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2020年3月24日火曜日

新型コロナで首都封鎖!?:小池都知事:自粛疲れとリスクコミュニケーションの心理―【私の論評】カタカナ英語は、会議・打ち合わせでは絶対に使うな(゚д゚)!

碓井真史 | 新潟青陵大学大学院教授(社会心理学)/スクールカウンセラー

新型ウイルス肺炎の世界流行で3/23に行われた小池都知事の会見

首都封鎖。インパクトのある言葉です。

■首都封鎖!? 東京封鎖!? 小池都知事

「首都の封鎖あり得る」。インパクトのある言葉です。オリンピック延期容認につづき、都知事の言葉として注目が集まっています。
東京都の小池知事は、新型コロナウイルスの大規模な感染拡大が認められた場合は、首都の封鎖=ロックダウンもあり得るとして、都民に対し、大型イベントの自粛などを改めて求めました。
 「この3週間オーバーシュートが発生するか否かの大変重要な分かれ道であるということです」(小池百合子 東京都知事)出典:新型コロナ、小池都知事「首都の封鎖あり得る」:TBS 3/23
■新型コロナウイルス感染への適切な不安、正しく怖がる

私たちは、「適切な不安」を持たなくてはなりません。よく言われるように「正しく怖がる」です。

もしも不安がなければ、どんなに危ない道も用心しないで走って転んでしまいます。不安が全くなければ、試験勉強もしないし、ドアに鍵をかけることもなくなってしまいます。これでは、生活していけません。

ただし、不安は私たちの心を蝕むこともあります。試験に落ちる不安が高まり過ぎれば、かえって試験勉強に手がつきません。試験本番では上がってしまって、実力を発揮できません。不安な状態が長く続けば、心も体も病気になってしまいます。

不安が高くなりすぎると、動けなくなることもありますし、暴走してしまうこともあります。これでは困ります。

必要以上に人々を怖がらせてはいけませんし、油断させてもいけないのです。

■自粛疲れとリスクコミュニケーション

正しい行動のためには、適切な「リスクコミュニケーション」が必要です。専門家や政治家のメッセージが、正しく人々に届かなければなりません。

世間では、「自粛疲れ」などという言葉も出てきました。テレビも新聞も、毎日毎日コロナコロナでは、気が滅入ります。客は減るし、景気は悪い、仕事もひま。こんな状態がいつまでも続いては困ります。

学校の生徒たちは、突然の休校、部活もなし。カラオケもダメだと言われるし、繁華街に出ると白い目で見られることもある。これでは、息が詰まります。

人の心も体も、適度に活動するようにできています。活動が制限され、人との交流が制限されれば、よくうつ状態が出たり、子供若者などはイライラし始めます。

また、ヨーロッパなどと比べると、日本の生活は安定しています。医療崩壊も起きてはいません。

自粛生活にも疲れたし、ストレスはたまるし、もうそろそろ活動を再開しても良さそうだと、少なくない日本人が感じ始めています。

繁華街や観光地にも、少し人が戻ってきたようです。外国人がいないので空いていて、今がチャンスといった宣伝もあるようです。

大阪のライブハウスですら、若い人が集まっているところもあります(地下アイドルのライブ活動などが再開したと大阪の人に聞きました。決してライブハウスが悪者ではないのですが)。

公園などに行くことは、良いことでしょう。必要以上の自粛はよくありません。経済が死んでも困ります。本当に正しい行動は何なのかは難しいのですが、疲れや油断が出てきた面はあるかと思います。

この現状で、適切な緊張感を保つための、「首都封鎖」の発言とも見られます。効果はあるでしょう。

政治家は、必要に応じて、人々を安心させたり、また用心させたり、覚悟させたり、勇気を持たせたりしなくてはなりません。政治家による扇動ではいけませんが、ウイルスに関する正しい知識に基づいて、必要なメッセージを届けることが大切です。

事実や数字だけでなく、気持ち、感情を伝えることが大切です。人は数字では動かず、感情で動くからです。

■新語、カタカナ言葉の問題とリスクコミュニケーション

以前の新型インフルエンザ騒動のときに、一般の人も知った新語が、「パンデミック」や「フェーズ」です(「フェーズ」は、もう忘れた人もいるかもしれません)。

今回の新型コロナウイルスに関しては、パンデミックに加えて、「クラスター」「オーバーシュート」「ロックダウン」です。

マスコミも、私たちも、新語、カタカナ語が好きなので、これらの言葉は注目されやすい良い面があります。

一方、カタカナ言葉は苦手な人もいます。

私は、新型インフルエンザ騒動の時に18を対象に調査しました。これだけ大報道がされていても、「パンデミック」の意味のわからない若者が数パーセントはいました。

また意味は分かったとしても、漢字よりもかえって実感が持ちにくい場合があることも忘れてはいけません。

感染症以外の日常生活でも、アルファベット表記やカタカナ言葉がスマートでカッコ良くても、結局日本語、漢字が、最も直感的に理解できることは、よくあることです。

新語カタカナ語は、時には日本語、漢字以上に、不気味な不安感を呼び起こすこともあります。また時には、カタカナ言葉の意味がわからなかったり、本来感じて欲しい適切な不安感情を導きにくいこともあります。

今回の記事の見出しも、「首都ロックダウン」ではなく「首都封鎖」でした。

新語やカタカナ言葉が悪いわけではありませんが、きちんと正しいメッセージが伝わるリスクコミュニケーションのためには、様々な工夫と配慮が求められています。

本当に首都封鎖などにならないように(本当に首都ロックダウンなどにならないように)、

怖がりすぎず油断せず、新型コロナウイルスと戦っていきたいと思います。

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新語解説
  • パンデミックとは:パンデミック(pandemic)は「広範囲に及ぶ流行病」「感染症の世界的な流行状態」のことです。
  • フェーズとは:フェーズ(phase)とは、局面、一側面、位相、段階、「変化する過程の一区切り」です。フェーズは、分野業界によって使い方が異なりますが、医療業界では、 パンデミックの警戒段階を「フェーズ」で表したりします。
  • クラスターとは:クラスター(cluster)とは、房、集団、群れの意味で、これも分野や業界によって使い方が異なりま。心理学の人間だと統計手法の「クラスター分析」を思い浮かべます。感染症に関しては、「小規模な患者の集団」です。
  • オーバーシュートとは:オーバーシュート(over shoot)とは、これも分野や業界で意味が違って、経済分野では為替や株価が過剰反応して行き過ぎたことを指します。感染症に関していえば、「爆発的患者急増」です。
  • ロックダウンとは:ロックダウン(lockdown)は、「封鎖」という意味ですが、IT分野ならセキュリティを強化するためにOSやアプリケーションの機能を制限する仕組みです。建物の内部の人を守るために外部の人が入れないようにするのもロックダウン。緊急事態に人の移動や情報を制限することもロックダウン。感染症で外出禁止もロックダウン。小池都知事は、「感染の爆発的な増加を抑え、ロックダウン(都市封鎖)を避けるために不便をお掛けするが、ご協力をお願いしたい」と呼び掛けました。
カタカナ言葉って、難しいですね。

【私の論評】カタカナ英語は、会議・打ち合わせでは絶対に使うな(゚д゚)!



最近は、確かにテレビ等を見ていると、「パンデミック」とか「クラスター」「オーバーシュート」とカタカナ英語が氾濫しています。これは、はっきりいいますが、良くない傾向です。

この良くない傾向に、真正面から警鐘を鳴らした人がいました。そうです、河野防衛大臣です。

「わざわざカタカナで言う必要があるのか」―。河野太郎防衛相は24日の記者会見で、新型コロナウイルスに関する用語として政府が「クラスター」や「オーバーシュート」、「ロックダウン」といったカタカナ英語を使っていることに対し、「分かりやすく日本語で言えばいい」と疑問を呈した。

河野氏は22日に自身のツイッターで、クラスターは「集団感染」、オーバーシュートは「感染爆発」、ロックダウンは「都市封鎖」にそれぞれ置き換えられると指摘。会見では「年配の方をはじめ、よく分からないという声を聞く」と語り、厚生労働省などに働き掛ける考えも示しました。

これに関し、菅義偉官房長官は会見で「国民に分かりやすく説明することは大事だ」と述べた。

このような河野防衛大臣の発言があったことを知ってか、知らずか、23日に小池百合子東京都知事は、会見で「ロックダウン」、「オーバーシュート」という言葉を使っていました。

小池知事は、今回に限らず、元からカタカナ英語を多様する人です。東京都知事選の頃から多様していました。それについては、このブログでも解説したことがあります。

詳細は、当該記事をご覧いただくものとして、以下に当該記事から、画像を以下に貼り付けておきます。


小池知事に限らす、現状ではコロナウイルス関連で、日々「カタカナ英語」が流れています。この風潮が、止むどころか、どんどん広まる傾向があったので、ついに河野太郎防衛大臣にまで言われてしまったというところだと思います。

