2012年2月2日木曜日

「タブレット電話」Galaxy Noteは成功するか−【私の論評】大きな電話、小さなタブレットは必要か?

「タブレット電話」Galaxy Noteは成功するか


韓国Samsung社から発売される『Galaxy Note』は、5.3インチのSuper AMOLEDディスプレーを搭載し、われわれがこれまで見てきたうちで最大の「スマートフォン」となる。成功するかどうかを分析。


【私の論評】大きな電話、小さなタブレットは必要か?



詳細は、上の記事を読んでいただくものとして、大きな電話、小さなタブレットタブレットともいえる、この『Galaxy Note』のようながジエットは売れるのかどうか私の思うところを下に掲載します。

まずは、売れる可能性としては、あり得るというのが、私の結論です。ただし、やはり、ニッチな商品になることは否めないと思います。なぜこのようなことをいうかといえば、実際にある風景をみたからです。それは、どのような風景かといえば、私の勤める会社である、ピザ・テンフォーのあるお店のアルバイトの学生が、iPadを電話としても用いているのを見たのです。電話として使う場合には、無論ヘッドフォンを使っていました。

Galaxy  Noteで電話する人

その方は、携帯電話は持っておらず、3G通信でiPadの通信を行っており、iPadを電話のかわりにも使っていました。iPadは、デイパックの中にいれて、いつでも持って歩いているそうです。自宅では、古いバソコンはあるものの、それはほとんど使わないそうです。はじめて見たときには、本当に驚いてしまいました。

確かに、学生などで、いつもテキストとなど持ち歩いている人とか、日々比較的大きめのバッグを持ち歩いている女性などには、普段持ち歩くバッグの中のものが一つ増えたという感じくらないなのかもしれません。ただし、書籍や、書類など日々たくさん鞄の中に持ち歩いている人にとっては、うまくすると、その書籍や、書類など電子化してガジエットに入れることによりかえって、軽くなったりかさばらなくてすむのかもしれません。


たまたま、自分の店でこんな風景を見てしまったからには、他にもこのようなことをしている人は大勢いるのかもしれません。考えてみれば、この学生アルバイトのようにすれば、いわゆる電話も、バソコンもいらず、iPad一つで間に合ってしまいます。これは、経済的です。こういう人たちにとっては、『Galaxy Note』は、選択肢の一つになり得ると思います。

それから、画像・動画については、もっぱらiPadで見るようになっています。さらに、最近では、AppleTVによって、大画面のTVで見ます。なぜなら、やはり、iPhoneの画面は小さいので、HDのものであっても、それがHDなのかどうかもよく分からないからです。これなど、iPadでみると、HDはHDとはっきりわかります。これは、iPhoneくらいの画面で見ていると、はっきり区別はつきません。iTunesで購入した、HDの映画など、iPhoneでみている限りHDかどうかは、わかりません。やはり、これが、5インチ台の大きさのディプレイになれば、ずいぶん違ってくるのだと思います。




私自身は、iPadとiPhoneを二つとも持っており、最近では、両方とも常時携行しています。ごく最近では、ワイヤレスキーポードも非常に軽いので一緒に持ち歩いています。そうして、最近は、iPhoneを使う頻度がかなり低くなっています。以前iPhoneしか持っていなかったときと比較すると、本当に半減以下という感じです。まずは、Kindleなどの電子書籍はほとんどiPadで読むようになりました。なぜかといえば、iPhoneは、字が小さくて、特に英語の文章を読むときなど、本文を読むなら良いですが、添付の辞書の文字はあまりにも小さくかなり読みにくいからです。Galaxy Noteくらいの画面があれば、これもiPhoneから比較すると、かなり読みやすくなると思います。



それから、英語学習アプリなど、ほとんどiPadで使うようになりました。これも、理由は、iPhoneでは、あまりに字が小さ過ぎて、読んで読めなくはないのですが、やはり、大きいので読んだほうが学習には適しているからです。これも、Galaxy Noteならかなり読みやすいことでしょう。
それに、大きい分存在感があって、置き忘れや、失くすようなこともなくなるような気がします。ということで、『Galaxy Note』には、有利な状況があると思います。


さて、次に小さなiPhoneと比較的大きなiPadの両方を持っていることの利点も掲載しておきます。まず、私自身の場合は、外出中は、iPhoneはいつも、シャツや背広のポケットにいれてあり、iPadは鞄の中です。電話は、むろんかかってきたら、すぐに取り出してiPhoneで応答します。メール、SNSなどについては、簡単にコメントするなら、iPhoneでします。長いものなら、どこか、場所を見つけて、iPadにワイヤレスキーボードを接続して、これで書きます。ブログなどもこれで書いてしまいます。これには、Bloggsyというアプリを使っています。ただし、これでは、ラベルがつけられないので、ラベルは、iPadのsafariで、bloggerのHTML形式の編集画面(safariだとこちらしか使えない)から入力しています。


それからiPadで英語のKindleの電子書籍など読んでいるときなど、Kindleに添付されている英英辞書を見るのですが、それ以外に英和の辞書を見たいときには、iPhoneのから辞書にアクセスしてみます。これは、何というか、パソコンでいえば、マルチウィンドウのような感じで使っています。iPadでは、マルチウィンドウができないので、これは、かなり重宝しています。ただし、こうした使いかたには、注意を要します。たとえば、iPadでGoogleの検索エンジンで検索しつつ、さらに、iPhoneなどで同じGoogleの検索エンジンを使おうとた場合など、要するに二つで同時にGoogleのアカウントを使用しようとした場合、警告が流れてきて、一時的に使用不要になる場合があります。


これは、Google側が、本人ではなく、他人がなりすましで、アカウント使おうとしていると判断するのだと思います。このような場合には、スマホのほうに電話がかかってきて、自動音声でコードを伝えてきます。そのコードをパソコンに入力すると、使えるようになります。私の場合、二度ほどこういうことがありました。その後は、そのようなことはありません。これは、Google側が、パソコンもiPhoneも私のものであるということを認識したということだと思います。



こんなことを考えてみると、『Galaxy Note』のような、大きな電話電話、小さなタブレットともいえるガジエットは、使う人とによって、使い勝手が良くなったり、悪くなったりするのだと思います。


どういう人が使うかといえば、やはりノマド系の人が最も使いますが、ノマド系の人の中でも、営業関係の人が最も重宝するのではないかと思います。こういう系の人たちは、あまりキーボードを打つなどのことは、必要ではなく、むしろ情報を得ることに重きを置いていると思います。であれば、iPadまでは、必要はないと思います。iPhoneなどでも十分だと思いますが、これだと画面が小さ過ぎなので、やはり画面は、大き目のほうが良いです。たとえば、仮想的に自社のバソコンをiPhoneなどの画面に写し、情報を得るなどの場合でも、やはり、画面は大きめのものがやりやすいです。さらに、お客様に資料や資料をみていただくときも、iPhoneだと小さ過ぎて訴求力は劣るかもしれません。そのようなことを考えると、こういう系の人達には、『Galaxy Note』は魅力的に見えるのではないかと思います。


ノマドで、IT系の人とか、その他クリエイティブ系の人で、かなりキーボードを打つとか、画像・動画を多用するというのなら、最低限、iPad+キーボードの組み合わせは必要だと思います。それどころか、高性能のモバイルパソコン以上のものが必要だと思います。こういう人達には、『Galaxy Note』は、あまり魅力的にはみえないことでしょう。


学生などの若い世代の中には、iPhoneがあれば、iPadなどいらないという主義の人もいますが、このような人たちにも、Galaxy Noteが支持される可能性もあると思います。確かに、Galaxy Noteがあれば、さらに、大きなタブレットなど必要ないかもしれません。






いずれにせよ、大きな電話、小さなタブレットは、ニッチな製品になるとは思いますが、ニッチな人々に絶大に支持される製品になる可能性が大だと思います。このニッチな人々がオピニオンリーダーとなり市場を広げていくことになるかもしれません。


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2012年2月1日水曜日

アマゾンが売上過去最高も純利益は大幅減−【私の論評】民間企業も国家も減益になっても、投資すべきときには投資せよ!!



