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2017年1月4日水曜日

支那共産党の扇動が判明 邦人虐殺の惨劇…「通州事件」―【私の論評】通州事件を歴史の彼方に埋もれさせるな(゚д゚)!

支那共産党の扇動が判明 邦人虐殺の惨劇…「通州事件」

日支戦争(1937~45年)の開始直後、北京郊外で邦人多数が虐殺された37年7月の「通州事件」で、蜂起した親日地方政権の支那人部隊が、支那共産党の扇動工作を受けていたことが、支那での研究で明らかになった。日支戦争は今年で開始80年となるが、「抗日民族統一戦線」の結成を急ぐ当時の共産党が、敵対する親日政権の軍・警察組織に離反を働きかけたことで、惨劇につながる蜂起の素地が事前に形成されていたことが裏付けられた。(編集委員 山本秀也)

                   ◇

 通州事件を起こした「冀東(きとう)防共自治政府」(所在地・通州)の「保安隊」をめぐっては、国民党政権の軍・地方長官と保安隊幹部の通謀が判明する一方、共産党の関与に関しては、日本では可能性が指摘されながら実態が明示されていなかった。

 共産党の関与を示す研究は、党史や地方史に関する報告として、河北省唐山市の機構が運営する研究サイト「政協唐山文史網」や、歴史専門誌「国家人文歴史」などで、近年相次ぎ公表された。

劉少奇(右)、左は妻の王光美
 それによると、河北省周辺での地下活動を統括した共産党北方局(劉少奇書記)の下で、「黎巨峰(れい・きょほう)」「王自悟(おう・じご)」という工作員が、35年の冀東防共自治政府の成立直後から、保安隊の張慶余(ちょう・けいよ)・第1総隊長、張硯田(ちょう・けんでん)・第2総隊長と関係を構築した。

 この接触で、共産党は「抗日救国に一致団結する大義」を張らに植え込んだほか、保安隊内への浸透も進めた。

 さらに、盧溝橋事件に始まる日中戦争以前に華北一帯で頻発した抗日活動も、共産党の工作が奏功したものだと指摘。

 実例として、36年11月、河北省昌黎県を列車で移動中の山海関守備隊長、古田竜三少佐ら日本軍将校5人が、同じ保安隊の兵士に拉致された事件について、共産党に影響された張硯田の指示だったことを明らかにした。

 35~36年当時、毛沢東率いる共産党は、陝西省北部の根拠地で国民党軍の包囲を受けつつ、党勢の立て直しを模索。国民党や親日勢力を取り込む「抗日民族統一戦線」の構築を方針に掲げ、国民党などの支配地域で地下工作を進めていた。

 保安隊工作にあたった黎巨峰は、小学校の教員を務めた地下党員。「通州兵変(クーデター)の推進役」として評価される。事件後は河北省東部(冀東)地区で共産党武装組織の幹部となり、38年8月に同省楽亭県での暴動を組織した。

 張慶余らは、盧溝橋事件(37年7月7日)で日本軍と衝突する二十九軍の軍長などを務めた国民党の宋哲元らと事前に通じ、資金を供与されていたとされる。

 通州事件で、保安隊は7月28日の深夜から行動に移り、第1総隊が日本軍守備隊の攻撃、第2総隊が外部との連絡切断、教導総隊が駅の制圧と日本軍増援部隊の阻止を担当した。共産党が蜂起計画に直接関与したのか、あるいは一般居留民の被害まで想定していたのかはなお不明だ。

張慶余
 蜂起を指揮した張慶余らは通州事件の後、国民党軍の中将となり、戦後まで生存。支那では「抗日将領」として評価されている。

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【用語解説】通州事件

 日中戦争開始直後の1937年7月29日未明、北京の東にある通州(現・北京市通州区)で、親日地方政権「冀東防共自治政府」(殷汝耕=いんじょこう=政務長官)の保安隊が蜂起した事件。自治政府、日本軍の関係機関のほか、日本人居留民が襲撃され、朝鮮半島出身者を含む200人あまりが死亡した。多くの女性や子供が、きわめて残虐な方法で殺害されたことで、日本の国内世論を激高させた。

【ブログ管理人注】このブログで「中国」という表記はしません、すべて「支那」と表記しています。ブログ管理人が書いたもの以外の資料なども、すべて「支那」と表記しています。

【私の論評】通州事件を歴史の彼方に埋もれさせるな(゚д゚)!

