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2013年1月27日日曜日

【from Editor】一定条件下の体罰―【私の論評】体罰肯定派からみれば、言葉遣いの間違いが横行する昨今の治外法権的日本の学校あり方は異常であり、いずれ抜本的に改める必要がある!!

【from Editor】一定条件下の体罰:

市立桜宮高校の説明会に出席するため集まった保護者たち=9日夜


大阪市立桜宮高校のバスケットボール部の主将だった2年生が顧問教師の体罰後に自殺したことで、評論家やジャーナリストらの多くが体罰の全面禁止を主張している。大阪市の橋下徹市長も「あらゆる体罰禁止」を打ち出している。国も各自治体も体罰の実態調査に乗り出している。

生徒の自殺は痛ましい。顧問教師は、連日殴ったり、数十発殴ったり、唇を切ったり、「殴られてもええんやな」と発言していたという。これは明らか に教育の範囲を超えている。生徒はおびえ、教師と生徒の信頼関係は崩れていたとしか思えない。だから自殺してしまったのだろう。
こうした事件が起きると、「それでも体罰は必要だ」と言うには勇気がいる。だが、私は、一定の条件下で体罰は必要だと言いたい。それはどのような条件か。

この記事の続きはこちらから!!

【私の論評】体罰肯定派からみれば、言葉遣いの間違いが横行する昨今の治外法権日本の学校あり方は異常であり、いずれ抜本的に改める必要がある!!

上の記事、非常に歯切れが悪いと思います。体罰肯定なら肯定、反対なら反対とはっきり表明すべきと思います。私自身は、肯定派です。まずは、はっきり自分の立場を表明させていただいた上で、なぜそう思うのか説明させていただきます。

それ説明するための下準備としてまずは、下の記事を読んでいただきたいと思います。この記事は、大阪市の現橋下市長が、大阪府知事だったときに、体罰容認の発言をしたという内容です。2008年の新聞記事です。
橋下知事「手を出さないとしょうがない」 体罰容認発言
 大阪府の橋下徹知事は26日、堺市で開かれた「大阪の教育を考える府民討論会」(府、府教委主催)に出席、学力向上のための緊急対策に盛り込んだ反復学習の実施に理解を求めた。一方、「口で言って聞かないと手を出さないとしょうがない」と体罰を容認する発言をした。
 知事は「私は学力を必ず上げます」と断言、「子どもが社会に出て壁にぶつかったとき、乗り越えられる能力が絶対必要だ」と訴えた。一方で「子どもが走り回って授業にならない。ちょっとしかって頭でもコツンとしようものなら、やれ体罰だと叫んでくる。これで赤の他人の先生が教育をできるか」と話し、どこまでを教育と認めるか合意形成が必要だとした。
 また、質問に立った日教組の組合員という小学校職員が、「日教組の強いところは学力が低い」などと発言した中山前国土交通相を知事が擁護したことを批判。その後、知事を非難するヤジが続くと、知事は「中山発言正しいじゃないですか」「これが大阪の教育現場。こういう教師が現場で暴れ放題する」「9割の先生は一生懸命やってる。1割のどうしようもない先生を排除してください」と激しい口調で話した。
 討論会後、報道陣から体罰を容認するのかと聞かれた知事は「体罰という言葉にとらわれる必要はない」と答えた。これに対し、討論会に同席した生野照子・府教育委員長は「体罰に関する発言は間違っている」と話した。
この時の発言の動画を以下に掲載します。


過去に橋本市長が上記のような発言をしていたからといって 現在の橋下市長が、今回の体罰の次元を超えた暴力に関しては、高校入試の廃止や、教師の入れ替えなどかなり厳しい措置をしようとしていることに、矛盾があるという批判が多いです。

しか、私は何も矛盾しているとは思いません。なぜなら、体罰、いじめと暴力とは明らかに言葉が異なるからです。その意味では、上の産経の記事も間違いです。ある一定条件下での体罰という表現はあり得ません。体罰と暴力は異なり、同じではありません。

無論体罰、いじめと、暴力が区別がつきにくく、灰色のゾーンはあるかとは思いますが、今回の事例は、どうみても暴力です。明らかに体罰の域を超えています。これは、はっきりしています。4発けがをしない程度に殴るのと、軽かろうが重かろうが、40発殴るのとでは全く異なります。40発殴るのは、明らかに暴力です。