米Eコマース大手アマゾンドットコムが1月31日発表した2011年第3四半期(10~12月)決算は、売上高こそ前年同期比35%増の174億3000万ドル(約1兆3280億円)となったものの、純利益は同58%減の1億7700万ドル(約135億円)と減益だった。

売上高は過去最高となったが、販売コストがかさんだために、純利益は大幅減益で事前の市場予想を大きく下回った。

タブレット端末のキンドル・ファイアは、累積販売台数は数百万台で、年末までに前年同期比2.8倍に増加したという。(上の写真は、AmazonのCEOのジョン・ベゾズ氏)

【私の論評】民間企業も国家も減益になっても、投資すべきときには投資せよ!!

Amazonが売上過去最高でも、純利益は大幅減ということだそうですが、これは、おうおうにしてあることです。売上があがっても利益がでないとはいっても、主に二つのケースがあります。まずは、古い商売ばかりやって、利益率が減ったために利益がでないというものです。もう一つは、次の時代に備えて、ヒト、モノ、情報などに投資をしていて、そのために利益があがらないというものです。

Amazonの場合は、もちろん後者であると思います。特に、キンドル・ファイアは、累計で数百万台も売れたそうですから、これは、以前のブログでも書いたようにほとんど採算割れに近い価格で販売していますから、減益するのは無理もないことだと思います。

企業はこのように、時には次のステップに進むために、身をかがめなければならないときがあります。人も、身をかがめなれば、大きな跳躍ができないのと同じことです。こんなことは、誰でも知っていることて、あまりにも当たり前だと思う人も多いことだとは思います。


しかし、現実はそうではありません。多くの人が、これに気づかずに、次の跳躍に備えて身をかがめようとはしませんでした。その、成れの果てが、今の日本です。


まずは、バブル直後の日本です。多くの企業が、不良債権処理に走り、ほとんどの企業が銀行からお金をかりることもなく、とにかく、投資は後回しということで、せっせと処理に走りました。多くの企業ががこのようなことに集中してしまったため、国全体でみれば、銀行からお金を借りて投資する企業がほとんどなくなってしまったので、市中には、お金が出回らなくなりました。


そのため、日本は不況に見舞われるようになりました。それまでの歴史にはなかったタイプの不況にです。このような構図を見破ったのが、あのリチャード・クー氏ですが、彼は、このタイプの不況に『バランスシート不況』と名付けました。これは、あまりに当たり前のことなのですが、その当時のあまりに多くの企業が次の時代に向かっての跳躍の準備をしなかったということで、それが、引き金となって不況が長い間続いてしまいました。


さて、このような不況が長引き、しまいには、デフレになりました。そうして、そのデフレが今に至るまで続いているのが現在の状況です。では、こうした最中にあって、企業は何をすべきかといえば、Amazonがやっているように、次のステップに向かって、身をかがめる行為です。たとえ、減益になっても、次の時代に向かっての投資のはずです。しかし、現在の日本企業は、全部とはいいませんか、ためこむばかりで、なかなか、次の時代に向けての投資をしようとしません。

しかし、これは、何も企業だけが悪いというわけではありません。デフレを放置している日本政府にも問題があります。これだけ、デフレであれば、物が売れず、企業のほうも投資を控えるのは当然のことです。過去本当に、日本政府は、投資をしてきませんでした。公共工事も、かなり減っています。バブル直前の頃比較すると、毎年半分という有様です。そのため、多くの地方で、あと数年で、道路や、橋や、トンネルなどが、耐用年数を過ぎて危険な状況です。これは、完全に公共工事をやらなさすぎの水準です。他の先進こくと比較しても、最低水準です。これでは、景気が悪くなるも当然といって良いくらいです。

これは、過去の自民党政権も、今の民主党政権も同じことです。次の時代に向けて、跳躍するにしても、まずは、このような、公共工事を実施しなければなりません。それらが、まともになっておらず、国土の安全や、効率性など確保されなければ、一体どうやって、跳躍するというのでしょうか?

それに、本年は、昨年の3.11の震災による復興を本格的に取り組むはずの年であったはずです。この震災による被害に関して、ただ元に戻すというだけではなく、全く新しい考えで、新たな地方都市を作り出すとか都市計画だけではなく、新たな産業構造を生み出すきっかけにするとかすれば、それこそ、次の跳躍のための良い準備となるはずなのに、今の政府はそうはしません。

こういう風にみていけば、今の企業や、政府や日本銀行は、ジェフ・ベゾズ氏とは正反対のことをしているわけです。とくに 、政府は、いまのこのデフレにタイミングて、増税しようとさえしています。日銀も、これだけ、震災の復興のため、円需要が増しているにもかかわらず、増刷拒否の姿勢を崩さず、大規模な金融緩和政策をするつもりはありません。これでは、どうしようもありませんね。

一体彼らは、何を考えているのでしょうか?過去の記事の歴史をみても、これは、理解できることです。高橋是清は、昭和恐慌のときデフレ対策として積極財政、金融緩和策をとり、日本の昭和危機を素早く切り抜けました。橋本龍太郎は、デフレにのときに、増税をして大失敗して、国民に詫び入れました。インフレのときに、増税、積極財政、金融引き締めをする。デフレのときには、減税をして、緊縮財政、金融緩和をするべきことは、高校の教科書にも掲載されているようなマクロ経済政策の基本中の基本です。何も難しいげんりでもなんでもありません。普通の大人が、普通に考えれば、理解できることです。

次の時代に向けて、跳躍するために、身をかがめ、企業なら、Amazonのように減益をしても、次の時代に備える、国なら、高橋是清のように、次の時代に備えるため、積極財政をして、金融緩和をするということが、最近の政治家や企業家は、理解できないようです。


企業家も、政治家も、Amazonのジョン・ベゾズ氏のように、減益でも投資すべきときに、投資しなければならないという基本中の基本中を学ぶべきです。日本では、多くの人が、国や企業のことを、定期的に跳躍の必要な存在とは認められないようです。ずっと跳躍しなければ、だんだん衰退していくばかりです。一体いつから日本は、こんなことになってしまったのでしょうか? 本当に困ったものです。


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2012年1月31日火曜日

なぜこんなことを? Googleはサイト閲覧履歴からあなたの年齢と性別を予想している−【私の論評】自分が世の中の中心からかけ離れていないかを見る尺度としても利用できるかも?