河野氏は英語ができますから、これまでは堪え難きを堪えていたのでしょうが、ついに「我慢できずに」言ってしまったのでしょう。いくらなんでも、おかしすぎです。

常識的な人なら、ほぼ全員が同じことを思っていたと思います。何しろ、「クラスター」から始まって、このコロナ禍の真っ最中に、次から次へと政府から「カタカナ英語」の数々が発せられる必然性があるのでしょうか。

 しかもそれらは、ほとんどが「なにやら妙な使いかた」をしているカタカナ英語ばかり、です。ちなみに、これらの言葉は、「新語」とされていますが、英語自体の言葉としては、新語でも何でもなく、使い古された言葉です。

しかし、新聞記事などでは、記事中に「新語」として、説明や注釈やらがついています。

しかし、「それだけで」十二分に説明が可能なのですから「クラスター」は「感染者小集団」で良いではありませんか。私自身は、「より正確な意味が伝わる」はずの、日本伝来の「漢語的表現」で十分用が足りると思います。

「クラスター」は英語のclusterのカタカナ表記で、辞書を引けば、「花、果実などの房やかたまり」、「動物、人、物などの群れ、集団」というように書かれています。

これまで日常的な英単語としてはあまり知られていなかった「クラスター」ですが、実際のところは、今回の感染症疫学的な用語としてだけでなく、様々な分野で使われています。

たとえば、日本の大学では、関連性のある学科の科目をまとめたものを「クラスター」と称するのがトレンドになっています。日本語では「科目群」ということですが、専門分野重点型、あるいは分野横断的なクラスターを作って、学生が深く、幅広く学べるようにするという「クラスター制度」を導入する大学が増えています。また、研究者の幅広い取り組みのために、関連分野を統合して「研究クラスター」という共同研究体制を作っている大学もあります。

そのほか、次のような分野でも「クラスター」が用いられています。

【天文学】

星の観測がお好きな方はよくご存知だと思いますが、星がまとまって集団となっているものを英語ではstar cluster(「スタークラスター」)と言います。日本語にすると「星団」です。有名な「すばる」もスタークラスターで、英語ではthe Pleiades star cluster(プレアデス星団)。

肉眼でも6個ほどの星が見えますが、望遠鏡では100個以上の密集した星々を見ることができるのだそうです。こうした数百ほどの星がまばらに集まっている星団をopen cluster(散開星団)、数万個以上の星が丸く球状に集まっている星団をglobular cluster(球状星団)と言います。

【人文社会学一般】

人々の嗜好やライフスタイル、意見などについて、様々なアンケート調査がよく行われますが、その結果を分析するのに「クラスター分析」(cluster analysis)が使われることがあります。

統計解析の手法の一つで、簡単に言えば、雑多な集団の中から似たもの同士をまとめて「クラスター」にして対象を分類するテクニックです。商品アンケートなどの調査データをマーケティングに利用するのに、このクラスター分析がよく用いられます。

この手法は、人文科学だけではなく、生物学でも系統樹を作成するときなどに、用いられます。

【IT】

「クラスター」はコンピューター関係のIT用語でもあります。色々なことを指して使われていますが、複数のコンピューターを連結させた一つのユニットを「コンピュータークラスター」(computer cluster)、あるいはもっとシンプルに「クラスター」と呼びます。

クラスター化してシステムを運用することで、1台のコンピューター以上の処理能力などの高い性能を発揮することができるだけでなく、クラスター内のコンピューターのどれかが故障や障害で停止しても、システム全体を継続して稼働させることができるので、システムの安定性強化につながります。

【英語】

「クラスター」は言語学でも使われ、英語に限らず、単語中の母音の連続をvowel cluster(「母音クラスター」の意味)、子音の連続をconsonant cluster(「子音クラスター」の意味)と言います。日本人の英語の発音の問題でよく取り上げられるのが、子音クラスターについてです。

英語には子音が2つ、3つと続く単語がたくさんあって、子音連結とも言われますが、日本人はこうした子音クラスターを含む単語を発音するのに、連続する子音の間にありもしない音をつけて発音してしまいがちなのです。

わかりやすい例をあげると、電車のtrainは、単語の最初にtrと2つ子音が続きますが、カタカナでトレインと書くこともあって、trの間にはないはずの母音oをつけて「ト(to)」と発音してしまいがちです。日本語と英語の構造の違いによるところが大きいのですが、日本人はこうした「子音クラスター」の発音には注意が必要です。

【軍事】

国際社会で、「クラスター爆弾」(cluster bomb)の使用の是非が問われています。クラスター爆弾は多数の小型の爆弾(子爆弾)を内蔵する爆弾で、空から投下されるか、地上からロケット弾や砲弾として発射され、空中で炸裂して子爆弾を広範囲にまき散らします。無差別に殺傷する能力が高い非人道的な兵器として、使用禁止を求める声が集まっています。

ほかにも、化学分野で「金属クラスター」の研究が、物理学分野で「量子クラスター」の研究が、それぞれ盛んになってきています。ある意味、学術の世界では「クラスター」ブームが起こっているといっても差し支えない状況があります。

このように、色々な分野においてそれぞれの意味でよく知られている「クラスター」なのですが、この度の新型コロナウイルス感染拡大で、感染者集団としての「クラスター」は、一気に私たちの日常用語になった感があります。

しかし、私としては、感染者集団としての「クラスター」は、わかりやすく「小集団」などとすべきと思います。元々、「クラスター」には感染などという意味はありません。

実際、新聞やテレビを見ていると、「クラスター」を「感染者小集団」の意味で使ったり、「集団感染」の意味で使ったりしています。これは、無用な誤解を生みかねません。

そもそカタカナ英語の多様は、誤解を招く元です。
私たちのミッションを考えると社員一丸となって、コンセンサスをとらなければ、モチベーションは下がってくると思うんだよね。だから、何から行うかプライオリティをつけそれをみんなにコミットメントさせればいいんじゃないかなぁ。
このようなカタカナ英語の会議は危険です。

例えば、「モチベーション」という言葉について考えてみましょう。あなたは、このー「モチベーション」をどのような意味で解釈して使っていますか?以前、ある上司と部下が「モチベーション」について話をしていて、言った言わないと話がかみ合わないことがありました。「モチベーション」は、どういう意味で使われていますか?


上司は、「動機づけ」と解釈し、部下が自ら企画の提案をしてくれるきっかけになればと考えていました。部下は、「やる気」と解釈してました。お互い「モチベーション」の解釈が違っていることが判明したのです。これが複数人数での会議だったらどうでしょうか?解釈の違いに気づかず、話はかみ合わない事態を引き起こします。

カタカナ英語を頻繁に使うことに何の得もありません。先にあげたカタカナ英語の会議は、以下のような日本語で十分に意味が通じるのです。
私たちの使命を考えると社員一丸となって、合意をとらなければ、やる気は下がってくると思うんだよね。だから、何から行うか優先順位をつけそれをみんなに約束させればいいんじゃないかなぁ。
この表現であれば解釈の相違は低くなります。しかし、日本語ですら、育った環境や、学歴、言語能力などにより、違って受け取られることもあるのです。だから、日本語でもできるだ誰にでもわかるように、平易で誰にでも知られている言葉を用いる必要があるのです。ましてやカタカナ英語を多用するようなことがあれば、そもそも会議など成り立たないのです。

やはり、カタカナ英語は使わないほうが良さそうです。どうしても必要なら語義をはっきさせる必要があります。最初に必要な意味づけをしておくことで誤解は防ぐことができます。しかし、そもそも、使用の是非について吟味をする必要性があります。

最後にはっり言います、カタカナ英語などを多用する人は馬鹿です。

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2019年10月31日木曜日

最悪の場合「東京開催」剥奪も!? 小池都知事、五輪マラソン問題でIOCと徹底抗戦も…識者「都がいつまでも不満述べるなら…」―【私の論評】あるある、オリンピック商業主義が見直されつつあるこれだけのワケ(゚д゚)!

最悪の場合「東京開催」剥奪も!? 小池都知事、五輪マラソン問題でIOCと徹底抗戦も…識者「都がいつまでも不満述べるなら…」

小池知事

2020年東京五輪で酷暑を避けるため、マラソンと競歩を札幌で開催する案が、30日から国際オリンピック委員会(IOC)調整委員会で協議される。札幌移転は「決定済み」とするIOCに対し、小池百合子都知事はあくまでも東京開催を求めて徹底抗戦するとみられるが、専門家は「IOCはマラソンの中止や東京の五輪開催剥奪という最悪の事態もあり得る」と危惧を示す。


 協議は3日間で、31日以降にIOC、大会組織委員会、都、政府で事務レベル協議を行い、その後にトップ級の会合で議論するプランもある。

 小池氏や都が不信感を強めているのは、札幌開催をめぐる議論で「カヤの外」だったことだ。IOCは16日に札幌開催案を発表したが、小池氏が組織委の武藤敏郎事務総長から移転案を伝えられたのは前日の15日。都は組織委に800人以上の人材を投入してきたが、IOCと組織委の事前協議や情報伝達のラインから外されていた。

 準備を急ぐ組織委などは具体的な議論に移りたいとの立場だ。当初、発着点として想定されていた札幌ドームには陸上競技用のトラックがないこともあり、市中心部の大通公園を発着とし、8月に行われる北海道マラソンをベースとする方向で検討を進めている。



【私の論評】あるある、オリンピック商業主義が見直されつつあるこれだけのワケ(゚д゚)!

