2010年、楽天とファーストリテイリング(以下、ファストリ)が英語を社内公用語にすると宣言し、各所で賛否両論を呼んだ。筑波大学大学院教授である著者も、このニュースに衝撃を受けた者の一人である。英語支配論や言語政策、国際コミュニケーション論を専門とする著者はこの発表に危機感を抱き、両社の社長へ抗議の手紙を送った。 本書は、実際に送った手紙の全文掲載から始まる。その中で、「英語の社内公用語化」の弊害...
【私の論評】日本語でのコミュニケーションは世界最高!!
論評のため、上記の記事の理由の要点を以下に掲載します。
1.「日本語・日本文化の軽視」の問題だ。現在の日本には「英語信仰」が広がっており、その結果「英語偏重社会」が生まれ、日本語や日本文化の軽視が起きている。
2.「英語の社内公用語化」が一般的になれば、収入や就職などの面で「社会的格差」が拡大する。いずれは「英語ができる階層」と「英語ができない階層」という社会階級的な分裂が生まれて国民意識の統一が保ちにくくなり、国家の維持までも危うくなる。
3.言葉は単なる道具ではなく「権利」だと主張し、「英語の社内公用語化」が、もし日本語禁止や英語使用の強制を伴うものであれば、それは重大な「人権侵害」に当たる。
特に上の、津田幸雄氏の主張は、正しくそれに付け加えるようなことはほとんどありません。日本の会社の公用語をわざわざ英語にする必要はないと思います。特に日本人同士で日本語で語れば、よく分かり合えるのに、それまで禁止するとのなら、それは、人権侵害であり完璧に法律違反です。
英語を勉強すること、グローバルな考え方を持つこと、海外に進出することなど、良いことだと思います。しかし、それと、会社の公用語を英語にするなどの愚かなことは、全く別の次元の問題だと思います。
津田氏の上の主張の1.に関しては、確かに今でも深刻なものがあります。このブログに以前「最近の死語について驚いた件」というタイトルで、この問題について掲載したことがあります。それを以下にコピペします。
数年前に、新入社員研修で「ゴルバチョフ」という人名を話したところ、ほとんどの人が知りませんでした。高卒だけでなく、大卒でも知らない人がほとんどでした。おそらく、現代史などは、歴史の教科書でも、最後にほうに出てくるし、まだ歴史的評価も定まっていないところがあるので、高校でほとんど教えていないし、試験にも出ないのだと思います。そうなると、今の大学生の多くは、現代国際政治などとは無縁なのかと思ってしまうこともあります。
また、ある機会に文学の話になって、「谷崎潤一郎」とか「耽美派」という言葉で話すと、わからない女性がいました。この人は驚いたことにある国立大学の文学部出身でした。今の大学はこの程度のことも知らないての卒業できるのかと驚いてしまいました。まあ、知らなくても別に社会人としては生活していけるから良いのでしょうが、これには驚いてしまいました。
それから、これは、会社の新人ではありませんが、ある機会があってまだ、入りたての現役の東大生と話をする機会がありました。そのときに驚いたのですが、彼は理系であるにもかかわらず「ファラディーの右手、および左手の法則」を知りませんでした。驚いたことに、彼は工学部志望でした。今の東大は、高校で物理を履修しなくても、工学部に入ることができるのです。
それと、これは、数年前から必ず、特に女性には必ず聞くようにしていますが、今の新卒のほとんどの人が貞操という言葉を知りません。こんな事実から、やはり、現代ではいわゆる昔の貞操という概念は完全消滅したのかもしれません。(下の写真は、中世の貞操帯)
高卒の人や大学卒でもかなり多くの人が、「雄雄しい」」という言葉を知りません。これは、「雄雄しい」男性がいなくなったこということでしょうか?「雄雄しい」を知らなければ、もちろん「masculine」も知らないのだと思います。
それから、最近の「全然」という言葉の遣いかたは昔とは完全に異なります。今では、「全然いいです」というような言い方が主流になってきています。本来の使い方は「全然駄目です」などの使いかたが正解です。
これに関しては、似たようなことが「たいそう」という言葉の使い方にあって、昭和初期までは、使い方としては「たいそう、不味い」などと使うのが普通であって「たいそう美味しい」などという使い方はしなかったそうです。しかし、今では、「たいそう」に関してはどちらでも使うのが普通です。これに関しては、ある小説家の随想に「最近の女子学生の流行言葉」ということで記載されていたのを覚えています。ただし、その書籍名ならびに小説家の名称は失念しました。
