2016年2月28日05時00分
高橋順子 |
このところ、なにかにつけてこの言葉が脳内にこだまし、困っている。新進気鋭の政治学者、栗原康さんが著した「はたらかないで、たらふく食べたい」という魅惑的なタイトルの本に教えられた。
ある工場のトイレが水洗化され、経営者がケチってチリ紙を完備しないとする。労働者諸君、さあどうする。
(1)代表団を結成し、会社側と交渉する。
(2)闘争委員会を結成し、実力闘争をやる。
まあ、この二つは、普通に思いつくだろう。もっとも、労働者の連帯なるものが著しく衰えた現代にあっては、なんだよこの会社、信じらんねーなんてボヤきながらポケットティッシュを持参する派が大勢かもしれない。
ところが栗原さんによると、船本洲治という1960年代末から70年代初頭にかけて、山谷や釜ケ崎で名をはせた活動家は、第3の道を指し示したという。
(3)新聞紙等でお尻を拭いて、トイレをつまらせる。
チリ紙が置かれていないなら、硬かろうがなんだろうが、そのへんにあるもので拭くしかない。意図せずとも、トイレ、壊れる、自然に。修理費を払うか、チリ紙を置くか、あとは経営者が自分で選べばいいことだ――。
船本の思想のおおもとは、正直よくわからない。でも私は、「だまってトイレをつまらせろ」から、きらめくなにかを感受してしまった。
生かされるな、生きろ。
私たちは自由だ。
*
念のため断っておくが、別にトイレをつまらせることを奨励しているわけではない。お尻痛いし。掃除大変だし。
ただ、おのがお尻を何で拭こうがそもそも自由、チリ紙で拭いて欲しけりゃ置いときな、という精神のありようを手放したくはないと思う。
他者を従わせたいと欲望する人は、あなたのことが心配だ、あなたのためを思ってこそ、みたいな歌詞を「お前は無力だ」の旋律にのせて朗々と歌いあげる。うかうかしていると「さあご一緒に!」と笑顔で促される。古今東西、そのやり口に変わりはない。
気がつけば、ああ合唱って気持ちいいなあなんつって、声を合わせてしまっているアナタとワタシ。ある種の秩序は保たれる。だけども「生」は切り詰められる。
*
「ほかに選択肢はありませんよ――」
メディア論が専門の石田英敬・東大教授は2013年、安倍政権が発するメッセージはこれに尽きると話していた。そして翌年の解散・総選挙。安倍晋三首相は言った。
「この道しかない」
固有名詞は関係なく、為政者に「この道しかない」なんて言われるのはイヤだ。
近道、寄り道、けもの道、道なんてものは本来、自分の足で歩いているうちにおのずとできるものでしょう?
はい、もう一回。
だまってトイレをつまらせろ。ぼくらはみんな生きている。
【私の論評】「朝日が正しい、安倍が間違い」という観点から意思決定をする朝日新聞に明日はない(゚д゚)!
