2026年8月2日日曜日

日本製部品はなぜロシア兵器へ流れるのか――GRU「第20総局」と“スパイ天国”日本

まとめ

  • 米紙ニューヨーク・タイムズは、ロシア軍参謀本部情報総局(GRU)の秘密部門「第20総局」が、東京・虎ノ門のアエロフロート事務所を場として、ロシアの兵器生産に必要な軍民両用品を日本で調達していた疑いを報じた。ロシア独立系調査報道機関も、中心人物とされた男性とGRUとの関係を独自に確認している。
  • ウクライナ側が示した「90%」とは、ロシアが使用する巡航ミサイルや無人機の約90%の機種から、何らかの日本製部品が確認されたという趣旨である。一方、ウクライナ製無人機も中国製を中心とする外国部品に依存し、日本製カメラ部品の使用例もある。問うべきは外国部品の存在自体ではなく、制裁下のロシアが日本を秘密調達の足場にした疑いである。
  • 我が国では7月31日に国家情報局が発足した。しかし、新組織の中心的な役割は各省庁の情報を集約・分析する司令塔機能であり、それだけでスパイ活動や迂回輸出を止められるわけではない。防諜法制、輸出管理、企業の取引審査、同盟・同志国との情報共有を一体で強化する必要がある。

2026年7月31日、ジャーナリストの古森義久氏はJapan In-depthに「ロシアのスパイ活動への日本の無関心」と題する論考を発表した。(出典・参考資料はブログ記事最下部にまとめて掲載。以下同じ)

そこに描かれていたのは、遠い外国の映画のような話ではない。

東京都港区虎ノ門。警察庁から徒歩圏内にあるロシア国営航空会社アエロフロートの事務所が、ロシア軍参謀本部情報総局、GRUによる技術調達工作の拠点になっていたという疑惑である。

ロシアはウクライナへの全面侵攻後、米欧諸国による制裁で、半導体、通信機器、工作機械、誘導装置などの入手を難しくされた。ところが、ロシア軍のミサイルや無人機からは今も外国製部品が見つかる。その中には日本製の民生部品も含まれている。

もちろん、部品が見つかったというだけで、日本企業がロシア軍へ直接販売したことにはならない。日本企業が侵略戦争へ意図的に協力したと断定することもできない。多くの部品は、家電、自動車、通信機器、産業機械にも使われる軍民両用品であり、正規の流通後に第三国の業者を経て転売されるからである。

問題はそこにある。

ロシアの情報機関は、日本企業の悪意ではなく、日本の技術力、自由な経済活動、複雑な流通網、そして法制度と行政組織の隙間を利用しているのではないか。

我が国は本当に「スパイ天国」なのか。国家情報局の発足によって何が変わり、何が変わらないのか。感情的な外国人排斥に陥ることなく、国家として埋めるべき穴を考えたい。

1️⃣ 虎ノ門のロシア航空事務所――GRU「第20総局」は何をしていたのか

ニューヨーク・タイムズは7月12日、現職と元職を含む5つの西側情報機関の関係者への取材を基に、日本国内におけるロシアの情報活動を報じた。

報道によれば、活動の中心にあるのはGRUの秘密部門「第20総局」である。要員は外交官やロシア企業の社員を装い、ロシアの兵器生産に必要な技術や装置を購入し、ときには不正に入手し、第三国を経由してロシアへ送る役割を担っているとされる。

東京での責任者と名指しされたのが、マキシム・ウラジミロビッチ・フィルチェンコフ氏である。49歳の同氏は2024年2月に来日し、アエロフロート社員の肩書で活動していたと報じられた。日本の物流企業と接触し、ロシア向け貨物を扱う経路づくりに関与したとの証言もある。

これは現時点で、日本の司法機関が有罪と認定した事実ではない。本人の反論を十分に確認できていない点にも留意が必要である。

一方、ロシアの独立系調査報道機関The Insiderは、フィルチェンコフ氏がかつて登録していた住所が、GRUの軍事外交アカデミーの学生寮と一致し、同氏の車両記録からGRU本部への出入りも確認できるとして、同氏がGRU将校であるとの調査結果を公表した。

