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2015年3月5日木曜日

日本の国民負担率は低いのか 消費税に依存する欧州を持ちだす財務省の魂胆 ―【私の論評】正味国民負担率は、スウェーデンよりも高い日本の現実を直視せよ! この事実を糊塗して、詭弁を弄する騙し屋財務省に諜略されるな(゚д゚)!

日本の国民負担率は低いのか 消費税に依存する欧州を持ちだす財務省の魂胆 
2015.03.05

昨年暮の衆院選は、安倍総理と財務省との全面対決だった
写真図表はブログ管理人挿入 以下同じ
国民所得に占める税金や社会保険料などの割合を示す「国民負担率」が、2015年度は43・4%となり、4年連続で過去最高を更新すると財務省が見通している、という報道があった。

それによれば、日本の国民負担率はOECD(経済協力開発機構)33カ国中7番目の低さである。財務省は、国際的にみても国民負担率が低いのだから、もっと高めてもいいという魂胆なのだろう。

ただ、日本より負担率が高い26カ国中23カ国は欧州の国々で、日本より低い6カ国中には欧州の国は1つしかない。非欧州の先進国9カ国中では4番目に国民負担率が高い国であり、日本の国民負担率は決して低いとはいいがたい。

その上、国民負担率の定義では、分母を国民所得にするが、海外では国内総生産(GDP)にすることが多い。というのは、GDPと国民所得の関係をいうと、GDPに海外からの純所得を加えて国民総生産を産出し、それから国定資本減耗を控除し、さらに純間接税を控除したものが国民所得になる。

つまり、分母を国民所得にすると、税収に占める間接税(消費税など)の割合が高い国の国民負担率は見かけ上高くなるというバイアスが出てしまうので、OECDのような国際機関では、分母は国民所得ではなくGDPにするのである。なお、分母をGDPにすると、国民負担率の低さはOECD33カ国中9番目となる。日本より低い数字の8カ国中、欧州の国は3カ国に増える。

財務省のように、分母を国民所得にして国民負担率を計算し、それが世界より低いから、増税すべきだというロジックに安易に乗ると、消費増税がベストな手段となってしまう。というのは、所得税増税も消費増税もともに、分子が大きくなるのは同じだが、消費増税のほうが分母を小さくするので、より国民負担率を引き上げることになるからだ。

いずれにしても、消費増税のために、財務省は都合の良い数字を出してくる。しかし、欧州が消費税に依存せざるを得ないのは、それぞれが地続きの小さな国で、しかも人の移動の自由が確保されているという事情がある。このため住所を定めて徴収する所得税、資産税などの直接税にあまり依存できない。

『21世紀の資本』の大ベストセラーで有名になったフランス人のトマ・ピケティ氏が格差問題解消のために、国際的に資産課税を主張するのは、今の消費税中心の欧州の実情を嘆いているという側面もあるのだ。 (元内閣参事官・嘉悦大教授、高橋洋一)

この記事は要約です。詳細は、こちらから(゚д゚)!

【私の論評】正味国民負担率は、スウェーデンよりも高い日本の現実を直視せよ! この事実を糊塗して、詭弁を弄する騙し屋財務省に諜略されるな(゚д゚)!

上の記事では、国民負担率の分母の数字国民所得にするとバイアスが出ることを指摘していました。上の記事でも十分消費税増税などすべきではなかったし、これからも増税すべきでないことははっきりしています。

しかし、消費税をあげようがあげまいが、日本国民の税負担の重さは、もともと半端ではありません。それについてはしばらく掲載していませんでしたので、本日再度掲載することにしました。

これについては、随分前にこのブログに掲載してそのままになっています、まずはその記事のURLを以下に掲載します。

【参院選序盤情勢】民主失速 民主目標「54」下回る可能性―スウェーデンよりも国民負担の重い日本でもボストン・ティー・パーティーを開こう!!

この記事は、 2010年6月のもので、民主党政権時代のものです。民主党政権になってから、初の参院選の直前の記事です。この記事では、その当事の国民負担率を掲載するとともに、スウェーデンと日本を比較して、国民負担率などではなく現実の国民負担はどの程度なのかを明らかにしました。以下にその部分のみ掲載します。
スウェーデンよりも国民負担の重い日本 
世間一般では、日本では何か税金がスウェーデンよりも低く、将来の社会保障などのことを考えれば、増税もやむなしという意見も多くなってきています。しかし、この議論、何かを忘れています。さて、財務省から出されている税金と社会保障費を含めた、国民負担率は以下のような数字で表されます。

