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2018年6月28日木曜日

財政緊縮派とデフレ派の存在が、デフレ脱却の大きな障害に 国債発行と金融緩和が近道だ―【私の論評】10%増税等の緊縮財政は、将来世代のための子育て、教育、生活などの基盤を毀損することに(゚д゚)!

財政緊縮派とデフレ派の存在が、デフレ脱却の大きな障害に 国債発行と金融緩和が近道だ

消費者物価指数の推移

 5月の消費者物価指数が17カ月連続でプラスとなったが、デフレ脱却に進んでいるのか。

 デフレについて、学問上の定義は単純で、「一般物価水準の継続的下落」である。国際通貨基金(IMF)などの国際機関では、一般物価水準は「GDPデフレーター」(消費者物価と企業物価を併せ持つ性格)、持続的下落は「2年以上」を使っている。

 そこで、GDPデフレーターの対前年増減率の推移をみると、1995年以降マイナス傾向になっていて、デフレになったのがわかる。正確に言えば、97年は若干のプラスであるが、その年を除き、2013年までマイナスだった。14年から、1・7、2・1、0・3と3年連続のプラスだったが、17年には▲0・2と再びマイナスに転じてしまった。


 この国際機関の定義に従えば、安倍晋三政権になってから、一時デフレを脱却しかかったが、18年のGDPデフレーター対前年増減率がプラスとしても、デフレ脱却したといえるのは19年以降ということになろう。

 もっとも、金融政策(マクロ経済政策)の目標は雇用を作ることであって、その場合に物価が上がりすぎないようにするためにもインフレ目標がある。

 この基本はマスコミなどでは理解されずに、単にインフレ目標が達成できていないから、リフレ政策は失敗だったとかの半可通な論調がいまだにあるのは残念だ。

 このインフレ目標の基本的な理解の観点からみれば、失業率が下限になって賃金が上がり出せば、その時のインフレ率が低いのはたいした問題ではない。賃金が上がり出せば、その後からインフレ率は上がるからだ。

 このように考えると、これまでの金融政策は方向性としては正しいがその効果はまだ弱く、いずれにしてもデフレ脱却まではあと一歩だ。

 雇用を確保した後、賃金が上がるのがマクロ経済政策の目標である。そのために、金融政策と財政政策によって総需要管理を行う。

 ただし、現実の金融政策では、オペ対象の国債の品不足が深刻になりつつある。そのために金融緩和がやりにくくなっている。これは、これまで本コラムで指摘したことだ。

 そうであれば、財政政策で国債発行して、国債市場での品不足を解消し、同時に財政出動を行えばいい。金融政策でこの国債オペを行い、金融緩和すれば、財政政策と金融政策の同時発動となって、すぐにデフレ脱却できるだろう。

 財務省による財政再建キャンペーンが行き届き、世間では国債発行は悪いものであるとの思い込みが強すぎる。どうしてこんな簡単な政策ができないのか。マスコミを含めてみんな財政緊縮病に罹(かか)っているのではないか。

 と同時に、この政策に対し、財政ファイナンスと批判する「デフレ派」がいる。彼らはハイパーインフレになると煽ってきたが間違っていた。

 財政緊縮派とデフレ派の存在が、デフレ脱却への大きな障害である。 (元内閣参事官・嘉悦大教授、高橋洋一)

【私の論評】10%増税等の緊縮財政は、将来世代のための子育て、教育、生活などの基盤を毀損することに(゚д゚)!

私達は子どもの頃から「自分のお財布の中にある以上のお金を使ってはならない」と教えられてきました。そうして、家庭を持つようになれば、家計についても、同じように言われてきました。だからそれが政府にも当てはまるのだと霞ヶ関の官僚が言えばすんなりと受け入れてしまいそうになります。しかし、現実はそうではありません。

政府には貨幣(おカネ)を発行することができますが、われわれの一般家庭にはそのような権限はありません。ここが政府と家計の大きな違いです。

そして貨幣をどの程度、あるいはどうやって発行するかというテクニック、つまり金融政策の目標を定めることが国においては重要な事柄です。

支出を切り詰めることが万能薬だと主張する人々、つまり緊縮財政を奉ずる人々(官僚や国会議員、マスコミのほとんどの人々)は、例えば財政赤字を削減すれば金利が下がっていいことが起きると主張しています。しかし、これは歴史的な事実では全く裏付けられていません。

彼らの議論は、国の赤字を削減すれば、消費者は安心し、企業は投資を増やし、「国の国際競争力」を増すというものです。特にお笑いは「非ケインズ効果」です。これは、政府による財政支出の削減や増税が、国の景気やGDPにプラスの影響を与えるという現象のことをいいます。

 人は将来の予測に基づいて行動することから、国の財政赤字が深刻な場合には、財政支出や減税が将来の増税を意識させ、消費を手控えさせる結果を招くとされます。 不況時は財政支出や減税により有効需要を補うべきと主張したケインズの理論と逆の効果です。この「非ケインズ効果」は、古今東西で確かめられたことはありません。

もし仮にこの「非ケインズ効果」が、たとえどのような条件がついたにしても、あるいは理論的にだけでも正しく証明されれば、証明した人は「ノーベル経済学賞」を受賞できることでしょう。それだけ「非ケインズ効果」はありえないことなのです。科学技術にたとえれば、永久機関のようなものかもしれません。

イギリスの経済学者ケインズ

緊縮財政で景気が悪くなり、それでも国民、資産がないただのサラリーマンが喜んで支出を増やすはずだという非ケインズ効果が日本でも生じるという人々は国民がおろかで合理性のかけらもないと考えているに違いありません。

昨年、世界の政治に新風を吹き込んだ英国のコービン労働党党首の主張、カナダのトルドー首相、米国民主党のサンダース氏らの主張はともに緊縮財政をやめようというものでした。

コービン労働党党首

コービン労働党党首といえば、当然のことながら、左派系なのですが、日本の左派系とはかなり異なります。日本の左派系といえば、どの政党もすべて財政緊縮派です。では自民党の議員が全員が反緊縮派であるかといえば、そうではありません。自民党でも、安倍総理とその一部の側近を除けばほとんどが財政緊縮派です。

しかし、先程あげたコービン労働党党首、カナダのトルドー首相、米国民主党のサンダース氏等はもとより、米国をはじめ多くの国々の政治家が緊縮財政に反対しています。また、ノーベル経済学賞を受賞したようなまともな経済学者の中では、景気が悪いとき、デフレのときに緊縮財政をせよと主張する学者など存在しません。

それはなぜでしょうか。景気が悪くなるということもさることながら、もっと大切なことは自国の将来世代の未来が失われてしまうからです。財政削減をすれば、将来の世代に対する子育て、教育、生活の基盤となるインフラ、こうした大切なものが真っ先に切り捨てられ、損なわれてしまうからです。

ギリシャは、EU統合に悪乗りして、借りるべきでないカネを低利で借りて浪費してしまいました。日本は、使うべきお金を政府の政策の失敗で使わずに、まだ返す必要もない借金の返済に充てて不況に陥りました。まったく原因が違います。原因が違えば処方箋ももちろん別でなければなりません。

そもそも、低所得者に重い負担が生じる逆進性がある消費税を増税して社会保障の財源をまかなうという発想自体おかしいのです。2009年の麻生内閣下での税制改正で「3年以内に消費増税法を作ること」が法定されました。

そこで法定されたことが大義名分となって、2012年に民進党、当時野党の自民党、公明党が増税法を可決しました。そうして、この増税法には、景気が悪ければ増税しないという「景気条項」があったにもかかわらず、これも無視され、2014年4月には最終的に増税が行われました。

そうして、増税推進派は「日本経済への影響は軽微」としていましたが、ブログ冒頭の記事にもあるように、2014年4月からの消費税の8%への増税は、個人消費の低迷を招き、日本経済に甚大な悪影響を及ぼしました。そのせいもあり、日本は今でもデフレから完璧に脱却していません。

現状の日本は、ブログ冒頭にもあったように、国債を大量を発行し、金融政策でこの国債オペを行い、金融緩和すれば、財政政策と金融政策の同時発動となって、すぐにデフレ脱却できます。

日本の政治家、官僚、マスコミ、識者のほとんどが財政緊縮派とデフレ派です。しかし、私達は、我が国の将来世代の未来のために、これら多数派を退ける世論を形成し、積極財政が行われるにし、将来の世代に対する子育て、教育、生活の基盤となるインフラを守っていかなけければならないのです。

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2014年1月5日日曜日

北欧の教育王国はなぜ崩壊したのか? スウェーデンの学力凋落の原因を探る―【私の論評】人口も歴史も違いすぎる!北欧諸国幻想は間違い!日本には日本独自の教育システムが必要!本当に必要なのは、他人評価であり、それを受け入れるためには鋳型が必要である(゚д゚)!

