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岡崎研究所
ドナルド・トランプ大統領と共に祈るためにホワイトハウスの大統領執務室を
訪れた米国の福音派指導者ら=2017年12月11日
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ペンス副大統領は、新疆ウイグル自治区での状況について「共産党は100万人以上のウイグル人を含むイスラム教徒を強制収容所に収容し、彼らは24時間絶え間ない洗脳に耐えている。生存者によれば、中国政府による意図的なウイグル文化とイスラムの信仰の根絶だ」と述べた。共産党政府がキリスト教を迫害しているにも関わらず、中国でキリスト教徒の数が急速に増加していることも指摘した。
ポンペオ国務長官は、「中国共産党は中国国民の生活と魂を支配しようとしている。中国政府はこの会合への他国の参加を妨害しようとして。それは中国の憲法に明記された信仰の自由の保障と整合するのか」、「中国では、現代における最悪の人権危機の一つが起きている。これはまさしく今世紀の汚点である」と述べた。
そして、ペンスは「米国は現在、中国と貿易交渉を行っており、それは今後とも続くだろうが、交渉の結果がどうであれ、米国民は信仰を持って生きる中国の人々とともにあると約束する」と述べた。つまり、信教の自由と貿易交渉を引き換えにすることはないという強いメッセージを発したのである。
「信教の自由に関する閣僚級会合」というのは、世界中の信教の自由を促進することが目的であるが、この中で中国が大きく取り上げられたことの意味を過小評価すべきではないだろう。ペンスが言った通り、米国としては、信教の自由、ひいては人権と経済的利益は、究極的には取引することのできないものである。というのは、宗教の自由は、米国建国以来脈々と受け継がれてきた理念であり、DNAと言ってもよいような価値だからである。このことは、ペンスの以下のような発言からもよく分かる。
ペンスの今回の演説の冒頭には、次のような文言がある。「米国は最も初期より宗教の自由を支持してきた。米国憲法の起草者たちは、宗教の自由を米国の自由の第一に位置付けた」「我々の独立宣言は、我々の貴重な事由が、政府から与えられたものではなく、神から賦与された不可侵の権利であると宣言した。米国人は、政府の命令ではなく良心の命令に従って生きるべきだと信じている」「我々は、世界中の他の国々の宗教的自由を支持し、人権を尊重し、それにより世界中の人々の生き方をより良いものにしてきたことを誇りに思う」「自由な精神が自由な市場を作るのだ」。
トランプ政権は、人権への取り組みが弱いと非難されてきた。その批判には当たっている面が少なくない。トランプ政権は、独裁者に対して甘い傾向がある。しかし、信教の自由を前面に打ち出すとなると、トランプの重要な支持基盤の一つである宗教保守へのアピールになる。米バード大学のWalter Russell Mead教授は、ウォール・ストリート・ジャーナル紙に7月22日付けで掲載された論説‘Trump’s Hesitant Embrace of Human Rights’において、「チーム・トランプはアジアやその他で中国の勢力に対抗する連合を形成するうえで、米国のポピュリストと保守の支持者を団結させる必要がある。宗教の自由に焦点を当てた人権のビジョンを取り入れることは、その両面で役立つ」と指摘している。鋭い指摘である。
トランプ政権においても、宗教の自由擁護という人権問題が重視されてきていることははっきりしてきた。そうした中で、米中関係の今後がどうなっていくかは世界各国にとり、特にアジア諸国にとり、大きな関心事項である。経済問題は互恵のプラスサムの関係を築くことで、政治問題は利益をバランスさせる政治的妥協によって解決可能であるが、宗教の自由問題は深く価値観にかかわる問題であって、妥協によって解決するのが困難な問題である。
中国はウイグル問題を内政問題と整理し、内政不干渉を盾に国際的批判に対抗しようとしているが、そんな対応でやり過ごせる問題ではないのではないかと思われる。宗教の自由を重視する米国と、宗教をアヘンとみなし宗教を国家の監督下に置きたいとする共産主義の中国との対立は今後ますます深刻になる可能性が高い。今や、米中対立は、単なる覇権争いを超えて「価値観の衝突」となっている。
【私の論評】米国政治で見逃せない宗教という視点(゚д゚)!