私はマラソンと競歩を札幌で開催ことに大賛成賛です。その理由は以下の2つです。

一つは、このブログでもすでに述べているように、猛暑対策への賛同です。

夏の札幌も決して涼しいとはいえないですが、東京に比べたら安全性は遥かに高くなります。これを反対する理由はありません。

もう一つは、この決断がIOCのオリンピック商業主義に自らブレーキをかけることに通じる、という期待です。

オリンピック開催期間が7月から8月に限定されたのは、IOCの莫大な収入の約8割を占めるのが『テレビ放映権料』であり、現在はその半分以上が米国NBCとの契約料に依存しているからだといわれています。米国の視聴者がオリンピックに関心を持ってくれるだろう最適な季節がこの時期なのです。

秋になれば、アメリカンフットボールのNFLやバスケットボールのNBAが開幕します。MLBはポストシーズンで熱を帯びる。ヨーロッパはサッカーのシーズンです。

かつてマラソンは冬のスポーツでしたが、オリンピックが暑い季節に行われるようになって、暑さに強いマラソン・ランナーが台頭するようになりました。

その先駆けは1984年のロサンゼルスオリンピックでした。男子はカルロス・ロペス(ポルトガル)、初開催の女子はジョーン・ベノイト(アメリカ)が優勝しましたが、スイスのガブリエラ・アンデルセンがフラフラでゴールするアクシデントもありました。

フラフラでゴールしたガブリエラ・アンデルセン

当時、福岡、東京、ボストンなどのマラソンで5連続優勝を続け日本期待の星だった瀬古利彦は33キロ付近で先頭集団から遅れ、14位に終わりました。暑さが通常の実力と違うダメージを選手にもたらす現実を目の当たりにしました。夏マラソンの歴史はそれほど浅いものなのです。

私がオリンピック商業主義と批判する理由は、オリンピックがまるで世界のスポーツを司る総本山のような権威を持ち、『オリンピック基準』でスポーツのルールや本質を平気で変え続けているからです。IF(International Federationの略。国際競技連盟)と呼ばれる各競技団体もこの流れに追従しています。さらに、テレビ中継の都合で試合時間が決定されるということまで行わています。

ラグビーは15人制でなく7人制が採用されています。バスケットボールも5人制とは別に3人制の3X3が正式採用されました。トライアスロンは草創期、ハワイ・アイアンマンレースに象徴される鉄人レース(ロング・ディスタンス)が人気を集めましたが、やがて『オリンピック・ディスタンス』と呼ばれる計51.5kmの種目が普及していきました。

2時間以内に競技が終わることが「オリンピック採用の基準」になっているからです。野球がオリンピック種目として再び採用されることがあっても、その時は9回でなく7回制になっている可能性が高いです。柔道着は、「テレビで見やすい」という理由で一方が青に変更されました。その決定には、「なぜもともと白なのか」への理解も敬意もありません。


さらに、欧米で人気のスポーツは開催時間も、欧米にあわせるということが平然とまかりとおってきました。平昌五輪ではフィギュアスケートやスピードスケートなど欧米で人気の種目が、昼夜逆転でスケジュールを組まれたため日本勢はスケジュール調整に悩まされました。

スポーツ文化は踏みにじられ、五輪ビジネスだけが優先されてきました。それで失うものの大きさにこれまでIOCも日本オリンピック委員会(JOC)も、日本のメディアもスポーツファンも目を向けずにきました。

ここまで徹底したオリンピック商業主義ですが、それが実際に効果をあげてきたかといえば、甚だ疑問です。実際米国では1990年台をピークに、テレビでオリンピックを観戦する人の数が減っています。

米ギャラップの調査によると2016年のリオデジャネイロオリンピックで初めて、オリンピックのテレビ中継を見る人の割合が過半数を下回る48%となりました。

ピョンチャンオリンピックでは、65歳以上の層で「オリンピックを見る」と答えた割合が、半数以上の54%だったのに対し、18〜29歳の層では31%となっており、若年層の関心が薄れていることが、視聴者数減少の主な原因ではないかと読み取れます。

今回の東京オリンピック、マラソン&競歩の札幌移転は、こうした一方的なオリンピック商業主義に大きな転換期が訪れたこと、それを強行し続ける困難さをIOCのバッハ会長自らが表明したともみえます。だからこそ、「なぜ、今頃になって」と言いたい気持ちもあるでしょうが、ここはオリンピックの歴史的転換を後押しをすべきです。

IODトーマス・バッハ会長
本当なら、放映権に依存するビジネスモデルからの大転換を求め、代案を提示したいところですが、当初はマイナーチェンジでも良いです。

例えば、マラソンや競歩など、本来は低温の気象で行う競技は冬季五輪の時期に、相応しい地域で行うようにすべきです。

また各IFも、オリンピック依存から転換し、ゴルフの全英オープン、テニスのウィンブルドン、サッカーのワールドカップ、そして日本の大相撲のように(いまはその信頼度は怪しいですが)、オリンピック以外に「これぞこのスポーツの最高峰」「スポーツ文化と歴史の体現」と誇れるような大会を構築し主催するのがそれぞれの競技を愛する者たち、スポーツビジネスに携わる人たちの使命だと思います。

オリンピックは大切な『平和の祭典』です。今後も発展と成熟を重ねてほしいです。しかし、巨額ビジネスの威光で世界のスポーツを牛耳るような存在感は、およそ『平和の祭典』には相応しくないです。その見直しがいよいよ始まりつつあると思います。オリンピック商業主義は終焉を迎えつつあるようです。札幌でのマラソン・競歩の開催はまさにその象徴ともいえるのです。

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2019年10月27日日曜日

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コーツ氏(右)と会談した小池氏に策はあるか=25日、都庁

2020年東京五輪のマラソン、競歩の開催地を札幌市に変更する案に猛反発する小池百合子都知事が国際オリンピック委員会(IOC)のジョン・コーツ調整委員長と直接対決した。IOC側は札幌への変更は「決定事項」と断言、東京開催は厳しい状況だ。最終結論は30日からのIOC調整委員会で協議されるが、移転に伴う経費を誰が払うか、「金銭闘争」が焦点となりそうだ。

 「(変更は)もう意思決定されてしまっている」。当初50分の予定が約1時間30分にも及んだ会談後、コーツ氏は報道陣にこう断言した。開始時間の前倒しなどの対案で東京開催を維持したい都側との協議には応じない考えも明確にした。

 事実上の引導を渡された形の小池氏が、札幌変更案を覆すのは困難な情勢となり、関係者は「今後は(移転に伴う)費用負担の話になるだろう」と指摘する。

 大会組織委員会の予算では、テロや災害など緊急事態に備えて予備費を1000億~3000億円計上しているが、小池氏は仮に札幌開催になった場合は移転に関わる費用を「都が負担する考えはない」と強調している。

 都と組織委、IOCのガチンコバトルは泥沼化しているが、「アスリート・ファースト」は置き去りになっていないのか。

【私の論評】スポーツの理想は、本来名誉や感動等のカネでは買えない価値を提供するものだったはず(゚д゚)!

