「予想通りに不合理」「不合理だからすべてがうまくいく」のダン・アリエリー教授が新年にお金の使い方と習慣に関する記事を書かれています。
たとえば街で喉が乾いているときにコーヒーを売っている店を二軒をみつけたとします。片方はドーナツ屋さんの出す安い珈琲で、もう片方は手作りのスペシャリティ珈琲です。値段は後者のほうが $1.75 = 140円だけ高価だとして、どちらに行くでしょうか?
こうした場合、本来なら差額の 140 円で何を購入できるか? 140円にどのような価値があるか? をすべて総合したうえで、2つのどちらを選ぶかを決断するのが「正しい」ことになります。
しかしこうした判断は非常に複雑ですので多くの場合は過去の経験から私たちは判断をすることになります。つまり、以前にどちらのコーヒーショップを利用したことがあるか? いぜん似たような状況で「高い・低い」値段のものを選んだか? といった履歴です。
こうした経験による判断は、二つの問題があります。一つ目は、その判断が実際には価値判断なのではなくて、単なる惰性である点です。スペシャリティーコーヒーを常に選ぶのは値段に対する価値を常に意識しているからではなく、そうすることが習慣になっているからというわけです。
二つ目の問題は、こうした判断が変化に対して脆弱だという点です。たとえばコーヒーの値段が少しずつ高くなっていたり、給料が少なくなったとしても、「コーヒー = スペシャリティコーヒー」という判断が先行しているとなかなか行動は変えられません。
こうした難点は、お金というものが額面だけではすぐに判断できない複雑な価値をもっていることに起因しています。アリエリー教授は「安いものを選ぶようにしよう」というだけではなかなか習慣は変えられないので、難しくても購買におけるクセを探すことで全体をゆるやかに変える視点をもとうということを論じています。
お金だけではない、「いらない習慣」
しかしこの話、お金だけではありません。メールをチェックするのに使う時間を測定してみたら毎日1時間がかかっているとして、それははたして適正なのでしょうか?
あるいは仕事に割り当てている時間、引き受けている責任の数、朝おきる時間、時間の使い方に応用してもいいですし、読んでいる本・読まない本という判断でも同じことがいえそうです。
新年、新しい習慣を作ると同時に、すでに存在している「いらない習慣」、「不必要な惰性」を洗いだしてみるのもよさそうです。
【私の論評】時間の使い方が最大の問題だ!!
上の例では、メールチェックの時間について語っていましたが、いまの中学生はそれどころではないです。実に、中学生の2割が一日にやりとりするメールの数が50通以上だそうで、中には100通を超えるものもいるそうです。これは、完全に時間の無駄遣いですね。こうなると、ただのメール馬鹿で、勉強もできないでしょうし、体力を養う時間もないでしょうね。メール代は昨今、非常に安くなりましたし、スマートフォンとwifi(おどろくことに最近は一体型もでてきましたが)を使えば、いくら使っても定額ですから、昔のようにお金の問題はほとんどなくなりましたが、これって、本当にお金だけではない、「いらない習慣」ですね。
しかし、大人もそんな中学生に対して批判はできないでしょう。それは、恒常的な残業の多い人が存在するということです。一日8時間を大幅に超えて残業する、それも時々ということではなく恒常的といえば、これはもうどこか狂っているとしかいいようがないです。
これは、かつて、昔イトーヨーカドーで調査した結果なのですが、店で働いている人の実働時間が実際には手待ち時間や、準備時間などにほとんどが費やされており、実際に仕事をしている時間はとんでもなく短かったそうです。その当時の記録では、かなり実働時間の高い人でも、本当の仕事の時間というと5時間台だったという信じられないものでした。
これに関しては、無論現在のセブン&アイでは、このような極端なことはありません。無論、ずっと以前から時間管理について徹底的に改善されて、作業割り当てなどが適正に行われるようになったからです。
ちなみに、どうして、そのようになっていたの解りやすい極端な事例をあげておきます。ある数人くらいの人が関わっている売り場では、とにかく、売り場の設定のために、最初に机上で綿密な計画を立てておかずに、中途半端な計画のみで、現場で売り場づくりをはじめてしまうので、とてつもなく時間がかかっていたのです。
