人気バンド・サザンオールスターズ(活動休止中)の桑田佳祐(54)に初期の食道がんが見つかり、10月20日に予定していたニューアルバムの発売を一旦延期、10月28日から12月31日まで予定していた全国ツアーを全て中止し、手術と治療のためにしばらくの間療養すると28日、所属するアミューズが発表した。「幸いにも早期発見により初期段階での治療で済む状態」で、桑田は「どうかご心配なさらず(そんなのムリか!?)待っていてくださいね。お楽しみは、あ・と・で●(ハートマーク)」とコメントを寄せた。
日本音楽界の至宝から衝撃の事実が告げられた。同社によると、このほど受けた検診の結果、初期の食道がんが判明。早期発見により初期段階の治療で済む状態といい、今後はスケジュールを全て白紙に戻して治療に専念するが、8月25日に予定していたニューシングル「本当は怖い愛とロマンス」は予定どおり発売。また31日午後11時からのレギュラーラジオ番組『桑田佳祐のやさしい夜遊び』(TOKYO FMほか全国38局ネット)で、自らの口で直接ファンへ報告する。
桑田は6月23日に『四六時中、音楽主義宣言』を発表したばかり。10月20日に8年ぶりのオリジナルソロアルバムを発売し、同28日から5大ドーム会場を含む全国ツアー開催、それに先駆けて9月22日に「全国同時多発アルバム試聴会」を開催予定だったが、こちらも一旦延期となった。今後の活動は詳細が決まり次第、公式サイトなどで発表される。全国ツアーのチケットの払い戻しは30日午後3時より公式サイトで発表されるほか、ファンクラブ会員向けには8月上旬発行予定の会報111号で伝えられる。
以下は、桑田からのコメント全文。
この度は、ご心配をおかけして本当に申し訳ない気持ちです。
そして、今年の活動を楽しみにしてくれていた皆さんには心からお詫び申し上げます。
まずは自分自身の体調を回復させ、制作中のアルバムをなるべく早く皆様にお届けするようにいたします。
ツアーは一旦キャンセルになってしまいますが、しばし治療と静養に充てるお時間をいただいて、また改めて皆様にお会い出来る機 会を、心より楽しみにしたいと思っております。
それまでしばらくの間、どうかご心配なさらず(そんなのムリか!?)待っていてくださいね。
お楽しみは、あ・と・で●(ハートマーク)
桑田佳祐
次の成長の機会になってくれれば・・・・・・!?
サザンオールスターズのリーダーであり、ボーカル・ギターと作詞・作曲を担当。所属事務所はアミューズ、所属レコード会社はビクターエンタテインメントタイシタレーベル。嘉門 雄三(かもん ゆうぞう)、桑竹 居助(くわたけ いすけ)、夷撫 悶汰(いヴ もんた)、古賀 紅太(こが こうた)などの変名を用いたこともありました。
鎌倉学園高等学校卒業、青山学院大学経営学部除籍。身長170.3cm、体重67kg。A型の右利き。愛称は「すけちゃん」「ケイちゃん」「桑っちょ」など。 1982年に、サザンのキーボーディスト・原由子と結婚し、これまでに2男を授かる。芸能界きってのおしどり夫婦として知られています。
私は、このサザンオールスターズ、最初にNHKに登場したときのことをはっきり覚えています。確か、NHKのテレビに午後6時半ころに、出たと思います。今となっては、なんの番組だったかも覚えていません。とにかく、そのときがテレビの初公開ということだけ、アナウンスがあったと思います。当時はまだ、ほとんど無名だつたと思います。しかし、あれを見て、間違いなくヒットすると思いました。曲は、もちろん「勝手にシンドバッド」でした。私自身、最初の一曲がやはり、強烈に印象が強いので、サザンの曲の中では何といってもこれが一番です。
さて、下に桑田佳祐さんの、生い立ちと年譜をあげておきます。興味のある方は、見てください。興味のないかたも、年譜の下に続きの記事を書きますのて、是非読んでください。
生い立ち〜1980年代
1956年
2月26日、神奈川県茅ヶ崎市に生まれる。
1977年
サザンオールスターズとして、アマチュアバンドのコンテスト「ヤマハEastWest'77」に出場。ベストボーカル賞を受賞。この時に決勝で対戦したのは、シャネルズの鈴木雅之だった。
サザンオールスターズのリーダーであり、ボーカル・ギターと作詞・作曲を担当。所属事務所はアミューズ、所属レコード会社はビクターエンタテインメントタイシタレーベル。嘉門 雄三(かもん ゆうぞう)、桑竹 居助(くわたけ いすけ)、夷撫 悶汰(いヴ もんた)、古賀 紅太(こが こうた)などの変名を用いたこともありました。
鎌倉学園高等学校卒業、青山学院大学経営学部除籍。身長170.3cm、体重67kg。A型の右利き。愛称は「すけちゃん」「ケイちゃん」「桑っちょ」など。 1982年に、サザンのキーボーディスト・原由子と結婚し、これまでに2男を授かる。芸能界きってのおしどり夫婦として知られています。