猛暑への懸念から国際オリンピック委員会(IOC)が打ち出した、2020年東京五輪マラソン・競歩の札幌開催案。土壇場の決定に衝撃が広がっていますが、東京の暑さが健康に影響しそうな競技は、他にもいろいろ指摘されています。「アスリートファースト」は、一体どこへ行ったのでしょうか。

現行計画では、暑さ対策として、男女のマラソンは午前六時、男子50キロ競歩は五時半などとする繰り上げスタートが決まっています。

ただ、五輪開催期間(7月24日~8月9日)の今夏の都心の最高気温は、毎日30度以上を記録。湿度や日射を含め、熱中症の危険度を示す「暑さ指数」で「運動は原則中止」とされる「危険日」が、十七日間のうち十四日にのぼりました。こうした状況を懸念し、組織委などは夏場に五輪テスト大会を開きました。

ところが、7月に品川区で行われたビーチバレーのテスト大会では、溝江明香選手が「何も考えられなくなって、脚が動かなくなって、視界が狭まった」と熱中症のような症状に。八月に世田谷区などであった馬術でも、戸本一真選手が「馬も人も危ない暑さ」と訴えました。

7月に品川区で行われたビーチバレーのテスト大会
トライアスロンの東京五輪予選1日目は15日、五輪本番のテスト大会を兼ねエリート女子が東京・港区のお台場海浜公園内で行われました。午前3時半に開催した実施検討委員会で、最後のランの時点で高温から暑さ指数が危険レベルに達するという気象予測を考慮し、ランの距離を10キロから5キロの半分に減らしてレースを実施。この日は、フランス選手が熱中症の危険からレース後に救急車で搬送されました。

東京・お台場海浜公園で行われたトライアスロン

消耗の激しい屋外競技は他にもあります。ラグビー7人制が開始を午前9時に早めたほか、自転車マウンテンバイクは逆に開始を一時間遅らせて午後3時に。サッカーやオープンウオーターも開始時刻を変更しています。

組織委は「他の競技について、会場変更という話は把握していないが、各競技団体から暑さ対策に向けた要望は受けている。時間の前倒しを含めた新たな対策を11月初めにも公表する」(広報)としています。

そんな中で浮上した札幌移転案。ここまで問題を見て見ぬふりしてきたIOCは、あまりに無責任です。

観客向けの対策として、組織委などは、マラソン、トライアスロン、ビーチバレー、ボート、ホッケーを暑さ対策の重点競技に指定し、ミストシャワーなどの実証実験を行いました。都は先月発表した検証結果で、ビーチバレーのテスト大会で救護所を利用した観客四人が熱中症の疑いだったと説明。

本番でも患者が複数発生する可能性があり、体調不良者を早期に発見できる体制が必要などとしました。

沿道に日陰を作るテントや、体を冷やす保冷剤の配布などの暑さ対策も打ち出されていますが、人工雪や「涼しい印象を与えるアサガオを並べる」といったものもありました。いずれも小手先の対策です。招致段階で放映権料を払う米放送局やIOCの意向を受け、日本側が8月開催を認めたことが根本にあります。五輪商業主義の犠牲となるのはいつも選手なのです。

私自身は、札幌案を聞いて、正直ほっとしました。夏のテスト大会やドーハ世界陸上の惨状を受け、IOCがぎりぎりのところでスポーツ人としての良識を通したと思います。

世界選手権の女子マラソンで体に水をかけながら走る選手ら=9月28日、ドーハ

サッカーなど長時間屋外にいる競技も移転が望ましいと思います。問題は、招致の際の立候補ファイルに、日本側が「晴れる日が多く、かつ温暖で(略)理想的な気候」などと記していたことです。そうでないことは、招致する随分前からわかっていたことだと思います。招致の段階で、東京以外の札幌などの涼しい地域で一部の競技を開催することも考慮すべきでした。

極端なことを言いますと、日本が世界に嘘をつき続けた結果、今回の事態を招いたともいえると思います。暑さ我慢を競うのではなく、最大のパフォーマンスを発揮することがスポーツの本質のはずです。五輪で過酷な環境を強いられ、それが失われることは許されないです。

同じようなことは、夏の高校野球甲子園大会についてもいえます。

第101回高校野球 仙台育英の応援団

殺人的な猛暑のもと行われる「全国高等学校野球選手権大会」、選手の負担はもちろんの事、応援団、吹奏楽部、保護者、その他関係者すべての命を危険にさらしています。
環境省により発表される「暑さ指数」(WBGT)31℃の危険レベルではどのような場合でも試合を中止するようにすべきです。

近年の気温の上昇に基づいた適切な運営、選手の安全の確保がひいては日本の野球界の発展につながることを理解すべきです。

オリンピックも、甲子園大会のような国内での競技であっても、すでに近年夏はかなり熱くなるということは予め多くの人が知っていることです。

ところで、20年夏の甲子園大会は東京オリンピック閉幕後に行う方向で調整されているそうです。

都内で、20年東京五輪の球場使用問題についてプロとアマが初めて協議を行い、日本野球機構(NPB)と球団、東京6大学連盟、日本高野連、社会人連盟などの関係者が出席しました。日本高野連の竹中雅彦事務局長は20年夏の甲子園について「オリンピックが(8月)9日までなので基本的には甲子園(の開幕)をずらす方針」と見通しを語りました。

ここ2年は8月7日開幕として発表されたが、20年夏は早くても10日以降となりそうです。

このように、オリンピックという大会の開催日程により、甲子園大会を8月10日以降にずらすということができるのですから、甲子園大会そのものをさらに遅らせるなどのことは十分にできると思います。

さらに、甲子園球場になぜこだわるのでしょうか。甲子園という名前は、十干十二支の組み合わせである「甲子」にちなんで名付けられたものです。阪神甲子園球場が完成した1924年が、ちょうどその年だったためです。今年で95年の歴史ということになります。

近代オリンピックの起源は、1896年であり、その歴史は今年で123年の歴史があるということになります。

どちらも100年くらいの歴史があるわけですから、開催の時期などにこだわりがあるのと同時に、近代スポーツという考え方からすると、現在のオリンピックや高校野球は、正にカネとは切っても切れない関係にあります。

オリンピックは開催国の負担が大きすぎて、1984年のロサンゼルスオリンピックあたりから、米国のテレビ局が莫大な金を投じるようになりました。以降はその金がないと開催できない状態、つまり米国のメディアを中心にしたオリンピックしかできないという現実もあります。

であれば、米国との時差の大きいアジア圏等で開催すると、時間や季節等の問題が起こるのは必然です。そろそろ、そのあたりを考え直す時期にきているかもしれないです。

さらに、かつてはオリンピックを開催すれば公共事業で儲かるといわれた時期もありましたが、もう五輪は「ドル箱」ではなくなっています。北京五輪やロンドン五輪でも、結局は赤字でしたし、東京も東京五輪で好景気になるとも思えません。

1964年の東京オリンピックの栄光という幻想を追い求め過ぎたのでしょうか、やり方が古かったでしょうか、いまのところはおカネが莫大にかかることばかりです。日本のアスリートにとっては絶好のチャンスですし、観戦する方もすごく盛り上がることになるとは思います。

ですが、やはり現在の私達は、スポーツというカルチャーが提供しているのは、名誉であったり感動であったりというカネでは買えない価値だということをもう一度思い返す必要があると思います。

カネに走りすぎれば、そうした本来の価値が下がってしまうわけで、今回のオリンピック・マラソン札幌開催問題を機に、スポーツと商業主義の関係について日本国内でももう一度真摯に議論されることを期待したいです。


NBAの中国擁護が米国団体にとって今に始まったことではない理由―【私の論評】いずれ中国は、世界市場から完璧に弾き出るよりしかたなくなる(゚д゚)!

2017年10月10日火曜日

小池都知事の「排除」も「寛容」も、まったく心に響かない単純な理由―【私の論評】小池氏は、政策論争の前に簡明な言葉遣いをすべき(゚д゚)!

小池都知事の「排除」も「寛容」も、まったく心に響かない単純な理由






希望の党への合流を決めた民進党の一部議員が、政治信条をもとに選別されたことから、にわかに「リベラル」「保守」という対立軸が注目を集めている。しかし、この二つの立ち位置の違いを正確に理解し、説明できる人はどれくらいいるのだろうか。レッテルを貼り分けられるほど、議員たちの立ち位置はハッキリしたものなのか。『リベラルという病』(新潮新書)の著者、山口真由さんに聞いた。
「(リベラル派は)排除いたします」と言って薄笑いを浮かべたあのあたりから、小池百合子・東京都知事の勢いは失速し始めたという見方がある。そんな空気を感じ取ったのか、最近の小池氏は、会見のたびに「寛容」「大きな心」などとくり返し、お茶を濁そうとしているようにも見える。

さて、先ごろリベラルという病を上梓したこともあり、「現代ビジネス」編集部から、小池氏はなぜこれほどリベラル排除にこだわるのか書いてほしいとの依頼を受けた。

結論から言えば、そのような問いは「二重に」意味がないと、私は思うのだ。ただ、意味がないことを意味がないと整理しておくことに意義があろうという、まどろっこしい理屈を立てて、本稿を書き始めることにしよう。

二重に意味がないとした理由の第一は、そもそも日本に「リベラル」なんてないと思うから。第二に、小池氏にリベラルを排除するほどの強い政治信条があるとは思えないから。要するに、「空虚な概念 vs. 空っぽな信条」なのだから、そこには排除も寛容もないでしょう、と。

言葉だけ輸入された、中身のない「リベラル」


民進党幹事長代行の辻元清美氏は、希望の党に公認申請するかどうか問われ、「私はリベラルの力と重要性を信じています。ですから、私は行きません」と答えた。多くの方が、辻本氏の言う「リベラル」っていったい何、と疑問を抱いたことだろう。

憲法改正に反対すること?原発再稼働に反対すること?もしそれがリベラルということなら、その根底にある哲学は、戦争に反対する平和主義だろうか?

