まとめ
- 飛鳥は1つの固定された都ではない。592年から694年までの約100年間、複数の天皇宮を中心に、難波や近江への移転を挟みながら国家形成が進められた政治空間である。
- 天武天皇が構想した藤原京を持統天皇が完成させ、694年に遷都した。藤原京は710年まで約16年間、持統、文武、元明の3天皇が宮を置いた、我が国最初の本格的な計画都市である。
- 飛鳥・藤原で築かれたのは官僚制度だけではない。外来文明を我が国の皇統、祭祀、祖先観、自然観と融合させる、日本独自の霊性の文化も形づくられた。
2026年7月26日、韓国・釜山で開かれた第48回世界遺産委員会は、我が国が推薦した「飛鳥・藤原の宮都」を世界遺産一覧表に記載することを決議した。登録を直接決定したのは、ユネスコ事務局や諮問機関のイコモスではなく、世界遺産条約に基づく政府間委員会である世界遺産委員会である。
「飛鳥・藤原の宮都」は、我が国で27件目の世界遺産となった。宮殿・官衙、仏教寺院、墳墓など19の構成資産から成り、中国大陸や朝鮮半島との交流を通じて、日本列島に中央集権国家が形成された過程を示す文化遺産である。登録基準は、文化的価値の交流を示す基準(ii)と、文明や文化的伝統を伝える物証としての基準(iii)であった。
だが、遺跡の価値だけを並べても、飛鳥・藤原の本質は見えてこない。誰がこの地に宮を置き、何を恐れ、何を目指して国家を築いたのか。当時の世界では何が起きていたのか。そこまで描いて初めて、飛鳥・藤原は我が国が日本になった歴史の舞台として立ち上がる。
1️⃣飛鳥から藤原へ――誰が日本国家を築いたのか
「飛鳥・藤原の宮都」という名称から、1つの都が長く続いたように思う人もいるだろう。しかし、飛鳥と藤原京では性格が異なる。飛鳥とは、現在の奈良県明日香村周辺に複数の天皇宮が置かれ、宮殿、役所、寺院、工房、庭園が次第に集積した政治空間である。後の平城京や平安京のような、初めから計画された恒久的都市ではなかった。
飛鳥が政治の中心となった起点は、592年に推古天皇が豊浦宮で即位した時とされる。ただし、飛鳥が694年まで途切れず都であったわけではない。645年には孝徳天皇が難波長柄豊碕宮へ移り、667年には天智天皇が近江大津宮へ移った。したがって、592年から694年までの約100年間、飛鳥を主な舞台としながら、難波や近江への移転を挟んで国家形成が進められたと見るべきである。
| 藤原宮跡 AI生成画像 |
推古天皇の政権を支えたのは、皇太子の厩戸皇子、後の聖徳太子と、大臣の蘇我馬子であった。推古天皇を名目的な君主、厩戸皇子や蘇我馬子を単独の実力者とみなすのは正確ではない。推古天皇の下で、皇族と有力豪族が政権中枢を担ったと考えるのが妥当である。この時代には、冠位12階、憲法17条、遣隋使、仏教寺院の造営が進められた。
中国では589年に隋が統一国家を築き、618年には唐が成立した。推古朝は、東アジアの秩序が再編される中で、倭国が自らの立場を定めようとした時代であった。
その後、舒明天皇は飛鳥岡本宮、皇極天皇は飛鳥板蓋宮、斉明天皇は後飛鳥岡本宮を営み、さらに天武・持統両天皇の飛鳥浄御原宮も同じ一帯に置かれた。現在の飛鳥宮跡では、同じ場所に4時期の宮殿が重なって築かれたことが発掘調査で確認されている。宮を移す伝統を残しながら、政治機能は次第に特定の地域へ集積していった。
