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2011年4月27日水曜日

天皇皇后両陛下、宮城・南三陸町の避難所を訪れ被災者1人ひとりを励まされる―【私の論評】 「五年の昔の禍を思ふとき復興の様しみてうれしき」 という陛下の御製を今回の震災復興でも実現しよう!!

天皇皇后両陛下、宮城・南三陸町の避難所を訪れ被災者1人ひとりを励まされる

天皇皇后両陛下

東北の被災地に27日、天皇皇后両陛下が震災後、初めて入られた。

津波で町全体が壊滅的な被害を受けた宮城・南三陸町を、震災48日目の27日、天皇皇后両陛下が訪問された。

眼下に広がる津波のつめ跡を目の当たりにし、町長からかつての町並みがすべてなくなったと説明を受けると、静かにうなずかれたあと、「こんな橋まで落ちたんですか」と衝撃を受けられた両陛下は、犠牲者を悼み黙礼された。

両陛下が震災後、被災地・東北を訪問されるのは、初めてのこととなる。

続いて両陛下は、避難所となっている中学校を訪れ、不自由な避難生活を続けている被災者の前でひざまずき、1人ひとりを励まされた。

被災者は「わたし、ちょうど津波の時、病院でその時、被災に遭って、病院の5階で九死に一生を得ました」と話した。

天皇陛下は「お体の方は、その後は」と語られた。

皇后さまも、子どもたちに言葉をかけられた。

また、今も行方不明になっている孫の写真を陛下に見せ、涙ぐむ女性もいた。

陛下は、ボランティアの女性や医師などにも、1人ひとり声をかけられた。

天皇陛下は「ご苦労さま。お体の方は大丈夫ですか」と語られた。

両陛下から声をかけられた孫が行方不明の女性は、「きょう、天皇陛下に声をかけられたので、たぶん孫も見つかるかなと」と話した。

声をかけられた男性は、「避難所が長いですから、健康を気遣った言葉をいただきました」と話した。

両陛下の被災地へのご訪問が始まったのは、今から20年前のことだった。

両陛下は、大きな災害が起こるたびに現地に足を運び、被災者を見舞ってこられた。

その最初のご訪問が、即位2年後、1991年に発生した雲仙普賢岳の噴火だった。

43人が犠牲となった大火砕流発生のおよそ1カ月後、長崎・島原市を訪問し、避難生活を送る人たちを励まされた。

1991年7月、普賢岳噴火の被災者は、「光栄ですね。両陛下から、お言葉をいただけるなんて」と話した。

1993年の北海道南西沖地震では、およそ2週間後に津波で大きな被害を受けた奥尻島を訪問された。

1993年7月、皇后さまは「よくご無事でいてくださいましたね」と語られた。

被災した奥尻島の住民は、「主人を亡くしましたけれども、身近にお話しかけていただきましたので、これからもがんばります」と話した。

そして、1995年の阪神・淡路大震災では、これまでのスーツ姿とは違い、ジャンパー姿で地震発生の2週間後に被災地へ足を運ばれた。

1995年1月、被災者は「本当、命だけ助けていただきまして」と話した。

皇后さまは「よく生きていてくださいましたね」と語られた。

大きな火災に見舞われた神戸市長田区では、皇居に咲いていたというスイセンの花を手向けられた。

2004年の新潟中越地震でも、両陛下は被災地を訪れ、ひざをつき、被災者の声に耳を傾けられた。

2004年11月、被災者は「よくしてもらって、避難生活でよくしてもらって、うれしかったです」と話した。
皇后さまは「どうぞ、お元気でね」と語られた。

被災地を訪問される両陛下の思いについて、皇室を担当するフジテレビの宮崎千歳記者は、「弱い立場に置かれている方に心を寄せて、その方たちにとって、なにか精神的な支えになれれば、それがご自身の大事な役目だというふうに、非常に強く考えていらっしゃる」と話した。