北欧の教育王国はなぜ崩壊したのか? スウェーデンの学力凋落の原因を探る


個性重視で知られる北欧諸国の教育環境が、急速に悪化している。中でもスウェーデンの学力低下が深刻で、経済協力開発機構(OECD)が先日公表した2012年実施の国際学習到達度調査(PISA)では、全3教科の得点がOECD平均を大きく下回った。かつて教育先進国とも呼ばれたスウェーデンの教育はなぜ崩壊したのか、背景を探った。(川瀬弘至)

日本とは55点差

「北欧諸国の成績が急落した原因は?」

「もう少し詳しいデータを出してほしい」

昨年11月27日に文部科学省で行われたPISA結果発表のブリーフィング。記者たちの質問が集中したのは、日本をはじめアジア勢の成績が上昇したことと、北欧諸国の成績が急落したことへの原因分析だった。

PISAは、各国・地域の学校に通う15歳の男女を対象に「読解力」「数学的応用力」「科学的応用力」の3教科を評価する国際学力テストだ。2000年から3年ごとに行われ、5回目の今回は65カ国・地域から約51万人が参加した。

 その結果発表で、北欧諸国の低迷が浮き彫りになった。このうちスウェーデンの状況は、日本と比べてみると分かりやすい。例えば2003年調査の読解力の得点は、国別順位8位のスウェーデンが14位の日本より16点も高かった。しかし06年以降、脱ゆとり政策に取り組む日本が得点を上げる一方で、スウェーデンは急落。09年調査で8位に上昇した日本に逆転され、今回の12年調査では55点も引き離された。

 この間、北欧諸国でトップを走っていたフィンランドも順位を下げ、日本に抜かされている。

地方分権化の失敗

 「北欧諸国では近年、国家の教育予算を削減し、子供たちの学力向上を地域や学校任せにする傾向がみられる。このため成績上位校と下位校との学校間格差が広がっている」

 PISAの結果分析をしている国立教育政策研究所の担当者がこう分析する。学力低下の背景には、国家の教育政策が影響しているというのだ。

 1990年代のスウェーデンは、徹底した個性重視教育で世界中の注目を集めた。中でも注目されたのは、「教育の地方分権化」と「フリースクール改革」だ。教育への国家の関与を薄め、地域と学校の裁量権を拡大するとともに、民間も参入しての学校選択制(フリースクール)を積極的に導入したのである。

 だが、結果的にこの政策は大失敗だった。自治体によって予算も政策も異なるため、学力の地域間格差や学校間格差が急速に拡大、教育環境の悪化に歯止めがかからなくなった。

移民政策も影響

 もう一つ、スウェーデンの学力低下に決定的な影響を与えているものがある。欧州の中で最も寛容といわれる移民政策だ。

 高福祉国家のスウェーデンは、高齢化による労働力不足を補うため、積極的に移民を受け入れてきた。同国に住む外国生まれの人の割合は、1970年代は7%未満だったが、2000年までに10%を超え、現在は15%前後を占める。

 移民の子供たちは一般の学校に通うので、教室内にスウェーデン語が話せない児童生徒が増加。北欧諸国の教育事情に詳しいノンフィクション作家の河添恵子さんは「両親もスウェーデン語の読み書きができないから、簡単な宿題すら見てあげられない。次第に子供たちは学習意欲を失い、不登校など問題行動が見られるようになる」と話す。

 教育の地方分権化と移民政策により深刻化するスウェーデンの学力低下。国立教育政策研究所の渡辺良・前総括客員研究員は、「子供たちの学力水準を向上するには、学校や地域の取り組みとともに、国家がある程度は関与し、適切な教育行政に取り組む必要がある」と話している。


日本のゆとり教育にも影響?

 スウェーデンの教育は、平成14年度に本格化した日本のゆとり教育にも影響を及ぼしたといわれる。スウェーデンの個性重視政策や教育の地方分権化が世界的に注目されていた1990年代~2000年代初め、日本からも教育関係者らが相次いで視察に訪れ、その政策を評価する書籍や論文が多数出された。

 「(スウェーデンは)弱者にとってはまったく天国のような国であろう。個人教育を実践しているスウェーデンの教育に学ぶことは多大にあると思う」

 平成14年刊行の教育書籍「スウェーデンののびのび教育」には、こんな風に書かれている。

 だが、日本では平成17年以降、子供たちの学力が急激に低下したため脱ゆとり路線に方針転換し、スウェーデンの教育と決別した。

 文科省関係者は「もしも方針転換せず、スウェーデンのように教育政策から国家の関与を薄めていれば、日本でも子供たちの学力低下に歯止めがかからなかっただろう」と話している。

【私の論評】人口も歴史も違いすぎる!北欧諸国幻想は間違い!日本には日本独自の教育システムが必要!本当に必要なのは、他人評価であり、それを受け入れるためには鋳型が必要である(゚д゚)!

上のニュース意外と重要だと思いましたので取り上げさせていただきました。日本には、なにやら北欧幻想のようなものがあります。しかし、日本もこの幻想から、すこしづつではありまずが、覚醒しつつあります。たとえば、北欧の社会保障制度は、崩壊しつつあります。

教育には個性重視というような愚かな論調は、北欧に限らず他の世界、たとえば日本にもあります。この愚かな論調に惑わされて、教育方針を誤ったのが、北欧なのだと思います。とにかく、北欧などの愚かな実験が、左翼系とか、リベラル派といわれる人たちの間で特に、日本でもてはやされているようですが、こんなことは少し頭を使って考えれば、すぐに間違いであることがわかります。

生まれたばかりの子供は個性も何ないものであり、多少あったにしても、それは子供の頃は、さほどのものではないはずです。そうして、それだけでは社会人になることは不可能であり、躾の大部分は家庭にまかせるものの、さらに社会性を身につけさせまともな社会人にするためにある程度の社会人といわれる理想系の鋳型にはめ込むことが教育の原点ではないかと思います。その鋳型があることにより、本来の意味での、個性も発見しやすくなります。個性を伸ばすこともできます。

そこには、家の躾レベルを超えた、社会規範を教えること、まずは、個々人の国(これから人生の大部分を生きていくことになる国)における、社会常識を教えること、さらに社会の上の概念である、国家観をある程度植えつけること、その上にたった国際感覚を身につけるための、基本を学ばせることに原点があるのだと思います。

とにかく、義務教育の範囲では、特に基本的なことはは確実に教え、身につけさせなければなりません。この基本を欠いたまま、義務教育を終える人は残念ながら、犯罪者か、犯罪者でなければ、惨めな敗残者になる以外にありません。最初から個性を重んじていては、多くの教育を受ける人がそうなります。

このような大事な義務教育の期間に、個性などを伸ばすことよりは、様々な知識を身につけさせること、特に基本的なことはある程度の鋳型にはめ込むのが重要なのはいうまでもありません。

このことを無視あるいは、軽視したからこそ、日本のゆとりの教育、北欧の教育が失敗したのです。

「個性」が尊重されることのおかしさについて、養老孟司氏と内田樹氏が対談の中で興味深いやりとりをしていました。以下にそれを引用させていただきます。

『逆立ち日本論』(養老孟司 内田樹 新潮選書 2007)P171~P173より引用
―――――――――――――――――――――――――――


「個性」とは「人を見る目」 

養老:「個性」というものは、その人に内在するものということになっていますけど、それは間違いですよ。古くから日本の世界ではそんなことを言っていません。それは「人を見る目」なんです。 
内田:「人を見る目」が個性とは……。どういうことですか? 
養老:だって、自分の個性なんて主張したって意味がないのです。戦後、「個性」が主張され始めて何が起こったかというと、上役がサボり、教師がサボるようになりました。なぜなら上役や教師というのは、人を見る目がなくちゃできないことだったのです。それで「お前はあっち、お前はこっち」って示してやるのが本来の役目だったのです。それを「個性」という内在型にしたら自己責任だけになっちゃいました。入学願書に「自分の個性」とか書かせるでしょう?本来、「個性」というのは他人の目にどう映るかということのはずでしょう。 
(中略) 
個性なんて違って当たり前だからこそ、「お前はこういうふうに」「お前にはこれは向かない」と違いを見る目が大事なのに、それが「個性」ですべて崩れてしまった。人がどう見ようが「個性」はあるものだということになってしまいました。「見る目」がないと「個性」なんてないも同じです。他人のことがわからなくて、どうやって生きられるでしょう。社会は共通性の上に成り立つものです。「個性を持て」というよりも「他人の気持ちをわかるようになれ」というほうがよいはずです。ぼくが今まで出会ったいちばんの個性派は精神病院にいますよ。 
(中略) 
内田:自己評価とか自己点検というのは外部評価との「ズレ」を発見するための装置だと思うんですよ。ほとんどの人は自己評価が外部評価よりも高い。「世間のやつらはオレの真価を知らない」と思うのは向上心を動機づけるから、自己評価と外部評価がそういうふうにずれていること自体は、ぜんぜん構わないんです。でも、その「ずれ」をどうやって補正して、二つを近づけるかという具体的な問題にリンクしなければ何の意味もない。自己評価が唯一の尺度で、外部評価には耳を傾けないというのはただのバカですよ。 
(後略)
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両氏は、「個性」(≒自分の自分に対する評価)自体には何の意味もなく、生きていく上で指針とすべきなのは、周囲の人々が何を期待しているかであり、周りからの評価、他人評価であるとしているのです。

今も昔も、「人を見る目」(≒他人に対する期待・評価)こそが一番の圧力源=活力源になります。自分の中をどれだけ探しても答えは見つかりません。いわゆる、自分だけによる、自分探しなどやっても、永遠にそれは見つかりません。他人評価によってはじめて、自分探しができます。それを知らずに、自分探しを続ける人は、いつまでたっても大人になれず、子供のまま人生を終えることになります。より能動的に周りの人からの期待や評価、あるいは社会状況を指針にしていくことが必要なのです。

義務教育は、本来他人評価を受け入れる素地をつくるのが目的のはずです。個性を伸ばす教育は、一見正しいようにはみえますが、他人評価を受け入れられなければ、それは全く意味をなしません。そうして、その目的を失った反動が、北欧型教育であり、日本でゆとり教育だったのだと思います。ゆとりと、他人評価はそもそもは、あまり関係ありません。しかし、他人評価を受け入れるためには、ある程度の社会常識などを知らなければとても受け入れられるものではありません。

他人評価と自己評価の葛藤が人を育て、個性的にする!