日本人は宗教と政治は、無関係であることを当然のこととしているため、米国の宗教的価値観をなかなか理解できないでょう。
福音派がその名に冠する福音主義は、16世紀の宗教改革当時にルターらが唱えた、教会の権威によらず聖書に立ち返ろうとする考えを指します。福音派も含めてプロテスタントは、神学的にはこの流れをくむものですが、様々な歴史的経緯からいくつかの会派に分かれていきました。
19世紀の前後にかけて自然科学などの発展に伴い、プロテスタントの中には自然科学の知見を認める自由主義神学の流れが現れました。その一方で、米英の保守的なプロテスタントの中からは、自由主義神学に異を唱え、進化論などを否定して聖書の霊感と無謬(むびゅう)性を固持するファンダメンタリズム(原理主義)が現れました。
米国の福音派の代表的な伝道師であるビリー・グラハムらは、このファンダメンタリズムから出発しています。しかしグラハムらは、ファンダメンタリズムが内包する分離主義や反知性主義、伝道についての無関心などを批判する姿勢を示しました。
ビリー・グラハム氏 |
それと共に、自由神学に対して一定の評価を与え、ファンダメンタリズムとも自由主義神学とも一線を画する新しい福音主義として福音派の潮流を興したのです。このため、福音派は穏健なプロテスタント保守派と位置付けられています。
一般的に、このような立場をとるプロテスタントが、自他共に福音派とされます。したがって、福音派とは特定の会派ではなく、会派をまたいだ信仰における姿勢や立場を示す呼称となっています。
このため、国によって福音派の定義にも違いがみられます。また、社会問題についての見解などにも会派により多少の差異があります。しかし、一般的には妊娠中絶や同性婚には否定的であることが多いです。
基本的には聖書の教えどおりに生きることに価値を置くため、旧約聖書の一節を「神がイスラエルをユダヤ人に与えた」と解釈し「世界が終末を迎えるとき、エルサレムの地にキリストが再来する」などとしています。
トランプ大統領自身は、米国のリベラル系メディアの否定的な報道から、信仰心を有しているとは思われていようですが、実はそうではありません。選挙公約に米大使館のエルサレム移転などを掲げ、当選後まもなくエルサレムをイスラエルの首都と認めるとしたのは、有力な支持層である福音派への配慮だとされています。
ご存じの方も多いと思いますが、米国では大統領が就任式で宣誓するとき、聖書に手を置いてこれを行います。日本では絶対にありえない光景です。日本では首相が般若心経やコーラン、あるいは仏典の上に手を置いて就任式をする光景はないです。
トランプ大統領は就任式で、左手を聖書に置き、右手を挙げて恒例の宣誓をした |
ところが、米国ではこれは当たり前のことになっています。それは、米国において「宗教(主にキリスト教)」は政治に関与することが大いに奨励されているからです。そもそもWASP(白人でプロテスタント信仰を持つアングロサクソン系民族)と呼ばれる人々は、キリスト教信仰に基づいた国家を建設しようとして、米大陸に乗り込んできたやからです。だからキリスト教精神に則って政治が行われることは、至極まっとうなこととなのです。そのため、彼らの意識としては、政治と宗教は親和性の高いものとなっているのです。
これを端的に表しているのが、「Separation of Church and State」という考え方です。これは詳訳するなら「特定教派と政治の分離」となります。一方、日本をはじめ他の先進諸国が使用している形態は、「Separation of Politics and Religion」です。同じく詳訳するなら「政治と宗教の分離」です。この土台が異なっているため、日本では、当福音派クリスチャンですら二重の意味で混乱を来すことになるのです。そうして、非キリスト教以外の人々にも誤解や混乱をもたらしてるのです。
一つは、日本国民として「政治の中に宗教性を持ち込んではダメ」と思っていることです。もう一つは、「キリスト教はあくまでも心や精神的癒やし(解放)を目指すものであって、政治とは相いれない」と思い込んでいることです。
しかし米国においては、このいずれも決して自明なことではありません。もちろん政治的発言を控えるという風潮や、そういう考え方を訴える福音派の牧師もいます。しかし同じ「福音」の捉え方にしても、やはり国が違えばその強調点、濃淡に差異が生じやすくなるのです。
