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2019年6月4日火曜日

【6月4日で30年】中国の「天安門事件」とは何だったのか?―【私の論評】「天安門の虐殺」で次世代を担う多くの若者の命を奪った中共は国家の未来へのビジョンをも殺した(゚д゚)!

【6月4日で30年】中国の「天安門事件」とは何だったのか?



あの「天安門事件」から30年。風化させてはならない「民主化運動」の軌跡

本日6月4日で、1989年に発生した中国の「天安門事件」から30年が経ちました。あらためて天安門事件とは何か、そして中国をはじめ台湾・香港で受け継がれた「民主化運動」の歴史について、駆け足で振り返ってみたいと思います。

多くの犠牲者を出した「天安門事件」とは何か?

米ソ冷戦時代の80年代後半、当時のソ連では「ペレストロイカ(政治体制の改革運動)」を始め「民主化」「自由化」が進みそうなムードになっていました。そのソ連と同じく共産党の「一党独裁」である国、中華人民共和国(中国)にも、変革の波が押し寄せていたのです。その「自由化」を推進していた人物が、中国共産党の胡耀邦(こ・ようほう)総書記でした。

胡耀邦(こ・ようほう)氏

胡氏は、中国版「ペレストロイカ」ともいうべき民主化・自由化を中国で実行しようとしましたが、当時の実際の最高実力者だった鄧小平(とう・しょうへい)氏が反対し、胡氏は失脚。1987年1月のことでした。

その後も要職を解かれた胡氏は、1989年4月15日に心筋梗塞で急死しました。この胡氏の死をきっかけに4月17日、北京で学生たちが追悼集会を開催。これは、ほどなくして「民主化要求デモ」に発展し、中国全土に拡大していきました。4月21日には北京のデモ参加者数は10万人までに膨れ上がったのです。

そして5月、その数は50万人に増加。革命を恐れた中国共産党のトップは6月4日、学生デモを「武力で鎮圧」するよう命令を下しました。これがいわゆる「天安門事件」です。犠牲者の数は、中国共産党の公式発表では「319人」としていますが、正確な数字は現在も不明ながら、欧米では「3000人から1万人」とも言われています。人民解放軍の戦車の前に1人で対峙する学生の写真などを目にしたことがある方も多いのではないでしょうか。

当時の駐中国アラン・ドナルド英大使が翌6月5日に本国政府へ送った外交機密電報によると、「最低でも1万人以上が中国軍に殺害された」「1時間の退去期限を通告したが、実際には5分後には装甲兵員輸送車による攻撃が始まりひき殺され、大多数は広場から離れる途中で(学生たちが)犠牲に遭った」「学生たちは腕を組んで対抗しようとしたが、兵士たちを含めてひき殺されてしまった。そしてAPC(装甲兵員輸送車)は何度も何度も遺体をひき、ブルドーザーが遺体を集めていった」と記載されていました。この数字が正確なものだったかどうか、現在も多くの議論がおこなわれています。

この事件をきっかけに、中国政府は世界中から非難を浴び、現在も「言論弾圧」や「人権蹂躙」などの問題が指摘されています。

香港・台湾で語り継がれる「六四天安門事件」。本土はTV放送の遮断も

武力鎮圧によって亡くなった多くの犠牲者を追悼する集会が、香港や台湾で毎年行われています。しかし、中国本土では今も、天安門事件に関すること(例えば、六四、64、8964といった数字さえも)をネット上に書き込むことや、話すことも許されていないのが現状です。

中国では4日、NHKの海外向けテレビ放送で「天安門事件30年」に関するニュースが流れた瞬間、映像と音が消え、画面が真っ暗になったということです。現在も、この事件は中国本土では「タブー視」されていることがわかります。

