2017年9月10日日曜日

教育分野への経産省の「領空侵犯」は歓迎すべきだ―【私の論評】現在の日本の学校は、知識社会の現状に対応していない(゚д゚)!

教育分野への経産省の「領空侵犯」は歓迎すべきだ

この閉塞感は日本だけだから


 教育現場に生産性は必要ない?

経済産業省は、'18年から教育現場で新たな事業支援を始めることを発表した。

具体的には、教育現場の生産性を高める目的で、授業や部活の外部委託の援助をする。たとえば、外部講師がインターネットで、生徒一人ひとりのレベルに合わせた授業を行う場合や、「休日出勤」を強いられる部活動の顧問の代わりに、外部の人物に部活動の指導を依頼する際には資金援助を行う。教育現場の改善にむけ、ベンチャー企業を学校に紹介するともいう。

この事業支援は'18年度予算の概算要求に盛り込まれる予定だが、そもそも教育現場は文部科学省の管轄。経産省はうまく折り合いをつけてやっていけるのだろうか。

霞が関の各省庁は縦割りでしっかり区切られているが、実は経産省は伝統的に各省庁の事業に首を突っ込むことで有名だ。

たとえば外務省の管轄である外交の場では、かつては「通商交渉」として外務省と競いながら、ある意味「二元外交」をしてきた。また、電気通信の分野では、かつての郵政省の電波行政に対して、通信産業の振興を目的に主導権争いをしてきた。

今回も教育という文科省の分野に、経産省が口を挟んできたわけだが、こうした省庁間での政策の競争をよく思わない人間も霞が関の中にはいて、今回の経産省の政策にも否定的だろう。

そうした人からは「教育はビジネスではない」という批判が出てくる。「聖職者」である教師の仕事を外部に委託させるとか、ベンチャー企業に学校教育の一部を託すとか、結局企業を儲けさせたいだけなのでしょう、と言いたいのかもしれない。

あたかも教育現場に生産性は必要ないという理想主義を持っているかのようだ。

 教育現場はもっとよくなる

たしかに、今の教育基本法第9条では「法律に定める学校の教員は、自己の崇高な使命を深く自覚し、絶えず研究と修養に励み、その職責の遂行に努めなければならない」と、教員の崇高な使命を規定している。

学校教育に株式会社が参入することについて、強硬に反対しているのは文科省だ。学校教育法では、学校は国公立か学校法人設置かに限られ、株式会社の参入は認められていない。小泉政権の時、すったもんだの議論の末、特例として特区内では「株式会社立学校」も認められた。

しかし「株式会社立学校」では私学助成金がもらえず、また法人への寄付についても税制上の優遇措置がなく、財政的に不利だ。そのようななか、現存するインターネットを活用した通信制の株式会社立学校は頑張っているほうだ。

この「株式会社立学校」だけでなく、塾や予備校は文科省からみれば日陰の存在だ。時には、それらの存在を気に食わず、潰しにかかることもある。

実際のところ、学校を文科省が認めた学校法人に限るという規制は、諸外国では見られない。学校において多様性を認めない日本の文科省はガラパゴス的な存在だ。

そうした日本の教育行政を変えられるなら、経産省の教育支援はいいことだ。経産省が他省の縄張りに「領空侵犯」しても、文科省の行政に活を入れるためなら許されてもいいと筆者は考える。政策間競争が行われれば、結果として国民にはメリットになるはずだ。

【私の論評】現在の日本の学校は、知識社会の現状に対応していない(゚д゚)!