多くの日本の福音派教会は、米国の宣教師からのDNAを受け継いでいます。宣教師になるくらいですから、米国にいながらどちらかというと政治よりも個々人の精神性に重きを置く傾向がある人々であることは否定できないでしょう。
日本的な「政教分離(政治と宗教の分離)」の原則と、日本にクリスチャンが1パーセント未満であるということ、そして海外からもたらされた形而上学的側面を強調する「キリスト教」が相まって、米国の「政教分離(特定教派と政治の分離)」を理解しにくくしているという一面があることは、覚えておく必要があります。
日本のメディアの論調は、米国人の4分の1が「福音派」であり、その大多数が共和党支持であり、福音派の主張(中絶禁止、公立学校での祈祷推進、同性愛禁止、イスラエル支援など)を積極的に受け止めて実現させているトランプ大統領を熱烈に支持している、というものです。
しかしこのような情報の流布には、大きな功罪が伴っています。「功」の部分は、「政治と宗教が一体となる国家こそ素晴らしい」と考える集団が米国には今でも確かに存在することをリアルに示しているというところです。
一方、「罪」の部分は「功」を上回って深刻な偏見を私たちに与えることになります。それは、全国民の4分の1が福音派として一枚岩で、福音派の主張を政治的に成就させようとしている、という印象を与えてしまうことです。そもそも「福音派」とは一体何なのでしょうか。
「福音派」はなかなか明確化しづらい概念であり、専門家たちも確たる定義を行えないまま現在に至っています。
政治への関与という点で、「福音派」は「政治的に解決することもいとわない」という「宗教右派」から、政治関与には消極的な集団まで幅広く存在しており、その境界線はかなり曖昧です。
「福音派」の多数は後者ですが、メディアなどに取り挙げられるのは圧倒的少数派である前者です。これは、米国のメディアのほとんどが、リベラル系に握られており、大手新聞の全部はリベラル系、大手テレビ局ではfoxTVのみが保守系であり、あとはリベラル系であることを認識しておくべきでしょう。だから、米国保守派の正しい姿をなかなか報道できないのです。
つまり、テレビに登場する「福音派指導者」という輩は、その素性、経歴、現在の立場などがまったく分からないまま「福音派の代表」に祭り上げられているといえるかもしれません。もちろん、本人がそう願って取材に応じている場合もあるでしょう。しかし往々にして、日本のメディアが大々的に取り上げることで、彼らを頂点とする「政治的思想集団=福音派」が米国に出来上がりつつあるような印象を与えてしまっています。
しかし、ネットで彼らの素性を調べると、そのほとんどが「宗教右派」に分類される人々です。一部のコアファンが集まっているというところでしょう。
このような現状を鑑みるとき、もし誰かに「福音派ってあんな人たちなのですか」と尋ねられたり、「どうして米国の福音派はトランプ大統領を支援しているのですか」と聞かれたりしたとき、特に日本の福音派との比較で聞かれた場合には、現状では以下のように認識すべきでしょう。
1)日本の福音派と米国の福音派は、信じている事柄(福音主義的教理)においては一致していても、そのアウトプットの仕方は異なっています。その理由は「政教分離」の中身がまったく違うからです。
2)米国の福音派はトランプ大統領に絶対的な支持を与えているわけではないです。政治的関与に対して、幅広い意見を持つ福音派は、その定義すらつかみどころがないです。自分たちの願うアクションを政策として掲げてくれるトランプ大統領を「熱烈に」支持する一部の福音派(宗教右派)もいれば、彼らのプレゼンにほだされて、トランプ支持に回る「浮遊層」も存在します。さらに、政治的な解決は自分たちの信じている聖書のやり方に反する、と主張する反トランプ派の福音派も存在するのです。
さて、米国の福音派について長々と述べてきましたが、米国では政治に大きな影響力を持つ福音派は、現状のウイグル族の状況をどう捉えるでしょうか。
当然のことながら、ウイグル人はイスラム教という信仰に基づいた国家を建設するのが自然であると考えるでしょう。これは、宗教を否定した共産主義者からはとても受け入れられない考え方です。
米国の福音派等からすれば、信仰に基づかない国家を建設した中国は、偽善でありまやかしであると写るに違いありません。
両者は水と油なのです。だからこそ、米中対立は、単なる覇権争いを超えて「価値観の衝突」となっているのです。
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