2026年8月9日日曜日

実質賃金が上がった今、なぜ利上げなのか――景気を冷やす「貧乏神」たち

まとめ
  • 実質賃金はようやく上向いた。いま利上げで需要を冷やせば、30年の停滞から抜け出す芽をまた摘みかねない。
  • 米国では失業率が歴史的低水準まで下がってもインフレは暴走せず、低賃金層や弱い立場の人々にまで雇用の恩恵が広がった。日本も高圧経済を続けるべきだ。
  • 利上げと減税反対の負担を最も重く受けるのは、十分な資産を持たず、毎月の給料で暮らす人々である。なぜ、そこまでして景気を冷やすのか。

日本経済に、ようやく明るい兆しが見え始めている。2026年6月の実質賃金は前年同月比1.6%増となり、6か月連続で前年を上回った。長く物価上昇に賃金が追いつかない状況に苦しんできた我が国にとって、これは歓迎すべき変化である。

しかし、実質賃金が上がったから「これで日銀はさらに利上げできる」と考えるのは逆だ。「改善している」ことと「過熱している」ことは同じではない。6月のコアCPIは前年同月比1.6%であり、家計消費にもなお弱さが残る。日銀はすでに政策金利を1.0%程度まで引き上げているが、今の日本経済に必要なのは、さらに需要を冷やすことではない。

30年余りにわたって失われた賃金、投資、成長期待、供給力は、実質賃金が数か月改善した程度で取り戻せるものではない。今こそ需要を強い状態に保ち、賃金上昇を設備投資、人材投資、省力化、研究開発へつなげ、我が国の供給力を再建するべきである。

そのために必要なのが「高圧経済」だ。

1️⃣実質賃金の改善を「利上げの合図」にしてはならない

日本経済は長年、需要不足に苦しんできた。需要が弱ければ企業は投資を控え、投資が弱ければ生産性は伸びず、賃金も上がりにくい。賃金が伸びなければ家計は消費を抑え、さらに需要が弱くなる。この悪循環が30年近く続いた。

だから実質賃金の改善は、冷やすべき異常ではない。ようやく正常化が始まったということだ。企業が人材を確保するために賃金を上げ、その所得が消費に回り、売上増加を見た企業が設備や人材へ投資する。この循環を十分に続けなければならない。

過去の日銀の経験も、そのことを示唆する。2000年8月、日銀は「デフレ懸念の払拭が展望できる」としてゼロ金利政策を解除した。政府側は時期尚早として議決延期を求めたが、日銀はこれを退けた。その後、内閣府の景気基準日付では、わずか3か月後の2000年11月に景気の山を迎えている。2000年8月11日の金融政策決定会合議事要旨内閣府の景気基準日付で確認できる。

日銀本店 AI生成画像

もちろん、景気後退を日銀の利上げだけで説明することはできない。ITバブル崩壊という大きな外部要因があったからだ。しかし、回復がまだ十分に強くない段階で金融緩和を外せば、外部ショックへの耐久力を弱めかねない。実際、日銀は翌2001年には再び強力な金融緩和へ戻った。2001年3月の日銀の金融政策変更にも、その転換は明記されている。

2006~07年にも日銀は量的緩和解除、ゼロ金利解除、追加利上げと正常化を進めた。その後には世界金融危機が襲った。ここでも重要なのは、「金利を正常な水準へ戻すこと」そのものを目的にしてはならないということである。

金利は目的ではない。経済を成長させ、雇用と賃金を強くし、物価を安定させるための手段である。

2️⃣高圧経済は実際に機能した――米国が示した教訓

高圧経済とは、ただ物価を上げる政策ではない。需要を十分に強く維持し、人手不足を通じて企業に賃上げ、設備投資、省力化、人材育成を促し、最終的に経済の供給力そのものを高める考え方である。

この発想を広く知らしめたのが、FRB議長だったジャネット・イエレンである。2016年、イエレンは強い総需要と逼迫した労働市場を一定期間維持すれば、不況で傷んだ労働参加や設備投資、生産性を回復させられる可能性を指摘した。イエレンFRB議長の2016年講演で確認できる。