さて、以上のような状況皆さんはどう思われますか?「たいそう」のように言葉が移り変わっていくのは、わかりますが、やはり、日本人としてコミュニケーションが普通にとれるようにするためには、基本的な語彙はあまり変えていくべきではないと思います。それから、「逢瀬(おうせ)」という言葉がありますが、これも、以前のブログに以下のように掲載しています。
・・・・・・・・・・語彙というと、これに関して最近面白い体験をしました。最近ひょんなきっかけで、20代の女性が「逢瀬」という言葉を知らないということを発見しました。
「逢瀬」は皆さんご存じだとは、思いますが、小説などにはでてきても、学校のテキストなどにはまずは、出てこない言葉だと思います。だから、知らなくても、別にほとんど困るということはないでしょうが、この言葉を知らないということであれば、他の文学的な語彙もあまりわからないのではないかと思います。
現在でのこのような有様ですから、英語の公用語化や、中途半端な英語の早期教育など行われれば、とんでもないことになってしまいそうです。
それに、最近は、確かに英語の能力を重視する企業も増えていますが、以前にもこのブログにも菅さんについて書いたように、日本文化のバックボーンを持たない人は海外に行ってもまともに相手にされないと思います。
私は、菅さんが海外の会議に行っても、先進主要国のリーダーたちからまともに相手にされないのは、決して言葉だけの問題ではないと思います。いくら、お遍路に行ったとしても、彼は、おそらく、日本の伝統文化の背景からは程遠い存在なのだと思います。こうしたことは、いくら、外見を整えてみても、すぐに相手に悟られるものです。それは、思想や、イデオロギーなどとは無縁なものです。どんなイデオロギーがあったにしても、自分の属する文化を知らないものは、そうではない人々には、見透かされてしまいます。フランスや、イタリアの共産主義者たちは、少なくとも自国の伝統文化を背負って話をします。だから、妥協点もみいだしやすいです。
これはとりもなおさず、日本人であれば、日本の伝統文化を背負った人間と、他の国の人から認められない限り、まともな扱いはされないということです。今は、こんな簡単な理屈のわからない人があまりにも増えていると思います。まともに相手にされないのは、決して言葉だけの問題ではないと思います。いくら、お遍路に行ったとしても、彼は、おそらく、日本の伝統文化の背景からは程遠い存在なのだと思います。こうしたことは、いくら、外見を整えてみても、すぐに相手に悟られるものです。それは、思想や、イデオロギーなどとは無縁なものです。どんなイデオロギーがあったにしても、自分の属する文化を知らないものは、そうではない人々には、見透かされてしまいます。フランスや、イタリアの共産主義者たちは、少なくとも自国の伝統文化を背負って話をします。だから、妥協点もみいだしやすいです。
菅さんの行動をみていれば、日本の伝統文化を背負わない人間は結局は何もできないことがお分かりになると思います。菅さんは、鳩山さん同じく、普天間問題に関して、結局何もできないばかりか、さらに後退させたものと思います。そうして、尖閣問題に関しては、完全に失敗しました。これらの交渉に関して、菅さんが英語や中国語ができるとか、できないなどはほとんど無関係だったと思います。
私は、現在多くの会社が、英語能力を基準として、日本文化など軽視して、多くの新卒などを雇用し海外進出を目論んでいますが、このな企業はかなり大きな危機をはらんでいると思います。どのような危機かといえば、もともと、英語ができるだけでは、交渉などできるわけもないし、それを短期間養成することは困難だからです。
しかも、現在新興国も含めた、世界同時不況が進行中です。この不況が本格的になれば、英語ができても、日本文化の背景のない人間など、交渉も何もできずに無用の長物になってしまう危険性があります。そうなれば、このような人たちの大量解雇ということだってあり得ると思います。これと似たようなことは、過去にもありました。バブルの頃に大量採用された人たちが、30歳台前半になって多数解雇されたことがあります。非常に不味いやり方だと思います。
