- トランプの利下げ志向は異端ではない。米国では金融政策は雇用の問題として語られ、金利は雇用を守るための道具だ。本稿は、その前提を欠いた日本の議論のズレを示す。
- インフレ率が数%動くだけで、数百万人の雇用が創造される。雇用が健全であれば、一定のインフレは許容され得る。本稿は、雇用と名目成長という経済の基本から金融政策を捉え直す。
- 日本には「雇用=金融政策」という観念がない。その結果、物価だけを見た政策判断が金融を歪め、選挙でも語られなくなった。本稿は、その構造的原因を明らかにする。
ドナルド・トランプ大統領が、次期FRB議長にケビン・ウォーシュ氏を指名する意向を示したと受け止められた直後、金融市場は敏感に反応した。米長期金利は動き、為替は振れ、株式市場も一時的に不安定になった。市場はこの動きを、単なる人事の噂ではなく、金融政策の方向性が政治の意思として示された可能性として受け止めたのである。
だが、問うべきは市場の短期的な値動きではない。中央銀行の独立性といった形式論でもない。核心は、なぜトランプは一貫して利下げにこだわるのか、そしてなぜその主張が米国では政治的に成立するのか、という点にある。
トランプの金融観は単純明快だ。景気が最優先であり、雇用と企業活動こそが国力の基盤だという考えである。金利は理念ではない。景気を調整するための道具である。政策金利が高止まりし、住宅ローン金利が上がれば、家計と投資が冷える。これは専門家でなくとも理解できる現実だ。
だが、問うべきは市場の短期的な値動きではない。中央銀行の独立性といった形式論でもない。核心は、なぜトランプは一貫して利下げにこだわるのか、そしてなぜその主張が米国では政治的に成立するのか、という点にある。
トランプの金融観は単純明快だ。景気が最優先であり、雇用と企業活動こそが国力の基盤だという考えである。金利は理念ではない。景気を調整するための道具である。政策金利が高止まりし、住宅ローン金利が上がれば、家計と投資が冷える。これは専門家でなくとも理解できる現実だ。
| フィリップス曲線(青色)はマクロ経済学上の常識である |
トランプが恐れているのは、インフレ率そのものではない。
高金利が雇用に波及することである。
この認識は突発的なものではない。2018年から2019年にかけ、彼はFRBの利上げ路線を繰り返し批判した。結果としてFRBは利上げを停止し、利下げに転じた。政治介入の是非は別として、利下げという判断が当時の経済状況と整合的だったことは否定できない。
そもそも、景気局面で利下げを志向することは、米国政治では異端ではない。歴代政権はいずれも、金融政策を雇用や投資と結びつけて語ってきた。重要なのは政策効果の精密な因果分析ではない。
金融政策は雇用に関わるものだ、という理解が社会に共有されてきたという事実である。
2️⃣インフレ率が数%高まるだけで、数百万人の雇用が生まれる
| FRD |
金融政策と雇用の関係について、経済の基本的事実を確認しておく必要がある。それは、インフレ率が数%動くだけで、雇用は大きく動くという現実だ。
日本経済は長年、低インフレと需要不足に苦しんできた。名目需要が伸びないため、企業は賃上げや人員拡大に慎重になり、雇用は維持されても新たに生まれにくかった。逆に言えば、インフレ率が安定的に2〜3%高まるだけで、企業の名目売上は自然に増え、価格転嫁と投資が進む。その過程で、他に大きな政策を打たなくても、日本では数百万人規模の雇用が生まれる。
日本の就業者数はおよそ6,700万人規模だ。名目成長率が数%高まれば、労働需要は数%単位で動く。労働参加率の上昇や潜在的失業の顕在化、非正規から正規への移行まで含めれば、数百万人という規模は過大ではない。
米国では、この効果はさらに大きい。就業者数は約1億6,000万人に達している。インフレ率と名目成長率が数%違えば、雇用への影響は桁が変わる。保守的に見ても、数%のインフレ差が数百万人規模、場合によっては1,000万人前後の雇用増減に結びつく。だからこそ、米国では金融政策が雇用と結びつけて語られてきた。
無論、金融政策で雇用を直接操作できるという話ではない。
インフレ率と雇用は、名目成長を介して強く連動しているという事実である。欧米では、これは常識である。日本では常識になっていない。
この現実をどう認識するかで、金融政策の姿はまったく変わる。
3️⃣日本では「雇用を見ない」から金融政策が歪む
民主党政権時代のことだったが、SNS上で印象的な証言が語られていたことを記憶している。ある職業安定所に勤務していた人物によれば、当時の所長が「私は、雇用というものがよく分からない」と口にしたという。雇用行政の現場責任者の発言として、驚きをもって受け止められた話である。
