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2017年12月15日金曜日

富岡八幡宮事件に見る、組織に「怨念」を抱く者の恐ろしさ―【私の論評】組織の精神を健全に保たなければ怨霊が輩出することになる(゚д゚)!


富岡八幡宮の殺人事件で、容疑者による、関係者やマスコミに宛てた長文の遺書が話題となっている。「怨霊」「祟り」など、真に受け難い文言が書かれているが、事件の舞台が神社である以上、これを「頭のおかしな容疑者の独り言」として片付けることは許されない。(ノンフィクションライター 窪田順生)

神道的に見れば大きな
意味を持つ遺言書の中身

 既にネットで公開されているのでご覧になった方も多いと思うが、「約30年に亘り続きました、富岡家の内紛」なるものを赤裸々にぶちまけるとともに、姉を「永久追放」して、自身の息子(最初の妻との子ども)を宮司に迎えることを要求し、最後に★印とともに、以下のような脅しともとれる「宣言」を行ったのだ。 

 年の瀬の日本に激震が走った富岡八幡宮の殺人事件。姉を弟夫婦が待ち伏せして日本刀でメッタ斬りにするという凄まじい手口もさることながら、衝撃的だったのは、犯人である富岡茂永氏が関係者やマスコミに宛てた「遺書」の内容だろう。
自殺した茂永氏の遺書を読むと、極めてよくできた内容であることが分かる。そして、このような
「組織に怨念を持つ人」は、なにも富永八幡宮に限らず、そこら中の企業にもいるものだ。 
 「もし、私の要求が実行されなかった時は、私は死後に於いてもこの世(富岡八幡宮)に残り、怨霊となり、私の要求に異議を唱えた責任役員とその子孫を永遠に祟り続けます」
 ああ、もうこの人は完全に頭のネジがぶっとんじゃっているんだな。そんな風に感じる方も多いかもしれないが、実は神道的に見ると、茂永容疑者のロジックはそれほどおかしくはない。むしろ、神職を追われた者が仕掛ける「復讐」のシナリオとしては、驚くほどよくできている。

この国では古代から権力争いに敗れ、憤怒の念を抱きながら死を遂げた者が「怨霊」となり、権力者のみならず、国全体に疫病や自然災害などの「祟り」をなしてきたという伝説がたくさんある。崇徳天皇、早良親王、長屋王、伊予親王、藤原夫人、観察使橘逸勢、文室宮田麻呂など例をあげればきりがない。

いやいや、そういう「御霊信仰」みたいな話ではなく、今回のは完全におかしな人の逆恨みじゃないか、という意見もあろうが、「怨霊」というものには、そのような恨みを抱くのも仕方ないというような情状酌量の余地だとか、主張の正当性なんて要素はまったく必要ではない。

大事なのは「祟りかも」という恐怖であって、それがあれば、「怨霊」なのだ。

茂永氏は祭りを人質に取って
息子を宮司にするよう迫った

 わかりやすいのが、全国の八幡宮の総本社である宇佐神宮(大分県)の「放生会」という神事だ。昨年亡くなった著名な古代史家である上田正昭・京都大学名誉教授は、この神事を研究して、その目的が古代の鹿児島・宮崎地域で暮らしていた民族「隼人」が大和朝廷に対して反乱を起こして征討されたことへの鎮魂だと「AERA」(1994年5月30日)の記事で主張した。
 大和朝廷からすれば、隼人は辺境から反乱を企てる「悪」以外の何物でもないので、当初は鎮魂など行わなかった。が、なぜそれが行われるようになったのかというと「祟り」のせいだ。

伝承では隼人に対して、1400人という夥しい数の大量虐殺が行われた数年後、宇佐神宮一帯で、蜷貝(にながい)が異常発生し、征討軍に関わった宇佐神宮の神官らが隼人の祟りでは、と恐れはじめたという。その後、海に蜷貝を放ち、殺生をたしなめる「放生会」が始まったという。