太平洋戦争の敗戦国という重い十字架を背負った日本では、戦争と平和へのスタンスが、「保守」と「革新」を分ける大きな軸になってきた。安保闘争しかり。だが、その後「リベラル」という言葉を輸入したことで、日本のイデオロギーは混乱する。

きわめて広い意味を持つ「リベラル」という言葉だが、アメリカの現代政治においては、ニューディールから現在の民主党へと続く一つの系譜を指す。ここで大まかにその流れを解説しておきたい。

世界恐慌の渦中でも、政府は市場に介入しないとの方針を取ったフーヴァー大統領は、生活が立ちゆかなくなったアメリカ国民の怨嗟を一身に集め、退陣を余儀なくされた。続いて大統領に就任したルーズベルトは、政府の公的支出によって需要を下支えし、雇用やビジネスの機会を生み出そうとしてニューディール政策を推し進めた。

フーヴァー大統領(左)とルーズベルト大統領
景気の波さえ政府によってコントロールしようとする「大きな政府」論は、経済は市場によってしか調整されないという自由放任の「小さな政府」論と対置され、前者はリベラル、後者は保守として分断される大きな軸となっていく。

そして、そこにアメリカの「神話」が重ねられる。黒人に対して非人道的な扱いをした歴史を深く恥じた知性派は、「人種の平等」を高く掲げた。少数者への共感は、やがて女性やLGBTへと広げられ、それがリベラルを支える大義を生んだ。「多様性への寛容」のため、政府は格差を是正して少数者にも均等に機会を与える必要があるという考え方から、「大きな政府」論が正当化されたのである。

このリベラルの発想は、いかにも「平和主義」につながりそうだが、実は真逆だったりする。人道主義という大義の御旗を振りかざすがゆえに、それを解さない野蛮な連中は武力によってその性根を改めてやろうというのが、リベラルの系譜を受け継ぐ民主党の伝統的な考え方なのだ。

実際、1990年代に民主党のクリントン大統領は、北朝鮮の核施設への空爆を実行寸前に至らせる強硬姿勢を見せている。それに比べ、保守の系譜にある共和党は、孤高のカウボーイよろしく、ヨーロッパの戦争にも干渉しない孤立主義を貫いてきたのだった。

アメリカのリベラルは、日本と真逆の立場


ここまで述べてきたリベラルと保守の真髄には、人間をめぐる考え方の違いがある。

リベラルは「人間の理性」を絶対的に信じる。経済不況や格差は政府の積極的な介入によって解決し、野蛮な帝国は軍事介入によって折伏する。そうやって理性的な人間がコントロールできる領域を広げれば、多様な人間が共存できる理想的な社会ができ上がる。こうした一種の理想主義は、自然を耕し、従えるという発想につながる。

対する保守は、人間に対する深い懐疑がその源にある。荒野の開拓者を原風景とする彼らにとって、大いなる自然の前に人間はあまりにちっぽけだった。だから、彼らは自然を支配するなどというおこがましい発想を捨て、政府の介入は最小限にし、市場は自由競争に委ねようと考える。

そんなわけで、アメリカのリベラルは、憲法改正反対や原発再稼働反対を主張する日本のリベラルとは、真逆の立場をとる。

リベラル派の判事は、時代に合わなくなった憲法を解釈によって変更しようとするのが常だ。「解釈改憲は許されない!」と批判するのは、アメリカではなんと保守派の判事である。また、人間が自然をコントロールすべきとの発想から、アメリカのリベラルは原子力発電を人類の輝かしい到達点と考えている。

一方、日本では、戦後の「保守」「革新」という対立軸を離れ、「リベラル」の中身を定義しないまま言葉だけ輸入したために、混乱が起きた。今日に至るも、リベラルに分類される議員たちが「安倍憎し」以上の何を国民に伝えたいのか、ちっとも見えてこない。

公平のために付言しておくと、今日の事態を招いたのは、保守の側にも責任がある。内閣官房長官時代の安倍晋三氏が記した『美しい国へ』(文芸春秋、2006年)というきわめて評判の悪い本の中で、彼はドラマ「大草原の小さな家」を「古き良き時代のアメリカの理想の家族のイメージ」として、伝統的な家族の価値への回帰を目指したレーガン大統領の政策に同調している。

だが、安倍首相がアメリカの共和党と同じ「保守」思想を持っていると考えるのは、誤解だ。確かに、伝統を重んじるのが保守の立場だが、守るべき伝統が日本とアメリカではまったく異なることを忘れてはならない。アメリカの保守は、解釈改憲を容認しないし、原発も推進しない。

結局、日本では、リベラルも保守も、自らを定義する言葉の意味すらわかっていないというのが現実なのだ。

小池氏が目指すのは「私が輝く日本!」

さて、多少ややこしい話が長くなってしまったが、話を戻そう。

小池氏が自らと政策を異にする勢力を「排除」したこと自体は、別に批判されることでもない。政策を実現するために政党を作るならば、異なる政策を掲げる者と一緒に結党するほうがおかしい。安倍政権に「NO」と言うためだけに寄せ集まった、政策の一致を見ない野合の衆をもって「多様性のある集団」と主張したいなら、話は別だけれど。

小池都知事を囲む、希望の党の細野豪志氏(左)と若狭勝氏 
政策が一致する者どうしで党を作りたいという正論を掲げる小池氏が、それでも批判されるのは、この人が政治的信条を持たない“カメレオン”なのだと、なんとなくみんなにわかってきてしまったからだろう。

「小池氏は、政策を異にする『リベラル』を排除したかったわけじゃなく、人気のない民進党をそのまま抱え込むと、希望の党が失速すると思ったからじゃないの?」「首相経験者とか自分よりも格上の目の上のタンコブが入り込むのを嫌っただけじゃないの?」という具合に。

都政を牛耳る人相の悪いオジサンを「都政のドン」呼ばわりし、そこに切り込む勇敢な女性として「改革勢力」のイメージを売り物にした小池氏は、アメリカのリベラルのキーワードである「ダイバーシティ(多様性)」を謳うものの、第一次安倍政権で防衛大臣を務めたことからもわかるように、安全保障については安倍首相と相違ない見解を持つ、日本で言うところの「保守」だ。

大衆にウケると思えば「改革者」になり、ときには「保守政治家」に舞い戻る。彼女の中心にあるのは政治信条ではなく、極端な自己中心性ではないだろうか。

都民ファーストの会の国政進出を進めようとした「百合子一筋」若狭勝衆院議員の面目を、「リセット」のひと言でものの見事につぶし(←まあ、若狭氏はそもそも無能だとの批判もあるが)、希望の党に合流すれば民進党候補者がまるごと公認を得られるという前原氏の期待をさらりと裏切る(←まあ、前原氏のお人好しな期待が甘かったといえばそれまでだが)。安倍首相への対決姿勢を明確にしたかと思えば、いつの間にやら自民党との連立も考えられるという。

前原誠司元外相の見立てでは、希望の党と「合流」するはずだったが…… 
「初の女性首相」という自らの進路は何よりも明確なのに、日本が進むべき将来の方向性は描けない。そんな小池氏からは、「日本をどうしたい」より「私はこうなりたい」しか見えてこない。つまり、「私が輝く日本!」ということか。

「朝からメディアの皆さん、私の発言ばかりを報道して」などと満足げに微笑む小池氏を見ていると、残念ながら、この人の芯にあるのは「私を見て!」という強い欲求だけだと思わざるを得ない。

都民ファーストの会の議員にメディア発言を控えさせるのも、若狭氏や細野豪志氏にメディアへの出演を自粛せよというのも、「私より目立つな」という暗黙の指示ではないか。結局、都民ファーストの会の代表に据えたのも、自分に決して歯向かわない、自分より決して目立たない、自らの元秘書なわけでしょう?