個性を伸ばすためにも、ある程度の鋳型は必要です。これは、音楽の世界にたとえると判りやすいかもしれません。音楽の習い始めに、ピアノなどを習うと、12音階の決まった音しかでないため、それが最初の鋳型となり、その鋳型から外れた音楽や音を良く認識できるようになります。

12音階とは、白鍵7つに黒鍵5つをあわせた音階のことです。音は決してこれだけではないのですが、ピアノやチェンバロの音はこれだけで構成させています。最初はこの音階で音楽を学びはじめて、ある程度までやった人、あるいはそこからさらに絶対音階まで身に着けた人は、ここから外れた音をすぐに察知できます。この12音階は、演奏したり、聴いたりする人が好きだとか、嫌いだとかは、お構いなしに最初から決められています。そこに、個々の演奏者や、聴衆にの個性など全く入る余地もありません。

ところが、最初から管楽器などから音楽の道に入ってしまうと、鋳型がないため、音が外れていても気づかないとか、どれが新しい音であり、どれが新しい音楽なのかもわからなくなってしまうという状況におうおうに陥ります。実際、管楽器から音楽を始めた人が、ピアノで始めた人に対してそういうようなことを言っていたのを一度ならず、何度か聴いたことがあります。

ピアノの12音階は、さまざまな音楽の原型になる!
とにかく、人には原型というものがなければ、精神も発達どころか行き場所を失います。人間の社会においてこの原型にあたるものは、古から家庭においては、父親がその役割を担ってきました。母親はそれこそ、母性的な愛情を注ぎますが、父親は子供が、ある程度の年齢になると、子供に身近な社会を教える存在になります。これが、父性愛というものです。これが、人の原型です。

そうして、この父性愛は、人為的なものとも長い間受け取られてきましたが、そうではないことが最近の類人猿などの研究からわかってきました。たとえば、ゴリラは、いわゆる、社会性に基づく、躾を父親が担っています。子供がある程度大きくなると、父親ゴリラは、子供と一緒に遊び、遊び方や、遊びのルールを教えたりします。ある程度これを覚えたら、他のゴリラの子供と遊ばせたりします。これも、遊び方やルール教えます。子供同士が喧嘩をはじめたら、仲裁したり、悪いことをした子供のほうを諫めたりもします。

ゴリラの父親は、子供に社会性を伝授する。個性尊重は教育はゴリラの教育よりも劣る?

こうした、類人猿の研究から近年、父性愛は人為的なものではなく、本来備わっている能力であることが明らかにされています。このようなことを考えれば、父親というものは、すべからく自信を持って、犯罪や完璧な時代遅れでもない限り、自分の独断と偏見でも構わないので、子供に社会性(躾け)を叩き込むべきなのです。

おそらく、公的教育なども、昔は、こうしたところから発展してきたものではないかと思います。だから、昔の教育では、叩き込みが重視されてきました。吉田松陰先生も、子供の頃は、相当厳しい教育を受け、母上が、あまりの厳しさに憤りを感じていたそうですが、その後の松蔭先生を考えれば、厳しさが、松蔭先生その後の松蔭先生にたいす影響も強かったことが理解できます。こうしたことを無視して、子供の個性尊重などという幻想に浸った連中が、父性などの存在を忘れて、個性尊重の教育をはじめたところ、失敗してしまったというのが真相です。

さて、このブログでは、過去においては「ゆとり教育」の批判もしてきました。その記事のURLを以下に掲載します。

選択的夫婦別姓を明記 第3次男女共同参画基本計画策定に向け答申―日本解体始動!!ゆとり教育の二番煎じになるか?

詳細は、この記事をご覧いただくものとして、ゆとり教育に関する批判の部分だけを以下にコピペしておきます。
選択的夫婦別姓もゆとり教育の二番煎じになるか?
米国での失敗を学ばないということ、以前にもありましたね、昨日のテレビで「ゆとりの教育」の失敗ということで、結局は「ゆとりの教育」はやめるということが報道されていました。「ゆとりの教育」の導入に当時尽力した中曽根さんがテレビのインタビューを受けていて、「ゆとりの教育」が失敗したことを率直に認めていました。ゆとりの教育に関しては、日本が導入の検討をし始めたときには、アメリカではもうとっくに導入されていたどころか、完全に失敗したことが明らかになったため、とりやめて、逆に「若いうちに詰め込めるだけ詰め込め」が合言葉になっていました。 
ゆとり教育に関しては、私自身がその酷さに直面したことがありました。工学部志望の東京大学1年生と話をしていて、ファラディーの右手の法則、左手の法則など当然のこととして話をしたら、何と彼女はこの法則を知りませんでした。良く話しを聴くと、高校では物理は選択制となっており、物理は履修していなかったそうです。現在の入試制度では、将来工学部に進むことができる理Ⅰ類でも、物理の試験は受けなくとも良いということを聴いて驚いてしまいました。 
要するに、ゆとりの教育という名の下で、受験に必要のない科目は勉強しなくなても良いということが平気で行われていたということです。だから、世界史など全く知らない東大生もたくさんいます。 
アメリカのゆとり教育の時代には、高校ではほとんど勉強せず、基礎学力が落に落ちていました。大学の教養の講座でも、得体のしれない今日ではとっくに消滅した講座がたくさんありました。個性豊かにというキャッチフレーズのもの、たとえば、「結婚式の講座」とか、「カメラの講座(映像美術などとは異なる)」とか、「ポップミュージック講座(音楽史などではない)」「映画鑑賞講座(これも純粋な意味で学問とはとても呼べないしろもの)」とか、学問とは無関係のものが大真面目で大学で教えられていたものでした。その結果、大学生でも、世界地図で、アメリカを指せないとか、アメリカの地図でニューヨークを指すことのできない人が大勢いました。 
日本の大学では、さすがにそこまで乱れなかったのは、幸いなことだったと思います。ただし、日本ではあまりに学生の学力が低いので、大学教育などできる水準ではなく、何と、数学や英語など中学の内容を補講するというところもあるそうです。実際、私も函館大学の英語のテキストなどみて驚いたことがあります。水準として、中学の復習ならびに高校1~2年くらいの内容だったと思います。あれでは、とても大学教育など無理と感じてしまいました。さらに、北海道大学の学生など、昔では考えられないくらい読書をしないということがわかってびっくりしたことがあります。要するに、学校でも、受験には関係ないことは全くさせないとか、本人も受験に関係ないものは見向きもしないということが、ゆとり教育という名の下に繰り広げられてきたということだと思います。ある程度まとまった、書籍を素早く読んで概略をつかむということは、創造性を育むのに必要不可欠なことだと思います。 
ゆとり教育時代のアメリカの大学生を見て、誤解した日本人の中には、「アメリカの学生はものすごく勉強する」などと評している人もいましたが、事実は違いました。その当時の日本人のまともな学生なら、別に勉強しなくても知っているような常識的な事柄を高校でまったく学んでこなかったので、大学でまともなレポートを書くように要求されると、ひがな一日図書館などに閉じこもり、常識を調べていたというのが実情です。日本でも、もっと酷い誤解としては、アメリカの大学全般は入るのがやさしくて、卒業するのが難しいというまことしやかな神話などもありました。 
これは、日本でもアメリカでも同じことです。昔からアメリカでも、誰でも入れて、だいたい誰もが卒業できる大学がある一方で、誰もが簡単には入れないし、卒業も難しい大学もあります。これは、ゆとり教育が実施されているときでも同じ事だったと思います。アメリカの私学の有名校はそれなりに伝統があるので、ゆとり教育などとは無縁のところもありました。ただし、この時代の誰でも入れる大学や中程度の大学での乱れようや、バカバカしさは筆舌につくしがたいところがあったと思います。 
こうした神話が、日本のゆとり教育の導入を助長した面は否めないと思います。アメリカの名門校など、わざわざ調査員を派遣して受験生個々人の素行調査(学力だけでなく、社会貢献なども調べる)まで行なうのと、寄付金(たとえば親が同じ大学卒で経済的に余裕があるにもかかわらず寄付金をはらっていなかったら、合格は望み薄)もからんできますから、場合によっては、日本の大学に入るより難しい場合があります。まあ、日本でまともな大学に入れない人がアメリカに行っても、かえって駄目ですね。日本のまともな大学を卒業して、アメリカの大学院に行くなどとか、あるいは日本でまともな大学に入れる人がアメリカの大学に行くというのなら良いでしょうが・・・・・・・。 
アメリカで大失敗した「ゆとり教育」なぜ、日本であまり考えもせずに、導入されてしまったのか、今から考えると不思議でなりません。
いずれにせよ、教育に関しても国家の関与、ある程度の詰め込みが必要であり、過度の移民政策もマイナスということがいえそうです。

