2026年5月5日火曜日

こどもの日に問う――子どもたちに残すのは「祈る平和」か、「守れる日本」か

まとめ

  • 平和とは、戦争がない空白ではない。子どもが学校へ行き、親が働き、食料と燃料が届き、夜に電気が灯る日常が続くことである。だからこそ、平和は祈るだけでなく、守る力によって支えなければならない。
  • 湾岸戦争後、日本は130億ドルの「小切手外交」だけではなく、6隻の掃海艇で海を開いた。危険な海を安全な海に戻すことこそ、我が国が示した本当の平和国家の姿である。
  • 若者は右に寄ったのではない。現実に寄ったのである。物価高、エネルギー不安、台湾有事を知る世代は、「祈る平和」ではなく、暮らしと未来を守れる日本を求め始めている。

5月5日は、こどもの日である。空に泳ぐ鯉のぼりは、子どもたちの健やかな成長を願う日本の美しい風景だ。だが、その願いを季節の飾りで終わらせてはならない。こどもの日に本当に問うべきことは、「子どもが好きかどうか」ではない。子どもたちが大人になった時、我々はどんな国を手渡すのかである。

豊かな暮らし。安全な社会。誇りある国。そして、危機が来ても簡単には揺らがない平和。これらは別々の話ではない。すべて、子どもの未来を支える土台である。

5月5日は、もともと端午の節句であり、子どもの成長を願う日として親しまれてきた。戦後、「こどもの日」として定められた時、その意味はさらに広がった。内閣府は、こどもの日を「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」日として示している。つまり、こどもの日は単なる家族行事ではない。戦後の我が国が、次の世代をどう守り、どう育てるかを考える日にしたのである。(内閣府)

総務省統計局によれば、2026年4月1日現在の15歳未満のこどもの数は1329万人で、45年連続の減少となった。こどもの割合も10.8%で、52年連続の低下である。こどもの日を祝いながら、守るべき子どもそのものが減り続けている。これが我が国の現実である。だからこそ、この日に語る平和は、単なる反戦の言葉で終わってはならない。子どもが安心して学び、働き、家庭を持ち、次の時代を築ける社会そのものを語らなければならない。(総務省統計局)

平和とは、戦争がない空白ではない。
子どもたちの日常が続くことである。

学校へ行けること。夜に電気がつくこと。食料が届くこと。親が働けること。港が動くこと。海から燃料が入ってくること。これらは普段、当たり前に見える。だが危機が来れば、真っ先に揺らぐ。だから平和は祈るものではない。つくり、守り、次の世代へ手渡すものなのである。

5月3日の憲法記念日を過ぎ、我が国では再び9条や防衛力をめぐる議論が起きている。平和を願う心は大切だ。日本人の多くは戦争を望んでいない。子どもたちを危険にさらしたいとも思っていない。ならば問うべきことは一つである。平和を願うだけで、平和は続くのか。備えがあってこそ、平和は次の世代に渡せるのではないか。

その答えを、我が国はすでに一度示している。湾岸戦争後のペルシャ湾掃海である。

1️⃣平和国家とは、侵略を思いとどまらせる国である


戦後日本は、長く「平和国家」として歩んできた。これは我が国の大きな財産である。戦争の惨禍を経験した日本が、二度と同じ過ちを繰り返さないと決めたことには重い意味がある。

だが、平和国家であることは、何もしない国であることではない。むしろ逆だ。本当の平和国家とは、戦争を防ぐために努力する国であり、危機が起きた時に秩序を回復する役割を担える国である。海を守り、港を守り、物流を守り、暮らしを守る国である。

戦後日本が長く抱えてきた平和観は、いま更新されなければならない。平和国家とは、ただ戦争をしない国ではない。侵略や威圧を思いとどまらせる力を持つ国である。攻め込めば高くつく。脅しても簡単には折れない。海を止めようとしても、物流を止めようとしても、社会全体が容易には崩れない。そう思わせる力があって初めて、戦争は遠ざかる。

平和国家とは、戦争をしない国ではない。
侵略を思いとどまらせる国である。

ここで避けて通れないのが軍事である。戦後日本では、軍事という言葉そのものを忌避する空気が長く続いた。軍事を語るだけで危険視され、防衛力を強めるだけで「軍国主義」と呼ばれることもあった。だが、それはあまりにも粗い見方である。