そのような「怨霊」というものの基本的性格を踏まえると、茂永氏の「怨霊宣言」というものが、富岡八幡宮や「(殺された姉の)長子派」の方たちにとって、行くも地獄、引くも地獄という非常に巧妙な「トラップ」となっている。

実は、この「遺書」の中で茂永氏は、息子が宮司になれなかった場合は「私が作らせた一の宮と二の宮神輿を出す事を今後一切禁止します」とも述べ、これが破られたら、神輿総代会の幹事総代やその子孫にまで「永遠に祟り続けます」と言っている。

一の宮神輿は1991年に佐川急便の故・佐川清会長が奉納したもの。ダイヤモンドやルビーがちりばめられ「日本最大の金ピカ神輿」として話題になったものだが、重すぎて担がれる機会もないので、このまま出せなくても特に問題はない。が、問題は97年に奉納された二の宮神輿の方である。こちらは毎年行われる「深川八幡祭り」で使われているものだからだ。

つまり、茂永氏は、江戸三大祭りの1つとして30万人もの人出があるとされ、地域活性化にも貢献する祭りを、いわば「人質」にとって、息子を宮司にするよう迫っているのだ。

茂永氏の遺言を富永八幡宮が
無視できない理由

 祭りはみんなものなんだから、そんなバカな要求はシカトすりゃいいんだよ、という言葉があちこちから聞こえてきそうだが、それは天にツバするような行為である。
 祭りとは、ただ神輿を担いで「粋だね」「いなせだね」と参加者が自己満足にひたる地域交流イベントではなく、宮司が執り行う、れっきとした「神事」である。その「神事」を取り仕切る者が、以前その神職についていた者から殺されたうえに、容疑者は自ら命を絶って「怨霊になる」と宣言しているのだ。
 この神職者間のトラブルを、「家族内トラブル」で片付けるというのは、「深川八幡祭り」の宗教的意味も否定することにつながってしまう。もし富岡家が「怨霊なんて非科学的なものはないから安心してください」と二の宮神輿を引っ張り出すことがあれば、それは宗教家としての「死」を意味することと同じであり、「富岡八幡宮」という宗教施設の意義を自ら否定する行為なのだ。
 伝えられている確執が事実なら、富岡家が茂永氏の息子を宮司にするという選択肢は難しそうだ。かといって、富岡八幡宮に潤沢な「カネ」を呼び込むための一大イベントである「深川八幡祭り」を中止にするなんてことは、できるわけがない。
 そうなると、祭りが行われる来年の夏までに新たな神輿をつくるしかないわけだが、それは世の中に対して、「富岡八幡宮は茂永氏を怨霊として恐れている」と公言しているに等しい。先ほどの「隼人」のケースを思い出してほしいが、「怨霊」というのは、非業の死を遂げた者が正しいとか間違っているとかは関係なく、「祟りかも」という恐怖心がつくるものだ。
 つまり、新たな神輿をつくるという選択は、富岡八幡宮がオフィシャルに茂永氏を「怨霊」と認定したことになってしまうのである。こうなると今後、富岡八幡宮や祭りで、何か不吉な出来事が起こるたびに「祟り」と結びつけられる。

茂永氏の遺書は
企業の怪文書に似ている

 もしそのようなことが続くようならば、富岡八幡宮の境内に茂永氏の怒りを鎮めるような碑、あるいは社も設けられるかもしれない。

それは裏を返せば、茂永氏が、菅原道真公や全国の御霊神社のように、「神」になるということである。富岡家や長子氏についている方からすれば、まさに「悪夢」と呼ぶにふさわしい展開だろう。

先ほど、行くも地獄、引くも地獄という非常に巧妙な「トラップ」だと評した理由がお分かりいただけただろうか。

この極めて完成度の高い「復讐シナリオ」が織り込められた「遺書」を見ているうちに、企業内でバラまかれる「怪文書」とよく似ていることに気づいた。仕事柄、いろいろな怪文書を目にするのだが、「敵」に向けられる激しい誹謗中傷、そして自分の主張こそが正しく、これが通らなければ死んでも死にきれないという強い思いは、茂永氏の筆致とそれほど変わらない。