そういう意味で、元滋賀県知事の嘉田由紀子氏と小池氏はよく似た人種だ。嘉田氏が希望の党の公認を受けられなかったときには「やっぱり」と思った。「同族嫌悪」、目立ちたがり屋は目立ちたがり屋が嫌いなのだ。都民ファーストの会から音喜多駿都議が離脱したのも、どう言葉を飾ろうと、「私を見て!」と「僕の声を聴いて!」の対立に相違ない。

橋下徹氏には思想があった


「ポピュリズム」と批判されようとも、橋下徹氏は少し違ったのではないか。だからこそ、大阪維新の会が日本維新の会として国政進出するときには、小池氏に寄せられているような批判が起こらなかったのだと思われる。

橋下氏も確かに目立ちたがり屋ではあろうが、彼には思想があった。

大阪府知事時代の2008年、私学への助成金28億円を打ち切る財政再建策を打ち出した際、高校生12人から猛抗議を受けた。が、橋下氏は、私立ではなく公立校を選ぶ道もあると告げ、公立校には学力が足りないと泣きつかれても、「自己責任」と取りつく島もなかった。大人気ない対応だとも言えようが、子供相手にすら曲げられない確固とした信念があったというのは、いささか持ち上げ過ぎだろうか。

アメリカの保守と重なる「小さな政府」論を明確に打ち出した橋下氏に対し、改革勢力、リベラルにも保守にも変わる小池氏からは、理念が見えてこない。結局のところ、そこには政治信条などないのだろう。

とはいえ、私は、小池氏をある意味あっぱれと思っている。誰だって目立ちたい政治家の中で、埋没しない手腕と度胸はさすがだ。本稿の最初に「日本にリベラルなんてない」と書いたが、小池氏の「私を見て!」という生々しくも力強い野心は、「日本のリベラル」という空虚な概念、妄想をこの際打ち砕いてくれるのではないかと、私は変な期待を抱いている。
『リベラルという病』書影欧米のリベラリズムを奇妙な形で輸入・加工し続けてきた日本的リベラルの矛盾と限界を解き明かす!(amazonはこちらから)
【私の論評】小池氏は、政策論争の前に簡明な言葉遣いをすべき(゚д゚)!

小池百合子氏の話は、とにかくカタカナが多いという印象が強いです。「アウフヘーベン」「AI」「ワイズ・スペンディング」「チャーターメンバー」「リセット」と最近でもかなり多いです。

知事選から知事になってからもかなり使っています。

「ダイバーシティー」「サスティナブル」「ソーシャルファーム」「イノベーション」「メルクマール」「フィンテック」「IoT」「スプリングボード」「ブランディング」「レガシー」。

小池氏は、エジプト・カイロ大卒で語学堪能で知られるますが、哲学用語など難解な言葉も用いるため有権者に意図が伝わっているとは言い切れず、識者からは「誠実さに欠ける」との指摘も出ています。

これだけ、外来語を用いれば、確かに有権者はついていけいなかもしれません。そうして、小池氏の本質は、ブログ冒頭の記事で述べられているように単なる「目立ちやがり屋」なのかもしれません。



どこかの記事で読みしたが、一般的に横文字を使いたがる人間は”頭が良くない”って
批判されていました。

なにしろ聞き手の気持ちや、聞く側の知識等を考慮せずに自慰行為のように自己満足目的に使っているとしか思えないです。

それに、私は英語を読み、書き、話せますが、普段日本でする会話はすべて横文字を要れずに会話等を進めるようにしてます。

私は「それ、ファジー(あいまい)だね」 という言葉を聞くことがあります。しかし、たいていの場合、英語でいうなら「unclear」とか「vague」 というべきところをこのように言っていることを耳にすることが多いです。これでは、自己満足で「それ、ファジーだね」 と言っているようにしか聞こえません。

小池氏に限らずモチベーション、コンセンサス、イニシアチブなど、日本語でも十分用が足りる言葉のカタカナ語や、ブロードバンド、PTSDなどの一般社会ではあまりなじみのない専門用語をやたらと使う人がいます。

こういうタイプは、たいてい身に着けるもののセンスもよく、言葉遣いもていねいで、とても洗練された印象を与えます。

ただし、日本語にない概念を表わす場合は仕方ありませんが、むやみにこれらの言葉を使いたがる人は、自信に満ちた外見の裏返しとして、意外なコンプレックスを抱えていることが少なくありません。

また不安や劣等感を強く持ちつつも、それをあからさまに見せるのを避けたがる傾向にあります。

欧米コンプレックス、専門コンプレックスの強い日本人には、確かにカタカナ語、専門用語は格好よく聞こえ、使っているだけで、外国通、業界通の人に見えてしまうのでしょう。

それだけに、何らかのコンプレックスがある場合、カタカナ言葉や専門用語は重宝なことこの上ありません。

使っている人にとっては無意識かもしれませんが、これらの言葉をコンプレックスを覆い隠すためのバリヤーにすることで、自分自身を大きなものに見せることができるのです。

同じような例としてあげられるのは、「〇〇博士がいっている」、「作家の〇〇が“△△”の中で書いている」などという有名人の言葉の引用です。

やはり、その有名人の持つ権威を借りて、自分を大きく見せようという意識が隠れています。

外国生活が長い人が多用する場合、自分の知識を誇示しようとしているケースもありますが、一方、質問をされたくないときや、聞き手を煙に巻きたいときに使う人もいます。
あまり信用はできないでしょう。

本人は格好よく使っているつもりのカタカナ語や専門用語を、よくわからないといって嫌がる人も多いものです。

やはり、誰にでもわかる、簡単な表現を使った方がコミュニケーションも円滑にいくでしょう。

さて、ブログ冒頭の記事では、「ポピュリズム」という言葉が使われています。これは、現在では「大衆迎合主義」という意味でつかわれています。しかし、本来の意味はそうではなかったようです。これについては、以下の動画をご覧下さい。


この動画の文字起こしを以下に掲載します。

【ニューディール連合とは (3:00頃~)】
フランクリン・ルーズベルトが社会主義政策を大規模に推し進め、労働組合・バラマキ利権者・リベラル派官僚から成る選挙機関を作り政界を乗っ取った。これをニューディール連合という。このニューディール連合から政治の主導権を取り戻すのがアメリカの保守の課題です。
ニューディール連合を日本的に言うと「戦後レジーム」となる。ニューディーラーの中でも極めて落ちこぼれで、アメリカ本国で通用しないので極東アジアに左遷されたGHQなる組織によって作られたのが戦後の日本国憲法であり日本的左翼です。
【ポピュリズムとは(5:55頃~)】
日本で一般的に認知されているポピュリズムは「大衆迎合主義」と訳され批判の対象とされる。しかしこの解釈はアメリカの左翼によって作られたものであり、保守派の定義ではもともとは中産階級の代弁者という意味。
「ポピュリズム」の対義語は「エスタブリッシュメント」です。
エスタブリッシュメントは支配階級・上流階級の意味であるが、分かりやすく日本で例えるなら朝日新聞のような自称インテリ、朝日岩波文化人を指します。
これに対してまともな国民の意見を代弁する少数の政治家を、左翼が「ポピュリスト」とレッテル貼りをしたのです。
ポピュリズム の語源を探っていくと、確かに元々の意味はこのようなものだったようですが、米国左翼がこのように言葉の意味を変えてしまったのです。

現在のこの言葉の「中産階級の代弁者」という意味は、米国内では死語となっています。

言葉にはおうおうにしてこのような問題があります。だから、本当に重要な話をするときには、誰もが使っている基本的な単語を用いて話すべきです。

米国では、元々多人種の国家ですから、このような言葉の変遷や行き違いがあるので、政治家は誤解などをさけるために、非常に単純明快な言葉をつかう事が多いです。

その典型例が大統領の就任演説です。歴代の大統領が平易な言葉で就任演説を行っています。皆さんの記憶に新しい、今年1月のトランプ大統領の就任演説もそうでした。

ビジネスの世界でもそうです。特に国際ビジネスの世界はそうです。

国際ビジネスの世界で求められる「英語の運用力」とは、状況に的確な単語やフレーズを使って、相手に伝わるように話すことができる発信力ではないかと思います。

世界では、英語を母語としない人が英語を母語とする人)よりも多いのが現状です。このような状況で求められる英語は、plain English(わかりやすい英語)です。

シンプルで、曖昧さは残さずに、はっきりと伝わる英語を話すことが大切になります。

さまざまな言語を母語とする人達の間でのコミュニケーションでは、複雑で高度な英語表現は必要なく、かえって邪魔なんです。

日本でも、やはり日本国内の不特定多数の多くの人に語りかけるには、簡明な語りかけが重要です。

このようなことを考えると、小池百合子氏は政策論争の前に、簡明な言葉遣いをすべきです。

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小池都知事率いる「希望の党」に全く希望が見えない理由―【私の論評】小池氏と希望の党は真摯さに欠けていないか?

2017年9月29日金曜日

小池都知事率いる「希望の党」に全く希望が見えない理由―【私の論評】小池氏と希望の党は真摯さに欠けていないか?