私は、このサザンオールスターズ、最初にNHKに登場したときのことをはっきり覚えています。確か、NHKのテレビに午後6時半ころに、出たと思います。今となっては、なんの番組だったかも覚えていません。とにかく、そのときがテレビの初公開ということだけ、アナウンスがあったと思います。当時はまだ、ほとんど無名だつたと思います。しかし、あれを見て、間違いなくヒットすると思いました。曲は、もちろん「勝手にシンドバッド」でした。私自身、最初の一曲がやはり、強烈に印象が強いので、サザンの曲の中では何といってもこれが一番です。
さて、下に桑田佳祐さんの、生い立ちと年譜をあげておきます。興味のある方は、見てください。興味のないかたも、年譜の下に続きの記事を書きますのて、是非読んでください。
生い立ち〜1980年代
1956年
2月26日、神奈川県茅ヶ崎市に生まれる。
1977年
サザンオールスターズとして、アマチュアバンドのコンテスト「ヤマハEastWest'77」に出場。ベストボーカル賞を受賞。この時に決勝で対戦したのは、シャネルズの鈴木雅之だった。
1978年
6月25日、ビクター音楽産業よりサザンオールスターズとして『勝手にシンドバッド』でメジャーデビュー。
1979年
「オールナイトニッポン」(ニッポン放送などNRN全国ネット)木曜1部を担当。
1980年
10月24日、フジテレビ『ゴールデン洋画劇場』で放送された映画『アメリカン・グラフィティ』で、桑田の敬愛するラジオDJ、ウルフマン・ジャックの吹き替えを担当。
スペクトラムのギタリスト・西慎嗣のソロアルバム『NISHI』をプロデュース。
1981年
生理用品アンネナプキンのCMに出演。
タモリのシングル曲『狂い咲きフライデイ・ナイト』を楽曲提供。
Egg-man(現・Shibuya eggman)のオープニングアクトとして、3月21日・22日の2日間に渡り「桑田バンド」としてライブを行う。メンバーは桑田・関口和之・斎藤誠・国本佳宏・宮田茂男。
12月11日・12日、Egg-manで桑田の別名・「嘉門雄三」によるユニット『嘉門雄三&Victor Wheels』として、洋楽のカバーライブを開催。メンバーは3月のライブに今野多久郎が加わったもので、原由子もゲストとして数曲参加した。
自身がプロデュースした原由子初のソロシングル『I LOVE YOUはひとりごと』が卑猥な歌詞のため、放送禁止曲に。ビクタービル屋上にて抗議のゲリラライブを行うが、警察が出動するなどの騒ぎとなる。
1982年
2月26日、原由子と入籍。28日には東京プリンスホテルで結婚披露宴を行う。会場にはファン3000人を招待し、タモリ、ラッツ&スターなどの芸能人も出席した。
小林克也率いる「ザ・ナンバーワン・バンド」の1stアルバム『もも』にて曲を提供。また『六本木のベンちゃん』ではボーカルも担当。
中村雅俊に『恋人も濡れる街角』を提供。
12月31日、NHK紅白歌合戦での三波春夫パフォーマンスが物議を醸す。『チャコの海岸物語』でサザンとして2度目の紅白出場を果たした際のものであり、当時の「紅白=厳粛な雰囲気」という等式を打ち破るきっかけとなった。この時の間奏での桑田の発言は以下のとおり。
「国民の皆様、ありがとうございます。私たち放送禁止もたくさんございますが、こうしていけしゃあしゃあとNHKに出演させて頂いております。とにかく、受信料は払いましょう!裏番組はビデオで見ましょう!!」
研ナオコが歌った「夏をあきらめて」で第24回日本レコード大賞作曲賞受賞。
1983年
親交ある明石家さんまが「オレたちひょうきん族」(フジテレビ系)で演ずるアミダばばあのために、『アミダばばあの唄』を提供する。レコーディングでは桑田と原がコーラスを担当した。レコード会社が異なったため、長年この事実は伏せられていたが、2008年さんまが「もういいやろ」と言って話してしまった。
高田みづえがカバーした『そんなヒロシに騙されて』が第25回日本レコード大賞・金賞を受賞。
1984年
「オールナイトニッポン」に復帰。火曜1部を担当する。
1985年
ラッツ&スターのメンバー全員の合同結婚式において媒酌人を務める。このときリーダー・鈴木雅之の父との会話が、後1996年のアルバム(サザン名義)『Young Love』に収録される『心を込めて花束を』を生むきっかけとなる。
6月15日、佐野元春なども参加したイベントライブ『ALL TOGETHER NOW』に飛び入り出演。段取り無視のパフォーマンスに佐野元春はあっけに取られたが、怒ってはいなかったという。
10月、サザンのツアー『KAMAKURA TO SENEGAL』で共演したトゥレ・クンダへのお礼の為、アフリカ・セネガルへ渡りトゥレ一家の元を訪れる。この模様はドキュメンタリー番組としてテレビでも放映された。
1986年
原の産休に伴い、サザンは最初の休業期間に入り、各メンバーのソロ活動がはじまる。