新聞をトイレットペーパーに? |
ネット上でかなり批判を浴びていたので、朝日新聞の2月28日朝刊のコラム記事を読んでみました。それが、ブログ冒頭の記事です。これにはもう、驚いてしまいました。こんなハチャメチャな記事を掲載して、日本の大手全国紙の矜持は一体どこに吹き飛んでしまったのでしょうか。いや、もともと朝日新聞にはそのようなものはなかつたのでしょう。
内容が、偏向しているとか誤報だというのならまだ理解できなくもありませんが、内容があまりに粗暴、下品、かつ論理のかけらもなく、違法行為の扇動を示唆する内容になっています。
筆者は政治部次長の高橋純子記者です。次長だから一般記者の取材や出稿を指揮する立場なのだと思います。少なくとも中堅以上のキャリアのある人だと思います。
さて以上の記事のテーマは普通に読めば、たとえ比喩やたとえにであったとても、トイレで大便をした後に新聞紙を使え、という勧めです。そうして、それが安倍政権への反対活動の最善の方法だということです。
さて以上の記事のテーマは普通に読めば、たとえ比喩やたとえにであったとても、トイレで大便をした後に新聞紙を使え、という勧めです。そうして、それが安倍政権への反対活動の最善の方法だということです。
私自身も、長い間地元の北海道新聞や、その他の全国紙を読んできましたが、こんなひどい記事は読んだことがありません。地元地方紙の北海道新聞にも酷い記事が掲載されており、過去には、このブログで北海道赤旗新聞と揶揄したこともあるくらいです。
しかし、今回のこの記事は、北海道新聞よりもさらに低劣で、救いようのない内容です。朝日新聞の編集は、どうしてしまったのでしょうか。もうここまで落ちてしまったのでしょうか。
それにしても、新聞記者が自分の生命でもある新聞を尻拭きに使えという無神経、朝日新聞は、朝日新聞をトイレットペーパーに使えとでも言いたいのでしょうか。そうして、それを強引に安倍政権叩きに結びつけるという論理の飛躍。朝日新聞は、とうとう発狂したのでしょうか。
ブログ冒頭の記事で、安倍総理の「この道しかない」というキャッチフレーズは、2014年衆院解散総選挙のときのものだったと思います。そのときの自民党のCMの動画を以下に掲載します。
この時に、朝日新聞を含めたメデイアの多くは、衆院解散を「大義なき解散」と断定して報道していました。しかし、14年の4月からの増税は大失敗であったことがはっきりとしていたので、今頃10%増税など当初の予定通りに実施していたら大変なことになっていたはずです。
だから、この時の「景気回復、この道しかない」というキャッチフレーズは正しいものであったと評価できます。それに対する批判であるとすれば、とんでもない見当違いです。それに、安倍総理が「この道しかない」としたのは、あくまで「景気回復、この道しかない」としたのであって、ブログ冒頭の記事の書き方では、他の事柄、たとえば「戦争への道、この道しかない」とでも受け取られかねない書き方です。
高橋順子といえば、朝日新聞の社説「余滴」というコラムで、得体のしれない「1分半に1度かけられる命」という意味不明の記事も書いていたました。以下にその記事のコピーを異彩します。
この記事も酷いものですが、ブログ冒頭の記事は、さらに磨きがかかつたというか、酷い内容になっています。
ブログ冒頭の記事も、上の記事も、何が酷いといって、内容が空虚で結局のところ、安倍総理に対する個人攻撃になって閉まっている点です。
そうして、このような状況では、朝日新聞ではまともなマネジメント上の意思決定など全く行われていないということが良く理解できます。
このブログでは、何度かマネジメント上の意思決定の原則について掲載したことがあります。
その代表的な記事のリンクを以下に掲載します。
民主など 首相の大阪でのテレビ出演に抗議―【私の論評】最初から誰が正しいか何が受け入れられるかで意思決定するな!すれば与野党ともドツポにはまる(゚д゚)!詳細は、この記事をご覧いただくものとして、この記事よりマネジメント上の意思決定の原則に関する部分のみ以下にコピペします。
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「最初から誰が正しいか何が受け入れられるかで決定してはならない」
この言葉の意味は重要です。この言葉を良く理解すれば、なぜ今の国会審議があれほどまでに、空虚で意味のないものになっているのかを良く理解できます。
ドラッカー氏は、『経営者の条件』という書籍で以下のように述べています。
決定においては何が正しいかを考えなければならない。やがては妥協が必要になるからこそ、最初から誰が正しいか、何が受け入れられやすいかという観点からスタートしてはならない。