          租税負担+社会保障負担

国民負担率 = -----------------------
国民所得




財務省による

各国の国民負担率


アメリカ    34.5%


日本      40.1%


ドイツ     51.7%


フランス    62.2%



スウェーデン  70.7%

スウェーデンは高福祉だが高負担だ、といいたいのでしょうか。確かに、スウェーデンの国民負担は70%くらいと見えますが、実際には政府は「あずかる」だけで、政府は素通りして、そのまま右から左へ50%を国民に配るのです。それがばらまきかどうかは別として、金額としては国民から集めてそのまま国民に配るので国民は負担していません。  
100万円もらったお給料のうち70万円天引きされたましたが、同時に50万円振り込まれました、その場合国民負担70.7%といえるのでしょうか。(但し、高所得者は多くとられて低所得者は大きく戻ってくるので、これは国民全体を一まとめとした場合と考えてください)。 
 国民負担率を諸外国との比較を表にすると上のようになるそうです。これは、2008年度の数字ですが、2007年にはじめて40%を超えたそうです。2007年、2008年というと、「実感なき成長」といわれ、経済が伸びていたはずなのに、どうして国民負担率があがったか理解できないところです。それは抜きとして、問題は一体この数字で何が言いたいのかというところです。 
スウェーデンの本当の国民負担率は、20%程度です。日本は40%ほど集めて15%ほど配るので、本当の国民負担率は25%ほどです。これはスウェーデンより国民負担は重いといわざるをえません。 

正味国民負担率


日本       25%

スウェーデン  20%

ですから、スウェーデンの国民負担率が高いなどというのは錯誤にすぎません。実際日本の財務省だけが、こういう世界に類を見ない「国民負担率」なる数字を発表し続けています。もちろん官僚の出す数字というのは数字そのものは虚偽ということはありません。しかし、毎年「国民負担率」なる数字を発表し、スウェーデンの数字を付記することを忘れない。こんな錯誤を誘発するようなことがいつまでも通用するはすがありません。  
この記事によれば、この当事のスウェーデンの本当の国民負担率である正味国民負担率は、20%程度ですが、日本は当事から25%であり、かなりの負担だったということです。

そうして、昨年の4月から増税をしたため、国民負担率は当時の、40.1%からさらに43.4%になったということです。本当の負担率が上昇し、25%を超えたということです。25%超えはとんでもないことです。

スウエーデンと日本とは単純比較はできない!

このように、世界でも高水準のの正味国民負担率の高さにもかかわらず、消費税増税をしてしまったのですから、増税後に消費が落ち込んで、マイナス成長になったのは当然のことです。

それにしても、財務省は性懲りもなく、増税のするためこのようなだましを続けています。こんなだましに、加勢して、多くの似非識者どもや、新聞などのマスコミも増税キャンペーンを続けてきました。もう、私達は詭弁を弄する騙し屋財務省に諜略されるべきではありません。

私は、そう思います。皆さんは、どう思われますか?

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2014年1月5日日曜日

北欧の教育王国はなぜ崩壊したのか? スウェーデンの学力凋落の原因を探る―【私の論評】人口も歴史も違いすぎる!北欧諸国幻想は間違い!日本には日本独自の教育システムが必要!本当に必要なのは、他人評価であり、それを受け入れるためには鋳型が必要である(゚д゚)!

北欧の教育王国はなぜ崩壊したのか? スウェーデンの学力凋落の原因を探る


個性重視で知られる北欧諸国の教育環境が、急速に悪化している。中でもスウェーデンの学力低下が深刻で、経済協力開発機構(OECD)が先日公表した2012年実施の国際学習到達度調査(PISA)では、全3教科の得点がOECD平均を大きく下回った。かつて教育先進国とも呼ばれたスウェーデンの教育はなぜ崩壊したのか、背景を探った。(川瀬弘至)

日本とは55点差

「北欧諸国の成績が急落した原因は?」

「もう少し詳しいデータを出してほしい」

昨年11月27日に文部科学省で行われたPISA結果発表のブリーフィング。記者たちの質問が集中したのは、日本をはじめアジア勢の成績が上昇したことと、北欧諸国の成績が急落したことへの原因分析だった。

PISAは、各国・地域の学校に通う15歳の男女を対象に「読解力」「数学的応用力」「科学的応用力」の3教科を評価する国際学力テストだ。2000年から3年ごとに行われ、5回目の今回は65カ国・地域から約51万人が参加した。

 その結果発表で、北欧諸国の低迷が浮き彫りになった。このうちスウェーデンの状況は、日本と比べてみると分かりやすい。例えば2003年調査の読解力の得点は、国別順位8位のスウェーデンが14位の日本より16点も高かった。しかし06年以降、脱ゆとり政策に取り組む日本が得点を上げる一方で、スウェーデンは急落。09年調査で8位に上昇した日本に逆転され、今回の12年調査では55点も引き離された。