天安門事件が発生した1989年といえば、ベルリンの壁が11月に崩壊、東西ドイツが再統一された歴史的な大事件があった年です。その後、ソ連が崩壊してロシア共和国となり、東欧諸国が民主化。しかし、中国は今も中国共産党が一党独裁を続けたまま、さまざまな「統制」が続いています。

主に経済面で「米中戦争」が激化するいま、世界2位の経済大国となった中国が過去に起こした「歴史的大事件」について、いま一度振り返ることも必要ではないかとの思いから、1989年の天安門事件から30年という節目の年となる本年の6月4日、この特集記事を組ませていただきました。(MAG2 NEWS編集部)

【私の論評】「天安門の虐殺」で次世代を担う多くの若者の命を奪った中共は国家の未来へのビジョンをも殺した(゚д゚)!

まずは、天安門事件でなくなった方々のご冥福をお祈りいたします。

以下に、2012/06/02 に公開された、六四天安門事件の動画を掲載させていただきます。私が検索した限りでは、この動画が当時の様子を最も生々しく伝えていると思います。現実は、これよりはるかに残虐だったことが、当時の写真をみるとよくわかります。

無論中国では、この動画は見ることはできません。


この出来事は、「事件」とされていますが、現実はぎ「虐殺」と呼ぶべきです。

米国務省のオルタガス報道官は30日の記者会見で、6月4日で発生から30年を迎える中国の天安門事件について「平和的に抗議活動をしていた人々に対する徹底した虐殺行為だった」と指摘し、「罪のない命が失われた痛ましい事実を忘れない」と述べました。
オルタガス氏はまた、犠牲者数など事件の詳細を明らかにせず、抗議参加者や遺族らへの弾圧がいまだ続いているとし、「中国共産党による構造的なおぞましい抑圧。今日の世界で起きている悲劇の一つだ」と厳しく批判しました。

米国務省のオルタガス報道官

中国外務省の耿爽・副報道局長は31日の記者会見で米国務省のオルタガス報道官のこの言に関し、「中国政府に対する根拠のない非難で、内政干渉だ。強烈に不満であり断固反対する」と表明しました。

さらに耿氏は「米側は偏見を捨てて誤りを正し、いつもの論調を繰り返して内政干渉することをやめるよう促す」と要求しました。

耿氏は6月4日で30年となる天安門事件について「1980年代末に発生した『政治風波(騒動)』に対し、中国政府はとっくに明確な結論を下している」と公式見解を繰り返し、事件を正当化しました。その上で「今年は中華人民共和国成立70周年だ。新中国の発展は巨大な成功を収め、国情に合った発展の道を歩んだことを証明している」などと主張しました。
中国外務省は31日、ホームページで当日の記者会見内容を公開しましたが、天安門事件に関する質問と回答は掲載しませんでした。

中国共産党の六四天安門事件の対外的反応は、事件直後からこの調子で、今でも全く変わっていません。国内では、情報を封鎖して、この事件は無かったことになっています。これにより、中国共産党は、「恐怖による抑圧」で中国民衆から理想を求め向上を目指す崇高な人間性を奪ってしまったといえます。

統治の正当性の維持と権力闘争のために、次代を担う多くの若者の命を奪った中共は同時に、国家の未来へのビジョンをも殺してしまったのです。

経済発展と都市の近代化が進む中国で、天安門事件のような虐殺と弾圧のおぞましい過去は葬り去られてしまったのでしょうか。

いえ、思想弾圧や少数民族の独立など、弾圧と虐殺は今でも続いています。中共の体質は当時と全く変わっていません。

変わったのは、民衆の心であり、中共の邪悪な本質を見て見ぬふりをし、64事件の虐殺と弾圧を正当化する論理を受け入れてしまった中国民衆なのかもしれません。

しかし、私は中国共産党がなくなれば、正義を重んじる善良な中国民衆が必ずや再び歴史に輝きをもたらすと信じたいです。 

このブログで、何度か述べてきたように、現在の中国では民主化が遅れているだけではなく、政治と経済の分離、法治国家化もなされていません。やはり、ある程度民主化が実現されないと、他のことも進めることはできないのでしょう。

