足並みが、そろっていないが…
https://youtu.be/B4ENQJjA4aA |
まともな修正案もださずに
「働き方改革」における与野党合意が進められているが、肝心の野党間での認識にズレが生じているようだ。
5月21日、自民、公明両党と日本維新の会、希望の党はいわゆる「働き方改革関連法案」の修正について大筋で合意した。
与党は野党の一部の賛同を取りつけることで今国会中の法案成立を目指しているが、立憲民主党、国民民主党および共産党は「長時間労働を助長する」として批判を続けるなど、野党間の足並みはそろっていない。
このことは、仮にも労働者のためにあるはずの国民民主党や立憲民主党に、働き方改革をリードする政策能力がないことを裏付けてしまったともいえる。
どういうことか。当初、政府与党が目指した働き方改革は、(1)残業上限時間の設定、(2)高度プロフェッショナル制度(高プロ制度)の設置、(3)裁量労働制拡大の3本柱だった。
(1)は過労死対策なので、与野党ともに異論はなかった。問題は(2)と(3)で、(2)は一定の年収以上であれば残業時間の制限などがなくなるものだが、労働基準法の適用除外が拡大するとの懸念があり、(3)は残業代の頭打ちにつながるとして、野党はそれらの削除を要求していた。
また、(3)については、労働時間に関する調査データの不備が見つかり、政府与党は今年の3月に取り下げた。
残る争点は(2)の高プロ制度の設置である。
政府与党は、その対象者として、「年収1075万円以上」を打ち出した。だが、世論の過労死問題への関心の高まりを受け、野党はこの適用除外を「過労死法案」「残業代ゼロ」として批判。野党側からすれば、やがて「年収1075万円」という基準が引き下げられ、ほとんどの労働者に労働時間の適用除外が拡大するとの見立てがあったのだろう。
しかし、ここで流れを変えたのが、日本維新の会の修正案だ。もともと高プロ制度は労働者の同意を必要とするものであるが、適用後に本人が考えなおしたとき、適用を解除できるようにした。これは労働者に寄り添った修正案といえよう。
今年4月から5月にかけて、立憲民主党、国民民主党や共産党は、森友問題などを理由に国会を「18連休」した。その間、働き方改革についてまともな修正案を出すこともなかったために、国民には野党がただ国会をサボっているようにしかみえなかった。一方、審議拒否しなかった維新は、法案を研究してしっかりと審議の成果を示せたわけだ。
たしかに高プロ制度に労働者側の逃げ道がなければ、不当な処遇を受ける人も出てくるかもしれない。だがこの制度に「出入り自由な道」があればロジカル的にも破綻はなくなる。
そこで今回のような、与野党の弾力的な合意が生まれたのだ。このような急展開に際し、「18連休」を終えた立憲民主党、国民民主党や共産党は対応が間に合わず、蚊帳の外になってしまった。
欧米でも高プロ制度のような労働規制の適用除外がある。欧米における適用除外対象者の労働者に対する割合は、米国で2割、フランスで1割、ドイツで2%程度だ。日本で「年収1075万円」以上は4%程度というから、高プロ制度の導入は世界から見れば当たり前で、むしろ遅すぎたくらいだ。
『週刊現代』2018年6月9日号より
【私の論評】現代社会は数十年前と全く異なることを前提にしない守旧派は社会を破壊する(゚д゚)!