日本がロシアの情報活動の対象となったのは、今回が初めてではない。

警察庁がまとめた過去の摘発事例には、在日ロシア通商代表部員による先端科学技術資料の入手工作、GRU機関員とみられる駐在武官への自衛隊資料の交付、通信関連会社からの営業秘密の不正取得などが並ぶ。工作の対象は、防衛機密だけではない。民間企業が持つ通信、電子、素材、工作機械の情報も、軍事力に変換できる国家資産である。

欧州各国がウクライナ侵攻後に多数のロシア情報機関員を追放したことで、活動の場が比較的規制の弱い国へ移った可能性はある。日本に高度な民生技術が集積し、ロシアとの物流・人的関係も残っているなら、技術調達の足場として狙われることは不思議ではない。

東京のオフィス街を足場とする秘密調達活動のイメージ(AI生成画像)

しかし、日本社会の反応はあまりに静かだった。

政府は報道後、我が国の安全保障を脅かす外国情報活動への対処を一層厳格に進める必要性を認めた。したがって、政府が何も認識していないと断定するのは正確ではない。

それでも、誰がどの法律に違反した疑いがあるのか、国外退去を求めたのか、どの調達網を遮断したのかといった目に見える説明は限られている。水面下の捜査をすべて公表することはできないとしても、国民や企業が同種の工作を見抜くために必要な情報まで乏しければ、次の調達担当者が同じ穴を利用するだけである。

2️⃣ 「日本製部品が90%」をどう読むか――ウクライナ側も外国部品に依存する

この問題を論じる際、最も慎重に扱わなければならないのが「90%」という数字である。

ウクライナ政府関係者が共同通信などに示した説明では、ロシアがウクライナ侵略で使用する巡航ミサイルや無人機の約90%の機種から、日本製部品が確認されたという。これは、兵器に搭載された全部品の90%が日本製だという意味ではない。

一つの日本製コンデンサーやセンサーが確認された機種も、「日本製部品を含む機種」として数えられる。数字を大きく見せるための言い換えをすれば、問題の本質をかえって見失う。

ウクライナ大統領府は7月3日、過去6か月にロシアがキーウと周辺地域へ発射した無人機やミサイルに、合計3万5,000点の外国製部品が含まれていたと発表した。製造国として挙げられたのは、日本だけではない。米国、ドイツ、台湾、スイス、中国なども含まれる。ウクライナ側は、無人機では中国製部品が最も多いとも説明している。

したがって、「ロシア兵器は日本製部品でできている」と断定するのは誤りである。

無人機を支える外国製部品と国際供給網のイメージ(AI生成画像)

では、ロシアを批判するウクライナのミサイルや無人機は、外国製部品を使っていないのだろうか。

答えは否である。

ウクライナ国防省によると、2026年に国防軍が調達した無人機の95%はウクライナ製である。しかし、この数字が示すのは、完成品を製造・組み立てた国であり、搭載部品の95%がウクライナ国産だという意味ではない。

ウクライナの防衛技術組織Brave1とキーウ経済大学KSE Instituteの調査では、2024年1月から5月までにウクライナが輸入した無人機部品は4,100万ドルに上り、このうち89%が中国、4%がフランス、2.3%がオーストリアからの輸入だった。日本は独立項目として示されておらず、含まれていたとしても残る国々の中である。

少なくとも2024年時点で、ウクライナのFPV無人機産業は、飛行制御装置、モーター、カメラ、通信部品などを中国へ強く依存していた。国内で機体を設計し、組み立て、ソフトウェアを開発しても、重要部品の供給を外国に握られているという構造である。

日本製部品の使用例も報告されている。

英国王立防衛安全保障研究所、RUSIの2025年の調査では、ウクライナ国内で日本製部品を使って無人機用カメラを組み立てているとの業界関係者の証言が紹介された。ただし、中国製部品を使う場合より大幅に高価になるという。同報告書は、FPV用カメラの一部にソニー製画像センサーが使われている例も挙げている。

日本政府も2022年以降、防衛装備移転三原則と自衛隊法の範囲内で、ウクライナ政府へ非殺傷用途の小型ドローンを提供してきた。型式、数量、現在の運用状況は公表されていないが、日本からウクライナ側へ無人機が渡ったこと自体は政府が明らかにしている。