両陛下は、今回の東日本大震災でも、被災地への早期の訪問を希望されていたが、現地の復興作業などの負担にならないよう気遣い、東京や千葉など関東の4カ所で避難所の訪問を続けられてきた。

そして、ようやくその思いがかなった27日、両陛下は「がんばろう日本」と書かれた自衛隊の飛行機で、東北へ向かわれた。

南三陸町では、行方不明者の捜索などにあたる自衛隊員に、ねぎらいの言葉をかけられた。

天皇陛下は「このたびは、ご苦労さまです。ずいぶん、いろいろご苦労もあったと」と語られた。

自衛隊員は「災害派遣もわれわれの任務の1つでありますが、士気を高めて」と話した。

天皇陛下は「アスベストとか、いろいろ危険なこともあると思うので、十分に気をつけて作業を進められるよう願っています」と語られた。

南三陸町を離れる際、再び壊滅した町に向かって黙礼された両陛下は、27日午後、仙台で避難所を訪問したあと、27日夜には東京に戻られることになっている。

ご高齢にもかかわらず、現地で宿泊せず日帰りされる理由について、皇室を担当するフジテレビの宮崎千歳記者は、「どうしても泊まりがけで被災地をお見舞いされると、現地で警備を含めた負担が非常に大きくなってしまうので、被災地をお見舞いされる際は、必ず日帰りで帰ってこられるというスケジュールをいつも組まれています。もう一方で、車で現地を移動されると、交通規制をかけることになってしまったり。なるべくヘリポートから近い場所の避難所を、最小限の車の移動で訪れる。そういう配慮もなさっていると聞いております」と話した。

両陛下は、5月2日に岩手県を、そして5月11日に福島県を訪問されることになっている。

【私の論評】 「五年の昔の禍を思ふとき復興の様しみてうれしき」 という陛下の御製を今回の震災復興でも実現しよう!!




日本の国土は地震や台風が多く、時として国民が大きな被害を受けることも少なくありません。大きな災害で被害が出る度に、天皇皇后両陛下は災害に苦しむ住民達の避難所を御訪問され、慰め励まし、そのことが被災者の人々に大きな勇気を与えています。阪神淡路大震災や新潟中越地震による大きな被害は未だ記憶に新しいですが、この時も余震の危険性が大きいにも関わらず、天皇皇后両陛下は積極的に現地の避難所を御訪問されています。そうして、今回も精力的にご訪問されています。

私たちの日本国は、古くから天皇陛下を頂点とする伝統文化に培われた国です。私たち、日本人が、この度のような震災にあってもうろたえることなく、淡々として、平静を保っておられるのは、こうした古い歴史があり、すべての国民が陛下を頂点としてつながっている連帯しているという気持ちがあるからに他なりません。