最近の特にマスコミなどの言葉遣いかなりおかしいです。それについては、過去にこのブログにもいくつか掲載したことがあります。以下は、「反日デモ」という言葉遣いのおかしさについて掲載したブログ記事のURLです。
【新聞に喝!】これは反日「デモ」なのか?―【私の論評】新聞は、物事の背景を見ることができないばかりか、言葉遣いまでおかしくなっている!!
詳細は、上の記事をご覧いただくものとして、この記事では、「反日デモ」という言葉のデモという言葉の定義をあげて、その定義にてらしあわせて、「反日デモ」はおかしいこと、正しくは「反日テロ(テロル)」が正しいことをあけました。中国政府あたりが、官製デモであることを隠蔽しつつ、「反日デモ」というのならまだわかりますが、日本側のメディアが「反日デモ」というのは、明らかに言葉遣いの間違いです。この言葉遣いでは、真実を覆い隠すばかりで真実を伝えることにはなりません。

それから、例の大津のいじめ問題についても、言葉遣いのおかしさをこのブログに掲載したことがあります。 その記事のURLを以下に掲載します。

いじめ 警察に被害訴える動き相次ぐ―【私の論評】「いじめ」という言葉は間違いではないか!!

詳細はこの記事をご覧いただくものとして、暴力を「いじめ」と表する言葉遣いのおかしさについてこの記事では以下のように締めくくりました。

今後、私たちは「いじめ」の問題を語るのではなく、「学校犯罪」という行為をどうするかという視点でものごとをみていくべきです。そうして、自らも犯罪者 にならないように、絶対に見過ごさないようにすべきです。そう思うのは、私だけでしょうか?皆さんは、どう思われますか?

 要するに、「いじめ」=「暴力」、「体罰」=「暴力」ではないのです。これらは、「いじめ」や「体罰」の域を超して、「暴力」になっても、なぜか、「暴力」とはマスコミなども呼ばずあくまで、「いじめ」「体罰」といいます。世間一般的にもなぜかそういう風潮があります。これは、非常におかしなことです。学校以外の一般社会で、このような暴力が行われた場合、それは、「暴力」であって、「いじめ」や「体罰」ではありません。>それが、なぜか、学校、それも高校以下の学校では、「暴力」と呼ばれることはありません。それは、全くおかしなこと異常なことです。へたをすると、大学でも、体育系のクラブ活動などでも、「暴力」と呼ばれないことがります。全く異常です。なにやら、学校という組織は、日本では治外法権のように思わているような気がしてなりません。
 

橋下市長は、今回の厳しい措置に対して動画で以下のように述べています。

橋下市長は、動画の中で「事の重大さ」という言葉遣いをしています。橋下市長が、今回のこの事件を単なる「体罰」とみているのではなく、重大な「学校犯罪」と見ていることは確かだと思います。

 また、大津のあのいじめ事件については以下の動画のように述べています。

 

私は、先にも述べたように、体罰肯定派です。しかし、それは、あくまで言葉の定義通りの意味で肯定しているということであり、何も暴力を肯定しているわけではありません。

この言葉の定義としてしては、いろいろ解釈があるとは思いますが、だいたい以下のとおりだと思います。
体罰は、父母や教員などが、子供や生徒などの管理責任の下にあると考えられる相手に対し、教育的な目的を持って、肉体的な苦痛を与える罰を加えることを指す。この場合の苦痛とは、叩くなどの直接的なものから、立たせたり座らせるなどして動くことを禁ずるなど間接的なものも含む。ただし、苦痛とは言っても明らかに負傷やPDSと認められるような措置は、体罰ではなく暴力である。
このような定義であれば、私自身子供の頃や、小学、中学では頻繁に、高校に入ってからは、稀に体罰を受けたことがあります。子供のころは、姿勢が悪かったり、ご飯の食べかた、お茶の飲み方が悪かった場合は、母に和裁に用いるときの、鯨尺というモノサシで、手や背中を叩かれたことよくありました。ただし、多少は痛いですが、叩かれた跡が残るということはありませんでした。