みなさんはご存知だっただろうか? 普段使っている検索エンジン「Google」が私たちのサイト閲覧履歴から、私たちの年齢と性別を予測していることを。

まずはこのページ(https://www.google.com/settings/ads/onweb/?hl=ja)へ飛び、Googleがあなたの年齢・性別をどう予想しているのかをご覧頂きたい。

いかがだろうか? そこにはあなたの興味・関心を表す「カテゴリ」、そしてGoogleが予想する年齢と性別を記した「ユーザー属性」というものが示されている。

ちなみに当編集部の男性5名・女性2名に、このページを見てもらったところ、「年齢」も「性別」も7人中5人が的中するという結果になった。

それでは一体、なぜGoogleはこういうことをしているのだろうか? その答えは、いたってシンプル。あなたの興味にあった広告を表示するためである。

例えばあなたがガーデニング関連のサイトを多く見ていたら、恐らくGoogleはガーデニング商品の広告を多く画面に表示させるだろう。(ポルノサイトなどの物議をかもす履歴情報は集めていないらしい)

また、女性のユーザーが多く訪れるサイトにアクセスしていたら、Googleはあなたを女性と予想し、女性向けの広告を出してくるだろう。

しかしこういった形で、個人情報が使われることを嫌うユーザーがいるのもまた事実。そういう方は、画面左上にある「オプトアウト」をクリックして設定を行えば、あなたの興味・ユーザー属性に応じた広告は表示されないようになる。

ただしGoogleが、ブラウザ上で広告を出すこと自体はやめさせられないので、そこはあしからず。

(文=田代大一朗

参照元:Daily Mail(英文)

【私の論評】自分が世の中の中心からかけ離れていないかを見る尺度としても利用できるかも?

本日は、Googleの広告は、自分のどのようなイメージに基づいて出されているのかを、Googleの変わったLOGOの写真(笑)とともに掲載させていただきます!!



私もこのサイトで、自分のものを見てみました。その結果が以下です。

カテゴリ
Google が Cookie に関連付けた興味/関心と推定のユーザー属性を下で確認できます。これらはいつでも削除または編集できます。
コンピュータ、電化製品
ショッピング
ニュース - ビジネス ニュース

ユーザー属性
Google では閲覧したウェブサイトに基づいてユーザーの年齢と性別を推定します。これらはいつでも削除または編集できます。
年齢: 25~34 歳
性別: 男性

ユーザー属性の年齢は、実年齢よりも若くなっていたので、これは喜んでいいのかどうなのか、解釈に苦しむところです。性別は、男性とでていました。これは、男性でありながら、女性と表記される人もいるのでしょうか? とすると、その人は、消費パターンとしては、男性でありながら、女性とみなしても良い消費をしているということでしょうか?他の人の結果も知りたいところです。


それから、ユーザー属性の中には、血液型の予測は入っていません。それは、当たり前のことです。血液型で分類行動などできないからです。日本では、一部の血液型性格診断をお金になるということで、あたかも、それが科学的手法であるかのようにして言う人間もいますが、血液型と性格とは全く関係ありません。無論購買パターンとも全く関係ないので、Googleもこのようなことを実施していません。血液型性格診断は、すでに前世紀に様々な実験や統計から、全く虚偽であることが解明されています。さらに、血液型性格診断を口にするのは、世界では、日本と韓国くらいなものです。海外に行って、これは口にしないほうが良いでしょう。すれば、変人扱いされるだけです。


いずれにせよ、これは、広告をする上での消費パターンの分類ということであり、実年齢とか、当該人物の属性、能力などをはかるものではないと思います。

カテゴリでは、コンビュータ、電化製品がトップになるのは、わかるのですが、ショッピングが2位になっているのは、自分でも驚きでした。とはいえ、結構amazonで買い物をしているのも事実なので、ある意味納得です。


Googleとしては、ユーザー属性に関してこのような予測をたてて、それに基づいて広告を掲載するというのも当然のことと思います。Googleだって、営利企業ですから、ユーザーに様々な便益を提供しつつも、どこかで収益をあげなければならないわけです。Googleの収益の9割以上は、未だに広告によるものであることを忘れてはいけないと思います。

このサイト、他にも利用できそうです。自分の考えが、世の中の中心と考える人も多いようですが、それは、自分ではわからないものです。自分の興味/関心に関してどのような偏りがあるのか、あるいは、実年齢は別にして、推定年齢が、50歳以上であるとか、逆に10代以下であれば、どこかずれているのかもしれないとか。そうした、見方もできるのではないかと思います。


無論この結果がどうでたからといって、気にする必要はないとは思いますがも、とはいいながら、もし、女性なのに男性という結果がでたり、年齢が70歳以上などとでた場合には、やはり、自分の感覚は普通とは、かけ離れているかもしれないと考えたほうが良いかもしれません。無論、だからといって、購買行動を変えるなどのことはする必要は全くないですが、たとえば、マーケティングをしていて、ターゲットを絞っているときなど、自分の感覚が他の人とかけ離れていることを意識しなければならないと思います。


でも、これって、プロのマーケッターには、常識だとは思います。自分が好きだからといって、単純に売れると考える人はプロではないですね。自分が好きであることと、当該製品などを市場に出して売れる売れないは別次元の問題ですから。

皆さんも、ぜひご覧になってください。



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ドコモ、宅配野菜のらでぃっしゅぼーやを買収へ−【私の論評】ドコモが狙うのは何か?

 ドコモ、宅配野菜のらでぃっしゅぼーやを買収へ



NTTドコモが宅配野菜でおなじみ「らでぃっしゅぼーや株式会社」の株式公開買い付けを行います。3月12日まで株式の買い付けを行い、発行株の51%以上を取得することで子会社化を目指す方針。すでにらでぃっしゅぼーや自身や、大株主のジャフコ(系の投資事業有限責任組合)らとの合意を済ませており、近いうちに国内最大の通信キャリアと、国内最大手の宅配野菜サービスによるコラボレーションが実現する見通しです。日経によれば、全株式を取得した場合の買収額は69億円。

また、らでぃっしゅぼーやの子会社化が完了したあと、ドコモは一部株式をローソンへ譲渡する予定。通信キャリア、コンビニ、宅配ビジネスと、面白そうな三角形の業務提携が描かれることになります。産地直送系からネットスーパーまで、宅配サービスが注目を集める今日このごろ。スマートフォンからの野菜注文や、野菜のコンビニ受け取り & 決済はもちろん、農園ゲームでほっこりしながらリアル野菜ゲット、あるいは有機野菜定額プラン、野菜2.0による反撃を楽しみにしたいものです。

【私の論評】ドコモが狙うのは何か?

一連の通信障害を謝罪するドコモ

最近ドコモといえば、例の通信障害が大きな話題となっていましたが、こんなこともやっていたのですね。無論株式の公開買い付けによる、買収ですから、直接ドコモが「らでぃしゅぼーや」を運営するわけではないのでしょうが、それにしても気になる動きです。さらに、一部株式をローソンンに譲渡というのも気になる話です。(下は、ドコモのスマートフォン)
ドコモのスマートフォン

将来的には、これらが共同して、野菜を宅配するのは、もとよりコンビニでも販売するということでしょうか? 「らでぃっしゅぼーや」自体は、宅配ですから、営業店舗そのものは、持っていませんが、全国各地の野菜農家と提携すると共に、全国各地に配送センターを自前でもっています。これを、ドコモは、どうしようというのでしょうか?