このような国が、軍事と経済だけを発展させて、遅れた体制を維持しつつ長期に渡って繁栄し続けることはあり得ません。それは過去の歴史が証明しています。

いずれ、中国共産党一党独裁は黙っていても自ら崩れる運命です。最近の米国による対中国冷戦は、それを若干はやめるだけです。

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2019年5月18日土曜日

天安門事件30年で中国は毛沢東時代に逆戻りする予感アリ―【私の論評】毛沢東時代に逆戻りした中国はどうすべきなのかを考えてみた(゚д゚)!

天安門事件30年で中国は毛沢東時代に逆戻りする予感アリ

北朝鮮よりも悲惨だった時代に…









改革開放の行き着いた果て

2018年末で、改革開放40周年を迎えたことを共産主義中国は喧伝しているが、6月4日に30周年を迎える天安門事件については、沈黙を通すどころか、積極的な言論統制を行うであろう。インターネット上の関連記事も、削除されたり、嫌がらせを受けたりするはずだ。

何しろ「クマのプーさん」の関連記事を徹底的に検閲する国である。習近平氏がプーさんに似ていることから、「隠語」として使われていたらしい。

改革開放40年、天安門事件30年、どちらもこれからの中国に大いに影響を与える重要な歴史的事実だが、まず改革・開放がようやく軌道に乗り始めたばかりの時期に、天安門事件という先進諸国を敵に回すような「大問題」を引き起こしてしまった原因について考える。

なぜ天安門事件が起こったのか?

意外に意識されていないことだが、ロシア革命は、1917年に2回起きており、最初の2月革命は、自由主義者が中心の「民主国家」を目指すもので、ブルジョア革命とみなされていた。この革命が成功していれば、ロシア(ソ連邦)は、もしかしたら先進資本主義・自由国家の一員となっていたかもしれない。

ロシア2月革命 写真はブログ管理人挿入 以下同じ

ところが、この臨時(革命)政府に内紛が勃発し、同じ年の「10月革命」によってソヴィエトの権力が支配的となり、世界初の社会主義(共産主義)政権が樹立されたのである。当時のロシア人民は、先進資本主義や民主主義よりも、皇帝支配下の農奴制への回帰とも言える共産主義(社会主義)を選択した。

そのソヴィエトの強い影響下で1949年10月1日に成立した共産主義中国(中華人民共和国)において、資本主義が激しい攻撃を受けて、党幹部などの「走資派」と指さされた人々が紅衛兵などにリンチを受けるシーンを見たことがある読者も多いだろう。

いうまでもなく、中華人民共和国は、日本が1945年に受け入れたポツダム宣言の相手国、中華民国(現・台湾、民主主義中国)とは別の国である。

実はこの毛沢東が行った「文化大革命」と呼ばれる集団リンチ・暴行・処刑運動が、鄧小平をはじめとする「八大元老」と称される人々の脳裏に「恐怖体験」のトラウマとなって焼き付いたことが、後の天安門事件の大きな原因になった。

文革開始時に政府や党の要職にあった彼らは失脚し、毛沢東が動員した若者たちによって激しく糾弾された。例えば鄧小平は共産党総書記を解任されて労働者として地方に送られ、学生だったその息子は取り調べ中の「事故」で身体障碍者となる。

また、紅衛兵に髪を掴まれて引き回される彭真の画像は世界に衝撃を与え、習近平現国家主席の父親である習仲勲は、長期の監禁生活を送った。

紅衛兵に髪を掴まれて引き回される彭真の画像

改革派と学生運動が連携して保守派に牙を剥いたときの恐怖を考えると、長老たちが天安門で起こったデモに過剰反応して大事件となったことも、ある程度、納得できる。

鄧小平が、ようやく軌道に乗り始めた改革開放政策を危機に陥れ、諸外国から絶縁されるリスクを冒してまで、天安門広場で数千人(西側推定)もの中国人民を戦車などでひき殺して虐殺した過剰反応は、このようなトラウマに原因がある。

