植村隆 |
カトリック大での任期は3月からの1年間。朝日新聞ソウル特派員の経験を生かし、日本語を学ぶ学生らに日韓交流の歴史について教えるという。
植村隆 |
カトリック大は北星学園大と留学生の交換などで提携しており、植村氏の授業を受けた留学生らの情報も参考にするなどした結果、植村氏に客員教授への就任を打診したという。植村氏は「私が新たな一歩を踏み出すことになったのも、北星が私と一緒に闘ってくれたおかげ。心からお礼を言いたい」と話した。
植村氏をめぐっては昨年、朝日新聞記者だった頃に執筆した慰安婦関連の記事について抗議が北星学園大に殺到。退職を要求し、応じなければ学生に危害を加えるとする脅迫文も届いていた。
北星学園大学の本年新しくなったセンター棟の中にあるカフェ |
【私の論評】一度逃げ隠れしたジャーナリストは、一生身を潜めて生きてゆくしかなくなる(゚д゚)!
植村隆といえば、あの朝日新聞が虚偽だと認めた、慰安婦の強制連行の記事を書いた元朝日新聞の記者です。
植村が1991年8月11日に執筆した問題の記事は以下のとおりです。
元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く 日中戦争や第二次大戦の際、「女子挺(てい)身隊」の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」のうち、一人がソウル市内に生存していることがわかり、「韓国挺身隊問題対策協議会」(尹貞玉・共同代表、十六団体約三十万人)が聞き取り作業を始めた。同協議会は十日、女性の話を録音したテープを朝日新聞記者に公開した。テープの中で女性は「思い出すと今でも身の毛がよだつ」と語っている。体験をひた隠しにしてきた彼女らの重い口が、戦後半世紀近くたって、やっと開き始めた。 尹代表らによると、この女性は六十八歳で、ソウル市内に一人で住んでいる。(中略)女性の話によると、中国東北部で生まれ、十七歳の時、だまされて慰安婦にされた。二、三百人の部隊がいる中国南部の慰安所に連れて行かれた。慰安所は民家を使っていた。五人の朝鮮人女性がおり、一人に一室が与えられた。女性は「春子」(仮名)と日本名を付けられた。一番年上の女性が日本語を話し、将校の相手をしていた。残りの四人が一般の兵士二、三百人を受け持ち、毎日三、四人の相手をさせられたという。「監禁されて、逃げ出したいという思いしかなかった。相手が来ないように思いつづけた」という。また週に一回は軍医の検診があった。数ヶ月働かされたが、逃げることができ、戦後になってソウルへ戻った。結婚したが夫や子供も亡くなり、現在は生活保護を受けながら、暮らしている
- — 植村隆、朝日新聞大阪版27面 1991年8月11日
この記事は、その後その信ぴょう性をめぐって、日本国内で物議をかもしました。そうして、とうとう昨年、この記事の内容は虚偽であったことを朝日新聞が認めて、広告したということです。
これについては、以前もこのブログに掲載したことがあります。このことが、風化して忘れ去られないためにも、その記事のリンクを以下に掲載します。
【朝日新聞】「済州島で連行」証言 裏付け得られず虚偽と判断―【私の論評】朝日新聞・テレ朝は、「虚偽新聞」になれば良い! それで、大躍進できるぞ~~ぃ(゚д゚)!
