典型的なお嬢様大学といわれる神戸女学院の内田研究室。最近 の卒論のテーマは、社会問題が多いということを聞いたことがある。 |
クリエイティヴ・ライティングの今年最後の授業で、「才能」について考える。天賦の才能というものがある。自己努力の成果として獲得した知識や技術とは違う、「なんだか知らないけれど、できちゃうこと」が人間にはある。
「天賦」という言葉が示すように、それは天から与えられたものである。外部からの贈り物である。私たちは才能を「自分の中深くにあったものが発現した」というふうな言い方でとらえるけれど、それは正確ではない。才能は「贈り物」である。
外来のもので、たまたま今は私の手元に預けられているだけである。それは一時的に私に負託され、それを「うまく」使うことが私に委ねられている。どう使うのが「うまく使う」ことであるかを私は自分で考えなければならない。私はそのように考えている。
才能を「うまく使う」というのは、それから最大の利益を引き出すということではない。
私がこれまで見聞きしてきた限りのことを申し上げると、才能は自己利益のために用いると失われる。
「世のため人のため」に使っているうちに、才能はだんだんその人に血肉化してゆき、やがて、その人の本性の一部になる。そこまで内面化した才能はもう揺るがない。
でも、逆に天賦の才能をもっぱら自己利益のために使うと、才能はゆっくり目減りしてくる。
でも、ある程度生きてくれば、現在自分の享受している社会的なアドバンテージのかなりの部分が「自己努力」による獲得物ではなく、天賦の贈り物だということに気づくはずである。
それに対して「反対給付義務」を感じるかどうか、それが才能の死活の分岐点である。
反対給付義務とは、この贈り物に対して返礼の義務が自分にはあると感じることである。
世界で最初に贈与した人間が「いちばんえらい」のである。その原初の一撃(le premier coup)はどのような返礼を以てしても償却することができない。それゆえ、返礼義務は「贈与者」に対して、債務の相殺を求めてなされてはならない。
してもいいけれど、「贈与を始めた」というアドバンテージはどのような返礼によっても、相殺できないからやっても無意味なのである。この被贈与者が贈与者に対して感じる負債感は、自分自身を別の人にとっての「贈与者」たらしめることによってしか相殺できない。
自分が新たな贈与サイクルの創始者になるときはじめて負債感はその切迫を緩和する。そのようにして、贈与はドミノ倒しのように、最初に一人が始めると、あとは無限に連鎖してゆくプロセスなのである。
才能はある種の贈り物である。それに対する反対給付義務は、その贈り物のもたらした利益を別の誰かに向けて、いかなる対価も求めない純粋贈与として差し出すことによってしか果たされない。
けれども実に多くの「才能ある若者」たちは、返礼義務を怠ってしまう。「自分の才能が自分にもたらした利益はすべて自分の私有財産である。誰ともこれをシェアする必要を私は認めない」という利己的な構えを「危険だ」というふうに思う人はしだいに稀な存在になりつつある。
でも、ほんとうに危険なのである。『贈与論』でモースが書いているとおり、贈り物がもたらした利得を退蔵すると「何か悪いことが起こり、死ぬ」のである別にオカルト的な話ではなくて、人間の人間性がそのように構造化されているのである。
だから、人間らしいふるまいを怠ると、「人間的に悪いことが起こり、人間的に死ぬ」のである。生物学的には何も起こらず、長命健康を保っていても、「人間的には死ぬ」ということがある。
贈与のもたらす利得を退蔵した人には「次の贈り物」はもう届けられない。そこに贈与しても、そこを起点として新しい贈与のサイクルが始まらないとわかると、「天」は贈与を止めてしまうからである。天賦の才能というのは、いわば「呼び水」なのである。
その才能の「使いっぷり」を見て、次の贈り物のスケールとクオリティが決まる。天賦の才能を専一的に自己利益の増大に費やした子どもは、最初はそれによって大きな利益を得るが、やがて、ありあまるほどにあるかに見えた才能が枯渇する日を迎えることになる。
前に「スランプ」について書いたことがある。スランプというのは「私たちがそれまでできていたことができなくなること」ではない。できることは、いつでもできる。そうではなくて、スランプというのは「私たちにできるはずがないのに、軽々とできていたこと」ができなくなることを言うのである。
「できるから、できる」ことと、「できるはずがないのに、できる」ことはまるで別のことである。「できるはずのないことが、自分にはできる(だから、この能力は私物ではない)」と自覚しえたものだけが、次の贈与サイクルの創始者になることができる。
自分は世のため人のために何をなしうるか、という問いを切実に引き受けるものだけが、才能の枯渇をまぬかれることができる。「自分は世のため人のために何をなしうるか」という問いは、自分の才能の成り立ちと機能についての徹底的な省察を要求するからである。
自分が成し遂げたことのうち、「これだけは自分が創造したものだ」「これは誰にも依存しないオリジナルだ」と言いうるようなものは、ほとんど一つもないことを思い知らせてくれるからである。才能の消長について語る人があまりいないので、ここに経験的知見を記すのである。【私の補足】利他的な動機から本当の知恵が生まれる!!
