2021年6月27日日曜日

「表現の自由脅かす」批判 吉村知事発言に主催者側―【私の論評】自らの果たすべき貢献は何かという問いからスタートするとき、人は責任をもつがゆえに自由になれる(゚д゚)!

「表現の自由脅かす」批判 吉村知事発言に主催者側

大阪府立労働センター「エル・おおさか」(大阪市中央区)

 大阪市で7月中旬に開催予定だった「表現の不自由展かんさい」の利用許可を会場側が取り消した問題で、大阪府の吉村洋文知事は26日、記者団に「施設の管理運営を考えると取り消すべきだ」と発言、賛意を示した。

 知事発言に対して、主催する実行委員会の一人は同日夜、「憲法に保障されている表現や集会の自由を知事自らが脅かすことに加担している」と厳しく批判した。

 会場は大阪府立労働センター「エル・おおさか」(大阪市中央区)。抗議が相次ぎ利用者らの安全が確保できないとして、25日付で会場側が利用許可を取り消した。

【私の論評】自らの果たすべき貢献は何かという問いからスタートするとき、人は責任をもつがゆえに自由になれる(゚д゚)!

「表現の自由」の「自由」という言葉について、誤解している人も多いのではないでしょうか。

自由は、英語で"freedom"と"liberty"と訳されますが、この2つの言葉には根本的に違いがあります。

日本語では同じ自由だからと言って、同じように使ってしまうと、状況によっては意味が伝わらなくなってしまう可能性があります。

“freedom”が意味する「自由」は「受動的」なイメージです。

そのままそこにいればいい、何もしなくていい、ただ与えられるものなのです。ある意味、あって当然という感覚です。

例えば、「表現の自由」というのは”freedom”を使って表現されます。”freedom of the speech”と言います。

何かを表現する自由というのはあって当たり前という感覚なんですね。別に掴み取りに行くものではありません。

言論統制などされている国はありますが、本来「表現の自由」というのは誰にでも与えられているものですから、”freedom”で表現します。

では、”freedom”を使った例文を見ながら、そのニュアンスを感じとっていただきたいです。

We have the freedom to give our opinions about anything.
(私たちは何に関しても意見を述べる自由があります。)

「意見を述べる」という「自由」も、あるのが当たり前のものです。人間なら誰しも持っている「自由」です。だから、”freedom”で表現するのです。

「あって当然」という感覚ですから、“freedom”が意味する「自由」は最初からあるものなんです。

何かに押さえつけられていたり縛られてたりしている状況は存在しません。つまり、なんの制約もないような状態なのです。

Children naturally have the freedom to be what they want to be.
(子供というのは、本来なりたいものになれる自由というのを持っている。)
様々な状況で夢をあきらめなければいけないという状況は当然ありますが、そういうのを抜きにして考えた場合、「なりたいものになる自由」というのは誰にでもあります。

制約がなく「最初からある自由」なのです。そのため、”freedom”の持つニュアンスです。

“liberty”が表す「自由」は”freedom”と違い、「能動的」なイメージです。

“freedom”を掴むために争ったり闘ったりする必要はありませんが、“liberty”を掴むためには争ったりしながら自らが取りに行かなければならないのです。

つまり、「自らがすすんで勝ち取る自由」という意味です。周りと争ったり闘ったりしながら、自分の「自由」の権利を主張して掴み取るものなのです。

例えば、米国にある「自由の女神」を英語で言うと、”The Statue of Liberty”です。なぜ、これは”liberty”が使われているのでしょうか?

「自由の女神」というのは、米合衆国独立の象徴です。人々は「自由」を得るために戦って、「自由」を掴み取り、そして独立したのです。

だから、その象徴である「自由の女神」の「自由」は”liberty”なのです。

以下の例文で確認しながら、”liberty”のニュアンスを感じ取っていただきたいです。
In many countries, many people have had to fight to receive liberty in past eras.
(過去、多くの国の多くの人々が自由を得るために闘わなければならなかった。)
「自由を得るために闘わなければならなかった」という状況ですから、自ら「自由」を求めにいってるということです。つまり「能動的」ということです。だから、”liberty”を使っていめりです。

“liberty”が意味する「自由」は、自分で掴み取るもの。つまり、元々は自由ではなかったことを意味します。

何らかの制約や縛りがあったりと不自由な状態から抜け出して得た「自由」ということです。
Our ancestors got liberty from the dictator a long time ago.
(遠い昔、私たちの先祖は独裁者から自由を得た。)
「独裁者にいろいろと抑えつけられていた状況」というのはいろいろと制約があったりして不自由です。「そういった状況から抜け出して自由を得た」ということなので”liberty”を使って表現するのが適しているのです

このように、何か不自由な状態があって初めて”liberty”が生まれるのです。

日本語では同じ言葉でも、英語の”freedom”と”liberty”には意味合いの違いがあるんですね。ちなみに、意味合い以外にも「”freedom”は古ゲルマン語、”liberty”はラテン語」という語源の違いもあります。

そうして、責任という観点でみると、両者の言葉がより一層明確になります。"libery"である状態にあるということは、それは誰にでも認められた当然の権利という意味合いがあります。"liberty"である状態にある人には何の責任も問われません。

