水泳の足ヒレを付けて100mハードル走。19.278秒が世界記録だそうです。 |
人間の創造性に関してはたくさんのパラドックスがあるが、そのなかのひとつは、制限があるほど創造性が高まるらしいということだろう。われわれは、想像力は完全に自由な状態を必要とすると思いがちだが、実際の創造的プロセスは、厳密な約束事や形式上の条件と深く絡み合ったものなのだ。
・・・・・・・・・<中略>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
詩の形式がいつまでも廃れない理由を説明している。ソネットという形式があるおかげで、より大局的な思考が行われ、平凡な連想を超えた、オリジナルな詩が生み出されるのだ。きっかり3音節で韻を踏んでいる言葉を見つけたり、弱強格に合う形容詞を思いついたりしなければならないおかげで、詩人はありとあらゆる予想外の連想に出合うことができる。
ポール・ヴァレリーが言っていたように、「芸術が固有に備える制限によって、その想像が鈍ってしまうのではなく刺激される時、人は詩人となる」。彼らは、束縛に進んで入りこむことによって、拘束を超えているのだ。
更新:読者の「DW」は、チェスタトンの素晴らしい警句を教えてくれた。「芸術は制限のなかにある。絵画において、もっとも美しい部分は枠だ」
【私の論評】企業経営では制限は創造性を高めているが、行政がそうならないのはどうしてか?
上の記事では、詩を例としてあげていましたが、私が真っ先に考えたのは、企業経営でした。ご存知のように、企業経営で必要な資源は、ヒト・モノ・カネそうして情報です。そうして、どの経営者も、これらの資源を十分にありあまるほど使ってできる人はそうそういるものではありません。そうして、それは、従業員も同じことです。
限られた人員、限られた資金で、事業を継続させたり、新規事業をたちあげたりします。有り余る資源を投入してできることなどまず、ほとんどないといって良いと思います。そうして、特に民間営利企業の場合は、最初から経済的な大きな制約があります。そうです。すばらしいことを成し遂げたとしても、利益が出なければ、何をやっても結局は評価されないのです。これは、大きな障害です。
ジョブスにも制約はあったろう |
また、有り余る資源を用いて、事をなすというなら、誰でもできます。そうではないから、高い評価を得ることができるのだと思います。大枚をはたいて、企業買収して事業を展開したというだけなら、何の評価も受けません。だから、経営はアートでもあるといわれるのかもしれません。
これと同じようなことで、ドラッカーが面白いことを言っていたことを思い出します。ドラッカーは、政治の役割について、天候にたとえて、政治ができることは、「気象を変えることはできるが、天気は変えることはできない」というものです。政治が扱う対象を地球の天候だとすれば、低気圧や高気圧や、前線などの気象のような大きな事象を変えることはできるが、東京の本日の天気のような、天気を変えることはできないということです。
気象は変えられても天気は変えられない |
これは、なかなか良いたとえだと思います。そうして、このことの事例として、エリザベス朝の大蔵省(日本の政治システムはもともとは、イギリスを範として導入されたため、かつてのイギリスには日本の大蔵省と同じ省があった)の構成人員は、大臣を含めて、十数人しかいなかったということをあげていました。
大蔵省の人員が、わずか10数名であったということは、今の時代と比較すると全く考えられないことですが、それは、事実です。これは、何も大蔵省に限らず、他の省でも同じようなものです。人員が限られているという制約があったため、エリザベス朝の大蔵省は、瑣末な要請があったとしても、即座に「NO」といって、本質的な仕事にのみ集中しました。そうして、当時の日の出の勢いであった大英帝国財政を支えたのです。
そうです。もともとは、政府の仕事は、いわゆる基盤(インフラ)を整備することであって、本来その基盤の上で実務をするのが、民間営利企業であり、民間非営利企業なのです。ちなみに、当時のイギリスでは、いわゆる社会福祉的な仕事は、全国にある市町村のNPO(非営利団体)が一手に引き受けていました。
ちなみにエリザベス朝のイギリスといえば、いまのイギリスとは比べようもなく、先進的で革新的でした。統治していたのも、イギリス本土だけではなく、全世界の植民地を支配していました。こんな大国の財務をわずか、十数人の大蔵省が一手に引き受けていたのです。これでは、確かに今の政府のような瑣末なことを引き受けている余裕などありません。
大英帝国最大版図 |
しかし、最近のイギリスの政府はどうかといえば、当時と比較にならないほどの人員を抱えています。そうなると、人員には障害はないので、上の記事でも指摘していた、いわゆる大局的にものみれなくなるのではないかと思います。
無論、今からエリザベス朝の大蔵省にもどることはできないでしょうが、私たちは、ありあまる人員で政務をこなすことが決して良いことばかりではないことを認識すべきと思います。
まさに、上の記事で語っているようように、人手にも時間にも制約があるからこそ、エリザベス朝の大蔵省は、瑣末なことはせずに、大局的にものをとらえて、対処することができたのだと思います。そうして、ご存知のように、その任を十分に果たすことができたのだと思います。
最近のイギリスはといえば、いわゆる、STUPID諸国の仲間入りをしてしまうほどの体たらくです。それでも、サッチャーのときには、大きな改革を行い、ブレアのときには、いわゆる働くための福祉(対象者にお金を提供することを中心にすえるのではなく、働けるように助ける福祉)に切り替えたり、また、エリザベス朝のように社会福祉にNPOが大きな役割を果たすように、NPOがイギリスの社会福祉にしめる役割を明確に位置づけをした法律を制定したりしています。
翻って日本はどうなのでしょうか。今日本は、20年間にもおよぶデフレから未だに脱却できないでいます。デフレは、人間の体にたとえれば、癌のようなものです。まさしく、経済の癌です。これは、何をするにも、大きな障害です。デフレである限りにおいては、いくら、雇用対策をしても、その場しのぎの対処療法にすぎません。景気も良くはなりません。何をやっても、何かを良くしようと思えば、何かが駄目になるというモグラ叩きになってしまいます。今の日本の最大の障害は、数多くありますが、こと国内に限っていえば、デフレが最大の障害です。その他は、これに比較すれば、瑣末なことだと思います。
デフレ日本で普通に見られるようになった光景 |
こういう障害があればこそ、政治家は、創造性を発揮して、これを解決していくのが筋ですし、優れた起業家が、創造性を発揮して困難をのりこえていくように、粉骨砕身すべきと思います。しかし、そうではありません。多少の例外はあれ自民党政権時代もおおむねそうでしたが、民主党政権になってからますます酷くなったと思います。何の疑問も、おそれも感じることなくデフレの最中に、増税まっしぐらに突き進もうとしています。
こうした政治家の馬鹿さ加減を長期間にわたって見せつけられると、上の記事で言っているところの、制限や障害があるから、創造性は高められるというのは、間違いではないかと思ってしまいます。それは、間違いであり、「制限や、障害」があると知覚できるセンスがあるかないかで、創造性は決まってしまうのではないかと思います。
そうして、これは、何も政治家だけてにあてはまるのではないと思います。今日の企業は、過去と同じことを繰り返せば、いずれ潰れます。変化をしないことのほうが、変化をすることよりも、余程大きなリスクとなり障害となります。しかし、多くの人は、変化を厭います。変化しないことのほうを好むようです。これも、やはり、政治家のように「制限や障害」があると知覚できるセンスがないということと同じではないかと思います。皆さんは、どう思われますか?
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