ミサイルについては、さらに公開情報が少ない。ネプチューン巡航ミサイルはウクライナが設計・開発した兵器であるが、誘導装置、半導体、光学部品、通信装置などの製造国別構成は公表されていない。ロシア兵器の残骸を調べた「War & Sanctions」のような包括的データベースも、ウクライナ製ミサイルについては確認できない。

したがって、ウクライナ製ミサイルに日本製部品が入っている可能性は否定できないものの、その有無や比率を断定できる公開証拠はない。「ウクライナ製だから全部品も国産だ」とみなすのも、「日本製部品が大量に使われている」と推測で決めつけるのも適切ではない。

ロシアもウクライナも、現代のミサイルや無人機を外国製の民生・軍民両用部品なしに量産することは難しい。この点は公平に認める必要がある。

ただし、両者の法的・政策的な位置づけは同じではない。

ウクライナへの部品輸出や装備支援は、各国の法令に従った商取引や政府支援として行われている。一方、ロシアは日本を含む各国の輸出制裁の対象であり、規制品を第三国や偽装された最終需要者を通じて入手すれば、制裁逃れや不正輸出が問題になる。

つまり、外国製部品が兵器に入っているという事実だけで、直ちに違法性が生じるわけではない。本稿で問うているのは、日本製部品の存在そのものではなく、ロシア情報機関が日本国内で身分や最終用途を隠し、規制を回避する調達活動を進めていた疑いである。

しかし、だから日本には責任がないという結論にもならない。

日本製品は、長寿命、高精度、小型、省電力という特徴を持つ。自動車や産業機械向けに大量生産された部品であっても、誘導装置、通信機器、無人機、工作機械へ転用できる。ロシアにとって、日本の民生市場は軍事生産を支える部品庫になり得る。

経済産業省は半導体や工作機械を含む対ロシア輸出規制を実施し、第三国経由で規制品をロシアへ送る迂回輸出は犯罪だと明記している。政府が規制を全く行っていないわけではない。

難しいのは、日本から最初の輸出先となる国や企業が正当な取引相手に見える場合である。ベトナム、中央アジア、中東などの販売会社が民生目的で購入し、別の仲介業者へ再販売すれば、製造元が最終需要者を把握することは容易ではない。小型の電子部品は数も多く、一件ずつ追跡するコストも大きい。

だからこそ、企業へ「注意せよ」と呼びかけるだけでは足りない。

政府は、ウクライナ側から提供される部品の型番や製造番号、西側情報機関が把握する調達担当者、制裁後に取引量が急増した第三国企業、通常とは異なる輸送経路などを統合し、リスク情報として企業や金融機関、物流会社へ迅速に還元する必要がある。

企業側も、販売先の国名だけでなく、最終需要者、用途、支払者、貨物の経路を確認しなければならない。制裁前には取引実績のなかった国から、軍民両用部品の大量注文が突然入る。製品知識のない買い手が詳細な仕様だけを指定する。複数の仲介会社が不自然に挟まる。こうした兆候を現場で止める仕組みが必要である。

中小企業に重い調査義務だけを負わせるのも現実的ではない。政府が共通の照会窓口、取引審査の指針、専門人材、費用支援を用意しなければ、輸出管理は大企業だけが守れる制度になってしまう。

日本企業を根拠なく犯罪者扱いするのではなく、外国情報機関や調達網に利用されないよう守る。それが経済安全保障である。

3️⃣ 国家情報局は発足した――だが「司令塔」だけではスパイを止められない

奇しくもJapan In-depthの記事が掲載された7月31日、我が国では国家情報局が発足した。初代局長には原和也内閣情報官が就任した。

国家情報会議設置法は6月3日に公布され、内閣情報調査室を国家情報局へ改組した。国家情報局は、警察、公安調査庁、外務省、防衛省、経済産業省などに分散してきた情報を集約し、政府の意思決定へつなぐ司令塔となる。

これは必要な改革である。

ロシアの要員を警察が把握し、輸出品の流れを経済産業省が把握し、外交上の警告を外務省が受け取り、戦場で回収された部品情報を防衛・情報部門が入手していても、それぞれが別々に保有していては全体像が見えない。今回のような技術調達工作は、まさに省庁の境界をまたぐからである。