4月、1年限定のソロプロジェクト「KUWATA BAND」結成、『BAN BAN BAN』でデビュー。桑田は音楽番組やライブで度々「新人です!」と強調していた。
12月24日、クリスマス・イヴの夜の生放送番組「メリー・クリスマス・ショー」 (日本テレビ系)をプロデュース。同番組で松任谷由実との共作『Kissin' Christmas (クリスマスだからじゃない)』を出演者一同で唄う。
1987年
10月6日、ソロデビューシングル『悲しい気持ち (JUST A MAN IN LOVE)』発売。以降、ソロでの活動が続く。
ダリル・ホール&ジョン・オーツと「SHE'S A BIG TEASER」(シングル『いつか何処かで (I FEEL THE ECHO)』収録)・『REALOVE』(ホール&オーツのアルバム『Oh Yeah!』収録)を共同レコーディング。
12月24日、前年に続き「メリー・クリスマス・ショー」プロデュース・出演。
1988年
3月16日、2ndシングル『いつか何処かで (I FEEL THE ECHO)』発売。
4月21日、河内淳一のアルバム『One Heart』に収録されている『Day After』と『恋に落ちた日 〜ANYDAY YOU LOVE ME〜』にコーラスで参加。
6月25日、『みんなのうた』で、サザンでの活動を再開させる。
7月9日、1stソロアルバム『Keisuke Kuwata』発売。
8月、RCサクセションの問題作アルバム『COVERS』に参加。この時には桑竹居助なる変名でクレジットされている。この名義は1984年にサザンのファンクラブ会報『代官山通信』の署名でも使用されていた。
10月、山下達郎のアルバム『僕の中の少年』収録の『蒼氓』に原由子と共にコーラスで参加。
10月14日、ダリル・ホール&ジョン・オーツの東京ドームでのライブに飛び入り出演。
12月31日、『Keisuke Kuwata』で第30回日本レコード大賞・優秀アルバム賞を受賞。
1989年
映画監督に初挑戦。『稲村ジェーン』クランク・イン。
1990年代
1990年
4月、NHK-FMにてラジオ番組『ミュージック・スクエア』スタート。火曜日のDJを担当。民放での番組とは違い、下ネタなどの過激な発言は無かったものの、リスナーからのの投稿ハガキを読む『日本四方山話のコーナー』『句会のコーナー』、洋楽を1曲ピックアップし和訳を読み上げる『訳詞のコーナー』、テーマに添ってベスト3の楽曲を紹介する『My Count Down』などのコーナーが人気であった。また、1週おきにゲストミュージシャンを迎えてのトークも繰り広げた。この番組には、同じサザンの野沢秀行や渡辺美里・奥居香・高橋幸宏・杉真理・嘉門達夫・アン・ルイス・松尾和子、河内淳一といったミュージシャンのほか、プロレスラーの前田日明も出演した。毎年年始には原由子も出演。1993年4月で担当を終了。
7月、『稲村ジェーン』クランク・アップ。映画公開までに、宣伝を兼ねて歌番組のほか、ワイドショー・ニュース・トーク番組などに積極的に出演。また、試写会を藤沢市の海岸で行い、桑田も会場に登場して『恋はお熱く』を唄う。
9月7日、『稲村ジェーン』公開。
第32回日本レコード大賞のポップス・ロック部門において、ロック・ゴールド・ディスク賞、最優秀ロック・ボーカル賞、作曲賞を受賞。大賞にノミネートした「真夏の果実」は、最終選考で「おどるポンポコリン」との一騎打ちに敗れる。
1991年
3月24日 - 26日、新宿のライブハウス「日清パワーステーション」で、洋楽ロックのスタンダードナンバーをアンプラグドで演奏する『アコースティック・レボリューション』を行う。メンバーは小倉博和、小林武史、キース、など多彩な顔ぶれ。
6月、小林武史・小倉博和・今野多久郎と共にゲリラライブを兼ねて中国・北京へと渡り、天安門広場にてボブ・ディランの「風に吹かれて」、SUPER CHIMPANZEEのオリジナル曲「クリといつまでも」、北京の某ライブハウスにてビートルズの「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」などを演奏した。この模様は後に桑田が出演した筑紫哲也 NEWS23などで放送された。この旅行は翌年のサザンの北京ライブへと繋がる。
9月26日、SUPER CHIMPANZEE名義で『クリといつまでも』発売。
10月2日、3月の『アコースティック・レボリューション』を収録したライブビデオ『Acoustic Revolution Live at Nissin Power Station 1991.3.26』発売。
1992年
6月27日、企画アルバム『フロム イエスタデイ』発売。KUWATA BAND時代のシングル4作が初CD化での収録となる。
1993年