小池都知事率いる「希望の党」に全く希望が見えない理由

希望の党の立ち上げ
安倍総理が衆議院の解散を表明するやいなや、25日、小池百合子東京都知事が新党「希望の党」の立ち上げを発表した。そして、驚くことに、野党第一党である民進党が希望の党への事実上の合流を一方的に決めた。有権者にとって新しい選択肢が増えることは望ましいことかもしれないが、「改革保守」という抽象的な理念と「日本をリセットする」というふわふわとした目的を掲げ、現職議員が寄せ集まった新党に、果たして希望はあるのか。(政治ジャーナリスト 黒瀬徹一)

よくわからない「国政への関与」の目的
小池都知事は何がしたいのか

 日本をリセットする――。
「希望の党」立ち上げの際に小池都知事の言葉を聞いた時、《どこかで聞いたことがあるな》と感じた。かつて大阪維新の会が国政に進出する際に掲げた「グレート・リセット」という言葉に酷似している。
 リセットだけではない。その他にも「しがらみのない政治」など、どこかで聞いたことのある“使い古された言葉”のオンパレードだった。
 正直、小池都知事が何をしたいのか、よくわからない。何のために国政に関与するのか。
 国政に勢力を持つことは「都政運営にもプラス」という意見もあるが、国政で与党になるならともかく、少数政党を国政に保持したところで、あまり意味がない。日本維新の会の歴史から見ても明らかなように、地方政治が国政の政局に左右されてしまい、むしろ都政の運営が困難になるだろう。
 例えば、2020年に控える東京オリンピック・パラリンピックの準備を円滑に進めるためには、政府との協調は欠かせない。新党を立ち上げたところで、国政で勝てる議員の数は限定的である。下手に少数政党を作っても、自民党からの“裏切り者”と一緒に選挙をかき乱せば、当然自民党・公明党との間に禍根を残してしまうだろう。
 都議会でも小池都知事の動きへの苦言が相次いだ。それはそうだ。都議選の後、「知事職に専念する」として都民ファーストの会の代表を退いたにもかかわらず、舌の根も乾かぬうちに、今度は「国政政党の代表をやる」と言い出したのだから。
 端から見れば、単に小池人気を背景にした政治屋たちの「議席とりゲーム」にしか見えない。もしくは、「実は、現職の衆議院議員の中に倒したい敵がいる」など、表に出せない裏目的でもあるのだろうか、と勘ぐってしまう。
 正直、筆者は希望の党の設立、そして民進党との合流に全く希望を見いだしていない。その理由を論じたい。

改革保守とは何か
政治の世界に蔓延する抽象ワード

 小池都知事の会見では抽象ワードばかりが並んでいた。例えば、希望の党は「改革保守」らしい。
 あたかも一般的な言葉のように普通な顔でシレッと説明していたが、「改革保守」とは何なのか。読者の中で、きちんと説明できる方がどれだけおられるだろう。もしおられたら、TwitterやSNS上ででも、ぜひ教えていただきたい。
 そもそも、日本を「リセット」するのに「保守」とは言葉そのものに矛盾を感じる。
 保守という政治概念は、日本においては、戦後、自由民主党が結党される時に確立したと考えている。冷戦時代の1955年、分裂していた社会党が統一されたことに危機感を覚えた自由党と民主党が合併した、いわゆる「保守合同」である。ここで言う保守とは、あくまでも社会主義・共産主義が輝いていた(脅威として君臨していた)時代において、資本主義・自由主義体制を保守しようという意味の言葉であって、今の時代にはもはや死語と言っても過言ではないだろう。
 改革という言葉にしても、政治家というものは皆一様に「我こそが改革派」と謳うものだ。「我こそが既得権益」と名乗る人はいない。筆者はとある政党の候補者が「既得権益と戦う!」と駅前で演説しているのを聞いて、素朴に「既得権益って具体的に誰ですか?」と尋ねてみたことがある。その候補者は返答に困り、「いや…既得権益は、今の世の中で得してる人です」と抽象的なことしか答えなかった。
 新党が掲げる具体的な政策は「情報公開」くらい。しかし、築地・豊洲問題の決着に関する情報公開は、関係者が満足するレベルのものだったろうか。都知事選や都議選で掲げた具体的な大義と比べて、今回の国政進出における意義は全く見えない。

東京10区の仁義なき戦い
選挙調整に注目

 ところで、希望の党設立まで新党を模索していた若狭勝衆議院議員はどういった人物なのか。
 若狭氏は、元検察官・弁護士の肩書きを持つ。2014年12月の衆院選では選挙区は持たず、比例単独で初当選した。その後、小池百合子都知事が東京都知事選挙へ出馬するため衆議院議員を辞任したことに伴って、空席となった東京10区で実施された補欠選挙で自由民主党から出馬し、当選した。
 したがって、議員歴は3年弱。東京10区での活動歴は1年にも及ばない。だから、知名度も低い。多くの方が「この人、誰?」と思ったのは自然の反応なのだ。
 自由民主党からすれば、小池都知事に裏切られ、空席を埋めるために公認した若狭衆議院議員にも裏切られたことになる。東京10区は元小池都知事の選挙区だから、小池人気にあやかった方が選挙に強いという判断かもしれない。
 だが、ここで自民党が“刺客”を放てば、正直、勝負はわからない。前回の補欠選挙で若狭氏が獲得した票は7万5755票。一方、民進党は4万7141票を得ており、過去2回の衆院選を見てもこの票数は安定している。民進党が解党的に希望の党への合流を決定したことで、有権者がどう判断するかが全く予想できなくなったため、東京10区は激戦になるだろう。
 去年自民党で当選したばかりの人が、今度は違う方の政党で出馬する。有権者はそのことをどれだけ許容できるだろうか。

政治屋たちの希望の党
自民党を倒す本気さは伝わるが…

 次に、若狭議員以外の新党に合流する議員の顔ぶれはどうなのだろうか。
 まず、小池都知事の威光の恩恵を強く受ける東京から見てみよう。
 ・東京3区(品川区、大田区、島嶼部)の松原仁衆議院議員。
 ・東京9区(練馬区)の木内孝胤衆議院議員。
 ・東京21区(八王子市、立川市、日野市、国立市、多摩市の一部、稲城市の一部)の長島昭久衆議院議員。
 この3人の議員の共通項は、元民進党という以外に、皆、小選挙区では勝てていない、ということが挙げられる。木内議員に至ってはほぼダブルスコアで敗退している。
 確かに、東京都議会議員選挙で都民ファーストの会は大勝した。しかし、だからと言って、「民進党」から「希望の党」へ看板を変えたからと言って、国政における支持が集まるほど話は単純ではない。
 例えば、東京3区であれば、自民党の候補は石原宏高衆議院議員だ。知名度も高い石原議員を「希望の党」という看板だけで倒せると思うのは甘い考えだろう。
 さらに、東京以外の選挙区となると、比例枠狙いの“政党サーファー”ばかり。埼玉県の行田邦子参議院議員は民主党からみどりの風を経てみんなの党へ渡った後、日本を元気にする会を経て希望の党へやってきた。
 日本のこころの中山恭子参議院議員は、元は自由民主党から比例で参議院議員に当選したが、夫の中山成彬が自民党から離党することを決めると、夫にくっついて自らも自民党を離党し、たちあがれ日本へ合流した。その後は、太陽の党、日本維新の会、次世代の党、日本のこころを経て希望の党へやってきた。
 行田議員と中山議員がよくわからない「改革保守」の旗印の下、並んで座っていること自体、筆者には全く理解できない。もはや政治信条は関係ないとしか思えない。
「なんとしても自民党を倒したい」という本気さは確かに伝わってくる。そのための選挙戦略としては取り得る中では、“最強の戦略”かもしれない。
 ただ、なんのために自民党を倒すのか、自民党の政策の何をどう批判しているのか、がさっぱりわからない。
「改革保守」とか「しがらみ脱却」やら、抽象的なキャッチコピーではなく、具体的な政策議論がほしい。政治屋にとっての希望は、有権者にとっては絶望でしかない。
 選挙における主役は有権者だ。
 誰の希望を叶える党なのか、具体的なビジョンを示してもらいたい。
【私の論評】小池氏と希望の党は真摯さに欠けていないか?

都民が小池知事に期待したことは都政に専念し、改革を強力に推進することであったと思います。しかし、今回の小池氏は、都政を踏み台にして他の狙いがあるとしか思えません。他の狙いとは、はっきりいえば、小池氏が日本初の女性総理大臣を目指すことです。

無論総理大臣などなろうと思っても、その時の運などもありなかなかなれるものではありません。しかし、小池氏としては、その可能性を少しでも高めたいと考えているのでしょう。こう考えると、小池氏の不可解な行動も説明がつくというものです。

小池新党の設立を受けて、都議会公明党は、小池氏が特別顧問を務める「都民ファーストの会」との連携解消に向けて検討に入っています。

連携が解消されれば、小池氏が都知事に残っても、都民ファーストの会だけでは都議会の過半数に足らず、都政は停滞することになります。そうなると、また、『崖から飛び降りる』『衆院選に出馬する』と電撃会見する可能性もなきにしもあらずです。

これもありそうなことです。小池知事特有の、電撃に目眩ましをされないように、特に政治家はこの可能性を織り込み済みにすべきものと思います。そうすれば、振り回されないですみます。自民党は、これをすでに織り込み済みと考えているようです。

選挙戦では、北朝鮮情勢に対応する安倍晋三首相らに代わり、これまで以上に積極的に全国遊説を続ける立場となった小泉進次郎氏は新聞のインタビューに応えて「選挙は弱気になってはいけない。小池さんが出て来るかと、びくびくしていたら(自民党は)終わりだ」と明言しています。