省庁横断の情報集約と民主的統制を表すイメージ(AI生成画像)

ただし、国家情報局の創設を「日本版CIAができた」と理解するのは早計である。

政府は国会審議で、国家情報会議設置法は行政機関相互の関係を定めるもので、国家情報会議や国家情報局に国民の権利義務へ直接関わる新たな権限を与えるものではないと説明している。つまり、情報を集約・分析する司令塔ができても、それだけで外国情報機関員を逮捕したり、通信を強制的に取得したり、秘密工作そのものを処罰したりできるわけではない。

我が国には、営業秘密の不正取得、国家公務員の守秘義務違反、特定秘密の漏えい、不正輸出などを個別に処罰する法律がある。だが、外国政府のために秘密情報を探り、人脈をつくり、合法と違法の境界を利用しながら調達や影響工作を進める行為を、全体として捉える包括的な法制度は整っていない。

必要なのは、「スパイ防止法」という名前だけを先に掲げることではない。

何を保護すべき秘密とするのか。外国政府の指示や利益のために行動していることを、どのような証拠で認定するのか。秘密情報の不正取得、軍民両用品の偽装調達、外国政府の代理人であることを隠した政治工作を、どこまで規制するのか。報道、学術研究、内部告発、正当な外交・企業活動をどう守るのか。捜査には令状を求め、独立した監督と国会による検証をどう組み込むのか。

これらを具体的に定めなければ、安全保障の名の下に国民の自由を不当に狭める法律にも、逆に抜け穴だらけで実効性のない法律にもなり得る。

安全保障か人権かという二者択一ではない。外国情報機関の活動を法に基づいて取り締まり、同時に情報機関の権限を法と国会で統制する。その両方を整えることが、自由な社会の防諜である。

国家情報局には、まず今回の疑惑を省庁横断の最初の試金石として扱ってもらいたい。GRUの調達網はどこまで把握されていたのか。ウクライナから届いた製造番号は関係企業へ伝わったのか。第三国の仲介企業や物流網は制裁対象になったのか。日本から出た部品が再びロシア兵器で見つかった場合、誰が調査を主導するのか。

組織の看板ではなく、この問いへの答えによって国家情報局の価値は測られる。

結論 開かれた社会を守るために、無防備であってはならない

ロシア軍のミサイルや無人機から日本製部品が見つかった。

その事実だけで、日本企業が侵略戦争に加担したと非難することはできない。部品の多くは民生用であり、第三国を経由して流通した可能性が高い。企業が最終用途を知らなかったとしても不思議ではない。

ウクライナ製無人機も外国部品に依存し、日本製カメラ部品の使用例がある。したがって、外国部品を使うこと自体をロシアだけの特殊な問題として扱ってはならない。違いは、合法的な輸入・支援として行われているのか、制裁と輸出規制を破るために身分、用途、輸送先を偽装しているのかにある。

しかし、「知らなかった」で国家の責任まで終わらせることもできない。

外国情報機関が我が国の自由な市場へ入り込み、企業や物流網を利用し、侵略兵器に必要な技術を調達していた疑いがあるなら、それを解明し、次を止めるのは政府の仕事である。自由な経済活動は、外国政府の秘密調達を自由にするためにあるのではない。

我が国に必要なのは、国籍だけを理由に人を疑う社会ではない。外国政府の指示を隠した工作、秘密情報の不正取得、制裁逃れの偽装取引を、行為と証拠に基づいて見抜ける国家である。

国家情報局の発足は、その第一歩になり得る。だが、情報を集めるだけでは足りない。適切な防諜法制、輸出管理の執行力、製造番号を追跡するデータ基盤、企業への実務支援、同盟・同志国との情報共有、そして情報機関を監督する民主的統制が必要である。

日本の精密部品と製造技術は、我が国が長年積み上げてきた国家資産である。それが、ウクライナの民間人を攻撃する兵器や、将来我が国を脅かす装備へ組み込まれることを放置してはならない。

