まとめ
- 辺野古事故は単なる不運ではない。理念を叫ぶ側が、現場の安全と責任をどう軽んじたのかを抉る。
- 高邁に見える理想でも、制度と手順に落とし込めなければ幼稚で危うい。その本質をドラッカーの保守主義から読み解く。
- 武石知華さんの死を前にして、我々は何を学ぶべきか。左翼批判にとどまらず、我が国の社会と共同体を守る原理を問う。
私もこの件については、すでに本ブログで取り上げた。だが、その時点では、亡くなられたご本人やご家族のことを十分に知らぬまま、事故の構造や政治的背景から書き出してしまった。今は、この事故が単なる時事問題ではなく、かけがえのない命が失われた痛切な悲劇であることが、より重く迫ってくる。本稿は、そのことを改めて胸に刻んだ上で書く。
暴力革命、違法な実力行使、威圧によって制度の外から社会をねじ曲げる企ては、改革ではない。破壊である。これは明確に否定しなければならない。そのうえで、法秩序の内側で理念や政策を論じる自由はある。だが、理念だけで社会を改革することはできない。理念は方向を示すにすぎない。現実の改革を担うのは、制度、手順、役割、責任、安全確認という、地味で保守的な土台である。ドラッカーは『産業人の未来』で、過去の復活を夢見ず、青写真や万能薬を捨て、手持ちの制度と方法で具体的問題を一つずつ解く保守主義を重視した。 (ダイヤモンド・オンライン)
この事故について、事故原因の最終判断は調査報告を待つべきである。だが、事故後に明るみに出た事実だけでも、この事件の本質を論じるには十分である。問題は、理念を掲げる側が、それを現実に移す段階で、社会と共同体を支える最低限の土台を守ったのかどうかである。 (国土交通省)
1️⃣理念は改革の方法ではない。方法を誤れば共同体は実験台にされる
法秩序の内側で語られる左翼的、リベラル的な理念そのものを、ここで一括して否定するつもりはない。問題は別のところにある。理念と改革の方法を混同することである。理念は目標を示す。だが、現場を動かすのは理念ではない。法令順守、責任分担、安全確認、説明責任、失敗時の修正という、きわめて地味な仕組みである。改革を本当に実行する局面では、最後は保守的でなければならない。共同体を壊さず、制度を壊さず、機能を壊さず、一つずつ積み上げる態度が要る。ドラッカーのいう「改革の原理としての保守主義」とは、その節度のことである。 (ダイヤモンド・オンライン)
今回の辺野古事故で問題なのも、まさにそこである。事故後に明るみに出たのは、単なる不運や個別ミスだけではない。理念や大義が先に立ち、現場の安全確認、責任分担、制度上の確認、引率体制といった、共同体を守るための基礎部分が後ろに退いていたことである。ここにあるのは、「正しい目的のためなら、現場の細部はあとで合わせればよい」という発想である。だが、その発想こそ危うい。なぜなら、それは人間の営みと共同体の秩序を、上から設計し直せるものとして扱う発想に直結するからである。 (FNNプライムオンライン)
そこで本稿では、この危うさをより正確に示すために、「社会工学」という言葉を用いる。ここでいう社会工学とは、本来、法律や制度設計などによって社会問題を改善しようとする営みそのものを指す。ブリタニカは social engineering を、法律その他の方法によって社会問題を解決したり社会条件を改善したりしようとする実践と説明している。さらにポパーは、社会全体を一気に作り替えるのではなく、具体的な問題ごとに小さく改め、悪影響があれば修正する “piecemeal social engineering” を擁護した。つまり本来の改革は、漸進的で、自己修正可能でなければならないのである。 (Encyclopedia Britannica)
危険なのは、それが「危険な社会工学実験」に変質する時である。抽象理論を先に置き、現実にある制度、慣行、学校、地域共同体、責任体系を、上から設計し直せる部品のように扱い始める。目的の純粋さを理由に、現場の知恵や既存の安全装置を軽んじる。手順より理念、責任より大義、現場知より設計思想が前に出る。そうなると、うまくいかなかった時に修正されるべきは理論ではなく現実の側だとされ、さらに押し切ろうとする。そこまで行けば、もはや改革ではない。共同体そのものを実験台にする危険な社会工学実験である。ポパーが一気呵成の「ユートピア的」改造より、小さく試し、悪影響を見て直すやり方を重視したのは、この暴走を避けるためであった。 (スタンフォード哲学百科事典)
危険な社会工学実験には共通点がある。既存の制度や慣行を一気に無価値化すること。現場の知識より中央の構想を優先すること。失敗の兆候が出ても理論の誤りではなく現場の抵抗や理解不足のせいにすること。異論や警告を敵視し、修正のためのフィードバックを失うことである。こうなると理念は理想ではない。凶器になる。
2️⃣危険な社会工学実験は、歴史の上で共同体を何度も破壊してきた
歴史を見れば、この種の発想がどこへ行き着くかは明白である。ソ連の強制的集団化とそれに伴う飢饉では、1931年から34年にかけてソ連全体で推計500万人が死亡し、その中心はウクライナだった。ブリタニカは、ソ連全体の死者のうち、ほぼ400万人がウクライナ人だったと説明している。ホロドモールは、より広いソ連飢饉の一部でありながら、ウクライナでは政治的決定によってさらに苛烈なものとなった。 (Encyclopedia Britannica)