ドコモといえば、携帯電話、最近では、スマートフォンの会社です。これからは、ほとんどがスマートフォンになることでしょうが、こうした会社がなぜ、このようなことをするのか探ってみます。




気になったので、調べてみたところ、すでにローソンでは、 "Radish Lawson  SUPERMARKET"(らでぃっしゅ ローソン)という名称で、サイト(写真上)で野菜などの販売をしていました。

ドコモは従来は携帯電話のキャリヤーであるとともに、ガラケーを販売していましたが、現在スマートフォンを販売しています。しかし、これだけでは、立ち行かなくなるという危機感を抱いているのだと思います。何しろ、ドコモの販売しているスマートフォンは、Androidであり、これは、Googleが規格を定めているものであり、この規格で販売している限り、いくらスマートフォンが売れたにしても、それだけでは、利益幅の少ない素材型産業のようになってしまうことは火を見るより明らかです。キャリアーとしての事業も従来のように旨みはなくなってきました。



これに対して、Googleは、自らもスマートフォンを開発していますが、それも、自ら作成しているわけではありません。他社にアウトソーシングしています。いずれにせよ、Googleにとっては、自社開発の電話や、他社が開発するスマートフォンが売れれば、それをユーザーが使用し、Googleの検索エンジンなどのサービスを利用してGoogle関連のサイトのトラフィックが増すことになり、そこに広告を掲載しておけば、それが、収益になるわけです。トラフイックが増えれば、増えるほど、収益は増えます。Googleは、いろいろなことを手がけていますが、いまだに収益の9割以上は広告収入によるものです。

アッブルも単に、iPhoneを販売しているだけではなく、それを窓口として、iTunesにより、電子書籍、アプリ、音楽など配信していて、それが利益うみだすわけです。

しかし、ドコモが電話を販売してキャリアとして事業をしていても、いまのところアップルや、Googleのようなビジネスモデルはないため、スマートフォンを販売するだけでは、非常に利益率の低い事業になってしまうわけです。だから、今回このようなことを手がけ、他のビジネスモデルを模索しているのだと思います。

最近はeコマースを他のものと差別化することは困難になっています。eコマースは、通常ユーザーが自宅のパソコンから、他社製のブラウザを用いて実施するものです。だらか、ユーザーにとっては、eコマースは、自宅のパソコンから垣間見るいくつもあるサービスのうちの一つという位置づけになります。最初は、eコマースそのものが、物珍しかったのですが、今は当たり前になり、他社との差別化は困難を極めています。だからこそ、Appleや、Amazonは、独自のタブレット端末を導入して、他社との差別化をはかったのです。

最近では、特にスマートフォンを活用したO2O(オンライン・ツー・オフライン)というビジネスが注目されています。このO2Oに関しては、以前にもこのブログに掲載したので、詳細はそちらをご覧いただくものとして、私は、将来、物理的な店舗を多数持つチェーンが、eコマースを行い、さらに、O2Oも実施し、しかも、これらをバラバラに運用するのではなく、統合して運用するようになれば、既存の eコマースにとって、かなりの脅威となることを述べました。そうして、そのようなところで、統合をうまくしたところが、頭角をあらわしていくことになることも掲載しました。


私は、ドコモはスマートフォンを活用したO2Oを模索して、新たなeコマースを開発し、それ自体をビジネス・ソリューションとして製品化するとするとともに、自らもeコマース自体にも進出しようとして模索しているのだと思います。さて、今後この三者の提携どのように発展していくのか、何か新しい動きがあれば、また、掲載させていただきます。


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2012年1月29日日曜日

愚民思想が根強い人気を持つ理由―【私の論評】関西風のほうが、おもろいかも?


愚民思想が根強い人気を持つ理由

今回は宮島理さんのブログ『フリーライター宮島理のプチ論壇』からご寄稿いただきました。

■愚民思想が根強い人気を持つ理由
野田政権の支持率がわずか4カ月で半減した。わずか4カ月で支持から不支持に回った人々は“愚民”なのだろうか。世論調査によれば、野田政権の支持率が急落している。読売新聞社*1の調査では、就任時に65%もあった支持率が、今では37%にまで下落している。続きを読む


【私の論評】関西風のほうが、おもろいかも? 


さて、分析するため、上の記事の核心部分をしたにコピペしておきます。
番組スタッフが綾小路きみまろの毒舌ネタを見せた後に感想を聞くと、多くのファンが「いるよね、こういう人(笑)」という反応を見せていた。ファンにとって、毒舌は自分自身に向けられたものではなく、あくまでも“自分以外のかわいそうな中高年”を綾小路きみまろと一緒になってイジッている感覚だったのだ。
このような鈍感力は、ベストセラーになった『バカの壁』にも通じる。私はこの本を読んだとき、「はいはい、どうせバカで話が通じなくてすみませんね」と、養老センセイに腹を立てたものだったが(笑)、どうも世間の反応は違ったらしい。
 この本を読んだ人の多くは、「いるよね、こういう話の通じないバカ」と、溜飲(りゅういん)を下げていたというのを知って、私は軽くショックを受けた。「みんな、よほど自分に自信があるんだな」と半ばうらやましくなったと同時に、「こういう鈍感力を発揮することで、世の中は丸く収まっているんだな」と、アホみたいな当然の事実に気づかされたのだった。

 世の中には、このような反応を示す人と、上の寄稿の著者のように感じる人と二通りがあるようですね。無論どちらが、正しくて、どちらが間違いということはないと思いますが、私は、どちらかといえば、この寄稿の著者とは反対のタイプのほうです。綾小路のほうは、まだ対象の年齢まではいっていないせいでしょうか、“自分以外のかわいそうな中高年”を綾小路きみまろと一緒になってイジッている感覚です。 とはいっても、限度はわきまえていて、いつも、上限すれすれまではいきますが、それを超えることはありません。さすが、熟達した芸人だと思います。この人なかなか若いときには売れずに、売れ出したのは、齢50くらいのときからというのですからただものではないと思います。


養老センセイの書籍を読むときは、 「いるよね、こういう話の通じないバカ」と、溜飲(りゅういん)を下げているときと、自分のことに当てはめるのと、両方あります。でも、どちらかといえば、溜飲を下げていることのほうが多いです。 

それから、これに関する受け取り方は、関東と関西でも随分違うのではないかと思います。以前テレビで見ていたら、関西人は個人プライベートにも結構入っていく傾向がありますが、関東人にはそのような傾向はなく、そこで関西人と関東人の行き違いが生じることがあるようです。

日常会話で、関西人が、話し相手のボケにどんどん突っ込みを入れていく感覚というのは、関東人にはなかなか理解できないところがあると思います。 先の綾小路さんの例は、関西人からしてみると、やはり、自分のボケに突っ込みを入れられているという感覚に近いのではないかと思います。 もしかすると、養老センセイの著書も関西人には、自分のボケに突っ込まれているという感覚もあるのではないかと思います。それに、「愚民」とはっきり言ってしまうと、救いようがありませんが、「ボケ」なら、救いようがあるような気がします。


ボケにもいろいろなレベルがあります。オオボケから、コボケまで・・・・・。でも、愚民だと、文字通り愚かな民ということで、救いようがないばかりか、こういう言い方は、上から目線に聴こえてしまいます。ボケであれば、あくまでボケであり、オオボケは困りますが、普通のボケならなんとかなるレベルということで、救いようがあります。皆さんは、いかがですか?