誰もが教育を大事にし充実すべきだと言います。でも、その費用に見合うものを得ていると思う人は滅多いないと思います。

教育は放っておくにはあまりに大きな問題になりました。知識社会においては、教育がキャリア、機会、昇進を左右するからです。


ただし、知識社会といった場合、知識の意味が20世紀の時代と比較すると変わったことを認識しなければなりません。

20世紀に知識といわれたものは、百科事典に掲載された内容のようなものでした。ですから、20世紀に知識人と言われた人々は、今日の感覚からすると単なる物知りに過ぎませんでした。

21世紀になってから、しばらくして、先進国のほとんどが知識社会に入ってから、この知識の意味が変わりました。知識社会における知識とは、具体的に仕事に適用できる知識を意味するようになったのです。そうして、百科事典に掲載されている内容のようなものは、情報と呼ばれ、知識とは明確に区別されるようになりました。

知識と情報は、異なります。たとえば、救急医療に用いられる医学知識を思い浮かべて下さい。最近の救急医療に用いられる知識は現場で具体的な治療方法として使えるものであり、それもかなり高度な治療に適用できるものです。

そうして、知識社会とそうでなかった時代との大きな違いは、知識社会以前は富の源泉が、お金でしたが、知識社会においては、知識が源泉になったのです。

お金は制約条件に過ぎなくなりました。お金がなければ、いかに優れた知識があったにしたとしても、会社であれば、人材を確保したり、設備投資もできません。しかし、お金がいくらあっても他社を出し抜くような高度な知識がなければ、現代企業は富を生み出すことはできません。

このような知識社会になったにも関わらず、それに対応すべき学校は、現状では教員の生産性が低過ぎます。

教員の生産性を上げ、成果を上げさせ、彼らの知識、技能、努力、献身を無駄にすべきではありません。

生徒や学生の成績不振は学校の責任であり、そう考えない教員はすべからく恥ずべきです。あらゆる組織の構成員が、成果に責任があります。教育者も自分の成果には責任があります。成績の悪い学生を責めることは許されないです。なぜなら、成績の悪い学生を生み出したのは、教育者の責任だからです。

これは、企業内での教育を考えると、よく理解できます。現場に何もできない社員しか配置できない、人事部は無能と謗られても致し方ありません。まともな会社の人事部は、採用から社内教育までかなり計画的に実践的に行います。個々人の能力、傾向、個性を把握して、配置を決め、それに見合った教育を行います。これには、あまりに労力がかかるので、一部あるいはかなの部分を外注に頼る企業もあります。

しかし、現在の学校は、現在の知識社会に対応していません。ただし、これは現場の教師だけの責任ではありません。やはり、大きな責任は文科省にあります。すでに生徒や学生が反旗をひるがえしています。教室で教えていることが退屈で無意味であるとしています。教育の重要度は増しているにもかかわらずです。

学校はもはや新しい世界への窓ではありません。唯一の教育の場でもありません。残念ながら、古びた代用品にすぎません。なぜなら幼児でさえ、テレビなどを通じて生々しく外の世界を見ているからです。今日の電波、インターネットなどの通信、メディアはその方法と形態において、コミュニケーションの達人であるからです。

子供たちはなぜ学校が退屈きわまりないのか、息が詰まるだけのところになっているのかを知りません。しかしテレビの水準に慣れ親しんだ彼らは、今日の教え方では受けつけません。許された唯一の反応が勉強をしないことです。

知識社会においては知識はすぐに陳腐化する
知識社会では、方法論にかかわる知識が必要となります。これまで学校では教えようとさえしなかったものが必要になるのです。知識社会においては、学習の方法を学んでおかなければならないのです。

知識社会においては、すぐに陳腐化する教科内容そのものよりも、学習継続の能力や意欲のほうが、重要です。知識社会に入ってすでに数十年になった現在では、生涯学習が欠かせません。したがって学習への規律が不可欠です。

実際には、何を行うべきかは明らかです。事実、何千年前からとは言わないまでも何百年も昔から、継続学習への動機づけとそのための規律は知られています。

優れた美術の教師が知っています。優れたスポーツのコーチが知っています。最近の管理者研修用の資料によれば、組織内の優れた「助言者たち」が知っています。

彼らは、生徒を指導し、生徒自身が驚くような優れた成果をあげさせます。その結果、生徒は興奮し、意欲を持ちます。とくに、継続学習に欠かせない厳格な規律を伴う絶えざる作業と訓練に対して意欲をもつことになります。