阪神淡路大震災の時に避難所を天皇皇后両陛下が御訪問した際のインターネット上の書込みを集めてみたので、参考にして下さい。


以下はインターネット掲示板の書込みより
○388 名前: 底名無しさんダーバード 投稿日: 03/01/20 22:59 ID:UGx1q9eh

私が西宮の避難所にいるとき、天皇陛下と皇后陛下が訪問してくださいました。お付きの方もいらっしゃいましたが、天皇・皇后両陛下は御自分で動き回られ、 避難所にひかれた毛布の上に膝をつかれて、避難所にいるほとんど全ての被災者を慰め、励まされておられました。その姿を見て、思わず背筋が伸びたものです。また、両陛下のお姿を拝見していますと、言葉では言い表しがたい勇気のような ものが湧いてきたのも覚えています。
○227 名前: 文責:名無しさん 投稿日: 01/10/09 20:47 ID:CyHxVW0s
阪神大震災とき村山首相が行っても避難所被災者はソッポを向いていたが、両陛下の行幸啓には皆感激し、涙を流す人もいた。 皇室は常に国民とともにあるのだ。理屈ではない。
○811 :名無しさん@6周年:2006/04/11(火) 09:27:00 ID:H8Z1b5en0
皇族の地方公務には意味があるよ。私は阪神大震災経験者。避難所でじっと座っていたら、明日天皇皇后両陛下がいらっしゃるという話を聞いた。マスコミの無神経取材攻勢につかれきっていたし、こんな時になんだよ…と半ば腹立たしく思っていた。両陛下がいらして、私は自分のスペースで座ってた。そうしたら、うつむいた視界に、細い膝頭が目に入った。顔を上げたら、ものすごく優しそうな、でも悲しそうな笑みを浮かべた皇后陛下がいらした。『ご家族はご無事でしたか?』と言われ、『妹が…』と答えたら、言葉が続かなかった。妹は、目の前でゆっくり崩れていく建物の下敷きになった。すると、皇后陛下が柔らかく私の手を包んでくれて、『どうか、しっかり生きて。がんばってね。しっかり生きてね』と仰った。お声が震えていらして、まともにお顔をみることは出来なかったけれど、涙ぐんでおられたようだった。あの手の温かさ、優しい気品のある声は、 すさみきった心になんともいえない力をくれたと思う。今でも忘れない。 
以下はあるブログのコメント欄より
○自分は震災当時神戸市民でした。幸い避難所生活はまぬがれましたが、避難所が設立されなかった地域が故に食料などが入手困難になり、かと言って眉毛首相はのん気な発言の繰り返し、完全に孤立した状態で絶望的な気分になっていました。避難された住民なら絶望感はもっと大きかったでしょう。そんな中、天皇・皇后様の避難所訪問のニュースで涙が止まりませんでした。自分達は見捨てられていない、希望を持って前向きに復興へ向かっていこう、とどれだけ勇気付けられたか。Posted by はる at July 24, 2006 12:09 
○被災地の体育館で両陛下を見た者です。お年寄りの方なんて泣いていらっしゃいましたよ。私も大変感激しました。三宮のほうでは右翼の活動家の人も炊き出ししていました。自衛隊の方々の活動も大変丁寧でした。(全壊した家を片付けていただきました)それに引き換え社会党首相のあの態度。マスゴミのあの態度。ニュース報道。神戸市民として忘れはしません。危機的な状況でこそ本当の人間の姿が見えると教わった震災でした。Posted by マジレスでスマソ at July 24, 2006 21:33 
○阪神大震災と皇后陛下、といえば思い出すのが今はなき"FOCUS "に載った一枚の写真。皇后陛下にお声をかけられ、被災以来張りつめていた気持ちがプツンと切れたのか号泣しながら胸にすがりついてしまった若い女性と優しく抱き寄せられる皇后陛下。思い出すだけでなんだか涙が出てしまう。Posted by ばびろん at July 24, 2006 21:14 