そうして、もう1つ言えることは、一党独裁の共産主義中国では「党の存続・繁栄」が中国人民の幸福よりもはるかに重要であるということである。

絶対王政における王家が、国民の幸福よりも王家の存続・繁栄を気にかけるのと同じだ。改革・解放の立役者である鄧小平もその点は意見を同じくする。彼は決して民主主義者でも、自由主義者でもない。

改革・解放によって「共産党一党独裁」が脅かされるのならば、「改革・解放などやめてしまえ!」というのが中国共産党の基本方針であり、毛沢東暗黒時代への回帰を目指す習近平氏の政策がまさにその典型である。

鄧小平だけが可能だった改革開放

まず、共産主義一党独裁のままでの「市場経済の導入」は、鄧小平という超人だからできたことである。この点については当サイト1月9日の記事「客家・鄧小平の遺産を失った中国共産党の『哀しき運命』を読む」を参照いただきたい。

我々は、すでに40年にわたる改革・解放の成果を目の当たりにしているから、当然のように思われているが、改革開放が始まった40年前は東西冷戦の真っ最中で、共産主義国家が資本種後の象徴とも言える「自由市場」政策を取り入れるなどということはまったく考えられなかった。

今では、そのあまりの非効率さのゆえに「絶滅危惧種」となっている5ヵ年計画などの「計画経済」が当時の共産主義国家の基本理念であり、党が「指導する」という共産主義思想にも合致していた。

その中で鄧小平が、毛沢東に蹂躙され、現在の北朝鮮よりもひどい状態であった中国を復活させる起死回生の手段として採用したのが「改革開放」である。

1978年12月に開催された中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議で提出されたのが始まりだが、その後しばらくの間、中国の国民は冷ややかな目で見ていた。

なぜなら毛沢東時代の1956年から57年に共産主義中国で行われた政治運動「百花斉放、百家争鳴」の結末を知っていたからである。

当初、「共産党に関する自由な意見を募集中」ということで始まったこの運動に賛同し、大学教授をはじめとする多くの国民が意見を述べた。ところが、後に方針が転換され、この時の共産党に対する批判を理由に多くの国民が粛正された。

最初、中国人民が「共産党の指導など気にせずに、自由に商売をやってください」と言われたときに「例の反体制派あぶり出し作戦だな」と思ったのも無理は無い。

その後、鄧小平の懸命な努力で徐々に改革開放政策が浸透したのだが、その過程で不平等や腐敗の蔓延などの問題も生じてきた。その時に起こったのが、1989年の天安門事件である。

鄧小平

これは、鄧小平が主導する改革開放に対する痛手であったが、共産主義中国の人権問題に対する非難は「反日政策の強化」で欧米の目をそらした。さらには、1992年に行われた「南巡講話」で中国国民に再度呼びかけたことが効を奏し、その後の爆発的な経済成長を生み出した。

そもそも、北朝鮮よりも貧しい(改革開放初期と同時期の北朝鮮は、地下資源などで意外に潤っていた)状態からスタートしたのだから、その成長ぶりは天文学的である。

ただ、同じことを北朝鮮に期待している欧米の投資家は良い結果を得ないだろう。金正恩氏とトランプ氏の交渉がうまく決着し、北朝鮮版・改革開放が始まったとしても、「共産主義一党独裁と自由市場」という相反するものを鄧小平のようにうまく操れるはずが無く、結局とん挫するはずである。