皇極天皇の時代には、蘇我蝦夷と蘇我入鹿が大きな権力を持った。しかし645年、中大兄皇子と中臣鎌足らが蘇我入鹿を討った乙巳の変により、蘇我氏本宗家の支配は崩れた。その後の大化改新は、豪族が個別に人民や土地を支配する体制から、天皇を中心とする国家が人民、土地、租税、軍事を把握する体制へ移ろうとする改革であった。ただし、その完成には数十年を要した。
斉明朝では、中大兄皇子が皇太子として大きな政治的影響力を持ち、朝鮮半島政策を主導したとみられている。660年、唐と新羅の連合軍によって百済が滅亡し、倭国は百済復興を支援したが、663年の白村江の戦いで敗れた。668年には高句麗も滅亡し、東アジアの勢力図は一変した。
白村江の敗戦は、我が国の国家形成を加速させた。唐や新羅の侵攻を警戒し、北部九州には防人が置かれ、水城や山城が築かれた。戸籍、租税、地方行政、軍事動員を整えなければ、国を守れない。中央集権化は、大陸文明への憧れではなく、国家生存のための改革でもあった。
天智天皇の死後、672年に壬申の乱が起きる。これに勝利した大海人皇子は飛鳥へ戻り、673年に天武天皇として即位した。天武天皇は、八色の姓を定め、律令と国史の編纂に着手し、皇族を中心とする統治体制を整えた。この時代は、後世の摂政や関白が政治を動かした時代ではない。天武天皇自身が強い主導権を握り、皇后の鸕野讃良皇女や皇族、有力官人がこれを支えたのである。
藤原京の造営を構想したのも天武天皇であった。しかし、天武天皇は遷都を見ることなく686年に崩御する。その構想を引き継いだのが、後の持統天皇である。持統天皇は690年に即位し、694年12月、飛鳥浄御原宮から藤原宮へ移った。
藤原京を構想したのは天武天皇であり、完成させて実際に遷都したのは持統天皇である。藤原京は、天武天皇の構想を持統天皇が実現した都なのである。
藤原京が都であったのは、694年から710年までの約16年間である。宮を置いたのは、持統天皇、文武天皇、元明天皇の3人であった。持統天皇は697年に文武天皇へ譲位した後も、太上天皇として政権を支えた。文武天皇の時代には藤原不比等ら官人が存在感を増し、701年には大宝律令が完成した。ただし、この時点で藤原氏が天皇に代わって統治していたわけではない。藤原不比等は、律令編纂と政務を担った有力官人の1人として位置づけるべきである。
藤原京は短命な都だった。しかし、飛鳥で約100年をかけて築かれた国家の骨格が、初めて都市の姿を取った場所である。中央に藤原宮を置き、その周囲を道路で区画し、内裏、大極殿、朝堂院、官庁街、寺院、市場、官人の宅地を配置した。ここで、天皇を中心とする律令国家は目に見える形となった。
2️⃣激動する世界の中で、外来文明を日本化した
飛鳥・藤原の国家建設は、世界から隔絶した島国の出来事ではない。中国では隋に続いて唐が成立し、巨大な官僚制国家を築いた。朝鮮半島では百済と高句麗が滅亡し、新羅が半島の大部分を支配した。西方ではイスラム勢力が急拡大し、ササン朝ペルシャを滅ぼし、東ローマ帝国から広大な領土を奪っていた。
7世紀は、国家と文明圏が激しく組み替えられた時代である。飛鳥・藤原で国家建設を進めた先人たちは、その変動の中にいた。巨大な唐帝国が存在し、百済と高句麗は滅び、我が国は白村江で敗れた。国内でも蘇我氏の没落、近江遷都、壬申の乱が続いた。
我が国は、国家としてまとまらなければ存続できない状況に置かれていた。その答えが、天皇を中心とする政治秩序、律令、戸籍、租税、官僚制、地方行政、軍事、外交、都城の整備であった。
| 高松塚・キトラ古墳風壁画 AI生成画像 |
