総理大臣の覚悟とは、自分ですべて決断し、すべて責任を負うことである。何も国のトップに限ったことではなく、企業の社長、一家の家長であってもリーダーの役割は同じである。菅直人・首相が国民から見捨てられているのは、その覚悟が見えないからだ。政策は官僚任せ、政治判断は官房長官のいうがまま。しかも最近では「奇行」が目立ってきたという。
菅首相は最近、怖くて夜も眠れないという。公邸の様子を知るごく親しい人物が明かしたところによると、夜中、伸子夫人が目を覚ますと、菅氏がベッドにいないことが増えているのだという。慌てて夫人が探すと、菅氏は書斎でデスクに向かって座っている。
「ああ、読書でもしているのね」と思って近づくと、没頭しているのはネットで対戦する囲碁ゲーム。公務で分刻みのスケジュールをこなす立場なのに、明け方までそうやって起きている夜が少なくないという。
囲碁は戦略性に富むゲームであり、古くは戦国大名、現代では政治家やエリート官僚に愛好家が多い。政界では、与謝野馨・たちあがれ日本共同代表と小沢一郎・民主党元代表が東西の横綱。菅氏も最近かなり腕を上げたと評判だが、「小沢氏との対局に負けてからネット碁にハマった」といわれ、実力はずっと下になる。
総理大臣が碁盤を前に政局の行方を読んで黙考している―というなら、ドラマのワンシーンとしても絵になるが、夜中に起きてパソコンに向かい、失礼ながら素人の横好きレベルの碁を打っている姿は、現実逃避の引きこもり青年を想起させる。(NEWSポストセブンより)
【私の論評】自らの身の丈を知らない人が増加しているのでは?
上の記事、実際に菅さんが囲碁ゲームをしているところを見た人などいないと思うので、事実かどうかは定かではないと思います。しかし、囲碁ゲームは前から好きなようですから、確かに明け方まで熱中することもあるのかもしれません。
しかし、菅さんの最近の様子からみれば、確かにありそうな話で、だからこそ、このような記事が週刊誌に取り上げられているのだと思います。
上の記事に、いろいろ菅さんに対する批判めいたことが書いてありますが、何も、普通に仕事ができているなら、囲碁ゲームで多少夜更かしをしたからといって、誰に文句をいわれる筋合いなどないと思います。
しかし、最近では確かに、重要人物と挨拶するのにメモを読みながらなどという奇行も目立つようになりました。それに、全く方針を示さないとか、かつてイラ菅と言われたのに今では、そのような素振りは全く見えません。どこかで、完璧に変わってしまったのは間違いありません。
私は、かつて、秋葉原大量殺人事件の犯人の心理など分析して、どうして彼があのようになったかを掲載したことがあります。それは、結局あの犯人が「自分の身の丈をしらかなった」ということで結論づけました。
人間の身の丈は、その時々できちんと把握しておく必要があると思います。勿論、身の丈が一生そのままというわけではありません。努力すれば、伸びることもあります。
人間の身長と違って、ここでいうところの「人の身の丈」は年をとってからでも本人の努力によりかなり伸びる余地があります。特に得意分野に関してはそうだと思います。しかし、自分の得意な分野であろうとなんであろうと、その時々で自分の身の丈を把握しておくことは重要なことだと思います。
これは、簡単なようでいて難しいことです。不当に高く評価してもいけませんし、不当に低く評価してもいけません。それに、身の丈を図る評価軸はなるべくたくさん持っておいたほうが良いと思います。
たくさんある評価軸で評価して総合したものが「身の丈」というものだと思います。そのためには、ある程度世間を知らなくてはなりません。自分ひとりだけで考えていたとしても、評価はできません。いろいろな人とコミュニケーションを図ったり、情報を集めることも必要になると思います。さて、ここでいう「身の丈」という言葉、最近ではほとんどいわれなくなったものですが、昔は良く言われたものです。「身の丈」とともに、良く思い出すのは、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という言葉です。
ここで、いうところの、「身の丈」とは結局どういうことかといえば、序列という事だと思います。
序列とは、大辞泉に出ている定義によれば、以下のようなものです。
じょ‐れつ 【序列】
1 順序をつけて並べること。また、順に並ぶこと。
2 一定の基準に従って並べた順序。きまった順序。「―をつける」「年功―」