現場に行って、中途半端な計画のまま、作業をするので、はなはだしい時には、まずは、最初の計画はご破算になって、最初からやり直すとか、最初からやり直すにしても、また中途半端な計画なので、売り場をつくっている最中に、あれも必要だ、これも必要だ、あれも、これもということになり、そのたびに作業が中断されたり、はなはだしくは、途中で大掛かりな工事が必要になることがわかり、何日が無駄になるとか・・・・・。もし、計画がはっきりしていれば、工事の間に出来ることを平行して進めておくことができたはずです。
そうです。前準備と段取りが徹底的に欠けていたため、このようなことが日々繰り返され、先のような状況になっていたのです。
小売業などもともと、利幅がかなり少ない商売でしたから、上記のようなことを放置して、改善・改革などしていなかったら、今日のセブン&アイなどとうに存続できていなかったかもしれません。
これは、小売業の例ですが、知的労働が主な部署や企業ではもっと酷いことになっているかもしれません。なにせ、人の頭の中のことですから、外部から目立って無駄か、無駄でないかはさっぱりわかりません。しかし、確実に無駄はあるようです。知的労働の最たるものとも考えられていた、ゲームの世界のキャラクターづくりにも、最近で、時間管理が取り入れられ、しかも、請負制として、効率、効果を上げている会社もあるそうです。
いろいろ、仕事の内容を細分化してたり、出来栄えの判断を格付けすることによりこのようなことも可能になるようです。しかし、それにも限界があるものと思います。
しかし、私は、いつも思うのですが、本来知識労働に関しては、たとえば、一時毎日のように残業が続いたとしても、それは一時であり、それが終了すれば、しばらくは早めに帰れたり、休みがいつもよりかなり多くあたるという方式にすべきものと思います。毎日夜遅くまで、知識労働をしていれば、本人たちは、自己満足ができるかもしれませんが、決して良くないことだと思いす。
知識労働とはいっても、純然たる研究職でもないかぎり、世の中と関係することで働いているはずです。全く今の世の中とかけ離れたことで働いているわけではないと思います。だから、毎日夜遅くまで働いていれば、世の中のことを知る機会も減り、まともな人のまともな生活や、考え方、気持ちなどがわからなくなり、まともな仕事はできないと思います。これは、役人などの場合は、まだ許されるかもしれません。しかし、役人の世界とて、それは良くないことだと思います。なぜなら、税金の無駄遣いになるからです。
私の知る限りでは、あまりに夜遅くまで度々残業する人に限って、さほど成果をあげられないというのが真実です。
まずは、前準備と段取りを徹底的に良くして、そうして、不必要な業務は徹底的に削っていくべきでしょう。今の日本、そうすることにより、次の段階が見えるくるような気がします。何も考えずに、ただ遅くまで、残業するという習慣の付いている人、会社に明日はないと思います。しかし、この現実も多少は変わってきているようではあります。今は、特に不況ですから、仕事が減っているからです。しかし、わずか、数年ほど前までは、東京のお父さんの平均帰宅時間が夜11時だと新聞にも報道されていました。それに、最近でも、たまには過労死のことも未だに報道されています。過労死などもっての他だと思います。
ちなみ、あの経営学ドラッカー氏も、「優れたマネジャーは、計画からスタートしない。まずは、自分の時間が実際にどのように使われているかからスタート」するとしています。そうして、誰もが自分がどのような時間の使い方をしているかの、時々1週間単位くらいで、測定し記録に残すことをすすめています。そうすると、多くの人が自分の時間の遣いかたの酷さに初めて気がつくそうです。
また、ドラッカー氏は「恒常的に同じようなトラブルが頻々と起こる場合、それは、最早システムの問題であり、すみやかにシステムを改善すべき」としています。多くの会社や部署で恒常的な残業がどうしても出てしまうという現行のシステムは間違いであると認識すべきです。
これからの時代、景気が良くなったとしても、すべてが過去に戻るわけではありません。その一つに、われわれの社会はすでに、知識社会に突入していることがあげられます。知識社会においては、「いらない習慣」はもっとも忌むべきものであると考えます。
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