10月6日、3rdシングル『真夜中のダンディー』を発売。サザン活動中のソロ名義でのリリース。
12月1日、世界エイズデーであるこの日、多数のアーティストを集めた「AAA〜アクト・アゲインスト・エイズ」武道館公演を選曲・プロデュースし自らも出演。出演は泉谷しげる・大友康平・アン・ルイス・渡辺美里・福山雅治・原由子など、メリー・クリスマス・ショーにも匹敵する豪華な顔ぶれだった。バックバンドとして小林武史・小倉博和・根岸孝旨・小田原豊・今野多久郎が集い、昭和歌謡曲を中心に多彩なアレンジで参加者がリレー形式で唄った。また、桑田・奥田民生・宮田和弥(当時JUN SKY WALKER(S))・奥居香(当時プリンセス・プリンセス)をメインボーカルに、このライブのために作られたチャリティーソング『光の世界』が唄われた。この後、様々なアーティストが集う形式はAAAで恒例化していくが、桑田がプロデュースしたのはこの1度きりである。昭和歌謡を多彩なアレンジで唄う形は、後々の活動の原形となった。特にこのライブで初めて唄われた「ヨイトマケの唄」は、その後のソロライブや自身のテレビ番組などでも度々唄われることとなる。
1994年
サザン2度目の休業期間に入る。
8月24日、4thシングル『月』発売。CD店などの告知ポスターには「桑田佳祐、今年は一人で歌います」とのコピーの煽りがあった。後年香港で張学友によるカバー曲が発売され、大ヒット。
9月23日、2ndアルバム『孤独の太陽』発売。収録曲『すべての歌に懺悔しな!!』が、矢沢永吉と長渕剛を揶揄しているとされ問題となり、桑田が「あれは自分を含めた芸能ロックミュージシャンを歌ったもの」と釈明し、2人に対して謝罪。矢沢は「まったく気にしてない。それより桑田君の方は大丈夫か?」と大人の対応をするが、長渕は『views』誌上にて「俺は桑田佳祐を許さない!」などとコメント。ファン、マスコミを巻き込んでの一大論争に発展。翌年に、長渕が大麻の不法所持で逮捕されたことで、なし崩し的に沈静化する。詳しくはすべての歌に懺悔しな!!による論争を参照のこと。
9月 - 12月、初のソロ名義全国ツアー『さのさのさ』開催。全国29都市35公演を敢行。サザンでは長らく行われていなかった、ホール・市民会館などの小規模の会場でのライブを行う。ツアー期間中の10月28日には母校である青山学院大学において「帰って来た青山のダンディー」と題し、学園祭ライブも行う。この日は通常のセットリストに加え、原・関口とともに、母校の思い出を綴った『Ya Ya (あの時代を忘れない)』を唄う。
10月31日、5thシングル『祭りのあと』発売。
12月1日、AAA武道館公演に出演者の1グループとしてサザンが登場し、オリジナル曲5曲を演奏。ソロ活動中の同年において、久々にバンドとして、更に休養中の関口和之も復帰し、6人揃って登場した。また、桑田佳祐&Mr.Childrenとしても『奇跡の地球』を初披露。
12月21日、『さのさのさ』ツアーを収録したライブビデオ『すべての歌に懺悔しな!! -桑田佳祐 LIVE TOUR'94-』発売。ツアーが終了する前の発売であった。
12月31日、「月」で第36回日本レコード大賞・優秀賞を受賞、『孤独の太陽』でアルバム大賞受賞。ソロツアー「さのさのさ」最終日、横浜アリーナにおいて年越しカウントダウンライブ。
1995年
1月23日、共に編曲などで交流のあった小林武史との縁により、Mr.Childrenと桑田佳祐&Mr.Children名義で『奇跡の地球(ほし)』をチャリティーシングルとしてリリース。
4月、「桑田佳祐のキヤノンFMワンダーランド 〜やさしい夜遊び〜」(現・桑田佳祐のやさしい夜遊び、TOKYO FMなどJFN全国ネット)スタート。自身がパーソナリティを務め、現在も続く長寿番組になっている。
4月 - 5月、Mr.Childrenと共演のライブツアー『LIVE UFO '95桑田佳祐&Mr.Children“Acoustic Revolution with Orchestra”奇跡の地球(ほし)』開催。『奇跡の地球』のほかにビートルズなどの洋楽も披露した。
12月1日、Act Against AIDS'95をタイのバンコクにて開催。小林武史や小倉博和らとともに「真夏の果実」「悲しい気持ち (JUST A MAN IN LOVE)」のほか、ビートルズやジョン・レノンのナンバーなど、計7曲を歌う。
12月31日、横浜アリーナで行われた岸谷五朗主催のアミューズのイベント『THE VARIETY III 異業種共演 大晦日の宴 〜FOR AAA』に出演。サザンとしての年越しライブに替わる出演で、桑田はカウントダウンの直前に登場。爆風スランプの演奏で「勝手にシンドバッド」を唄い、1996年を迎えた。また、出演者の石橋貴明・唐沢寿明・岸谷五朗とともに「ゴロー&センズリッターズ」として、桑田の書き下ろしの曲『長嶋は教祖なんかと違います』を唄い、唐沢は本業とは違うコミカルな一面を見せた。カウントダウンの瞬間は、年が明けるよりも数十秒も早く曲が終わってしまい、年が明けるまで出演者がMCのみで会場を煽ったが、かなり間の悪いものになってしまった。
