2020年10月13日火曜日

学術会議問題 甘利氏「軍事研究抑制声明」に疑問 「日本の研究者は中国の研究に参加するなと言うべきだ」 今井議員とフジ番組でバトル―【私の論評】日本学術会議の人事問題の本質は「第二次中央省庁再編」への布石(゚д゚)!

 学術会議問題 甘利氏「軍事研究抑制声明」に疑問 「日本の研究者は中国の研究に参加するなと言うべきだ」 今井議員とフジ番組でバトル

学術会議任命見送り問題

日曜報道 THE PRIMEに出演した甘利氏(一番左)

 自民党の甘利明税制調査会長が、11日のフジテレビ番組「日曜報道 THE PRIME」に出演し、菅義偉首相が新会員候補6人の任命を見送った「日本学術会議」が日本の防衛研究にブレーキをかけてきたことを問題視した。これに対し、立憲民主党の今井雅人衆院議員は反論した。

 「学術会議は、防衛省の研究に対し(学者は)参加すべきではないというが、いまや軍事と民間のデュアルース(両用)で、境目はなくなってきている。インターネットも、もとは軍事研究から始まったものだ」

 甘利氏はこう語り、学術会議が2017年、軍事目的の研究に反対する立場から発表した「軍事的安全保障研究に関する声明」を指摘した。

 そのうえで、甘利氏は「中国が学者らを好待遇で引っ張り、研究や知識を全部、吸い取ろうとするのを、世界が警戒している。科学技術に関するある公的機関からは『日本の研究者も十数人参加している』とはっきりと言われた。学術会議は、中国の科学技術協会と相互協力の覚書を結んでいるが、中国は『軍民融合』政策を取る。学術会議が防衛省の研究に『参加すべきではない』とするなら、『(日本の研究者は中国の研究に)参加すべきではない』と言うべきだ」と強調した。

 一方、今井議員は「学術会議は、戦争に科学を使われたことの反省から成り立っている。その精神は尊重すべきで、(軍事研究には)抑制的にならなければいけない」といい、「(任命に関する国会答弁の)解釈を変えるなら、きちっと手続きを踏まなきゃいけない」と指摘した。

 これに、甘利氏は「任命責任はあるのに、選ぶ権限はないなんてあり得ない」と強調した。

【私の論評】日本学術会議の人事問題の本質は「第二次中央省庁再編」への布石(゚д゚)!

日本学術会議は15年に、中国科学技術協会と協力覚書を署名しています。つまり中国の軍事発展のために海外の専門家を呼び寄せる『千人計画』には協力しているとみて良いです。日本国内では軍事研究を禁じておきながら、中国の軍事研究には協力するという、非常に倒錯した組織です。

米国では「千人計画」に参加者が逮捕されている

左派野党やメディアは、任命されなかった6人が「安全保障関連法や特定秘密保護法などに反対した人物」として、あたかも菅首相が意にそぐわない人物を排除したとの批判を展開しています。

しかし、任命された99人の中にも安全保障関連法や特定秘密保護法に反対していた学者は大勢います。6人の任命見送りは、別の理由と考えるべきです。これを詳細に発表すると、この六人の名誉を著しく毀損することになりかねません。

そのようなことは、人事を実施する側からは絶対にできません。これは、公表しないのが常識です。これは、多くの組織を見ていれば、誰にでも理解できると思います。

マスコミなどでも、当然のことながら実施している入社試験で合否の理由など絶対に言いません。無論、普通の企業でも、人事の内容は公表しません。これは、どのような組織の人事にもあてはまることです。学術会議の人事だけが特別であるとの認識は間違いです。

今回の騒動で、国民は日本学術会議がどのような組織であるかを理解したでしょう。当然、民営化を含めた行政改革の対象です。

ドラッカー

経営学大家ドラッカー氏は人事について以下のように述べています。

あらゆる組織において人事は、その組織のマネジメントがどの程度有能か、どのような価値観を持っているか、仕事にどれだけ真剣に取り組んでいるかを白日の下にさらします。人事とその基準、さらにはその動機まで、いかに隠そうとしても知られることになります。それは際立って明らかです。

人は、他の者がどのように報われるかを見て、自らの態度と行動を決めます。仕事よりも追従のうまい者が昇進するのであれば、組織そのものが、業績の上がらない追従の世界となります。これまた、日本学術会議はその典型です。

公正な人事のために全力を尽くさないトップマネジメントは、組織の業績を損なうリスクを冒しているだけではない。組織そのものへの敬意を損なう危険を冒しています。過去の政府は、日本学術会議の人事に事実上関与しなかったので、時を経るごとに日本学術会議という組織自体が腐敗していったのだと思います。