そもそも、北欧の国々を日本がモデルにするということは間違いです。北欧の国々は、人口規模が日本のような大国とは違います。どうも、日本人は、中国やインドなどをみて、日本の人口は少ないと思い込んでいるようですが、ほとんどが単一民族と言って良いような、日本のような国で、人口が一億を超える国などありません。おそらく、世界最大だと思います。

中国やインドは10億を超える人口ですが、これらの国々はご存知のように、複数民族からなっています。中国でも、ほとんど漢民族のみが固まり、1億以上もの省を形成しているようなところもありません。バラバラです。

そんな世界最大の国と、北欧のような国々とが一緒の手法で教育や、政治などもうまくいくはずがありません。北欧の国々の人口はどの国々も数百万であり、日本の一地方自治体と同クラスです。こういう国々と日本とが、同じ政治手法や、社会のあり方でうまくいくはずもありません。それに、これらの国々調べていただければわかりますが、日本のように歴史も古くはありません。

参考にするなら、少なくとも人口が数千万以上もあり、単一の民族が多く、歴史も古い国ということになります。そうなると、日本が参考にできる国は少ないです。少なくとも、北欧は全く参考になどできません。ニュージーランドも、似たようなものです。こちらの国も、人口は数百万、歴史も数百年に過ぎません。

ノルウェー南部のオッダという街にある恐怖の絶景スポット「トロールの舌」

言ってみれば、数十人もいる大家族の家庭が、核家族的家庭を参考にするようなものです。こう考えていくと、中国も全く参考になりません。中国建国から100年にも満たない国です。韓国も無論参考になりません。アメリカだって、建国の歴史は、二百数十年に過ぎません。これでは、参考にはならないでしょう。

日本には、どう考えても、日本独自の教育システムが必要であることははっきりしています。他国の真似ではなく、日本独自のシステムが必要です。そうして、日本独自のシステムは、大昔に存在しました。日本には、昔は、寺子屋や藩校、私塾がありました。これらは、明治になって新たな学校制度が出来て以来廃止されたのですが、これらの学校は当時は世界最先端の教育施設でした。これらをそのまま復活することはできないでしょうが、これらを参考にして現代風の学校をつくることなども十分に考えられます。ただし、今の日本の学校教育は戦後の誤った個人主義などの影響により、決して良いものとはいえません。とは、いいながら、今でも基礎教育は優れています。今後、戦後の影響を排除して、日本独自の教育システムをつくっていく必要があります。

こんな、日本が、北欧の教育方法など最初から学ぶような存在ではないことがお分かりだと思います。これらを、参考にすべきという、極左系やリベラル派の主張はそもそも間違いであることがお分かりになると思います。彼らの主張は、「隣の芝生は青く見える」という諺の通り、まともではありません。

私は、そう思います。皆さんは、どう思われますか?

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2013年8月8日木曜日

社会保障制度改革の“皮肉な教訓” 重要問題は会議で決めるな―【私の論評】ガバナンスで時間稼ぎをした民主党、ガバナンスではなく反日で時間稼ぎをしている中韓!!時間稼ぎは、結局大失敗に終わるだけ(゚д゚)!

社会保障制度改革の“皮肉な教訓” 重要問題は会議で決めるな

消費増税派に利用される社会保障制度改革国民会議

民主党が社会保障制度改革国民会議から離脱する。消費税率を引き上げたいと考えている人々から見ると、社会保障制度改革国民会議は、単にこなすべき手続きというだけ。議事をまとめる上では手間を取らせる存在になるはずの民主党が離脱することは歓迎だろう。

有識者の会議で検討したというアリバイを得ながら、抜本的に変えたくはない社会保障制度に触れずに、消費税率の引き上げだけ達成できる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<中略>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

一般に「重要な問題」にあっては、それが存在すること自体が示唆するように、検討に参加する有識者の意見は簡単にはまとまらない。

つまり、重要な問題を有識者会議の検討に委ねるということは、少なくともその問題の結論を先送りすることを意味する。

加えて、会議の結論は、あらかた「事務局」がコントロールできる。

ビジネスの場合でもそうだが、大きな会議は、情報の周知の役に立つことはあっても、そこで議論が深まることはない。

社会保障制度改革国民会議がわれわれに与えてくれる教訓は、真に重要な問題は、後の会議の検討に委ねるのではなく、その場で先に決めてしまわねばならないということだ。政府であっても、会社であっても、会議というものは、しばしば、「結論の先送り」か「既にある結論のアリバイ作り」に使われる。

そう考えると、結局、民主党にとって社会保障は真に重要な問題ではなかったのだろう。民主党の「魂」は、あの時点で既に抜けていたのだと考えるのが妥当だ。(経済評論家・山崎元)

この記事の詳細はこちらから!!

【私の論評】ガバナンスで時間稼ぎをした民主党、ガバナンスではなく反日で時間稼ぎをしている中韓!!時間稼ぎは、結局大失敗に終わるだけ(゚д゚)!

会議の役割は情報の周知と、意思決定である
民主党政権時代には社会制度改革国民会議にかぎらず、様々な識者会議とか、○○会議とか、あのわけのわからない事業仕分など、とにかく様々な会議が催されました。゜これは、結局上の記事でも指摘しているように、「結論の先送り」か「既にある結論のアリバイ作り」ということです。

そうして、多くの無意味な会議の本質は何かといえば、本来やるべきことをしないというより、やるべきことができないため、何もしなければ国民から本当は何も仕事をしていないことや、能力がないのを見破られててしまうため、それを忌避するため、会議を開催し、あたかも仕事をしているかのように見せかけるためということがあります。

要するに、何か仕事をやっているようにみせかけ時間稼ぎをするためのものが、大きな会議の頻発ということです。そうして、これは何も日本の民主党ことだけではありません。世界中に蔓延していることです。ことに、リーターに決断力がないとか、能力がないという場合には頻々と行なわれることです。

そうして、これが度をすぎるともっと酷いことになります。それは、中韓に見られる反日活動です。昨年の中国人民代表大会の内容をみると、国家的危機に対して結局中国共産党は何もしないということを公表しただけです。これに関しては、以前のこのブログでも掲載したことがあるので、以下にそのURLを掲載します。
詳細は、この記事をご覧いただくものとして、結局昨年の中国全人代では結局「3つの自信」(道路自信、理論自信、制度自信)である。要約すれば、党は正しく、「このままで良い」と言っているに等しいことを確認しただけです。



今の中国共産党には、中国を改革する力も、するつもりもないのです。しかし、だからといって、何もしなければ人民の不満のマグマはさら強くなりいずれ大噴火します。これを防ぐために、最初は軍事力を使って人民を弾圧しましたが、これにも限界があります。

その後何をしたかといえば、そうです。皆さんご存知、80年代から江沢民が先頭に立って始めた国家レベルの体系的な半日教育です。これは、かなり時間稼ぎに寄与しました。

しかし、国内の反日活動だけでは時間稼ぎができなくなってきたため、今度は、南沙諸島や日本の尖閣での示威行動です。これも時間稼ぎです。しかし、これも中国にとっては危険な綱渡りです。いつまでも、尖閣問題などを現状のままにしておけば、時間稼ぎはできなくなります。かといって、尖閣など占拠するなどの行動をとれば、日本も米国もこれを許しはしないでしょう。日本は、本格的に戦後体制が脱却し、中国を迎え撃ち、中国の行動を挫くでしょう。

そうなれば、時間稼ぎどころか、人民の憤怒のマグマは爆発して、中国は内乱状態になってしまうことでしょう。それを中国共産党中央政府は恐れています。だから、尖閣周辺の中国によるデモンストレーションは日々派手になっているのですが、かといって本格的にもならないのです。そうして、情報筋によれば、中国は国内で日本との戦争に備えている様子は全くありません。

本来中国がやるべきことは、民主化、経済と政治の分離、法治国家化による社会変革を行い、一部の富裕層だけが潤うのではなく、いわゆる中間層を育てることです。これは、西欧諸国をはじめ、日本も通ってきた道です。

方向性ははっきりしています。これなしに、現在の中国に未来はありません。しかし、民主主義や、経済と政治の分離、法治国家化に関して、中国共産党幹部は知識もありませんし、そのための意思決定もできないまま今の状態に至っているのです。

それに、中国の場合、社会が日本と比較してかなり遅れているため、日本の民主党政権のように大きな会議を頻発して、時間稼ぎをすることもできません。中国で、民主党がやった、事業仕分けなどしようものなら、腐れ役人のとんでもない実体がさらに大きく浮かび上がり、人民の憤怒にさらに拍車をかけるだけです。ですから、中国では、日本の民主党政権のように、会議の頻発を時間稼ぎには用いることができないのです。

日本では、すでに国政におけるガバメントとガバナンスは不十分ながらできているので、会議を頻発することもかのうです。

ガバナンスとは、統治のことです。『ガバメント』とは対照的な統治として位置づけられます。ガバメントは政府が上の立場から行なう、法的拘束力のある統治システムです。一方、ガバナンスは組織や社会に関与するメンバーが主体的に関与を行なう、意思決定、合意形成のシステムです。このガバナンスの意味をもとに、経営学の分野でも、「ITガバナンス」や「コーポレートガバナンス」という言葉が使われるようになりました。これらは、株主や経営陣による企業の管理、統治という意味合いも含まれてはいる。だが、企業の利害関係者(株主、経営者、従業員、取引先など)の主体的な作用による、意思決定、合意形成のシステムが、本来の意味に近いです。