また、習近平氏以前は一応、鄧小平路線を保っていたので、1997年の鄧小平没後も経済は順調に拡大し、2008年の北京オリンピックで頂点に達した。

共産党のための中国が鮮明になった

しかし、習近平氏の時代に入り、輝かしい鄧小平の遺産は次々と破壊され、毛沢東暗黒時代への回帰色が鮮明になった。

ここで長い歴史を振り返れば、中華世界(中国大陸)では反乱・革命や異民族の征服によって200~300年ごとに王朝の交代を繰り返しているが、各地の統治機構はずっと継承されて中央と人民の橋渡し役となってきた。

中国がモンゴルの植民地であった「元」の時代にも、統治機構はあくまで中華世界の伝統的なものであった。

士大夫が支える地方の社会機構こそ共産主義革命を経ても続く伝統であり、過去の戦乱を乗り越えて社会を維持してきた根幹といえる。

革命を完遂するには、社会の隅々に残るこれら伝統を根こそぎ破壊する必要があり、そのためには、良識や教養と呼ばれているものすら邪魔になる。

そこで文化大革命の革命の初期に標的とされたのはまさに旧思想、旧文化、旧伝統、旧習慣と名指しされた中国社会の支柱そのものであった。

実利主義によって経済の建て直しを行う組織や人々(走資派と呼ばれた)、伝統的な価値観や文化を継承して社会の安定を図る人々は、全て社会主義革命を後退させる敵であり打倒すべき階級と認識しなければならないというわけだ。そうした人々は「牛鬼蛇神」という庶民にわかりやすい悪役のイメージで糾弾された。

しかし、そのように、かつて毛沢東暗黒時代に走資派と呼ばれた人々や、中華社会の伝統的価値観を持つ人々こそが「改革開放」において重要な役割を果たした。市場経済を立ち上げたり、世界中に広がる華僑ネットワークをフルに活用したのも彼らだ。

               1984年10月1日に中国建国35周年のイベントで「こんにち、
                小平さん」の横断幕を掲げ、鄧小平が主導する改革開放を
                 歓迎する意を表した群衆。
 

その鄧小平をはじめとする中国繁栄の恩人たちをないがしろにし、毛沢東暗黒時代に回帰しようとする習近平氏は、共産主義中国をかつての北朝鮮並みの「暗黒時代」に引き戻そうとしているといえる。

習近平氏が愚かなのも原因の1つかもしれないが、より根本的には、「中国の経済的繁栄よりも共産党一党独裁の方が重要である」ということだ。

筆者は、アリババの創業者、ジャック・マー氏の突然の引退がその路線転換の象徴だと考えている。

<主要参考文献>人間経済科学研究所HP・藤原相禅研究レポート「六四天安門事件30周年を前に文革の意義を考えてみる」

【私の論評】毛沢東時代に逆戻りした中国はどうすべきなのかを考えてみた(゚д゚)!

ブログ冒頭の大原の記事には、以下のようなくだりがありました。
ロシア革命は、1917年に2回起きており、最初の2月革命は、自由主義者が中心の「民主国家」を目指すもので、ブルジョア革命とみなされていた。この革命が成功していれば、ロシア(ソ連邦)は、もしかしたら先進資本主義・自由国家の一員となっていたかもしれない。
私もそう思います。現在の先進国は、フランスのような過激であったか、英国のようにもっと穏健であったにしても、ある程度犠牲をはらって民主化するという道をたどり、さらに様々な経緯を経て現在に至っています。

その過程において、先進国は民主化だけではなく、政治と経済の分離、法治国家化を実現し社会構造変革を行い今日に至っています。日本も、明治維新後に急速にこれを実施し、世界の列強に仲間入りました。

まさに、今日「民主国家」といわれている国々と、中国・ロシアや他の発展途上国とはここに大きな差があります。

今日「民主国家」と呼ばれる国々は、どうして民主化、政治と経済、法治国家化の道をすすめたかといえば、個々の事情は各国で違うところがありますが、当時のヨーロッパでは、強国がいくつかあり、それらの国々が富国強兵策をとっており、他国に国力で劣ってしまっては、他国に征服されるという危機感があったからだと思います。