これは、意思決定の過程においては、まずは「誰が正しくて、誰が間違いか」などという論議すべきではなく、あくまで「何が正しくて、何が間違いか」という議論をすべきであって、そうでなければ、全く不毛な論議となってしまい、まともな意思決定ができなくなってしまうということです。
いわゆる「安倍嫌い」は、最初から「誰が正しくて、誰が間違いか」という主張をしているに過ぎません。要するに、上のTweetで田中氏が述べているように、「自分と意見違うものはリンチという徹底した態度」ではまともな論議ができず、まともな意思決定もでなきないということてず。
そのためでしょうか、国会での最近の安保法制の議論など、全くまともな議論になっておらず、国民にとっても理解しがたいものになっています。
しかも、大方の政治家は、せっかくの意思決定も実行されなければ意味がないと思うものです。そのため、最初から落としどころとしての妥協を考えてしまいます。
妥協には昔から知られているように2つの種類があります。1つは古い諺の「半切れのパンでも、ないよりはまし」、1つはソロモンの裁きの「半分の赤ん坊は、いないより悪い」との認識に基づくものです。
前者では半分は必要条件を満足させる。パンの目的は食用であり、半切れのパンは食用となる。しかし、半分の赤ん坊では妥協にもなりません。
『ソロモンの審判とは、』旧約聖書に出てくる話であり、イスラエルの賢王ソロモンが、いかにも当時の絶対専制君主らしく、子を剣で半分に切って女二人で分けよと審判します。このような妥協ならしないほうがずっとましです。
ラファエロ作『ソロモンの審判』 |
民主党などの野党は、とにかく「安倍嫌い」の立場から、安倍総理の主張は全く間違いであり、自分たちが正しいものとして、物事を考えているようです。そうして、そのスタンスで安倍総理に対峙するものですから、とにかく憲法解釈の変更による集団的自衛権に関わる、安保法制は違法として、安倍総理に対峙しようとします。
そのため、全く話が噛み合いません。そうして、いずれ妥協の段階に入るとは思いますが、安倍総理の立場からすれば、民主党などの言うとおりに妥協してしまえば、まともな「戦争抑止法案」とはなりえず、それこそソロモンの裁きの「半分の赤ん坊は、いないより悪い」という結果を招いてしまい、とんでもないことになってしまうため、妥協はできません。そのため、無意味な審議は長引くばかりです。
ドラッカーは、何が受け入れられやすいか、何が反対を招くから触れるべきでないかを心配することは無益であって、時間の無駄だと言います。心配したことは起こらず、予想しなかった困難や反対が突然ほとんど対処しがたい障害となって現れるとしています。
かつての自民党は、安全保障に関して、非常に曖昧な態度をとりました。これが、今日の事態を招いたことも否めません。
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まさしく、朝日新聞は「何が正しい、何が間違い」という観点からマネジメント上の意思決定をするのではなく、「誰が正しい、誰が間違い」という観点、もっと直截に言えば、「自分たちが正しい、安倍が間違い」という観点から意思決定をしているとしか思えないです。
こんなことはでは、まともな意思決定ができないのは当然のことです。上の2つの高橋順子の2つの記事を読むと、「何が正しい、何が間違い」という観点は全くなく、「朝日が正しい、安倍が間違い」という観点で書かれているためか、情報量という観点からも、本当に希薄な内容になっています。安保を論ずるにしては、あまりにもガサツで、粗野な観点しかなく、これではとうていまともな論議などできるはずもありません。
そうして、このような記事の掲載を許す、デスクや編集長 紙面審査委員が存在しているということです。これでは、まともな意思決定ができず、それこそ、いつも半分の赤ん坊を得るという類の妥協しかできず、そのような妥協を重ねていくうちに、やがて組織が崩壊することでしょう。
ドラッカー氏が生きていたとしたら、朝日新聞は、意思決定のまずさのケーススタディーとして、取材を受けたかもしれません。そうして、朝日新聞は、たとえドラッカー氏がコンサルタントをしても、体質を変えることができずにやがて崩壊することでしょう。
ドラッカー氏が生きていたとしたら、朝日新聞は、意思決定のまずさのケーススタディーとして、取材を受けたかもしれません。そうして、朝日新聞は、たとえドラッカー氏がコンサルタントをしても、体質を変えることができずにやがて崩壊することでしょう。
朝日新聞の体質は全く変わっていないということです。
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