そうして、ガバメントとガバナンスは、互いにバランスを保って、事にあたらなければなりません。特に、ガバメントは、現在の中国のように、本当の危機が間近に迫っているときは、ガバメントが優勢になり、危機管理、危機回避をしなければなりません。

たとえば、船が沈没しそうなときに、皆で話あいをして、意思決定、合意形成などしていれば、犠牲者が増えるだけです。このようなときは、船におけるガバメントの最高権力者である船長がすみやかに乗客、乗員の被害をなるべく低くなるよう意思決定をして、すみやかに、乗客・乗員に行動をとらせる権限が付与されています。これは、航海法で定められています。これは、国でも、企業でも同じことです。国では、総理大臣・大統領レベル、企業で社長といわれる人々の最大の仕事がこの危機管理・危機回避です。

日本の民主党は、危機にあたって能力がないため、ガバナンスを発動して、様々な会議を開催して、時間稼ぎをしました。中国は、ガバナンスを発動することはできないため、国家レベルの体系的反日活動を時間稼ぎに活用しています。韓国も、中国とは少し違いますが、朴槿恵大統領は、本来やるべきことをせずに、国家レベルの反日路線に走り、時間稼ぎをしているだけです。


ご存知のように、民主党は、何も決められなく、意思決定をずるずる引き伸ばし、そのために様々な会議を頻発してきました。その結果どうなったかといえば、昨年の暮れの衆院選で政権は崩壊。今年の参院選でも、さらに議席数が激減して、少数野党政党の仲間入りです。

中韓も同じことです。時間稼ぎなどせずに、当面の経済対策・社会改革という仕事に本気に取り組み、行動を起こさなければ、日本民主党と同じ末路をたどることになります。

とにかく、本当に大事なことに取り組まないで、日本民主党のように会議を頻発したり、中韓のように共通の敵を外につくりだして煽ったとしても、単なる時間稼ぎになるばかりで、根本的に何も解決できず、いずれ崩壊するということです。時間稼ぎするにしても、時間稼ぎの後に何かがあって、時間稼ぎは意図して意識してやっているというのならわかりますが、そうではなく、単なる時間稼ぎだけしていても、事態は何も変わらないどころか、日増しに悪くなっていくだけです。

私は、そう思います。皆さんは、どう思われますか?

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2013年2月11日月曜日

ドイツの教師 校外で煙草吸う生徒目撃しても注意しない理由―【私の論評】何でも学校の管轄とするのはあまりにも無責任!!学校は治外法権ではなく、責任ある社会人の子供が行くところと心得よ!!

ドイツの教師 校外で煙草吸う生徒目撃しても注意しない理由



大阪市立桜宮高校に端を発した体罰問題が広がり続けている。学校教育の体罰について、ドイツの例を参考に考えたい。(取材・執筆=フリーライター・神田憲行)

* * *
体罰問題を高校野球の監督をしている友人と話していて、彼が自分のこんなエピソードを紹介してくれた。

若くして母校の監督に就任して初めて選手の保護者会があったときのこと。リトルリーグの監督もしているという保護者からこんな指... 続きを読む

■著者データ
NEWSポストセブン
「NEWS ポストセブン」は小学館が発行する「週刊ポスト」「女性セブン」「SAPIO」「マネーポスト」4誌を統合したニュースサイトです。各誌の最新記事・コラム等をネット用に再編集し、掲載するほか他のニュースサイトにも配信します。
ウェブサイト: http://www.news-postseven.com/


【私の論評】何でも学校の管轄とするのはあまりにも無責任!!学校は治外法権ではなく、責任ある社会人の子供が行くところと心得よ!!

ドイツのギムナジウムの保護者会
本日は、建国記念日です。そんなこともあり、国の基は教育ですから、本日は、教育に関係することを掲載しようと思います。詳細は、上の記事をごらんただくものとして、上の記事では、ドイツで「問題行為」(授業中に騒ぐなどの行為。髪の毛を染めるような身だしなみや学校外で起こした問題ではない)を起こした生徒には、まず「口頭」で注意され、その「注意」が3回たまると、校長から生徒の家に「問題行動を起こしたことへの注意」が書面で送られ、そしてこの書面が3通たまったら退学というのが当たり前だそうです。そうして、教師の家庭訪問もなく、学校と家庭は厳格に区別されているとされています。それにしても、校外で煙草を吸っている生徒を見ても、注意しないとは徹底しています。

私は、暴力ではない厳密な意味での体罰にはどちらかといえば賛成なのですが、それにしても、学校内暴力に関しては、大反対でありこのあたり以前のブログに書いていても、すっきりしないところがありました。しかし、上の記事を読んでいてある程度すっきりました。確かに、学校に暴力は必要ないし、暴力をするものは、きちんと手順を踏んだ上で、学校側が排除すれば良いだけです。

そうなんです。大学あたりだと、世の中がおかしかった数十年前の、学生運動が盛んなころは別として、現在なら暴力行為とか、それに類する不埒な行動を大学ですれば、それは犯罪以外の何ものでもないわけであり、大学を放校されるのは当然のことです。たしか、大学ではずっと昔から、同一学年を2回を超えて落第することはできず、三回目の落第が決まれば、自動的に放校です。高校のように、担任がいて、担任が生活指導するなどということはないです。それこそ、自動的にそうなってしまいます。それは、職場でも同じことです。ゆえなく、会社に出て来なければ、普通は連絡がなければ、3日以上無断欠勤が続いた場合、解雇になってしまいます。

実際、私の大学時代にも、そのような人間が幾人かいたことを思い出しました。たいては、大学に来なくなって、休学の届けも何も出さずにそのままというのがほとんどでした。それにしても、このようなけじめは社会人として最低限必要なルールだと思います。こんなこともなければ、大学に通えない人間は、まともな社会人とはいえません。

ただし、最近は、私大の中には、出欠状況をチェックしてわざわざ親にしらせるようなところもあるそうですが、私からいわせればば、そんなものは噴飯もので、もはや、そのような大学は大学とも呼べないと思います。管理されなければ、まともに大学にも通えないような人間は、まともな社会人ではありません。それに驚いたことに、最近では、大学でもイジメがあるとのこと。このようなイジメをする大学生など存在価値がないと思います。それに、そのような問題がおこる大学そのものも存在価値がないのではと思います。


それから、これは、以前のブログに書いたことなのですが、意外と知られていないことがあります。大学に経済的な理由でいけないとか、たまたまそのときにやる気が全くでなかったなどの理由で行けなくなった場合は、すみやかに休学届けを出すべきです。わざわざ退学にする必要などありません。復帰できるときに復帰すれば良いのです。何年であろうと、何十年であろうと、休学は休学です。退学とは全く違います。手続きするかしないかで、天地の差があります。

最近亡くなった大島渚監督は、確か、京都大学を休学しており、それこそ、何十年もたってから、手続きし、レポートをいくつが提出するなどして、卒業していました。しかし、理由はなんであれ退学してしまえば、そのようなことは永遠にできません。

大島渚監督
話が少し脱線してしまいましたが、ドイツでは、こうした大学でのような厳しさを高校以下の学校でも、ある程度生徒たちも課しているということです。これは、当然のことだと思います。学校も社会の一部であり、生徒は、社会人の予備軍なのですから・・・・・。なのに、なぜか日本では、高校以下の学校では、何やらまともな社会のようではなく、一種独特の治外法権のように受け取られています。不覚ながら、私も、このような考えに少し汚染されていたと思います。だからこそ、学校教育でも厳密な意味での暴力ではない体罰は必要と以前のブログにも書きました。しかし、それは誤りであるということに上の記事で思い知らされました。

そうして、納得しました。いわゆる暴力ではない厳密な意味での体罰であっても、本来は、学校ではすべきものではないということです。それは、親の役割だということです。このあたり、戦前はどうもそれが当然だったようです。それは、子供の頃、祖父や、父などに聴いてみて、戦前や戦中であっても、学校が今のような状態ではなかったようでした。それに、特に小学校(尋常小学校)などでは、子どもたちというのは、天子(天皇陛下)様の子供ということで、特に平等に扱われていたということもあったようでした。

親が躾けに失敗しても、学校には頼ることができないということです。それは、全く当たり前のことであり、戦前の日本でも当たり前だったと思います。今の日本のように学校だけが、特殊であり、治外法権のようで、あたかも、一般社会と異なるように思うのは本来間違いです。


少年であろうと、学校の規則など守れない場合は、退学になるようにすれば、どうしても守れない子供は、何回も学校を変えなければならないことになります。そうして、自分が傷つくだけであることを思い知ることでしよう。恨みたければ、自分自身や、自分の親を恨めということです。暴力ではない体罰も含む、きちんとした躾けができていなければ、親も子供も不幸になるわけです。

しかし、考えてみれば、人を育てる、特に自分の子供を育てるというということは、元来そういうことのはすです。自分の子供をまともに躾けられないような親は、まともな社会人とはいえません。社会人としての責任を放棄したということになります。


ドイツようなやり方をすれば、体罰やイジメなど、かなりの率でなくなると思います。無論ドイツにも犯罪者がいるので、ドイツ流にしたからといって、何もかも良くなるとは思いません。しかし、学校の先生もかなり楽に、これらの問題に対処できると思います。良心的な先生たちは、躾けは、自分たちの仕事ではないと割り切れるように、学校のシステムを変えていくべきものと思います。

いきなり、このようにするのは、多少混乱を招くかもしれません。しかし、本質的には、ドイツのようなやり方が最もまともなのではないかと思います。今の日本にあったこのようなやり方を構築して、逐次導入していく必要があると思います。先日の大津のいじめ問題では、第三者委員会が、学校側に明確に責任があるという結論を出していました。無論、そうなのでしようが、しかし、今のままシステムを変えなければ、大津のような問題はこれからもおこると思います。それに、体罰の問題もくすぶり続けると思います。

安倍総理は、教育問題に関しても取り組む姿勢をみせています。今すぐとはいかなくても、いずれ、ドイツ流のやり方なども検討していただきたいものです。とにかく、システムづくりはいずれしなければならないでしょうが、まずは、多くの人びとが、何でも学校の管轄とするのはあまりにも無責任であり、学校は治外法権ではなく、責任ある社会人の子供が行くところと心得るように、世論形成をしていく必要がありそうです。私は、そう思います。皆さんは、どう思われますか?