 この間、北欧諸国でトップを走っていたフィンランドも順位を下げ、日本に抜かされている。

地方分権化の失敗

 「北欧諸国では近年、国家の教育予算を削減し、子供たちの学力向上を地域や学校任せにする傾向がみられる。このため成績上位校と下位校との学校間格差が広がっている」

 PISAの結果分析をしている国立教育政策研究所の担当者がこう分析する。学力低下の背景には、国家の教育政策が影響しているというのだ。

 1990年代のスウェーデンは、徹底した個性重視教育で世界中の注目を集めた。中でも注目されたのは、「教育の地方分権化」と「フリースクール改革」だ。教育への国家の関与を薄め、地域と学校の裁量権を拡大するとともに、民間も参入しての学校選択制(フリースクール)を積極的に導入したのである。

 だが、結果的にこの政策は大失敗だった。自治体によって予算も政策も異なるため、学力の地域間格差や学校間格差が急速に拡大、教育環境の悪化に歯止めがかからなくなった。

移民政策も影響

 もう一つ、スウェーデンの学力低下に決定的な影響を与えているものがある。欧州の中で最も寛容といわれる移民政策だ。

 高福祉国家のスウェーデンは、高齢化による労働力不足を補うため、積極的に移民を受け入れてきた。同国に住む外国生まれの人の割合は、1970年代は7%未満だったが、2000年までに10%を超え、現在は15%前後を占める。

 移民の子供たちは一般の学校に通うので、教室内にスウェーデン語が話せない児童生徒が増加。北欧諸国の教育事情に詳しいノンフィクション作家の河添恵子さんは「両親もスウェーデン語の読み書きができないから、簡単な宿題すら見てあげられない。次第に子供たちは学習意欲を失い、不登校など問題行動が見られるようになる」と話す。

 教育の地方分権化と移民政策により深刻化するスウェーデンの学力低下。国立教育政策研究所の渡辺良・前総括客員研究員は、「子供たちの学力水準を向上するには、学校や地域の取り組みとともに、国家がある程度は関与し、適切な教育行政に取り組む必要がある」と話している。


日本のゆとり教育にも影響?

 スウェーデンの教育は、平成14年度に本格化した日本のゆとり教育にも影響を及ぼしたといわれる。スウェーデンの個性重視政策や教育の地方分権化が世界的に注目されていた1990年代~2000年代初め、日本からも教育関係者らが相次いで視察に訪れ、その政策を評価する書籍や論文が多数出された。

 「(スウェーデンは)弱者にとってはまったく天国のような国であろう。個人教育を実践しているスウェーデンの教育に学ぶことは多大にあると思う」

 平成14年刊行の教育書籍「スウェーデンののびのび教育」には、こんな風に書かれている。

 だが、日本では平成17年以降、子供たちの学力が急激に低下したため脱ゆとり路線に方針転換し、スウェーデンの教育と決別した。

 文科省関係者は「もしも方針転換せず、スウェーデンのように教育政策から国家の関与を薄めていれば、日本でも子供たちの学力低下に歯止めがかからなかっただろう」と話している。

【私の論評】人口も歴史も違いすぎる!北欧諸国幻想は間違い!日本には日本独自の教育システムが必要!本当に必要なのは、他人評価であり、それを受け入れるためには鋳型が必要である(゚д゚)!

上のニュース意外と重要だと思いましたので取り上げさせていただきました。日本には、なにやら北欧幻想のようなものがあります。しかし、日本もこの幻想から、すこしづつではありまずが、覚醒しつつあります。たとえば、北欧の社会保障制度は、崩壊しつつあります。

教育には個性重視というような愚かな論調は、北欧に限らず他の世界、たとえば日本にもあります。この愚かな論調に惑わされて、教育方針を誤ったのが、北欧なのだと思います。とにかく、北欧などの愚かな実験が、左翼系とか、リベラル派といわれる人たちの間で特に、日本でもてはやされているようですが、こんなことは少し頭を使って考えれば、すぐに間違いであることがわかります。

生まれたばかりの子供は個性も何ないものであり、多少あったにしても、それは子供の頃は、さほどのものではないはずです。そうして、それだけでは社会人になることは不可能であり、躾の大部分は家庭にまかせるものの、さらに社会性を身につけさせまともな社会人にするためにある程度の社会人といわれる理想系の鋳型にはめ込むことが教育の原点ではないかと思います。その鋳型があることにより、本来の意味での、個性も発見しやすくなります。個性を伸ばすこともできます。

そこには、家の躾レベルを超えた、社会規範を教えること、まずは、個々人の国(これから人生の大部分を生きていくことになる国)における、社会常識を教えること、さらに社会の上の概念である、国家観をある程度植えつけること、その上にたった国際感覚を身につけるための、基本を学ばせることに原点があるのだと思います。

