まとめ
- 高市政権のAI戦略は、米中の巨大AIをまねる話ではない。日本の工場に眠る現場力を国力へ変える戦略である。
- 熟練工の勘、音や振動から異常を見抜く技、すり合わせとカイゼンは、AI時代にこそ世界へ売り出せる日本の資産になる。
- 常若とは、古い形を守ることではない。技と精神を次世代へ渡しながら新しくすることだ。AIは日本のものづくりを再び強くする相棒になる。
7月10日、政府は第5回人工知能戦略本部を開催した。AI競争は、対話型の汎用AIだけを比べる段階ではない。工場、病院、農地、社会インフラ、防災、防衛の現場にAIを実装し、現実の課題を解く能力が、経済力、技術力、安全保障を左右する時代に入った。
政府が6月に公表した人工知能基本計画の素案は、特定領域に深く入り込む「バーティカルAI」と、機械やロボットを動かす「フィジカルAI」を重点に掲げる。これは、米国や中国と巨大な汎用AIの規模だけを競う話ではない。我が国の製造業が長年培ってきた現場力を、AI時代の競争力へ変える構想である。
その根底には、守るべき本質を受け継ぐために、形や技術を絶えず更新する「常若(とこわか)」の精神がある。常若は、古いものを凍結保存することではない。伊勢神宮の式年遷宮が象徴するように、造り替えを通じて技と精神を次世代へ渡す営みである。バーティカルAIもまた、すり合わせ、現地現物、カイゼン、暗黙知、技能継承という我が国の強みを、AIという新しい器に移し、次代へつなぐ戦略と捉えるべきである。
1️⃣「縦に深掘りする」バーティカルAIとは何か
バーティカルは英語で「vertical」と書き、「垂直の」「縦方向の」を意味する。ITや産業の分野では、幅広い用途を横断的に扱う「horizontal=水平型」と対比して、特定の業界や専門領域を縦に深く掘り下げることを指す。
ChatGPTのような汎用AIは、文章、画像、音声、プログラムなどを幅広く扱える。しかし、個々の工場や病院に固有の事情を、初めから深く理解しているわけではない。
例えば、工場の特定ラインで不良品が増える原因を突き止めるには、設備の温度や振動、原材料のロット、工具の摩耗、工程の遅れなどを組み合わせて分析する必要がある。現場を縦に深く掘り下げてこそ、AIは一般論ではなく、実行可能な答えを出せる。
基本計画素案は、現場の経験や知識を集積するバーティカルAIと、ロボット、工作機械、無人機などを動かすフィジカルAIを重視する。前者が現場の「頭脳」となり、後者が「目」「耳」「手足」となる。
AIは、画面の中で文章を作るだけの道具ではない。計画、実行、検証、修正を繰り返す自律行動型AIへ進みつつある。その主戦場は、工場、病院、農地、災害現場、防衛の現場へ広がっていく。そして、現実世界で正確に動く機械をつくることは、我が国が長年得意としてきた分野である。
2️⃣日本の製造業は、もともとバーティカルだった
バーティカルという言葉は新しい。しかし、その発想は日本の製造業にとって新しいものではない。我が国のものづくりは、設計、材料、部品、生産技術、品質管理、保守を細かく調整する「すり合わせ型」を発展させてきた。
自動車なら、エンジン、車体、電子制御、タイヤなどを個別に最適化するだけでは、燃費、安全性、耐久性、乗り心地を高い水準で両立できない。部品、材料、工程を一体として調整する必要がある。
トヨタ生産方式の自働化とカイゼンも、この文脈で重要だ。異常を検知して設備や工程を止め、不良の流出を防ぎ、再発防止につなげる。人間の知恵と工夫で工程を改善し続ける。詳細はトヨタ生産方式の公式説明に示されている。
日本の製造現場には、言葉やマニュアルだけでは伝えきれない暗黙知がある。熟練技術者は、音、振動、色、温度、手応えの変化から、設備や製品の異常を察知する。これは神秘的な職人芸ではない。長年の経験を通じて蓄積された高度な判断である。
経済産業省も、デジタル時代の現場力として、現場データを資産化する力、職人技を体系化する力、暗黙知を形式知化する力を挙げている。詳しくは2018年版ものづくり白書の関連資料を参照されたい。
すでに実例もある。ファナックのFIELD system Basic Packageは、工作機械や産業ロボットのデータを可視化、分析し、異常予兆の検知や停止時間の削減を支援する。日立のLumadaの事例も、工場内の設備データと生産管理データを結び付け、生産業務の改善や最適化を支援している。