ここで、いう序列は、無論、2の意味での序列です。現在は、価値観が多様化しているため、序列はなかなか認識しにくくなっていることも事実です。ただし、多様な価値観とはいいながら、その各々の価値観に照らして、ゆるい、きつい、公的、そうではないものはあるものの、厳然として存在するものです。
一番分かりやすいのは、企業などの特定の組織での序列でしょう。企業の中での序列を理解したり、認識できなければ、いずれ企業には居続けることはできなくなることはお分かりでょう。いや、企業に限らず、一見それとは対局的とみられる、労働組合にだって一定の序列は存在します。民主党の中にも、社民党の中にも、序列はあります。
序列は、ある意味で普遍的なものです。たとえ、無人島に数人の人間が、流れ着いて、そこである程度の期間を過ごすということになれば、いつの間にか非公式ながら序列ができあがってしまいます。ただし、そこでの序列は、たとえば、島に流れつく前の社会的地位が高いからといって、必ずしも序列が高くるとは限らないでしょう。ましてや、学歴・経歴などほとんど関係ないでしょう。
おそらく、その島で長く健康で生き続けられる術、知恵を持った人の序列が最も高くなることになると思います。このように、序列は人間社会につきものです。
序列にも、組織の公的な序列と、非公式な序列もあります。公的な序列と、非公式な序列が著しくずれてしまえば、問題が生じます。たとえば、非公式の序列が低い、公式の序列は高いなどということはままあります。これは、中途半端で愚かな人が、会社などで比較的高い地位についた場合におこります。誰からも尊敬されていないが、公的な序列だけが高くいだけで、威張りちらしているが、依拠するは公的序列だけである場合などです。こういう人は、権威主義的であるといわれます。
昔は、権威主義やら、何やらがあっても、多くの人が序列を強く意識してきました。しかし、現在では時に序列を全く無視するとか、わからない人も多くなりました。しかし、序列が全くなくなれば、社会は無秩序状態になります。たとえば、これから、船が沈没といった場合には、船で最も序列の高い、船長に他の乗員乗客はしたがわなければなりません。もし、船が沈没するタイミングで、議論などしていれば、とんでもないことになります。
どの社会にも、それを構成するコミュニティーにもきつい、ゆるいはあるものの、必ず序列があります。これを無視したり、気づくことができなければ、その特定のコミュニティーには属することはできません。たとえ、形式的に属していたとしても、かなり違和感があったり、結局長い間には問題が生じてきます。
そうして、多様な価値観とはいっても、その価値を共有するコミュニティー中には、必ず序列がありますから、かなり多くの価値観の中で序列の高い人は、相対的に全体的に他の人から見れば、序列が高くなります。これが社会的地位というものです。序列が似たり、寄ったりという人同士は区別がつきませんが、相対的にかなり低い人と、かなり高い人との間には序列にかなりの差がついてしまいます。
秋葉原の例の殺人犯は、この序列を理解できていなかったと思います。しかも、さらにこの犯人は、まだ若いですから、それなりに努力すれば、上のほうの序列に移行できる可能性もあるということを理解してなかったようです。
この序列に関しては、精神科の医師もこの秋葉原の犯人に関して、社会的な序列などを理解していなかったのではと、論評していました。序列を意識出来ない人は、精神にも異常をきたす場合や、他人とうまくつきあっていけなくなることがあると語っていました。
さて、なぜ、このような序列を意識しない人間が増えてきたかといえば、やはり、戦後の誤った個人主義教育や、平等主義教育だったと思います。こうした誤った教育などによって、現在は序列意識が希薄になってきているのだと思います。
だからこそ、先日のように、皇族に「はやく座れよ」などとヤジを飛ばず議員もでてきたほどです。これは、議員だけのことではありません。作家などでも、序列がはっきりせず、間違った言葉を遣う人も多く驚くことがあります。今朝も、作家の落合恵子さんが、歌舞伎役者の海老蔵さんの話の中で、「歌舞伎役者のような人々はいわゆるノーブル・オブリゲーションの精神を発揮すべき」などという趣旨の発言をしていました。
ノーブル・オブリゲーションという言葉は、もともとメイン・ストリームのカルチャーに属する人々に対して遣う言葉であって、オペラの歌手や、芸術家に遣う言葉ではありません。ましてや、もともと、サブ・カルチャーもしくはカウンター・カルチャーである歌舞伎役者などに対して遣うことはありえません。
