本日深夜25 :25から放送されているテレビ朝日の「朝まで生テレビ!」に、国民の注目が集まっている。
今回は橋下徹大阪市長と、彼の政治姿勢に反対する論客たちの議論が放映されているのだが、午前2時半現在のところTwitterやインターネット掲示板でも、ほとんどの人たちが「橋下市長はまっとうなことしか言っていない」や「論客が揚げ足取りばかり」と反橋下派に怒りの声があがっていた。
そのなかでも特に批判を浴びているのが、帝塚山学院大学の薬師院教授だ。彼は執拗に橋下市長に「大阪市を解体するなんて聞いていない!」と文句を言っているにも関わらず、田原総一朗氏に「じゃあ解体されたらどう困るの?」と聞かれても「わからない!」と答えるばかりで、ほとんど揚げ足取りばかりだとインターネット上でも彼の姿勢に疑問を感じている人たちが多いようす。
また、彼のWikipediaも「2012年 朝生でフルボッコを喰らう。」や「2012年 朝まで生テレビでチラシ係」など様々な改変をされ、ヒドいことになっている状態である。知識人もこの番組についてコメントを残しており、ニューヨーク州立大学のビジネススクールで助教授をされている入山章栄さんは「今日の朝生の対橋下論客、ゴールドマンサックスで働かせたら、全員三日もたずにクビになる気がする。」と苦言を呈しており、議論のあまりのレベルの低さに呆れ返っておられるようだ。
更にヒドいことに現在Twitterのトレンドにも「薬師院」や「揚げ足取り」、「言葉尻」などのフレーズが上がっていて、薬師院氏をはじめとした反橋下派に対する炎上はまだまだ続きそうである。(下は、朝まで生テレビのサイトでの告知)
【私の論評】反対派は、ドラッカーいうところの"真摯"さに欠ける!?
私自身は、橋下さんのやっていることは、最終的には歴史が判断するものではあるものの、とにかく何かを変えようとして努力していることは理解でき、共感を覚えています。
今まで、多くの政治家は、まるで評論家のようであり、しかも、間違っているか、あやふやな論拠によって、コメントを行い、結局何もできないでいるというように見えます。しかし、橋下さんの場合は、ともかく変えようとして、日々努力している姿が見えます。これは、言ってしまえば、評論家と実務家の違いのように見えます。実際、橋下さんは、たかじんの"No money"という番組で、「本当に変えるのは、大変ですから。言っているだけと、本当にに変えるということは、全く違いますから。ここにおられるかたも、言っているだけではなく、立候補して、実際に変えて下さい」と語っていました。
上のツイートの"ゴールドマンサックスで働かせたら、全員三日もたずにクビ"とは、こうした評論家と実務家の違いを語っているのだと思います。評論ばかりしていても、金にはなりません。実効性のある実行動をして、はじめて実務が達成できます。
橋下さんに反対する人たちの論拠は、いろいろ語っているものの、橋下市長のキャラクターや振る舞いへの感情的反発、教育を聖域とし政治が介入してくることへの警戒感、とくに教育に競争を持ち込むことへの反発、組合へのシンパシー、体制や仕組みの構造的な変革に対する不安、またそれによって既得権益を失うリスクへの恐れということであり、本当に低レベルなものばかりです。
それに、選挙のさなかに「ファシズム」を意図的に連想させる「ハシズム」キャンペーンなどという愚かなことをやってしまいました。選挙という民主的手段のみで、合法的にやったものが、どこがファシズムなのか全く理解できません。ナチスなら、選挙だけでなく、SAなどがでてきて、実際に暴力をふるっていたのは、歴史的事実です。反対派はこんなことも知らないのでしょうか?(下は、SAのポスター)