「日本はスパイ天国なのか」という問いに、言葉で反発しても意味はない。

調達網を断ち、企業を守り、自由と安全を両立する制度をつくる。その結果によってのみ、我が国はこの不名誉な呼び名を返上できるのである。

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【出典・参考資料】

本文中の数値や事実関係は、以下の政府資料、研究報告および原報道を基に確認した。人物・組織に関する疑惑は司法判断で確定した事実ではなく、各報道・調査の内容として記載している。

  1. Japan In-depth「ロシアのスパイ活動への日本の無関心」 — GRU「第20総局」の対日活動疑惑と、日本側の対応をめぐる論考。
  2. The Insider “The Insider confirms that an Aeroflot employee who procured military technology in Japan is a GRU officer” — フィルチェンコフ氏の登録住所や車両記録などを検証した調査報道。
  3. 警察庁「焦点 第294号」 — ロシアによる過去の対日諸工作と摘発事例。
  4. 共同通信配信「『ロシア兵器9割に日本部品』ミサイルや無人機に転用」 — 日本製部品が確認された「約90%」の対象が兵器の機種であることを確認する報道。
  5. ウクライナ大統領府「ロシア兵器に含まれる外国製部品の製造番号提供」 — 過去6か月の攻撃兵器に3万5,000点の外国製部品が含まれたとの説明。
  6. ウクライナ国防省「調達無人機の95%がウクライナ製」 — 完成品・調達ベースの比率であり、部品国産化率ではない。
  7. Brave1・KSE Institute “Ukraine’s Drones Industry” — ウクライナの無人機産業と部品輸入の構造を扱う報告書。
  8. RUSI “Drones: Decoupling Supply Chains from China” — ウクライナの無人機用カメラ、日本製部品およびソニー製画像センサーの使用例。
  9. 防衛省「ウクライナへの装備品等の提供について」 — 日本政府による非殺傷用途の小型ドローン提供。
  10. 経済産業省「ロシアへの迂回輸出は犯罪です」 — 第三国経由を含む対ロシア迂回輸出への注意喚起。
  11. 衆議院「国家情報会議設置法案」審議経過 — 法案の審議と公布に関する国会資料。
  12. 衆議院内閣委員会会議録(2026年4月22日) — 国家情報局の権限と国民の権利義務に関する政府答弁。
  13. 衆議院「国家情報会議設置法案に対する附帯決議」 — 民主的統制、監督および権利利益への配慮。

2026年8月1日土曜日

宇波弘貴氏が財務事務次官へ――「踏み絵」を越え、成長と財政を両立する新章

まとめ

  • 7月10日の当ブログ記事では、例年の時期を過ぎても次官交代が決まらない状態を「決着の先送り」と評した。その人事は、宇波弘貴氏の事務次官起用で決着した。坂本基主計局長、前田努官房長、中山光輝総括審議官らを配し、国際部門は留任とする新体制は、経験と連続性を備えた「重厚な実行布陣」である。
  • 宇波氏は主計、主税、官邸、在フランス大使館を歩き、成長の重要性を認めながら、社会保障の持続可能性、市場の信認、有事への財政余力も重視してきた。単純な「緊縮派」「積極財政派」という二分法では捉えられない実務家である。
  • 骨太方針2026は、債務残高対GDP比の安定的低下を中核に置きつつ、危機管理投資・成長投資と複数年度予算を進める枠組みを定めた。宇波新次官に求められるのは、規律を理由に投資を止めることではなく、良い投資を選び、実行し、成果を検証する財務省への転換である。

7月10日、私は「高市政権、財務省に踏み絵――令和8年人事と骨太方針で始まった本当の戦い」と題する記事を書いた。あの時点では、新川浩嗣事務次官が留任し、宇波弘貴主計局長も据え置かれていた。例年なら幹部人事が動いても不思議ではない時期を迎えながら、事務方トップの交代は決まらない。私はそれを、高市政権が骨太方針で政治の意思を示したうえで、財務省が「責任ある積極財政」を実務に落とせるか見極める猶予だと論じた。

今は違う。7月31日、片山さつき財務相は、宇波主計局長を財務事務次官に起用する幹部人事を正式に発表した。前回の記事で「決着の先送り」と書いた人事は、3週間後に決着したのである。これは財務省が高市政権に全面降伏したという話でも、緊縮の時代が一夜で終わったという話でもない。しかし、官邸が宇波氏を排除せず、事務方トップとして責任ある積極財政の実装を任せる道を選んだ意味は大きい。今回の人事は「踏み絵」の後に示された信任であり、我が国の財政運営が対立から実行へ移る好機である。