軍事力も国の富が土台になっています。経済がある程度は良くないと強い軍隊は持てません。国を富ますためには、一部の富裕層だけや政府が努力したとしても限界があります。

国を富ますことは、多数の中間層が、自由に活発に社会経済活動を行える体制を整えてはじめてできるものです。

だからこそ、先進国は先進国になる前に、民主化、政治と経済の分離、法治国家化を行い、社会構造変革をなしとげ多数の中間層を輩出し、これらが自由活発に社会経済活動を行える体制を整えたのです。そうして、経済を富ませて、軍事力を強化したのです。無論、西欧では、民主化とはいっても、白人だけのものでしたが、それでも国力を増すことはできました。

日本も明治維新をなしとげ、当時の西欧なみに、民主化、政治と経済の分離、法治国家化を成し遂げたからこそ、今日先進国の一端を担うことができているのです。

ロシアや中国はこのプロセスを欠いて、経済だけ発展させることに成功しました。ロシアは、ソ連時代に敗戦国ドイツからの科学技術を導入したこと等により、発展することができました。

中国は、主に海外からの巨額な投資を得て、発展することができました。しかし、両国とも西欧や日本にみられるような、社会構造改革は行われませんでした。そのため、今でも両国は遅れた社会構造がそのまま温存されています。

       中国には選挙制度はないが現在のロシアにはそれがある。
       ところがロシアはとても民主国家と呼べる状況ではない


ソ連は、結局社会構造改革をしないまま、冷戦による疲弊も手伝い崩壊しました。ロシアがその後を引き継ぎましたが、軍事的には侮れないですが、今日その経済規模は、韓国を若干下回るほどの規模しかありません。

先進国は、中国が経済的に豊かになれば、先進国が過去に行ったような、社会構造改革を実行して、先進国のような体制になると信じて、中国の動向を見守りましたが、結局それはなされずに今日に至っています。

そうして、現在は中国もソ連のように、社会構造変革ができないまま、経済は衰退しつつあるところに、米国から貿易戦争を挑まれています。

このブログでも過去に何度か述べてきたように、この貿易戦争はやがて、本格的な冷戦にまで発展し、中国が体制を変えるか、経済的に他国に影響を及ぼせないくらい経済が衰退するまで、続けられることになります。

ブログ冒頭の記事で、大原氏が語っているように、「中国の経済的繁栄よりも共産党一党独裁の方が重要である」という理念を変えることはないでしょから、中国は他国に影響を及ぼせないくらい経済が弱体化するしかないようです。

私は、経済が弱体化した後の中国は「図体だけが大きい、アジアの凡庸な独裁国家になり果てる」と過去の記事で何度か主張してきましたが、これがまさしく、冒頭の記事で大原氏が語っている「毛沢東時代に逆戻り」ということだと思います。

もし中国がそのような状態となった場合、どうすれば良いのかという問題があります。先進国も中国には経済発展してもらいたいとは思っているのでしょうが、その結果過去の中国がどのようになったかを考えれば、単純に経済支援や技術協力などできないと思います。

私は、現在の中国の版図がいくつかの国に別れて、かつて西欧諸国が富国強兵のために、互いに競い合っていた時代のような環境ができれば良いと思っています。

互いに競い合い、分裂した国々が、富国強兵でしのぎを削るのです。相手をしのぐため、民主化と、政治と経済の分離、民主化を成し遂げ、社会構造改革を実現して、中間層を多数輩出させ、彼らが自由に社会経済活動ができるようにして、各々の国が自国を富ませるように仕向けるのです。

これにより、中国ははじめて民主的国家もしくは国家群になることができるかもしれません。そうして、この競争にロシアも加わるべきだと思います。

このような競争を経れば、ユーラシア大陸の中国とロシアと大きな領域が、民主主義国家に生まれ変わるかもしれません。それには最低でも数十年という年月が必要かもしれません。しかし、それを待つ価値は十分にあると思います。

