まとめ
- 今回のポイントは、「世界は分断している」という説明にどこか違和感を覚えながらニュースを見てきた読者に向けて書いている、ということだ。対立や混乱という言葉の裏で、実際には何が起きていたのかを、別の角度から整理している。
- 声の大きな主張やイデオロギーの応酬に疲れ、もっと冷静に政治や世界を見たいと感じている読者に向けて、「覚醒」という言葉を使い直している。ここで言う覚醒とは、熱狂ではなく、確かめ、考え、判断を急がない姿勢のことだ。
- 「自分は政治を直接動かしていない」と感じている読者に向けて、すでに果たしている役割を言葉にしている。投票だけでなく、注目し、検証し、評価すること自体が、政治の在り方を左右しているという事実を示した。
1️⃣「分断」という言葉が、現実から目を逸らさせてきた
| 世界を語る際に最も安易に使われてきた言葉「分断」 |
昨日、本ブログでは「高市政権と国民覚醒」について論じた。これを国内政治の一局面として消費してしまえば、話はそこで終わる。しかし、それでは見えるものがあまりに少ない。
2025年、世界を語る際に最も安易に使われてきた言葉が「分断」である。右と左、保守とリベラル、先進国と途上国。だが、この言葉は便利であるがゆえに、現実を説明した気にさせるだけで、実際には思考を止めてきた。
世界で起きていたのは、対立の激化ではない。本来は同列に並べて語れないものが、無理に対称であるかのように扱われてきただけだ。説明を求め、誤りがあれば修正しようとする社会と、説明を省き、疑問そのものを退ける社会。その質の差が、もはや隠しきれなくなった一年だった。それを「分断」と呼ぶのは、現実から目を背けるための言い換えにすぎない。
2025年、世界を語る際に最も安易に使われてきた言葉が「分断」である。右と左、保守とリベラル、先進国と途上国。だが、この言葉は便利であるがゆえに、現実を説明した気にさせるだけで、実際には思考を止めてきた。
世界で起きていたのは、対立の激化ではない。本来は同列に並べて語れないものが、無理に対称であるかのように扱われてきただけだ。説明を求め、誤りがあれば修正しようとする社会と、説明を省き、疑問そのものを退ける社会。その質の差が、もはや隠しきれなくなった一年だった。それを「分断」と呼ぶのは、現実から目を背けるための言い換えにすぎない。
2️⃣覚醒とは昂ぶりではない──冷静さを取り戻した社会の差だ
| 米国でも反wokeの波が・・・ |
ここで言う覚醒とは、流行語としての「意識の高さ」や、米国で語られてきた woke の類ではない。むしろ、その対極にある。声の大きさに引きずられず、肩書きに判断を預けず、切り取られた要約ではなく元の言葉に当たる。その冷静さを取り戻すことを指している。
この変化は派手ではない。拍手も喝采も起きない。だが、その「当たり前」を国民の多数が共有できるかどうかで、国家の姿は決定的に変わる。2025年に明確になったのは、「誰が正しいか」を巡って感情を消耗する社会と、「何が説明されていないのか」を淡々と問い続ける社会(awake)との差である。
これは対立ではない。成熟度の違いであり、統治の質の差である。ここに至って、もはや「分断」という言葉では、この現実を説明できなくなった。
2️⃣なぜ我が国は「検証する側」に立ったのか
ここは論理を曖昧にしてはならない。自民党総裁選は、国民が直接総裁を選ぶ選挙ではない。その意味で、「国民が選んだ」と言うことはできない。
それでもなお、2025年の総裁選の過程を「検証型」と呼べる理由がある。候補者の発言は即座に検証され、切り取られた言葉ではなく全文が読まれ、過去の言動や政策との整合性が問い続けられた。党内の選択でありながら、その一挙一動は常に国民の視線にさらされていた。自民党内でも、国民の声の代表ともいうべき党員の声や、各都道府県各都道府県連の声は無視できなくなった。
派閥の論理や密室の力学だけで事が運ぶのであれば、このような緊張感は生まれない。だが実際には、党内の判断そのものが「国民にどう受け取られるか」「説明に耐えるか」を強く意識せざるを得なかった。これは、国民が投票者ではなくとも、事実上の審査者として機能していたことを意味する。
判断を急がず、空気に流されず、確かめ続ける。その姿勢が国民の側に広く共有されていなければ、このプロセスは成立し得なかった。支持か拒絶か、好きか嫌いか。その二択で政治を消費する社会では起こり得ない過程だったという点で、日本は確かに一歩前に出た。
終わりに──「分断」という言葉を、今年で終わらせる
2025年は完成の年ではない。しかし、出発点としては十分に明るい年だった。世界は分断しているのではない。国民が政治を検証できる国と、そうでない国との差が、誰の目にも見えるようになっただけだ。
その現実を直視するなら、もはや「分断」という言葉に逃げ込む必要はない。我が国は今、その見通しの良い側に立っている。年の瀬に、これほど視界の開けた総括はない。胸を張って、次の年を迎えればいい。
2025年は完成の年ではない。しかし、出発点としては十分に明るい年だった。世界は分断しているのではない。国民が政治を検証できる国と、そうでない国との差が、誰の目にも見えるようになっただけだ。
その現実を直視するなら、もはや「分断」という言葉に逃げ込む必要はない。我が国は今、その見通しの良い側に立っている。年の瀬に、これほど視界の開けた総括はない。胸を張って、次の年を迎えればいい。
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