内田 樹氏(うちだ たつる、1950年9月30日 - )は、日本のエッセイスト、元フランス文学研究者、翻訳家、神戸女学院大学教授です。詳細な経歴などは、ウィキペディアなどで御覧になってください。
私は、内田氏のブログの内容をみて、自分なりに啓発されるところがあったので、本日はその内容を書きます。その内容は、内田氏の論を強化するための補足ということになると思います。
クリエイティブ・シンキングというよりは、そのもととなるクリエイティブ・シンキングに関して、私は従来から興味があり、以前から調べたりしていました。そうして、内田氏の上の記事で言われることはまさにその通りと思います。以前このブログにも掲載した、最近ノーベル化学賞を受賞された、鈴木氏、根岸氏とも受賞のもとになったカッフリング反応に関する、特許などは取得していませんでした。
もし、特許を取得していたら、巨万の富を得ていたでしょう。しかし、彼らは、そうはしませんでした。それは、彼らなりに上で内田氏が述べていたようなことを覚っていたからにほかなりません。というより、もし、彼らが若い頃、巨万の富を目指して、研究をしていたら、とても、ノーベル賞受賞級の研究などできなかったかもしれません。
化学の世界特に、近代アカデミックの世界ではもともと、贈与サイクルで成り立っている世界です。自分の研究は、次の人のために貢献できるように、隠し立てすることなく、論文にして公表するのが不文律の世界です。現在では、ケミカル・アブストラクトなどというデーターベースがインターネット上で、公表され誰もが、最新の物質の情報を得られるようになっています。私も、昔は、生化学の分野で良く参照していたことがあります。
なぜ、このような不文律や、考え方が生まれてきたかといえば、化学の研究など一般の人が想像するよりもはるかに地味な研究だからです。日々、実験の積み重ねであり、失敗の連続です。いつ実るかもわからないある意味では先の見えない研究に長い間没頭しなければ、とうてい成果をあげられません。そんな中で中世の錬金術師のような秘密主義などとっていれば、誰も成果をあげられず、化学の進歩もなかったことでしょう。
ノーベル賞級の研究をした後も、彼らは、研究者としてとどまり、後輩の支援や、企業に対する指導などを継続しました。その成果の表れが、今日の日本の様々な分野の強みにつながつています。彼らが、若い頃から巨万の富を得ることのみに集中していたら、とてもこのようなことまではできず、今日ノーベル賞を受賞するなどのことはできなかったでしょう。
また、上の内田氏のことを裏付けるような発言を、アインシュタインがしていることも、このブログに掲載しました。
その内容を下に記します。
現代では、昔言われていた、本に書いてある内容など、知識とはいいません。今では情報という言い方をします。知識は何かといえば、そうした情報を取捨選択、統合して、実際に仕事に適用する能力をいます。
ただし、知識を得るためには、かなり膨大な情報を予め頭の中にインプットしておく必要があります。いまなら、情報化が進んでいますから、情報は昔と比較すれば、かなり容易に、しかも迅速に入るようになっています。しかし、とはいっても、ある程度の情報、特に基本的な情報がある程度頭の中にインプットされていなければ、調べるだけでも、膨大になってしまい、そこから知識を生み出すことはできなくなくなります。
このような真の意味での、知識のない人は、いまでは、仕事ができません。そうして、知識を得るためにこそ、膨大な情報を必要とします。
このことを端的に示しているのが、アインシュタインです。アインシュタインといえば、あの相対性理論で有名です。特にその中でも、「E=MC2」という式は、統合的思考の産物です。わずか、この一行の式の持つ意味はまるで、広大な宇宙のようです。
こうした、アインシュタイン自身が自分の業績について語った言葉が印象的です。「私の理論は、すでに先人がそのほとんどすべてを開拓したものです。私が付け加えたのは最後のほんの!%程度くらいにすぎません」。これは、かなり、謙遜した言葉と受け取られるかもしれません。しかし、真実です。
アインシュタインは、先人が開拓した物理の理論を情報として、徹底的に、頭の中にインプットしたのだと思います。そうして、そこから、様々な知識を生み出し、その過程で、無論、論理的思考と、水平的思考を駆使し、最後の最後で、統合的思考方法を適用して、壮大な理論を「E=MC2」という、単純な公式としてまとめあげたのです。わずか、!%といいながら、その1%は、偉大であり、人類の金字塔となったのです。実は、アインシュタインが語っていることは、まさに、内田氏がいうところの、先達から受け継いだ贈与により、次の贈与サイクルの創始者になることができたからこそ、あの特殊相対性理論を打ち立てることができたということを示しているのだと思ます。鈴木氏や、根岸氏も、やはり同じ事だと思います。