確かに、内部告発などをして企業に「災い」をなす人の多くは、社内の権力闘争に敗れるなど、何かしらの恨みを抱いている人が圧倒的に多い。みなさんも、そのような「復讐劇」をよく耳にすることだろう。

たとえば、インサイダーによる調査報道に定評のある会員制情報誌「FACTA」が、日産の検査不正問題は、社内の品質保証関連部署の人員などが「西川降ろし」を画策してリークを行ったと報じている。

無論、日産側はリークを否定しているが、話としては妙な説得力がある。

同関連部署は、カルロス・ゴーン前社長が2000年頃に「血の流れる改革」を行った際、もっとも人員を減らされたということで、不満の声が多く上がっていたという。そのような部署の一部の人が「怨霊」となって、数十年前から現場で続いていた「社内ルール」を「不正」として発掘し、ゴーン前会長の懐刀である西川社長に「祟り」をなす、というのは極めて日本的な復讐劇で、いかにも「ありそう」である。

権力闘争の激しい企業には
「プチ茂永氏」が大勢いる

 では、このような権力闘争の「敗者」が「怨霊」にならないためにはどうすればいいか。哲学者の梅原猛氏は、敗者を排除するのではなく、「何らかの意味で鎮魂し、それによってかつての敗者の部下であった人たちが安んじて新しい権力に仕える道を用意すること」(日本経済新聞1991年8月31日)と述べている。

これはまったく同感だ。よく企業から「どういうわけかメディアに、うちの社長の悪い話ばかりが出る。しかも、メディアが知らないような内部事情ばかりだ」と相談を受けるが、たいがいその社長にかつて冷遇されたとか、政敵だったとかいうグループがリーク元であることが多い。

つまり、このグループは組織内でしっかりと「鎮魂」をされていないので、新しい権力に災いをなす「怨霊」となってしまうのだ。

マスコミ業界にいると、社内の権力争いが激しい大企業に勤めている方から、内部事情を話したいとの申し出がよく来る。実際に会って話を聞いてみると、「あいつだけは許せねえ」「会社を辞めることになってもいい。刺し違えてでも、あいつは引きずり下ろす」などと、「政敵」への怒りをぶちまける方も多い。

レベルは違えど、「プチ茂永氏」のような方は、世の中に山ほどいるのだ。

みなさんがいま働いている会社の同僚の中にも、「怨霊」になりかけている人がいるかもしれない。

【私の論評】組織の精神を健全に保たなければ怨霊が輩出することになる(゚д゚)!



ブログ冒頭の記事では以下のようなくだりがあります。
 この国では古代から権力争いに敗れ、憤怒の念を抱きながら死を遂げた者が「怨霊」となり、権力者のみならず、国全体に疫病や自然災害などの「祟り」をなしてきたという伝説がたくさんある。崇徳天皇、早良親王、長屋王、伊予親王、藤原夫人、観察使橘逸勢、文室宮田麻呂など例をあげればきりがない。
これは、確かにそうです。というより、日本の過去の歴史は怨霊の歴史だったといっても過言ではないのです。それについては、このブログでも随分前に掲載したことがあります。その記事のリンクを以下に掲載します。
日本の歴史は「怨霊」の歴史だった-自然や自らよりはるかに大きなものへの畏れをなくしたかのように見える日本人よどこへ行く!?
さて、以下にこの記事より「教科書に掲載されない歴史(怨霊の歴史)」について掲載されている部分を引用します。
■教科書に掲載されない歴史 
現代の教科書に掲載されない、歴史というものがあります。明治時代などに、非科学的とされて、あまり掲載されなくなり、第二次世界大戦後は、事実と確認されるもの以外は完全に排除されてしまったものです。しかし、教科書に正式には掲載はされなかったもののいわゆる「教科書に掲載されなくなった歴史」は、戦前から戦中にかけて親から子へとか、教師から教え子とか、いろいろな形で伝承されてきました。しかし、現代ではあまり伝承されなくなり、今では、知らない人も多くなりました。しかし、現代日本人は、もう一度こうした歴史にも、目を振り向けるべきだと思います。