1️⃣「決着の先送り」は終わった――宇波昇格と新布陣が示すもの

前回記事の時点で、財務省の公式名簿は新川次官、宇波主計局長という布陣だった。宇波氏は中枢から外されたのではない。各省の概算要求を査定し、政府予算案の実務を担う主計局に残った。高市政権が掲げる減税、物価高対策、防衛力強化、AI・半導体、エネルギー、国土強靱化などを予算へ翻訳する、最も難しい現場を任され続けたのである。

財務省の廊下から見える永田町の官庁 AI生成画像以下同じ

その宇波氏を次官に上げたことは、少なくとも「高市政権の方針を理解できない人物」と官邸が判断しなかったことを意味する。むしろ、組織の連続性を保ちながら新しい財政運営へ移るため、主計局の実務、官邸の論理、税と社会保障の難しさを知る人物に責任を負わせた、と読むべきだろう。懲罰人事で財務省を混乱させるのではなく、方針を示し、理解する者を使い、結果を求める。これは政治主導の一つの成熟した形である。

今回の人事では、宇波氏の去就が注目されながら、最終的な時期と布陣は事前に漏れなかった。国会同意を要する日銀人事と異なり、財務省の幹部人事で事前情報が出ないこと自体は異例ではないが、官邸と片山財務相による慎重な情報管理がうかがえる。ただし、これだけで財務省を完全に押さえ込んだと断定することはできない。

今回の人事は「宇波次官」だけを見ていては全体像を見誤る。片山財務相が発表したのは、宇波氏の後任の主計局長に坂本基官房長、官房長に前田努総括審議官、総括審議官に中山光輝主計局次長を充てる連鎖人事である。税の部門では、青木孝徳主税局長が国税庁長官へ移り、植松利夫主税局審議官が主税局長へ昇格する。さらに、阿久澤孝内閣府政策統括官を理財局長に、小宮敦史東京国税局長を財務総合政策研究所長に起用する。一方、三村淳財務官、寺岡光博関税局長、緒方健太郎国際局長は留任する。予算、税制、国債、国際金融という財務省の主要機能を一度に見渡して配置した人事である。

この中で、宇波氏の昇格に次いで重要なのは坂本氏の主計局長就任だ。坂本氏は主税畑を長く歩き、内閣官房で新型コロナ対策にも携わり、官房長として省内運営と国会対応を担ってきた。予算一筋の人物ではなく、税制、官邸、危機対応、組織調整を知る人物を予算編成の責任者に置いたことになる。これは、骨太方針2026が求める予算編成改革に適した選択だ。減税、社会保障財源、成長投資、国債発行は別々には処理できない。歳出を査定する技術だけでなく、歳入と政治過程を含めて全体を組み立てる力が必要だからである。

前田氏の官房長就任と中山氏の総括審議官就任も、地味に見えて重要である。前田氏は主計局次長を経て総括審議官を務めており、予算実務と省全体の政策調整を知る。その前田氏が人事、国会、危機管理を束ねる官房長に就くことで、宇波次官と坂本主計局長の間を支える組織運営の軸ができる。中山氏は主計局次長から総括審議官へ移るため、予算現場の知識が省横断の政策調整へ直結する。宇波、坂本、前田、中山という並びは、単なる年次順の椅子替えではなく、予算編成改革を省内の各層へ浸透させる縦の連携として評価できる。

税部門の人事も理にかなっている。青木氏は主計官、官房長、主税局長を経験し、税制の司令塔から徴税実務の最高責任者である国税庁長官へ移る。植松新主税局長は主税局審議官からの昇格であり、制度設計の継続性を保てる。食料品の消費税率引下げや給付付き税額控除など、制度変更の速さと正確さが同時に問われる局面では、企画する主税局と執行する国税庁の双方に税の実務家を置く意味は大きい。減税を政治的スローガンで終わらせず、事業者の準備、システム改修、納税実務まで落とし込むための布陣と見ることができる。