もちろん、軍が政治を支配し、国民の自由を踏みにじり、国家を戦争へ引きずり込む体制は認められない。だが、独立国が自国を守るために軍事を正面から位置づけることまで否定するなら、それは現実から逃げることになる。いかなる国も、外交だけで独立を守っているわけではない。法だけで領土を守っているわけでもない。国家の独立を支えるのは、外交、経済、技術、情報、そして軍事を含む総合力である。

軍事を持つことが悪なのではない。
軍事を制御できないことが悪なのである。

民主国家に必要なのは、軍事を否定することではない。政治の統制の下で、軍事を国家存立の一機能として正しく位置づけることだ。国民の自由を守るために、外からの脅威を抑える。戦争を始めるためではなく、戦争を起こさせないために力を持つ。これが独立国の常識である。

子どもたちに平和を残すとは、単に戦争反対を唱えることではない。平和を支える制度、産業、外交、防衛力、エネルギー供給、海上交通路を整えることだ。それは暗い話ではない。未来をつくる仕事である。そして、ここで言う「子ども」とは、幼い子だけではない。高校生もまた、大人が守るべき子どもである。

2026年3月16日、沖縄県名護市辺野古沖で、京都の高校生18人を含む21人が乗った小型船2隻が転覆した。高校生たちは辺野古周辺を見学する平和教育プログラムに参加していた。海上保安庁が全員を救助したが、17歳の女子生徒と船長が亡くなった。AP通信は、事故原因は調査中であり、生徒たちは抗議活動をしていたわけではないと報じている。(AP通信)

この事故を、基地に賛成か反対かという政治的な賛否だけで片づけてはならない。まず問うべきことがある。子どもを危険な現場に近づける時、大人はどこまで安全を確認したのか。理念のために、若者の命を軽く扱っていなかったか。「平和学習」という言葉が、安全管理の甘さを覆い隠していなかったか。

平和とは、遠く離れた場所で美しい言葉を語ることではない。目の前の命を守ることである。

現場を知らない平和論は、時に子どもを危険に近づける。

この一文は、こどもの日に重く響く。平和教育は、子どもを危険から遠ざける教育でなければならない。危険な現場に近づくなら、理念より先に安全管理がなければならない。高校生を守れない平和教育が、どうして国家の平和を語れるのか。この問いから逃げてはならない。

我が国が目指すべき平和教育は、理念を覚えさせる教育だけでは足りない。命を守る判断力を育てる教育でなければならない。危険を見抜く。現場を確認する。大人の言葉をうのみにしない。自分と仲間の命を守る。これもまた、平和を支える力である。

2️⃣130億ドルは残らなかった。6隻の掃海艇は残った

湾岸戦争は、日本に大きな教訓を残した。1991年、日本は多国籍軍支援として130億ドル規模の資金を拠出した。しかし、日本は米国主導の多国籍軍には参加できず、「小切手外交」と揶揄された。クウェートによる感謝表明に日本の名がなかったことが意図的だったのか偶然だったのかは不明だが、日本国内に大きな衝撃を与えたことは間違いない。(nippon.com)

金を出せば国際貢献になる。金を出せば平和に責任を果たしたことになる。そう考えていた日本人に、国際社会は冷たい現実を突きつけた。だが、ここで終わらなかったところに日本の強さがある。その後、日本はペルシャ湾に海上自衛隊の掃海艇を派遣した。機雷を取り除き、船が通れる海を取り戻すためである。

外務省の記録によれば、1991年4月、日本政府は安全保障会議と閣議で、ペルシャ湾における機雷の除去と処理のため、海上自衛隊の掃海艇等を派遣することを決定した。防衛研究所の資料も、当時ペルシャ湾北部海域には約1200個の機雷が敷設されていたと整理している。(政策研究大学院大学・データベース「世界と日本」)

130億ドルは、世界の記憶に残らなかった。
だが、6隻の掃海艇は違った。

ここで日本が行ったのは、戦争ではない。海を開く仕事だった。機雷を除く。タンカーが通れるようにする。港を機能させる。原油の流れを戻す。地域の復興を支える。日本が示したのは、力を振りかざす国家像ではない。危険な海を安全な海に戻す国家像である。

この事実が教えるものは明快だ。国際社会で記憶されるのは「いくら払ったか」ではなく、「何を引き受けたか」である。家庭でも、会社でも、地域でも同じだ。困った時に、現場を支える人が信頼される。国も同じである。日本はペルシャ湾で、平和国家の新しい形を示した。戦わないだけではない。壊された秩序を直し、海を開き、人々の暮らしを戻す国である。

