文系と理系。常に対比される存在であるが、組織では力を合わせて働くことになる。しかし、分かり合えないことも多い上に、理系を軽視しすぎたあまりに、次のような出来事が起きて久しい。
@dojirenさんがツイートする。
「文系『死ぬ気で研究開発せんかぁ!』 理系『給料上げて』 文系『足りぬ足りぬは努力が足りぬ(キリッ』 理系『無理。死ぬ』 韓国・台湾企業『転職しない?年収5倍で家と車(運転手付)あげるよ~』 理系『行きます』 文系『ものづくり神話の崩壊!若者の理科離れ!売国技術者死ね!』」
たとえば、ともに韓国の大手家電会社サムスン電子、LG電子は、ソニーから名技術者2人をかっさらっていった。徳原正春氏はサムスンへ、尾上善憲氏はLGへ。
死ぬより年収5倍の方を誰もが選ぶ。最後の文系の文言がまた皮肉だ。それでは、理科離れするのも仕方がないだろう。
【私の論評】背景には、理系・文系などという単純な図式でははかれないものがある!!
上のツイートでは、理系・文系と単純に物事を割り切って物事を単純化しすぎているきらいがあると思います。特に企業でのマネジメントにかかわることでは、この類型でものを考えることは、危険ですらあると思います。大学や、大学院などとは異なり、企業という生きた組織の中では、純粋理系、純粋文系など存在しえず、このような類型をすること自体が間違いだと思います。企業においては、理系である文系であるという類型よりも、最も重要なことは、社会性です。なぜそんなことがいえるのかといえば、私たちが住んでいる社会は、すでに今世紀に入ってからかなり変貌しているからです。社会性が欠如していれば、理系だろうと、文系だろうと、全くつかいものにはなりません。
あの経営学者のドラッカー氏は、10年前の著書「ネクストソサエティー」で、現在の社会は、20世紀の社会性と比較するとずいぶんと変貌したと語っています。その変貌ぶりに関して、日本を中心としてまとめなおしたのが、以下です。少し長いですが、ネクストソサエティの日本における現場のエッセンスとして読んでいただければ、幸いです。
日本では誰でもが経済の話をする。だが、過去の経済の成功をもたらしたものは、社会的な制度、政策、慣行だった。その典型が系列であり、終身雇用、 輸出戦略、官民協調だった。日本の社会的な制度、政策、慣行は、1990年ごろまで有効に機能した。だが、もはや満足に機能しているものは1つもな い。日本において求められているものは社会的な革新である。その典型の1つが、いかにして雇用と所得を確保しつつ、同時に、転換期に不可欠の労働 力市場の流動性を確保するかという問題である。
経済が社会を規定するとの思想どころか、経済が経済を規定するとの理論からさえ脱却しなければならない。現在急激に変化しつつあるのは、経済ではな く社会のほうである。そして、IT革命はその要因の1つにすぎない。人口構造の変化、特に出生率の低下とそれにともなう若年人口の減少が大きな要因
だった。若年人口の減少は、それまでの長い流れの逆転であり、前例のないものだった。逆転は他にもあった。富と雇用の生み手としての製造業の地位の 変化だった。日本では、いまなお労働人口の5分の1が製造業で働いている。日本が競争力を維持していくためには、2010年までにこれが8分の1ないし1 0分の1になっていなければならなかったはずである。しかし、そうはなっていない。
また、社会の変化が、働く人たちの役割を規定していく。1つひとつの組織、1人ひとりの成功と失敗にとって、経済よりも社会の変化のほうが重大な意味 を持つようになった。すでに変質した社会は知識(現在では、知識の意味が変わっている、従来知識といわれたものは、情報である)社会である。知識が中 核の資源となり、知識労働者が中核の働き手となる。知識社会としてのすでに変わった社会には3つの特徴がある。
知識は資金よりも容易に移動するがゆえに、いかなる境界もない社会となる。
万人に教育の機会が与えられるがゆえに、上方への移動が自由な社会となる。
万人が生産手段としての知識を手に入れ、しかも万人が勝てるわけではないがゆえに、成功と失敗の並存する社会となる。
これら3つの特質のゆえに、すでに変質した社会は、組織にとっても1人ひとりの人間にとっても、高度に競争的な社会となった。
いまから10年後のグローバル企業は、戦略によって一体性を保つことになる。所有による支配関係も残るが、少数株式参加、合弁、提携、ノウハウ契約 が大きな位置を占めるようになる。勿論、そのような事業構造のもとではトップマネジメントのあり方も大きく変る。明日のトップマネジメントは、現場のマネ ジメントとは異質の独立した機関となる。それは事業全体のための機関となるはずである。