軽い体罰として古典的なバケツ持ち


小学、中学では、担任の先生などにげんこつはられたこともありましたが、げんこつとはいっても、多少痛いという程度で、それによってタコができるとか、完璧な負傷ということはありませんでした。廊下にバケツを持って立たされたこともありました。高校時代には、顧問の先生に、平手うちをくらったり、グランド何周といわれて、グランドを何周か走ったことなどもありました。しかし、こうしたことで、怖いとか、負傷したり、心に傷を負ったということはありません。ましてや、40発も連続で叩かれたなどということは一回もありません。 というより、あきらかに負い目があったので、むしろ、体罰を受けたほうが、せいせいしました。体罰を受けることにより、逆に気分がすっきりしました。過去の悪いことは消え、そうして、将来は、二度とこのようなことはしないようにと、心の中で誓いました。

社会常識が身についていない子供は、時に残酷、残虐にもなる!!

このようなことは、日常茶飯事で、それ自体が問題となるとか、あるいは、それで自殺者が出るなどということなど考えたこともありません。これらは、明らかに「体罰」の限度内に収まっており、暴力ではなかったからだと思います。

体罰度を超して鼻血が出るとか骨折するような暴力や、度を超して健康を害するとか死の危険が伴うようなしごきは問題ですが、本来の言葉の意味での体罰であれば、有っても構わないはずだとと言うよりも、全く体罰が無い学校の方が危険だといえます。

体罰として古典的な廊下ふき


例えば、生徒によるいじめ事件があれば、教師がいじめを行った生徒を平手打ち(ビンタ)することは仕方がないです。それは必要悪というものです。

まずは言葉で注意すべきであることは言うまでもないですが、言葉で言っても解らない人間には、体罰をもって教えるしかありません。他人の痛みが解らない人間には、自らも痛みをもって解らせるしか方法がありません。

正気を失った犯罪者を警官が暴力行為によって諌めるのと同様、他人を傷付けても心が痛まない異常者には正義の鉄槌が時には必要です。学校には子供を叱るべき親がいないのだから、親に代わって教師が体罰を与える行為は事情によっては認めるべきです。しかし、体罰を超えるような制裁が必要であれば、それはもはや学校の問題ではなく、法治国家として社会の問題として警察権力や司法当局の介入も仕方ないとみなすべきです。このあたりが、今の学校ではなぜかうやむやにされています。

まともな体罰までも禁止にすれば、元々、事勿れ主義で無法化している現在の学校が更なる無法地帯と化し、野獣の如く野放し状態となったいじめっこは、ますます手が付けられなくなってしまい、いじめの範疇を超えた学校暴力による自殺問題は更にエスカレートすることになります。そんな地獄のような学校なら、存在自体が悪でありこのような施設はいらないということになります。「体罰は絶対悪」と言っているような人は、学校の更なる地獄化を望んでいるとしか思えません。

体罰が全くない学校は無法地帯に!!?

家庭内でキッチリと子供の教育ができない不出来な親が「教師が生徒を殴ってはいけない」などと言う資格は無いし、まともな教師がそんなクレーマーのような親の存在を許しておく必要もありません。教師も生徒も言いたいことをハッキリと言える学校にすることこそが、今回のような問題を防ぐには最も重要なことだと思います。

今回、自殺した生徒も、おそらくは多くの学校内暴力による自殺者と同様、「逃げ場が無い」と思ったのだろうと思います。単に暴力が嫌だったのではなく、クラブのキャプテンという責任ある立場(または将来ある地位)にいながら、期待通りにいかない状況に不安を感じ、そこに教師からの体罰という名の暴力が重なり、自殺に追い込まれたのだろうと推察します。

実際はもっと複雑が事情が絡んでいるのかもしれないですが、結局のところ、いじめ自殺問題同様、閉鎖された教育空間が齎した悲劇であることには違いはないでしょう。そうして、こうした、学校の治外法権のようなあり方をマスコミが、「暴力」という言葉を遣わないことにより、さらに助長しているのだと思います。

想像を絶する韓国の解散させられた一陣会の悪行 恐喝・暴力・輪姦は日常茶飯事

学校の問題など、表面面だけみていては、何もわかりません。考えてみれば、歴史的にみれば、現在の教育制度など、GHQが日本の弱体化をはかるために、その基本的なあり方を決めたものです。その基本的なありかたが、戦後60年を経てもいまだ続いているわけです。日教組などは、その先兵です。悪名高い教育委員会制度もGHQが導入したものです。マスコミもこうした、治外法権的学校のあり方を日本弱体化の立場から支援しているのだと思います。橋下市長が 「事の重大さ」と述べたり、安倍総理が教育に力をいれると表明するのは、こうした治外法権的な日本の教育現場を正そうという意図があるのだと思います。

本当に、私のような本来の意味での体罰肯定派からみれば、言葉遣いの間違いが横行する昨今の治外法権的日本の学校のあり方は全く異常です。やはり、戦後体制の脱却という観点からも、日本の教育はいずれ抜本的に改めていかなければならないと私は思います。皆さんはどう思われますか?