その歴史の中に、「怨霊」の歴史があります。平安時代は、まさにその「悪霊や怨霊」の時代で、平安京は怨霊に対するシェルターだったとさえ言われています。なんと奈良の大仏様も実は怨霊封じのために建立されたのですが、結局役に立たちませんでした。平城京を捨て、長岡京も捨てて逃げる天皇たちの様は尋常ではありませんでした。優雅な貴族文化といわれる平安時代も、その実態はおどろおどろしい世界でもありました。
時の為政者の仕事は、悪霊や怨霊から国を守ることがその勤めでした。夜中眠っている間に悪霊や怨霊に魂を盗まれると信じた彼らは、夜ごと火を焚いて悪霊たちを近づけないようにしました。そこでは歌が詠まれ、雅楽などが奏でられる祭事がもようされていたのです。現在も政治のことを「政(まつりごと)」と呼ぶのはそのせいです。 
東海道四谷怪談 「神谷伊右エ門 於岩のばうこん」(歌川国芳)
この記事には、怨霊となった例をいくつかあげましたが、以下に崇徳上皇に関するものを引用します。
■日本一の大魔王崇徳上皇 
ところで「日本一の大魔王」になった怨霊もいます。それは「崇徳上皇」です。5歳の若さで天皇の位についた、崇徳天皇は、父鳥羽上皇から疎まれ、憎まれました。そうして、鳥羽上皇から22歳の若さで天皇の位を奪われた崇徳はクーデターを起こしました。これが「保元の乱」です。ところが、企ては失敗しました。その結果崇徳は四国讃岐に流罪となりました。

許しを乞うが願いは叶わず、しかも、自らの血染めでしたためた、写経を京都に「せめて自分の写経を京にかえしてくれ」との願いもむなしく、それをつき返され、願いもかなわず、激怒した崇徳は誓いを立てました。「日本国の大魔王となり、天皇家を没落させる。天皇家以外の者を王にする」と。そうして、その直後に憤死されたそうです。

恨みを抱いて死んだ者には、菅原道真や後醍醐天皇が思い浮かびます。しかし、正面切って天皇家を呪ったのは崇徳上皇だけです。果たしてその呪いは実現しました。崇徳の没後すぐに平家が政権を操るようになりました。そして次に本格的な武家政権、鎌倉幕府が成立しました。これ以降何かことが起こる度に、民衆には崇徳上皇の怨霊の仕業と広く信じられました。

日本の「明治維新」は、こうした崇徳の祟りを恐れ、崇徳を守り神にするという考えのもとで実行されたとう側面もあります。実は崇徳上皇の承認を得るという形式のもとに行われたのです。孝明天皇の崩御で、明治天皇が践祚したのは1867年1月。だが即位はしていませんでした。崇徳上皇の命日である同年8月26日、明治天皇は勅使を讃岐に派遣しました。勅使は上皇の「白峰御陵」の前で、次のような内容の宣命を読み上げています。「新しい宮を建立したので、長年の怨念を捨てて京にお帰りください」。明治天皇の即位の礼は、なんとその翌日8月27日に行われました。

