2012年2月13日月曜日

文書は最低西暦を併記、統計からは元号一掃を(東洋経済)−【私の論評】元号を廃して、インドネシアの独立宣言にも刻まれた皇紀をもちいるべきである!!

 文書は最低西暦を併記、統計からは元号一掃を(東洋経済)


特に困るのが統計だ。国内統計と海外統計を対比する場合など、政府が発表する統計類はほぼすべてが元号を使用、一方、対比する海外統計は当然、西暦表示である。(上は、平成の元号を伝えた、在りし日の小渕氏)

また、企業が発表する文書は、役所や証券取引所に提出するものは元号表示、一般向けのものは西暦表示となっていることが普通である。このため、たとえばアナリスト向け決算説明会などで配られる資料は、証券取引所に提出する「決算短信」が元号表示、決算説明会のために作成した資料が西暦表示となっているのが普通だ。作成側も余計な手間がかかるが、読み手をも煩わしくさせるだけで実にバカバカしい。・・・・・・・続きはこちらから

【私の論評】元号を廃して、インドネシアの独立宣言にも刻まれた皇紀をもちいるべきである!!

また、元号廃止論です。これは、過去何回もこのようなことが、言われてきて、実現しなかったことです。詳細は、上記の記事をみたいただくものとして、この記事の結論は以下のようなものです。

わが国では、石橋湛山がすでに『東洋経済新報』46年1月12日号で元号廃止・西暦使用を主張している。

政府の元号に対する考え方は、「国民又は国・地方公共団体等の公的機関に対し、一般に元号の使用を強制する法令は存在しないと考える」「国・地方公共団体等の公的機関の事務については、従来から年の表示には原則として元号を使用することを慣行としてきている。したがつて、一般国民から公的機関への届出等においては、公務の統一的な処理のために、書類の年の表示には元号を用いるよう一般国民の協力を求めてきているが、このような考え方は今日においても変わりがない」(参議院に提出された野田哲議員の質問主意書に対する中曽根康弘首相の答弁書―87年4月10日付)というものだ。

だが、たとえ、「元号の使用を強制する法令は存在しな」くとも、国から「一般国民の協力を求め」られれば、企業や自治体などは従わざるをえないというのが実態だろう。

元号は廃止するのがベストだが、文化財的観点から存続させたとしても、文書は最低限西暦を併記し、統計類からは元号を一掃すべきだ。

私も、元号はもともと、中国のものという考えに賛成であり、これはわが国にあっては、廃止すべきものと思います。確かに統計などでは、面倒という面もあります。それにしても、この人、皇紀に関しては、何もも述べていません。これは、著しく、公平を欠いていると思います。

私は古くからある元号問題を一挙に解消する方法があると思います。日本国内では、役所でもどこでも、皇紀を用いることにすれば良いです。

皇紀とは、何かといえば、今ではご存知ない方も多いでしょうから、以下に簡単に解説します。

皇紀とは、神武天皇即位紀元(じんむてんのうそくいきげん)を基とするものです。これは、初代天皇である神武天皇が即位したとされる年を元年(紀元)とする、日本の紀年法です。この皇紀は、日本では、ほとんど知られていませんが、インドネシアの独立宣言文にも用いられている年号です。(下はインドネシア独立宣言を読むスカルノ氏)


略称は皇紀(こうき)といいます。外にも、皇暦(こうれき)、神武暦(じんむれき)、神武紀元(じんむきげん)、日紀(にっき)などともいいます。年数の英字表記では、「Koki」や「Jimmu Era」などといい、皇紀2660年を「Koki 2660」「Jimmu Era 2660」などと表記します。紀元節(現在の建国記念の日)廃止までは、単に「紀元」と言った場合には、神武天皇即位紀元(皇紀)を指していました。西暦2012年は、神武天皇即位紀元皇紀2672年です。西暦に660年を足せば、皇紀に、皇紀から660年差し引けば、西暦になるというで、これも元号と違って本当に理解しやすいです。国内で統一してしまえば、統計的にも、問題がなく、非常に良いと多いと思います。


