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2019年10月23日水曜日

石平手記「天皇陛下は無私だからこそ無敵」―【私の論評】知っておくべき、これからも私達が天皇とともに歩み、「世界史の奇跡」を更新し続けるワケ(゚д゚)!

石平手記「天皇陛下は無私だからこそ無敵」

石平(評論家)

 私は初めて日本の「御代替わり」の光景をこの目で見たのは、来日1年後の1989年、平成元年のことである。

 昭和天皇が崩御され、当時の小渕恵三官房長官が「平成」の新元号を発表した。その後「大喪の礼」や「即位の礼」など、御代替わりにまつわる一連の儀式が続々と執り行われた。伝統に則ったそれらの厳かな儀式をテレビや新聞で拝見したとき、当時中国人だった私は大きなカルチャーショックを受け、心が強く揺さぶられた。

 来日前から、日本に「天皇」という存在があることは一般的な知識として知っていたが、「即位礼正殿の儀」は特にすばらしかった。多くの外国元首が見守る中、伝統の黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)を召された天皇陛下(上皇)が高御座に昇られ、即位を内外に宣言された場面を目の当たりにし、一外国人の私は日本の天皇の高貴さと尊厳さ、そして日本という国の奥深さに感銘を受けた。

 そもそも、中国は日本よりもずっと長い歴史と伝統があるはずだが、今となってはその悠長な歴史は単なる「過去」でしかない。ましてや過去の王朝が今も国民に尊敬され、万世一系の伝統を保つことなど、到底ありえない。中国の歴史上、数多くの王朝が存在していたが、それらはすべて消滅して跡形もない。こうした光景を中国で見ることはもはや永遠にできないのだ。

 これに対し、日本の天皇と皇室は、神武天皇以来、126代、2600年以上続いている。このような万世一系の日本の皇室と天皇は、長くても数百年で滅んでしまう中国の王朝といったいどこが違うのか。来日の翌年に日本の御代替りを拝見してから、留学生だった私はずっと、この大いなる問題意識を持っていた。

 留学生活が長くなり、日本の歴史や文化に対する知識と理解が深まっていくにつれ、徐々に、この大いなる疑問を解いてきた気がするが、「日本の天皇の秘密」を自分なりに「分かった!」と思ったのは、来日の5年後に、一般公開された京都御所を訪れ、かつての皇居である施設を拝観したときだった。

 京都御所の中を拝観して、まず驚いたのはその気品の高い質素さである。雄大さや豪華絢爛さにかけては、京都御所は当然、かつての中国皇帝の住まいである紫禁城の比ではない。中国人の目から見れば、京都御所は日本最高位の天皇の住まいにしては質素というよりもむしろ貧相というべきものだ。

 もう一つ驚いたのは、京都御所の無防備さである。深い外堀と高い城壁に囲まれている中国の紫禁城がまさに難攻不落の要塞であるのに比べて、軍事的襲撃を防ぐ機能はほとんどない。軍事的襲撃を防ぐどころか、普通のコソ泥でもあの低い塀を乗り越えてこの「禁裡」(きんり)に簡単に入れるのであろう。小規模の軍勢でも攻めてきたら、御所はまさに裸同然の状態だ。

 しかし、よく考えて見れば、日本の天皇はかつて500年以上にわたってこの京都御所に住んでいたはずだが、別にどこかの軍勢に襲撃されたわけではない。あの大乱世の戦国時代でさえ、どこかの軍事勢力が攻めてきたことは一度もない。

 つまり、日本の天皇と御所は、軍事的に無防備であっても誰かに襲撃される心配はまずない、ということだ。すなわち、少なくとも日本国内においては天皇と皇室に「敵」はいない、だから襲われる心配もない、ということである。

皇居・正殿前の中庭で、古装束姿の宮内庁職員が並び行われた「即位礼正殿の儀」(1990年11月)

 「即位礼正殿の儀」中庭の様子=2019年10月22日、皇居・宮殿(鳥越瑞絵撮影)
 源頼朝であろうと足利尊氏であろうと、織田信長であろうと豊臣秀吉であろうと、圧倒的な軍事力を持っている時の権力者たちに、天皇と皇室を攻めようと考えた人は誰もいない。だからいつの時代でも、天皇と皇室は無防備でありながら常に安全なのだ。