両氏とも、パデュー大学のホウ素の化学で高名をはせたH.C.ブラウンに師事を受けています。まさらに、彼らは、H.C.ブラウン氏などから受け継いだ贈与により、次の贈与サイクルの創始者になることができたため、ノーベル賞に結びつくような研究ができたのだと思います。もし、ブラウン氏の師事を受けていなかったら、ノーベル賞など叶わなかったに違いありません。
誰でも、大きな成果を挙げる人には、直接師事を受けた、受けないに限らす、こういった先達がいるのだと思います。そうした、先達から贈与を受けて、次の贈与サイクルの創始者になれる人のみが、大きな成果をあげられるのです。
にもかかわらず、内田氏がいうように、実に多くの「才能ある若者」たちは、返礼義務を怠ってしまうのです。「自分の才能が自分にもたらした利益はすべて自分の私有財産である。誰ともこれをシェアする必要を私は認めない」という利己的な構えを「危険だ」というふうに思う人はしだいに稀な存在になりつつあるのだと思います。しかし、そういう若者は、結局才能が枯渇するのだと思います。
そうして、この考え方について、私なりに付加しておきます。上のアインシュタインの引用の中に、統合的思考という言葉がでてきました。思考方法については、大まかにいうと、論理的思考、水平的思考、統合的思考の三つの方法があります。これに関しては、先のブログにその意味を掲載しましたので、その内容はそれを見ていただくものとして、ここでは詳細を説明はしません。
私は、内田氏の上の論に対して、さらに補足したいと思います。多くの人の才能が枯渇してしまうのは、おそらく、思考方法でいえば、論理的思考、水平的思考までで止まってしまい、アインシュタインや、鈴木氏、根岸氏、あるいは優れた経営者のように統合的思考にまで到達できないからではないかと思います。
若いうちは、利己的に、頭を使い、論理的、水平的思考のみで、何とか世の中をわたっていけるのだと思います。しかし、利己的であっては、そこで小さくまとまって、次の、ステップに進めなくなるのだと思います。これが、いわゆる才能の枯渇なのだと思います。多くの利己的な愚かな若者が、人生の最初の部分では、論理的思考だけで何とかなるのだと思います。そこで、成功して、うまくいかなくなったとしても、水平的思考で何か珍奇な考えをだし、それで成功するというわけです。そうして、人の才能とは、論理的思考、水平的思考のみであり、それ以外にないと思い込んでいるのだと思います。しかし、次のステップに進むためには、それだけではすまないということです。
私は、統合的思考について、先のブログで以下のように述べました。
統合的思考方法は、最早、ツールに依存するものではなく、会社であれば、その会社の経営者の個性であり、もっといってしまえば、それは技法などという枠を超えたアートなのかもしれません。アートに便利なツールなどありません。どんなに、高価な絵筆や、キャンバスなどを購入したからといって、一流の画家になることはできません。そうして、このアートがどこから湧きいでてくるのかといえば、無論、利他的な動機からであり、身近には家族のため、友人のため、仲間のため、会社のため、地域のため、国のため、世界のためという考えからであると思います。まさに、先達から贈与を受けて、それに感謝して、意図して意識して、次の贈与サイクルの創始者になり、これらの人たちに贈与をするという固い決心をすることから、これが湧きい出てくるのです。それなしに、統合的思考などしようにも望むべくもないのです。
そうです。そう考えると、何も統合的思考方法をするのは、ノーベル賞を受賞するような偉業を達成する人たちばかりではありません。良き夫、良き妻もそのような考えをしています、良き親もそうです。中小企業の経営者だってそのような考えをしている人もいます。学校の先生だって、そんな考え方をしている人もいます。皆さんの、身近にいる信頼できる人は、特に意識せずとも、きっと皆このような考えをしているのだと思います。ただ、ノーベル賞受賞者等からみれば、その適用範囲が狭いだけです。それでも、本当に立派なことです。