さて、以下に関西と、関東の芸人の芸風について掲載しておきます。


関西芸人
やすしきよし…目のデカさやギャンブル好きを暴露して笑い 
ナイナイ…チビやサル顔や動きで笑い
FUJIWARA…顔のデカさやアホな芸で笑い
ケンコバ…自分の変態ぶりで笑い



 関東芸人
ヨネスケ…素人いじって笑い
とんねるず…他の芸人やスタッフを叩いて笑い
はんにゃ…偉そうな態度をとって笑い
オードリー…偉そうな態度をとって笑い
芸人の自虐ネタが受けて、相手のプラベートにもどんどん突っ込みを入れる関西人のコミュニケーション、関東の若い方には、最初は抵抗があるかもしれませんが、関西弁を使わなくても、こういうことを若いときからやっているのと、やっていないのとでは、後から随分開きがでてくるような気がします。

私は、どんどん相手のボケに突っ込みを入れていく関西風のほうが、コミュニケーション能力も熟達していくと思うのですが、皆さんは、どう思われますか?


 それから、上の著者の方の、「みんな、よほど自分に自信があるんだな」という受け取り方ですが、これは、個人主義と集団主義の違いでもあると思います。完璧に個人主義であれぱ、綾小路さんのギャグや、 養老センセイの書籍など読むと、個人に向けられたものと受け取り、めげてしまうことも多いのでしょうが、集団主義に立脚すれば、「自分もボケている部分もあるが、ボケていない部分もある。他人もボケている部分もあれば、ボケていない部分もある」という考え方になり、多くの人が総体的にボケていなければ、自分がある部分ボケていていも、それは何とかなるという安心感、自信につながります。 


これは、どちらが良くて、どちらが悪いということにはならないと思います。場合によって、つかいわけることが重要だと思います。ある場合は、個人主義的な立場で受け止め、悪いところは素直に反省する。また、ある場合には、集団主義的となり、安心、自信を持つというような、柔軟な姿勢が良いと思います。皆さんは、どうお感じになりますか?

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2012年1月28日土曜日

【朝まで生テレビ】反橋下派に批判殺到「ゴールドマンサックスで働いたら3日でクビ」「薬師院が酷すぎ」−【私の論評】反対派はドラッカーが言うところの"真摯さ"に欠ける!?

【朝まで生テレビ】反橋下派に批判殺到「ゴールドマンサックスで働いたら3日でクビ」「薬師院が酷すぎ」:



本日深夜25 :25から放送されているテレビ朝日の「朝まで生テレビ!」に、国民の注目が集まっている。

今回は橋下徹大阪市長と、彼の政治姿勢に反対する論客たちの議論が放映されているのだが、午前2時半現在のところTwitterやインターネット掲示板でも、ほとんどの人たちが「橋下市長はまっとうなことしか言っていない」や「論客が揚げ足取りばかり」と反橋下派に怒りの声があがっていた。

そのなかでも特に批判を浴びているのが、帝塚山学院大学の薬師院教授だ。彼は執拗に橋下市長に「大阪市を解体するなんて聞いていない!」と文句を言っているにも関わらず、田原総一朗氏に「じゃあ解体されたらどう困るの?」と聞かれても「わからない!」と答えるばかりで、ほとんど揚げ足取りばかりだとインターネット上でも彼の姿勢に疑問を感じている人たちが多いようす。

また、彼のWikipediaも「2012年 朝生でフルボッコを喰らう。」や「2012年 朝まで生テレビでチラシ係」など様々な改変をされ、ヒドいことになっている状態である。知識人もこの番組についてコメントを残しており、ニューヨーク州立大学のビジネススクールで助教授をされている入山章栄さんは「今日の朝生の対橋下論客、ゴールドマンサックスで働かせたら、全員三日もたずにクビになる気がする。」と苦言を呈しており、議論のあまりのレベルの低さに呆れ返っておられるようだ。

更にヒドいことに現在Twitterのトレンドにも「薬師院」や「揚げ足取り」、「言葉尻」などのフレーズが上がっていて、薬師院氏をはじめとした反橋下派に対する炎上はまだまだ続きそうである。(下は、朝まで生テレビのサイトでの告知)




【私の論評】反対派は、ドラッカーいうところの"真摯"さに欠ける!?



私自身は、橋下さんのやっていることは、最終的には歴史が判断するものではあるものの、とにかく何かを変えようとして努力していることは理解でき、共感を覚えています。

今まで、多くの政治家は、まるで評論家のようであり、しかも、間違っているか、あやふやな論拠によって、コメントを行い、結局何もできないでいるというように見えます。しかし、橋下さんの場合は、ともかく変えようとして、日々努力している姿が見えます。これは、言ってしまえば、評論家と実務家の違いのように見えます。実際、橋下さんは、たかじんの"No money"という番組で、「本当に変えるのは、大変ですから。言っているだけと、本当にに変えるということは、全く違いますから。ここにおられるかたも、言っているだけではなく、立候補して、実際に変えて下さい」と語っていました。

上のツイートの"ゴールドマンサックスで働かせたら、全員三日もたずにクビ"とは、こうした評論家と実務家の違いを語っているのだと思います。評論ばかりしていても、金にはなりません。実効性のある実行動をして、はじめて実務が達成できます。

橋下さんに反対する人たちの論拠は、いろいろ語っているものの、橋下市長のキャラクターや振る舞いへの感情的反発、教育を聖域とし政治が介入してくることへの警戒感、とくに教育に競争を持ち込むことへの反発、組合へのシンパシー、体制や仕組みの構造的な変革に対する不安、またそれによって既得権益を失うリスクへの恐れということであり、本当に低レベルなものばかりです。

それに、選挙のさなかに「ファシズム」を意図的に連想させる「ハシズム」キャンペーンなどという愚かなことをやってしまいました。選挙という民主的手段のみで、合法的にやったものが、どこがファシズムなのか全く理解できません。ナチスなら、選挙だけでなく、SAなどがでてきて、実際に暴力をふるっていたのは、歴史的事実です。反対派はこんなことも知らないのでしょうか?(下は、SAのポスター)


それに、彼らは、府民や市民を信頼していません。教育者のほうが正しく、それに府民や市民がかかわることは間違いだとするエリート主義的であり、完璧に上から目線での物言いです。


そうして、このような彼らの物言いを聴いていると、何か思い出されることがあります。それは、ドラッカーの書籍にしばしば出てくる「真摯さ」という言葉です。まさに、彼らには、ドラッカーのいうところの、「真摯さ」に欠けています。これについては、以前にもこのブログに掲載したことがあります。その中の「真摯さ」の意味の部分を以下に掲載します。(上の画像は、映画版「もしドラ」で、南役をした、前田敦子)