 それでは、どうして日本の天皇と皇室に「敵」はいないのか。実はそれは、中国の皇帝のあり方と比較してみればよく分かる。

 中国の皇帝には常に敵がいる。だからこそ、皇帝の住まいである紫禁城は軍事的要塞であり、紫禁城のある首都・北京自体も高くて分厚い城壁に囲まれている。そして皇帝は親衛隊だけでなく国の軍隊そのものを直轄下において自らの権力基盤にしている。しかし、それでも中国の皇帝は「万世一系」にはならない。一つの王朝が立つと長くて数百年、短くて十数年、必ずやどこかの地方勢力や民衆の反乱が起きて王朝と皇室が潰されてきた。

 それはすなわち中国史上有名な「易姓革命」だが、皇帝の支配下で地方勢力や民衆の反乱が必ず起きる理由は、皇帝と皇室による天下国家の私物化であり、皇帝一族による民衆への抑圧と搾取である。

 皇帝と皇室が天下国家を私物化してうまい汁を吸っていると、「次は俺たちの番だ」と取って代わろうとする勢力が必ず生まれ、天下の万民を長く抑圧して搾取していれば、我慢の限界を超え、民衆の反乱が必ず起きてくるのであろう。

 だから、中国の皇帝と皇室はいくら防備を固めていてもいずれ反乱によって滅ぼされてしまい、皇帝の一族はたいていの場合、皆殺しにされるのだ。

 結局、天下国家を私物化して民衆を抑圧・搾取の対象にしているからこそ、中国の歴代王朝と皇室は常に国内の敵によって滅ぼされる運命にあるが、これこそ、日本の天皇と中国皇帝との大いなる違いの一つだろう。

 中国の皇帝とは違い、日本の天皇と皇室は天下国家を私物化していないし、民衆を抑圧と搾取の対象にしているわけでもない。搾取していないからこそ、皇室は常に財政難を抱え、天皇はあれほど質素な御所をお住まいにしていたのだろう。

 ゆえに、日本の天皇には敵対勢力もいなければ民衆の反乱の標的になることもない。それどころか、最高祭司として常に日本国民全員の幸福をお祈りされ、国民全員にとって守り神であり、感謝と尊敬を捧げる至高の存在なのだ。

 こうしてみると、日本の天皇と皇室は、まさに「無私」だからこそ「無敵」となっているが、「無敵」であるがゆえに、現在に至るまでの「万世一系」を保つことができるのであろう。

「即位礼当日賢所大前の儀」に臨まれる天皇陛下=2019年10月22日、皇居・賢所

 重要なことは、まさにこのような無私の天皇と皇室が頂点に立っているからこそ、日本国民が多くの苦難を乗り越えて一つのまとまりとして存続を保ってきたということだ。そして万世一系の天皇と皇室がコアになっているからこそ、日本の伝統と文化が脈々と受け継がれてきているのであろう。

 そういう意味では、日本国民にとって、天皇と皇室は最も大事にして有り難い存在であることがよく分かるが、再び御代替わりを迎えた今、われわれはもう一度、天皇と皇室の歴史とその有り難さに思いを寄せて、皇室の永続と弥栄(いやさか)を心からお祈りしたい。 

【私の論評】知っておくべき、これからも私達が天皇とともに歩み、「世界史の奇跡」を更新し続けるワケ(゚д゚)!

歴史上、世界各国の多くの皇室(帝室)や王室は悲惨な終わり方をしています。国民や外敵に追放されたり、処刑されたりしました。それは、冒頭の石平氏の記事にもあるとおり、中国も例外ではありません。世界の王朝が頻繁に変わるなかで、日本の皇室だけが万世一系を維持し、天皇は今日、世界に唯一残る「皇帝(emperor)」となっています。その存在は「世界史の奇跡」です。

清王朝の末期、隣国の中国は日本と同じように、皇室を残し、立憲君主制の下、近代化を進めようとしました。しかし、それは失敗しました。いち早く近代化に成功した日本では、皇室が大きな役割を果たしましたが、中国では、皇室が近代化の障害になると見なされました。この違いは、いったい何でしょうか。

石平氏は、これを天皇の「無私」ということにあるのだとしています。私はそうした側面は間違いなくあると思います。ただ、「無私」以外にどのようなことがあるのか、以下に私なりに分析してみようと思います。無論、石平氏は以下のような分析の果に、天皇の「無私」にたどり着いたということだと思いますが、多少教科書的ながら、以下の分析も役立つものと信じたいです。