○震災・・・いろいろありした 激安で弁当を売っていた弁当屋に長蛇の列ができて列を乱しながら取材、その後行列を尻目にすぐそばでにこやかに自前の弁当を食べていたT〇S。別の肉屋で、これまた激安でブタマン5こ百円というのを聞きつけ行列を無視の上取材をし流れを止め、キレた人(最初は自分です)に次々に文句を浴び逃げてったTV局(どこかは不明)。こんなクズどもに比べりゃ陛下の行為は全然心がこもってます。Posted by 通りすがりの神戸市民 at July 24, 2006 21:43 
以下の記事はhttp://www.nipponkaigi-tokyo.com/tennouheika01.html よりの引用です。
皆さんも記憶に新しい阪神大震災が起こったのは、平成七年一月十七日早朝のことでした。亡くなった人々は六、三〇八人、怪我をした人は四万一五〇〇人にものぼりました。一瞬にして家が崩れ、炎がものすごい勢いで街を包みます。崩れた家の下敷きになった家族がまだ生きているのに助け出すこともできません。危うく逃げ出せた人も、凍てつく寒さの中に放り出されたのです。生き地獄だ、と人々は思いました。深い悲しみの中で人々は地域の小学校などで避難生活を始めました。 
しかし、お腹がすいているのに食べ物は届かず、病院には怪我をした人があふれ返っています。電車やバスなどの交通は断たれ、電話も通じません。被災地の人々を助被災者を温かく励まされる天皇・皇后両陛下(神戸市)けにいくことも思う通りになりませんでした。それでも、自衛隊や民間で援助にあたる人々のお陰で、一人、また一人と救い出されていきました。その様子をテレビで見た人々は「ああよかった。」とほっとしました。それでも、家や家族を失った人々の悲しみは深く残ります。そのような中でのことでした。天皇陛下は皇后陛下とともに、被災地を訪問されました。そして、悲しみで沈みきった人々に、膝をついて言葉をかけられ、手を握って励まし続けられたのです。人々からは口々に「天皇さま、皇后さま、ありがとうございます。」と感謝の声があがりました。 
「子供たちも悲しい思いをしている時に、両陛下から『希望を持って生きてください』と言われうれしかった。これからの生活に励みが出てきました。」(三十代の女性教諭)
「皇后さまが手を握ってくださって、あたたかいお手やった。」(神戸市長田区の被災者)
人々は〝両陛下が自分たちの悲しみをご存知でいらっしゃる〟と思うと胸が熱くなりました。 
また、北海道南西沖地震が奥尻島を襲ったのは、平成五年七月十二日のことでした。死者・行方不明者あわせて一九八人。特にひどかったのは、地震の後の津波による被害で、沿岸の家や人は一瞬にして飲み込まれ、暗い夜の海にさらわれてしまいました。陛下はすぐに奥尻島の各所をまわって被災者をご慰問になり、心から励まされました。
それから五年後の平成十年三月、奥尻島では仮設住宅で暮らしていた島民すべてが、家にもどることができ、また堤防を整えるなど災害に強い町づくりを実現し、復興をなし遂げました。そして、亡くなった方々の慰霊碑も建てられました。 
復興の様子をお聞きになった陛下は次の御製(天皇陛下の和歌を「御製」と言います)を詠まれました。 
    「五年の昔の禍を思ふとき復興の様しみてうれしき」 
 五年の間島民の受けたわざわい(禍)を思い、復興を祈り続けてこられたお気持ちが「しみてうれしき」(しみじみとうれしい)という言葉となってあらわれたお歌です。このように、天皇・皇后両陛下は、喜びも悲しみも常に国民とともにされています。そのお心は、被災した人々にとって明日への希望と生きる力になっているのです。

