ラベル 内田樹、才能の枯渇、利他的、動機、本当の知恵、アインシュタイン、ノーベル化学賞、鈴木、根岸、自己保身 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
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2010年12月26日日曜日

【内田樹の研究室】才能の枯渇について―【私の補足】利他的な動機から本当の知恵が生まれてくる!!

【内田樹の研究室】才能の枯渇について

典型的なお嬢様大学といわれる神戸女学院の内田研究室。最近
の卒論のテーマは、社会問題が多いということを聞いたことがある。
「内田樹の研究室」という有名なブログがあります。私も、時折参照させていただいています。そこに多くの「才能の枯渇について」という内容の興味ぶかい記事が掲載されていたので、以下のその要約を掲載します。
クリエイティヴ・ライティングの今年最後の授業で、「才能」について考える。天賦の才能というものがある。自己努力の成果として獲得した知識や技術とは違う、「なんだか知らないけれど、できちゃうこと」が人間にはある。 
「天賦」という言葉が示すように、それは天から与えられたものである。外部からの贈り物である。私たちは才能を「自分の中深くにあったものが発現した」というふうな言い方でとらえるけれど、それは正確ではない。才能は「贈り物」である。
外来のもので、たまたま今は私の手元に預けられているだけである。それは一時的に私に負託され、それを「うまく」使うことが私に委ねられている。どう使うのが「うまく使う」ことであるかを私は自分で考えなければならない。私はそのように考えている。 
才能を「うまく使う」というのは、それから最大の利益を引き出すということではない。
私がこれまで見聞きしてきた限りのことを申し上げると、才能は自己利益のために用いると失われる。 
「世のため人のため」に使っているうちに、才能はだんだんその人に血肉化してゆき、やがて、その人の本性の一部になる。そこまで内面化した才能はもう揺るがない。
でも、逆に天賦の才能をもっぱら自己利益のために使うと、才能はゆっくり目減りしてくる。 
でも、ある程度生きてくれば、現在自分の享受している社会的なアドバンテージのかなりの部分が「自己努力」による獲得物ではなく、天賦の贈り物だということに気づくはずである。 
それに対して「反対給付義務」を感じるかどうか、それが才能の死活の分岐点である。
反対給付義務とは、この贈り物に対して返礼の義務が自分にはあると感じることである。 
世界で最初に贈与した人間が「いちばんえらい」のである。その原初の一撃(le premier coup)はどのような返礼を以てしても償却することができない。それゆえ、返礼義務は「贈与者」に対して、債務の相殺を求めてなされてはならない。 
してもいいけれど、「贈与を始めた」というアドバンテージはどのような返礼によっても、相殺できないからやっても無意味なのである。この被贈与者が贈与者に対して感じる負債感は、自分自身を別の人にとっての「贈与者」たらしめることによってしか相殺できない。 
自分が新たな贈与サイクルの創始者になるときはじめて負債感はその切迫を緩和する。そのようにして、贈与はドミノ倒しのように、最初に一人が始めると、あとは無限に連鎖してゆくプロセスなのである。 
才能はある種の贈り物である。それに対する反対給付義務は、その贈り物のもたらした利益を別の誰かに向けて、いかなる対価も求めない純粋贈与として差し出すことによってしか果たされない。 
けれども実に多くの「才能ある若者」たちは、返礼義務を怠ってしまう。「自分の才能が自分にもたらした利益はすべて自分の私有財産である。誰ともこれをシェアする必要を私は認めない」という利己的な構えを「危険だ」というふうに思う人はしだいに稀な存在になりつつある。 
でも、ほんとうに危険なのである。『贈与論』でモースが書いているとおり、贈り物がもたらした利得を退蔵すると「何か悪いことが起こり、死ぬ」のである別にオカルト的な話ではなくて、人間の人間性がそのように構造化されているのである。
だから、人間らしいふるまいを怠ると、「人間的に悪いことが起こり、人間的に死ぬ」のである。生物学的には何も起こらず、長命健康を保っていても、「人間的には死ぬ」ということがある。 
贈与のもたらす利得を退蔵した人には「次の贈り物」はもう届けられない。そこに贈与しても、そこを起点として新しい贈与のサイクルが始まらないとわかると、「天」は贈与を止めてしまうからである。天賦の才能というのは、いわば「呼び水」なのである。 
その才能の「使いっぷり」を見て、次の贈り物のスケールとクオリティが決まる。天賦の才能を専一的に自己利益の増大に費やした子どもは、最初はそれによって大きな利益を得るが、やがて、ありあまるほどにあるかに見えた才能が枯渇する日を迎えることになる。 
前に「スランプ」について書いたことがある。スランプというのは「私たちがそれまでできていたことができなくなること」ではない。できることは、いつでもできる。そうではなくて、スランプというのは「私たちにできるはずがないのに、軽々とできていたこと」ができなくなることを言うのである。 
「できるから、できる」ことと、「できるはずがないのに、できる」ことはまるで別のことである。「できるはずのないことが、自分にはできる(だから、この能力は私物ではない)」と自覚しえたものだけが、次の贈与サイクルの創始者になることができる。 
自分は世のため人のために何をなしうるか、という問いを切実に引き受けるものだけが、才能の枯渇をまぬかれることができる。「自分は世のため人のために何をなしうるか」という問いは、自分の才能の成り立ちと機能についての徹底的な省察を要求するからである。 
自分が成し遂げたことのうち、「これだけは自分が創造したものだ」「これは誰にも依存しないオリジナルだ」と言いうるようなものは、ほとんど一つもないことを思い知らせてくれるからである。才能の消長について語る人があまりいないので、ここに経験的知見を記すのである。
【私の補足】利他的な動機から本当の知恵が生まれる!!
内田 樹氏(うちだ たつる、1950年9月30日 - )は、日本のエッセイスト、元フランス文学研究者、翻訳家、神戸女学院大学教授です。詳細な経歴などは、ウィキペディアなどで御覧になってください。