19世紀末から20世紀初頭、中国では近代化の方法を巡り、立憲派(皇室を残す)と革命派(皇室を残さない)が争いました。


立憲派の代表は康有為や梁啓超ら清王朝の官僚たちで、彼らは当時の中国で、共和制や民主主義を行えば大混乱に陥り、列強の餌食となってしまうので、皇帝制を維持しながら改革を進めていくことを主張しました。彼らは日本やヨーロッパのように、中国にも立憲君主制を根付かせようとしたのです。

一方、革命派の代表は孫文と黄興です。彼らは、清王朝の体制のなかから近代化を行うことは不可能と考え、清を打倒しなければならないと考えました。孫文ら革命派は民族資本家と呼ばれるブルジョワ階級を主な勢力基盤としていました。

孫文と黄興


20世紀に入ると中国でも工業化が進み、ブルジョワ階級が育ちます。孫文は国内の民族資本家や華僑(外国で成功していた民族資本家)の勢力を結集し、革命運動の原動力とします。

民族資本家たちは、清王朝から特権を保証されていた封建諸侯と、利害関係において激しく対立しました。封建諸侯は領土を独占し、民族資本家の商工業にも不当に介入し、税などを巻き上げていました。封建諸侯によって支えられていたのが清王朝であったので、孫文ら革命派・民族資本の勢力にとって、清を倒すことは商工業の自由を獲得するために欠かせないことでした。

清は末期症状のなか、極端な財政難に耐えられず、1911年、幹線鉄道を国有化し、鉄道を保有する民族資本家からこれを没収して財政不足に充てるという強硬手段に出ます。民族資本家は清に怒りを爆発させ、四川で暴動、武昌で蜂起し、辛亥革命となります。彼らは南部地域一帯で、清からの独立を宣言し、南京で孫文を臨時大総統に選出して、中華民国を建国しました。

しかし、清王朝は袁世凱を内閣総理大臣に任命し、革命の鎮圧を命じます。中国北部で軍事力を有していた地方豪族の軍閥という勢力があり、袁世凱はこの軍閥の領袖でした。彼は大軍を率いて、南京にやってきます。

袁世凱は清の体制内部の要人でありながら、清の命運は長く持たないと考え、新しい中華民国の総統になるほうが得策と判断し、革命派と取引します。袁世凱は「私が清の皇帝を退位させることを条件に、私を中華民国の大総統にせよ」と要請しました。

孫文ら革命派は袁世凱の強大な軍を前に、この要請を受け入れざるをえませんでした。しかし、皇帝を退位させ、清王朝を名実ともに終わらせることができるのは大きな前進と捉えました。

大総統になった袁世凱は宣統帝溥儀を退位させ、1912年、清は滅亡しました。こうして、彼ら中国人は秦の始皇帝から約2100年続いた皇帝制と訣別したのです。

ちなみに、中国史上に登場した皇帝は600人以上にのぼります。中国において、皇帝制を葬るために戦ったのが孫文ら民族主義勢力で、皇帝制を葬ったのは袁世凱ら清王朝内部で特権を享受していた軍閥勢力でした。つまり、清王朝は外から仕掛けられて、中から壊れたと言えます。

宣統帝の退位により、皇帝制は終わりましたが、皇帝制とともにあった封建政治は温存されました。袁世凱が政権を握り、軍閥や封建諸侯の特権を保証しながら、孫文ら民族資本家勢力を弾圧しました。孫文らは強大な軍事力を誇る彼らの敵ではありませんでした。

袁世凱は野心をあらわにします。1915年、皇帝に即位し、国号を中華民国から中華帝国に改めます。年号を洪憲と定め、洪憲皇帝を名乗ります。

何の血統の正統性もない者が突如、皇帝になったことに当時の日本をはじめ、世界各国は驚きましたが、中国では易姓革命の伝統があり、血筋に関係なく実力者が皇帝になってきたので、袁世凱自身、自分が皇帝になるのは当たり前だと考えていました。しかし、袁世凱に対する中国国内から反発は強く、彼はわずか3カ月で退位しました。そして、間もなく、失意のうちに病死します。

袁世凱が病死した後も、軍閥勢力と孫文ら革命派との対立は続き、近代革命は進展しません。第1次世界大戦後、北京の学生が中心となり、五・四運動という反帝国主義運動を展開します。

民衆の政治への関心の高まりを感じた孫文は以後、民衆を取り込み、革命勢力を形成する方針をとります。孫文はそれまで、エリート主義的なブルジョワ革命を目指してきました。しかし、この考え方を変え、民衆全体を取り込み、革命を推進していこうとしたのです。