当時から、わたしは函館にいましたから、この地震と津波のことははっきり覚えています。函館の被害はさほどではありませんでしたが、奥尻の特に沿岸部の惨状は酷いもので、それこそ、今回の震災の時の津波と変わらぬというか、その中でも大きな30m級の津波に襲われました。

当社の従業員で直接被災された方いませんでしたが、一人、奥さんが奥尻出身という方がおられ、その方の話によれば、奥さんの実家で亡くなった方はいなかったものの、その奥さんの父親が、津波に流され、無我夢中でたまたま通りかかった太い幹の木にしがみついて、命からがら助かったという話をききました。この方、はるか沖までながされて、イカ釣り船に救助されたそうです。こういう生々しい、記憶も残っていたものですから、それから、5年後陛下がこの歌を詠まれたことを知り、深い感銘を覚えたものです。
(一部略)
以下は新潟中越地震での両陛下の避難所ご訪問の中日新聞記事です。
「つらかったでしょう。お体どうですか」。新潟県中越地震の被災地に入った天皇、皇后両陛下は6日午後、約2300人が身を寄せる被災地最大の避難所、小千谷市の市総合体育館を訪問。割れたガラスなど激しい地震のつめ跡が残る中、予定時間を超え、避難生活を続ける被災者をねぎらった。 
体育館内で両陛下は被災者の輪にひざをつき「余震が早くなくなるといいね」「無事でよかった」と一人ひとりを励ました。滞在中に余震が2度あり、周囲がざわついたが、両陛下は驚いた様子もなく声を掛け続け、皇后さまが赤ちゃんのほおを手でさする場面も。ボランティアの若者たちには「よろしくね」と声を掛けた。 
体育館玄関口で両陛下は、毛布にくるまり車いすで並んでいたお年寄りたちに歩み寄って「大丈夫ですか」と手を握った。地震で家が壊れ、市内の中学校のグラウンドでテント生活を強いられている杵渕良枝さん(70)は「ボランティアの人に連れてきてもらった。(陛下は)温かい手だった」と涙ぐんだ。 
両陛下は6日夜、自衛隊機で帰京した。 
ニュース引用元 中日新聞 http://www.chunichi.co.jp/hold2004/ch-jisin/041107T1148001.html
 菅政権は、震災や、それにともなう原発事故の対応のまずさから、党内外から批判にあっています。なにしろ、菅さんは、福島原発の訪問のタイミングを誤ったりしています。仕方ないといえば、仕方ないですが、それにしても、今のこの時期に、醜い、国民を無視した政局にあけくれているというのが、現在の為政者達です。こんなときくらい、国民のためだけを考えて粉骨砕身できないのかと、思うのは私だけでしょうか?

今と昔とは違うなどということを言われる人もいますが、あの台湾の前李登輝総統は、台湾で大洪水があって、大きな被害がでたときに、とにかく、銀行にある現金を全部手元にあつめ、それを持って被災地に訪れ、現場の責任者を激励するとともに、お金を直接わたして、復興にあたらせたそうです。

このようなことは、無論、台湾でも、法律に違反しています。無論、超法規的措置であったことはいうまでもありません。しかし、非常事態の最中でしたし、それで助かった人たちも多かったためですか、いまだに李登輝元総統が訴訟されることはないですし、非難する人もだれもいません。李登輝総統は、そのときは、無論、法律違反をしていることを理解していたでしょう。しかし、当時は、そんなことを気にするより、早く国民を助けることを優先したのでしょう。後から、訴えられることでもあれば、甘んじて受けようと考えていたに違いありません。

為政者であっても、このようなことをする人がいます。しかし、今の日本は、どうかといえば、被災地の津波で水をかぶってつかえなくなったような車でさえ、私有物だからといって、法律上では勝手に動かすことができないなどの理由で、動かせず、それが、復興の妨げになっています。何とも情けないです。まず、国が災害と特別法をつくることとし、それが間に合わなければ、地方自治体が条例をつくるとか、あるいは、それさえ間に合わないなら、何らかの方法でさっさと撤去できる体制をととのえるべきです。


ところで、台湾といえば。台湾の人たちが東日本大震災のために寄付した金額は100億円を超えているにもかかわらず、日本政府は台湾の新聞にお礼広告を掲載していません。他国の新聞には掲載しているものの、想像をはるかに上回る金額を寄付してくれた台湾の新聞には、正式にお礼の言葉を掲載していないのです。そこで「親切にされたら御礼をするのは常識なのでは?」と思った日本人女性デザイナー・木坂麻衣子さんが『謝謝台湾計画』を計画しています。民間から、返礼をしようとの動きです。


大陸中国に対しては、新聞広告を掲載しているのに、台湾には掲載しないというのは、やはり、大陸中国におもねってのことでしょうか?困ったものです。昨年のあの尖閣問題で、中国の異質性を国民も、政府も思い知らされたはずです。いまは、台湾との友好関係を大事にすべきときです。

現在の政権など、歴史の悠久の流れの中に咲いた一時の徒花に過ぎません。1,000年に一度の大きな被災やそこからの復興も、ほんの一時のことに過ぎません。2670年以上の歴史を持つ天皇をはじめとする私たち日本人の日本の伝統文化は、これからも悠久の歴史の中に燦然として輝き続けるどころか、さらに輝きを増すことでしょう。

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