とにかく、義務教育の範囲では、特に基本的なことはは確実に教え、身につけさせなければなりません。この基本を欠いたまま、義務教育を終える人は残念ながら、犯罪者か、犯罪者でなければ、惨めな敗残者になる以外にありません。最初から個性を重んじていては、多くの教育を受ける人がそうなります。

このような大事な義務教育の期間に、個性などを伸ばすことよりは、様々な知識を身につけさせること、特に基本的なことはある程度の鋳型にはめ込むのが重要なのはいうまでもありません。

このことを無視あるいは、軽視したからこそ、日本のゆとりの教育、北欧の教育が失敗したのです。

「個性」が尊重されることのおかしさについて、養老孟司氏と内田樹氏が対談の中で興味深いやりとりをしていました。以下にそれを引用させていただきます。

『逆立ち日本論』(養老孟司 内田樹 新潮選書 2007)P171~P173より引用
―――――――――――――――――――――――――――


「個性」とは「人を見る目」 

養老:「個性」というものは、その人に内在するものということになっていますけど、それは間違いですよ。古くから日本の世界ではそんなことを言っていません。それは「人を見る目」なんです。 
内田:「人を見る目」が個性とは……。どういうことですか? 
養老:だって、自分の個性なんて主張したって意味がないのです。戦後、「個性」が主張され始めて何が起こったかというと、上役がサボり、教師がサボるようになりました。なぜなら上役や教師というのは、人を見る目がなくちゃできないことだったのです。それで「お前はあっち、お前はこっち」って示してやるのが本来の役目だったのです。それを「個性」という内在型にしたら自己責任だけになっちゃいました。入学願書に「自分の個性」とか書かせるでしょう?本来、「個性」というのは他人の目にどう映るかということのはずでしょう。 
(中略) 
個性なんて違って当たり前だからこそ、「お前はこういうふうに」「お前にはこれは向かない」と違いを見る目が大事なのに、それが「個性」ですべて崩れてしまった。人がどう見ようが「個性」はあるものだということになってしまいました。「見る目」がないと「個性」なんてないも同じです。他人のことがわからなくて、どうやって生きられるでしょう。社会は共通性の上に成り立つものです。「個性を持て」というよりも「他人の気持ちをわかるようになれ」というほうがよいはずです。ぼくが今まで出会ったいちばんの個性派は精神病院にいますよ。 
(中略) 
内田:自己評価とか自己点検というのは外部評価との「ズレ」を発見するための装置だと思うんですよ。ほとんどの人は自己評価が外部評価よりも高い。「世間のやつらはオレの真価を知らない」と思うのは向上心を動機づけるから、自己評価と外部評価がそういうふうにずれていること自体は、ぜんぜん構わないんです。でも、その「ずれ」をどうやって補正して、二つを近づけるかという具体的な問題にリンクしなければ何の意味もない。自己評価が唯一の尺度で、外部評価には耳を傾けないというのはただのバカですよ。 
(後略)
――――――――――――――――――――――――――――
両氏は、「個性」(≒自分の自分に対する評価)自体には何の意味もなく、生きていく上で指針とすべきなのは、周囲の人々が何を期待しているかであり、周りからの評価、他人評価であるとしているのです。

今も昔も、「人を見る目」(≒他人に対する期待・評価)こそが一番の圧力源=活力源になります。自分の中をどれだけ探しても答えは見つかりません。いわゆる、自分だけによる、自分探しなどやっても、永遠にそれは見つかりません。他人評価によってはじめて、自分探しができます。それを知らずに、自分探しを続ける人は、いつまでたっても大人になれず、子供のまま人生を終えることになります。より能動的に周りの人からの期待や評価、あるいは社会状況を指針にしていくことが必要なのです。

義務教育は、本来他人評価を受け入れる素地をつくるのが目的のはずです。個性を伸ばす教育は、一見正しいようにはみえますが、他人評価を受け入れられなければ、それは全く意味をなしません。そうして、その目的を失った反動が、北欧型教育であり、日本でゆとり教育だったのだと思います。ゆとりと、他人評価はそもそもは、あまり関係ありません。しかし、他人評価を受け入れるためには、ある程度の社会常識などを知らなければとても受け入れられるものではありません。

他人評価と自己評価の葛藤が人を育て、個性的にする!