そして9月6日崇徳上皇の霊は移され、700年ぶりに京へ帰って来ました。「明治」と改元されたのはその翌々日、1867年9月8日だったのです。今の世で怨霊を信じる信じないは勝手です。ただ、当時の人たちが信じたことだけは確かです。そうして、日本は「明治維新」という歴史上稀に見る、「明治維新」を大成功させ、その後の日本の発展は目覚しく大躍進しました。そうして、日清・日露の両戦役にも大勝利して、近代化の道を歩むことになったのです。
恨みを抱いて亡くなった崇徳上皇
さて、組織的にみると、今回の事件のようにかなり拗れてしまった場合は、何らかの方法で組織や組織内の有力者に恨みを持つものを組織内でしっかりと「鎮魂」をして、新しい権力に災いをなすような「怨霊」にしてしまわない措置が必要だということです。これは、かなり難しいことだと思います。だからこそ、今回のような事件が起こってしまったのでしょう。

昨年5月頃の富岡茂永氏 宮司だった頃の面影はない
しかし、普段から組織を健全に保つ方法はあるはずです。そうして、富岡八幡宮という神社もあれだけ大掛かりなものであれば、宮司だけではなく、組織で運営されているはずであり、その組織が普段から健全であれば、今回のような事件はなかったかもしれません。

今回の事件に関しては、マスコミはあいかわらず表面だけ説明しています。そのため、この事件の本質が多くの人々に理解し難いものになっています。多くの人々は、完全に頭のネジがぶっとんじゃた人の話ということで、あまり自分たちには関係のない話と思っていることでしょう。

しかし、ブログ冒頭の記事でも「組織」について述べているように、マネジメン的側面からみると様々なことが見えてきます。そうして、この事件を自ら属している組織とも付けて考えることができるかもしれません。

そもそも、組織の機能とは何なのでしょうか。それは、天才ではなく凡人に非凡な成果をあげさせることにあります。それは人の弱みを中和して、強みを最大限に発揮させることです。これが、組織の機能というものです。

つまり、組織の良否は成果中心の精神があるか否かによって決まります。神社の組織が、過去をただ継承するだけではなく、現代における神社のあり方を模索して地域社会に貢献することを成果であると考えていれば、組織を健全に保つことが可能だったかもしれません。