1996年
4月、斎藤誠のシングル『今 僕を泣かせて』にコーラスとスライドギターのソロでゲスト参加。
12月1日 - 12月3日、桑田にとって初のAAA単独ライブ『Act Against AIDS '96 夷撫悶汰レイト・ショー 〜長距離歌手の孤独 in Jazz Cafe〜』開催。このライブのみ夷撫悶汰(いヴもんた)の変名を用いて1940 - 60年代のスタンダード・ジャズを全27曲、ミュージカル的な演出を交えて演奏。
1997年
3月5日、昨年のAAAライブを収録したライブビデオ『夷撫悶汰レイト・ショー〜長距離歌手の孤独 in Jazz Cafe〜』発売。
9月、サザンが影響を受けたバンドであるリトル・フィートのギタリスト、ローウェル・ジョージのトリビュート・アルバム『ROCK AND ROLL DOCTOR』のレコーディングのため渡米。「日本人でリトル・フィートのカバーを任せられるのはこの人だけ」と、唯一の日本人ボーカリストとして抜擢され「LONG DISTANCE LOVE」を歌った。10月には、同アルバムが日本でもリリース。
10月、桑田がAAAで『サルビアの花』などをカバーしたこともある早川義夫に、書き下ろしの新曲『アメンボの唄』を提供。作詞曲のほか、ギター・コーラスでレコーディングに参加。テレビ朝日系バラエティ番組『人気者で行こう!』エンディングテーマに起用され、早川とともに桑田も番組のエンディングに出演していた。
11月28日 - 12月1日、『Act Against AIDS '97 桑田佳祐 歌謡サスペンス劇場』開催。昭和の歌謡曲を全30曲披露し、長らく放送禁止曲とされてきた岡林信康の『チューリップのアップリケ』も熱唱。その模様は深夜とはいえ,テレビで放映された。
1998年
11月30日 - 12月2日、『Act Against AIDS '98 桑田佳祐 オールリクエストショー』開催。桑田に歌ってほしい曲のリクエストをファンから募り、全30曲のリクエスト曲を披露。このライブでの桑田はパジャマにスリッパという衣装だった。
1999年
11月30日 - 12月2日、『Act Against AIDS '99 桑田佳祐 エリック・クラプトソ 横浜公演』開催。クリーム、ブラインド・フェイスの曲やエリック・クラプトンソロの曲など全26曲を披露。途中原由子もアコースティックギター・コーラスで参加し、12月1日公演のアンコールには関口和之も飛び入り参加した。
2000年代
2000年
1月29日 - 2月5日、FC会員限定ライブ『伊豆だらけのローラ』開催。
5月、山下久美子のデビュー20周年記念セルフカバーアルバム「THE HEARTS」に収録される『バスルームから愛を込めて』にコーラスで参加。アルバムは6月25日に発売。歌詞カードには山下と桑田が一緒に写ったポラロイド写真も載っている。
8月、自身の故郷・神奈川県茅ヶ崎市でサザンとして凱旋コンサート『茅ヶ崎ライブ』を行い話題を呼ぶ。
10月、「桑田佳祐の音楽寅さん 〜MUSIC TIGER〜」(フジテレビ系、第1期)放送開始。
11月30日 - 12月2日、『Act Against AIDS 2000 桑田佳祐が選ぶ20世紀ベストソング』開催。「21世紀に残したい曲」をテーマに、桑田が選曲した全28曲を熱唱した。
12月31日、サザンの大ヒット曲『TSUNAMI』で第42回日本レコード大賞を受賞。「やっと、ひばりさんの背中が見えました」とコメント。
2001年
サザン3度目の休業期間に入り、各メンバーソロ活動を開始。
7月4日、6thソロシングル『波乗りジョニー』発売。発売に合わせ、地方都市でFMラジオ公開生放送と、ライブ『古賀紅太 No Reason! ライブハウスツアー』とを同時進行の形で行う。ラジオ放送は各地で数千人もの観客を集め、好評を得た。ライブはサザンとしての全国ツアーに替わる企画で、佐賀・青森・奈良など、それまでツアーで行くことが少なかった土地でも行われた。
8月7日、ラジオ番組内で、大森隆志のサザン脱退を発表。「プロになる気は無かったメンバーをまとめ、プロの世界に導いたのは大森。彼がいなければ自分達は世に出ることはなかった」と語る。
10月24日、7thシングル『白い恋人達』発売。桑田ソロ名義のシングル最高売上を記録。
11月30日 - 12月2日、『Act Against AIDS 2001 桑田佳祐 plays "The Beatles" クワガタムシ対カブトムシ』開催。ビートルズの曲を全38曲熱唱。ライブ初日にはビートルズのギタリスト・ジョージ・ハリスン逝去の訃報が報じられ、ステージで黙祷を捧げた。