個性を伸ばすためにも、ある程度の鋳型は必要です。これは、音楽の世界にたとえると判りやすいかもしれません。音楽の習い始めに、ピアノなどを習うと、12音階の決まった音しかでないため、それが最初の鋳型となり、その鋳型から外れた音楽や音を良く認識できるようになります。

12音階とは、白鍵7つに黒鍵5つをあわせた音階のことです。音は決してこれだけではないのですが、ピアノやチェンバロの音はこれだけで構成させています。最初はこの音階で音楽を学びはじめて、ある程度までやった人、あるいはそこからさらに絶対音階まで身に着けた人は、ここから外れた音をすぐに察知できます。この12音階は、演奏したり、聴いたりする人が好きだとか、嫌いだとかは、お構いなしに最初から決められています。そこに、個々の演奏者や、聴衆にの個性など全く入る余地もありません。

ところが、最初から管楽器などから音楽の道に入ってしまうと、鋳型がないため、音が外れていても気づかないとか、どれが新しい音であり、どれが新しい音楽なのかもわからなくなってしまうという状況におうおうに陥ります。実際、管楽器から音楽を始めた人が、ピアノで始めた人に対してそういうようなことを言っていたのを一度ならず、何度か聴いたことがあります。

ピアノの12音階は、さまざまな音楽の原型になる!
とにかく、人には原型というものがなければ、精神も発達どころか行き場所を失います。人間の社会においてこの原型にあたるものは、古から家庭においては、父親がその役割を担ってきました。母親はそれこそ、母性的な愛情を注ぎますが、父親は子供が、ある程度の年齢になると、子供に身近な社会を教える存在になります。これが、父性愛というものです。これが、人の原型です。

そうして、この父性愛は、人為的なものとも長い間受け取られてきましたが、そうではないことが最近の類人猿などの研究からわかってきました。たとえば、ゴリラは、いわゆる、社会性に基づく、躾を父親が担っています。子供がある程度大きくなると、父親ゴリラは、子供と一緒に遊び、遊び方や、遊びのルールを教えたりします。ある程度これを覚えたら、他のゴリラの子供と遊ばせたりします。これも、遊び方やルール教えます。子供同士が喧嘩をはじめたら、仲裁したり、悪いことをした子供のほうを諫めたりもします。

ゴリラの父親は、子供に社会性を伝授する。個性尊重は教育はゴリラの教育よりも劣る?

こうした、類人猿の研究から近年、父性愛は人為的なものではなく、本来備わっている能力であることが明らかにされています。このようなことを考えれば、父親というものは、すべからく自信を持って、犯罪や完璧な時代遅れでもない限り、自分の独断と偏見でも構わないので、子供に社会性(躾け)を叩き込むべきなのです。

おそらく、公的教育なども、昔は、こうしたところから発展してきたものではないかと思います。だから、昔の教育では、叩き込みが重視されてきました。吉田松陰先生も、子供の頃は、相当厳しい教育を受け、母上が、あまりの厳しさに憤りを感じていたそうですが、その後の松蔭先生を考えれば、厳しさが、松蔭先生その後の松蔭先生にたいす影響も強かったことが理解できます。こうしたことを無視して、子供の個性尊重などという幻想に浸った連中が、父性などの存在を忘れて、個性尊重の教育をはじめたところ、失敗してしまったというのが真相です。

さて、このブログでは、過去においては「ゆとり教育」の批判もしてきました。その記事のURLを以下に掲載します。

選択的夫婦別姓を明記 第3次男女共同参画基本計画策定に向け答申―日本解体始動!!ゆとり教育の二番煎じになるか?