小泉進次郎氏
小池氏が、知事としての「公務」を相次いでキャンセルしている-という報道もあります。

加えて、小池新党周辺から、後継の都知事候補として、橋下徹・前大阪市長や、東国原英夫・前宮崎県知事らの名前が浮上しています。

これに対し、橋下氏は28日、自身のツイッターに「都知事選にも出ないし、沖縄知事選にも出ない」と書き込みました。

東国原氏は27日、TBS系「ゴゴスマ~GOGO!Smile!~」に生出演した際、後継情報について問われ、「この話やめようよ」「好きだよね、そういうの」と否定も肯定もしませんでした。

それにしても、もし、本当に小池氏が東京都知事を辞めて、衆院選に出馬したとしたら、これは都民そうして、有権者もこれは許さないでしょう。私は、さすがに小池氏はこのようなことはしないと思います。そうなれば、彼女の政治生命は絶たれてしまうと思います。

これは、マネジメントの原則に照らし合わせても明らかです。

マネジメントは成果だけでは不十分 “正統性”が必要であると語っています。
社会においてリーダー的な階層にあるということは、本来の機能を果たすだけではすまないということである。成果をあげるだけでは不十分である。正統性が要求される。社会から、正統なものとしてその存在を是認されなければならない。(『マネジメント──基本と原則[エッセンシャル版]』)
企業、政府機関、非営利組織など、あらゆる組織にとって、本来の機能とは、社会のニーズを事業上の機会に転換することである。つまり、市場と個人のニーズ、消費者と従業員のニーズを予期し、識別し、満足させることです。

さらに具体的にいうならば、それぞれの本業において最高の財・サービスを生み出し、そこに働く人たちに対し、生計の資にとどまらず、社会的な絆、位置、役割を与えることです。

しかしドラッカーは、これらのものは、それぞれの組織にとって存在の理由ではあっても、活動を遂行するうえで必要とされる権限の根拠とはなりえないとします。神の子とはいえなくとも、少なくともどなたかのお子さんである貴重な存在たる人間に対し、ああせい、こうせいと言いえるだけの権限は与えないといいます。

ここにおいて、存在の理由に加えて必要とされるものが、正統性である。「正統性とは曖昧なコンセプトである。厳密に定義することはできない。しかし、それは決定的に重要である」と語っています。

かつて権限は、腕力と血統を根拠として行使されました。近くは、投票と試験と所有権を根拠として行使されています。政治家の権限は、投票すなわち、選挙を根拠として行使されています。

しかしドラッカーは、マネジメントがその権限を行使するには、これらのものでは不足だといいます。

社会と個人のニーズの充足において成果を上げることさえ、権限に正統性は与えません。一応、説明はしてくれます。だが、それだけでは不足です。腹の底から納得はされません。

マネジメントの権限が認知されるには、所有権を超えた正統性、すなわち組織なるものの特質、すなわち人間の特質に基づく正統性が必要とされのです。
そのような正統性の根拠は一つしかない。すなわち、人の強みを生かすことである。これが組織なるものの特質である。したがって、マネジメントの権限の基盤となるものである。(『マネジメント[エッセンシャル版]』)
ドラッカーは、営利企業や非営利企業などの組織を想定して、このようなことを語っています。しかし、東京都や政府などもマネジメントの基本は、同じです。さらに、都、国も一つの組織とみなすこともできます。

やはり、政府としての正当性の根拠も、人の強みを生かすことであると思います。日本という国の国柄、国民の強みを生かす政策を打ち出し、その政策の目的を明らかにし、さらに当面の目標も設定し、目標の達成度合いも国民に開示すべきです。そのような行動をする政治家や政府のみが、国民から正統的なものと腹の底から認められると思います。

ドラッカーは、マネジメント(トップ・ミドル・ロワー)の正当性の根拠は、人の強みを生かすことであるとしています。

人の強みにと弱みについて、ドラッカーは以下のように語っています。
いかなる教養を有し、マネジメントについていかなる教育を受けていようとも、経営者にとって決定的に重要なものは、教育やスキルではない。真摯さである。(『現代の経営』)

経営者にとってできなければならないことは、そのほとんどが学ぶことができます。しかし、学ぶことのできない資質、後天的に獲得することのできない資質、初めから身につけていなければならない資質があります。それは、才能ではない。真摯さです。

これは、知事や総理大臣、そうして政治家にも求められる資質です。

経営者そうして、総理大臣や知事、政治家は人という特殊な資源とともに仕事をします。人は共に働く者に特別の資質を要求します。

トップが本気であることを示す決定打は、人事において断固人格的な真摯さを評価することです。リーダーシップが発揮されるのは人格においてであり、人の範となるのも人格においてだからです。

ドラッカーは、真摯さは習得できないと言います。仕事に就いたときに持っていなければ、あとで身につけることはできないといいます。

ごまかしはきかないのです。一緒に働けば、特に部下には、その人間が真摯であるかどうかは数週間でわかります。

部下たちは、無能、無知、頼りなさ、不作法などほとんどのことを許します。しかし、真摯さの欠如は許しません。そのような人間を選ぶ者を許しません。
人の強みではなく弱みに焦点を合わせる者をマネジメントの地位につけてはならない。人のできることは何も見ず、できないことはすべて知っているという者は、組織の文化を損なう。(『現代の経営』)
やはり、政治家に必要な資質も真摯さであり、さらに人の強みに焦点を合わせるものでなくてはならないということです。

なお、真摯さとは非常に曖昧にも聞こえますが、これについては、その定義などをこのブログにも以前掲載したことがあります。その記事のリンクを以下に掲載します。この言葉の意味はこの記事を参照し下さい。
山尾氏、男女関係ウソばれた!文春第2砲で「証拠」写真 「1人で宿泊」「政策の打ち合わせ」に反論―【私の論評】組織人は真摯さの欠如と、そのような人物を選ぶマネジメントだけは許さない(゚д゚)!
山尾氏は「ホテルに1人で泊まった」と主張したが…
詳細は、この記事をご覧いただくものとして、真摯さとは、英語のintegrityを和訳した言葉です。以下にintegrityに関する解説のみ引用します。

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これだけ重要なintegrityとは何なのでしょうか。ドラッカー氏でさえ「定義が難しい」と自身の書籍で書いています。ただしドラッカー氏は「真摯さの欠如は、定義が難しいということはない」とも書いています。ドラッカーが『現代の経営』で挙げている、integrityが欠如した人の例は以下の通りです。
・人の強みではなく、弱みに焦点を合わせる者
・冷笑家
・「何が正しいか」よりも、「だれが正しいか」に関心をもつ者
・人格よりも頭脳を重視する者
・有能な部下を恐れる者
・自らの仕事に高い基準を定めない者
"

さて、以上のようなことから、政治家にも当然のことながら、最初から持っていなければならない資質である「真摯さ」も必要不可欠であると思います。

「希望の党」に参集した、多くの政治家には、この「真摯さ」に欠るものが多いです。なぜなら、彼らの普段の行動をみていれば、良くわかります。彼らのほとんどは"「何が正しいか」よりも、「誰が正しいか」に関心を持っています。

どういうことかといえば、そもそも、「政策論争」=「何が正しいか」よりも「安倍政治を打倒する」=「だれが正しいか(安倍総理は正しくない)」ことにばかり心血を注いでいるからです。

つい最近も、前原氏の発言には、幻滅しました。選挙の公約などをインタビューされて、冒頭に語ったのが、「安倍政治を終わらせる」でした。

本来ならば、「自民党のこのような政策を終わらせ、このような政策に変える」というように、何が正しいかに焦点を置くべきです。

「安倍がー」「安倍がー」と叫んでばかりいたので、彼らのほとんど政治家として、成果をあげられず、結局民進党を解党しなければならなくなったのです。

民進党などの野党議員の中には、「安倍政治を終わらる」と語る者も多いです。しかし、これ自体は、大義でも目的でも、目標でもありません。安倍政治を終わらせるという事自体は本来手段にすぎません。

安倍政治が障害であるというのなら、安倍政治を終わらせて、自分たちの大義にのっとり、具体的な政策を掲げその目的をはっきりさせ、当面の目標を掲げるべきです。目標が定まらなければ、行動もできません。行動しても、成果が上がったのかどうかも確認することすらできません。

彼らは、このようなことばかりを繰り返してきました。これは、とてもじゃないですが、「真摯な」態度とはいえません。

小池知事の場合も、これに似たところがあります。都知事になってから、まだ日が浅いので、特に目立った成果はないのはある程度仕方ないとしても、今後国政に関与してくなら、やはり大義や、目的、当面の目標を明らかにすべきです。

そうでなければ、「真摯さに欠ける」と批判されても仕方ないと思います。

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