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日教組

 

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2012年9月8日土曜日

【きょうの名言】お涙ちょうだい映画で世の中良くならない―【私の論評】虚構と現実は異なる!!ましてや、ゲームや映画・テレビと現実は異なる!!

【きょうの名言】お涙ちょうだい映画で世の中良くならない:


映像作品やゲームなどの中で、暴力シーンなど残虐なシーンが内容に含まれているものが、往々にして問題にされることがある。現実への悪影響がどの程度あるのか、実際のところわからない。しかし、まったく別の見方がある。
@kouno0521さんがツイートする。

「北野武が記者に『暴力映画の影響で実際に暴力行為に出る人間も居ると思いますが、その点についてどう思われますか?』と聞かれた時に『じゃあ、何でおなみだ頂戴の良い話だらけなのに、一向に世の中は良くならねえんだよ』と聞き返したそうです」

北野武監督らしいと言えばそうだが、まったくその通り。ハッピーエンドの映画はこの世にあふれているにも関わらず、なぜみんなが幸せになることができないのか? それは、説明するまでもなく、映画と現実の世界は、全然違う世界だからだ。

いい加減、同列視はやめてはどうか。

【私の論評】虚構と現実は異なる!!ましてや、ゲームや映画・テレビと現実は異なる!!
まさしく、北野武氏のいわれることも、このツイートの主も、正しいことを言っていると思います。そもそも、映画やゲームは、現実ではありません。虚構の世界です。暴力的なゲームなゲームは、犯罪数を減少させるという研究レポートもあるくらいで、このブログにも掲載したことがあります。つい、先日北野武が出演していた"Outrage"を見たばかりでしたので、本日はこの話題を掲載することにしました。



『アウトレイジ』(OUTRAGE)は、2010年6月12日に公開された日本映画。北野武の15本目の監督作品。丸の内ルーブル、渋谷東急ほか全国東急系にて公開されました。