そうして、これこそが、古から言われている知恵というものです。上で述べたような決心をしない人からは、自己保身以外の何物も生まれてこないのです。利己的な現代人の多くは、このことを忘れて、八方塞の堂々巡りをしているのだと思います。結論をいえば、誰もが自分のためにだけものを考えていたのでは、限界があるということです。しかし、利他的に物を考えたときに、それまでの思考段階を突破し、統合的思考の段階に到達し、その限界を突破することができるということです。
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11 件のコメント:
内田氏の書き物は、いかにも戦後民主主義で育ってきた書きっぷりで(『街場の中国論』と正論で『憲法論』の批評を読んだ限りですが)、彼の『・・・論』的な書物は読みたくもないのですが、引用されていた内容に関しては肯けるところが多いですね。
なんだかんだ言われつつ、生き残っているところの秘訣なのだと思います。
個人的には、知恵・発明と、それを実用化させて稼ぐ人は分けるべきだと思います。日本ではそのあたりがあやふやで、一番悪いのは霞ヶ関の役人なのですが。
昨日、TBS系で『夢の扉』という番組で日本の研究所で開発した医療技術が日本でなくヨーロッパで使われる、というのを知り愕然とした次第です。
発明は日本発だけど、儲けは欧米、というケースはもうやめてほしいです。八木アンテナもそうですが。
グスタフ様 コメント有難うございます。私自身は、特に現代マーケティング的な観点から、神戸女学院の女子学生の行動に興味があり、内田氏のブログを参照するようになりました。特に、昨年あたりの、内田研究室の卒論のテーマのほとんどが「社会問題」に関することだったというのには、世相の変化を感じました。どのような立場の人であっても、そのよってたつところがはっきりしていれば、その人の考え方などは役に立つものと思います。逆に、立場がはっきりしていない人は煮ても焼いても食えないと思います。
個人的には、別に研究結果から特許を取得し、巨万の富を築いても、それはそれで良いのでは無いかと思います。ゲイツ財団のように、社会に還元するという道も有ります。要は才能の果実を退蔵することなく、周囲に還元する視点を忘れていないかを己に問い続ける、ただそれだけでは無いか、私はそのように理解しています。
…もっとも、私の場合は巨万の富と縁の有りそうな研究はやってはいませんが(苦笑
QTL_chicken様 コメント有難うございます。無論、私も、それは、それで良いと思います。ただし、富を築いただけで終わってしまっては、生ける屍のようになってしまうということです。私も、そういう人は何人か知っていますが、皆さんが思っているようなのとは違って悲惨ですよ。本当の意味で社会とのつながりもなくなってしまいます。
はじめまして。
先日は、ご訪問いただき、ありがとうございました。
内田さんの記事を読んで、
前に見た「ペイ・フォワード」という映画を思いだしました。
あれは才能とは関係なかったはずですが、
受けた恩をほかの人に返していくという考え方が、
ひょっとするとこれにつながるかなと思ったのでした。
kenn様 コメント有難うございます。ペイ・フォワードについては、以前どなたかにもコメントをいただいたことがあります。残念ながら、この映画を私は見たことがありません。いずれ見ようと思っていた映画です。
しかし、考え方としては十分理解できます。若いうちには、まずは利己的なくらいのほうが良いと思います。特に、最近の若者を見ていてそう思います。まずは、自分を愛せないような人は他人を愛することもできないからです。
しかし、そこから徐々に変わっていかなければ、とんでもないことになると思います。まずは、友人、仲間、配偶者、職場、会社、社会、人によってはそれよりももっと上というようにしていかないと人間は駄目になってしまいます。
このコメント欄の上のほうにも書いてありますが、完璧に自分のためにだけ生きてる人は、たとえ、巨万の富を築いても、全く無意味な人生だと思います。考えても、みてください。自分が、いくら、金銭的に大成功したとしても、いっしょに心から喜んでくれる人がいなければ、全くつまらないし、意味もないと思います。
あけましておめでとうございます。
弊ブログにおこしいただきありがとうございます。内田先生の作品はまだいくつかしか読んでいませんが、感銘を受けた部分も多かったです。
もし、神戸女学院が男子禁制のところでなかったら、聴講生としてでももぐりこめるのですが、、、(徒歩数分のところに住んでおりますので、、)残念です。
はじめまして。