私は、内田氏のブログの内容をみて、自分なりに啓発されるところがあったので、本日はその内容を書きます。その内容は、内田氏の論を強化するための補足ということになると思います。

クリエイティブ・シンキングというよりは、そのもととなるクリエイティブ・シンキングに関して、私は従来から興味があり、以前から調べたりしていました。そうして、内田氏の上の記事で言われることはまさにその通りと思います。以前このブログにも掲載した、最近ノーベル化学賞を受賞された、鈴木氏、根岸氏とも受賞のもとになったカッフリング反応に関する、特許などは取得していませんでした。

もし、特許を取得していたら、巨万の富を得ていたでしょう。しかし、彼らは、そうはしませんでした。それは、彼らなりに上で内田氏が述べていたようなことを覚っていたからにほかなりません。というより、もし、彼らが若い頃、巨万の富を目指して、研究をしていたら、とても、ノーベル賞受賞級の研究などできなかったかもしれません。

化学の世界特に、近代アカデミックの世界ではもともと、贈与サイクルで成り立っている世界です。自分の研究は、次の人のために貢献できるように、隠し立てすることなく、論文にして公表するのが不文律の世界です。現在では、ケミカル・アブストラクトなどというデーターベースがインターネット上で、公表され誰もが、最新の物質の情報を得られるようになっています。私も、昔は、生化学の分野で良く参照していたことがあります。

なぜ、このような不文律や、考え方が生まれてきたかといえば、化学の研究など一般の人が想像するよりもはるかに地味な研究だからです。日々、実験の積み重ねであり、失敗の連続です。いつ実るかもわからないある意味では先の見えない研究に長い間没頭しなければ、とうてい成果をあげられません。そんな中で中世の錬金術師のような秘密主義などとっていれば、誰も成果をあげられず、化学の進歩もなかったことでしょう。

ノーベル賞級の研究をした後も、彼らは、研究者としてとどまり、後輩の支援や、企業に対する指導などを継続しました。その成果の表れが、今日の日本の様々な分野の強みにつながつています。彼らが、若い頃から巨万の富を得ることのみに集中していたら、とてもこのようなことまではできず、今日ノーベル賞を受賞するなどのことはできなかったでしょう。

また、上の内田氏のことを裏付けるような発言を、アインシュタインがしていることも、このブログに掲載しました。

その内容を下に記します。
現代では、昔言われていた、本に書いてある内容など、知識とはいいません。今では情報という言い方をします。知識は何かといえば、そうした情報を取捨選択、統合して、実際に仕事に適用する能力をいます。 
ただし、知識を得るためには、かなり膨大な情報を予め頭の中にインプットしておく必要があります。いまなら、情報化が進んでいますから、情報は昔と比較すれば、かなり容易に、しかも迅速に入るようになっています。しかし、とはいっても、ある程度の情報、特に基本的な情報がある程度頭の中にインプットされていなければ、調べるだけでも、膨大になってしまい、そこから知識を生み出すことはできなくなくなります。 
このような真の意味での、知識のない人は、いまでは、仕事ができません。そうして、知識を得るためにこそ、膨大な情報を必要とします。 
このことを端的に示しているのが、アインシュタインです。アインシュタインといえば、あの相対性理論で有名です。特にその中でも、「E=MC2」という式は、統合的思考の産物です。わずか、この一行の式の持つ意味はまるで、広大な宇宙のようです。 
こうした、アインシュタイン自身が自分の業績について語った言葉が印象的です。「私の理論は、すでに先人がそのほとんどすべてを開拓したものです。私が付け加えたのは最後のほんの!%程度くらいにすぎません」。これは、かなり、謙遜した言葉と受け取られるかもしれません。しかし、真実です。 
アインシュタインは、先人が開拓した物理の理論を情報として、徹底的に、頭の中にインプットしたのだと思います。そうして、そこから、様々な知識を生み出し、その過程で、無論、論理的思考と、水平的思考を駆使し、最後の最後で、統合的思考方法を適用して、壮大な理論を「E=MC2」という、単純な公式としてまとめあげたのです。わずか、!%といいながら、その1%は、偉大であり、人類の金字塔となったのです。
実は、アインシュタインが語っていることは、まさに、内田氏がいうところの、先達から受け継いだ贈与により、次の贈与サイクルの創始者になることができたからこそ、あの特殊相対性理論を打ち立てることができたということを示しているのだと思ます。鈴木氏や、根岸氏も、やはり同じ事だと思います。