元記事の末尾に書かれた読者に向けてのお知らせ |
この記事は、2014年8月5日のものです。移り変わりの激しい、日本の報道ですので、随分前のような気もしますが、ほんの昨年のことです。
以下に記事の内容を掲載します。この記事の元記事は朝日新聞のものです。この記事はすでに朝日新聞のニュースサイトからは削除されています。以下にそれを掲載します。
【朝日新聞記事】「済州島で連行」証言 裏付け得られず虚偽と判断
〈疑問〉日本の植民地だった朝鮮で戦争中、慰安婦にするため女性を暴力を使って無理やり連れ出したと著書や集会で証言した男性がいました。朝日新聞は80年代から90年代初めに記事で男性を取り上げましたが、証言は虚偽という指摘があります。
慰安婦問題を考える→
男性は吉田清治氏。著書などでは日雇い労働者らを統制する組織である山口県労務報国会下関支部で動員部長をしていたと語っていた。
朝日新聞は吉田氏について確認できただけで16回、記事にした。初掲載は82年9月2日の大阪本社版朝刊社会面。大阪市内での講演内容として「済州島で200人の若い朝鮮人女性を『狩り出した』」と報じた。執筆した大阪社会部の記者(66)は「講演での話の内容は具体的かつ詳細で全く疑わなかった」と話す。
90年代初め、他の新聞社も集会などで証言する吉田氏を記事で取り上げていた。
吉田清治氏 写真はブログ管理人挿入 以下同じ
92年4月30日、産経新聞は朝刊で、秦郁彦氏による済州島での調査結果を元に証言に疑問を投げかける記事を掲載。週刊誌も「『創作』の疑い」と報じ始めた。
東京社会部の記者(53)は産経新聞の記事の掲載直後、デスクの指示で吉田氏に会い、裏付けのための関係者の紹介やデータ提供を要請したが拒まれたという。
97年3月31日の特集記事のための取材の際、吉田氏は東京社会部記者(57)との面会を拒否。虚偽ではないかという報道があることを電話で問うと「体験をそのまま書いた」と答えた。済州島でも取材し裏付けは得られなかったが、吉田氏の証言が虚偽だという確証がなかったため、「真偽は確認できない」と表記した。その後、朝日新聞は吉田氏を取り上げていない。
しかし、自民党の安倍晋三総裁が2012年11月の日本記者クラブ主催の党首討論会で「朝日新聞の誤報による吉田清治という詐欺師のような男がつくった本がまるで事実かのように日本中に伝わって問題が大きくなった」と発言。一部の新聞や雑誌が朝日新聞批判を繰り返している。
今年4~5月、済州島内で70代後半~90代の計約40人に話を聞いたが、強制連行したという吉田氏の記述を裏付ける証言は得られなかった。
干し魚の製造工場から数十人の女性を連れ去ったとされる北西部の町。魚を扱う工場は村で一つしかなく、経営に携わった地元男性(故人)の息子は「作っていたのは缶詰のみ。父から女性従業員が連れ去られたという話は聞いたことがない」と語った。「かやぶき」と記された工場の屋根は、韓国の当時の水産事業を研究する立命館大の河原典史教授(歴史地理学)が入手した当時の様子を記録した映像資料によると、トタンぶきとかわらぶきだった。
済州島で撮影された韓国人ミュージシャンのグラビア
93年6月に、吉田氏の著書をもとに済州島を調べたという韓国挺身隊研究所元研究員の姜貞淑(カンジョンスク)さんは「数カ所でそれぞれ数人の老人から話を聞いたが、記述にあるような証言は出なかった」と語った。
吉田氏は著書で、43年5月に西部軍の動員命令で済州島に行き、その命令書の中身を記したものが妻(故人)の日記に残っていると書いていた。しかし、今回、吉田氏の長男(64)に取材したところ、妻は日記をつけていなかったことがわかった。吉田氏は00年7月に死去したという。
吉田氏は93年5月、吉見義明・中央大教授らと面会した際、「(強制連行した)日時や場所を変えた場合もある」と説明した上、動員命令書を写した日記の提示も拒んだといい、吉見氏は「証言としては使えないと確認するしかなかった」と指摘している=注①。
戦時中の朝鮮半島の動員に詳しい外村大・東京大准教授は、吉田氏が所属していたという労務報国会は厚生省と内務省の指示で作られた組織だとし、「指揮系統からして軍が動員命令を出すことも、職員が直接朝鮮に出向くことも考えづらい」と話す。
吉田氏はまた、強制連行したとする43年5月当時、済州島は「陸軍部隊本部」が「軍政を敷いていた」と説明していた。この点について、永井和・京都大教授(日本近現代史)は旧陸軍の資料から、済州島に陸軍の大部隊が集結するのは45年4月以降だと指摘。「記述内容は事実とは考えられない」と話した。
■読者のみなさまへ
吉田氏が済州島で慰安婦を強制連行したとする証言は虚偽だと判断し、記事を取り消します。当時、虚偽の証言を見抜けませんでした。済州島を再取材しましたが、証言を裏付ける話は得られませんでした。研究者への取材でも証言の核心部分についての矛盾がいくつも明らかになりました。
◇
注① 吉見義明・川田文子編「『従軍慰安婦』をめぐる30のウソと真実」(大月書店、1997年)