歌舞伎役者に対して、この言葉を遣うということは、言葉の元来の意味からいって完全に間違いです。しかし、現在ではそれ相当の中堅的な立場の作家ですら、こうした言葉遣いを誤るのは、戦後の誤った個人主義教育や、平等主義の悪影響により、序列意識の希薄化がかなり浸透していることの査証だと思います。
そうして、菅さんは、こうした誤った個人主義や、平等主義教育を推進する立場の人だったのだと思います。おそらく、序列を意識し、理解している人であれば、誰でも、左翼系の社会運動家など、たとえ、政治家になれたとしても、政治家の中での序列はかなり低く、中心的な存在にはなりえないことを自覚できたと思います。もう立場が異なってしまったのですから、本来ならば、そのような立場からは完全に決別すべきだったのです。
人は、己の「身の丈」を良く知り、自分の身の丈にあった人生を歩むべきです。それを忘れた人で、どうしようもなくなった人が、精神を病んで、秋葉原の殺人犯のようになったり、ストーカーなどになってしまうのだと思います。さらに、これは後で述べますが、もっと悲惨な状況を生み出す場合だってありえるのです。
菅さんも、己の「身の丈」を知らずして、権力欲が強く、総理大臣になってしまったのだと思います。政治家でも、企業経営者でも、まずは、国民や従業員に対して、ビジョンを提示したり、夢を語ることができなければなりません。それも、根拠のないものでは、尊敬を受けるどころか軽蔑されます。根拠のあるものを提示するには、以前このブログで述べたように、論理的思考、水平的思考だけでは不可能です。やはり、統合的思考方法が必要になります。(この思考方法については、ここでは詳細を掲載することはしません。下の【関連記事】のところで、URLを貼付けておきますので、まだご覧になっていない方は、是非ご覧になってください)
統合的な思考ができる人は、政治家や、経営者に向いていると思います。それができる人は、残念ながら多くはいません。会社でいえば、まずは、企業人としてし論理的思考ができなくてはなりません。そこからもっと上の人は、水平的な思考ができなくては勤まらないでしょう。そこから、上の経営者クラスになれば、統合的思考ができなければ勤まりません。政治の世界でいえば、役人までなら、水平的思考でも何とかなりますし、ほとんどの役人は日々論理的思考で終始しています。しかし、政治家ともなれば、統合的思考ができなければ勤まりません。
これが出来ない人は、政治家や、経営者になれても、残念ながら、序列は高くは成り得ません。世の中には、テレビにでている政治家などみて、自分も簡単にできると思い込む愚かな人もいます。こうした人も、自分の「身の丈」を理解していないと思います。ましてや、統合的思考も、政治家や経営者に要求される一部の能力でしかありません。しかし、欠いてはならない能力です。
序列というと、序列が低い人が高い人に比較して不平等ではないかと受け取られがちであり、このことにだけ焦点があてられがちと思います。戦後の誤った個人主義、平等主義は、これに焦点をあて、序列を緩めたり、破壊することばかりに専念してきました。序列を緩めることにはある程度の意味も会ったと思いますが、破壊することには意義があるどころか、社会の混乱、混迷を助長するだけでした。
しかし、今日では、本来序列の高い人がそれに相応しい役割を演じることができないということにも問題があります。人は、序列が高くなれば、自分ではできないとは思っても、その役割を演じなければなりません。今日では、それができない人が増えてきています。親は、親らしく、先生は先生らしく、上司は、上司らしく、総理大臣は、総理大臣らしく振舞わなくてはなりません。そうでなければ、コミュニティーが混乱しますし、多くのコミュニティーから成り立つ社会が混乱します。
菅さんは、社会運動家、弁理士などをしていれば、いきいきといて、今でも元気で働いていたのではないかと思います。「身の丈」を知ることは、本当に重要な事だと思います。
本日TweetBuzzをみていたら、日本人はなぜ自殺するのか?というタイトルの刺激的なサイトが紹介されていました。
このサイトの作者は次のように主張しています。
日本では、毎年3万人を超えるひとたちが自らの意思で死を選んでいる。これは、「市場原理主義」による改革により、日本人の安心が奪われてしまったからだと説明される。
だが国際的な自殺率の比較を見ると、日本の自殺率(10万人あたりの自殺者数)が24.4なのに対し、市場原理主義の国アメリカの自殺率は11.0、イギリスにいたっては6.4だ。この統計を素直に解釈すれば、日本をアングロサクソン型の市場原理主義国家にすれば、年間1~2万人のひとが自殺から救われることになる。市場原理と改革を声高に批判するひとたちは、これをどのように説明するのだろう。