重要なのは、その後である。米国ではイエレン退任後のパウエル期にも労働市場の引き締まりが続き、2019年9月には失業率が3.5%まで低下した。約50年ぶりの低水準である。米労働統計局の2019年9月雇用統計にも記録されている。それでもインフレは暴走しなかった。

むしろ強い雇用環境の恩恵は、それまで景気回復から取り残されがちだった人々へ広がった。黒人やヒスパニックなどの失業率は歴史的低水準となり、賃金上昇も低賃金層で強まった。企業は人手不足のため、従来なら採用しなかった人を雇い、訓練し、働き方を柔軟にするようになった。パウエル自身も、強い労働市場の恩恵が低・中所得層へ広がっていることを2019年8月の講演で指摘している。

しかもFRBは2019年、失業率が歴史的低水準にある中で3回、合計0.75%の利下げを行った。強い雇用を「過熱だから冷やすべきだ」と機械的に判断せず、景気拡大を長く続ける価値を認めたのである。FRBの2019年金融政策年次報告でも、この政策転換を確認できる。

これは現在の日本にとって重要な教訓である。

完全雇用だと思った地点が、本当の完全雇用とは限らない。

失業率が低くても、その外側には仕事を諦めていた人がいる。低賃金の仕事から抜け出せない人がいる。育児や介護の事情で働きにくかった人もいる。企業が本当に人手不足になって初めて、より高い賃金や柔軟な働き方を提示し、そうした人々を労働市場へ呼び戻すようになる。

高圧経済とは、景気を良くするだけではない。需要を、人材、設備、技術という供給力へ変える政策である。

需要増加 → 人手不足 → 賃上げ → 設備・人材・省力化投資 → 生産性向上 → さらなる賃上げ。

我が国に必要なのは、この循環である。

そして高圧経済の恩恵を特に必要とするのが、十分な預貯金、株式、不動産などのストックを持たず、毎月の労働所得というフローに生活を依存している人々だ。景気が悪化して残業、賞与、雇用が削られれば、資産の乏しい人ほど直ちに生活へ打撃を受ける。とりわけ非正規雇用など景気変動の影響を受けやすい働き方には女性も多い。

以前のブログにも書いたが、今の局面でなお利上げを唱え、消費税減税にも反対する人々を見ていると、私には「貧乏神」のように見えることがある。

なぜ、そこまでして景気を冷やしたいのか。米国では強い雇用を長く維持したことで、それまで取り残されていた人々にまで景気回復の恩恵が届いた。それなのに我が国では、実質賃金がようやく上向き始めたところで、もうブレーキを踏めという。

「貧乏神」という言葉は強い。しかし、私は単なる罵倒として使っているのではない。景気を冷やす政策が何をもたらすかを考えれば、そう見えてしまうのである。経済学では「総需要を抑制する」と数文字で済むが、現実には採用が減り、残業が削られ、賞与が減り、契約更新が見送られる。その向こうには、給料が減る人、仕事を失う人、結婚や出産を先延ばしする人がいる。

せっかく賃金が上がり始めたところで景気を冷やし、消費税減税にも反対して家計の負担軽減まで拒む。結果として人々を再び貧しくする方向へ政策を押し戻すのであれば、私には「貧乏神」と呼びたくなるのである。

3️⃣追加利上げではない――必要なら利下げを選択肢に入れよ

現在の日銀の政策金利は1.0%程度である。これが高すぎるか低すぎるかは、単純な歴史比較では決められない。期待インフレ率、自然利子率、投資、消費、雇用などを総合して判断すべきである。

足元では実質賃金がようやく改善し始めた一方、コアCPIは1.6%で、家計消費にも弱さが残る。この状況で追加利上げを急ぐ合理性は乏しい。

むしろ1.0%の政策金利が住宅投資、中小企業の設備投資、新規事業、研究開発、AI・ロボットなどの省力化投資を不必要に抑制しているのであれば、日銀は利下げを選択肢に入れるべきである。


もちろん、利下げには円安や輸入物価上昇、資産価格の過熱といった副作用もある。だから永久に低金利を続けろという話ではない。本当に需要が過熱し、基調的な物価上昇が持続的に加速するなら、その時点で利上げすればよい。