日本は、2050年には1億人を切る。そのかなり手前の2030年においてさえ、65歳超人口が成人人口の半数を占めている。日本の出生率はドイツ並の1.3 である。この老年人口の増加は300年の趨勢の延長線上にある。これに対し、若年人口の減少こそまったく新しい現象である。従来のままの産業構造をそのまま維持するというなら、今後40年間、日本は年間35万人の移民を必要とし、労働人口の減少を防ぐためにはその倍を必要とする。
企業をはじめとする組織の短命化も、労働市場の多様化を促進する。これまでは、雇用主たる組織のほうが被用者よりも長命であることが常識だった。これからは、被用者、特に知識労働者の労働可能年限のほうが、うまくいっている組織の寿命をさえ上回る。30年以上そのまま存続する企業はほとんどなくなることを覚悟しなければならない。すでにアメリカでは、しばらく前から「第2の仕事」「第2の人生」が流行語になっていた。
知識労働者とは新種の資本家である。なぜならば、知識こそが知識社会と知識経済における主たる生産手段、すなわち資本だからである。今日では、主たる生産手段の所有者は知識労働者である。知識労働者の特質は、自らを労働者ではなく専門家と見なすことにある。
知識労働者には2つのもが不可欠である。その1つが、知識労働者としての知識を身につけるための学校教育である。もう1つが、その知識労働者としての知識を最新に保つための継続教育である。知識は急速に陳腐化する。そのため定期的に教室に戻ることが不可欠となる。知識社会は、上方への移動に制限がないという初めての社会である。知識は、相続も遺贈もできないところが他の生産手段と異なる。あらゆるものを自力で獲得しなければならない。これからの知識社会においては、極めて多くの人間、おそらく過半数の人間が、金銭的な安定よりもはるかに重要なこと、すなわち自らの社会的な位置づけと豊かさを実感することになる。
日本にはいわゆる労働階級者の文化というものがない。日本は上方への社会移動の手段としての教育にも敬意をはらってきた。しかし日本社会の安定は、雇用の安定、特に大規模製造業における雇用の安定に依存するところが大きかった。しかし、今では、その雇用の安定が崩壊した。日本は、製造業雇用が全就業者人口の5分の1という先進国では最高の水準にある。労働力市場といえるものも、労働の流動性もないに等い。社会心理的にも、日本 は製造業の地位の変化を受け入れる心構えができていない。過剰雇用の成熟産業に金を注ぎ込む政策は害をなすだけである。
パラダイムが変った。第1に、知識が主たる生産手段、すなわち資本となった。知識は1人ひとりの知識労働者が所有する。第2に、今日でも働きての半分以上がフルタイムで働き、そこから得るものを唯一または主たる生計の資としているものの、ますます多くが正社員ではなくパートタイム社員、臨時社員、契約社員、顧問として働くようになった。第3に企業活動に必要とされる知識が高度化し、専門化し、内部で維持するには費用がかかりすぎるものとなった。しかも、知識は常時使わなければ劣化する。それゆえ、時折の仕事を内部で行なっていたのでは成果をあげられなくなった。
組織が生き残りかつ成功するためには、自らが変化する機関とならなければならない。変化をマネジメントする最善の方法は、自ら変化の先頭にたつために、自らを変化させることである。変質した社会とは、ITだけが主役の社会ではない。もちろん、ITだけによって形づくられる社会でもない。ITは重要である。しかし、それはいくつかの重要な要因の1つにすぎない。変質した社会をまともな社会たらしめるものは、これまでの歴史が常にそうであったように、新たな制度、新たな理念、新たなイデオロギー、そして新たなチャレンジである。
IT革命におけるeコマースの位置は、産業革命における鉄道と同じである。まったく新しく、まつたく予想外の展開であった。そしていま、180年前の鉄道と同じように、eコマースが新しい種類のブームを呼びつつある。経済と、社会と、政治を一変しつつある。鉄道が生んだ心理的な地理によって人は距離を征服し、eコマースが生んだ心理的な地理によって人は距離をなくす。もはや世界には1つの経済、1つの市場しかない。このことは、地場の小さい市場を相手にする中小企業さえグローバルな競争力を必要とすることを意味する。IT革命とは、実際には知識革命である。
あらゆる知識労働者に3つのことを聞かなければならない。第1が強みは何か、どのような強みを発揮してくれるかである。第2に何を期待してよいか、いつまでに結果を出してくれるかである。第3がそのためにどのような情報が必要か、どのような情報をだしてくれるかである。
10年後には、コーポレート・ガバナンス(企業統治)が今日とは大きく違うものになる。外の世界で起こることを理解しなければならない。明日のCEOたるものは、いつ命令し、いつパートナーとなるかを知らなければならない。CEOが真剣に取り組まなければならない課題が、知識労働の生産性の向上である。CEOたる者は、みながともに生産的に働けるようにすることを考えなければならない。