以後、中国では共産党勢力が急速に拡大し、猛威を振るうようになります。1925年、孫文は「革命いまだ成らず」という有名な言葉を残して、病死します。後継者の蒋介石は孫文と異なり、共産党を危険視し、弾圧します。蒋介石は毛沢東と激しく対立しますが、もはや、共産党の拡大は誰にも止められない状態でした。共産主義者が唱える平等社会が平民たちに広く受け入れられていきます。

中国では、ヨーロッパと異なりブルジョワ市民階級が未成熟でした。皇帝制を打倒した後に、その受け皿となるべき民族資本家たちが国家を強力に牽引していく存在にはなれませんでした。

1912年、辛亥革命で清が倒れたとき、牽引者不在のなかで中国は方向性を失います。秩序がもろくも崩壊し、共産主義が圧倒的多数の貧民の支持を得て勢力を拡大します。つまり、皇帝制崩壊により、中国では共産主義国家の誕生が避けられない事態となっていたのです。

毛沢東(1919年)

日本も中国と同様に、ヨーロッパのようなブルジョワ階級は未成熟でした。代わりに、従来の特権階級であった藩主や武士が近代革命を担いました。

17世紀のイギリス市民革命でも、18世紀のフランス革命でも、国王をはじめ多くの特権階級が処刑されています。フランス革命では、日々の大量処刑を迅速に執行するために、ギロチンが考案されました。ヨーロッパの近代革命は血生臭い暴力が付いて回り、それは中国の易姓革命と同質のものでした。

日本の近代化である明治維新では、そのような血生臭い暴力は最小限に抑えられました。革命への穏健な姿勢が終始貫かれ、日本独自の絶妙なバランス感覚で体制の旧弊を漸次改変しながら、近代化が進められていきました。日本の近代革命は「アンシャン・レジーム(旧体制)」を急進的に打破していく、ヨーロッパ型の近代革命とは根本的に異なっています。

日本の近代化が穏健に進められた背景として、天皇の存在が大きかったと思われます。最後の将軍徳川慶喜は自らの体面を失うことなく、政権から退きました。それは、将軍よりも格上の天皇に、それまで預かっていた政権を返上するという大政奉還の建て前を通すことができたからです。

約270年間続いた江戸の将軍が、薩摩・長州という辺境の家臣に屈服したという恥辱にまみれるならば、幕府勢力は死力を尽くして、革命軍と戦い、血で血を洗う陰惨な内戦に発展した可能性があります。幕府はあくまで大政奉還により、天皇に恭順したのです。超越的な天皇の存在が日本の危機を救いました。

ヨーロッパの民主革命の闘士から見れば、天皇を頂点とする明治の新生国家は、王政復古への逆行と映ったかもしれません。このとき、新生国家を共和制とせず、立憲君主制にしたのは、維新の革命者たちの深遠な知恵でした。

首班や内閣は天皇に対して、責任を負います。そして、彼らは天皇によって大権を与えられます。この大権の実効性を強固なものにするため、多少、天皇を神格化しすぎたというところもあります。しかし、そのような天皇の存在が、困難な改革を実現させるのに大きな役割を果たしたのです。

大政奉還と同様に、廃藩置県は藩の小君主(藩主)たちの実権を天皇に返還させるものでした。封建諸侯である彼らが、自らの特権を手放したのは、彼らよりもずっと身分の低い足軽上がりの革命者(西郷隆盛や大久保利通など)が命じたからではなく、天皇の大命を仰いだからでした。

聖徳記念絵画館壁画「廃藩置県」

武士の忠義からして、天皇の大命には逆らえず、封建時代の実質的な実力者であった彼らのほとんどは潔く身を引いたのです。その潔い精神というものは、他国の特権階級には見られません。彼らの多くは処刑台の前に引きずり出されるまで、悪態をつき、暴言を吐きながら抵抗しました。

日本には、鎌倉幕府から江戸幕府に至るまで、将軍という世俗の権力者の上に、天皇という超越的な存在がありました。この二重権力構造が続き、朝廷が維持されたことが近代日本に幸いしました。日本が過激に社会秩序を崩壊させることなく、緩やかな変革を実現することができた最大の理由がここにあります。

中国は王朝がコロコロ変わる易姓革命を繰り返したため、天皇のような国家の中核存在を持つことができませんでした。維新の革命者が孫文のように共和主義を掲げ、朝廷を廃止していたならば、日本も中国と同じように、無秩序と混乱に陥っていたことでしょう。

われわれの父祖たちは、つねに天皇と共に歴史を歩んできました。これからも、私達は天皇とともに歩み「世界史の奇跡」を更新し続けることになるのです。

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