭弁にすぎないという人もいるかもしれません。しかし、憲法9条を端から端まで何度読んでみても、明らかに防衛戦争を否定するとは、はっきりとは書かれていません。

このようなことをいうと、書かれていないからといって、書かれていないことが、なんでもできたらとんでもないこになてしまうから、そんなのは詭弁だというかもしれません。

しかし、そんなことはありません。世界の多くの国々の憲法典でも、自衛権に関してはっきり明記しているものは多くはないです。それは、自然権であり、当然の権利であり、わざわざ記載する必要もないということなのだと思います。

この事実からも、憲法典に書かれていない事柄は、やってはいけいことなどという解釈は成り立たないことが理解できます。であれば、佐々木惣一氏の日本憲法典の解釈は、突飛でも、詭弁でもないことが理解できます。

ブログ冒頭の記事を書いた井沢元彦氏は、おそらく改憲派だと思うのですが、それにしても、佐々木惣一氏らの京都学派による憲法解釈はご存知ないのではないかと思います。確かに、日本主流の憲法学者らの解釈によれば、外国にいる日本人の生命がおびやかされても、日本は何もできないということになってしまいます。

しかし、京都学派の解釈なら、自衛隊そのものはそもそも違憲ではないし、場合によっては、日本人の生命を守るために海外に自衛隊を送っても何ら憲法違反にはならないことになります。

かつては、京都学派の憲法解釈も知られていた時期がありました。私が中学生か高校生だった頃に、社会科の教師が「京都学派」という名称までは語らなかったとは思いますが、憲法学者の中にはこういう考え方の人もいるという話をしていたことを覚えています。

確か、テレビでも、コメンテーターがそのようなことを語っていたこともあったことを記憶しています。

しかし、今では、この京都学派の憲法解釈はほとんどの人が知りません。井沢氏も知らないのだと思います。だからこそ、ブログ冒頭の記事のような矛盾を指摘したのだと思います。

作家といえば、百田尚樹氏もあるテレビ番組で「確かに憲法を字面通りに読めば、軍隊を持てないし、武力も行使できません」と語っていました。おそらく、百田尚樹氏ですら、京都学派の憲法解釈のことなど知らないのだと思います。

百田尚樹氏

日本の安全保障を考える上で、今の日本の主流の憲法学者の憲法解釈を踏襲すると、ほんとうに矛盾だらけです。しかし、京都学派の解釈であれば、大きく矛盾するようなことはありません。

であれば、私たちは京都学派の憲法解釈を踏襲するべきではないでしょうか。そうすることにより、憲法を改正しなくても、自衛隊を自衛軍とすることもできますし、日本人の生命を守るために、自衛隊を海外に送ることもできます。そうして、実際に他国が日本を攻めたり、日本人の生命を脅かすような軍事行動をとった場合、それに対抗しても、何ら矛盾は発生しません。自衛隊員を日陰者扱いする必要性もありません。

それにしても、どうして日本では京都学派の憲法解釈が顧みられなくなったのでしょうか。私自身は、京都学派の憲法解釈が忘れさられたからこそ、日本の安全保障の論議が全くおかしなことになっているのだと思います。

私自身、憲法解釈としては、こと憲法9条などに関しては、京都学派の見方が正しいと思います。そもそも、日本国憲法は、GHQが作成したものを下敷きにして作成されたものです。そうして、GHQには当時コミンテルン(旧ソ連のスパイ)が多数存在していました。

そのコミンテルンらが、日本国憲法草案に関わったとされています。これは、ベノナ文書などでも明らかにされています。

当時のコミンテルンがソ連に有利になるように、日本国憲法で日本国弱体化を目論んだのでしょうが、さすがに彼らも「日本国には防衛権すらない」などとはっきりと、憲法典に明記することはできなかったのでしょう。

もし、「日本国には自衛権がない」という条文を日本国憲法に盛り込んだ場合、さすがに日本国弱体化を目論むマッカーサーや、米国大統領や議会もこれではあまりにもあからさまということで、承認しなかったことでしょう。そもそも、西欧諸国にとっては、自衛権は独立国にとって「自然権」であるという大前提があります。さすがに、この大前提を崩すことはできないかったと思います。