我が国は中国大陸や朝鮮半島から、仏教、漢字、律令、都城制度、建築、測量、造瓦、金属加工などを学んだ。だが、大陸国家の複製になったわけではない。飛鳥の宮は自然地形に合わせて営まれ、藤原京も大和三山との位置関係を持つ独自の都市構造を備えていた。
外から来たものを拒絶しない。だが、無条件に従属もしない。必要な制度と技術を選び取り、我が国の国土、社会、歴史、皇統、祭祀に合わせて組み替える。それは模倣ではなく、受容と創造である。
飛鳥には、宮殿跡、寺院跡、古墳、山、川、水田、集落が一つの風景の中にある。世界遺産の構成資産にも、飛鳥宮跡や藤原宮跡だけでなく、飛鳥寺跡、山田寺跡、本薬師寺跡、石舞台古墳、天武・持統天皇陵古墳、キトラ古墳、高松塚古墳が含まれている。政治、信仰、葬送、生活の場が一体となって、国家形成の物語を伝えているのである。
ここに、日本独自の霊性の文化の原型を見ることができる。日本人は古来、山、森、岩、水、土地を単なる利用対象とは考えず、自然の中に人間を超えたものを感じてきた。祖先や死者も、現在の暮らしから完全に切り離された存在ではなかった。その土壌の上に仏教を受け入れたのである。
日本人は、在来の祭祀を捨て、すべてを仏教に置き換えたわけではない。古来の祈りを残しながら外来宗教を受け入れ、日本独自の信仰文化へと育てていった。飛鳥時代に後世の神仏習合が完成していたわけではないが、異なる信仰を共存させ、日本化する方向はすでに現れていた。
天武天皇と持統天皇の合葬陵にも、その変化は表れている。天武天皇は土葬、持統天皇は火葬とされる。1つの陵墓の中に、在来の葬送と仏教の影響が重なっている。
飛鳥・藤原で築かれた国家は、法令と官僚組織だけで成立したのではない。天皇を中心とする祭祀、祖先とのつながり、国土への畏敬、仏教による祈りが重なり、政治共同体を精神的な共同体へと形づくった。
飛鳥・藤原は、大陸文明の辺境に造られた模倣都市ではない。激動する世界から学びながら、我が国が国家、皇統、文化を守るために築いた政治的、文化的、精神的な基盤なのである。
3️⃣登録はゴールではない――国家の記憶まで守れ
世界遺産登録は喜ばしい。国内外から訪れる人が増え、宿泊、飲食、交通、地域産品への波及も期待できる。だが、入場者数や観光消費額だけを成功の基準にすれば、飛鳥・藤原の本質を失う。
飛鳥・藤原の価値は、巨大な建築物を見ることではない。多くの宮殿や寺院は地下に眠り、地上には古墳、礎石、土壇、草地、水田が残る。そこから山並みを眺め、かつての都を想像し、国家を築いた人々の祈りや不安に思いを致すところに、この遺産の価値がある。
派手な観光施設、巨大な看板、過剰な照明、景観を圧迫する建築物を並べれば、一時的に集客できるかもしれない。だが、大和三山への眺望や田園の静けさを損なえば、世界遺産として認められた価値そのものを傷つける。
| 明日香村の田園景観 AI生成画像 |
保存責任を負うのは、抽象的な「ユネスコ」ではない。条約締約国である日本が責任を負い、国の関係機関、奈良県、橿原市、桜井市、明日香村、地域住民、寺社関係者が連携して守らなければならない。世界遺産委員会やイコモスは保全状況を審査し、勧告する機関であり、日常の保存管理を直接担う主体ではない。
必要なのは、発掘調査、壁画や地下遺構の科学的保存、交通対策、災害への備え、地域住民の暮らしとの両立、次世代への教育である。デジタル技術や拡張現実を使い、地下に眠る宮殿や寺院を景観を損なわずに可視化することも有効だろう。現物を過剰に復元し、古代のテーマパークに変えるべきではない。