12月6日、やまだひさしのラジアンリミテッドの企画でGLAYと競演。この模様は「桑田佳祐 meets GLAY スーパーFM」としてOAされた。最後はジョン・レノンの『Happy Xmas (War Is Over)』をGLAY、番組スタッフを交えて全員でセッション。
12月22日 - 12月24日、札幌市の月寒グリーンドームで『桑田佳祐 Xmas LIVE in 札幌』開催。当初は札幌ドームを借りるつもりでいたが、計画したときにはすでに埋まっており、ライブのMCで月寒ドームになってしまったことをぼやいていた。ライブではサザン・ソロ・KUWATA BANDの楽曲のほか、『サンタが街にやってくる』『赤鼻のトナカイ』などのクリスマスソングも唄われた。また、24日のライブ終了後にはフジテレビ系『HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP』のクリスマス特番の生中継も入り、会場の外で一面の雪とライブを見ていたファンに囲まれて『白い恋人達』をピアノ弾き語りで唄った。
12月31日、「白い恋人達」が第43回日本レコード大賞金賞受賞。最有力候補だったが、授賞式を欠席。大賞は浜崎あゆみに。
2002年
『波乗りジョニー』『白い恋人達』の2作で、第16回日本ゴールドディスク大賞 ソング・オブ・ザ・イヤー受賞。
6月26日、8thシングル『東京』発売。ファンクラブ誌上にて「石原慎太郎に物申すみたいな気持ちで作った」とコメント。
8月10日、茨城県ひたちなか市で行なわれた邦楽ロックの音楽祭・ROCK IN JAPAN FESTIVALに参戦。2日目のトリを務める。未発表の新曲『BLUE MONDAY』『東京ジプシー・ローズ』(翌月発売のアルバムに収録)他、全14曲を熱唱。
HOUND DOGのSHIBUYA-AXでのライブに飛び入り出演。大友康平とサザン初期の楽曲、『熱い胸さわぎ』収録の『恋はお熱く』を歌う。
9月22日、スペースシャワーTVの日比谷野外音楽堂でのライブイベント『SWEET LOVE SHOWER』にトップバッターで出演。当日までシークレット扱いで一般には一切知らされておらず、観客を驚かせた。桑田はプロレスの覆面を被って登場し、全5曲を歌唱。
9月26日、3rdアルバム『ROCK AND ROLL HERO』発売。
11月 - 12月、コンサートツアー『けいすけさん、色々と大変ねぇ。』開催。ソロアーティストとして初めて全国5大ドームツアーを開催。
11月27日、初のソロベストアルバム『TOP OF THE POPS』発売。ソロ名義で1980年代、1990年代、2000年代と3世代に渡ってオリコンアルバムチャート1位を達成。3世代以上での1位は男性ソロでは長渕剛(1970年代を含め4世代)、井上陽水(3世代)に次ぐ3人目の快挙。
12月11日、ビデオクリップ集『桑田佳祐ビデオクリップス2001〜2002 D.V.D. WONDER WEAR』発売。
2003年
『東京』で第17回日本ゴールドディスク大賞 ソング・オブ・ザ・イヤー受賞、『ROCK AND ROLL HERO』と『TOP OF THE POPS』の2作がロック & ポップ・アルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞。
2月、『東京』が「SPACE SHOWER Music Video Awards 03」BEST VIDEO OF THE YEARを受賞。
3月26日、『けいすけさん、色々と大変ねぇ。』を収録したライブビデオ『桑田佳祐ライブビデオ「けいすけさん、ビデオも色々と大変ねぇ。」』発売。
7月23日、『涙の海で抱かれたい 〜SEA OF LOVE〜』をリリースし、サザンでの活動を再開。
11月、桑田の息子が通う高校の学園祭でシークレットライブを行い、『勝手にシンドバッド』『涙の海で抱かれたい』などを歌った。この模様は女性週刊誌で報じられた。バンドメンバーは桑田の他に原や小倉博和・三沢またろう。4人とも学校の制服を衣装としていた。
12月2日 - 12月4日、『桑田佳祐 Act Against AIDS 2003 栄光のDISCO & SOUL』開催。ディスコ&ソウルをテーマに1960 - 70年代のディスコナンバー全34曲を披露。原由子・野沢秀行もゲスト出演した。2005年
2004年
11月30日 - 12月2日、『桑田佳祐 Act Against AIDS 2004「THE GOLDEN AGE OF BRITISH ROCK 〜愛と青春の英国ロック〜」』開催。1960 - 70年代を中心とした“英国ロック”をテーマに全31曲を熱唱。
2006年