うまくいっている組織には、必ず一人は、直接手をとって助けもせず、一見人付き合いも悪いようにみえるボスがいる。この種のボスは、とっつきにくく気難しく、一見わがままなように見えるにもかかわらず、しばしば誰よりも多くの人を育てる。好かれている者よりもはるかに、尊敬を集める。一流の仕事を要求し、自らにも要求する。基準を高く定め、それを守ることを期待する。何が正しいかだけを考え、誰が正しいかを考えない。真摯さよりも知的な能力を評価したりはしない。このような素質を欠く者は、いかに愛想がよく、助けになり、人づきがいがよかろうと、またいかに有能であって聡明であろうと危険である。そのような者は、職業人としても、社会人としても失格である。 

真摯さを絶対視して、初めてまともな組織といえる。それはまず、人事に関する決定において象徴的に表れる。真摯さは、とってつけるわけにはいかない。すでに身につけていなければならない。ごまかしがきかない。ともに働く者、特に部下に対しては、真摯であるかどうかは二、三週間でわかる。無知や無能、態度の悪さや頼りなさには、寛大たりうる。だが、真摯さの欠如は許されない。

マネジメントにできなけばならないことは、学ぶことができる。しかし、学ぶことのできない資質、後天的に獲得できない資質、初めから身につけていなければならない資質がある。才能ではない、真摯さである。 

まともな、職業人は、何が正しいかだけを考え、誰が正しいかを考えないのです。誰が、正しいか、間違いかを考え出せば、本質を見失います。人は、おうおうにして間違いをおかします。特定の個人が、いつも、正しいとか、いつも間違いということはあり得ません。反橋下派は、まさに、自分たちが正しく、橋下さんが、間違いであることばかりを主張しています。本来であれば、橋下さんの出す政策なり、ビジョンが正しいか間違いかだけを論じれば良いものを、そうではないのです。だからこそ、説得力に欠けるのです。

帝塚山学院大学の薬師院教授に関しては、地球温暖化CO2説ならびに、災厄説に関しては、まともな論議をしており、このときには、誰が正しい、誰が間違いというような論点はなく、あくまでも、"地球温暖化CO2説"に関して、正しいのか、正しくないのかという論議をしており、私自身も評価をしていたのですが、こと、橋下さんに関して、橋下さんの間違いばかりに集中していて、本当に残念に思っています。このようなある程度年齢もいっており、良識もあるという方が、こういうことをするわけですから、これは、 薬師院氏に限らず、多くの人々が陥りがちな陥穽なのだと思います。

私は、反橋下派への攻撃も、こうした陥穽に落ち込んでいるものもあると思います。反橋下派に対する攻撃も、誰が悪いという論調でやってしまえば、反橋下派と同じことになってしまいます。やはり、反橋下派の論じていることの中の何が間違いであるという論点で、攻撃すべきものと思います。

なお、「真摯さ」については、定義が曖昧ですが、これについては、本日は本題ではないので、ここでは詳細は掲載しません。以下の関連記事のところに、それに関連する記事もコピペしておきますので、それを御覧になってください。

私は日頃、誰が正しいとか、間違いであるなどということばかりを語る者のいう事は信用しません。何が正しくて、何が間違いであるかを論じる人を信用するようにしています。皆さんは、いかがですか?

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2012年1月27日金曜日

「直感」を信じすぎるのは良くないという研究結果―【私の論評】本当に重要なのは直感ではなく、知覚である!!

 「直感」を信じすぎるのは良くないという研究結果



「直感」こそ正しい答えだと考えている人は多いですが、心理科学における最新の研究によると、意思決定のプロセスにおいて「直感」が「論理」を押し潰してしまうこともあるということがわかったそうです。

「論理」も脳にあらかじめ組み込まれた重要かつ直観的なセンスです。しかし、実に多くの人が直感的にわき起こる思考に押し流されて、論理を無視してしまいます。その結果、ステレオタイプな行動をとってしまうこともあるようです。プロセスに何かが足りないと感じながらも、論理的に考えることを怠ってしまうのでしょう。

心理科学者Wim De Neysさんは、自分の思考のクセをよくチェックすべきだと言っています。

「思考プロセスのどこに間違いがあるか」を知ることが重要です。例えば、あなたが「なぜ人はタバコを吸うのかを理解したい」と思ったとします。そして、その原因が「タバコは不健康という論理を理解していないからだ」と考えたとしたら、あなたは喫煙者にタバコの害について説明するでしょう。しかし、実際はタバコの中毒性に原因があるのです。

意思決定プロセスにおいて、「論理」と「直感」のどちらも同等に直感的に働きます。次に何かを決断するときは、自分がどちらの思考に傾いているか、よく確かめてみてください。

【私の論評】本当に重要なのは直感ではなく、知覚である!!

まずは、上の写真んで妊婦がでていますが、これは、妊娠を英語で、pregnancyといい、これは妊娠のほかに、創造性、発明の能力などの意味があり、そこから、日本語では、直感ということなのだと思います。日本では、上の写真をみて、直感と関連づけたり、知覚する人ほとんどいないと思います。これは、知覚の仕方が人によって、あるいは、ひとが背負っている文化によって随分異なることの査証だと思います。この違いは、このブログの後のほうでもでてきますので、以下の文章は、このことを記憶にとどめて読んでいただけれれば幸いです。

私自身は、直感を大事にするほうです。男性と女性を比較すると、男性は論理的で、直観を忌避する傾向が強いですが、女性は、ものごとを直観で悟る能力に秀でています。多くの人が直感を全否定したとしたら、世の中から創造的な仕事のほとんどは消えるに違いないと思います。ただし、直感を大事にするにしても、何から何まで直感だよりということになれば、これは、否定しなければなりません。




私自身は、最初物事を考えるのは、ほとんどが直感です。ほとんどの人がそうだと思います。最初から分析できたりするような事柄には、直感など必要ないと思います。それは、分析する人に任せればい良いわけです。そうではなくて、いままで一度も経験したことがないこと、あるいは全く新しいシステムなど考えるときには、自分の過去の経験に照らして、直感でこのようなものが良いのではなかろうかと考えるわけです。そうして、それをもとにして、自分の意見を持つわけです。

しかし、それだけで、放置しておくわけではありません。むろん、その意見が正しいかどうか、検証を行います。検証を行うために、いろいろデータにあたり、たいていは、分析します。自分が知る限りの様々な手法を用いて分析します。分析して、分析仕切らないことはいくらでもあります。しかし、そうした仮定を経て気づくこと、知覚できることがでてきます。これら分析結果と、知覚できたことから、最終意見をもとめます。これは、たいていは、レポートにまとめるという作業です。

これが、化学現象などであれば、ほとんどが分析でことが済むのでしょうが、たとえば、プロモーションを行うとか、販売システムを変更するとか、新たな業態をつくるなどの社会現象であれば、いくら、検証を重ね、分析を重ね、様々なことがらを知覚できたしても、100%こうであるなどの結論などだすことはできません。最終的には、知覚がものをいうわけです。

ドラッカーは、知覚について、彼の著書に以下のように述べています。

生態系は全体として観察し理解すべきものである。
部分は全体との関連において意味をもつにすぎない。

数学者と論理学者の世界では、知覚的な認識は感覚にすぎず、疑わしいもの、神秘的なもの、捉えがたいもの、不可思議なものだった。機械的な世界観は、知覚的な認識は理性的でなく、したがって趣味の世界にゆだねるべきもの、すなわちそれ抜きでも支障のないものとした。