植村は、あまり新聞などのインタビューを受けていなかったのですが、今年に入って産経新聞のインタビューを受けていました。それは、今年の8月のことです。
それに関しては、以下のリンクをご覧になってください。
元朝日新聞・植村隆氏インタビュー詳報のニュース
【元朝日新聞・植村隆氏インタビュー詳報(10)止】「『歴史戦』やるなら被害者の証言も聞いてほしい」
【元朝日新聞・植村隆氏インタビュー詳報(9)】「捏造記者というと名誉棄損になると訴えたかった」
【元朝日新聞・植村隆氏インタビュー詳報(8)】「朝日の侵略戦争の反省を伝えようという作業に誇り」
【元朝日新聞・植村隆氏インタビュー詳報(7)】「大学には娘を殺すという攻撃があった」
【元朝日新聞・植村隆氏インタビュー詳報(6)】「意に反して日本軍の性の相手をさせられたというところをずっと書いている」
【元朝日新聞・植村隆氏インタビュー詳報(5)】「金学順さんに会ったのは、弁護士聞き取りの同席の時だけ」
【元朝日新聞・植村隆氏インタビュー詳報(4)】「嫁さんとの結婚前から慰安婦取材していた」
【元朝日新聞・植村隆氏インタビュー詳報(3)】「時代状況を分かってほしいんだ、阿比留さん!」
【元朝日新聞・植村隆氏インタビュー詳報(2)】「『強制連行』僕は使っていない」
【元朝日新聞・植村隆氏インタビュー詳報(1)】「阿比留さんだからと逃げることはない」この記事を読むには、読んだのですが、何やら煮え切らない感じです。とにかく、インタビューはしたものの、核心には迫れていないような気がします。インタビューするにあたって、いろいろと条件をつけられたのかもしれません。
植村は、昨年中は何回か、週刊誌の取材を受けようですが、結局取材に応えず、週刊誌の記者に追われ、あたふたとタクシーに乗り込んで逃げる様子が、報じられていました。にもかかわらず、そういうことをしておきながら週刊誌(週刊文春)を裁判に訴えるのは、恥の上塗り以外の何ものでもなかったと思います。
さらに、植村君が月刊誌『文藝春秋』に寄せた一文も読みましたが、言い訳としかいいようのないものでした。とても、まともなジャーナリストの書いたものとはとうてい、思えませんでした。
「週刊文春」の記事コピーを手に日本外国特派員協会の記者会見に 臨む植村隆氏=1月9日午後、東京・有楽町の日本外国特派員協会 |
それにしても、不思議なのはこのように、取材からは逃げ回っていた植村がなぜ、一転して訴訟という手段に訴えることにしたのかということです。当時の雑誌の記事によると、植村には200人近い弁護士が“応援”に付いていました。
これは、頼もしい応援団が付いたことで植村は風向きがアゲンストからフォローに変わったと判断し、態度を変えたのかもしれません。そうだとすれば、今年の8月の産経新聞のインタビューも受けることにしたのかもしれません。
これは、頼もしい応援団が付いたことで植村は風向きがアゲンストからフォローに変わったと判断し、態度を変えたのかもしれません。そうだとすれば、今年の8月の産経新聞のインタビューも受けることにしたのかもしれません。
これだけの弁護団がつけば、産経側の追求も十分かわすことができると、自信をつけたのかもしれません。
本来新聞記者たる者は、書いたものに異論反論疑問が出た時は、決して逃げ隠れすべきではないです。
こういう場合は、公の場で、自ら間違えた理由や背景を明らかにして謝罪するか、自分が正当だと考えるなら、どこまでもその正当性を主張すべきです。
植村のように、一度逃げ隠れしたジャーナリストは、一生、身を潜めて生きてゆくしかなくなります。この屈辱に比べれば、過ちがわかった時にただちにお詫びと訂正をすることなど、いとも容易いことだと思います。
さて、植村は韓国の客員教授となることが決まったそうですが、これは一生身を潜めて生きていくことの前触れなのか、それとも単に海外にたまたま職があったので、いっときそちらにいくだけなのでしょうか。
植村のように、一度逃げ隠れしたジャーナリストは、一生、身を潜めて生きてゆくしかなくなります。この屈辱に比べれば、過ちがわかった時にただちにお詫びと訂正をすることなど、いとも容易いことだと思います。
さて、植村は韓国の客員教授となることが決まったそうですが、これは一生身を潜めて生きていくことの前触れなのか、それとも単に海外にたまたま職があったので、いっときそちらにいくだけなのでしょうか。
まだ、どちらとも判断がつきません。それに週刊文春を相手どった裁判も終わっていません。公判中は日本に舞い戻る必要があります。
いずれにせよ、植村の記者生命は、もう完璧に終わったことだけは間違いありません。そうして、それは虚偽報道そのものではなく、それが明るみに出た後の植村氏の対応が悪すぎたことによるものです。
私は、そう思います。皆さんは、どう思われますか?
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