中国の大躍進でも、急進的な集団化と非現実的な生産目標が現場を押し潰し、ブリタニカによれば、1959年から62年にかけて約2000万人が餓死した。カンボジアでは、米国ホロコースト記念博物館によれば、クメール・ルージュ支配下の1975年から79年にかけて約200万人が死亡した。いずれも、理念を絶対化し、共同体や現場を上から作り替えられると考えた時に起きた惨事である。 (Encyclopedia Britannica)
もちろん、辺野古の事故をこれら全体主義的惨事と同列に置くのは誤りである。規模も性質も全く違う。だが、構造は同じである。抽象的な大義が先に立ち、制度、役割、責任、安全手順といった保守的土台が後景に退く時、最初に壊れるのは国家全体とは限らない。学校現場、地域共同体、現場の安全、具体的人命から壊れ始める。理念先行の発想は、巨大な全体主義だけでなく、小さな現場でも人を傷つける。辺野古の件は、その小型でありながら生々しい実例である。 (FNNプライムオンライン)
3️⃣辺野古事故で露呈したのは、理念ではなく保守性の欠如である
事故後に明るみに出た事実は重い。文部科学省は4月7日、全国の学校に対し、校外活動での安全確保の徹底を求める通知を出した。FNNによれば、松本文科相は、この事案について「安全確保に向けた取り組みの不備」「事前の下見などの欠如」「保護者への説明の不足」「引率体制の不備」を把握していると述べた。これは単なる偶発事故ではない。共同体を守るべき基本手順が崩れていた事件として、国レベルで扱われ始めたということである。 (FNNプライムオンライン)
学校側の説明では、教員が船に乗船していなかったことが明らかになった。さらに報道では、波浪注意報が出る中で出航判断が船長に委ねられていたこと、転覆した2隻が海上運送法に基づく事業登録をしていなかったこと、学校側がその登録の有無を確認していなかったことなどが伝えられている。国土交通省も3月19日の会見で、「平和丸」「不屈」を使用した運送については海上運送法の事業登録は行われていないと明言し、運航実態を早期に確認すると述べた。改革を語る以前に、守るべき土台が守られていなかったのである。 (テレ朝NEWS)
事故後の対応もまた、この問題を深くした。ヘリ基地反対協議会は4月8日付コメントで、「安全確保すべき立場にありながら、その責任を果たせなかった」と謝罪した。他方で、乗船目的は「平和学習の一環」であり、「多角的な視点から学ぶための純粋な社会見学」だったと説明し、事実に反する情報の発信や拡散は控えてほしいとも訴えた。謝罪それ自体は当然である。だが、この場面で最優先されるべきは、大義の保存ではなく、責任の明示と事実の開示である。謝罪の中に釈明と自己防衛が混じる時、その運動は理念の高さではなく、保守性の欠如を自ら証明する。 (QAB 琉球朝日放送 | もっとドキドキQAB)
ここで批判されるべきは、「左翼だから」ではない。いかなる理念であったにしても、これを現実に移す段階で、社会を壊さないための節度を失ったことが批判されるのである。法秩序の内側で理念を語る自由はある。だが、それを実際の改革へ移す段階で保守的になれないなら、その運動は改革を遂行できない。高邁な理念を錦の御旗として掲げながら、実務と責任を軽んじる運動は、社会を良くするのではない。共同体を摩耗させる。辺野古の事件で露呈したのは、まさにその点である。
結語
今回の辺野古事故で露呈したのは、単なる謝罪の遅れではない。理念だけで社会を動かせると信じ、制度と責任を軽んじた運動の限界である。暴力革命や違法な実力行使は論外である。そのうえでなお、法秩序の内側で語られる理念であってさえも、それだけで社会を改革することはできない。改革を現実に遂行する段階では、共同体を壊さぬために、最後は保守的でなければならない。ドラッカーのいう保守主義とは、まさにその節度である。それを忘れて突っ走れば、行き着く先は、社会の破壊、さらには独裁や全体主義である。
理念は必要である。だが、理念を掲げるだけでは社会はもたない。どれほど一見高邁に見える理念であっても、それを現実の制度、責任、手順、安全確認へと落とし込めないなら、その理念は未熟であり、幼稚ですらある。とても社会を託せるものではない。理念だけで現実を押し切ろうとする時、改革は社会工学実験へと変質する。しかもそれが、既存の制度、役割、責任、安全手順を軽んじるなら、それは危険な社会工学実験である。社会を良くするどころか、社会と共同体を壊す。辺野古の事件は、その当たり前の原理を、痛ましい現実として示した。我が国に必要なのは、理念を声高に叫ぶ正義ではない。機能する社会を守りつつ変えていく、ドラッカーのいう「改革の原理としての保守主義」である。
そして最後に、もう一度、武石知華さんに深く哀悼の意を表したい。一人の若い命が失われたという事実は、どれほど言葉を尽くしても軽くならない。ご遺族の悲しみと無念を思えば、胸が痛む。この事故を、単なる政治や運動の材料として消費してはならない。武石知華さんの死を無駄にしないためにも、我々はこの事件から、理念を掲げるだけでは人も社会も守れないという厳しい現実を学ばねばならない。心からご冥福をお祈り申し上げる。
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