「働き方改革」はこれから重要になるテーマです。最近までの日本は、デフレで雇用状況も悪く、とにかく雇用が確保されていれば良いというような状況でしたが、皆さんもご存知のように、安倍政権の金融緩和政策によって、雇用情勢がかなり良くなったので、次の段階では「働き方改革」が重要になりつつあります。
現在「働き方改革」をしようという動きは、まさに時宜にかなっているといえます。雇用情勢が良くなっているということ自体が「働き方改革」をすすめるのに良い機会になっているともいえます。雇用情勢が悪いときには、「働き方改革」をすすめようにも、ななかなか進まないでしょう。
雇用情勢が良い状況なら、そもそも雇用環境が悪いブラック企業になど、そもそも新規で雇用される人がいなくなるし、そこで働いていた人も辞めて他の企業に移るようになり淘汰されるか、まとも企業に生まれ変わるしかありません。
さらに、まともな企業でも「働き方改革」を推進して働きやすい環境をつくっている企業と、そうではない企業にも差がつきます。当然のことながら、「働き方改革」を推進している企業のほうが、魅力があり、そのような企業のほうに多くの人が集まるようになります。
そのようなことを、野党は全く理解できないのでしょう。いわゆる野党6党は、前代未聞「18連休」もの職場放棄を続けたあげく、先月8日午後の衆院本会議から審議に復帰しました。
復帰条件としていた「麻生太郎副総理兼財務相の辞任」などは通らず、成果「ゼロ」の惨敗というほかないです。「審議拒否はズル休み」との世論の逆風に耐えかねて、最後は大島理森衆院議長に泣きついたかたちでした。野党に優しい朝日新聞をはじめ、メディアは一様に、戦略なき欠席戦術を厳しく批判しました。
国会議員の歳費、つまり給料は法律で決まっています。 その月額は129万4000円。 このほかにいわゆるボーナスである期末手当が約635万円支給されますので、年収ベースの総額は2200万円ほどとなります。 これが本来の国会議員の給料です。
さらに国から政党交付金として議員一人当たり年間約4000万円、立法事務費として月額65万円が会派に支払われます。報道をみるとここに誤解が多いのですが、このお金のほとんどは政党が使い、議員個人に支給されるわけではありません。しかし、政党によって異なりますが、政党交付金の一部、年間数百万円から1000万円程度は各議員に支給されています。
こうした経費を含めると、仮に政党交付金が年間1000万円だとして、年間4400万円ほどのお金が議員本人の口座や政党支部の口座に分けられて振り込まれます。
にもかかわらず、国会で審議拒否をする、すなわち一般の会社員ならば、会社を休むのと同じようなことをしても、歳費などか減額されることもありません。
このような野党の議員には、さらに理解不能なこともあります。それは現在は高度な知識社会になっているという認識です。知識社会とは、富の源泉が知識となった社会のことです。
一昔まえの富の源泉は「ヒト・モノ・カネ」といわれましたが、現在ではこれらがあっても高度な知識がないとか、新たな高度な知識をつくり出せないことには、富を生み出すことはできません。無論昔のタイプの産業も生き残ってはいますが、それが次世代を切り拓く産業になるかといえば、そんなことはありません。
現代の労働のほとんどには知識労働的な要素が含まれています。工場で働くにしても、様々な管理システムを効率的に管理するには様々な知識が必要です。工事現場で働くにしても、今や昔のようにスコップ一丁で、汗塗れになって土を掘り返すような労働ではありません。そのような仕事のほとんどは重機がこなします。現場では様々な新しい工法が実施されています。これらを実行するには様々な知識が必要とされます。
陸上自衛隊でも、スコップ一丁で塹壕を堀り、小銃を構えるなどという戦法など過去のものです。無論、そのよう場面が全くないということはないですが、それが主流ではありません。様々な情報を駆使して、最新鋭のミサイルを発射するなどの戦法がとられています。やはり、ここでも知識が重要なのです。
旧日本軍の塹壕戦 |
野党の面々は、このようなことを理解していないので、安全保障に関しても、時代遅れで頓珍漢な認識しかしておらず、数十年前から一歩も進んでいないようです。
現在では知識労働が全くない労働は存在しませんが、知識労働の比重が高い労働者から比較的低い労働者が存在します。その中でも、知識労働が労働のほとんど占める労働者を知識労働者と定義します。
野党の面々は、知識労働者の存在を無視しているため、彼らをどうやって動機づけるかについても全く無頓着です。
「知識労働者の動機づけに必要なものは成果である」(『断絶の時代』)
肉体労働については、よい仕事に対するよい賃金でよいです。知識労働については、すごい仕事に対するすごい報酬でなければならないです。知識労働者が求めるものは、肉体労働者よりもはるかに大きい。異質でさえあります。
知識労働者は生計の資だけの仕事では満足できないのです。彼らの意欲と自負は、知識人としての専門家のものです。