7月17日、ゆかりのある小林武史、Mr.Childrenの桜井和寿らが主催する「ap bank fes'06」にソロとして出演。最終日となるこの日は、桜井と1995年に発売された『奇跡の地球』を11年ぶりにセッションし、話題となった。ソロでの出演であったが、サザン名義での楽曲『いとしのエリー』『真夏の果実』も披露した。
8月26・27日の2日間、桑田がサザンを中心としてアミューズ所属のアーティストに呼びかけ、初の自身主催となる野外フェスティバル「THE 夢人島 Fes.2006」を開催。アミューズ外からもGLAY、Mr.Children、Dragon Ash、さらには加山雄三など、桑田とゆかりのあるアーティストがスペシャルゲストとして出演。
11月30日 - 12月2日、『桑田佳祐 Act Against AIDS 2006「星条旗よ永遠なれ!? 〜私のアメリカン・ヒーローズ」』開催。桑田が影響を受けた1960 - 70年代のアメリカンミュージック37曲を熱唱した。
2007年
サザン4度目の休業期間に入り、約5年ぶりにソロ活動を再開。
4月6日、妻・原由子と銀婚式を迎える。山下達郎・竹内まりや夫妻と合同で行われた
5月16日、9thシングル『明日晴れるかな』発売。
8月22日、10thシングル『風の詩を聴かせて』発売。
12月5日、11thシングル『ダーリン』発売。
11月 - 12月、2002年の『けいすけさん、色々と大変ねぇ。』以来、5年ぶりとなるソロコンサートツアー『呼び捨てでも構いません!!「よっ、桑田佳祐」SHOW』開催。6都市14公演を敢行。
2008年
3月12日、ツアー『呼び捨てでも構いません!!「よっ、桑田佳祐」SHOW』の12月31日のファイナル公演の模様を収めたライブDVDと、2007年発表のソロ楽曲9曲に、新曲1曲と原由子のソロ曲「大好き!ハッピーエンド」を加えたCDのセット『桑田さんのお仕事 07/08 〜魅惑のAVマリアージュ〜』を発売。
3月23日、『全国民放 FM53局 & KDDI presents 桑田佳祐 アコースティックライブ in 石垣島』が開催され、全国の民放FM局53社に同時ネットで生中継された。
5月19日、同日付でサザンオールスターズとしてのバンド活動再開を発表。同時に、翌2009年以降バンド活動の無期限休止を発表(すなわち5度目の休業。ただし期限を設けない休業はKUWATA BAND等の活動を行った1985〜88年以来2度目)。第4期ソロ活動はこの年の3月まででいったん終了した。
10月19日、かねてから療養中の病気により姉・えり子逝去。享年56。
11月30日 - 12月2日、『桑田佳祐 Act Against AIDS 2008「昭和八十三年度!ひとり紅白歌合戦」』を開催。往年の歌謡曲から近年のJ-POP楽曲まで全61曲を熱唱。原由子・松田弘もゲスト出演した。
2009年
3月25日、前年に行われた「昭和八十三年度!ひとり紅白歌合戦」のライブDVD発売。同時に、桑田のソロ作品では初のBlu-ray Discでも発売。
4月20日、『桑田佳祐の音楽寅さん〜MUSIC TIGER〜』(フジテレビ系列、第2期)開始。
5月30日、大阪城ホールにて行われたFM802の開局20周年イベント『FM802 STILL20 SPECIAL LIVE RADIO MAGIC』にユースケとともに飛び入り出演。桑田はトラの気ぐるみを着て登場し、上田正樹の「悲しい色やね」のカバーを含め全4曲を歌唱した。
8月30日、山梨県山中湖村でスペースシャワーTV開局20周年を記念して開催された野外フェスティバル『SPACESHOWER SWEET LOVE SHOWER 2009』に最終日に大トリをつとめる形で登場。この日のために1夜限りのスペシャルバンド「桑田佳祐 & SUPER MUSIC TIGERS」を結成し、サザンオールスターズと自身のソロ曲合わせ、全10曲を披露した。同イベントへの参加は2002年以来2回目となる。
1月30日 - 12月2日、『桑田佳祐 Act Against AIDS 2009 映画音楽寅さん チャラン・ポランスキー 監督・脚本・主演 「男はしたいよ」』開催。映画音楽をテーマに全42曲を歌唱。途中では自身初めてとなるフライングも披露した。原由子・渡辺直美もゲスト出演。12月9日、12thシングル『君にサヨナラを』発売。
さて、なぜこんなに年譜を掲載したかといえば、やはり、桑田のすごさを知ってもらいたいからです。まず、桑田は、年代的にも、まずは学生運動は完全に下火になっていたのと、除籍になっていますから、全く影響をうけていないと思います。そうして、メジャーデビューしてから、よく見てください、1978年のメジャーデビューから現在にいたるまで、年譜に掲載するべき活動を行っています。何と、あいているのは、2005年だけです。たしか、このときは、休養宣言などあって、意図的に休養したと思います。