通州事件に関しては、上の記事とも重なるところもありますが、以下に詳細を記載します。

戦後70年、支那は自らが犯した戦争犯罪をひた隠しにしてきました。その一つが、多数の在留邦人が虐殺された「通州事件」です。

犠牲者の虐殺体。被害者の氏名が判明しており、
プライバシー保護のために目にマスク処理をしている
その凄惨な事件は、日中が本格的な軍事衝突を始めた盧溝橋事件直後の1937年7月29日、北平(現在の北京)近郊の通州で発生しました。

当時、満州国と隣接する支那・河北省には、蒋介石の国民党政府から独立し日本人が実質統治していた「冀東(きとう)防共自治政府」が置かれていた。自治政府は九州と同程度の面積で、人口はおよそ700万人。「首都」である通州には400人近い日本人が暮らしていました。自治政府の首班は、日本への留学経験もあり、日本人の妻を持つ親日派の殷汝耕(いんじょこう)。通州には邦人保護を目的とする日本軍守備隊も駐留しており、比較的、治安は良好でした。

現在の北京市通州区。通州は北京市の東約12kmにあった。
ところが、突如として自治政府の支那人保安隊約3000名が武装蜂起し、首班の殷汝耕を拉致した上で日本軍守備隊と日本人居留民を奇襲したのです。事件当時、通州に滞在していた米国人ジャーナリスト、フレデリック.V.ウィリアムズ氏は、惨劇の様子を自著『Behind the news in China』(1938年)で克明に綴っている。

「それは一九三七年七月二十九日の明け方から始まった。そして一日中続いた。日本人の男、女、子供は野獣のような支那兵によって追いつめられていった。家から連れ出され、女子供はこの兵隊ギャングどもに襲い掛かられた。

 それから男たちと共にゆっくりと拷問にかけられた。ひどいことには手足を切断され、彼らの同国人が彼らを発見したときには、ほとんどの場合、男女の区別も付かなかった(中略)何時間も女子供の悲鳴が家々から聞こえた。支那兵が強姦し、拷問をかけていたのだ」(訳書『支那の戦争宣伝の内幕』芙蓉書房出版刊・田中秀雄訳)

日本人居留民の遺体
 事件の当日、日本軍守備隊の主力は南苑での作戦(日中戦争初期の戦闘「平津作戦」のひとつ)に投入されており、通州に残る守備隊はわずか100名に過ぎませんでした。守備隊は30名の兵を失いながらも必死の反撃を続けましたが、翌日、日本軍の応援部隊が現地入りするまでに、223名(防衛庁編纂『戦史叢書・支那事変陸軍作戦1』より。260名~300名とする説もある)の邦人が虐殺されました。

事件の首謀者は、自治政府保安隊幹部で反日派の張慶餘(ちょうけいよ)と張硯田(ちょうけんでん)だった。両者は直前に起きた「盧溝橋事件」で日本軍と武力衝突を起こした国民党軍第29軍と予てから密通し、武装蜂起の機会を窺っていました。背後で糸を引いていたのは支那共産党でした。

日本人居留民の遺体
当時、蒋介石率いる国民党は支那共産党との「抗日共闘路線」に舵を切っており、第29軍の主要ポストにも複数の共産党員が充てられていました。

日本と国民党政府の全面対決を画策する共産党は、冀東防共自治政府とその保安隊にも「抗日分子」を浸透させ、日本人襲撃計画を立てていました。ブログ冒頭の記事にもある通り、今回は通州の惨劇は、支那共産党の謀略による“計画的テロ”だったことがはっきりしたのです。

