まとめ
- 2025年は、政権が変わった年ではない。国民が変わった年である。高市早苗政権の誕生は原因ではなく結果だ。マスメディアを無条件に信じる姿勢から離れ、情報を確かめ、自分の頭で考え、判断するだけではなく自らも発信するという「国民覚醒の環」が、はっきりと姿を現した一年だった。政治は、その変化にようやく追いついたにすぎない。
- リベラル左派の凋落は、思想そのものの敗北ではない。理念を語るだけで、生活を支え、結果を示すことができなくなった政治に対する、現実的な審判である。高市政権が穏健に映るのは、右に振れたからではない。政治が、本来あるべき常識と責任の位置に戻ったからだ。
- 2026年は試金石の年になる。前政権の負の遺産は当面続き、早計な評価は危うい。しかし、年度と予算が動き出す春以降、国民覚醒の環はさらに太くなる。政治を縛る力が国民の側にある限り、来年は希望が幻想で終わる年にはならない。
1️⃣壊れていた前提が、ようやく元の位置に戻った
2025年は、決して明るい一年ではなかった。戦争は終わらず、世界経済は揺れ、価値観の対立は先進国の内部から社会を摩耗させていった。我が国も例外ではない。物価、賃金、人口、財政。どの指標を見ても、楽観を許す状況ではなかった。
多くの年末総括は、この年を「厳しい年」「試練の年」と括るだろう。
しかし、それだけで2025年を終わらせるのは正確ではない。この年の終わりに、流れそのものを変える出来事が起きたからだ。
これを単なる政権交代や保守回帰として理解するのは浅い。
高市政権が意味するのは、改革でも革命でもない。長く曖昧にされ、時に意図的に歪められてきた政治の前提が、ようやく元の位置に戻ったという事実である。
政権発足直後に示された「国民生活と国益の両立は前提条件である」という趣旨の発言は、驚くほど当たり前に聞こえる。だが、近年の我が国の政治において、この当たり前がどれほど軽んじられてきたかを思い出す必要がある。
安全保障は理念に回収され、経済は国際評価に引きずられ、国民生活は常に調整対象とされてきた。
高市政権は新しい思想を掲げたのではない。政治が守るべき順序を、再び言葉として明確にしただけである。だが、それだけで政治は現実に引き戻された。
2️⃣リベラル左派の凋落と、国民覚醒の環の可視化
高市政権が「穏健」に見える理由は単純だ。それまでの政治が、常識から外れていただけである。
就任後に繰り返されたのは、「現実」「段階」「責任」という言葉だった。できないことを、できると言わないのも政治の責任だという姿勢は、理想を否定するものではない。理想を国家運営に載せる際の限界を、正面から引き受けた態度である。
この常識への回帰は、日本だけの現象ではない。
2025年は、先進国全体でリベラル左派が明確に後退した年でもあった。移民、脱炭素、ジェンダー、規範外交。これらを同時に最大化しようとした政治は、財政、治安、社会統合の現実の前で行き詰まった。有権者は「正しい言葉」よりも「結果」を見るようになった。
だが、ここで見落としてはならないのは、変化の主役が政治エリートではなかったという点である。
2025年に本当に変わったのは、国民の側だった。
私が提唱してきた「国民覚醒の環」。
すなわち、マスメディアの情報を鵜呑みにする段階から、一次情報や複数の情報源を照合し、現実の結果と突き合わせ、自ら判断し、再び発信する循環。この環が、2025年になってはっきりと姿を現した。
象徴的だったのが、SNS空間の変質である。
SNSはもはや若者だけの場ではない。中高年層や現役世代、専門職層が、報道と現実のズレを検証し、補正し、共有する場へと成熟した。理念やスローガンではなく、「誰が何を言い、結果として何が起きたのか」が、世代を超えて共有されるようになった。
高市政権誕生は、この覚醒の環を生み出した原因ではない。
すでに回り始めていた環が、政治の世界に結果として反映されたにすぎない。リベラル左派が依拠してきた語りの優位性や道徳的高地は、この成熟した情報循環の前で力を失った。
3️⃣2026年は試金石であり、希望が現実になり得る年である
ただし、高市政権が成立したからといって、岸田・石破政権下で積み上がった負の遺産が、すぐに消えるわけではない。
政策は制度であり、制度は予算であり、予算は執行である。行政には慣性があり、その影響は政権交代よりも長く続く。
2026年前半に見える経済指標の歪みや行政の軋みの多くは、前政権の選択と制度設計の帰結である。それをもって高市政権を断じるのは危険だ。政権発足直後に見える混乱の多くは、失敗ではなく時差である。
高市政権らしさが、制度と予算を伴って表に出るのは、2026年春以降になる。国家運営は年度単位で動き、通常国会で成立した予算が新年度から本格的に執行されて、初めて政策は現実の形を取る。2025年秋に発足した政権にとって、年末までは助走にすぎない。
そして何より重要なのは、国民覚醒の環が2026年に入って、さらに強化されていく可能性が高いという点だ。一度回り始めたこの環は、検証する人を増やし、発信を洗練させ、政治や行政を縛る力を持ち始める。
2025年は分水嶺だった。
2026年は、その先に希望が幻想ではなく現実になるかどうかが試される年である。
その希望の源泉は、政権でも理念でもない。
覚醒し始めた国民自身にある。
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