詳細は、この記事をご覧いただくものとして、ゆとり教育に関する批判の部分だけを以下にコピペしておきます。
選択的夫婦別姓もゆとり教育の二番煎じになるか?
米国での失敗を学ばないということ、以前にもありましたね、昨日のテレビで「ゆとりの教育」の失敗ということで、結局は「ゆとりの教育」はやめるということが報道されていました。「ゆとりの教育」の導入に当時尽力した中曽根さんがテレビのインタビューを受けていて、「ゆとりの教育」が失敗したことを率直に認めていました。ゆとりの教育に関しては、日本が導入の検討をし始めたときには、アメリカではもうとっくに導入されていたどころか、完全に失敗したことが明らかになったため、とりやめて、逆に「若いうちに詰め込めるだけ詰め込め」が合言葉になっていました。 
ゆとり教育に関しては、私自身がその酷さに直面したことがありました。工学部志望の東京大学1年生と話をしていて、ファラディーの右手の法則、左手の法則など当然のこととして話をしたら、何と彼女はこの法則を知りませんでした。良く話しを聴くと、高校では物理は選択制となっており、物理は履修していなかったそうです。現在の入試制度では、将来工学部に進むことができる理Ⅰ類でも、物理の試験は受けなくとも良いということを聴いて驚いてしまいました。 
要するに、ゆとりの教育という名の下で、受験に必要のない科目は勉強しなくなても良いということが平気で行われていたということです。だから、世界史など全く知らない東大生もたくさんいます。 
アメリカのゆとり教育の時代には、高校ではほとんど勉強せず、基礎学力が落に落ちていました。大学の教養の講座でも、得体のしれない今日ではとっくに消滅した講座がたくさんありました。個性豊かにというキャッチフレーズのもの、たとえば、「結婚式の講座」とか、「カメラの講座(映像美術などとは異なる)」とか、「ポップミュージック講座(音楽史などではない)」「映画鑑賞講座(これも純粋な意味で学問とはとても呼べないしろもの)」とか、学問とは無関係のものが大真面目で大学で教えられていたものでした。その結果、大学生でも、世界地図で、アメリカを指せないとか、アメリカの地図でニューヨークを指すことのできない人が大勢いました。 
日本の大学では、さすがにそこまで乱れなかったのは、幸いなことだったと思います。ただし、日本ではあまりに学生の学力が低いので、大学教育などできる水準ではなく、何と、数学や英語など中学の内容を補講するというところもあるそうです。実際、私も函館大学の英語のテキストなどみて驚いたことがあります。水準として、中学の復習ならびに高校1~2年くらいの内容だったと思います。あれでは、とても大学教育など無理と感じてしまいました。さらに、北海道大学の学生など、昔では考えられないくらい読書をしないということがわかってびっくりしたことがあります。要するに、学校でも、受験には関係ないことは全くさせないとか、本人も受験に関係ないものは見向きもしないということが、ゆとり教育という名の下に繰り広げられてきたということだと思います。ある程度まとまった、書籍を素早く読んで概略をつかむということは、創造性を育むのに必要不可欠なことだと思います。 
ゆとり教育時代のアメリカの大学生を見て、誤解した日本人の中には、「アメリカの学生はものすごく勉強する」などと評している人もいましたが、事実は違いました。その当時の日本人のまともな学生なら、別に勉強しなくても知っているような常識的な事柄を高校でまったく学んでこなかったので、大学でまともなレポートを書くように要求されると、ひがな一日図書館などに閉じこもり、常識を調べていたというのが実情です。日本でも、もっと酷い誤解としては、アメリカの大学全般は入るのがやさしくて、卒業するのが難しいというまことしやかな神話などもありました。 
これは、日本でもアメリカでも同じことです。昔からアメリカでも、誰でも入れて、だいたい誰もが卒業できる大学がある一方で、誰もが簡単には入れないし、卒業も難しい大学もあります。これは、ゆとり教育が実施されているときでも同じ事だったと思います。アメリカの私学の有名校はそれなりに伝統があるので、ゆとり教育などとは無縁のところもありました。ただし、この時代の誰でも入れる大学や中程度の大学での乱れようや、バカバカしさは筆舌につくしがたいところがあったと思います。 
こうした神話が、日本のゆとり教育の導入を助長した面は否めないと思います。アメリカの名門校など、わざわざ調査員を派遣して受験生個々人の素行調査(学力だけでなく、社会貢献なども調べる)まで行なうのと、寄付金(たとえば親が同じ大学卒で経済的に余裕があるにもかかわらず寄付金をはらっていなかったら、合格は望み薄)もからんできますから、場合によっては、日本の大学に入るより難しい場合があります。まあ、日本でまともな大学に入れない人がアメリカに行っても、かえって駄目ですね。日本のまともな大学を卒業して、アメリカの大学院に行くなどとか、あるいは日本でまともな大学に入れる人がアメリカの大学に行くというのなら良いでしょうが・・・・・・・。 
アメリカで大失敗した「ゆとり教育」なぜ、日本であまり考えもせずに、導入されてしまったのか、今から考えると不思議でなりません。
いずれにせよ、教育に関しても国家の関与、ある程度の詰め込みが必要であり、過度の移民政策もマイナスということがいえそうです。

そもそも、北欧の国々を日本がモデルにするということは間違いです。北欧の国々は、人口規模が日本のような大国とは違います。どうも、日本人は、中国やインドなどをみて、日本の人口は少ないと思い込んでいるようですが、ほとんどが単一民族と言って良いような、日本のような国で、人口が一億を超える国などありません。おそらく、世界最大だと思います。

中国やインドは10億を超える人口ですが、これらの国々はご存知のように、複数民族からなっています。中国でも、ほとんど漢民族のみが固まり、1億以上もの省を形成しているようなところもありません。バラバラです。

そんな世界最大の国と、北欧のような国々とが一緒の手法で教育や、政治などもうまくいくはずがありません。北欧の国々の人口はどの国々も数百万であり、日本の一地方自治体と同クラスです。こういう国々と日本とが、同じ政治手法や、社会のあり方でうまくいくはずもありません。それに、これらの国々調べていただければわかりますが、日本のように歴史も古くはありません。

参考にするなら、少なくとも人口が数千万以上もあり、単一の民族が多く、歴史も古い国ということになります。そうなると、日本が参考にできる国は少ないです。少なくとも、北欧は全く参考になどできません。ニュージーランドも、似たようなものです。こちらの国も、人口は数百万、歴史も数百年に過ぎません。