 当時の新聞各紙は「比類なき鬼畜行動」(1937年8月4日・東京日日新聞)、「鬼畜 暴虐の限り」(1937年8月4日・読売新聞)といった見出しで冀東保安隊による殺戮の一部始終を報じ、事件直後に現地入りした読売新聞社の松井特派員は、惨状をこう伝えていた。

「崩れおちた仁丹の広告塔の下に二、三歳の子供の右手が飴玉を握ったまま落ちている。ハッとして眼をそむければ、そこには母らしい婦人の全裸の惨殺死体が横たわっているではないか!(中略)池畔にあげられた死体のなかには鼻に針金を通されているものがある(中略)男の鼻には鈎の様に曲げられた十一番線の針金が通され無念の形相をして死んでいる(後略)」(1937年8月4日・読売新聞夕刊)

通州事件を伝える当時の読売新聞
事件後の現場には、青龍刀で身体を抉られた子供や、首に縄をつけて引き回された形跡のある男性の死体もあった。この事件後、日本国内の対中感情が急速に悪化し、日中戦争の泥沼に向かっていった。

本当に惨たらしい虐殺事件でした。猟奇的ともいえる、大虐殺です。このような事件、日本ではほとんど教えられることもありませんが、支那共産党が関与していたことが改めてはっきりした今日、学校などの教育機関でもこのような史実は教えるべきでしょう。

そうして、世界的にも周知させるべきでしょう。そうして、そのような動きも実際にあります。

以下に、産経ニュースの記事を掲載します。
「通州事件」「慰安婦の真実」を世界記憶遺産に 日米民間団体などが申請
昨年6月3日の記者会見
 日米の民間団体などが、正しい歴史を後世に残すために立ち上がった。支那で日本人多数が惨殺された「通州事件」の記録と、旧日本軍が慰安婦を適正に処遇していたことを示す資料を、来年の世界記憶遺産登録を目指して、ユネスコ(国連教育科学文化機関)に申請したのだ。 
 申請したのは、通州事件は「新しい歴史教科書をつくる会」など、慰安婦は「なでしこアクション」や米国の「日本再生研究会」などのメンバー。3日、文科省で記者会見して発表した。 
 通州事件は1937年7月、支那人部隊が、日本人居留民380人のうち、223人を殺した大量虐殺事件。当時の新聞は「無残 累々たる死屍(しし=死体)」「虐殺、掠奪(=略奪)、破壊、鬼畜の乱舞」などと悲惨さを伝えている。 
 今回申請された通州事件の記録は、新聞記事や関係者証言など18点で、つくる会の藤岡信勝副会長(拓殖大客員教授)は「人類が記憶すべき負の遺産だ」と語った。 
 慰安婦の申請資料は、米軍や日本の公文書など4点。慰安婦とは、戦時中は日本軍向けに、戦後は日本に駐留した連合軍向けに働いた女性たちで、民間業者が雇用し、法的に認められていた。自由はあり、報酬は高く、性奴隷ではない-などと指摘している。

 なでしこアクションの山本優美子代表は「国際社会では、慰安婦制度の誤解が蔓延(まんえん)している。この誤解を解き、過去と現在、未来の日本の名誉を回復したい。海外で暮らす日本の子供たちへの人権侵害を止めたい」と語った。
南京虐殺事件に関しては、事件があった当時の新聞なども存在しません。様々な資料があるにはあるのですが、良く調べてみると、すべてあやふやなものばかりです。しかし、通州事件に関しては、当時の日本の新聞はすべて、この事件を報道しています。

以下に、当時の「通州虐殺の惨状を語る 生き残り邦人現地座談会」が掲載された雑誌の目次を掲載します。


この雑誌は、『月刊「話」昭和12年10月号』です。内容については、ここでは掲載しませんが、詳細を知りたい方以下のリンクをご覧下さい。
http://redfox2667.blog111.fc2.com/blog-entry-191.html
この事件は、絶対に歴史の彼方に埋もれさせるべきではありません。学校などで教育しないというのなら、私たちが自主的に周りの人達に伝えていくべきです。そうでなければ、この事件で亡くなった人たちの御霊が浮かばれません。

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