いま驚くべきことがビジネスの世界で起こっている。第1に、働き手のうち唖然とするほど多くの者が、現に働いている組織の正社員ではなくなった。第2に、ますます多くの企業が雇用と人事の業務をアウトソーシングし、正社員のマネジメントさえしなくなった。この2つの流れが近い将来に変る気配はない。むしろ加速していくものと思われる。
知識を基盤とする知識組織では、システムそのものの生産性を左右するものが、知識労働者一人ひとりの生産性である。かつては働き手がシステムのために働いたが、知識労働ではシステムが働き手のために働く。知識を基盤とする企業にもっとも似た組織がオーケストラである。そこでは30種類もの楽器が同じ楽譜をつかって、チームとして演奏する。偉大なソロを集めたオーケストラが最高のオーケストラではない。優れたメンバーが最高の演奏をするものが最高のオーケストラである。
今日の日本は本質的に19世紀のヨーロッパの国である。だからいま、麻痺状態にある。基本的に日本という国は官僚によって運営されている。政治家は大きな存在ではなく、しかも疑惑の目で見られがちである。無能であったり腐敗していたりしていたとしても、それほど驚かれる存在ではない。しかし、官僚が無能であったり腐敗したりしていることが明らかになればショックである。日本はいまそのショック状態にある。日本の産業すべてが効率的で競争力をもつとの説は、まったくの間違いである。国際競争にさらされている部分は、先進国のなかでもっとも少ない。自動車と電子機器の二つの産業が中心である。これらは、輸出産業は全部あわせてもGDP全体の16%にすぎない。日本にはグローバル経済の経験がほとんどない。産業のほとんどが保護されたままであり、おそろしく非効率である。
世界中の最先端にある人たちが、すでに変質した社会の到来を予感し、予見し、準備していた。日本は未だに19世紀のヨーロッパの国であり、外務省に象徴されるように、官僚が自分たちの身を守るために規制も解かず従来のやり方を踏襲している。最近では、財務省や、日銀が古い体質を温存し、デフレの真っ最中にあるにもかわらず、やるべきことを実施していない。このままでは、大変なことになってしまう。これからは、変質した社会の変化が、働く人たちの役割を規定していく。すなわち、経済よりも社会の変化のほうが重大な意味をもつにいたったということである。
上の文章で特に留意しなければならない点は、
「これからの知識社会においては、極めて多くの人間、おそらく過半数の人間が、金銭的な安定よりもはるかに重要なこと、すなわち自らの社会的な位置づけと豊かさを実感することになる」。
「これからは、変質した社会の変化が、働く人たちの役割を規定していく。すなわち、経済よりも社会の変化のほうが重大な意味をもつにいたったということである」。
の二つです。
従来、理系だといわれていた人々も、社会を理解しなければ、社会を変えたり、変わった社会に適応して、イノベーションを実施することなど不可能です。従来、文系だといわていた人々も、すでに変わった社会を理解しなければ、マーケティングやマネジメントもおぼつかないないということです。まさに、これらかは、変質した社会が、働く人たちの役割を規定していくということです。すなわち、経済いよりも社会の変化のほうが重大な意味を持つにいたったということです。そうした中にあっては、個人でも、理系がどうの、文系がどうのというよりも、社会性が重要な意味を持つにいたったということです。
私は、上記で、sonyの人材引き抜きがあったのは、お金がどうのこうのというより、sonyがこうした、社会の変化を見誤り、知識労働者の動機付けに失敗したためであると思います。特にサムソンがこうした動機付けがうまかったとか、卓越していたというよりは、sonyよりは、ましだったということだと思います。
私は、サムソンが特に優れた企業だとは思っていません。異常なウォン安に支えらられ、国の支援も受けて、伸びているにすぎない思っています。それに、過去には、韓国の実体について、述べたこともあります。特に、毎年8万人もの、若者を中心とする脱南者と呼ばれる人々が、韓国を脱出しています。これは、北朝鮮を脱出する脱北者よりも多いくらいです。この現実を目の当たりすると、韓国の企業の引き抜きにあったとしても、それに応じることの危険性は理解できると思います。これからは、企業も個人も社会性を身つけていかなければならないということだと思います。今後、ソニーが、単に給料を5倍にすれば、このような引き抜きがなくなるというような単純な問題ではないと思います。ましてや、理系・文系と割り切ったものの考え方では、もうすてに変化した社会を乗り切ることはできません。いつの時代にあっても、それまでと異なる新しい時代には、 新たな体制と、 新たな戦略と、理念と、イデオロギーが必要であるということです。
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