キャッチコピーは「全員悪人」。

過激なバイオレンスシーンや拷問シーンが数多く含まれるため、映倫でR15+指定を受けました。

この映画見ていない人ため、あらすじだけ掲載しておきます。
関東一円を支配する巨大暴力団・山王会の関内会長は、傘下の池元組が麻薬を扱う村瀬組と兄弟杯を交わして親密になっていることを快く思っていませんでした。そこで関内の右腕・加藤はこの2つの組を仲違いさせようと企て、池元に対して「村瀬を締めろ(軽い制裁を与えろ)」と無理な命令をします。兄弟分の村瀬に手を出せない池元は、配下の大友組に村瀬組を締めることを命令すします。池元の二枚舌、山王会の思惑に翻弄されながらも、大友組は村瀬組を締めることに成功し、村瀬組は解散しました。 
池元の行動に不愉快を覚えつつ、大友は村瀬のシマを事実上継承し、大使館の闇カジノで成功を収めます。一方、村瀬が隠れて麻薬を売っていることが発覚し、池元に唆された大友は村瀬を殺害します。ところが、このことを口実に池元は大友に破門を言い渡し、大友は怒りを露わにします。大友は復帰のため、関内の元を訪れ許しを請いますが、逆に関内は池元の殺害を唆します。そこで大友は悪びれず闇カジノを訪れていた池元を殺害します。闇カジノを狙っていた関内は、今度は池元組若頭の小沢に、組を継ぎたければ親の仇を討てと煽り、大友組と池元組の抗争を仕掛けてます。本家の手助けも得た小沢は、次々と大友組の組員を殺害し、彼らを追い詰めていきます。
下にキャストをあげておきます。以下のキャストを見れば、普段は悪役などやっていない人でも、悪役をやっいることに驚かれることでしょう。
大友(大友組組長) - ビートたけし
水野(大友組若頭) - 椎名桔平
石原(大友組組員) - 加瀬亮
片岡(刑事) - 小日向文世
関内(山王会会長) - 北村総一朗
岡崎(大友組組員) - 坂田聡
安倍(大友組組員) - 森永健司
上田(大友組組員) - 三浦誠己
江本(大友組組員) - 柄本時生
大友組組員 - 新田純一
大友組組員 - 渡来敏之
大友組組員 - 岩寺真志
大友組組員 - 小村裕次郎
大友組組員 - 大原研二
大友組組員 - 田崎敏路
村瀬組組員 - 内野智
村瀬組組員 - 鈴木雄一郎
ぼったくりBARの店員(村瀬組組員) - 瀧川英次
ぼったくりBARの店員(村瀬組組員) - 井澤崇行
ぼったくりBARの店員(村瀬組組員) - 金原泰成
佐山(村瀬組組員) - 芹沢礼多
小沢の手下 - 外川貴博
小沢の手下 - 江藤純
刑事 - 辻つとむ 
刑事 - 貴山侑哉 
ラーメン屋の客 - 太田浩介
ラーメン屋店長 - マキタスポーツ
ラーメン屋店員 - ケンタエリザベス3世
ジュン - しいなえいひ
ぼったくりBARのママ - こばやしあきこ
水野の女 - 渡辺奈緒子
歯科女医 - 中村純子
グバナン共和国在日大使館大使 - ハーシェル・ペッパース
飯塚(村瀬組組員) - 塚本高史
大友の女 - 板谷由夏
木村(村瀬組若頭) - 中野英雄
小沢(池元組若頭) - 杉本哲太
村瀬(村瀬組組長) - 石橋蓮司
池元(池元組組長) - 國村隼
加藤(山王会若頭) - 三浦友和
この映画、第63回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に正式参加しました。プレス限定上映会ではブーイングや退席者が出ましたが]、公式上映ではブーイングや退席者はでず、恒例である上映後のスタンディングオベーションのほかに、入場してきた北野監督に観客から長時間拍手が送られるという異例の歓迎を受けました。これは従来暴力中心映画をあまりノミネートしないカンヌ映画祭において、暴力表現に敏感なプレスに対し、一般客も含まれる公式上映では歓迎されたということを意味します。



私が、北野映画をみたのは、Borotherがはじめてでした。それから、あの話題になったHnabiもみました。この2作とも、暴力シーンは過激であるものの、Bortherに関しては、仲間に対する、Hnabiでは、妻や同僚・仲間に対するするそこはかとない、愛情が感じられました。愛情というか、思いやり、大義といったものを感じました。そうして、暴力シーンがあるからこそ、この大義が強調され、あるいみ人の心を打ったのだと思います。海外で高い評価を受けたのは、そのせいだと思います。



それと、北野映画に一環して表現される暴力なのですが、あれを見ていると、やはり、痛みを感じます。無論実際に痛いわけではありませんが、痛みを感じます。普段現実世界ではあり得ない、それこそ、シュール(非現実的、超現実的)な痛みを感じてしまいます。なぜ、感じるかといえば、やはり、昔人に殴られたり、殴られたりしたからだと思います。あるいは、言葉の暴力などでの痛みを感じてしまいます。そうして、少し年代が上の人たちは、本当の意味での飢えの感覚にもつながるものかもしれません。この痛みの感覚は、現実にはあり得ないようでありながら、映画のストーリーに奇妙な現実感を与えてることも否定できません。しかし、この奇妙な現実感を味わいながら、世界の現実を振り返ると、飢えや暴力は、この世界に蔓延している事実に戸惑いを覚えます。私達は、平和ニッポンにいて平和ボケしているのではと思ってしまいます。


飢えも暴力も世界に存在する現実だ!!
これらの映画を観ていると、現在の子供たちは、大人になってから私達と同じ感覚で見られるのかと、ふと疑念を持ってしまいます。なぜなら、現在は、家庭でも、学校でも、いわゆる体罰はないですし、暴力もいけないものとされ、子供によっては、親にも、学校の先生にも、他の子供たちからも、殴られたことも、殴ったこともなく育っている子供がいるからです。それに、本当の意味では、生まれてから、一度も飢えの感覚を味わっていないからです。しかし、ある程度大人になってから、こうした映画を大人と一緒にみて、大人がその意味を教えてあげれば、随分違うものと思います。