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【from Editor】一定条件下の体罰―【私の論評】体罰肯定派からみれば、言葉遣いの間違いが横行する昨今の治外法権的日本の学校あり方は異常であり、いずれ抜本的に改める必要がある!!



【新聞に喝!】これは反日「デモ」なのか?―【私の論評】新聞は、物事の背景を見ることができないばかりか、言葉遣いまでおかしくなっている!!




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2013年1月27日日曜日

【from Editor】一定条件下の体罰―【私の論評】体罰肯定派からみれば、言葉遣いの間違いが横行する昨今の治外法権的日本の学校あり方は異常であり、いずれ抜本的に改める必要がある!!

【from Editor】一定条件下の体罰:

市立桜宮高校の説明会に出席するため集まった保護者たち=9日夜


大阪市立桜宮高校のバスケットボール部の主将だった2年生が顧問教師の体罰後に自殺したことで、評論家やジャーナリストらの多くが体罰の全面禁止を主張している。大阪市の橋下徹市長も「あらゆる体罰禁止」を打ち出している。国も各自治体も体罰の実態調査に乗り出している。

生徒の自殺は痛ましい。顧問教師は、連日殴ったり、数十発殴ったり、唇を切ったり、「殴られてもええんやな」と発言していたという。これは明らか に教育の範囲を超えている。生徒はおびえ、教師と生徒の信頼関係は崩れていたとしか思えない。だから自殺してしまったのだろう。
こうした事件が起きると、「それでも体罰は必要だ」と言うには勇気がいる。だが、私は、一定の条件下で体罰は必要だと言いたい。それはどのような条件か。

この記事の続きはこちらから!!

【私の論評】体罰肯定派からみれば、言葉遣いの間違いが横行する昨今の治外法権日本の学校あり方は異常であり、いずれ抜本的に改める必要がある!!

上の記事、非常に歯切れが悪いと思います。体罰肯定なら肯定、反対なら反対とはっきり表明すべきと思います。私自身は、肯定派です。まずは、はっきり自分の立場を表明させていただいた上で、なぜそう思うのか説明させていただきます。

それ説明するための下準備としてまずは、下の記事を読んでいただきたいと思います。この記事は、大阪市の現橋下市長が、大阪府知事だったときに、体罰容認の発言をしたという内容です。2008年の新聞記事です。
橋下知事「手を出さないとしょうがない」 体罰容認発言
 大阪府の橋下徹知事は26日、堺市で開かれた「大阪の教育を考える府民討論会」(府、府教委主催)に出席、学力向上のための緊急対策に盛り込んだ反復学習の実施に理解を求めた。一方、「口で言って聞かないと手を出さないとしょうがない」と体罰を容認する発言をした。
 知事は「私は学力を必ず上げます」と断言、「子どもが社会に出て壁にぶつかったとき、乗り越えられる能力が絶対必要だ」と訴えた。一方で「子どもが走り回って授業にならない。ちょっとしかって頭でもコツンとしようものなら、やれ体罰だと叫んでくる。これで赤の他人の先生が教育をできるか」と話し、どこまでを教育と認めるか合意形成が必要だとした。
 また、質問に立った日教組の組合員という小学校職員が、「日教組の強いところは学力が低い」などと発言した中山前国土交通相を知事が擁護したことを批判。その後、知事を非難するヤジが続くと、知事は「中山発言正しいじゃないですか」「これが大阪の教育現場。こういう教師が現場で暴れ放題する」「9割の先生は一生懸命やってる。1割のどうしようもない先生を排除してください」と激しい口調で話した。
 討論会後、報道陣から体罰を容認するのかと聞かれた知事は「体罰という言葉にとらわれる必要はない」と答えた。これに対し、討論会に同席した生野照子・府教育委員長は「体罰に関する発言は間違っている」と話した。
この時の発言の動画を以下に掲載します。


過去に橋本市長が上記のような発言をしていたからといって 現在の橋下市長が、今回の体罰の次元を超えた暴力に関しては、高校入試の廃止や、教師の入れ替えなどかなり厳しい措置をしようとしていることに、矛盾があるという批判が多いです。

しか、私は何も矛盾しているとは思いません。なぜなら、体罰、いじめと暴力とは明らかに言葉が異なるからです。その意味では、上の産経の記事も間違いです。ある一定条件下での体罰という表現はあり得ません。体罰と暴力は異なり、同じではありません。

無論体罰、いじめと、暴力が区別がつきにくく、灰色のゾーンはあるかとは思いますが、今回の事例は、どうみても暴力です。明らかに体罰の域を超えています。これは、はっきりしています。4発けがをしない程度に殴るのと、軽かろうが重かろうが、40発殴るのとでは全く異なります。40発殴るのは、明らかに暴力です。

最近の特にマスコミなどの言葉遣いかなりおかしいです。それについては、過去にこのブログにもいくつか掲載したことがあります。以下は、「反日デモ」という言葉遣いのおかしさについて掲載したブログ記事のURLです。
【新聞に喝!】これは反日「デモ」なのか?―【私の論評】新聞は、物事の背景を見ることができないばかりか、言葉遣いまでおかしくなっている!!
詳細は、上の記事をご覧いただくものとして、この記事では、「反日デモ」という言葉のデモという言葉の定義をあげて、その定義にてらしあわせて、「反日デモ」はおかしいこと、正しくは「反日テロ(テロル)」が正しいことをあけました。中国政府あたりが、官製デモであることを隠蔽しつつ、「反日デモ」というのならまだわかりますが、日本側のメディアが「反日デモ」というのは、明らかに言葉遣いの間違いです。この言葉遣いでは、真実を覆い隠すばかりで真実を伝えることにはなりません。

それから、例の大津のいじめ問題についても、言葉遣いのおかしさをこのブログに掲載したことがあります。 その記事のURLを以下に掲載します。

いじめ 警察に被害訴える動き相次ぐ―【私の論評】「いじめ」という言葉は間違いではないか!!

詳細はこの記事をご覧いただくものとして、暴力を「いじめ」と表する言葉遣いのおかしさについてこの記事では以下のように締めくくりました。

今後、私たちは「いじめ」の問題を語るのではなく、「学校犯罪」という行為をどうするかという視点でものごとをみていくべきです。そうして、自らも犯罪者 にならないように、絶対に見過ごさないようにすべきです。そう思うのは、私だけでしょうか?皆さんは、どう思われますか?

 要するに、「いじめ」=「暴力」、「体罰」=「暴力」ではないのです。これらは、「いじめ」や「体罰」の域を超して、「暴力」になっても、なぜか、「暴力」とはマスコミなども呼ばずあくまで、「いじめ」「体罰」といいます。世間一般的にもなぜかそういう風潮があります。これは、非常におかしなことです。学校以外の一般社会で、このような暴力が行われた場合、それは、「暴力」であって、「いじめ」や「体罰」ではありません。>それが、なぜか、学校、それも高校以下の学校では、「暴力」と呼ばれることはありません。それは、全くおかしなこと異常なことです。へたをすると、大学でも、体育系のクラブ活動などでも、「暴力」と呼ばれないことがります。全く異常です。なにやら、学校という組織は、日本では治外法権のように思わているような気がしてなりません。
 

橋下市長は、今回の厳しい措置に対して動画で以下のように述べています。

橋下市長は、動画の中で「事の重大さ」という言葉遣いをしています。橋下市長が、今回のこの事件を単なる「体罰」とみているのではなく、重大な「学校犯罪」と見ていることは確かだと思います。

 また、大津のあのいじめ事件については以下の動画のように述べています。

 

