豊田真由子議員が会見「生きているのが恥ずかしい、死んだ方がましではないかと思ったこともありました」
「体調が万全ではなく、ろれつが回らなかったり、ふらついたりすることもある」と話した豊田議員。「生きているのが恥ずかしい、死んだ方がましではないかと思ったこともありました。体重も少し戻りましたが、薬を飲んでインタビューもやらせていただいてきました」と明かした。
繰り返し報じられてきた、秘書への暴言・暴行については「私の言動は、たとえどんな事情があったにせよ、許されるものではない、音声を聞く度に呆然としてしまいますし、どうしてこんなことを言っちゃんたんだろう、本当にどうかしてたんだな、どうしちゃってたんだろうと思います」と話し、「食事をしながらお詫びしたつもりでございまして、その後も弁護士を通じて誠心誠意のご対応を続けさせて頂いているところです」と説明。「刑事事件の関係については現在捜査中の案件」として、詳細な言及は避けたものの、一部報道には事実と異なる点もあるとした。
この日は会見に先立ち、地元選挙区(埼玉4区)の新座市で支援者向けの会合に出席した。支援者たちからは「もう一度頑張れ」との声援を受けたとし、「議員を辞めてしまった方がよほど楽なんじゃないかと思いましたし、そうおっしゃる方もいました。けれど、孤独の中で、入院している間考え抜いて、楽な道に逃げるのではなくて、この恥を晒しながら、お叱りを受けながら、猛省し、生まれ変わって地域と国のために身を粉にして働かせていただく、そのことで責任を果たして行くのも大事なことではないか」とし、今後も政治家として活動する意向を示した。
また、報道各社に対しては「私が表に出てこなかったことが原因」とした上で、「昼夜、平日・休日問わず、地元の方々に取材が殺到し、辛い思いをさせてしまいました。今後、取材は私や事務所の方で対応させていただくので、地元の方へのご取材は控えていただきたく、伏してお願い申し上げます」と涙ながらに呼びかけた。(AbemaNewsより)
【私の論評】私達の中の1人から私達の中のもう1人に伝わるものとは?
さて、この豊田真由子氏の記者会見ですが、特に何ら新しい事実はなかったと思います。本人も、訴訟にかかわる部分に関しては、申し上げらない部分もあると、述べていたので、そのようなことになったものと思います。
それにしても、この事件に関しては、マネジメント的な観点からみて非常に参考になることもあるのに、メディアはマネジメントには疎いのか、この観点からはほとんど取り上げられないので、本日はこれについて取り上げます。
結論から言ってしまうと、コミュニケーションが成り立っていない間柄においては、豊田氏のように、厳しい叱責をしたとしても、ほとんどの場合、良い結果を招くことはなく、逆に豊田氏とその元秘書のように非常に険悪な状態になってしまうということです。
そもそも、豊田氏と元秘書との間に、かなり密なコミュニケーションが成り立っていれば、豊田氏が「このハゲー」というような、人格を否定するような叱責をしたとしても、秘書がそれを警察に訴えるなどということはなかったと思います。
その場合、おそらく事件そのものが、発生しなかったことが十分に考えられます。
ただし、ここでコミュニケーションといった場合日本で良くいわれるように、「ホウレンソウ」を密とるとか、そのような安っぽい、マネジメントの原理原則からいえば、とても正しい定義とはいえないものの意味で使っているわけではありません。
コミュニケーションに関しては、最近このブログにとりあげたことがあります。その記事のリンクを以下に掲載します。
民進党・山尾志桜里議員に私生活をめぐる問題発覚! 週刊文春が“K弁護士”との不倫疑惑を掲載する模様―【私の論評】根本的なコミュニケーション不足が民進党を駄目にした(゚д゚)!