マネジメントは、人事に時間を取られますし。そうでなければならないです。人事ほど長く影響し、かつ元に戻すことの難しいものはないからです。ところがあらゆる組織において昇進、異動のいずれにせよ、実態はまったくお粗末です。日本学術会議はその典型です。

だがドラッカーは、我慢してはならないと言います。
人事に完全無欠はありえないが、限りなく10割に近づけることはできる。人事こそもっともよく知られた分野だからである。(『チェンジ・リーダーの条件』)
だからこそ、菅総理はあえて6人の任命を見送り、人事に一石を投じたのでしょう。

ドラッカーは人事の手順のついて以下のように語っています。
人事に関する手順は、多くはない。しかも簡単である。仕事の内容を考える、候補者を複数用意する、実績から強みを知る、一緒に働いたことのある者に聞く、仕事の内容を理解させる。(『プロフェッショナルの原点』)
第一は、仕事の内容を徹底的に検討することです。仕事の求めるものが明らかでなくては、人事は失敗して当然です。しかも、同じポストでも、要求される仕事は、時とともに変わっていきます。仕事が変われば、求められる人材も異なるものとなります。

第二は、候補者を複数用意することです。人事において重要なことは、適材適所です。ありがたいことに、人間は多種多様です。したがって、適所に適材を持ってくるには、候補者は複数用意しておかなければならないです。異なる仕事は異なる人材を要求します。

第三は、候補者それぞれの強みを知ることです。それぞれの強みをそれぞれの実績から知らなければならないです。その強みは、仕事が求めているものであるかをチェックします。何事かを成し遂げられるのは、強みによってです。

第四は、一緒に働いたことのある者から、直接話を聞くことです。しかも数人から聞かなければなりません。人は人の評価において客観的にはなれないことを知らなければならないです。それぞれの人が、それぞれの人に、それぞれの印象を持つのです。

第五は、このようにして人事に万全を尽くした後において行なうべきことです。すなわち、本人に仕事の内容を理解させることです。仕事の内容を理解したことを確認することなく、人事の失敗を本人のせいにしてはならないのです。

具体的には、何が求められていると思うかを聞きます。3ヵ月後にはそれを書き出させるのです。新しいポストの要求するものを考えさせないことが、昇進人事の最大の失敗の原因です。ドラッカーは、「新しい仕事が新しいやり方を要求しているということは、ほとんどの者にとって、自明の理ではない」といいます。
追従や立ち回りのうまい者が昇進するのであれば、組織そのものが業績のあがらない追従の世界となる。人事に全力を尽くさないトップは、業績を損なうリスクを冒すだけでなく、組織そのものへの敬意を損なう。(『プロフェッショナルの原点』)
人事とは、これだけ手間がかかり、時間のかかるもので、しかもゆるがせにはできないものです。そもそも、日本学術会議の人事を菅総理が行うなどということは不可能です。今回の6名の任命見送りも、菅総理がいずれかの官僚に条件などを提示したうえで不適任者を選択するように指示をした結果ではないかと思います。

菅総理にとって重要なのは、閣僚人事と、各省庁の幹部官僚の人事です。特に閣僚人事はかなりの時間を割いて実行したでしょう。各省庁の幹部人事に関してもある程度の時間を割いて確認したでしょう。そうして、菅総理にとって、人事に関与するのはこれくらいが限界でしょう。

であれば、そもそも、日本学術会議は政府の機関とするのではなく、政府外の機関とすべきです。政府はもとより、菅総理がありとあらゆることに直接関与することなど、不可能です。もし、菅総理が日本学術会議の人事を実際に行い、その結果6人の不採用を決めているなどと思っている学者がいたとしたら、よほど自信と自意識のかたまりのような人だと思います。そもそも、これは政府の重要な仕事ではありません。

ドラッカー氏は政府の役割を指摘しています。これは、以前のブログにも掲載したことがあります。その記事のリンクを以下に掲載します。
菅政権の政策シナリオを完全予想!改革を実現するために最も必要なこととは?―【私の論評】菅総理の政策は、継続と改革!半端な政治家・官僚・マスコミには理解できない(゚д゚)!