ノルウェー南部のオッダという街にある恐怖の絶景スポット「トロールの舌」

言ってみれば、数十人もいる大家族の家庭が、核家族的家庭を参考にするようなものです。こう考えていくと、中国も全く参考になりません。中国建国から100年にも満たない国です。韓国も無論参考になりません。アメリカだって、建国の歴史は、二百数十年に過ぎません。これでは、参考にはならないでしょう。

日本には、どう考えても、日本独自の教育システムが必要であることははっきりしています。他国の真似ではなく、日本独自のシステムが必要です。そうして、日本独自のシステムは、大昔に存在しました。日本には、昔は、寺子屋や藩校、私塾がありました。これらは、明治になって新たな学校制度が出来て以来廃止されたのですが、これらの学校は当時は世界最先端の教育施設でした。これらをそのまま復活することはできないでしょうが、これらを参考にして現代風の学校をつくることなども十分に考えられます。ただし、今の日本の学校教育は戦後の誤った個人主義などの影響により、決して良いものとはいえません。とは、いいながら、今でも基礎教育は優れています。今後、戦後の影響を排除して、日本独自の教育システムをつくっていく必要があります。

こんな、日本が、北欧の教育方法など最初から学ぶような存在ではないことがお分かりだと思います。これらを、参考にすべきという、極左系やリベラル派の主張はそもそも間違いであることがお分かりになると思います。彼らの主張は、「隣の芝生は青く見える」という諺の通り、まともではありません。

私は、そう思います。皆さんは、どう思われますか?

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2012年2月24日金曜日

スウェーデンの病院の看護師募集広告がユニークだと話題に / 応募条件「セクシーであること」−【私の論評】広告は手段を問わず目的を達成できなければ意味がない!?

スウェーデンの病院の看護師募集広告がユニークだと話題に / 応募条件「セクシーであること」:



採用の際、企業側は何を重視しているだろうか。業種によっても異なるが、経験だったり学歴だったりときには年齢だったりもする。求職者から言うとなかなか頭の痛いところだ。

福祉大国・スウェーデンの看護師の募集要項が話題だ。なんと応募条件に「セクシーさ」を求めているのである。何!? セクシーナースだらけの病院だと! 

話題の求人広告を出しているのはスウェーデンのストックホルム南区にある総合病院。夏の期間雇用の看護師募集広告だ。

募集要項には「積極性、専門性、ユーモアがある人を募集!もちろんドラマに出てくるナースのようなセクシーさもね」と書かれている。む! セクシーナースのいる病院だと! そんな病院なら行ってみたいが一体どのように選考するのだろうか。そもそもセクシーの基準って何だ?

看護師長のヨルゲン・アンダーソンさんによるとこのような求人をかけた理由は、求職者の注意を引きたかったためだそうだ。本当にセクシーさを求めているわけではないらしい。

ヨルゲンさんは「求職者の好奇心を刺激したいと思いました。応募に関しては履歴だけで結構です。写真や学歴証明をつける必要はありません」とコメント。なんだセクシーさが採用基準ではないのか。

しかし、この募集に興味を持つ人なら少なくとも積極性とユーモアは兼ね備えているだろう。少しがっかりしたが、話題にもなり募集広告としては成功だ。優秀な人材が集まるに違いない。

オリジナル記事: スウェーデンの病院の看護師募集広告がユニークだと話題に / 応募条件「セクシーであること」

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【私の論評】広告は手段を問わず目的を達成できなければ意味がない!?


この広告は、意表をついていてなかなか面白いと思います。それに、広告の目的を達成できていると思います。最近では、広告の手段として、従来の新聞、雑誌はもとより、様々なネットの広告があります。しかし、これは、手段が多様化しただけで、広告の本質ではありません。この募集広告の案を考えた人、当の病院の人なのか、あるいは広告会社の人なのかは、わかりませんが、いずれにしても、目的をはっきりさせたからこそ、このような柔軟な発想がでてきたものと思います。

広告もそうですが、仕事をするときには、何のためにそれをするのかという目的がしっかりしていなければ、とんでもないことになる場合もあるようです。この広告では、あくまでも、優秀な看護師を獲得するという目的にそったものであったので、それなりに十分効果を出すことができたのだと思います。ただし、何回もこのような広告の出し方をすれば、当初の目的は達成できないので、広告の内容を変えなければならなくなると思います。