知識労働者は知識をもって何事かを成し遂げることを欲します。したがって、知識労働者には挑戦の機会を与えなければならないのです。知識労働者に成果を上げさせるべくマネジメントすることは、社会や経済にとってだけでなく、彼ら本人のために不可欠なのです。
知識労働者は、自らがなすべきことは上司ではなく知識によって、人によってではなく目的によって規定されることを要求します。
知識には上級も下級もありません。関係のある知識とない知識があるだけです。したがって知識労働はチームとして組織されます。仕事の論理が、仕事の中身、担当する者、期間を決めるのです。これは、知識労働者の本質的な仕事のほとんどがルーチンなものではなく、プロジェクトで実行されることをみても明らかです。
知識労働者は、自らがなすべきことは上司ではなく知識によって、人によってではなく目的によって規定されることを要求します。
知識には上級も下級もありません。関係のある知識とない知識があるだけです。したがって知識労働はチームとして組織されます。仕事の論理が、仕事の中身、担当する者、期間を決めるのです。これは、知識労働者の本質的な仕事のほとんどがルーチンなものではなく、プロジェクトで実行されることをみても明らかです。
有能なだけの仕事と卓越した仕事の差は大きい。そこには職人と親方の違い以上のものがある。知識労働ではこれが顕著に現われる。知識労働は一流を目指さなければならない。無難では役に立たない。このことがマネジメント上重大な意味をもつとともに、知識労働者自身にとっても重大な意味をもつ。(『断絶の時代』)これは、IT業界などみているとわかりやすいです。IT業界の人々は、他者よりも卓越した仕事をすることが求められています。そうして、卓越した仕事の実績が彼らにとって成果であり、動機づけなのです。
無論、給料も良くなければならないですが、しかし、それよりは、卓越した仕事ができるということ自体が彼らの動機づけになるのです。
このような仕事をしているとき、残業がどうのなどということはさほど大きな問題にはならないのです。そんなことよりも、短期間に時間に関係なく仕事ができ、ブロジェクトが終われば長期の休みがとれるというような環境が彼らにとっては一番馴染むのです。
通常のサラリーマンのように、朝9時〜夕方5時まで、毎日決まって働くという働きかたでは、そもそも知識労働者にはなじまないのです。そのような働き方は、知識労働の度合いの低い労働ではなんとかなりますが、知識労働者には向きません。
また、ドラッカー氏は知識労働者は全員エグゼクティブでなくてはならないとしています。
今日の組織では、自らの知識や地位のゆえに組織の活動と業績に実質的な貢献を果たす知識労働者は、すべてエグゼクティブである。(『経営者の条件』)組織の活動と業績とは、企業であれば優れた製品を出すことであり、病院であれば優れた医療を提供することです。
そのために知識労働者は意思決定をしなければならないです。自らの貢献について責任を負わなければならないのです。自らが責任を負うものについては、他の誰よりも適切に仕事をしなければならないです。
現代社会では、すべての者がエグゼクティブであるとドラッカーは言います。仕事の目標、基準、貢献は自らの手にあります。したがって、物事をなすべき者は皆、エグゼクティブなのです。
知識による権威は、地位による権威と同じように正当かつ必然のものです。彼らの決定は、本質的にトップの決定と変わらないのです。
研究者ならばプロジェクトを続行するか中止するかを決めることによって、販売部門の経営管理者ならば最高のセールスマンにどの地域を担当させるかを決めることによって、企業としての意思決定を行なっているのです。
もし企業が起業家活動の中心であるとするならば、そこに働く知識労働者はすべて起業家として行動しなければならない。知識が中心的な資源になっている今日においては、トップマネジメントだけで成功をもたらすことはできない。(『創造する経営者』)むろん、ここでドラッカー氏は知識労働者の働き方の理想を語っているわけですが、とはいいながら、現代ではますます知識労働者の割合が増えていきますし、過去には肉体労働とみなされていた労働の中にも知識労働の割合がますます増えていきます。
このようなことに対応していこうというのが我が国の「働き方改革」でもあります。そうして、その中でも、高度プロフェッショナル制度は象徴的です。まずは、実施してみてから暫時変更して、より良い制度にしていくべきです。野党のようにただ反対しているだけでは、何も進歩はありません。
そのような時代に、野党のように労働といえば、一昔まえの肉体労働のようにとらえ、残業がどうのこうのとばかり言って、新たな知識労働のトレンドに目を向けようとしないのであれば、これからの時代の働き方には対応できません。
過去の日本は、デフレ・スパイラルのどん底に沈んで、知識労働に対する対応が遅れてしまいました。しかし、現状ではもう日本を含めて、先進国のほとんどは知識社会に突入しました。
もう、すでに私達の社会は数十年前の社会と全く異なるのです。私達も、そのことを理解しなければ、変革を妨げ、数十年前の考えから一歩も出られない、野党の面々と同じく、守旧派の頑迷固陋な老人のような存在に成り果て、これからは社会を破壊することになります。