経済が衰弱し、他国に影響力を及ぼせないまで疲弊した中国やロシアよりは、世界にとってもこのほうが良いのではないかと思います。

米国は、たとえ冷戦で中国に勝利したとしても、その後に何をどうするのかを今から考えておくべきです。そのまま放置しておけば、中国は疲弊したままで、世界経済にも良いことは一つもありません。

ただし、米国が直接干渉することは、良い結果を招くことはないと思います。しかし、互いに競争させるように仕向けることはできると思います。そうして、日本をはじめとする他の先進国もそのように仕向けることに協力すれば、意外とうまくいくかもしれません。

そうして、そう仕向けることが、ソ連に返り咲こうとするロシアを強く牽制することになると思います。

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2014年6月4日水曜日

天安門事件関連の米公文書を公開、「兵士が笑いながら発砲」―【私の論評】この日を忘れない! この時からほとんど変わっていない中国、このままでは分裂崩壊するのが当然の帰結(゚д゚)!


天安門事件のときに戦車をとめた男の画像として有名になった画像

  中国・北京(Beijing)で1989年に起きた天安門事件で、国内各省から派遣された兵士らが、民主化を求めるデモ隊に対し笑いながら無差別に発砲していたことを示す米政府の文書が、事件からちょうど25年となる3日に機密解除された。

米ジョージ・ワシントン大学(George Washington University)の国家安全保障公文書館(National Security Archive)が「情報自由法(Freedom of Information Act)」に基づき取得して公開したこれらの文書では、89年6月3日夜から4日未明にかけて中国当局が学生運動を武力弾圧する中、中国全土に広がっていった混乱の様子が示されている。

天安門広場を埋め尽くした戦車群


米軍のある機密報告書は、ホテルの一室から天安門広場(Tiananmen Square)の様子を目撃した匿名の人物の話として、武力弾圧が多くの死者を出すことを意図した「残虐」なものだったと記している。

第27集団軍(27th Army)に属する非北京語話者の兵士たちは「人々の集まりに遭遇すると、それが誰であろうとも笑いながら無差別に発砲していた」という。


天安門事件では、兵士らが非武装の市民ら数百人を殺害。死者は1000人を超えるとの推計もある。

戦車をとめた男の画像 遠景 こんなに戦車がいたとは?

【私の論評】この日を忘れない! この時からほとんど変わっていない中国、このままでは分裂崩壊するのが当然の帰結(゚д゚)!

さて、このブログでは、天安門事件については、2011年6月4日にも掲載しています。そのURLを以下に掲載します。
天安門事件22周年、一触即発 「革命の条件はあの時より整っている」―【私の論評】あの頃から中国は何もかわっていないどころか、日増しに悪くなっている!!

詳細は、この記事をご覧いただくものとして、2011年はジャスミン革命があちこちで起こった翌年でした。中国でもジャスミン革命がおこりかけたのではありますが、結局のところ政府に圧殺されました。