そして組織は以下の4点を満たさなければ健全な精神を持っているとは言えません。
①組織の焦点は成果に合わせなければならない 
②組織の焦点は機会に合わせなければならない
③人事に関わる意思決定は組織の信条と価値観に沿って行わなければならない 
④真摯さこそが唯一絶対の条件である
①組織の焦点は成果に合わせなければならない
成果とは長期的なものであり常にあがり続けるものではありません。野球で言えば打率のことです。バッターは十回中三回ヒットを打てば優秀だと評価されます。しかし七回は失敗しているのです。失敗だけはしない人を信用してはいけません。 
このような人はただ単に無難な仕事だけをこなしているだけであり、挑戦することから逃げているだけです。人は何かに挑戦していれば、必ず失敗するものです。
弱みのないことを評価してはならないのです。優れた人程多くの失敗を犯しますし、新しいことに挑戦をするものです。
この事件に関していえば、 富岡八幡宮においては成果を当然のこととして、ほとんど定義もされていなかったのではないでしょうか。 
②組織の焦点は機会に合わせなければならない
問題に焦点を合わせている組織は守りに入っていてそれ以上成長することができません。
成果は組織の中ではなく外の世界にしか存在しません。神社という組織も成果は神社の中ではなく外の世界に存在するのです。地域社会の人々を何らかの形で良い方向に変えることこそが成果なのです。神社の中に成果はありません。 
組織は機会に資源とエネルギーと時間を使うことによって成長していけるのです。
成果が定義されていない組織においては、何が機会かもわからなくなってしまいます。 
 ③人事に関わる意思決定は組織の信条と価値観に沿って行わなければならない
成果中心の精神を高く維持するには、配置、昇進、昇給、降格、解雇などの人事に関わる意思決定が管理手段として大きな役目を果たします。 
そして組織には固有の信条とや価値観があり、人事の意思決定はそれに対して矛盾したものとなってはなりません。
矛盾していれば働くものが勘違いをしますし、また信頼を失うことになります。茂永氏も勘違いをしていたのではないでしょうか。
④真摯さこそが唯一絶対の条件である
真摯さを絶対視することが健全な組織の条件です。人事に関する意思決定においては真摯さという基準は絶対無視してはなりません。
特に真摯さに欠ける者をマネージャー(神社では宮司やその他の神職、管理者など)にしては絶対にいけません。
真摯さの定義は難しいです。これについては、このブログで詳細に述べたことがあります。これについて、詳細を知りたい方は、その記事を参照して下さい。 
真摯さを定義するのは難しいですが、真摯さに欠ける人はどのような人なのかは、示すことができます。以下の5つに該当する者をマネージャーにしてはなりません。
第一に、強みよりも弱みに目を向ける者。 
これは組織の基本的機能であり使命にも反します。強みよりも弱みに目を向ける者をマネージャーにおけば組織は弱体化していきます。
第二に、何が正しいかよりも誰が正しいかに関心を持つ者。
マネージャーの仕事は何が正しいかを分析することでもあります。
人の意見に左右されて本当の正しさを見失うような、もしくは人によって態度を変えるような人間はマネージャーとして不適合です。
マネージャーは人よりも仕事を重視しなければなりません。
第三に、誠実さよりも賢さを重視する者。
そういう者は人として未熟で、その未熟さは後天的に改善されることは難しいです。また、こういった人間を変えることもとても困難なことです。
第四に、部下に脅威を感じる者。
マネージャーは部下の失敗の最終責任を負う覚悟があってはじめてマネージャーたりえるのです。これは逆に言うと部下の成功を自らの成功と捉えることができるということです。 
部下の成功に脅威を感じる者は責任を理解していませんし弱い人間です。
第五に、自らの仕事に高い基準を設定しない者。
優れたマネージャーというものは自らに一流の仕事を要求しますまた、自らの仕事に高い基準を設定できなければ、他の者にも優れた仕事を要求することはできません。 
そういった者にマネジメントされる人間は基準の低い狭い範囲の仕事をやらされることになります。
また他人に高い基準の仕事を要求しておいて自らは低い基準の仕事を行う者に信頼をよせる人間がいるでしょうか。自分に甘く他人に厳しいという人間に人はついてきません。
いかに豊富な知識があり、いかに効率よく仕事をこなす者であっても真摯さが欠けていればそこで働く人間を破壊します。そうして、組織の精神を損ない業績は低下するでしょう。
真摯さこそが唯一絶対の条件なのです。茂永氏は真摯な人だったのでしょうか。もしそうでなければ、そもそも宮司にしたこと自体が間違いです。
 組織の精神を健全に保つには以上の4項目を満たす必要があります。これら4項目をだいたい満たしているような組織は、間違っても「怨霊」を出すような組織にはならないでしょう。逆にこれをほとんど満たしていないような組織は「怨霊」輩出する組織になり伏魔殿のようになることでしょう。

私は、富岡八幡宮の組織を分析したり、宮司や元宮司の方と直接話しをしたことはありません。しかし、現代の「怨霊」を生み出してしまったこの組織には、まともな組織の精神が宿っていたとは思えません。最近では、企業組織もそうですが、日本相撲協会にも組織的に何か問題があるのではないかと思えるようなことが、起こっています。

組織の精神に注目すれば、組織の様々な問題がみえてくると思います。

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2017年4月17日月曜日

台湾・八田像損壊犯は元台北市議だった FBで公表し出頭―【私の論評】台湾が100%親日とは言えないことを示した残念な事件(゚д゚)!