3.に関しては、まったくその通りだと思います。日本には古い歴史があります。今年は、皇紀2671年です。これは、日本の歴表示であり、最初の天皇が即位してから、2671年目という意味です。キリスト誕生を基点とした、西暦よりもはるかに古いです。この年号を知らない日本人も大勢います。しかし、これだけ古い歴史を持って、一体感を維持してきた日本人は、先の事例のように、言葉を知らない若い人が増えていることもし事実ですが、言葉も共通ですし、さまざまな文化、慣習なども共通点が多いです。
そのため、特にコミュニケーションに関しては、かなり緊密です。言葉で表せないような細かなことまで、理解しあえる土壌があります。これは、日本人はあまりに当たり前であって、気づきませんが、意外なところで発揮されたりします。たとえば、昔から今に至るまで、日本の軍隊や、大砲などは、命中率が高いです。これは、やはり、緊密なコミュニケーションによるものだと思います。他国では、コミュニケーションが日本ほど緊密ではないため、複数の人間のチームによる大砲の射撃の命中率などどうしても低くなるのだと思います。
また、日本は、他国に比較すると、さまざまな事業をしていく上で、もっともやりやすい市場だと思います。まずは、言葉は、ほとんど均一とみても良いですし、習慣なども似通っています、ものの感じ方も導入です。だから、日本の場合は日本国内を一つのマスマーケットとして、扱っても何とかなります。これが、外国の場合はそのようなことは不可能です。おそらく、今でも、一つのマスマーケットとして、扱える国としては、日本が世界一ではないでしょうか?そうして、これは、事業をする立場からすれば、本当にやりやすいと思います。
こんな話をすれば、そんな馬鹿なと思う人もいるかもしれません。たとえば、あの中国やインドがあるではないかと思う人もいるかもしれません。しかし、良く考えてください、中国や、インドは、そもそも多民族国家です。民族によって、生活習慣もかなり異なります。そういう、意味では、中国、インドも一つの省や、州が一つの国のようなものです。しかも、各々の省や、州も、複数の民族から構成されているのが普通です。そのようにみると、一つの集団という意味では、日本が最大ということになります。それに、あの広大なロシアはどうかといえば、人口は、たったの1400万人です。日本より、数千万多いだけの国ですが、多民族国家であり、領土は広大で、白人系は少数派です。
それに、皆さんご存知のあの日体大の「集団行動」。これは、やはり、かなりコミュニケーションがとれなければ、できない仕業です。諸外国でも、マーチングなどはありますが、「集団行動」には、及ばないと思います。
あの世界でも稀にみられる「集団行動」の基となっているのは、一見非合理にみえるものの、さまざまな細やかなニュアンスを含む日本語によるコミュニケーションだと思います。なるべく、すべてを言葉にする英語のコミュニケーションによっては、なかなかできないものだと思います。
最近、若い人のコミュにけーション不足が目立つようですが、これはやはり、日本語が良くできないということにも原因があると思います。日本語には、英語と比較して確かにに不合理な面もあります。しかし、たとえば、雪ひとつとっても、さまざまな表現があるように、自然に関する語彙はかなり多いです。また、感情を表す表現も豊富です。それに、日本語の非合理生などは、他国にない長い間のコミュニケーションの伝統があり、省略しても意味が十分通じるものは、省かれたがゆえにいまのような形式になっているのだと思います。日本語を知るためには、こうした、何が省略されているのかということを知らなければなりません。これが、わからないので、コミュニケーションがとれなくなるのだと思います。
しかしながら、日本語がある程度できれば、他の日本語のできる人との会話は、おそらく、世界でも最高水準のコミュニケーションとなると思います。そうした、最高水準のコミュニケーションを会社の公用語を英語とすることによって、すべてを廃止したとすれば、結局コミュニケーション不足になって、日本企業の良さを発揮できなくなると思います。それに、津田氏が語っているように、これは、重大な人権侵害にあたると思います。
そうして、このようなことは、外国語との比較の上でないと気がつかないものです。だから、私は、英語を勉強することの意義は、日本語をより良く知るためであると思ってます。また、日本語の伝統文化を広く海外に広めるという意味もあると思っています。そのためには、まずは、日本文化を知らなければなりません。
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