それに、彼らは、府民や市民を信頼していません。教育者のほうが正しく、それに府民や市民がかかわることは間違いだとするエリート主義的であり、完璧に上から目線での物言いです。
そうして、このような彼らの物言いを聴いていると、何か思い出されることがあります。それは、ドラッカーの書籍にしばしば出てくる「真摯さ」という言葉です。まさに、彼らには、ドラッカーのいうところの、「真摯さ」に欠けています。これについては、以前にもこのブログに掲載したことがあります。その中の「真摯さ」の意味の部分を以下に掲載します。(上の画像は、映画版「もしドラ」で、南役をした、前田敦子)
うまくいっている組織には、必ず一人は、直接手をとって助けもせず、一見人付き合いも悪いようにみえるボスがいる。この種のボスは、とっつきにくく気難しく、一見わがままなように見えるにもかかわらず、しばしば誰よりも多くの人を育てる。好かれている者よりもはるかに、尊敬を集める。一流の仕事を要求し、自らにも要求する。基準を高く定め、それを守ることを期待する。何が正しいかだけを考え、誰が正しいかを考えない。真摯さよりも知的な能力を評価したりはしない。このような素質を欠く者は、いかに愛想がよく、助けになり、人づきがいがよかろうと、またいかに有能であって聡明であろうと危険である。そのような者は、職業人としても、社会人としても失格である。
真摯さを絶対視して、初めてまともな組織といえる。それはまず、人事に関する決定において象徴的に表れる。真摯さは、とってつけるわけにはいかない。すでに身につけていなければならない。ごまかしがきかない。ともに働く者、特に部下に対しては、真摯であるかどうかは二、三週間でわかる。無知や無能、態度の悪さや頼りなさには、寛大たりうる。だが、真摯さの欠如は許されない。
マネジメントにできなけばならないことは、学ぶことができる。しかし、学ぶことのできない資質、後天的に獲得できない資質、初めから身につけていなければならない資質がある。才能ではない、真摯さである。
帝塚山学院大学の薬師院教授に関しては、地球温暖化CO2説ならびに、災厄説に関しては、まともな論議をしており、このときには、誰が正しい、誰が間違いというような論点はなく、あくまでも、"地球温暖化CO2説"に関して、正しいのか、正しくないのかという論議をしており、私自身も評価をしていたのですが、こと、橋下さんに関して、橋下さんの間違いばかりに集中していて、本当に残念に思っています。このようなある程度年齢もいっており、良識もあるという方が、こういうことをするわけですから、これは、 薬師院氏に限らず、多くの人々が陥りがちな陥穽なのだと思います。
私は、反橋下派への攻撃も、こうした陥穽に落ち込んでいるものもあると思います。反橋下派に対する攻撃も、誰が悪いという論調でやってしまえば、反橋下派と同じことになってしまいます。やはり、反橋下派の論じていることの中の何が間違いであるという論点で、攻撃すべきものと思います。
なお、「真摯さ」については、定義が曖昧ですが、これについては、本日は本題ではないので、ここでは詳細は掲載しません。以下の関連記事のところに、それに関連する記事もコピペしておきますので、それを御覧になってください。
私は日頃、誰が正しいとか、間違いであるなどということばかりを語る者のいう事は信用しません。何が正しくて、何が間違いであるかを論じる人を信用するようにしています。皆さんは、いかがですか?
【関連記事】
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特集【エッセンシャル版】ドラッカー転換期が訪れた今こそ知りたいマネジメントの真髄―【私の論評】あと、少なくとも、20~30年は色褪せないドラッカーの業績!!
『真摯さ』というキーワードを含むこのブログの過去の記事はこちらから!!