台湾・八田像損壊犯は元台北市議だった FBで公表し出頭

頭部が切り取られた八田與一像
   台湾南部・台南市で日本統治時代の技師、八田與一像の頭部が切り取られた事件で、台湾と中国の統一を主張する元台北市議の男が17日、交流サイト上で犯行を自供、警察に出頭した。

男はフェイスブックで「自分がやった」と公表した上で、台北市内の警察署に出頭。当局は共犯とみられる女とともに身柄を台南に移して事情を聴いた。

男は1958年生まれで、現在は台湾の急進統一派の団体「中華統一促進党」に所属。94年に統一派の政党「新党」から台北市議に当選し、1期務めた。任期中、市幹部を殴り起訴された。また、2016年には急進的な台湾独立派の団体の敷地に放火し逮捕、起訴されている。

男は自身を日本統治時代の義賊になぞらえる発言も投稿。像の頭部を指すとみられる「八田さん」を、中華統一促進党の「党本部に届ける」などとする記載もあった。

頭部が切り取られる前の八田與一像

【私の論評】台湾が100%親日とは言えないことを示した残念な事件(゚д゚)!

八田與一氏
八田與一氏は台湾では有名ですが、日本ではなぜかあまり知られていないので、以下に八田氏について簡単に触れておきます。

八田與一氏は、昭和初期に活躍した当時の台湾総督府の水利土木技術者です。1910年、東京帝国大学工学部土木科を卒業後、台湾総督府の技手として赴任しました。台湾南部に位置する嘉南平野は、当時、広大な面積を有していたものの、灌漑設備が未整備であったことから、雨季の大雨により、この地域が水浸しになり作物が育たないという治水問題を抱えていました。

その問題解決のため、当時東アジア最大級のダム建設計画を立案し、現場指揮にあたったのが八田與一氏なのです。約10年の長い年月をかけ完成した烏山頭ダムにより、豪雨による水害のなくなった嘉南平野は台湾で一番の農作地帯へ変貌しました。

また、この烏山頭ダムは素晴らしい技術構想の元で建設されています。当時高価であったコンクリートをほとんど用いず、砂利と粘土を巧みに組み合わせた手法を用いることで、ダム内に土砂が溜まりにくい構造になっており、建設後80年を越えた現在でもその機能を十分に果たしています。

総工費は当時の日本円で5,400万円(現在の日本円で5兆円と推測)でた。1日1,000人を超える作業者が従事しました。いかに大規模な建設計画であったかが伺えます。


「台湾の人々に安全な生活と豊かな農地を提供したい。」という願望と、一大計画を完遂した本人の強い信念、卓越したリーダーシップ、魅力的な人柄は今も現地の人々のみならず台湾中の人々から敬われています。

東日本大震災の際、台湾から200億円余りの巨額の寄付金が寄せられました。実は、この理由は八田與一氏を始めとする多くの日本人が当時の台湾の発展に大きく寄与したことが関係しているようです。現地の人々から、「八田與一が成しえたことは、決してお金に変えられるものではないが、東日本大震災に際し少しでも貢献できれば」という声が多数あったことは事実です。

後日談ではあるが、八田與一氏の功績を称え作られた銅像は、戦時中には日本政府の金属の供出や、戦後大陸からきた国民党政府から像を守るため、住民により20年近く別の場所に保管され、1981年に住民によって銅像が戻されました。

八田與一氏がいかに台湾の人々にとって偉大な人物であったかが読み取れるエピソードです。銅像は現在もかつての工事現場を今も見守るような姿で烏山頭ダムを見下ろす丘の上にあります。八田與一氏の命日である5月8日には、昨年も住民のみならず台湾政府の要人を始め多くの人々が集い、八田與一氏の偉業を偲ぶ催しが営まれました。

さて、今回この八田與一氏の象の頭の部分が切り取られるというとんでもない事件が起こってしまったということです。しかも、その犯人が元台北市議だったということも、衝撃的でした。

多くの日本人は、テレビなどを通じて、台湾には新日的な人が多いというこを知っているようですが、単純にそうとばかりは言えないところもあります。八田與一象は、住民によって他の場所に移され、1981年になってから元の場所に戻されたということは、それを如実に物語っています。これれに関しては、このブログでも以前掲載したことがあります。その記事のリンクを以下に掲載します。
「尖閣は台湾のもの?」“二重国籍”蓮舫新代表が知っておくべき日本と台湾の対立点―【私の論評】南京・尖閣問題で台湾は決して親日ではない(゚д゚)!
民進党代表決定の名前を呼ばれる直前にハンカチで目頭を押さえる 蓮舫新代表=昨年9月15日
詳細は、この記事をご覧いただくものとして、台湾は日本にとっては外国です。外国と我が国とでは、当然のことながら、利益が相反することもあります。