阿久澤氏を内閣府から理財局長へ迎える人事には、官邸の経済社会政策と国債管理、財政投融資、国有財産をつなぐ狙いがにじむ。成長投資を拡大するほど、どのような年限で国債を発行し、市場と対話し、政府資産を活用するかが重要になる。小宮氏を東京国税局長から財務総合政策研究所長へ移す人事も、税務の現場感覚を中長期の政策研究へ持ち込む点で興味深い。そして三村財務官、寺岡関税局長、緒方国際局長を留任させたことで、為替、国際金融、関税、経済安全保障の外向きの仕事には連続性を確保した。内政の実行部隊は組み替え、国際部門は安定させる。総じて、片山財務相自身が会見で述べた通り、経験を重視した「重厚」な人事であり、私はこれを前向きに評価したい。

もちろん、財務事務次官は政策を独断で決める立場ではない。予算案を作成するのは内閣であり、予算を議決するのは国会である。財務大臣をはじめとする政治家が方針を決め、事務次官は省内を統括して実務を遂行する。だから今回の人事を、宇波氏個人が日本の財政を自由に動かす出来事として語るのは正確ではない。

それでも、誰が次官になるかは重要だ。政治の方針は、制度、査定、各省協議、法案、国債管理、執行管理へ翻訳されなければ国民生活に届かない。文章に書かれた「成長投資」を、予算の現場で従来型の一律抑制に戻すこともできれば、投資効果を厳しく見ながら将来の供給力へつなぐこともできる。次官はその組織運営の中心にいる。今回の昇格は、戦いの終わりではない。戦い方が、人事をめぐる牽制から、予算をつくる共同作業へ変わったのである。

2️⃣主計・主税・官邸を歩いた実務家――宇波氏の経歴と財政観

宇波弘貴氏は1964年11月28日、東京都生まれ。東京大学経済学部を卒業し、1989年に大蔵省へ入省した。伊勢税務署長、厚生省児童家庭局・保険局、主計局、国際局、在フランス日本国大使館、主税局などを経験し、枝野幸男、藤村修両官房長官の秘書官事務取扱も務めた。さらに主計官として経済産業・環境、厚生労働を担当し、大臣官房総合政策課長、主計局次長、岸田文雄首相の秘書官、大臣官房長を経て、2024年7月に主計局長へ就いた。

この経歴から見えるのは、単なる「予算を削る人」ではない。社会保障の給付と負担、産業政策、税制、マクロ経済、外交、官邸の意思決定を横断してきた人物である。特に厚生労働分野を長く見てきたため、社会保障を数字の帳尻だけで処理できないことも、その持続可能性を無視できないことも知っている。主税局と主計局の双方、さらに官邸を経験したことは、歳出だけ、税収だけ、政治日程だけに偏らず、全体を組み立てるうえで強みになり得る。

予算資料、産業投資の設計図、社会保障を示す書類が一つの机上で結び付く様子を描いた論考用イメージ

宇波氏の財政観は、公的な答弁と議事録からかなり明確に読み取れる。2021年の衆院厚生労働委員会では、債務残高対GDP比を引き下げるうえで、その分母であるGDPを増やすことは重要だと認めた。その一方、高齢化で医療・介護費が増える以上、成長だけですべてが解決するわけではなく、社会保障の持続可能性を高める改革も必要だと説明した。これは「何が何でも歳出削減」という主張ではない。経済再生と財政健全化を両立させるという、一貫した考え方である。

2025年6月の財務省政策評価懇談会でも、宇波主計局長はGX、AI、半導体への投資について、将来の財源を確保しながら多年度の投資枠へ変え、予見可能性を持って進める考えを示している。同時に、国債への信認、社会保障の持続可能性、有事に対応できる財政余力にも言及した。ここに宇波氏の特徴がある。必要な投資を否定するのではなく、単年度の補正予算で膨らませて終わるのでもなく、継続可能な制度として設計しようとするのである。

この慎重さを、従来型の緊縮と同一視すべきではない。むしろ、責任ある積極財政に必要なのは、無条件の支出拡大ではなく、成長力、供給力、危機対応力を高める支出を選び、複数年度で実行し、成果の乏しい事業を見直す能力である。宇波氏は財政規律を捨てる人物ではない。だが、新しい枠組みの下では、その規律を「投資を止める壁」ではなく「良い投資を長く続ける土台」へ変えられる可能性がある。