これに関する逸話で、二つほど思い出すことがあります。

最初は、結構前のことであったので、うろ覚えなのですが、あるプロジェクトにおいて、一時的にユーザーの位置の全体像がわかれば良いという状況が発生したそうです。このプロジェクトのメンバーの一人のSEは、いまでいうところ、地図情報システムの簡単なものを作成しようとしました。ところが、このチームのチームのプロジェクトリーダーは、そんな意見には、耳をかさず、「地図とピンを用意してくれ」という指示をだし、壁に地図をはり、該当ユーザーがいるところにピンを刺していきました。そうして、この方式でやれば、十分用が足りたそうです。地図システムまでは、必要もなく、目的を達することができたそうです。地図情報システムなど作成していれば、時間と経費がかかり、納期に間に合わず、さらには、赤字倒れに終わったかもしれません。なにしろ、この時代は、現在のようにクラウドで豊富な地図情報システムなど提供されていませんでした。


それから、このブログでもずいぶん前に状況した、「予告in」というサイト。これは、秋葉原大量殺人事件が発生した直後に国で対策委員会を開催したときに、出席していた国会議員が、総務省の官僚に、「あらゆるサイトで殺人予告などがあったときに、それを警察に通報するシステムが必要と考えられるが、そのようなものを作成する期間と資金はいかほどのものか」と訪ねたそうです。そのときの総務官僚の答えが、「3億で、半年」というものでした。


ところが、この話を聞いた矢野さとるさん(上写真)という方が、なんと、直接かかる費用としては、ゼロ円、時間としては、2時間ほどで、殺人予告を通報するシステムを作成してしまいました。それが、予告inというサイトです。このサイトなにやら、もともとあるクラウドを用いるSNSサイト作成サイトなど転用して作成したようにみえます。実際そうだと思います。無論デザインとか、いくつかある機能を使ったり制限するようなことはしていると思います。しかし、よく考えてみれば、このようなものでも十分だと思います。


なぜなら、もともと、サイトというものは、人に見られるために、つくられています。さらに、犯行予告をするような連中は、その犯行をするしないは、別にして、なるべく多くの人に見てもらいたいと思って犯行予告をサイトに書き込むわけです。だから、これでも、十分に予告の書き込みなど補足できわけです。確かに、予告しない連中もいるでしょうが、そのような連中は最初からサイトに書き込むことはなく、最初から全く圏外です。であれは、これで、十分すぎるほどてきるわけです。しかも、サイトに作成のための知識もほんどといならないわけです。しかし、このようなつくり方をするということを思いつくこと自体が当時であれば、画期的だったと思います。

なぜなら、その当時は、まだまだ、クラウドという考え方が希薄だったらかです。先に、国会の委員会で、「3億、半年」と答えた総務官僚には、クラウドなどという考えはなかったのだとと思います。おそらく、旧態依然として、クライアントサーバーシステムで組むことを考え、しかも総務省傘下の、「犯罪予告通報センター」なる組織まで考えていたに違いありません。ここで、AIなど用いて、全国のありとあらゆるサイトから、犯罪予告を探しだし、センターの所員が、判断し、その内容を警察に通報するような大掛かりで鈍重なシステムを考えていたにに違いありません。しかも、このセンター長は、総務省の天下りで、そのほか、著名人や、その道の権威と呼ばれる人を理事、理事長などにするなど、既存の考え方でつくろうとしたに違いありません。

しかし、もともと、そんなもの全く必要がなかったということを、この予告inサイトは、十分証明してみたと思います。頭が、19世紀のままの総務官僚と、異なり矢野さんは、現代社会の住人であったということだと思います。


少し、先の広告の話とは、ずれてるようにも思われるかもしれませんが、広告であろうが、プロジェクトであろうが、犯罪予告システムであろうが、そもそも、最初の目的が何であるかをはっきりさせれば、余計な時間も、経費もあまり使わなくてもすむのに、目的がはっきりしていなければ、極端に効果のできない仕事になってしまうことの典型例だと思います。


それにしても、今回の事例はなかなかわかりやすいと思います、看護婦さん募集で「セクシー」という言葉を意図的にいれることにより、多くの人々の耳目を集め、さらには、積極性があり、ユーモアの感受性も備えている優秀な看護婦さんを獲得できる可能性が高まったと思います。ところで、この応募の結果どうなったのでしょう。本当に期待通りの看護婦さんを雇用することができたのでしょうか?ご存知の方ぜひ教えてください!!

それから、この記事には、いくつか看護婦さんの写真を掲載してみましたが、このような、ナースキャップをかぶっている看護婦さんはもう世界中探してもどこにもいません。セクシーな看護婦さんといわれて、こういう姿を真っ先に思い浮かべる方は、先の総務官僚のように、頭が、が19世紀のままなのかもしれません。それにいまでは、看護婦という言葉も正式ではありません。正確には、看護師です。こういう看護婦さんが今の世の中かで、存在するとすれは、コスプレの中だけです。十分にお気をつけ下さい!!


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