菅総理

詳細は、この記事をご覧いただくものとして、この記事からドラッカーが述べた政府の役割に関する部分のみを引用します。

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政府の役割は、社会のために意味ある決定と方向付けを行うことである。社会のエネルギーを結集することである。問題を浮かびあがらせることである。選択を提示することである。(ドラッカー名著集(7)『断絶の時代』)

この政府の役割をドラッカーは統治と名づけ、実行とは両立しないと喝破しました。「統治と実行を両立させようとすれば、統治の能力が麻痺する。しかも、決定のための機関に実行させても、貧弱な実行しかできない。それらの機関は、実行に焦点を合わせていない。体制がそうなっていない。そもそも関心が薄い」というのです。

しかし、ここで企業の経験が役に立ちます。企業は、これまでほぼ半世紀にわたって、統治と実行の両立に取り組んできました。その結果、両者は分離しなければならないということを知りました。現在の上場企業等は、両者が分離されているのが普通です。たとえば、財務部と経理部は分離されているのが普通です。

そもそも、民間企業では、財務省(統治部門)と国税局(純然たる実行部門)一つの組織であることなどありえません。それだけ、現在の政府の組織は旧態依然のままなのです。

企業において、統治と実行の分離は、トップマネジメントの弱体化を意味するものではありませんでした。その意図は、トップマネジメントを強化することにありました。

実行は現場ごとの目的の下にそれぞれの現場に任せ、トップが決定と方向付けに専念できるようにします。この企業で得られた原則を国に適用するなら、実行の任に当たる者は、政府以外の組織でなければならないことになります。

政府の仕事について、これほど簡単な原則はありません。しかし、これは、これまでの政治理論の下に政府が行ってきた仕事とは大いに異なります。

これまでの理論では、政府は唯一無二の絶対の存在でした。しかも、社会の外の存在でした。ところが、この原則の下においては、政府は社会の中の存在とならなければならないのです。ただし、中心的な存在とならなければならないのです。

おまけに今日では、不得手な実行を政府に任せられるほどの財政的な余裕はありません。時間の余裕も人手の余裕もありません。それは、日本も同じことです。

この300年間、政治理論と社会理論は分離されてきた。しかしここで、この半世紀に組織について学んだことを、政府と社会に適用することになれば、この二つの理論が再び合体する。一方において、企業、大学、病院など非政府の組織が、成果を上げるための機関となる。他方において、政府が、社会の諸目的を決定するための機関となる。そして多様な組織の指揮者となる。(『断絶の時代』)

 政府の役割は、社会のために意味ある決定と方向付けを行うことなのですから、日本でいえば、最終的には各省庁の仕事は政府の外に置かなければならないのです。

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 無論、各省庁にも統治に関わる部分がありますから、それは内閣府などに取り込み、内閣府などは、政府の機関とし、他の省庁実行部分はすべて政府の外に配置すべきなのです。

このような文脈からしても、元々日本学術会議は政府の外に設置すべきなのです。

無論菅総理が、各省庁をすべて政府の外に置こうと考えているかどうかは、わかりません。それに仮に、そう考えていたとしてもすぐにはできることではありません。しかし、現在の政府をいまのままにしておくということは、望ましくないと考えているようではあります。

菅首相は「デジタル庁新設問題」を契機に「第二次中央省庁再編」を考えているようであり、今回の日本学術会議の人事がらみに関することも、その一環であり、前触れであると考えられます。

いずれにしても、まずは政府内の「統治」の部分と「実行」の部分ははっきり分ける方向ですすめるべきでしょう。それができない限り「デジタル庁」を設置しても、無意味です。

各省庁の古い体質を残したまま、デジタル化したとしても、大きな成果は得られないでしょう。

極端なことをいえば、当初は物理的な文書や判子を用いてでも良いので、まずは当面の「統治」と「実行」を分離するグランドデザインを描くべきでしょう。

そうして、グランド・デザインを基本にするにしても、今ある各省設置法を全て束ねて政府事務法として一本化し、各省の事務分担は政令で決めれば良いです。こうした枠組みを作れば、その時の政権の判断で省庁再編を柔軟に行えますし、デシタル化もスムーズに進むでしょう。

なぜ、このようなことをいうかといえば、それは「統治」と「実行」が分離されたある優良企業を実際に訪問して、その効率の良さに驚いたことがあるからです。

たとえば、その会社では決算書等の作成は、入社したての新人の仕事になっています。なぜそのようなことができるかといえば、決算書作成のマニュアルが整備されていて、それにはどの部署から必要な資料が入手できるか記載されており、それに基づきどのように決算書を作成すれば良いのか明示されているので、それが可能になるのです。

しかも、デジタル化された現在では、会社の端末を操作することで、その資料のほとんどが集められるようになっています。

その前提として、組織の「統治」部門と「実行」部門がはっきり分離されているということがありました。そうではない企業では、結局何度も決算書を作成して慣れている人が年度末にねじり鉢巻で、端末があるにもかかわらず、結局鉛筆をなめなめ作成しているというのが実情のようです。

さらに、どの部署がどの資料を作成するかなどのグランドデザインは、明確に定められているものの、時々の変化に対応するためその他は柔軟に対応できるように、社内の規程や規則が定められており、実際に柔軟に対応しているようでした。

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