まとめ
- 2025年に本当に変わったのは、政権でも政策でもない。国民が目を覚ましたことである。賛成か反対かという二択ではなく、調べ、検証し、判断するという姿勢が社会に根づき始めた一年だった。
- 同時に、マスコミの役割は決定的に揺らいだ。切り取りや論点ずらしは以前からあったが、2025年、それらは一次資料によって即座に検証され、通用しなくなった。致命的だったのは、主要マスコミ自身が誤りを訂正できなくなったことである。監視する側とされる側は、すでに入れ替わっている。
- そして、この変化を下支えしてきたのが、皇室が体現してきた変わらぬ時間軸である。煽動に流されず、自ら考え、責任を引き受けようとする国民の覚悟は、偶然ではない。夜明けは上から与えられたものではなく、国民の側から静かに始まったのだ。
昨年一年を総括すると、最も本質的な変化は政権交代でも政策転換でもない。変わったのは国民である。
2025年は、国民が目を覚ました一年であった。
正確に言えば、「信じる前に調べる」「従う前に検証する」という、民主社会において本来あるべき姿勢が、ようやく日常の行動として根づき始めた年である。
かつて我が国では、政治は遠い世界の出来事と見なされてきた。
新聞とテレビが語る筋書きを受け取り、善悪は与えられ、選挙のときだけ意思表示をする。それが成熟した民主主義であるかのように語られてきた。しかし、その構図は長くはもたなかった。責任の所在が曖昧になり、失敗が検証されず、同じ過ちが繰り返されるからである。
昨年、その前提が崩れた。
国民は、支持と批判を同時に行うようになった。気に入らないから否定するのでもなく、期待しているから目をつぶるのでもない。政策を読み、数字を確かめ、発言の前後関係を追い、必要とあらば声を上げる。これは革命ではない。成熟である。
この変化は、特定の政党や政治家が生み出したものではない。
SNS、ネットメディア、個人ブログ、そして一次資料への直接アクセス。そうした環境の中で、国民自身が選び取った態度である。だからこそ、この流れは後戻りしない。
「分断の時代」という言葉が、昨年ほど安易に使われた年はなかった。しかし、実際に起きていたのは分断ではない。沈黙の終焉である。
異なる意見が可視化され、議論が生まれ、検証が行われる社会は、分断ではなく健全さの証左である。
2️⃣マスコミの凋落と、監視主体が入れ替わった瞬間
この国民の変化と表裏一体で進んだのが、マスコミの凋落である。
これは印象論ではない。事実の積み重ねである。
2025年、新聞とテレビは「語る主体」であることを事実上失った。理由は明白だ。国民の検証速度に追いつけなくなったからである。
論点を外した見出し、発言の切り取り、都合の悪い前提や数字を省いた解説。こうした手法に対する検証の動き自体は、以前から存在していた。しかし昨年、それは質量ともに臨界点を超えた。発言の全文、公式資料、原データが即座に共有され、一次資料との突き合わせが常態化したのである。その結果、誤りや恣意は短時間で可視化された。SNSや個人ブログは、もはや感想の場ではない。事実確認と論点整理を行う、対抗的な検証装置として機能し始めた。
決定的だったのは、主要マスコミ自身が、誤りが指摘されても訂正しなくなったことだ。
正確に言えば、訂正できなくなった。訂正すれば、それまで積み上げてきた物語そのものが崩れてしまう。結果として説明を避け、論点をずらし、沈黙を選ぶ。その姿勢が、信頼を致命的に損なった。
国民の行動は率直だった。
新聞を取らない。テレビニュースを見なくなる。その一方で、官公庁の公開資料、国会答弁の全文、海外の一次報道に直接当たる人々が増えた。これは一部の特殊な層の話ではない。日常の情報行動そのものが変わったのである。
かつてマスコミは権力を監視する存在であった。
しかし昨年、その構図は逆転した。いまや国民がマスコミを監視している。これは異常ではない。健全な逆転である。
3️⃣皇室が支えてきた時間軸と、国民の覚悟が切り開く新しい年
この変化を語るうえで、見落としてはならない存在がある。皇室である。
政権が入れ替わり、制度が変わり、世論が揺れ動いても、皇室は変わらぬ時間軸を我が国に与え続けてきた。
皇室は政治権力ではない。政策を決めることも、世論を導くこともない。
しかし、だからこそ象徴としての重みがある。短期の成果や流行に左右されず、連綿と続いてきた連続性は、「我が国は何を大切にしてきたのか」を無言のうちに示してきた。
昨年、国民が軽々しく煽動されず、事実を確かめ、判断し、責任を引き受けようとした背景には、この長い時間感覚がある。刹那的な言説や対立に流されない姿勢は、一朝一夕に生まれるものではない。皇室が体現してきた継承と節度の感覚が、社会の深層で作用してきた結果である。
マスコミが物語を乱造し、分断という言葉を振り回した一年にあっても、皇室はそれに与しなかった。
語らず、煽らず、しかし消えもしない。その静かな存在こそが、我が国における秩序の最終的な拠り所である。
重要なのは、この夜明けが上から与えられたものではないという事実である。
政権が希望を与えたのではない。目を覚ました国民が、責任を引き受けたのだ。
元日とは、祝う日であると同時に、覚悟を新たにする日である。
我が国は、もはや「誰かに任せていれば何とかなる国」ではない。しかし同時に、「国民が考え、判断し、声を上げれば前に進める国」になりつつある。
夜明けは、すでに始まっている。
それは官邸の中ではない。国民一人ひとりの側から訪れた。そして、その足元には、皇室が支えてきた変わらぬ時間が流れている。
2026年がどのような年になるかは、政治家ではなく、我々自身の姿勢によって決まる。
その事実を胸に刻み、新しい一年を迎えたい。
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