だが生物的な世界では、中心に位置するものは知覚的な認識である。生態系なるものはすべて、分析ではなく知覚の対象である。それは全体として観察し理解すべきものである。部分は全体との関連において意味をもつにすぎない。三五〇年前、デカルトは「我思う。ゆえに我あり」といった。いまやわれわれは、これと同時に「我見る。ゆえに我あり」といわなければならない。

新しい現実は、すべて形態的である。したがって、それらの問題を扱うには、分析とともに知覚的な認識が必要である。今日の多元社会の不均衡状態、グローバル経済、地球環境問題、緊急に提示することが求められている教育ある人間のモデルなど、すべてが形態的である。

これだけだと、何のことか良く分からないというひともいるかもしれませんので、少々説明させていただきます。デカルトは「システムなどは、小さく分解していき分析すれば、いずれ理解できるものとしました」確かに、普通の機械などそうだと思います。テレビやパソコンなど、確かに、全部の部分を細かく分析して、全体をぶんせきすれば、いずれ、全体がわかります。確かに、多くの製造会社がライバルの製品そのように分解して、分析して、相手の機械を分析して、すべてを理解したうえで、相手に対する対抗策を考えています。

簡単なシステムならそれで良いでしょう。だから、デカルト的な見方は、近代産業の成長にかなり寄与しました。しかし、この見方は、必ずしも世の中の自然現象屋社会現象を理解するには役に立たないと言っているわけです。

それは、単純に考えても、わかることです。たとえば、人体はどうでしょうか。人体をばらばらに分解して、爪は爪、鼻は鼻、脚は脚、心臓は心臓などして分析して、それを細かくさらに分析して、人体のすべてをそのように分析して、その分析結果をすべてあわせたとして、人体がわかるでしょうか?そんなことは、ないです。それは、複数の人間やその他がからむ、社会システムでも同じことです。社会システムでなくても、地球環境のことも、あるは、地球を含めた、太陽系に関しても、全部を細かくわけて、分析して、あとから、その分析結果を統合したからといって、全てが理解できるわけではありません。

だから、こそこのような事柄に関しては、知覚が重要だと言っているのです。それをしないで、デカルト的な分析ばかりくりかえしても、何も理解できないということを言っているのです。このデカルト的な考え方は、西欧近代にすばらしい成果をもたらしましたが、現代では、悪影響が目立ってきています。特に、デカルトの思想が生まれた西欧などで、何にでも、デカルト的に考える人を「デカルトの悪夢におかされた人」などということがあります。デカルトは、大きな誤りをおかしています。「我思うゆえに我あり」これです。進化論は、その逆を教えています。まず人間は存在した、思考はその後です。

 心は脳のソフトウエアのようなものだという考えは、いまでもあります。多くの人は、ほとんどデカルト的心身二元論のように考え、そのように話します。しかし、脳と身体は密接であり、不可分のものです。脳だけをとりあげて人を思考を語ることはできません。何でも、デカルト的に心身二元論のように考えていては、良いことはありません。


デカルト

それは、どういうことかといえば、たとえば、複雑な社会システムである、人間関係を単純に考えてしまうことです。夫婦という小さな社会システムがありますが、こういうシステムであれば、普通なら、デカルト的な考え方で、割り切るなどできないはずなのですが、もう二人には、「愛が」ないという理由だけで、離婚する人がかなりいます。結婚は愛があって、成り立っているもの、愛がなければ、結婚はおしまいというわけです。でも、夫婦という小さな関係であっても「社会システム」であることには変わりはないわけですから、何でも、「白黒」をはっきりつけて、黒なら、全否定というわけには、いかないと思います。欧米などでは、こうした社会システムまで、「白黒」をはっきりつけて、それで、意思決定をする人を「デカルトの悪夢におかされた人」と表現するようです。

このような人日本にも増えてきているようです。何でも、白黒でわりきって、意思決定をするような人が・・・・。そういう人は、社会システムに関しては、大小を問わず、どのようなものでも、まともな意思決定はできないと思います。おそらく、夫婦関係はもとより、親子関係もギクシャクし、 たとえ最初は優秀であっても、 職場でも創造性を発揮できず、いずれ凡庸でつまらない人生を送ることになると思います。

さて、知覚に関しては、その定義など、述べずに上記の論を展開してきましたが、その一般的な定義を以下に掲載しておきます。

知覚(ちかく)とは、動物が外界からの刺激を感じ取り、意味づけすることである。 視覚、聴覚、嗅覚、味覚、体性感覚、平衡感覚などの感覚情報をもとに、「熱い」「重い」「固い」などという自覚的な体験として再構成する処理であると言える。

上は動物の例ですが、人間なら、自覚的な体験として再構築するということは、様々な感覚情報や、分析などから、特定の現象などに意味付を行うということだと思います。こうしたことができずに、分析するだけでは、社会システムは永遠に理解できないということです。こうした、意味付まですれば、それは、最早直感とはいえず、知覚したということであり、社会システムへの理解が深まったということです。

さて、上で、最初は、直感で意見を持つということを掲載しましたが、これも知覚に関係します。意見を持つということ、ドラッカーは以下に述べています。


「意志決定についての文献のほとんどが事実を探せという。

だが,仕事のできる者が、事実からスタートすることなどできないことを知っている。誰もが意見からスタートする」


(ドラッカー名著集①『経営者の条件』)


 ドラッカーは、事実を探すことから始めるのは感心したことではないとさえいう。なぜなら、誰もがするように、すでに決めている結論を裏付ける事実を探すだけになるからである。見つけたい事実を探せない者はいない。


意志決定も科学と同じように、仮説が唯一の出発点である。


われわれは、仮説をどう扱うかを知っている。論ずべきものではなく、検証すべきものである。


 初めに意見を持つことを奨励しなければならない。そして意見を表明する者に対しては、現実による検証を求めなければならない。


米GMのアルフレッド・P・スローンは


「それではこの決定に関しては、意見が完全に一致していると了解してよろしいか」と聞き、


出席者全員がうなずくときには


「それではこの問題について異なる見解を引き出し、この決定がいかなる意味を持つかを理解するための時間が必要と思われるので、
次回さらに検討することを提案したい」と言ったという。


 不思議なことと言うべきか、当然というべきか、これまでの不祥事の多くが、
役員室で意見の対立を見ることなく行なわれている。


「意志決定において重要なことは、意見の不一致が存在しないときには
決定を行なわないことである」


(『経営者の条件』)

こうした、意見の不一致が、同じ出来事を、めいめいがどのように知覚しているかを明らかにし、問題をいっそう明確にしていくのだと思います。そうして、直感から、知覚へ、そうして、全員が同じできごとをどのように知覚しているかを知ることによって、問題・課題への対処の仕方が明確になって行くのだと思います。

全員の知覚を検証したあとに、出される結論は、もはや直感ではないということになります。何か、このようにしてみていくと、心理学者の実験よりも、こちらのほうがよほど楽しいし、面白いと思うのは私だけでしょうか?こうした、心理学の実験の結果など、おそらく実験などせずとも、長い間経験を積んだ優秀な経営者なら、このようなことを日ごろの業務などから、知覚して認識して実務に役立てていると思うのは、私だけでしょうか?