山尾氏断念の背景を伝えるテレビ東京 |
私は、会社で現場にいたときには、日々朝礼などで従業員の変化に気を使っていたものです。数年現場でマネジャーをやってからは、朝礼で従業員の様子を見ていると、今日は誰が調子が悪いとか、注意散漫状態にあるとか、女子の場合は誰が生理であるかもわかった程です。これを把握していないと、後で酷い目にあうこともありました。
その後も、組織に関わる情報、それも正規の会社の組織図上の組織だけではなく、人間の集合体としての、生身の人間の組織に関する情報も極力集めるようにしました。これなしに、組織を効率的にそうして、効果的に動かすことは不可能です。
朝礼をコミュニケーションの場として成り立たせることが管理者の重要な役割でもある |
そのため、普段から従業員と食事に行ったり、時々外回りからお菓子を買ってきて、従業員と一緒に話をしながら食べるというようなこともやっていました。それ以外にも、公的なものでも私的なものでも、色々と面倒をみたり、面倒を引き受けたりということも意図して意識して行いました。
そのようにして、従業員と様々な関係を構築しておき、コミュニケーションを円滑にしておきました。そうして、このコミュニケーションというのが曲者で、いわゆる「ホウレンソウ」などと巷で言われてるものは、真のコミュニケーションではありません。いくら「報告・連絡・相談」をこまめに行ったとしても、成り立っていないことは、往々にしてみられることです。
そもそも、コミュニケーションとは、「私からあなたへ」「あなたから私へ」と単一方向に伝わるものではありません。コミュニケーションとは、「私達の中の一人から、私達の中のもう一人に伝わる」ものです。饒舌で、しょっちゅう人と話をする人が、コミュニケーションの達人であるとは限らないのです。
だからこそ、普段から組織の中の人々と「私達」といえる関係を意図して意識して構築しておかなければならないのです。これが、構築できなければ、まともな仕事などできません。
そうして、コミュニケーションにはまだ原則があります。それを上のものも含めて以下に簡単にまとめておきます。これは、経営学のドラッカー氏が語った原則を私なりにまとめたものです。もっと詳しく知りたい方は、是非ドラッカー氏の書籍にあたってみて下さい。
1. コミュニケーションは知覚である
これは単純に言ってしまうと、相手の立場に立つということです
知覚という言葉を広辞苑で引くと「感覚器官への刺激を通じてもたされた情報をもとに、外界の対象の性質・形態・関係および身体内部の状態を把握する働き」と出てきます。つまり、自分とその周囲のものとの差を感じるということです。
相手との違いをきちんと把握し、相手に合わせた手段でもって人と接する必要があるということです。ソクラテスは、「大工と話すときは、大工の言葉を使え」と言っています。例えば、自分が日本語と英語を話せて相手が英語しか話せなかったら、当然のように英語を使います。相手の立場に立って意思疎通をとる必要があります。受け手がいなければコミュニケーションが成り立たないのです。
言葉だけでなく、自分の持っている情報と相手の頭にある知識は異なります。どのような言葉を使えば相手にストレートに伝わるのかを考えながらコミュニケーションをとる必要があるのです。
2. コミュニケーションは期待である
人は自分が期待していないものを知覚できない生き物です。期待していないものには意識がいかず、誤解が生じたりすることにつながるのです。相手の期待に反するようなことを伝えると相手に上手に伝わらないのはそのためです。
今のやり方を維持したい部下に対して違うやり方を一方的に伝えても、それは相手の期待に反することであり、本当の意味で伝わることは難しくなります。そのような場合には、最初のやり方を変えるところから一緒に話し合い、納得してもらう必要があります。
受けての受け入れ範囲 |
3. コミュニケーションは要求である
つまり、相手の期待の範囲を知ること。コミュニケーションをとるということはつまり、相手に何らかの要求があるということです。自分の話を聞いて何かを変えたいと思うから、人は誰かとコミュニケーションをとろうとするのです。それが受け手の価値観に合致したとき、その要求は相手に伝わります。しかし、合わない時にはそれは反発され受け入れられません。コミュニケーションが難しいとされるのは、相手に何かしらの変化を与えることの難しさからくるのでしょう。
相手に何か変化を与えたいと思ったとき、それは相手の期待の範囲をこえる場合もあります。その場合には、これからおこることは相手の期待の範囲を超えていることを伝え泣けばなりません、そのためには覚醒のためのショックを与える必要があります。
覚醒のためのショックというと、仰々しいですが、平たくいうと、企業活動の日常でよくあるのは叱ることです。
この覚醒のショックを与えるには、相手の期待を良く知っていないければ無理です。
4. コミュニケーションは情報ではない
豊田氏と元秘書の間には、「私達という関係」が成り立っていなかったのです。コミュニケーションが「私達の中の1人から、私達の中のもう1人」に伝わるものであるということを考えると、コミュニケーションの成り立っていない間柄の人間同士では、表面的な付き合いしかできないということです。
しかし、豊田氏はこのことを理解せず、相手のことを理解せず、「このハゲー」という覚醒のためのショックを与え、自分の要求を通そうとしたのです。
しかし、結果は惨憺たるものであり、元秘書は、豊田氏の覚醒のためのショックを暴言、暴力と受け取ってしまったのです。