4 件のコメント:
ブログ拝見させていただきました。
ここでは「真摯さ」を「何が正しいかだけを考え、誰が正しいかを考えない。 」ととらえた上でコメントさせていただきます。
確かに、あの討論において香山氏、薬師院氏は感情的であり、揚げ足的な稚拙な応対をしていました。これは事実レベルにおいて間違いないことです。ただ、僕はあの討論を3時間みていて感じたことは、「なぜ教養ある人が冷静をかき、感情的な攻撃をしてしまっているのか?」ということです。例えば、ブログに薬師院氏は、地球温暖化の論議において「真摯さ」をもっていたと書いてあり、香山氏もわりと俗的なデータを土台にして、基本的には「真摯さ」をもって議論する人だと思ってます。
冒頭一時間は、橋本さんのマニュフェストに関してやり取りしていましたが、現在マニュフェストをしっかり守っている政治集団など、ほとんどありません。そのため、マニュフェスト云々が反橋本派の反対理由であるとは到底思えません。もしもそれが、理由ならば香山氏がいうような「ハシズム」の現象はあまり関係ないからです。
「真摯さが欠如」しているという指摘はしごく最もです。ただ、僕としては問題を「なぜ知識人は真摯さが欠如したのか」と設定して考察すべきじゃないかと思ってます。で、それは既得権益やら変わることの不安など、あるでしょうが、おそらく橋本さんが「システム」の変化に焦点をあてており、その後の社会へのビジョンがよくよく見ると「民意」「みなさんが責任をもってがんばってください」と言っているからだと思うのです。
いわば社会の物語(希望と置き換えてもいいかもしれないです)、が橋本さんの場合ニュートラルな「システム」「構造」に変換されてしまい、識者がそれを物語として語ろうとすると「これはシステムで物語はそのシステムから生じる」と応答されることに起因している気がします。識者は政策に関与することはできません。できるのは、物語を作ることです。そのため、物語の次元で橋本さんの構想を考えようと発言しても、「システム」の中の政策の次元で遡上にあげられてしまい、識者はあそこまで「真摯さ」に欠けてしまったのではないかと。
これは、橋本さんの問題ではありません。むしろ、テレビの場で知識人達が醜態をさらしてまで言いたかった葛藤、モヤモヤを考察することが、反橋本派にとっても、また橋本派にとっても大事ではないかと。あの討論で「多様な社会を作ることは是である」ことには両者一致していました。何とか、反橋本派の本質を言語化して、橋本さんのビジョンに組み込むべきだと僕は思っています。
乱文乱筆にて失礼いたします。
狸さま コメント有難うございます。狸さんの論点は十分にわかります。
これは、橋本さんの問題ではありません。むしろ、テレビの場で知識人達が醜態をさらしてまで言いたかった葛藤、モヤモヤを考察することが、反橋本派にとっても、また橋本派にとっても大事ではないかと。あの討論で「多様な社会を作ることは是である」ことには両者一致していました。何とか、反橋本派の本質を言語化して、橋本さんのビジョンに組み込むべきだと僕は思っています。これは、当然のことと思います。
ただし、両者にはやはり、実務家とそうではない人の間に考え方の相違があるのだと思います。
偉大な企業への飛躍を導いた指導者は、まずはじめに、適切な人をバスに乗せ、不適切な人をバスから降ろし、つぎにどこに向かうべきかを決めている。
これは、ビジョナリーカンパニー2という書籍の中にでてくる一節です。
ビジョナリーカンパニー2については、以下の二つのURLを参照ください。
http://yutakarlson.blogspot.com/2011/11/4007800_30.html
https://docs.google.com/document/d/10H-XwvmJxPMzr-VMTitwugoPIh9Slc_kY2FPalomHtM/edit?hl=ja
橋下さんは、実務家の観点から、まずは、バス(まともな政治システム)をつくらなければどうしようもないと思っているのだと思います。なにしろ、今の日本は、19世紀の西欧諸国のシステムのままです。だから、麻痺しています。
バスができていない、乗る人も決まっていないうちに、物語をつむいで人に語っても仕方ないと考えていて、今、バス作り、乗せる人、乗せない人を選んでいるのだと思います。
そのことを、反橋本派の人たちは、理解できないのだと思います。また、橋下さんも、国政とは、企業システムとは異なり、多くの人の賛同が必要であり、そのためには、バスで連れて行く先を示す物語の重要性について、いまのところ必要性を認識していないのだと思います。
橋下さんは、従来から政治システムを企業システムにたとえる発言をしていますが、企業システムと政治システムは根本的に違います。企業は、経営者が、少数の大儀をともにする人たちで、バスに乗って、行き先を目指せば良いのですが、国の場合、より大きな大儀を示すとともに、全部の人(国民)を乗せて、目的地に向かわなければなりません。
これについて、橋下氏も、気づき、反対派も気づかなければ、永遠に平行線をたどるばかりだと思います。
これからも、お気軽にコメントをお寄せください!!
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