実際には、ひよっとすると、コミンテルンは「日本には自衛権がない」という条文を盛り込んでいたかもしれませんが、そんなことではとても独立国の憲法としては認められないということで上層部に却下されて、今日の日本国憲法になったのかもしれません。

いずれにしても、憲法典に書いてあることだけは正しくて実行しても良いことであり、書かれていないことはとにかく何が何でも実行してはいけないなどということでは、あまりにも硬直的であり、それはもうすでに、実務的な政治や法律の世界とはかけ離れており、それはすでに宗教の領域です。それも、宗教の権威だけが正しいとする教条的、強権的なものであり、それこそ、イスラム過激派、原理主義者などとあまり変わりないと思います。

日本の護憲派は、行動ではさすがに、過激派や原理主義者のような酷いテロ行為はしませんが、考えたは非常に似ていると思います。テロリストにとっては、自分たちの考えが絶対的ですが、日本の護憲派にとっては、憲法典そのものが絶対的なものになっていて、京都学派などの憲法解釈などは全く受け付けません。

こんな状態を打破するためには、井沢氏や百田氏ですら知らない、京都学派の憲法解釈を拡散していく必要があると思います。井沢氏や百田氏だって、これを知れば随分と考え方が根本から変わると思います。

私は、そう思います。皆さんは、どう思われますか?

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2015年6月11日木曜日

小川 榮太郎氏の安保法制に関するFBコメント―【私の論評】畳水練(たたみすいれん)の学問に正当性はあるのか(゚д゚)!



心ある国会議員の皆さんへ。

以下の点を明確にして頂きたいと思ひます。

安保法制は、当座、日本の安全保障を現実に確保する為の生命線である。中国の脅威は最早一刻も座視できない。国民を本当に守るには、憲法の文言との整合性の神学論争ではなく、安全が保障されるか否かの議論に国会が集中すべきは明白だ。

これは憲法の軽視ではない。

「憲法典」よりも「憲法=国体」そのものの規範性を重視する憲法学の大原則に従ふものだ。

憲法学的な議論から言えば、

○➀国際法、そして②「文言としての憲法典」ではなく「としての憲法」の2つが、国家に保障してゐるのは、「自衛権」そのものである。(文言としての憲法典だけならどう見ても自衛隊は9条違反である。)

○「日本国憲法」といふ憲法典の文言には、「個別的自衛権」と「集団的自衛権」を区別する如何なる記述もない。これは誰がどう読んでも事実である。両者の区別は読む側の恣意に過ぎない。

○つまり、本来すべき議論は、国際法とconstitutionが保障している「自衛権」が発動できるかどうかだけである。

○皆、神学の幻想の中に潜り込んでそれが見えてゐないだけ。

○憲法学者は、本来、constitutionと日本国憲法の整合性こそ研究すべきなのに、文言の神学論争だけに血道を上げてゐる。本当のところ、学問的、知的な正当性はない。

【私の論評】畳水練の学問に正当性はあるのか(゚д゚)!

安保法制審議における、憲法学者らの異例の「違憲」陳述に関しては、まさに上で小川氏が語っているように、神学の幻想の中に潜り込んでいるだけで、学問的な正当性はありません。

高橋洋一氏も、これについては、畳水練として揶揄しています。

畳水練については、以下の動画をご覧下さい、一番最初に解説されています。


憲法学者の畳水練については、高橋洋一氏の記事のリンクを以下に掲載しておきます。
安保法制、異例の「違憲」陳述の影響は… 法律学者の議論は「畳水練」
衆院憲法審査会に出席した参考人の(左から)早稲田大の長谷部恭男教授、
慶応大の小林節名誉教授、早稲田大の笹田栄司教授=6月4日
詳細は、この記事をご覧いただくものとして、高橋洋一氏はこの記事で、以下のような結論を出しています。
 所詮、法律学者の議論は、「畳の上の水練」である。国益を守るのは、国民の代表たる政治家が議論して立法によって解決せざるを得ない。国会は唯一の立法機関(憲法第41条)であり、その構成員である国会議員が法律を作らざるを得ないからだ。 
 また、法律学者が法律について「憲法違反」かどうかの憲法解釈をするわけでもない。これは司法の権限である。 
 これらの意味で、今回の参考人意見が安保法制に影響を与えることはまずないはずだ。ただし、国民への丁寧な説明は必要だ。
まったく高橋洋一氏の語っている通りと思います。憲法学者が違憲としたことに、左右される必要性は全くありません。