北京之春編集長 胡平氏

この記事では、『北京の春』編集長・胡平氏の、「革命の条件は天安門の時より整っている」とする見解を紹介しました。その部分のみ以下にコピペしておきます。
「中国のジャスミン革命」は不発に終わったが、北京政権が民主運動をいかに恐れているかを目の当たりにしたことには意義がある」と中国民主活動家・魏京生氏は米VOAに語った。『北京の春』編集長・胡平氏もVOAに、中国のジャスミン集会は天安門の民主運動には発展しなかったものの、民衆にウォーミングアップのチャンスと次に繫がる経験を提供したとの見方を示した。 
「89年の民主運動の時も他の多くの革命の時も、指導部の分裂が民間の民主運動を促したのではなく、民間の民主運動が指導部の分裂を促した」。胡平氏は天安門事件当時の趙紫陽・元総書記を例に、体制内で一定の権利を握る人が民主運動に賛同することが成功の重要な条件だと指摘した。現在、「政権内の権力闘争が熾烈だ」ということから、胡氏は、民主運動に同調する指導部メンバーが出現する条件は備わっていると分析する。 
指導部の権力闘争以外に、「民間の怨恨は22年前をはるかに超えている」と魏京生氏は指摘し、革命が起きる条件は天安門事件当時よりも整っていると主張する。 
中国では毎年20数万件の群衆抗議事件が起きている。権力腐敗は、激痛を伴う社会の「癌」と化している、と中国の専門家がかつて語ったことがある。RFIは、腐敗などに対抗する官民抗争は最近、暴力化の様相を呈していると指摘する。権利を主張する者を殺害する事件が頻発し、陳情を絶望視する者の爆破事件や、軍隊出動による少数民族への制圧などが起き、数々の「衝突」が火薬の匂いを帯び始めている。 
上昇する物価、深刻な腐敗、何が安全かわからない食品問題、悪化する一方の生態環境。庶民の生活を脅かすこれらの問題に、「人々は抗議し続けている。その中で経験を積み、規模を大きくしていく。それに対して当局は制圧を強めるが、その制圧が効かなくなる日は必ず来る。その時が『燎原の火』が燃え上がる日なのだ」と魏京生氏は語った。
魏京生

そうして、このブログでは、以下のようなことも掲載しました。
中国では、22年前と比べて、民主化という点では、一歩も進歩してないどころか、後退しているくらい゛てす。このブログでは、中国では建国以来年間平均で毎年2万件の暴動があったことなど掲載したことがあります。しかし、昨年は、暴動が23万件もあったということで、これは、もう暴動のレベルではなく、中国は内乱状態にあるといって良いと思います。 
「決して、してはいけないことは、それを助けることだ」と言う言葉、心にしみます。しかし、この中国を過去に助けた国があります。それが、日本です。しかも、天皇陛下のお力をお借りしてまで・・・・・・。 
中国が、天安門事件をおこしたがため、国際社会は中国に対して厳しい態度で臨んでいました。 
日本も例外ではありませんでした。ところが、中国側による再三の要請があり、平静4,年、時の内閣が、周囲の大反対を押し切って天皇皇后両陛下の中国訪問を実現してしまいました。
中国は、天皇皇后両陛下の訪中をもって、国際社会に復帰することができました。

それにしても、中国はこの時の恩も忘れ、日本に対しては内政干渉をどんどんやっています。尖閣問題は当然そうですし、安部総理の靖国参拝に対する批判もそうです。

下の動画、天安門事件の動画です。かなり残酷なシーンもあり閲覧注意です。体調の悪い方はご覧にならないで下さい。



それに、このブログでも何度か掲載したように、東シナ海・南シナ海への海洋進出なども積極的に行っています。2011年には、すでにそのような動きが活発化しており、安部総理が先日アジアあん安全保障会議で語っていたように、中国が既成事実をつみあげ、領海などの変更をしようとしていいるのは明らかです。

天安門事件のときには、中国はまだまだ経済が発展しておらず、中国内部のことで精一杯でしたが、あれから25年たち、余力のでてきた中国はG2とか、米中二極体制などという途方もない超大国幻想に取り憑かれています。

しかし、現実には経済は崩壊しつつあり、それにともない国体も崩壊しつつあります。さて、この忘れてはいけない天安門事件、他の人たちはどのようなツイートをしているか、以下に掲載しておきます。
以上、いくか掲載してみましたが、日本国内では結構ツイートされています。

やはり、この日は忘れないように、継承していくべきものと思います。それにしても、中国は昔から現在にいたるまで、その本質は全く変わっていません。

はやく、このような国分裂崩壊して欲しいです。私は、そう思います。皆さんは、どう思われますか?

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