どうしても、自分の意図を理解させたければ、豊田氏はこの秘書と「私達」といえる関係を普段から構築しておくべきだったのです。
このようなことは、会社などの組織でも良くおこりがちなものです。コミュニケーションがなりたっておらず、相手の期待の範囲も了解していない部下を激しく叱責したりすると、自分では当たり前だと思っていても、これが相手にはパワハラと受け取られることもありえるのです。
しかし、コミュニケーションが十分成り立っている同士であれば、たとえば、相手を殴ったにしても、それが覚醒のためのショックとなり、相手に意図が伝わり、パワハラとみられるどころか、感謝されることもあり得るのです。
無論、私は体罰を肯定するものではありません。しかし、最近は世の中が変わって、殴るなどの行為はどのような場合も許されないという風潮が一般的です。しかし、コミュニケーションが成り立っている同士であれば、それも良い結果を招く場合もあるということは、多くの方々に理解していただきたいものです。
体罰やモラハラ、セクハラ、パワハラ、アカハラがなくなった結果、緊密なコミュニケーションまでがこの世から消えたら、それこそ大きな損失です。ただし、コミュニケーションの前提は、コミュニケーションをかわさなければならない人々普段から意図して、努力して、「私達」という関係を構築しておかなければならないということは忘れるべきではありません。それを忘れるから豊田氏のようなことになるのです。
実際、豊田氏の「このハゲー」という言葉も、コミュニケーションが十分成り立っている同士であれば、何年かたって振り返って、笑い話になるということもあり得るのです。なぜなら、互いにコミュニケーションが成り立っていれば、豊田氏がなぜあのような言葉を使わければならなかったかが、相手に理解されるからです。
それにしても、現代社会ではコミュニケーションが希薄になっているので、以上のようなこともなかなか理解されなくありつつあるのも事実です。豊田真由子氏の今回の件について、他人事のようにみなすべきではありません。コミュニケーションの原則を知らない人には、明日起こり得ることもかもしれません。
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コミュニケーションは情報ではありません。しかし、両者は相互依存関係にあります。情報は人間的要素を必要とせず、むしろ感情や感想、気持ちなどを排除したものの方が信頼される傾向にあります。そして、情報が存在するためにはコミュニケーションが不可欠です。
しかし、コミュニケーションには必ずしも情報は必要ありません。必要なのは知覚です。相手と自分との間に共通するものがあれば、それでコミュニケーションは成り立つのです。この原則からすると、豊田真由子氏と元秘書との間にはコミュニケーションが成り立っていなかったということで、豊田真由子氏は元秘書の期待の範囲を良く理解していなかったのだと思います。
豊田氏と元秘書の間には、「私達という関係」が成り立っていなかったのです。コミュニケーションが「私達の中の1人から、私達の中のもう1人」に伝わるものであるということを考えると、コミュニケーションの成り立っていない間柄の人間同士では、表面的な付き合いしかできないということです。
しかし、豊田氏はこのことを理解せず、相手のことを理解せず、「このハゲー」という覚醒のためのショックを与え、自分の要求を通そうとしたのです。
しかし、結果は惨憺たるものであり、元秘書は、豊田氏の覚醒のためのショックを暴言、暴力と受け取ってしまったのです。
どうしても、自分の意図を理解させたければ、豊田氏はこの秘書と「私達」といえる関係を普段から構築しておくべきだったのです。
このようなことは、会社などの組織でも良くおこりがちなものです。コミュニケーションがなりたっておらず、相手の期待の範囲も了解していない部下を激しく叱責したりすると、自分では当たり前だと思っていても、これが相手にはパワハラと受け取られることもありえるのです。
しかし、コミュニケーションが十分成り立っている同士であれば、たとえば、相手を殴ったにしても、それが覚醒のためのショックとなり、相手に意図が伝わり、パワハラとみられるどころか、感謝されることもあり得るのです。
無論、私は体罰を肯定するものではありません。しかし、最近は世の中が変わって、殴るなどの行為はどのような場合も許されないという風潮が一般的です。しかし、コミュニケーションが成り立っている同士であれば、それも良い結果を招く場合もあるということは、多くの方々に理解していただきたいものです。
体罰やモラハラ、セクハラ、パワハラ、アカハラがなくなった結果、緊密なコミュニケーションまでがこの世から消えたら、それこそ大きな損失です。ただし、コミュニケーションの前提は、コミュニケーションをかわさなければならない人々普段から意図して、努力して、「私達」という関係を構築しておかなければならないということは忘れるべきではありません。それを忘れるから豊田氏のようなことになるのです。
実際、豊田氏の「このハゲー」という言葉も、コミュニケーションが十分成り立っている同士であれば、何年かたって振り返って、笑い話になるということもあり得るのです。なぜなら、互いにコミュニケーションが成り立っていれば、豊田氏がなぜあのような言葉を使わければならなかったかが、相手に理解されるからです。
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