いずれにせよ、デビューより今にいたるまで、でずっぱりで、活動しています。こんなことは、稀です。たいていの人は、最初デビューして大当たりしても、すぐに、流行らなくなって、ほとんど忘れされてしまうか、運がよければ、しばらくしてからまた、大当たりして、本当にメジャーになっていくというのが普通です。
だから、大抵の人は、屈折しています。中には、かなり屈折している人なんかいますね。でも、桑田の場合その屈折がほとんどありません。それは、曲や、歌詞にもあらわれいます。情感溢れる曲はあっても、本格的に寂しい、悲しい歌は、ほとんどありません。それは、上のように、毎年必ず活動していたというか、できていたということが大きいです。屈折しようが無かったのだと思います。
これには、彼の曲作りにも秘密があるのではないかと思います。彼の、曲作りはほとんどが曲先(作曲された曲に詞を当てはめる)です。デタラメ英語などの仮歌段階のまま、編曲までほぼすべてを終わらせたのち、仮歌の語感を崩さない言葉を選んで、そこから歌詞全体のテーマ・世界観を決めます。そのため、日本語・英語ともに文法的には間違っている歌詞も多々あり、間違いを指摘されたり「意味が分からない」等と批判される事がしばしばあります。これは文章の正確さよりも、語呂の良さ・符割などを優先させるが故の結果であり、そのためには古文・方言・都々逸も用い、メロディに合う言葉がないのなら造語を自分で作ってしまうこともあります。
こういう作り方では、本格的に寂しいとか、悲しい歌、屈折した歌はつくりようもないのだと思います。 作詞の際には、作品中やタイトルに人名を登場させることも多いです。特定の人物を讃えた曲もありますが、、名前のみを身近な人物または縁の人物の中などから、歌詞全体とメロディに合う語感として引用し、特定の人物は指していない場合が多いです。前者は『吉田拓郎の唄』『星空のビリー・ホリデイ』『Dear John』『唐人物語』など。後者は『いとしのエリー』『チャコの海岸物語』『そんなヒロシに騙されて』『MARIKO』『シュラバ★ラ★バンバ』『可愛いミーナ』ほか多数の曲で使われています。
また、英語と日本語とのダブル・ミーニングを取り入れ、日本語の中でも縁語、掛詞など和歌の伝統的な修辞技法がよく見られます。楽曲は歌詞カードも含めての作品なので、歌詞カードもじっくり読んで欲しいとの思いも込められているものも多いです。
こうしたやり方が、結局は多くの人から支持を受けたのだと思います。まさに、桑田流としかいいようのない、曲作りです。本当にオリジナリティーが溢れています。
さて、オリジナリティー溢れるということは、創造性が溢れているということです。この創造性は、どうしたら育まれるのかということがありますが、やはり、普段からいろいろと頭に入れておくことが大事です。創造性というと、ゼロから生まれてくるものと勘違いしているひともいますが、そんなことはありません。
以前のテレビでみたことがありますが、創造的な人は、いろいろ頭の中にいっぱい生煮えのアイディアを詰め込んだ状態で、寝るそうです。そうすると、起きたときにアイディアが整理されて、新たな発想が生まれるそうです。
だから、桑田氏も、歌ひとつつくるにしても、頭の中にいろいろいな人の歌が入っているとか、さらに、いろいろなアイディアをいれておいて、ぐっすり寝るなどのことをしていたに違いないと思います。 私も、企画をするときに、これに近いことをすることがあります。ただし、一晩寝てそれで済む企画というと、小さな企画です。大きな企画になるとそんなわけには、いかないときがあります。そんな時には、一度いろいろ調べて、調べた結果をいろいろ徹底的に組み合わせたり、発展させたりして、頭に蓄えます。そうして、これを一旦そのままにします。そうです、1週間くらい、ものによっては1ヶ月程そのことに関しては、何もしないようにして、他の仕事をします。
そうして、1週間、1ヶ月後くらいに、そのことについて考え直すのです。そうすると、スムーズにアイディアがまとまります。これをせずに、ぶつ続けで実施すると、かえって、考えがまとまらず、良い結果がえられないことのほうが良いです。これは、確か、脳科学的にも証明さていたと思います。
さて、話が横道にそれたようにみえますが、私のいいたいこともう、おわかりでしょう。病気で入院するというのも、一つのチャンスなのです。やはり、病院に入院すると普段とは違うし、強制的に仕事は中断させられます。しかし、これが、再起したときに役にたつのでないでしょうか?
そうです、ずっと仕事を続けて、創造的であった桑田氏ですが、病院に入院して、戻つてきたときは、さらに創造性に磨きがかかるかもしれないということです。
桑田さん、ゆっくり、静養もかねて入院して、さらに強力になってもどってきていただきたいものです。
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