だが、今はその局面ではない。

消費税減税も同じ方向で考えるべきだ。消費時の税負担を軽くすれば、家計の実質的な購買力を高め、需要を下支えできる。その需要が企業の売上、雇用、賃上げ、設備投資へ向かえば、高圧経済をさらに強くできる。

もちろん、税制と金融政策の決定主体は異なる。消費税率を変えるには国会での法改正が必要であり、金融政策を決めるのは日銀政策委員会である。しかし、決定主体が別だからといって、マクロ経済全体で政策の組み合わせを考えなくてよいわけではない。

政府が需要と供給力を高めようとしている一方で、日銀が需要を強く抑えれば、政策効果は互いに打ち消し合う。

政府がアクセルを踏み、日銀がブレーキを踏む。それでは、我が国はいつまでたっても本格的な成長軌道へ戻れない。

結論――回復を育て切るまで、ブレーキを踏むな

日本経済が30年余りかけて失ったものは大きい。企業は投資を控えることに慣れ、家計は賃金が上がらないことに慣れ、若い世代は親の世代より豊かになるという感覚を持ちにくくなった。この傷は、実質賃金が6か月上昇しただけで癒えるものではない。

米国の経験は、重要なことを教えている。完全雇用と思われた地点を越えても経済を走らせることで、低賃金層や、それまで景気回復から取り残されていた人々にも雇用の恩恵を届けることができた。そして、その間にインフレが直ちに暴走したわけではない。

だから日本も、人手不足や賃金上昇を見た瞬間に「利上げだ」と考えるべきではない。

人手不足を賃上げへつなげる。賃上げを消費へつなげる。人手不足を設備投資、省力化、AI活用へつなげる。その投資を生産性向上へつなげ、さらに高い賃金を可能にする。

その循環を十分に育てることこそ、今の日本に必要な経済政策である。

金利を上げること自体が「正常化」なのではない。国民所得が増え、企業が投資し、若い世代が生活設計を描けるようになり、我が国の供給力が高まることこそ本当の正常化である。

私は永久に低金利を続けろと言っているのではない。

だが、今はまだ早い。

実質賃金が上がったから利上げするのではない。実質賃金がようやく上がり始めたからこそ、その流れを消費、賃上げ、設備投資、生産性向上へ定着させるのである。

日銀が今恐れるべきなのは、景気が少し熱くなることではない。30年の停滞からようやく抜け出そうとしている我が国の回復を、早すぎる引き締めによって再び弱めてしまうことである。

追加利上げではない。今、日本に必要なのは高圧経済だ。そして政策金利1.0%が我が国の供給力再建を妨げているのであれば、日銀は利下げさえためらうべきではない。

景気が良くなりかけるたびに、それを冷やそうとする「貧乏神」に日本経済を任せてはならない。

今度こそ、「少し良くなれば、すぐ冷やす」という30年間の発想から脱却しなければならない。

【関連記事】

飲食料品の消費税減税をめぐり、誰が実行を求め、誰が阻もうとしているのかを検証した記事。今回の「利上げと減税反対は誰を苦しめるのか」という問題意識につながる。

高市政権が成長投資を進める一方、日銀の利上げが民間投資を冷やす政策の矛盾を論じた記事。供給力再建と金融政策の関係を考える上で今回の記事と直結する。

政策金利1.0%への引き上げを、物価、雇用、企業投資、国民生活の側から検証した記事。なぜ現在の日銀がさらに景気を冷やすべきではないのかを理解する前提になる。

景気や家計より「金利正常化」を優先する日銀の姿勢を批判した記事。今回取り上げた「正常化そのものを目的にしてはならない」という論点につながる。

米国では金融政策を雇用の問題として捉えるのに対し、日本では物価ばかりが前面に出る。その違いを論じた記事で、今回の高圧経済と利下げ論を読む上で最も重要な関連記事の一つ。

0 件のコメント:

実質賃金が上がった今、なぜ利上げなのか――景気を冷やす「貧乏神」たち

まとめ 実質賃金はようやく上向いた。いま利上げで需要を冷やせば、30年の停滞から抜け出す芽をまた摘みかねない。 米国では失業率が歴史的低水準まで下がってもインフレは暴走せず、低賃金層や弱い立場の人々にまで雇用の恩恵が広がった。日本も高圧経済を続けるべきだ。 利上げと減税反対の負担...