両氏とも、パデュー大学のホウ素の化学で高名をはせたH.C.ブラウンに師事を受けています。まさらに、彼らは、H.C.ブラウン氏などから受け継いだ贈与により、次の贈与サイクルの創始者になることができたため、ノーベル賞に結びつくような研究ができたのだと思います。もし、ブラウン氏の師事を受けていなかったら、ノーベル賞など叶わなかったに違いありません。

誰でも、大きな成果を挙げる人には、直接師事を受けた、受けないに限らす、こういった先達がいるのだと思います。そうした、先達から贈与を受けて、次の贈与サイクルの創始者になれる人のみが、大きな成果をあげられるのです。

にもかかわらず、内田氏がいうように、実に多くの「才能ある若者」たちは、返礼義務を怠ってしまうのです。「自分の才能が自分にもたらした利益はすべて自分の私有財産である。誰ともこれをシェアする必要を私は認めない」という利己的な構えを「危険だ」というふうに思う人はしだいに稀な存在になりつつあるのだと思います。しかし、そういう若者は、結局才能が枯渇するのだと思います。

そうして、この考え方について、私なりに付加しておきます。上のアインシュタインの引用の中に、統合的思考という言葉がでてきました。思考方法については、大まかにいうと、論理的思考、水平的思考、統合的思考の三つの方法があります。これに関しては、先のブログにその意味を掲載しましたので、その内容はそれを見ていただくものとして、ここでは詳細を説明はしません。

私は、内田氏の上の論に対して、さらに補足したいと思います。多くの人の才能が枯渇してしまうのは、おそらく、思考方法でいえば、論理的思考、水平的思考までで止まってしまい、アインシュタインや、鈴木氏、根岸氏、あるいは優れた経営者のように統合的思考にまで到達できないからではないかと思います。

若いうちは、利己的に、頭を使い、論理的、水平的思考のみで、何とか世の中をわたっていけるのだと思います。しかし、利己的であっては、そこで小さくまとまって、次の、ステップに進めなくなるのだと思います。これが、いわゆる才能の枯渇なのだと思います。多くの利己的な愚かな若者が、人生の最初の部分では、論理的思考だけで何とかなるのだと思います。そこで、成功して、うまくいかなくなったとしても、水平的思考で何か珍奇な考えをだし、それで成功するというわけです。そうして、人の才能とは、論理的思考、水平的思考のみであり、それ以外にないと思い込んでいるのだと思います。しかし、次のステップに進むためには、それだけではすまないということです。

私は、統合的思考について、先のブログで以下のように述べました。
統合的思考方法は、最早、ツールに依存するものではなく、会社であれば、その会社の経営者の個性であり、もっといってしまえば、それは技法などという枠を超えたアートなのかもしれません。アートに便利なツールなどありません。どんなに、高価な絵筆や、キャンバスなどを購入したからといって、一流の画家になることはできません。
そうして、このアートがどこから湧きいでてくるのかといえば、無論、利他的な動機からであり、身近には家族のため、友人のため、仲間のため、会社のため、地域のため、国のため、世界のためという考えからであると思います。まさに、先達から贈与を受けて、それに感謝して、意図して意識して、次の贈与サイクルの創始者になり、これらの人たちに贈与をするという固い決心をすることから、これが湧きい出てくるのです。それなしに、統合的思考などしようにも望むべくもないのです。

そうです。そう考えると、何も統合的思考方法をするのは、ノーベル賞を受賞するような偉業を達成する人たちばかりではありません。良き夫、良き妻もそのような考えをしています、良き親もそうです。中小企業の経営者だってそのような考えをしている人もいます。学校の先生だって、そんな考え方をしている人もいます。皆さんの、身近にいる信頼できる人は、特に意識せずとも、きっと皆このような考えをしているのだと思います。ただ、ノーベル賞受賞者等からみれば、その適用範囲が狭いだけです。それでも、本当に立派なことです。

そうして、これこそが、古から言われている知恵というものです。上で述べたような決心をしない人からは、自己保身以外の何物も生まれてこないのです。利己的な現代人の多くは、このことを忘れて、八方塞の堂々巡りをしているのだと思います。結論をいえば、誰もが自分のためにだけものを考えていたのでは、限界があるということです。しかし、利他的に物を考えたときに、それまでの思考段階を突破し、統合的思考の段階に到達し、その限界を突破することができるということです。


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