"Outrage"は、まさに、キャッチフレーズ通りに、「悪人」ばかりで、同僚などに対するそこはかとない、思いやりなどもない世界でした。まさに、暴力だけが支配する異様な世界でした。これを通して、北野監督はどのような世界を見せたかったのか、なかなか理解できないところがあります。


しかし、この映画に登場する人物達、確かに全員悪人なのですが、どんなに悪いことをしている人間でも、妙に憎めないところがありました。やはり、痛みを通して、超現実的な世界であるにもかかわらず、現実に存在する人間よりも、生き生きしていて、圧倒的存在感があり、奇妙な現実感があり、その人間たちが次々と死んでいくことから、人間というもののはかなさを描くことに成功しているからかもしれません。それこそ、いつ死ぬかわからいなのに、生きている間は、かなりの現実感があります。


とにかく、出演者三浦友和など含めて、普段は、悪役などしない人まで徹底して悪訳です。三浦友和がやっていた加藤(山王会若頭)は、北村総一朗がやっていた関内(山王会会長)を殺し、みずから会長になります。この映画では、最後にわざと逮捕され、刑務所に入って、殺されることを免れたかにも見えた、大友(ビートたけし)まで、刑務所で殺されてしまいます。

私は、これらの映画を見て、痛みを感じ、奇妙な現実感とでも呼べるような痛みの感覚を持てる人はある意味正常なのだと思います。『暴力映画の影響で実際に暴力行為に出る人間も居ると思いますが、その点についてどう思われますか?』と北野に聴くような記者などは、このような感覚を持てないのだと思います。

あまり痛みや、飢えなど、体に物理的な強い感覚を持ったことのない人は、ある意味では、かわいそうな存在かもしれません。こういう人達こそ、現実と映画の区別がつきにくいのかもしれません。

それらか、私自身は、人間の根源には、誰しもが暴力的な性向を持っていると思います。だから、"Outrage"の中に出てくる悪人達が、圧倒的な存在感があるように見えるだと思います。そうして、私は、人間は、誰でもそのようなものであることを認めるべきだと思います。無論、それを"Outrage"に出てくる悪人達のように、日常的に表に出すべきではありません。

しかし、出すべきときには出すべきと思います。たとえば、スポーツの時に、ここぞというとき踏ん貼らなければならないときとか、仕事上でも、ここ一番、アグレッシップにならなければならないときとか、無論、誰彼かまわず殴れといっているわけではありません。やるべきことに、力を注ぐときに、その力を使うという意味です。



これに似たようなことは、そういわれでみれば、以前このブログでも書いたことがあります。それは、あの、スタンリー・キューブリックの『時計じかけのオレンジ』について書いたときです。この記事を書いたときに、このブログのアバター(自分の写真)をこの映画の主人公アレックス(主演男優マルコム・マクドウェル)の写真を掲載していました。このブログ記事には、なぜその写真にしたかを以下のように綴っています。
この映画結局は人間にとって性への関心や暴力的な性格は根源的なものであり、これを全くなくしてしまえば人間ではなくなるというものだと思います。事実大昔、ロボトミーという暴力的あるいは性犯罪を頻繁に起こす精神疾患者に対して前頭葉を一部切り取るという手術の手法があり、実際に行われた事例がありました。しかし、手術を受けた患者は確かに大人しくはなるが全く無気力になってしまうので、今では行われていません。 
なぜ私がこの写真をアバターにしたかというと、仕事を行うにしても社会人として振舞うにしても、良い意味での攻撃性は重要であると思っているからです。こうした感情がなければ、パワフルに物事を進められないからです。人間は気を抜けばつい安逸な方向に流れがちです。そんな自分を戒め何事にも積極的にあたっていけるようにと願いを込めてこの写真をアバターにしました。この映画、ご覧になっていない方是非ご覧になって下さい。
人間は、根源的なもの失えば、人間ではなくなるということです。だからこそ、現実世界ではあり得ないような、"Outrage"などのような悪人たちを見ると、妙な存在感を感じるのかもしれません。

私は、このような映画あっても良いと思います。そもそも、現実と映画やゲームの世界は異なるからです。それにしても、たとえ、本当の痛みを感じなくても、このような映画を見さいに、痛みを感じるように子供たちを育てていくべきと思います。



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