こんな畳水練なら良いかもしれないが(゚д゚)!
これらの学者らは、上の記事で小川氏が語っていたように学問の正当性を毀損していると思います。彼らは、学問の世界だけに浸った深海魚のようです。

さて、学問というとあの経営学のドラッカーが語っていたてことを思いだします。

「社会人教育の発展が意味することの一つは、科目のそれぞれに学ぶに適した時期があるとの認識である」(『断絶の時代』)

ドラッカーは、実社会において経験を積んだあとのほうが効果的に学ぶことのできる学科は、やがて学校に戻ってくるまで勉強を延ばしておくべきだと言っています。いずれ学校に戻ってくることが確実な世の中になりつつあるからです。

経験を積んだあとのほうがはるかに勉強できるという科目は多いです。マネジメントがその一つです。

その他、法律、医学、教育学、建築学、その他あらゆる学問に、経験のない若者では学び取ることのできない科目、あるいは初心者には不要な科目というものがあります。

目標管理、事業の分析、さらには目標の設定とそのバランス、目前のニーズと遠い将来のニーズの調和について学ぶには、人間としての成熟に加え、組織で働くという実際の経験が必要です。

仕事の意味を真に理解できるのは、目標を設定し、人を組織し、コミュニケーションを図り、動機づけを行ない、仕事を評価し、人を育成したことのある者だけです。

そのような経験がなければ、マネジメントに特有の仕事として提示されるものも、理解することはできません。水に入ったことのない者に泳ぎを教えることは至難です。水圧を体感できなければ、泳ぎのなんたるかは理解できません。まさに、畳水練は全く意味がありません。

「重要な科目ほど経験を積んだ後のほうが学びやすい。しかも、それらの科目の多くは、まさに経験を積んだ者が必要とする知識でもある」(『断絶の時代』)

畳水練では訳に立たない
上記の憲法学者らは、まさに憲法が適用されている現場では全く経験を積んでいません。憲法学も、まさに一定期間まともな組織で経験を積んだ者でなければ、その本質を学ぶことはできません。

現在でも、ドラッカーのいうように、社会人になってから、学校に戻ってくることは困難です。しかし、学校に戻らなくても、勉強はできます。

私達も、学んだことが畳水練にならないように、日々仕事をしつつも勉強を欠かさず、勉強したことと実社会との関係を良く認識するようにすべきです。

そうして、今では、大学や大学院に社会人枠があった、インターネット上の教育も充実するようになり、学校に戻ることができるようになりつあります。もし機会があったら、学校に戻り社会経験をしてはじめて理解しうる学問を学ぶべきです。

そういうことが、当たり前の社会になれば、畳水練しかしたことのない人が国会で陳述するということもなくなるでしょう。政治家らも、学校に戻って勉強ができるようになれば、もっとまともな政策論争ができるようになるかもしれません。特に政権交代して、下野した党のメンバーなどが、学校に戻ることができるシステムができると良いと思います。

まさに、ブログ冒頭の記事を書かれた、小川 榮太郎氏は、日々仕事をしつつもそれだけに埋もれることなく、現実社会を知りつつ勉強を続けてきたのだと思います。畳水練の憲法学者とは、大きな違いです。

私は、そう思います。皆さんは、どう思われますか?

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(2012-09-13)

ドラッカー名著集7 断絶の時代
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特報 米国司法省 IR疑惑で500ドットコムと前CEOを起訴 どうなる岩屋外務大臣―【私の論評】岩屋外務大臣の賄賂疑惑が日本に与える影響と重要性が増した企業の自立したリスク管理

特報 米国司法省 IR疑惑で500ドットコムと前CEOを起訴 どうなる岩屋外務大臣 渡邉哲也(作家・経済評論家) まとめ 米国司法省は500ドットコムと元CEOを起訴し、両者が有罪答弁を行い司法取引を結んだ。 日本側では5名が資金を受け取ったが、立件されたのは秋本司被告のみで、他...