台湾と日本の間で利益が大きく相反するものして、この記事では、 台湾が尖閣諸島を台湾領であるとしていることと、南京市民の日本軍による大量虐殺は事実であるとしていることを上げました。

尖閣諸島が台湾領であるという台湾の主張に関しては、詳細はこの記事をご覧いただくものとして、これはどの観点からみても、無理筋というものであり、尖閣諸島は日本の固有の領土です。

無論、これに関しては、馬英九前総統の国民党政権のときには、そのような主張を表だって、していましたが、蔡英文総統の民進党政権からは、日本との関係を考慮してか、これに関しては表立って主張するようなことはなくなりました。ただし、だからと言って、蔡英文政権が、尖閣諸島は日本固有の領土であると正式に認めてはいません。

南京虐殺問題に関しては、台湾は元々、大陸中国と同じように30万もの市民を日本軍が虐殺したと主張しています。

そもそも、南京での戦闘は、異常なものでした。なぜなら、国民党政府軍軍事委員長・蒋介石が戦いの途中で麾下の数万の兵士を置き去りにして高級将校とともに南京から逃げたからです。この時蒋は督戦隊を残して逃亡しています。

督戦隊とは、逃げる兵士を撃ち殺す部隊のことです。そのため、南京市内の国民党軍兵士は逃げるに逃げられなかったのです。よって、置き去りされた兵士らは、便衣兵(一般市民と同じ私服・民族服などを着用し民間人に偽装して、各種敵対行為をする軍人)となって難を逃れたとも言われています。

そのため、南京では一般の市民が日本軍により便衣兵と間違われ、戦闘で命を落としたり、あるいは戦闘の後で捕獲した便衣兵の中に一般市民がいた可能性も否定しきれない部分があり、確かに市民が犠牲になった可能性は否定しきれません。

しかし、だかといって、日本軍が南京市民を数十万を意図に虐殺したという事実はありません。それに、当時の南京攻略の成功責任者であった、松井石根大将は、この事件のため戦後に極東軍事裁判において死刑になっています。しかし、この事件の大元の責任者である、蒋介石と高級将校たちには、いっさい何の罪にも問われていません。

南京虐殺記念館に刻まれた虐殺された市民30万の虚構
そうして、蒋介石は後に台湾の総統となり、国民党政権を樹立しました。台湾でも戦後何度か政権交代があり、国民党以外の政党が政権を担ったこともありました。しかし、その時期にも尖閣諸島が台湾であるとか、南京で日本軍は数十万の市民を虐殺したという主張を変えたことはありません。

ブログ冒頭の記事のように、親日的な台湾人が多いことは事実です。しかし、そもそも台湾の建国は蒋介石率いる国民党によって行われたことや、大陸中国の息のかかったような人も多いことから、政界や財界などにもまだまだ、国民党に関係の深い人間が、隠然と勢力や権力を保持しているため、国民党による主張など簡単に取り消すことができないのです。

現在の台湾は蔡英文総統の民進党政権が率いていますから、台湾は独立国であり、大陸中国の一部ではないという考え方であり、どちらかというと日本との関係を強化させたいと考えています。

他方、国民党を支持する層も多いという現実もあります。そのような台湾の現実を示したのが、今回の八田像損壊だったのです。

私達日本人も、このような台湾の現実を知り、台湾がいつまでも親日的であるとは限らないかもしれないことについては、肝に銘じるべきです。

そうして、日本政府や民間も、台湾の親日的な人々の絆を深めていくべきものと思います。

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