このようなことをいえば、神武天皇が即位されたという確かな記録はないという人もいますが、そんなことをいいだぜは、現在の研究では、そもそも、キリスト生誕から、2012年目であるという西暦も、根拠が薄弱になります。イエス・キリストの生誕は、紀元前4年頃 から 紀元後28年の間とされており、諸説墳分であり、正確なところは、誰もわかりません。日本国の歴史は、始めがよくわからないほど古いものであるという考えで、日本の年号を皇紀にするという考えは、それで良いものと思います。


それに、何か今では、西暦を使うのが当たり前のようになってしまっていますが、そもそも、もともとは、キリスト教と縁もゆかりもないもない日本で、西暦を強要するのは、もともとおかしな話です。元号は、中国、西暦は欧米発祥ということから、独自の日本文明を持つ日本においては、皇紀で表記するというのが、最もふさわしい行き方であると思います。


さて、上の記事を書いた人は、そもそも、皇紀などわかっているのでしょうか?最近では、政治家でもわからないひとがいます。たとえば、昨年枝野幸男官房長官(当時)は昨年の参院決算委員会で、山谷えり子氏(自民)に対する答弁において、現在の天皇陛下が第何代なのかについて「知らない」と述べていました。今生天皇陛下は初代神武天皇から数えて125代目にあたります。枝野氏は当時昨年が皇紀何年(2671年)にあたるかも答えられませんでした。


アメリカであれば、今のオバマ大統領は、第何代目の大統領であるかを答えられるひとは、かなりいると思います。自分の国に関する、歴史も良く知らない政治家がいるくらいですから、上のよう記事を書くような人がでてきても、驚くには値しません。それにしても、日本の歴史を良く知らない人が、国政を司ったり、元号がどうのことのなどと語る資格はないと思うのは、私だけでしょうか?


さて、インドネシアの独立宣言になぜ、皇紀が用いられたのか、今では、知らない人も多いと思いますので、以下に、それを記載します。


インドネシアのムルデカ(独立)広場中央に聳える高さ137mの独立記念塔(モナス)(写真下)。この地下1階に、インドネシアの「三種の神器」(独立宣言書・独立時に掲揚された国旗・国章)が奉納されています。「第一の神器」は、スカルノ(初代大統領;左写真の向かって右側)とハッタ(初代副大統領;左写真の向かって左側)がサインした独立宣言書(下写真)なのですが、ここに記された日付は「05年8月17日」。インドネシアが独立を宣言したのは西暦1945年。なのに、日付に記された年は「05」年。実は、この「05」年は、当時、「昭和」と共に日本で使われていた「皇紀」(神武天皇の即位した紀元前660年を元年とする)で、「2605」年が略されたものなのです。さて皆さん、なぜ、スカルノ等はインドネシア独立宣言書に日本独自の紀年法である「皇紀」で年月日を記載したのでしょうか? そこには、インドネシアの独立に深く関わった「日本」の存在があったのです。



まず最初に、日本とインドネシアの「出会い」から書きましょう。よく「大東亜戦争」(太平洋戦争)と言うと、日本が米英(及び連合国)に対して宣戦布告した事になっていますが、こと、オランダに関しては、逆にオランダから日本に宣戦布告してきたのです。当時、オランダもアジアに植民地を持っていました。「オランダ領東インド」(通称、「蘭印」)-インドネシアの前身です。日本の初戦における電撃的な勝利に危機感を感じたオランダは、「大東亜共栄圏」構想-アジア解放を「錦の御旗」に掲げて蘭印へ進軍して来るであろう日本軍の機先を制する目的で、先手を打って日本に宣戦布告してきたのです。


これに対して、日本軍は昭和17(1942)年3月1日、今村均(ひとし)中将(下写真)率いる「帝国陸軍ジャワ派遣軍第16軍」(通称「治(おさむ)部隊」)、2個師団総勢55,000人を擁して、ジャワに敵前上陸し、インドネシアへの第一歩を踏んだのです。さて、ジャワに上陸した「治部隊」ですが、ジャワに伝わる一つの伝説「ジョヨボヨの予言」(北方から小柄な黄色人種がやって来て、自分達を解放してくれる。しかし、ジャゴンの花が咲く頃には帰ってゆく・・・)が奏効して、親日一色に染まったジャワ島民の支持もあり、「治部隊」の2倍の兵力を擁していたオランダ軍(蘭印連合軍)を、上陸後、僅か9日にして降伏させたのです。