ここで必要なのが「常若」の発想である。常若とは、古いものを固定することでも、壊して新しく見せることでもない。守るべき精神と記憶を継承しながら、保存技術と伝え方を時代に合わせて更新し、次の世代へ渡すことである。
飛鳥・藤原で守るべきものは、石や土だけではない。山並み、田園、静けさ、地域の暮らし、そして我が国を築いた人々の記憶まで含まれる。
結論――我が国が日本になった場所
飛鳥・藤原で生まれたのは、古い都や官僚制度だけではない。推古天皇の時代に飛鳥へ政治の中心が置かれ、乙巳の変、白村江の敗戦、百済と高句麗の滅亡、近江遷都、壬申の乱という危機を経て、天皇を中心とする国家の骨格が築かれた。
天武天皇が構想し、持統天皇が完成させた藤原京では、その国家が初めて計画都市として目に見える形を得た。外国から学びながら、外国の模倣で終わらない。我が国の歴史、国土、皇統、祭祀、祖先観に合わせて作り変える。日本文明の基本的な作法が、飛鳥・藤原で明確な形を取り始めたのである。
自然を畏れ、祖先を敬い、仏に祈る。政治と祈り、国家と国土、生者と死者を完全に切り離さない。その霊性の文化は、法律や建築物の背後にあって、日本という共同体を精神的に支えてきた。
世界遺産登録とは、古い遺跡が国際的な観光地になったというだけの話ではない。世界が認めたのは、東アジアとの交流と危機の中で、日本列島に中央集権国家が形成された過程を示す考古学的価値である。
飛鳥・藤原に刻まれているのは、我が国がいかにして日本になったのかという記憶だ。
だからこそ、我々が守るべきものは、遺構だけではない。
飛鳥・藤原に宿る、日本人の祈りと国家の記憶まで守らなければならない。
主に、推古朝の制度説明、世界史の概説、藤原京の都市構造、観光・保存論の重複を圧縮し、各章が「国家形成」「日本化と霊性」「保存責任」の主題から逸れないよう整えた。
【関連記事】米国建国250年、自由の国が見失った「魂」――日本は霊性の文化を眠らせるな
2026年7月4日
自然への畏れ、祖先への敬意、祭り、共同体に残る日本の霊性文化を論じた記事。飛鳥・藤原で育まれた「祈りの文化」が、現代の我が国にも受け継がれていることを考える手がかりになる。
皇統を守れない政権は日本を守れない――高市政権は「立法府の総意」に屈するのか 2026年6月24日
皇統が単なる皇室制度ではなく、我が国の歴史的連続性と統治の正統性を支える国家の芯であることを論じた記事。飛鳥・藤原で形を整えた天皇中心の国家を、現代へどう継承するかを考える上で欠かせない。
皇統はアンケートで決めるな――毎日新聞調査が暴いた旧宮家養子案への浅い理解 2026年6月22日
女性天皇と女系天皇の違いを整理し、皇統を一時の世論や流行で変えてはならない理由を論じた記事。推古、皇極、斉明、持統、元明各天皇を含む女性天皇と、男系皇統の関係を理解する助けになる。
防人を忘れた政治家たち――立憲・古賀千景氏の自衛隊差別発言が暴いた「経済的徴兵制」の欺瞞 2026年6月20日
663年の白村江の敗戦後、水城や山城を築き、防人を置いた古代日本の国防を振り返った記事。飛鳥時代の中央集権化が、大陸への憧れではなく、国家存続のための安全保障改革でもあったことが分かる。
国家の力は“目に見えない背骨”に宿る――日本を千年支えてきた、日本語・霊性文化・皇室・国柄の正体 2025年11月29日
日本語、皇室、自然観、共同体倫理、霊性文化を、我が国を支える「目に見えない背骨」として論じた記事。飛鳥・藤原で生まれた国家の形が、制度だけでなく国柄として続いてきたことを補強する。
0 件のコメント:
コメントを投稿