我が国の製造業は、現場固有の知識をAIで生かすバーティカルAIへの入口に、すでに立っている。米国が汎用AIの巨大な「横」を押さえているなら、日本は現場の「縦」を深く掘ればよい。汎用AIや基盤モデルも活用しつつ、日本固有の現場データと実装力を重ね、容易に模倣できない価値をつくるべきである。
3️⃣バーティカルAIは製造業における「現代の常若」である
バーティカルAIを、単なる生産性向上や省人化として捉えてはならない。熟練技術者をAIに置き換え、現場から退場させるための技術でもない。
経験、判断、失敗、勘所をデータとして残し、AIを通じて次の世代へ渡す。その知識を若い技術者が新しい設備、材料、市場に合わせて発展させる。これこそ製造業における常若である。
私は以前、「AIは仕事を奪うだけではない――日本の現場力を広げる『相棒』になる」で、AIは現場を知る人間にとって、代替者ではなく能力を広げる相棒になると論じた。
現場を知る技術者がAIを使えば、データ整理、故障原因の推定、作業計画の立案、設計案の比較を迅速に進められる。1人の熟練技術者が、より多くの設備、工程、若手技術者を支援できるようになる。人手不足が深刻な地方や中小企業にとって、これは単なる省人化ではない。個人の頭の中に閉じ込められていた知識を、組織の資産へ変える手段である。
ただし、AIが現場を自動的に理解するわけではない。設備の限界、人間の疲労、安全上の危険、地域の事情を無視すれば、もっともらしい机上の空論を高速で作るだけになる。何を守り、何を変えるのかを判断するのは人間である。
品質、安全、使用者への責任、現場への敬意を失い、効率と利益だけを追えば、それは常若ではない。単なる破壊である。保守とは、古い形を無条件に残すことではない。守るべきものを守るために必要な改革を行うことである。
現場データは、我が国の重要な知的資産でもある。基本計画素案は、特定の国や企業への過度な依存を避け、行政、防衛、重要インフラでは、計算資源、データ基盤、アプリケーションの自律性を強化する方向を示している。すべてを国産だけで閉じるのではなく、海外技術と同志国連携を活用しながら、必要な領域では主体的に選択し、運用できる能力を確保すべきである。
内閣府が整理した令和8年度のAI関連予算は5027億円で、令和7年度の1969億円から増えた。このうち「AI開発力の戦略的強化」に分類された施策は4559億円であり、AIロボット・フィジカルAIを見据えたマルチモーダル基盤モデルの開発には3873億円が計上されている。詳細は令和8年度AI関連予算資料にある。
方向性は正しい。しかし、予算を並べるだけでは足りない。現場データを安全に利用できる制度、安定電源、半導体、通信網、センサー、工作機械、そして現場へAIを実装できる人材が要る。
原発再稼働、次世代原子炉、送電網増強を含むエネルギー政策なしに、AI戦略は成立しない。AI、半導体、データセンター、電力網、人材育成には、国債発行を当然の前提として十分な投資を行うべきである。これは単なる政府経費ではない。将来の生産力、技術力、防衛力をつくる国家資産形成である。
結論 常若の国は、AIによって再び立ち上がる
日本の製造業は、もともとバーティカル的な強みを持っている。設計から製造、品質管理、保守までを深く結び付け、現場で現物を確認し、カイゼンを積み重ね、熟練者の経験を製品の品質へ変えてきた。
その根底にあるのは、守るべき本質を受け継ぐために、形を絶えず更新する常若の精神である。
バーティカルAIとフィジカルAIを結び付ければ、人手不足を補うだけでなく、日本の生産性を高め、新しい輸出産業を生み、防災力と防衛力を強化できる。AIは日本の製造現場を消すための技術ではない。熟練者の経験を受け継ぎ、若い世代の能力を広げ、ものづくりを新しい時代へつなぐ相棒である。
高市政権のAI戦略に求められるのは、日本に新しい強みを無理に植え付けることではない。我が国がすでに持つ、すり合わせ、現地現物、カイゼン、暗黙知、技能継承という力を、AI時代の国家資産へ変えることである。
建物を新しくしながら、技と精神を千年先へ伝える。それが常若である。AIという新しい器に現場の知恵を移し、次の世代がさらに磨き上げる。これこそ、日本が進むべきAI革命である。
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