さて、ジャワを占領した日本軍はこの地で一体何をしたのでしょうか? 第一になされた事は「民心の安定」でした。それは、今村司令官の発した「布告第1号」に見る事が出来ます。


日本人とインドネシア人は同祖同族である
日本軍はインドネシアとの共存共栄を目的とする
同一家族・同胞主義に則って、軍政を実施する


当時、植民地の住民にとって「共存共栄」等と言う言葉はとても信じられないものでした。なぜなら、欧米列強にとっての植民地とは、「支配者」と「被支配者」の関係でしかなかったからです。ところが日本軍は開口一番、「共存共栄」を唱えたのですから、住民が驚いたのも無理はありません。しかし、今村司令官の布告は終戦まで、決して破られる事はなかったのです。更に、ジャワ軍政府の施政も住民の支持を得ました。例えば、


農業改良指導
小学校の建設と、児童教育の奨励
新聞「インドネシア・ラヤ」の発刊
英・蘭語の廃止と、公用語としてのインドネシア語採用
5人以上の集会の自由
多方面でのインドネシア人登用
インドネシア民族運動の容認
インドネシア人の政治参与を容認
軍政府の下に「中央参議院」を設置
各州・特別市に「参議会」を設置
ジャワ島全域に、住民による青年団・警防団を組織
「インドネシア祖国義勇軍」(PETA)の前身を創設


等ですが、これらは住民にとって、どう見ても、独立への「ステップ」としか映りませんでした。そして結果的に、ジャワ軍政時代にインドネシア独立の「段取り」は全て整えられたのです。(インドネシアの
若者に射撃を教練する日本兵)



一方、インドネシア人にとって「救世主」と映った今村司令官ですが、大本営との意見対立(ジャワ軍政の施政方針は多分に今村司令官の独断であった)で、在任僅か10ヶ月でジャワ軍司令官を解任、終戦の際に戦犯としてバタビアのチビナン監獄に収監されました。そして、今村将軍(終戦時、陸軍大将)も「死刑」の危機にあったのです(部下の何人かは既に処刑されていた)。この時、映画さながらの「ドラマ」があったのです。


なんと、インドネシア独立の父・スカルノ等独立運動指導者が、死刑寸前に今村将軍を「奪還」しようとしたのです。結果的に、今村将軍は死刑執行寸前に釈放され、この奪還作戦は幻に終わったのですが、さて皆さん、ここまで書いた所で、今回のテーマに戻ろうと思います。そうです。なぜ、インドネシアの独立宣言書に「皇紀」が採用されたのか? それは、大本営の命令に反して、独断でジャワ軍政を進めた今村将軍と、独立戦争の際、独立義勇軍(インドネシア国軍の前身)に身を投じた2,000人もの旧日本兵(彼らの多くは復員せず独立戦争に参加。独立後もインドネシアに残った)に対してはらわれた最大の「敬意」ではなかったでしょうか。


スハルト前大統領は在職時に、インドネシアの体制を「家族主義」と称しました。勿論、これには、スハルト体制下、一族及び子飼いの側近が政治・軍事・経済の枢要を占めた事実を正当化する意味もあったでしょう。しかし、その根底にあったものは、ジャワ軍政当初、今村司令官が布告第1号で唱えた「同一家族・同胞主義」ではなかったでしょうか? オランダによる植民地支配から解放し、独立建国に至るレールを敷いた今村司令官によるジャワ軍政。それは、今日に至るまで、インドネシアの根底に深く根を下ろしているのだと思います。


他国の独立宣言にも刻まれた皇紀。この皇紀を用いることは、この国の自主独立の精神を尊重することにもなると思いますし、国民が、日本という国の伝統と歴史に注目し、次への大きなステップに結びつくのではないかと思います。




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