私は、先にも述べたように、体罰肯定派です。しかし、それは、あくまで言葉の定義通りの意味で肯定しているということであり、何も暴力を肯定しているわけではありません。

この言葉の定義としてしては、いろいろ解釈があるとは思いますが、だいたい以下のとおりだと思います。
体罰は、父母や教員などが、子供や生徒などの管理責任の下にあると考えられる相手に対し、教育的な目的を持って、肉体的な苦痛を与える罰を加えることを指す。この場合の苦痛とは、叩くなどの直接的なものから、立たせたり座らせるなどして動くことを禁ずるなど間接的なものも含む。ただし、苦痛とは言っても明らかに負傷やPDSと認められるような措置は、体罰ではなく暴力である。
このような定義であれば、私自身子供の頃や、小学、中学では頻繁に、高校に入ってからは、稀に体罰を受けたことがあります。子供のころは、姿勢が悪かったり、ご飯の食べかた、お茶の飲み方が悪かった場合は、母に和裁に用いるときの、鯨尺というモノサシで、手や背中を叩かれたことよくありました。ただし、多少は痛いですが、叩かれた跡が残るということはありませんでした。

軽い体罰として古典的なバケツ持ち


小学、中学では、担任の先生などにげんこつはられたこともありましたが、げんこつとはいっても、多少痛いという程度で、それによってタコができるとか、完璧な負傷ということはありませんでした。廊下にバケツを持って立たされたこともありました。高校時代には、顧問の先生に、平手うちをくらったり、グランド何周といわれて、グランドを何周か走ったことなどもありました。しかし、こうしたことで、怖いとか、負傷したり、心に傷を負ったということはありません。ましてや、40発も連続で叩かれたなどということは一回もありません。 というより、あきらかに負い目があったので、むしろ、体罰を受けたほうが、せいせいしました。体罰を受けることにより、逆に気分がすっきりしました。過去の悪いことは消え、そうして、将来は、二度とこのようなことはしないようにと、心の中で誓いました。

社会常識が身についていない子供は、時に残酷、残虐にもなる!!

このようなことは、日常茶飯事で、それ自体が問題となるとか、あるいは、それで自殺者が出るなどということなど考えたこともありません。これらは、明らかに「体罰」の限度内に収まっており、暴力ではなかったからだと思います。

体罰度を超して鼻血が出るとか骨折するような暴力や、度を超して健康を害するとか死の危険が伴うようなしごきは問題ですが、本来の言葉の意味での体罰であれば、有っても構わないはずだとと言うよりも、全く体罰が無い学校の方が危険だといえます。

体罰として古典的な廊下ふき


例えば、生徒によるいじめ事件があれば、教師がいじめを行った生徒を平手打ち(ビンタ)することは仕方がないです。それは必要悪というものです。

まずは言葉で注意すべきであることは言うまでもないですが、言葉で言っても解らない人間には、体罰をもって教えるしかありません。他人の痛みが解らない人間には、自らも痛みをもって解らせるしか方法がありません。

正気を失った犯罪者を警官が暴力行為によって諌めるのと同様、他人を傷付けても心が痛まない異常者には正義の鉄槌が時には必要です。学校には子供を叱るべき親がいないのだから、親に代わって教師が体罰を与える行為は事情によっては認めるべきです。しかし、体罰を超えるような制裁が必要であれば、それはもはや学校の問題ではなく、法治国家として社会の問題として警察権力や司法当局の介入も仕方ないとみなすべきです。このあたりが、今の学校ではなぜかうやむやにされています。

まともな体罰までも禁止にすれば、元々、事勿れ主義で無法化している現在の学校が更なる無法地帯と化し、野獣の如く野放し状態となったいじめっこは、ますます手が付けられなくなってしまい、いじめの範疇を超えた学校暴力による自殺問題は更にエスカレートすることになります。そんな地獄のような学校なら、存在自体が悪でありこのような施設はいらないということになります。「体罰は絶対悪」と言っているような人は、学校の更なる地獄化を望んでいるとしか思えません。

体罰が全くない学校は無法地帯に!!?

家庭内でキッチリと子供の教育ができない不出来な親が「教師が生徒を殴ってはいけない」などと言う資格は無いし、まともな教師がそんなクレーマーのような親の存在を許しておく必要もありません。教師も生徒も言いたいことをハッキリと言える学校にすることこそが、今回のような問題を防ぐには最も重要なことだと思います。

今回、自殺した生徒も、おそらくは多くの学校内暴力による自殺者と同様、「逃げ場が無い」と思ったのだろうと思います。単に暴力が嫌だったのではなく、クラブのキャプテンという責任ある立場(または将来ある地位)にいながら、期待通りにいかない状況に不安を感じ、そこに教師からの体罰という名の暴力が重なり、自殺に追い込まれたのだろうと推察します。

実際はもっと複雑が事情が絡んでいるのかもしれないですが、結局のところ、いじめ自殺問題同様、閉鎖された教育空間が齎した悲劇であることには違いはないでしょう。そうして、こうした、学校の治外法権のようなあり方をマスコミが、「暴力」という言葉を遣わないことにより、さらに助長しているのだと思います。

想像を絶する韓国の解散させられた一陣会の悪行 恐喝・暴力・輪姦は日常茶飯事

学校の問題など、表面面だけみていては、何もわかりません。考えてみれば、歴史的にみれば、現在の教育制度など、GHQが日本の弱体化をはかるために、その基本的なあり方を決めたものです。その基本的なありかたが、戦後60年を経てもいまだ続いているわけです。日教組などは、その先兵です。悪名高い教育委員会制度もGHQが導入したものです。マスコミもこうした、治外法権的学校のあり方を日本弱体化の立場から支援しているのだと思います。橋下市長が 「事の重大さ」と述べたり、安倍総理が教育に力をいれると表明するのは、こうした治外法権的な日本の教育現場を正そうという意図があるのだと思います。

本当に、私のような本来の意味での体罰肯定派からみれば、言葉遣いの間違いが横行する昨今の治外法権的日本の学校のあり方は全く異常です。やはり、戦後体制の脱却という観点からも、日本の教育はいずれ抜本的に改めていかなければならないと私は思います。皆さんはどう思われますか?

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2012年7月28日土曜日

「幼児期の体罰が社会的協調性を発達させ得る」と脳科学者―【私の論評】現代の教育は、知らず知らずのうちに子供達から機会を奪っているどころか、弱体化している!!


吉田松陰像(自賛)[吉田家本]
幕末の志士たちに大きな影響を与えた吉田松陰。10才で兵学書『武教全書』を藩主の前で講義するなど、知能指数(IQ)が高かったといわれている。そんな吉田松陰について、『ホンマでっか!?TV』でお馴染みの脳科学者・澤口俊之氏が、脳科学的観点から分析する。

脳科学者・澤口俊之氏
* * *
松陰は、長州藩士・杉百合之助の次男として誕生し、6才のとき、叔父で兵学師範である吉田大助の養子となりました。その後、養父が他界したため、同じく叔父の玉木文之進が創立した松下村塾で教育を受けました。そこで受けた教育は、彼の実母が「いっそ死んでしまったほうがこの子は幸せ」と嘆くほど厳しく、し烈を極めたといいます。体罰の嵐ともいえる幼児教育だったそうですが、この逸話がいまでも語り継がれているのは、その「し烈な幼児教育」が特筆すべきことであり、当時でも珍しかったことを示唆しています。

虐待に近い過酷な教育を受けたのに脳の発達に悪影響がなかった松陰は、体罰を伴った厳しい幼児教育に耐えられる性質を遺伝的(MAOA遺伝子型という)に持っていた可能性があります。それでし烈な幼児教育に耐えられたうえ、痛み神経回路が発達したのではないでしょうか。

かくして吉田松陰の社会的協調性が発達し、「特殊脳」ではないのに、歴史に残る人物としていまに語り継がれる存在になったのだと思います。

※女性セブン2012年8月9日号

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【私の論評】現代の教育は、知らず知らずのうちに子供達から機会を奪っているどころか、弱体化している!!

吉田 松陰(よしだ しょういん)は、日本の武士(長州藩士)、思想家、教育者、兵学者、地域研究家です。一般的に明治維新の精神的指導者・理論者として知られます。このブログでも、吉田松陰のことはいく度が掲載していますが、吉田松陰のすごさは、松下村塾で、明治維新の立役者を数多く輩出したことです。あれだけ多くの人にあれだけ多くの影響を与えた人は稀有な存在です。そうして、おどろくことに享年29歳という若さでなくなっているということです。人の影響力とは、決して時間で測れるものではないという格好の事例だと思います。

吉田松陰が受けた教育、それに吉田松陰が若者たちに授けた教育、現代のものとは随分違います。その大きな違いの一つとして、幼少期からの厳しい詰め込み教育です。上の記事では、虐待に近いなどとしていますが、決して虐待ではなかったと思います。虐待は、相手に対する憎しみや、からかいなどがあるだけですが、し列を極めた厳しい教育には、その根底には愛があったと思います。それも、母性による愛ではなく、父性による愛があったと思います。そうして、ここでいう愛とは、相手を思いやる心という意味です。


「至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり」松陰直筆の書。
(写真)高杉晋作、吉田松陰、久坂玄瑞の像(萩往還公園)
教育を施す側には、子どもをまともにするという、責任感があったと思います。特に幼少期は、個性などということは、微塵も考えずに徹底的に武士の鋳型にはめ込む教育をしました。現代の教育は、それこそ、養老孟司氏が指摘しているように、個性を伸ばすなどという全く愚かな陥穽におちいっています。