一方"freedom"はそうはいきません。経営学の大家ドラッカー氏は"freedom"について以下のように述べています。


これを直訳すると「自由は解放ではない。それは何かをするかしないかを選択する自由である」

これだけだと理解しにくいと思いますので、『産業人の未来』というドラッカー氏の著作の和訳から「自由(freedom)」に関する部分を引用します。
自由は解放ではない。責任である。楽しいどころか一人ひとりの人間にとって重い負担である。それは、自らの行為、および社会の行為について自ら意思決定を行うことである。そしてそれらの意思決定に責任を負うことである。
(産業人の未来)

 libertyであることはすでに権利となったものですから、"liberty"の状態にあることに責任は伴ないわないのですが、freedomには意思決定が伴い、そうしてその意思決定には責任が伴うのです。

このあたりを誤解している人は多いのではないかと思います。表現の自由にも"自由"という言葉があるからには責任が伴うのです。

We have the freedom to give our opinions about anything.
(私たちは何に関しても意見を述べる自由があります。)

この言葉においても、何か意見を述べるという意思決定をして、そうした場合、責任が伴うということです。であれば、「表現の自由」にも責任が伴うということです。

なにやら、小難しいことをグニャグニャと述べてきましたが、本日は「自由」に関するアニメをTwitterに掲載されているのを見て、これはわかり易いと思いましたので以下に掲載します。


ソース元のツイートを以下に掲載しておきます。



 このアニメ単純に見えますが、意味するところは深いです。

ドラッカー氏は現代人、特に民主主義社会に生きる人々には、自由の代価として何をしたいかを問われているとしています。

選択肢を前にした若者が答えるべき問題は、正確には、何をしたらよいかではなく、自分を使って何をしたいかである。多元社会は一人ひとりの人間に対し、自分は何か、何をしたらよいか、自分を使って何をしたいかを問うことを求める。この問いは就職上の選択の問題に見えながら、実は自らの実存にかかわる問題である。(『断絶の時代』)

 多くの若者にとって、自分が得意とするものが何かはまだわからないです。それどころか、自分の「値打ちがある」とするものが何かさえ、まだわからないのです。

ほとんどの人が親の後を継いで農民になる以外になかった時代は、歴史的にみればついこの前のことです。しかし、いまや選択肢は無数にあるのです。

だから就職に悩みます。しばしフリーターともなります。その間に、せっかく身に付けた知識が陳腐化するという悲劇も起こるのです。

ドラッカーによれば、17世紀にデカルトが精神の実存を無視して以来、西洋では、いかにして人間の実存は可能かではなく、いかにして社会の存在は可能かが問われてきました。こうしてこの2世紀の間、世の関心は社会に向けられてきました。

 今日ふたたびわれわれは、昔からの問いである一人ひとりの人間の意味、目的、自由という根源的な問題に直面している。世界中の若者に見られる疎外の問題が、この問いに答えるべきことを迫っている。組織社会が、選択の機会を与えることによって、一人ひとりの人間に意思決定を迫る。自由の代価として責任を求める。(『断絶の時代』)

一方ドラッカー氏は、以下のようにも語っています。
自らの果たすべき貢献は何かという問いからスタートするとき、人は自由となる。責任をもつがゆえに自由となる。(『明日を支配するもの』P218)
これは、私の好きな言葉でもあります。この言葉を噛み砕くと他人を助けるという視点で、一つ一つを積み重ねていくということです。それも自分のできることで、できれば他人になかなかできないことで積み重ねていくということです。

一つ一つ積み重ねることで、やがて自らの強み、仕事の仕方、組織の価値観を知り、機会をつかむ用意が出来るということなのです。そういう機会を多くの組織が提供すべきてなのです。組織というと、なにやら悪いことのように考える人もいるようですが、現代は組織社会であり、多くの人が組織に属していることを思い起こしてください。さらには、現代人は悪い組織から抜け出し、まともな組織に移る自由もあるのです。

「自分には、夢や希望が湧いてこない」という悲痛な叫びを見聞きすることがありますが、文章の主語は何になっているでしょうか?

「自分には」という主語に、他人に貢献する、組織に貢献するという気持ちは入っていません。こういうことを言うだけの人には、実は自由ではないのです。人は、自分の果たすべき貢献は何かを考えることにより、はじめて責任を持ち自由になり強くなれるのです。

そのようなことは、一昔の日本人なら当然のこととして知っていたはずです。しかし、現代ではドラッカー氏の言葉などを引用しないとなかなか理解してもらえないところがあります。そうして、これは日本だけの現象ではないようです。米国ではドラッカー氏のことがわすさられているようです。本当に残念なことです。

この文脈では、これも私の好きな言葉である三島由紀夫の「人間というのは自分のためだけに生きて、自分のためだけに死んでいけるほど強くない」という言葉を思い出します。


「自分のためだけ」に生きる人、自分の自由だけ考える人は、強くはなれず、必ずすぐに限界にぶち当たります。自分のためではなく、親のため、子供のため、家族のため、恋人のため、仲間のため、地域のため、会社のため、国のために生きる人、いいかえると自分を超えた何らかの大義に生きる人は、応分の自由を得て強くなれるのです。

そのことを多くの現代人は忘れてしまっているのではないでしょうか。

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