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2012年1月26日木曜日

iPadを低価格にしてもAmazonのKindle Fireが有利な理由−【私の論評】日本のメーカーはiPadとKindle Fireの本質を理解せよ!!

iPadを低価格にしてもAmazonのKindle Fireが有利な理由


 Kindle Fireは、200ドルという価格と『Amazon Prime』およびAmazonエコシステムとの強力な連携により、タブレット経験を試す安価な方法を求めている人たちにとって、最適な選択肢となっている。それは、おもに動画と電子書籍によるコンテンツ消費を中心とする、非常に「Amazon的」なタブレット経験だ。

一方、iPadの潜在顧客は、Apple社の大規模なアプリケーション・ライブラリーはもちろんのこと、iPadのコンテンツ制作ツールにも魅力を感じている人たちだ。新しい『iPad 3』でもこうした機能は拡充される見込みだが、Kindle Fireが対象とする顧客層は、これらに関心を持たないだろう。


一方、米Gartner社のアナリスト、ヴァン・ベイカーは、iPadが値下げされてもFireにとっては大きな脅威にならないが、『Android』タブレットについては脅威になりうると考えている。米Motorola社や韓国Samsung社が出している500ドル台のタブレット機器は、すでに同じ価格帯のiPadに対して十分に対抗できておらず、さらに低価格のiPadが登場したら勝てる見込みはないだろう。それにひきかえ、Amazon社のコンテンツ提供はリッチなので、Fireが対象とする顧客層はiPadの誘惑に負けない可能性がある。

「いまから1年もたてば、『Amazon』はiPadに続く確固たる2番手として、タブレットにおける『Android』と同義語になるだろう」と、米Forrester社のアナリスト、サラ・ロットマン・エプスは昨年8月に書いていた。この予測は正しそうだ。

【私の論評】日本のメーカーはiPadとKindle Fireの本質を理解せよ!!

 iPadとKindle Fireは、アメリカでは実質上すでに、市場を二分しているといっても良い状況です。確かに、累計台数などで比較すればKindle FireはiPadと比較すれば、実際に発売されてから間もないので上の記事のような表現になるのでしょうが、統計をとって比較すれば、もうそれは見えていると思います。昨年でさえ、Kindle Fireはすでに、Android市場の半分を占めていました。これは、驚くべき成長です。




この趨勢は、もう変わることはないでしょう。なぜ、このように伸びるのかということは、このブログに私なりの考えを掲載したことがあります。それは、これからIKEAのような物理的店舗を多数持つチェーンが有利になるという内容の記事のなかにおいてでした。詳細は、その記事をご覧いただくものとして。要点だけ掲載させていただきます。


これらの企業がわざわざ、自社独自のタブレット端末を開発したのは、両社とも独自の窓口を持つためです。eコマースは、提供されたばかりのころは、パソコンを通じての買い物というだけで、他の業態よりも、かなり差別化実現することができました。また、実際に物理的な店舗を持つよりは費用もかからないため、規模の小さなものも含めて、乱立した時期がありました。


しかし、現在では、かなり淘汰されて、弱小eコマースはどんどん消えていきました。なぜかといえば、既存のeコマースは、パソコンのブラウザを仲介して、買い物をするという形式でしたので、顧客からすれば、自宅にあるパソコンから覗き見るいくつもあるサービスの一つということになり、差別化が困難だったからです。既存のAmzonなど、eコマースも様々な手法を駆使して顧客との関係を強化して、差別化を実施してきました。


既存大手eコマースが、それなりの投資をしている状況下で、Appleは、iTunesなどで、eコマースに参入をしはじめました。しかし、Appleにとって、これだけ他社が差別化している状況で、さらに、差別化を図るということは、既存の技術や、手法などでは困難を極めたのだと思います。既存のeコマースでは、ユーザーはwindowsパソコンや、他社製のブラウザによって、eコマースをすることになります。


そうであれば、Appleのeコマースも差別化するのは、困難になります。そこで、スティーブ・ジョブズが、徹底的な差別化をするために、考え出したのが、iPhoneであり、iPadということです。そうして、ご存知のように、iBooksや、これらで用いるアプリなどは、iPhoneやiPadでないと購入することはできません。これは、差別化どころか、分離といっても良い囲い込みです。そうして、これが、iPadやiPhoneの本質です。



この本質に気づいたのが、Amazonであり、これも、他社パソコンや、ブラウザなどとの徹底した差別化を図るためのがジエットです。これによって、Amazonは、窓口を徹底的に差別化できるわけです。さらに、silkというブラウザによって、ユーザーが、Amazonにアクセスする際の最適化も図っています。このようなことによって、両社とも、徹底的に他eコマースに差別優位性を確立することに成功したわけです。


これらのことを両社が進める理由は他にもあります。それは、以前述べたように、物理的店舗を多数持つチェーンが、eコマース、O2Oなどを実施して、これらを統合して新たな業態を創設した場合、両社にとってかなり強力なライバルになることを予期しているからです。O2Oとは、インターネットの情報サイトや電子マネーなどのサービスと実店舗での購買行動などを結ぶビジネスを総称するものです。ここでは、本題ではないので、以前書いたブログの記事を参照して頂きたいと思います。


物理的店舗を多数持つ、チェーンは、一つの目的に向って多くの人を雇って動かさなければならないということで、その運営はeコマースなどと比較すれば経費もかかり大変です。しかし、差別化ということでは、eコマースよりも、かなりしやすいです。何しろ、eコマースは物理的店舗など存在せず、販売員んも存在せず、すべてがバーチャルです。これらのチェーンの物理的店舗そのものは、いままで、顧客接点である顧客と直接的には、ITの恩恵を受けることはありませんでした。むろん、POSなどはありましたが、これは、顧客と直通かかわるものではなく、あくまで、バックヤードのものです。


ところが、O2Oは、直接顧客にかかわるものです。これらを装備した、物理的店舗を多数持つチェーンが、eコマースを本格的にはじめたら、これは、既存のeコマースをかなり脅かす存在になることと思います。だこらこそ、そうした時代に備えるためにも、IPad、Kindle Fireが必要なのです。こうして、考えると、必然であったといっても過言ではないと思います。このことに、随分まえから気づいていたのが、スティーブ・ジョブスです。だからこそ、彼は、Apple Storeを開設したのです。そうして、その試みは、いままで、大成功を収めてきました。それは、Appleが画期的な新製品を発表したときの、Apple Storeでのお祭り騒ぎをみていただければ十分に理解していただけるものと思います。このようなことは、Amazonにはできません。しかし、Amazonには、これを補ってあまりあるほどの、eコマースの実績があります。




しかし、そのことに気づいていない企業がたくさんあります。今日もテレビをみていたら、日本のテレビメーカーが韓国メーカーに負けていることなど放映されていました。日本のメーカーは、Appleや、Amazonが、なぜ独自のタブレットを開発したのか、その真の意味をわかっていないようです。これを理解せずに、単に映りが良いとか、デザインが良いとか、高機能なテレビやタブレット端末、パソコンばかりの製造している限りにおいては、利益が少ない差別化のできていない素材産業のような存在になってしまうと思うのは私だけでしょうか?


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