生まれたばかりの子どもは、すべからく、個性的です。しかし、個性のまま、自由にしておくのは、個性を伸ばすことにはなりません。それどころか、人間とはなりません。人間として、一人前になるためには、まずは、社会性という鋳型にはめ込まなければ、その子どもは、まともな大人には育ちません。私も、子どもころ、箸の持ち方から、食事の仕方から、勉強の時の姿勢、本を読む時の姿勢はもとより、書籍から目までの距離にいたるまで、細かく躾けられました。そんな厳しい躾のせいでしょうか、今にいたるまで、目は悪くありません。この躾は、相当厳しく母は、昔和裁に良く用いられていた鯨尺という、いまでいうところの、竹製の定規で、私が粗相をするごとに、手などを叩かれました。

映画「武士の家計簿」より、元服の日のシーン
また、父に殴られたのも、一度や二度ではありません。無論、手加減して殴っているのでしょから、怪我をするほどではありませんが、痛いし、怖いし、恐ろしかったものです。

学校でも先生に叩かれたり、廊下に立たされたりすることもありました。中学、高校では、課外活動などしていれば、監督などに小突かれることもままありました。でも、親や教師などを恨んだことは一度もありません。会社に入ってからも厳しく叱責されたことは何度もあります。しかしそれは、すべて自分がその時々でいたらなかったからであり、仕方のないことであり、それを咎めた人たちを恨んだことは一度もありません。そうして、こうした人たちがいなければ、今の私は、存在していなかったと思い感謝の気持ちで一杯です。


幼少期の教育といえば、今では、家庭によるものと、幼稚園、保育園によるものになると思いますが、今では、松蔭の頃のような教育をするところは皆無でしよう。それどころか、最近では、親に一度も殴られたことがないなどという親とまるで友達関係であるかのような若者も珍しくはありません。

松蔭の頃は、幼少の教育に続いて、今でいえば大学に入る前の年頃に、徹底的な詰め込み教育が行われました。その中には、実利的なもののほか、無論のこと道徳とか、物の考え方を含んだものがかなりありました。とにかく、こうした道徳や、物の考え方を徹底的に叩きこみました。その伝統は残念ながら、昔はある程度は残っていましたが、大東亜戦争後は、日本からほとんど消えてしまいました。


今の教育ではこういうことはほとんど教えません。それこそ、算数・数学、理科、国語など実利的な教育が中心です。それどころか、最近では、個性の尊重とか、誤った個人主義とか、もっと酷くなると、自己主張のための人権擁護教育などがほどこされます。これでは、弱い人間、バックボーンがはっきりしない人間をつくるだけです。


本来、若い時期の教育は、物の考え方、価値観、道徳など今でいうところの大学に入る前の時期に徹底的に叩きこみ鋳型に押し込めてしまうことが重要です。多くの愚かな人々は、そんなことをすれば、子供の自主性が失われるとか、独創性が失われるとか、自由に反するなどと批判します。それは、全く逆です。

鋳型などというと、最近の親や先生は、どの鋳型にはまるかは、子供の自主性によるなどと馬鹿なことをいいますが、鋳型は、反社会的でない限りどのようなものでも構わないのです。ただし、歴史の波に洗われて残った、多少古いくらいのものほうが、新しくて、その真価がまだ十分に明らかになっていないものより、良いのです。だから、武士道であってもかまいません、商人道でも良いのです。とにかく、はっきり理屈の通る、誰もが人の道として正しいことと考えられていること、道理、物の考え方の道筋を教えこむのだけでなく、そのとおりの考え方ができるまで、徹底して鋳型にはめ込むことが重要なのです。だらか、厳しくしなければならないのです。厳しくしなければ、人はもともと、鋳型にはまるのを嫌うため、徹底できないのです。

鋳型
とにかく人として、徹底的に人の原点になるべきことを叩きこむべきなのです。そうして、それが十分に出来上がった段階になってから、今度は大学に入て、はじめて専門分野を学んだって、職場に入って、さらに実利的なことを学んでも遅くはないのです。こういう原型ができあがっていない人は、残念ながら、原型がないため、何が正しくと、何が間違いか、何が新しくて、何が古いのかもわからなくなってしまい、創造性は育まれないのです。おそらく、何か学問をしても、上っ面をなぞるだけば、その本当の根本的なことを学び取ることはできないでしょう。

楽器でいえば、12音階がはっきり最初決まっているピアノなどを習った人が後で、トランペットなどを学ぶと、自分の音が外れているとか、合っているとか、あるいは、新しい音であるとか、新しい音楽であるとか、単なる変形であるとかが良く理解できるというのと同じ理屈です。このようなことをぜすに、最初から現代音楽をやってしまったとしたら、そのような人は永遠に音楽そのものを理解できないでしょう。


松蔭が、後に創造的な仕事や、多くの人にかなりの影響を与えるようになったのは、この原型がかなりはっきりしていたからです。原型がはっきりしているからこそ、そこを座標軸の原点として、自分で学びさらに、自分が見聞きしたことを、正しい、間違い、新しい、古い、何が時流で、何が時流でないかを正しくしかも自信を持って判断できたのです。

松下村塾
吉田松蔭の例でいえば、松蔭は、天保5年(1834年)6歳の時に叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となるが、天保6年(1835年)に大助が死去したため、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けました。


しかし松蔭はアヘン戦争で清が西洋列強に大敗したことを知って山鹿流兵学が時代遅れになったことを痛感すると、西洋兵学を学ぶために嘉永3年(1850年)に九州に遊学しました。ついで、江戸に出て佐久間象山に師事しました。

佐久間象山
もし、松蔭が、山鹿流兵学をきちんと学んで、その本質を学んでいなければ、山鹿流が時代遅れであることにも気付かなかったかもしれません。あるいは、そこまでいかなくとも、西洋兵学を学ぼうとまでは思わなかったかもしれません。そうして、その後西洋兵学を学ぶにしても、兵法に関する原型や、座標軸を持っていなければ、十分学ぶ事ができなかったかもしれません。山鹿流という考え方が根底にあったからこそ、西欧兵学との違い、利点、その他を素早く学ぶことができたのです。

山鹿流兵法の開祖山鹿素行
明治維新の立役者となった人たちは、こうしたものの考え方の道筋の基本、道理を子供の頃から徹底的に叩きこまれたからこそ、あの偉大な革命をなし得たのです。


これに比較すると、現在の教育は、人が人たる所以、日本人が日本人たる所以などには触れず、誤った個人主義、自己主張、あとは、実利的な教育、酷い場合には、いわゆる受験教育だけや、ゆとり教育などで歪められ、バックボーンのない弱い人間を再生するだけになっているのです。このような教育は根本的に改めていく必要があると思うのはわたしだけでしょうか?松蔭自身は、実学を重んじることを説いていましたが、それにしても、こうした背景があることを前提としてそのようなことを語っていたと思います。まずは、人が人たる所以、日本人が日本人たる所以を知らない人、よって、物事を判断する道筋がわからない人、世の中の判断する上での座標軸、原型を知らない人が実学を即学んでも、上っ面しか捉えられず、学問の本質など会得できません。数ある、松蔭の残されている言葉から、それを見て取ることができます。

以下に吉田松陰の言葉ランキングを掲載します。

1位

身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ぬとも 留置まし 大和魂
遺書「留魂録」より、冒頭にある辞世の句。)

2位

かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂
泉岳寺にて、赤穂浪士仇討ちと自分の下田踏海の心境を重ねた歌。)

3位

世の人は 良し悪し事も 言はば言へ 賤(しず)が誠は 神ぞ知るらん
(中公クラシックス「講孟余話ほか」所収「回顧録」より)

4位

至誠にして動かざる者は未だ之れ有らざるなり。
(「孟子」の一節。誠とは、「已むことを得ざる、これを誠といふ」(山鹿素行「聖教要録」)つまり、本心であり、どうしてもこうせねばならぬということ。)

5位

親思う 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん
(確か「留魂録」ではない、家族宛の遺書にある辞世の一つ。)

6位

凡そ生れて人たらば、宜しく人の禽獣に異なる所以を知るべし。蓋し人には五倫あり、而して君臣父子を最も大なりと為す。故に人の人たる所以は忠孝を本と為す。
(「士規七則」より)

7位

士の道は義より大なるはなし。義は勇に因りて行はれ、勇は義に因りて長ず。
(「士規七則」より)

8位

死は好むものではなく、また憎むべきでもない。世の中には生きながらえながら心の死んでいる者がいるかと思えば、その身は滅んでも魂の存する者もいる。死して不朽の見込みあらば、いつ死んでもよいし、生きて大業をなしとげる見込みあらば、いつまでも生きたらよいのである。つまり私の見るところでは、人間というものは、生死を度外視して、要するになすべきことをなす心構えこそが大切なのだ。
遺書「留魂録」の一節で、古川薫による現代語訳。)

9位

死而後已(死して後已む)の四字は言簡にして義広し。堅忍果決、確乎として抜くべからざるものは、是れを舎(お)きて術なきなり。
(「士規七則」より)

10位

身、皇国に生れて、皇国の皇国たる所以を知らず、何を以て天地に立たむ。
平泉澄「物語日本史」下巻より。水戸遊学時の言葉。)


そうして、一番最後は、上のランキングには含まれていませんが、以前にもこのブログに掲載した、私が大好きな吉田松蔭の言葉で、皆さんにも知っておいていただきたい言葉を掲載して締めくくります。

夢なき者に理想なし、 
理想なき者に計画なし、 
計画なき者に実行なし、 
実行なき者に成功なし。 
故に、夢なき者に成功なし。



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