音階の練習ほど退屈なものはないです。それでもピアニストは、大家になればなるほど、音階の練習を忠実に繰り返します。毎時間、毎日、毎週繰り返します。

ピアニストは日々音階の練習を繰り返す
同様に、外科医も、優秀であればあるほど、傷口の縫い目を正確に合わせるための練習を毎時間、毎日、毎週繰り返します。

ピアニストは、何ヶ月も、あくことなく音階を練習します。しかし演奏の技術は、ごくわずか向上するだけです。でも、このわずかな向上が、すでに内なる耳によって聴いている音楽的成果を実現さるのです。

外科医も、何ヶ月もあくことなく傷口を縫い合わせる練習をします。しかし、指の技術はごくわずか向上するだけです。しかし、このわずかな向上が手術のスピードをあげ、患者の命を救うのです。

外科医は日々傷口をぬ言わせる練習をする
あらゆる組織のマネジャーも同じです。そうして、彼らには同じことを日々繰り返し練習し、より効率よく、より上手にできるようになることも必要ですが、さらに日々生まれる新たで高度な知識を身につけることが重要です。

物事を「達成」するには、それもより良く達成するためには、以上のような積み重ねが必要不可欠です。このように継続的に学習する、意欲を持って進んでいくためには、やはり生徒を指導し、生徒自身が驚くような優れた成果をあげさせる。その結果、生徒は興奮し、意欲を持つ。ここがポイントになっていくのでしょう。

これをできるようにすることこそ、真の意味での教育革命になります。ブログ冒頭の記事にある、「教育現場の生産性を高める目的で、授業や部活の外部委託の援助をする」という経産省の試みはこれを目指すというものではないですが、それにしても現場の教師の生産をあげるために役立つことは間違いないと思います。

これには、すでに先行事例があります。米国では、数十年前に病院で調査が行われましたが、その当時の看護師の最も大きな不満は、ペーバーワークがあまりに多すぎて、患者のケアそのものができないというものでした。

そうして、その対処策として、ある病院でペーパーワーク要員(事務員)を増やして、看護師にペーパーワークそのものをやらせないようにしました。そうしたところ、病院の生産性は飛躍的に高まったのです。

その後このようなやり方が、世界標準となっています。特に先進国では病院の事務は事務員が実施するというのが当たり前になりました。日本でも、大きな病院に行くと、事務員が大勢いる様子を見ることができます。

このような事例もあることですから、経産省の新たな試みは必ず何かの成果生み出すものと思います。実際、現在の学校の教師のスケジュールはあまりにも過密であり、今の状況では確かに本来の子どもたちの教育にさける時間は少ないです。

まずは、日本の教育現場はあまりに遅れているので、このようなところからの改善から勧めていかざるを得ないのです。ここまで遅れてしまっのは、やはり文科省の責任が大きいです。

それから、株式会社学校に関しては、日本では2004年から2009年春までに全国で高等学校21校、中学校1校及び小学校1校が設置されました。既存の学校と違い、カリキュラムを自由に組んで特色を打ち出すことができたり、校舎や運動場等の施設についての条件が緩いのが利点ですが、逆に私学助成金が受けられず、また学校法人への寄付には認められている税制上の優遇措置がないという財政的に不利な点があります。

私自身は、株式会社学校には、学校はそもそも営利組織ではないという観点から反対ではあるのですが、それにしても、日本では非営利組織も欧米と比較すれば、生産的ではないし、その中でも学校の生産性は極めて低いので、選択肢の一つとして株式会社学校も認めては良いのではないかと思います。

とにかく、現在の日本の学校は、知識社会の現状に対応していないのは事実です。この問題もいずれなんとかしていかなければならないです。

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