先日はご訪問ありがとうございました。
こちらのブログをご覧になられてる皆さんとはかなり違う人種(遊郭の真ん中の酒屋に生まれ、高校中退、嫁に死なれ、水商売歴約25年、BLUES MAN歴も25年*現在もLIVE活動中、あまり本は読まず、知識はほとんど人からの聞き伝え)だと思いますが、ちょっと少ない知識を振り絞ってコメントさせていただきます。
僕にとってかなり難しい文章だったので全編読ませていただくのに苦労しましたが、私の考え方もそうなのかな思いまして。
現在BLUES Barを経営していますが、人生音楽が最優先の先自称BLUES MANと言わせていただきます。
音楽がなぜ最優先かと言いますと、音楽に今までに沢山助けられたからです。
ジョン・レノンを聞き、多様な価値観を知りそのおかげで多彩な方々と知り合う事ができました。
妻が死んだ時「Let to be」聞き心の痛みが柔らかくなって行きました。
そして今はBLUESを聞き逆境を乗り越える力が付きました。
そんな音楽に「ありがとう」という気持ちから、さほど大きい事とは出来ませんが、自分の出来る範囲で、BLUESのliveイベントやアマチュアBANDを募り無料の音楽イベントを主催したりしております。
昨年などはリーマンショック以来わたしの暮らしている舞鶴も景気が悪く、協賛金の集まりもーひとつでアマチュアBANDのイベントは中止しようかなと弱気になっていましたが、出演BANDの面々に励まされ、更なる協力のをいただき無事開演することができました(涙....)
この舞鶴に来て早この様なイベントも7年目を迎え、最近、使命感と言いますか、こんな事する為に生まれて来たのかな.......?
生涯の作業やな、と思いつつあります。
またBLUESに関しても私の師匠、日本のBLUES Harpの第一人者「妹尾隆一郎氏」の付き人を辞める時....師匠はこの衰退化してゆく日本のBLUES音楽(世界でもそうですが)を少しでも知ってもらおうと、きっちりギャラの出るライブもありますが、銭、金に関係なく日本全国を飛び回り、BLUESを聞いて知ってもらう事に終始一貫し自らがイベントを企画しまた広告塔になっていました。
そして僕も感化され辞める時「妹尾さんは伝道師としてメインストリームを行って下さい、お粗末ながら僕は、僕の暮らす町、又近隣の人々に伝えて行く事だけは約束します」と....
また、そんな僕みたいな人間がたくさんいればBLUESはまだまだいけますよ!などと偉そうに言いました。
この用な事はyutakarlsonさんのお言葉をお借りすれば音楽に対してこれは「返礼の義務」?
また今だ音楽が好きである事や楽器演奏者でいられる事は「天賦」ととらえさせていただきました。
yutakarlsonさんのブログのおかげで、自分の行為、行動を客観しできたことを感謝いたします。
失礼します。
樽井 幸雄様 明けましておめでとうございます。そうですか、お近くにお住まいでしたか。私が、内田氏のブログを読むのは、神戸女学院の女子大生に関して、現代マーケティング的な立場から興味があるので読むようになりました。彼女らの行動、嗜好、考え方など、社会の動きの良い目印になることがあります。少し、コメントに対する対応が遅れてしまいしまいました。もうとっくに、返答してつもりになっていたのが、そうではないことに本日気づきましたので、対応させていただきました。
本年もよろしくお願いします!!
frankey&yu-ma 様 コメント有難うございます。音楽などまさに、このブログで書いたことにピタリと当てはまると思います。音楽に限らず、芸術・芸能は、そうだと思います。これを、最初から、金儲けのためだけにやれば、すぐに才能が枯渇すると思います。結果として、曲が売れた、絵が売れたというのなら枯渇はしないでしょうか・・・・。
まさに、「返礼の義務」ですね。
最初、frankey&yu―maさんのブログにコメントすることは、場違いと受け取られるのではないかと思いましたが、何か感じるものがあったので、思い切ってコメントさせていただきました。そうして、結果として、やはり、コメントさせて良かったです。
これからも、お気軽にお立ち寄りください。
それから、どうしても、内田樹氏の文章をもとにして書いたので、内容が堅くなってしまいましたが、もっと柔らかく書くように心がけます。
それから、舞鶴に行く機会がありましたら、ぜひとも立ち寄らせていただきたいです。
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