3️⃣信任を結果に変えよ――予算で始まる新しい財務省

7月21日に閣議決定された骨太方針2026は、副題に「『責任ある積極財政』元年」を掲げた。財政運営の中核目標を債務残高対GDP比の安定的低下に置き、経済の成長力と名目経済規模の拡大にふさわしい予算編成へ転換する。危機管理投資・成長投資のための「強く豊かな日本」投資枠、複数年度予算、補正予算依存からの脱却も示された。前回記事で「踏み絵」と呼んだ方針は、もはや原案ではなく政府の正式な基本方針である。

明るい日本列島の上に半導体工場、送電網、港湾、医療、防災の基盤がつながる未来投資の論考用イメージ

この枠組みは、宇波氏が従来語ってきた考えと、意外なほど接点がある。GDPを増やすことを重視する。GX、AI、半導体などの投資を多年度で行う。国債市場の信認と有事の余力も確保する。違いがあるとすれば、政策の重心である。従来は財政健全化の内側で必要な投資を認める発想が強かった。高市政権は、供給力を増やす投資によって強い経済をつくり、その結果として財政の持続可能性も高めるという順序を前面に出した。新次官の仕事は、この順序を省内の実務に定着させることである。

求められるのは、第1に、物価と賃金の上昇を予算へ正しく反映することだ。名目額が増えただけで「歳出膨張」と決めつければ、病院、学校、自治体、インフラ、防衛の現場は実質的に削られる。第2に、AI、半導体、電力網、造船、宇宙、防衛、医薬、重要鉱物、国土強靱化などを、単発の補助金ではなく国家資産形成として複数年度で管理することだ。第3に、投資の名を借りた既得権や効果の乏しい事業を厳しく退けることだ。積極財政に規律は必要である。ただし、その規律は一律削減ではなく、選択、実行、検証、改善の規律でなければならない。

国民が見たいのは、財務省と官邸の勝ち負けではない。賃金が物価に負けず、病院や道路が維持され、災害に備え、エネルギーと産業の基盤が強くなり、若者が国内で働き、企業が日本へ投資する姿である。財政はそのための手段であり、黒字化それ自体が国家の最終目的ではない。同時に、放漫な支出で金利や物価を不安定にし、国民生活を傷つけてもならない。だからこそ、成長と規律の両方を知る宇波氏が、政治の明確な命令の下で力を発揮できる余地がある。

結論

7月10日の時点では、宇波氏の昇格は見送られ、財務省が骨太方針にどう向き合うかも見えなかった。私は、人事の安定を「弱腰」ではなく「猶予」と書いた。今回の人事によって、その猶予には一つの答えが出た。高市政権は宇波氏を切るのではなく、財務事務次官として使い、結果を求める道を選んだのである。

これは明るい材料だ。官僚を敵か味方かで色分けし、組織を壊せば政策が進むわけではない。政治が方向を示し、能力ある実務家が制度へ落とし込み、国会が議論し、結果を国民に説明する。その循環が動き始めるなら、我が国の財政運営は確実に前へ進む。

しかも、今回は宇波次官一人に全てを託す人事ではない。宇波次官の下に、予算を担う坂本氏、組織を束ねる前田氏、横断調整を担う中山氏、税制と税務行政を担う植松・青木両氏を並べ、国際部門には経験者を残した。高市政権の方針に沿って財務省を実際に動かすには、このチームとしての厚みこそ重要である。評価すべきは、誰が「積極財政派」を名乗るかではない。概算要求、税制改正、国債管理、予算執行で、骨太方針の言葉をどこまで現実に変えられるかである。

宇波新次官に必要なのは、昨日までの財務省を守ることではない。財務省が持つ査定力、制度設計力、調整力を、我が国の供給力再建と国家資産形成へ向け直すことである。責任ある積極財政を骨抜きにせず、同時に放漫財政にもさせない。その難しい橋を架けられた時、今回の人事は単なる順送りではなく、財務省が新しい時代へ踏み出した人事として記憶されるだろう。

踏み絵の時間は終わった。ここからは実行の時間である。

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