空理空論では現実は変わらない。日本的雇用を礼賛するひとたちは、この事実を直視したほうがいい。もっともなことです。しかし、サイトの作者は、では、日本人の自殺が多い理由を仮説レベルでもあげてはいません。
さて、皆さんは、私の言いたいことはもうお分かりになると思います。そうです、現在特に、日本では、上でいうところの「序列」を意識できない人が増えてきています。平たくいえば、自らの「身の丈」を測ることができない人が増えてきているということです。一国の総理大臣が測りかねているわけですから、無理もありません。
しかし、この状況は是正されなければならないはずです。個人的にも、社会的にも・・・・。もし、個人レベルで是正しないで長い期間が経過すれば、秋葉原の殺人犯に対して精神科医が指摘していたように、いずれ精神が崩壊し、最終的には人を殺すか、自分を殺すことになるのではないかと思います。そこまでいかなくても、無気力になるとか、無能になるとかの症状が現れてくるのだと思います。社会的レベルでは、規範も何もない、混乱した社会を招いてしまうことになります。そうして、現実に個人レベルでも、社会レベルでも崩壊し始めているのが今日の日本なのだと思います。だからこそ、自殺者の数が世界的にみても多いのだと思います。
これほど崩壊しているのは、先進国では日本以外にありません。アングロサクソン系の国でも、国旗を掲げることや、国家を歌うことに対して、意義を唱えるものはほとんどいません。イギリスでも、女王や女王の親族に対して、公の席でヤジを飛ばす馬鹿な議員など存在しません。
多くの人が、自らのその時々や、場面においての「身の丈」を知ることができれば、人は、もっと幸せになることができ、正しい努力をすることができるようになるのではないかと思います。先ほど、掲載したように、特に、若いうちは、努力次第で自分の「身の丈」をまだ伸ばすことができます。突っ張って、いつも背伸びをしていれば、それがいつの間にか「身の丈」になってしまいます。
本来、このように「身の丈」を伸ばせる社会は良い社会だったと思います。しかし、身の丈を伸ばせることだけが強調されたばかりに、今日の悲劇を招いているのだと思います。
インドでは、あの悪名高いカスト制がいまだ息づいています。生れ落ちたとたん、社会における序列が決められてしまい、その後自分の努力で変えることはほとんどできません。日本人の私たちは、カスト制の骨格を知っているだけであって、その詳細までは知りません。実際には、細分化されていて、職業の内容まで細かく規定されています。あるカストは、お金を扱っても良いが、他のカストでは金銭を扱ってはいけないとかの細かい決まりがあります。
こうした社会では、序列が理解できなくて、それで精神を病むということはありません。もともと、最初から序列が強制的に決められているわけですから、社会的地位の低い人たちも、自分の身分が低いことや、貧乏であることに対して、精神的を病む人はいません。なぜなら、それは、自分の責任ではないからです。しかし、これも少しずつではありますが、改善の兆しがあります。
こうした身分制度が根付いていては、社会の発展もありえないからです。しかし、かといって、日本のように序列意識があまりに希薄になれば、精神を病む人も増えてくるのではないかと思います。
人は、ある程度年齢がいってしまったり、あまりにも高望みすれば、いくら背伸びをしようにも届きません。無理に無理を重ねれば、精神が病んでくるのも当然ですし。また、何の努力もしないで、「身の丈」の低さをなげいてばかりいても、いずれ精神に変調をきたします。
また、序列が高い地位についてしまったにもかかわらず、それなりの役割を演じることの出来ない人も、いずれ精神に変調をきたすことになります。これに関しては、自覚症状が顕著ではないので、精神が崩壊するまでは、自分でも他の人も気づきにくいのだと思います。それが、あるとき、許容範囲を超えたときに、自殺などの悲劇的な結果を招くのだと思います。
菅さん、私は、あなたは、もともとは、きっとそんなに悪い人ではないと思います。しかし、どこかで道を間違ったり、勘違いしてしまったようです。やはり、自分らしく生きるためにも、もう、他の道を選んでみてはいかがですか?あなたの間違いや、勘違いを是正し、自分の身の丈にあった道に進めば、あなたは、もっとこの世の中に大きな貢献して人々の信頼と尊敬を勝ちえることができるでしょう!!
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