だが、この発言は本当に奇妙なのだろうか。
むしろ、この所長は正直だったと言うべきだ。
日本では、雇用の主務官庁は厚生労働省だと考えられている。しかし、これは半分しか正しくない。厚生労働省が担っているのは、雇用保険、職業紹介、労働条件の整備、そして雇用統計である。雇用を「把握し、管理する」役割はあるが、雇用そのものの量と水準に責任を負っているわけではない。
雇用の総量を左右するのは、景気であり、名目成長であり、金利である。その中核に位置するのは、言うまでもなく日本銀行だ。企業が人を雇うかどうかは、補助金よりも、将来の売上見通しと資金調達環境で決まる。
にもかかわらず、日本にはマクロ経済学上の常識と言える「雇用=金融政策」という観念がほとんど存在しない。その結果、雇用の現場にいる人間ですら、雇用とは何か、誰が責任を負っているのかを説明できなくなる。
さらに深刻なのは、この欠落が金融政策そのものを歪めている点である。
本来、雇用が健全であれば、インフレ率が一定程度高まることは異常ではない。雇用が拡大し、賃金が上がり、労働市場が引き締まっている局面では、インフレは「経済が回っている証拠」として受け止められる場合もある。米国では、雇用が強い限り、インフレ率がやや高くても許容されることがある。
ところが日本では、雇用の状態を見ないまま、インフレ率の数字だけが切り取られる。その結果、雇用が脆弱なままでも、インフレ率だけを理由に金融政策が引き締め方向に傾くという本末転倒が起きる。
雇用を見ずに物価だけを見る金融政策は、体力を見ずに体温だけで患者を判断する医療に似ている。日本の金融政策は、長らくこの状態に置かれてきた。その結果、金融政策は生活実感から乖離し、選挙の争点にもならなくなった。
だが、この発言は本当に奇妙なのだろうか。
むしろ、この所長は正直だったと言うべきだ。
日本では、雇用の主務官庁は厚生労働省だと考えられている。しかし、これは半分しか正しくない。厚生労働省が担っているのは、雇用保険、職業紹介、労働条件の整備、そして雇用統計である。雇用を「把握し、管理する」役割はあるが、雇用そのものの量と水準に責任を負っているわけではない。
雇用の総量を左右するのは、景気であり、名目成長であり、金利である。その中核に位置するのは、言うまでもなく日本銀行だ。企業が人を雇うかどうかは、補助金よりも、将来の売上見通しと資金調達環境で決まる。
にもかかわらず、日本にはマクロ経済学上の常識と言える「雇用=金融政策」という観念がほとんど存在しない。その結果、雇用の現場にいる人間ですら、雇用とは何か、誰が責任を負っているのかを説明できなくなる。
さらに深刻なのは、この欠落が金融政策そのものを歪めている点である。
本来、雇用が健全であれば、インフレ率が一定程度高まることは異常ではない。雇用が拡大し、賃金が上がり、労働市場が引き締まっている局面では、インフレは「経済が回っている証拠」として受け止められる場合もある。米国では、雇用が強い限り、インフレ率がやや高くても許容されることがある。
ところが日本では、雇用の状態を見ないまま、インフレ率の数字だけが切り取られる。その結果、雇用が脆弱なままでも、インフレ率だけを理由に金融政策が引き締め方向に傾くという本末転倒が起きる。
雇用を見ずに物価だけを見る金融政策は、体力を見ずに体温だけで患者を判断する医療に似ている。日本の金融政策は、長らくこの状態に置かれてきた。その結果、金融政策は生活実感から乖離し、選挙の争点にもならなくなった。
結論
現時点の我が国の選挙において、金融政策、とりわけ雇用との関係を正面から争点化することは現実的ではない。制度と歴史、そして国民の認識が、そこに追いついていないからである。
だが、それで終わらせてよい話ではない。インフレと雇用、金融政策と生活の関係を、政治の言葉で語り直す努力は不可欠だ。その役割は、いずれ高市早苗政権に担ってもらいたい。
金融政策を「触れてはならない専門領域」から、「国民が選択できる政策論点」へ引き戻すこと。それが次の段階の政治に求められている。それなしに、責任ある積極財政を実現することは難しい。
財政政策が優れたものであったとしても、金融政策が間違っていれば景気が良くなることはない。健全な財政政策と健全な金融政策の実施によってのみ、健全な経済成長が実現されるからだ。
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