2026年2月24日火曜日

影の軍隊が戦争を始める ――墨麻薬王エル・メンチョ死亡が示す国家の線引きと憲法の空白

 
まとめ
  • 本稿はエル・メンチョ死亡を単なる麻薬王の最期としてではなく、国家が「犯罪」を「安全保障」に格上げした瞬間として読み解く。ロシアの準軍事組織、中国の海上民兵と並べて、戦争が宣言なく始まる構造を明らかにする。
  • 第二に、線を引けなかった国家の末路を具体例で示す。メキシコ、シリア、ウクライナ東部。侵食を治安問題として放置した結果、主権が空洞化した現実を突きつける。
  • 第三に、我が国の憲法の空白に踏み込む。主要国には存在する緊急事態条項がなぜ我が国にはないのか。その不在が何を意味するのかを問い、制度・実力・意志を一体で考える視点を提示する。読者が「自分の国の話だ」と気づくための論考である。
1️⃣犯罪が国家問題に変わった瞬間


メキシコ治安当局は、ハリスコ新世代カルテル(CJNG)の最高指導者ネメシオ・オセゲラ・セルバンテス、通称エル・メンチョの死亡を発表した。山間部での銃撃戦の末の死亡と説明されている。

だが、この事件の本質は麻薬王の最期ではない。

米国は長年、彼を起訴対象とし、巨額の懸賞金を掲げ、DEAを中心に追跡してきた。さらに米軍が関与する対カルテル情報枠組みが存在してきたことも広く知られている。実行主体はメキシコであっても、米国の安全保障的関与は否定できない。

ここで起きたのは「摘発」ではない。分類の変更である。

カルテルは長く「犯罪組織」であった。だがフェンタニル問題が米国社会を揺るがす中で、その位置づけは「国家秩序を侵食する主体」へと変わった。分類が変われば、動員される手段も変わる。法執行から安全保障へ。ここに転換点がある。

これはハマスのような政治的武装組織とは異なる。ハマスは当初から安全保障問題であった。カルテルはそうではなかった。そこが決定的な違いである。犯罪が国家問題へと引き上げられた瞬間、国家は線を引き直したのである。
 
2️⃣準軍事組織を戦略に組み込む国家


ロシアはワグネルという準軍事組織を国家戦略に組み込んだ。正規軍が前面に出ない場面で消耗戦を担わせ、占領地統制にも関与させた。戦争はもはや正規軍だけで行われるものではない。

しかしプリゴジンの武装反乱は、準軍事組織が国家を揺さぶる存在にもなり得ることを示した。準軍事は武器であると同時に爆薬でもある。

ウクライナ側のアゾフ連隊は、ロシアによって宣伝戦の材料とされた。戦争は銃弾だけでなく物語で遂行される。影の軍隊は戦場と情報空間を同時に動かす。

線を引けなかった国家の末路は明確である。

メキシコの一部地域ではカルテルが事実上の統治主体となり、国家の主権は空洞化した。ウクライナ東部やジョージアでは準軍事勢力が固定化し、領土の一部が長期にわたり実効支配下に置かれた。

そしてシリアである。2011年以降の内戦期、とりわけ2012年から2018年にかけて武装勢力が乱立し、国家統治は事実上崩壊状態に陥った。その結果、ロシアやイランなどの外国勢力が軍事介入する事態となった。現在は政府が主要都市を掌握しているが、外国勢力や武装勢力の影響は残っている。全面崩壊ではない。しかし後遺症は消えていない。

共通しているのは、侵食を侵食として認識できなかったことである。治安問題として扱い続けた結果、安全保障問題へと転化したのである。

戦争は宣言から始まらない。侵食は静かに進む。

3️⃣我が国の憲法が抱える空白


我が国も無縁ではない。中国型グレーゾーンは現実である。海上民兵は漁船の姿で常態展開し、公船と海警が連動する。尖閣周辺の接近、海底ケーブルの脆弱性。いずれも戦争未満である。だが国家意思を揺さぶるには十分である。

問われているのは軍事力の大小だけではない。制度、実力、そして政治的意志である。

海上保安庁法の改正、自衛隊法の整備、経済安全保障法制の強化は必要である。しかし制度だけでは足りない。相手が制度を守らないとき、国家はどう動くのかという問いが残る。

ここで避けて通れないのが憲法である。

主要国の憲法には、戦争や内乱、大規模災害に対応する緊急規定が明記されている。米国、フランス、ドイツ、韓国。いずれも例外的権限の発動要件と期限を定め、議会や司法の統制を組み込んでいる。例外を制度化しているのである。

これに対し、我が国の憲法には包括的な緊急事態条項が存在しない。これは世界的に見れば極めて特異である。

大規模侵食や同時多発的インフラ攻撃が起きた場合、政府は平時法制の枠内でしか動けない。立法を待つ間に既成事実が積み上がる可能性がある。

無制限の超法規を認めよと言っているのではない。むしろ逆である。発動要件を厳格に限定し、期間を明確に区切り、事後承認と司法的統制を義務づける緊急事態条項を憲法に明記すべきだということである。例外を法の下に置くのである。

線は法律で引く。しかし線を守るのは実力と意志である。そして線が破られたときに国家を支えるのが憲法上の緊急権である。

結語 侵食を侵食と呼べるか

エル・メンチョの死は、一人の犯罪者の終焉ではない。国家が線を引き直した瞬間である。

ロシアは準軍事組織を戦略装置として運用し、中国は海上民兵で既成事実を積み上げ、米国はカルテルを安全保障の対象へと再分類した。

線を引けなかった国家の末路は、すでに世界が示している。

我が国に問われているのは、軍事力の大小だけではない。制度、実力、意志、そして憲法的裏付けである。

侵食を侵食と呼び、必要なときに動ける国家だけが生き残る。

読者に問いたい。我が国は、線を引ける国家であるか。

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