ここにも、軍事の本質が表れている。軍事とは、必ずしも敵を撃つことだけではない。危険な海を開くことも、船を守ることも、機雷を取り除くことも、災害時に人命を救うことも、国家の軍事的能力の一部である。軍事をすべて「戦争への道」と決めつければ、こうした実務能力まで見えなくなる。結果として、国民を守る力そのものを弱めてしまう。

この視点を持つと、9条をめぐる議論も変わる。単なる「賛成か反対か」で止めるべきではない。日本がどのような形で平和を支える国になるのか。その具体像を語るべきである。我が国には、海を守る力がある。精密な技術がある。規律ある自衛隊がある。世界から信頼される実務能力がある。それを次の時代に生かすことこそ、こどもの日に語るべき安全保障論である。

しかも、これは過去の話ではない。1991年の機雷は、今ならドローン、サイバー攻撃、港湾システムへの妨害、海底ケーブル切断、タンカー航路への威嚇として現れる。形は変わっても狙いは同じだ。海を閉じ、物流を止め、暮らしを止めることだ。だからこそ、日本がペルシャ湾で示した「海を開く力」は古びていない。むしろ、現代の方がその意味は大きい。

海が止まるとは、遠い港の話ではない。燃料価格が上がり、電気代が上がり、輸入品が届かず、工場が止まり、雇用が揺らぐということだ。つまり、海を守ることは、家庭を守ることでもある。掃海艇の話は、軍事の昔話ではない。明日の暮らしを止めないための国家の仕事なのである。

世界には、秩序を壊す力がある。同時に、秩序を直す力も必要である。日本は後者の国になれる。いや、すでになった経験がある。平和国家日本の本領は、何もしないことではない。危険な海を安全な海に戻すことにある。これこそ、子どもたちに語るべき日本の誇りである。

3️⃣若者は右に寄ったのではない。現実に寄ったのだ

ここで注目すべきは、現在の政治状況である。FNNの4月18日、19日の世論調査では、高市内閣の支持率は70.2%となり、2月以来の70%台を回復した。3月調査の67.1%から3.1ポイント上昇し、不支持は25.1%だった。nippon.comがまとめた4月の国内主要8社調査でも、高市内閣の支持率は53.0%から70.2%に分布し、6割台中心の高水準と整理されている。(FNNプライムオンライン)

もちろん、若い世代の支持を一枚岩のように語るべきではない。毎日新聞の4月調査では、内閣支持率は53%に下がり、18〜29歳と30代でも2月調査から支持率が下落したと報じられている。世論調査には調査主体や方法によって差がある。だから、若者全体が一様に高市政権を支持していると単純化してはならない。(毎日新聞)

それでも、高市政権が高い支持を維持し、若い世代にも一定の支持を得ているという流れは、従来の「若者=安全保障忌避」という固定観念を揺さぶっている。FNNは、高市支持の若者層について「保守的」と分析し、同時期の読売調査では内閣の支持理由として「首相の指導力」と「政策への期待」が上位だったとも紹介している。(FNNプライムオンライン)

若者は右に寄ったのではない。
現実に寄ったのである。

かつては、若者といえば「反戦」「護憲」「安全保障への忌避」という図式で語られがちだった。だが、今の若い世代はもっと現実を見ている。物価高を経験している。エネルギー不安を知っている。中国の軍事的圧力を見ている。台湾有事という言葉を日常的に聞いている。SNSで海外の戦争映像にも触れている。彼らにとって、平和は教科書の中の抽象論ではない。家賃、電気代、ガソリン代、雇用、将来の家庭を守れるかという生活の問題である。

だから彼らは気づき始めている。平和は、ただ唱えるものではない。暮らしを守れる政治があって初めて続くのだ、と。これは右傾化ではない。生活防衛感覚である。自分の暮らしを守りたい。家族を持てる社会を残したい。外から脅されても簡単に折れない国であってほしい。その感覚が、若い世代の現実志向を支えている。

若い世代は、平和を軽く見ているのではない。むしろ、平和を生活の側から見ているのである。国家が弱ければ物価は揺れる。エネルギーが止まれば生活は苦しくなる。海が危うくなれば仕事も家庭も影響を受ける。だから、若者が現実的な政治を支持するのは好戦的だからではない。未来を失いたくないからである。

これからの日本が目指すべき平和は、消極的な平和ではない。「戦争をしない」だけでは足りない。「危機が来ても暮らしを止めない」平和が必要である。海上交通路が守られる。港湾が動き続ける。電力が安定する。食料と燃料が届く。通信が止まらない。企業が生産を続ける。家庭の暮らしが守られる。これらはすべて、子どもたちの未来を支える平和である。

防衛力も、産業力も、外交力も、エネルギー政策も、別々の話ではない。どれも、次の世代に安定した国を渡すための土台である。だから我が国がやるべきことは、はっきりしている。自衛隊を憲法上、正面から位置づける。シーレーン防衛を国家戦略の中心に据える。港湾、空港、電力、通信、燃料備蓄を守る。サイバー攻撃やドローン攻撃に備える。防衛産業と民間製造業をつなぐ。平時から、危機に強い国家をつくる。これは、軍国主義への回帰ではない。独立国としての正常化であり、未来への責任である。

むしろ、日本はこの分野で世界に貢献できる。海を安全にする。物流を守る。災害に強い港をつくる。エネルギー供給を安定させる。技術と規律で、危機に強い社会をつくる。これこそ、我が国が次の世代に残せる希望である。

こどもの日に、我々が子どもたちへ誓うべきことは、ただ「戦争は嫌だ」と言うことではない。君たちが安心して学べる国を残す。働き、家庭を持ち、挑戦できる国を残す。危機が来ても、簡単には折れない国を残す。そういう平和を、我が国はつくることができる。

結語

こどもの日に掲げる鯉のぼりは、風を待っているだけでは泳がない。風を受け、空へ上がる力があって初めて泳ぐ。平和も同じである。願うだけでは続かない。支える力があって初めて、次の世代へ渡せる。

最後に一つだけ、読者に持ち帰ってほしい。平和は、政治家や専門家だけの言葉ではない。子どもの通学路であり、家庭の食卓であり、親の職場であり、港に入る船であり、夜に灯る電気である。それらを明日も続ける力が、国家の平和である。

若い世代は、もはや“祈る平和”だけでは安心しない。我が国には、海を開き、暮らしを守り、平和を支える力がある。その力を次の世代のために使うことこそ、本当の平和国家の道である。

【関連記事】

掘っても守れない米国、掘らずに耐える日本――ガソリン高騰が暴いた国家の真価 2026年4月7日
資源を持つだけでは、国民生活は守れない。備蓄、制度、供給網、そして危機時に動ける国家機能があって初めて、国は踏みとどまれる。本稿の「祈る平和ではなく、守れる日本」という主題を、エネルギー安全保障から深く理解できる一本である。

中国を睨む日米会談に突きつけられたホルムズ危機――高市・トランプ会談は日米同盟の踏み絵である 2026年3月19日
ホルムズ危機を単なる中東問題で終わらせず、対中戦略、日米同盟、海上交通路の現実へ引き寄せた記事である。平和を支えるには、理念だけでなく、危機の現場で何を引き受けるのかが問われることが分かる。

日本はすでに「ガス帝国」である—そして今、静かに「ミサイル国家」になった 2026年3月10日
日本を単なる資源小国と見る通説を覆し、LNG、海運、シーレーン、防衛力を一体で読み解く記事である。エネルギーと安全保障は別々の話ではなく、子どもたちの日常を守る国家戦略そのものだと実感できる。

ホルムズ封鎖で本当に詰むのは中国である ― マラッカ・ジレンマとアンダマン海が暴く地政学の真実 2026年3月8日
「ホルムズ封鎖なら日本が終わる」という単純な見方をひっくり返し、中国のエネルギー輸送路の弱点を地政学から示した記事である。海を守る力、海を開く力が、なぜ我が国の国益に直結するのかが見えてくる。

東シナ海の中国漁船による「500kmの鋼の壁」――封鎖戦の時代、日本は何を変えつつあるのか 2026年2月28日
現代の脅威は、いきなり砲火で始まるとは限らない。海上民兵、漁船、海警船による「撃たずに止める封鎖戦」こそ、我が国が直視すべき現実である。本稿で述べた「侵略を思いとどまらせる国」の意味を、東シナ海の現場から理解できる。

0 件のコメント:

こどもの日に問う――子どもたちに残すのは「祈る平和」か、「守れる日本」か

まとめ 平和とは、戦争がない空白ではない。子どもが学校へ行き、親が働き、食料と燃料が届き、夜に電気が灯る日常が続くことである。だからこそ、平和は祈るだけでなく、守る力によって支えなければならない。 湾岸戦争後、日本は130億ドルの「小切手外交」だけではなく、6隻の掃海艇で海を開い...